軍用無線のブログ JA2GZU suzuki shinichi

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カテゴリ: 軍用無線




日本無線株式会社( Japan Radio Co., Ltd.、略称:JRC、別称:日清紡エレクトロニクス)は東京都中野区に本社を置く、老舗の大手通信メーカ(日本最大手の無線通信メーカ)である。有価証券報告書による平均年収は約750万となっている。

現在は日清紡ホールディングスの中核であるエレクトロニクス部門に属しており、産業用および公共用無線通信システムを製造・販売しており、主要営業品目は、通信機器・海上機器・システム機器に大別される。


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日本無線株式会社( Japan Radio Co., Ltd.、略称:JRC、別称:日清紡エレクトロニクス)は東京都中野区に本社を置く、老舗の大手通信メーカ(日本最大手の無線通信メーカ)である。有価証券報告書による平均年収は約750万となっている。

現在は日清紡ホールディングスの中核であるエレクトロニクス部門に属しており、産業用および公共用無線通信システムを製造・販売しており、主要営業品目は、通信機器・海上機器・システム機器に大別される。





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特徴[編集]

電波や音に関しての技術を有する無線機器・情報機器総合製造業。

無線通信機器として、GPS受信機、無線LAN、基幹系無線通信装置、超高速無線通信装置ワイヤレスファイバーや、船舶に搭載する海上無線通信機器、海難救助用発信機イーパブ、魚群探知機、船舶レーダー、衛星通信装置インマルサットを製造している。

ドップラーソナーやシステム機器として、都道府県防災行政無線、地震情報システム、空港監視レーダ、ホール/会議音響システムなどがある。船舶用の衛星通信装置インマルサットでは、世界シェアトップであった



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日本電気株式会社 無線機 ORR-2B 受信機
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JRC NRD-515 All Wave Receive





JRC NRD-535 Receiver





JRC NRD-545, AOR SA7000 ANTENNA, NAGANO JAPAN /1 MAY 2020 UTC 10:00 1/2





JRC 日本無線 JSB-28 アマチュア無線 28メガ仕様




NSD-505 / NRD-505 修理完了【2019/11/19】





JRC NRD 515 Kiwa Mod






JRC NRD - 93 Receiver Good ears





JRC 93 301A Racal 3791 ICOM 8600 tuned to Radio Mali





Japan Radio Company NRD-11E Receiver JRC




JRC NRD-93 Listening to W1AW CW Practice





JRC NRD-93 on Broadcast band & Beacons





JRC NRD-66 RECEIVER Philippines




JRC NRD - 220 MF / HF DSC WATCHKEEPING RECEIVER





JRC JST-100 SSB DX on 15 meters





JRC NCR333 NAVTEX RECEIVER





MR1 Kossuth Rádió JRC NRD-345 miniwhip PA0RDT antenna




日本無線





日本無線レーダー装備船舶・新造船 釧路「北辰丸」





AMラジオ組み立て教室を開催 日本無線




日本無線レーダー装備船舶「焼津港」




日本無線 跡地が更地に! 東京都三鷹市





技術力とモノづくりで新しい価値を創造長野日本無線 U.mov





無線通信と超音波技術を融合した新製品を開発 上田日本無線




オートモーティブワールド2017「新日本無線」
低消費オペアンプ・RFノイズ耐性オペアンプなど 展示会取材/マークラインズ





日本無線レーダー装備船舶小型ヨットRyuujin (釧路港)






研究施設 [日本無線 先端技術センター] (15G100983)





【Inter BEE 2015】 日本無線




オートモーティブワールド2016「新日本無線」
車載小型パッケージ「PMAP」、高電圧モニターソリューション 展示会取材/マークラインズ






#042 特殊グラス管の製造工程のご紹介





受信空中線共用器
ORA-19 シリーズの開発・装備
三波工業株式会社
ORA-19 シリーズ(以下「本装置」という)は、海上自衛隊艦船の地上波無線通信において長年の懸案事項であった自艦搭載の送受信機相互間の干渉問題を解決すると共に、優れた空中線共用の機能と性能によって、空中線装備数の大幅な削減が可能となった。これにより、艦船の通信能力の著しい性能向上に貢献することができた
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N-AS-299 空中線 三波工業株式会社製

N-AS-299 空中線。三波工業株式会社製で、短波を受信するためのアンテナです。

訓練支援艦 てんりゅう N-AS-299 空中線

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潜水艦救難艦ちはや N-AS-299 空中線
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File:N-AS-299 Antenna on board JS Kirisame(DD-104) at Port of Osaka May 15, 2016.JPG

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海上自衛隊 護衛艦きりさめ(DD-104) 艦橋右舷側のN-AS-299空中線



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艦首CIWSのすぐ後ろには、甲板から生えるようにN-AS-299空中線が設置されています。短波受信用のアンテナらしいのですが、詳細は不明。他にも、前部艦橋の前、後部艦橋の後ろにも装備されています



N-AS-299 空中線は、三波工業株式会社製で、短波を受信するためのアンテナです
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最高のサービスを提供するエンジニア集団として

 1946年の創業以来、三波工業は、技術オリエンテッドなプロフェッショナル集団として、サービスを提供して参りました。海上自衛隊航空機、艦艇等に装備される電子機器類の製造、フィールドエンジニアリングをはじめ、レーザ応用技術、基地警備システム等の製造ほか、三波工業は極めて専門性の高い分野において技術力を発揮してきました。
 器材の設計・製造から、保守、ユーザーへの技術指導までを一貫して担う三波工業のサービス体制は、技術の統合と効率化を図る顧客ニーズに応えるものとして、今日ますます注目されています。
 もちろん先進の技術力があっても、ミッションを正確かつ迅速に実行できる人間力がなければ、最高のサービスを提供することはできません。三波工業では、人材育成を最重要課題として、お客さまの問題解決に積極的にアプローチできるエンジニア集団を育成しています。
 お客さまの満足、社員と取引先の充実、そして地域社会への貢献を軸に、三波工業は、また新たなチャレンジの歴史を刻んで参ります。どうぞ、ご期待ください

沿革

三波工業は、第二次大戦後、海軍技術研究所及び海軍工廠の技術士官が設立した会社です。
旧海軍の優秀な技術を温存し、将来に備えるため、技術者が集いました。
そして今日まで、多くの先達の意志を引き継ぎ、技術力の進歩向上に努め、海上自衛隊の装備の技術支援を行っています。


1946年11月 創立(横浜市西区平沼)

1947年7月南氷洋捕鯨船団に対する旧海軍の22号電波探信機の装備、 保守整備及び修理業務を開始する。
1950年1月米国RCA社の技術代理店となる。
1952年3月米海軍MSTS及び仏極東海軍の指定業者となる。
1952年4月 海上警備隊の発足とともに艦船搭載のエレクトロニクス 関係機器の修理、オーバーホール業務を開始する
1955年6月海上自衛隊が最初に建造した護衛艦「ゆきかぜ」の 艤装支援業務を三菱重工(株)神戸造船所で開始する
1956年2月米国RCA社とレーダ製造にかかる技術援助契約を締結
1958年3月防衛庁技術研究所の要求により、空中線及び関連機器等の 研究開発業務を開始する。
1959年6月海上自衛隊の航空機搭載エレクトロニクス関係機器の修理、 オーバーホール業務を開す
1968年10月潜水艦に搭載する通信用空中線及び関連機器等の設計製造業務 及び保守整備を開始する。
1969年5月 本社・工場を移転(中区かもめ町)
1971年11月海上自衛隊の新造艦武器システムのシステムエンジニアリング 業務を開始する。
1974年8月レーザー応用機器の設計製造業務を開始する。
1985年11月 当社製品のターターランチャーミサイルシュミレーターが 財団法人防衛装備協会賞を受賞する。
1986年8月対潜哨戒機(P-3C)搭載電子機器の修理業務を開始する。
1988年11月米国GE社(GE/RCA)に協力して、海上自衛隊新造 イージス艦の武器システムエンジニアリング業務を開始する。
1990年5月米国グラニット社が製造し、海上自衛隊に納入する潜水艦用 複合空中線(AN/BRA-34A)の修理に関する業務支援契約を 極東貿易(株)と締結する。
りゅう」装備のN-AS-299空中線「てんりゅう」装備のN-AS-299空中線  040417974年

ディフェンステクノロジーを支える技術

三波工業は、設立以来、日本の防衛を支えるための技術、「ディフェンステクノロジー」とよばれる技術分野を手がけてまいりました。
主な取引先は、防衛省海上自衛隊、防衛装備庁ほかです。 手掛ける仕事は、艦船及び航空機搭載の各種機器の設計、製造及びメンテナンス並びに 艦船の建造に伴う各種戦闘システムの艤装支援及びシステムエンジニアリングを主業務としております。
また、それらの技術から派生したレーザ応用の基地警備監視システムの開発及び製品の納入を行っております。

整備分野

海上自衛隊の艦艇、潜水艦、航空機に搭載される電子機器のメンテナンス、艤装支援を行っています。

整造分野

艦艇、潜水艦、航空機に搭載される電子機器、基地等の機材の製造を行っています。

システムエンジニアリング

さまざまなメーカーの機器が搭載される艦艇のシステムについて、総合説明書の作成などを行っています。

整備

空と海のフィールドエンジニアリング

三波工業の技術の強みの一つは、フィールドにおける、迅速かつ信頼性の高いメンテナンス業務です。
ディフェンステクノロジーの分野において、機器の不具合は、人の生命にも関わる問題となりかねません。
ドックや基地港での定期的な保守点検はもちろんのこと、緊急時には搭載電子機器のレスキューとして現場に赴き、限られた時間の中で鍛えられた技術と経験を発揮しています。

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製 造

高度な技術を提供するための強力な開発体制

高度なディフェンステクノロジーを支える技術者集団を自負する当社では、関係省庁を始め、国内外の大手メーカーなどから多種多様な技術情報の入手に努めています。
メーカーへエンジニアを派遣し、世界最高レベルのディフェンステクノロジー情報を積極的に吸収することも実施しています。
メーカーとの技術提携などを通して各専門分野からあらゆる技術と情報を取り揃える環境を整えてこそ、特殊かつ高度な技術を提供できるものと考えています。

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防衛省関係

防衛装備庁調達器材及び造船所殿経由の備装費支弁器材・その他の器材を納入しています。
  1. 艦船搭載用の通信用空中線及び各種電子機器
  2. 各部隊等の訓練用器材及び整備用器材
  3. 海上自衛隊航空基地用陸上支援器材
  4. 造船所殿の協力作業として、艦船模型による空中線諸特性の測定
■防衛省関連自社製品例

◯水上艦搭載品例
・タブレット空中線
・スタック空中線
・ブラウン空中線
・広帯域空中線
・電磁界シミュレーション
・ラジオ・テレビ受信装置
・空中線整合器
・レーダ交換機
・水上艦用戦術データ収録器
・MF/HF/FM帯受信機
・空中線共用器
・起倒式空中線起倒装置
◯潜水艦搭載品例
・整流空中線
・ループ空中線
・レーダ反射器
・共用空中線
・昇降式空中線昇降装置
・浮遊空中線
・ネットワーク連接器
・空中線切換共用器
・管制器
・空中線整合器

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システムエンジニアリング

メーカーに依存しない技術集団として

三波工業では、新造艦艇の武器システム及び通信器材 に係わる総合説明書を作成しています。 また、イージス艦については、米国ロッキード マーティン社のシステムエンジニアリング部門から、 総合説明書の国産武器システムに関する部分を 受注しています。

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三波工業株式会社
本社・工場:〒236-0004 神奈川県横浜市金沢区福浦1-12-12


潜水艦の通信の仕組み|どうやって外と情報交換するの?






















































技術シンポジウム2017  防衛装備庁

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【のろし】「のろしグナル」設置へ 津波警報の情報受信するとサイレンとともに4㍍のポールの先から煙が上がり赤く点滅する光も放つ・豊川
2019/03/10(日)
南海トラフ巨大地震で津波が押し寄せるおそれがある愛知県豊川市の海岸近くに、ポールの先端から煙や光を出すことで津波避難を呼びかける装置が全国で初めて設置されることになりました豊川市御津町の臨海部には、工場などが多く、南海トラフ巨大地震が起きれば、およそ77分後に最大で3メートル50センチの高さの津波が到達すると予想され、
働いているおよそ2000人の避難が課題となっていますこのため豊川市は、この地区に、高さ16メートルほどの津波避難マウンドを作った上で、そこに、避難を呼びかける「のろしグナル」という全国でも初めての避難誘導装置を取り付けることになりましたこの装置は、市内の鋼板加工メーカーが手がけ、大津波警報や津波警報の情報を受信すると、
近くに取り付けたサイレンの音とともに、4メートルのポールの先端からのろしのような煙が十数分ほど上がり、赤く点滅する光も放って工場で働く人や近くの船舶に危険を知らせます豊川市は、新年度予算案に、事業費として7000万円余りを盛り込み、音や煙、光と、さまざまな方法で津波が迫っていることを伝え迅速な避難につなげたいとしています

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 ( 2 ) 串木野マグロ船団と清水港

昭和30年初めから、串木野マグロ船団は清水港を基地として、三陸沖、小笠
原諸島近海、南太平洋に出漁した。清水港の他、焼津港、三陸沖では釜石港
を基地としていた。39トン型の航海日数は30日程度で基地へ戻る。
どこの港も串木野船団であふれていた。入港すると水揚げ待ち状態であり、
水揚げが終わると次の出港準備にかかる。つかの間の休みは、若者は夜の町へ
と繰り出す。船員も遠く故郷を離れ、ピストン操業で士気の低下や
市内で飲んで喧嘩沙汰や事件を起こす者もいた。入港時に下船する者も多かった。
そのため、船主は船員の確保に苦労した。39トン型の頃は漁願相撲や正月は必
母港に帰港し、その間にも帰港していた。釜石港から帰港する時はリンゴの木箱
を持って帰った。中を開けると籾殻の中に入った赤いリンゴ(紅玉)が入っていて、
この酸味が強いリンゴは何もなかった時代、家族の良い土産となった。
清水港では清水銀座『中満』の最中や缶詰会社から「みかん缶詰」を
土産に買って帰った。昭和40年代になるとマグロ船の
大型化や漁業経営の合理化のため、母港への帰港が少なくなり、
半年以上、家を留守にすることが多くなってきた。このため家族は清水港
などの入港に合わせて、会いに行くことが多くなった。
大阪まで急行寝台列車に新幹線に乗り継ぐか、そのまま清水駅まで
直行列車で行く。清水の宿泊先は「みかづき旅館」「ホテル東海(かなり後になってから)」
「三保屋旅館」「船橋」「えびす屋」で船主は「南栄館」が利用された。

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昭和44年(1969)は、39トン型マグロ漁船の転機の年であった。
1月13日(金)に第8漁吉丸の遭難などがあり、
安全操業や労務管理の問題について、漁協や船主組合、船
員組合で話し合いが行われ、マグロ船の大型化が進められた。
串木野のマグロ船は、清水港・焼津港を基地として操業していたため、本浦
船員組合では、串木野マグロ船団の漁労状況や船員の労務についての調査のた
めに、清水へ2月、3月職員の派遣を行った。4月14日(月)
、清水市では、市役所で串木野マグロ漁船団15周年記念式典
と新市場で大漁祈願祭が行われ、串木野満留市長、松元漁業組合長、冨永市議
会議長をはじめ、多くの関係者が出席した。

(3)清水港水揚げの思い出   寺田修
父の仕事の関係で串木野を離れ、特急「霧島」で清水駅に降り立ったのは昭和
33年8月27日だった。工業高校卒業後2年が経ってから(有)丸新商店に入社し
て石油部に所属し、現在に至っている。昭和44年頃は串木野のマグロ船は39トン型から
48トン型へ、エンジンは焼玉からディーゼルへの過渡期だった。焼玉エンジンでは始動性が悪
く、エアーを使い果たす船もいたが、そんな時はタンク船からエアーホースをマグロ船側に繋いで
補充した。ビンナガマグロの時期は航海日数も短く、当時の清水魚市場の岸
壁には串木野のマグロ船が2重から3重に繋ぎ、多い時は4重にも繋いで水揚げを待っていた。
そんな時は魚市場の場外までも水揚げされ、通常夜の8時から10時頃に始まる水揚げも、こ
の時期になると夕方5時頃から水揚げすることもあった。(船側では
翌朝の競り開始までにかなりの時間があったため、途中、マグロに海水を散布したりして、
鮮度保持に苦労されていたみたいだった。)

出航時間は現在の午前11時頃ではなく、飲み屋(バーやクラブ)の営業時間終了後の
午前1時頃にホステスさん達の見送りを受けて、舫いを離し出港していった光景が記憶
に残っている。小生の石油部の仕事は重油の積込みだったが、宮崎のカツオ船
と串木野のマグロ船の入港が重なる時期には、朝5時から夜10時過ぎまで、夕食抜きで
2か月間位、日曜日も無く毎日働いていた。船員さんも「イタコ1枚下は地獄
の一丁目」と言うように、大変な重労働を強いられた時代だった。
思い返せば大変な時代、先人たちの御苦労のお陰があって
、現在の「日本一マグロの町串木野」があるように思い、長い年月が経った今も、串木野の旧友
達と親交を深められることに幸せを感じている

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乗船実習報告⑪ 合同授業②(無線方位測定機)

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