今日は何の日 4月28日 1975年(昭和50年)
サイゴン撤退作戦「フリークエント・ウィンド作戦」発令
4月30日 ベトナム戦争が終結
ベトナム戦争で、南ベトナムの首都サイゴンが陥落し、ズオン・バン・ミン大統領が無条件降伏を発表。ベトナム戦争が終結

4月30日 ベトナム戦争が終結
ベトナム戦争で、南ベトナムの首都サイゴンが陥落し、ズオン・バン・ミン大統領が無条件降伏を発表。ベトナム戦争が終結

Remembering Operation Frequent Wind & the Fall of Saigon | USS Midway Museum
南ベトナム軍の前線は各方面で完全に崩壊し、それとともに北ベトナム軍によるサイゴン市内の軍施設などの重要拠点への砲撃や、北ベトナム空軍機による爆撃などが続いたために、サイゴン市内の一部は混乱状態に陥った。その後間もなく、四方からサイゴン市内へ向けて進軍した北ベトナム軍の地上部隊により、南ベトナム軍のタンソンニャット空軍基地も完全に包囲され、攻撃を受けて滑走路や各種設備が破損したために、南ベトナム軍輸送機の発着は完全に途絶し、北ベトナム軍と交戦中の南ベトナム地上軍への援護も不可能になった。サイゴン陥落は避けられない状況となり、アメリカ政府および軍は4月28日に国家安全保障会議を開き、アメリカ軍や大使館職員・連邦政府の関係者と在留アメリカ民間人、アメリカと関係の深かった南ベトナム政府上層部のサイゴンからの撤退方法についての緊急討議を行い、サイゴンからの撤退作戦である「フリークエント・ウィンド作戦」を発令した作戦開始後、市内のアメリカ政府やアメリカ軍、南ベトナム軍の関連施設からアメリカ軍や政府の関係者と、グエン・バン・チュー元大統領やグエン・カオ・キ元首相をはじめとする南ベトナム政府上層部やその家族、在留アメリカ人らが、サイゴンの沖合いに待機する数隻のアメリカ海軍の空母や大型艦艇に向けて南ベトナム軍や米軍のヘリコプターや軍用機、小船などで必死の脱出を続けた。空母の甲板では、立て続けに飛来するヘリコプターを着艦するたびに海中投棄し、後続のヘリコプターや軍用機の着艦場所を確保した。
フリークエント・ウィンド作戦に関するアメリカ軍の公式記録では、述べ682回にわたるアメリカ軍のヘリコプターによるサイゴン市内と空母との往復が記録され、1300人以上のアメリカ人が脱出に成功、その数倍から十数倍の南ベトナム人も脱出した。なお作戦中に海中投棄されたアメリカ軍や南ベトナム軍のヘリコプターは45機に達した。
しかし、在留日本人は、アメリカ人や南ベトナム人の撤退を行うことだけで、アメリカ軍が手一杯なことや、日本が直接参戦していないことなどから、たとえ日本人が南ベトナムに残っても、北ベトナム政府や市民などから迫害を受ける可能性が低い事などを理由に、アメリカ軍のヘリコプターに乗ることを拒否された。
自衛隊の海外派遣が禁じられていたために、欧米諸国のように政府専用機[129] や軍用機による自国民の救出活動が全く行われず、日本国政府の依頼による日本航空の救援機も運航されなかったため、在留日本人が混乱下のサイゴン市内に取り残された。
また、かつてはアメリカ軍とともにベトナム戦争に参戦していた韓国人は、「アメリカ人や南ベトナム人の退去活動で手一杯であること」を理由に、日本人と同じくアメリカ軍機による撤退への同行が拒否され、その結果、駐南ベトナム特命全権大使以下の在留韓国人のほとんどが、反韓感情が根強く残るサイゴンに取り残された。残留韓国人は、国際赤十字指定地域とされた、サイゴン市内の病院に避難し、迫害を受けることはなかっものの、その後しばらく韓国に帰国することができなかった。
サイゴン陥落と南ベトナム崩壊
4月30日の早朝には、最後までサイゴンに残ったグエン・バン・チュー元大統領ら、南ベトナム政府の要人や軍の上層部とその家族、アメリカ合衆国のグレアム・アンダーソン・マーチン駐南ベトナム特命全権大使や大使館員、アメリカ人報道関係者など、南ベトナムに住んでいたアメリカ人の多くが、サイゴン市内の各所からアメリカ陸軍や海兵隊のヘリコプターで、南シナ海上に待機するアメリカ海軍の空母に向けて脱出する『フリークエント・ウィンド作戦』を発動した。
撤退計画がサイゴン市内の混乱を受けて遅延したこともあり、北ベトナム軍はアメリカ合衆国連邦政府や赤十字国際委員会の要請を受け、サイゴン市に在留するアメリカ軍人および民間人が完全に撤退するまで、サイゴン市内に突入しなかった。なおアメリカ合衆国軍およびアメリカ合衆国大使館は、撤退後に北ベトナム政府に渡らぬよう、計360万アメリカ合衆国ドルを撤退前に焼却処分した。
同日午前には、前日に就任したばかりのズオン・バン・ミン大統領が、大統領官邸から南ベトナム国営テレビとラジオで、戦闘の終結と無条件降伏を宣言した。その後残留南ベトナム軍と北ベトナム軍の間に小規模な衝突があったものの、午前11時30分に北ベトナム軍の戦車が大統領官邸に突入し、ミン大統領らサイゴンに残った南ベトナム政府の閣僚は全員北ベトナム軍に拘束された(サイゴン陥落)。南ベトナムは崩壊し、アメリカ合衆国の敗北が決定した。少数の南ベトナム軍の将校はサイゴン陥落後に自決した。



















サイゴン陥落 1975年(昭和50年)4月30日
になると、北ベトナムはを発動し、南ベトナムから国民が国外脱出を始めていた。アメリカ合衆国も南ベトナムを見捨てて支援を断った為、北ベトナムの勝利は決定的となった。
北ベトナムの軍隊がサイゴンに到着し、11時30分に南ベトナム大統領官邸(現在の)に到着すると、北は南の大統領に対して辞任を要求した。フォンは北側の要求に応じて大統領を辞任し、に引き継いだ。これによってミンはベトナム共和国の最後の大統領となった。
はアメリカ大使館関係者や在越アメリカ人を脱出させるミッション・を発動するに当たり、から予め告知されていた天気予報のメッセージと共にの『』を陥落前日のから頻繁に放送し、在越アメリカ人にサイゴン脱出を呼びかけたフリークエント・ウィンド作戦(フリークエント・ウィンドさくせん、: Operation Frequent Wind)とは、末期の4月、陥落寸前のの首都からの航空機により行われた脱出作戦を指す。この作戦名称は当初の作戦暗号名 "Talon Vise" が露見したため、差し替えられたものである。

直前の1975年からのおよそ24時間の間に、在留アメリカ市民1373名、南ベトナム市民及びその他の国籍者5595名が及びのにより、のアメリカ海軍艦船(空母ミッドウェー、ハンコックなど)に脱出した。南ベトナムの地上において、脱出を守った戦闘部隊はであり、この旅団には第4海兵連隊第2大隊と第9海兵連隊第2大隊が属していた。
脱出にあたって、のが、艦上にあまりに多数の南ベトナムのヘリを収容したため、新たな機体を着艦させる余地を空けるため、多数のヘリをに投棄せざるをえなかった。ヘリコプターが避難民と乗員を米艦に降ろした後、パイロットが海面上空でヘリコプターから脱出し、米艦のボートによって収容されることもあった。
これらの事態により、アメリカ軍はなどを通じ、北ベトナム軍のサイゴン市内への突入を遅らせるよう依頼することになり、北ベトナム軍はこれを了承したが、最終的に4月30日の午前中に作戦を終了させることができた




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