岡部金治郎
岡部 金治郎(おかべ きんじろう、1896年3月27日 - 1984年4月8日)は、日本の工学者。専門は電子工学。
マグネトロンを実用的なマイクロ波源とする分割陽極マグネトロンを発明した[1]。東北大学で助教授、名古屋高等工業学校、大阪帝国大学、近畿大学で教授を歴任。学士院恩賜賞、文化勲章の受章者。八木秀次に師事
分割陽極型マグネトロンの構造:
1) カソード, 2) アノード, 3) 永久磁石
人物
1896年(明治29年)、名古屋市に生まれる。1916年(大正5年)に名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)を卒業し[1]、1922年(大正11年)に東北帝国大学(現・東北大学)工学部電気工学科を卒業する[2]。
卒業後そのまま東北帝大に奉職し、同年講師[1]、1925年助教授となる[1]。アメリカのアルバート・ハル (Albert Hull) により低周波用増幅管として発表されていた単陽極マグネトロンを用いて学生と実験をしているときに印加磁界Hと陽極電流Iとの関係が理論値からずれていることに気づき、何らかの発振現象が起きていることを発見した[1]。
1927年(昭和2年) に円筒状陽極を軸方向に2分割しその間に振動回路を形成したものが効率良くマイクロ波(当時は波長3cm、周波数10GHz、振動モードとしてはA型振動とB型振動)を安定して発振できることを見出し、多分割陽極マグネトロン(Multi-Split-Anode Magnetron)の開発の端緒となった[3][4][1]。
この発見は優れた研究として国内外から着目された[1]。その時点までの最短の発振波長(最高周波数)がドイツで発表されていたバルクハウゼン-クルツ振動管(BK管)による波長24cm、周波数1.25GHzのものであったためである[1]。
1929年(昭和4年)に大阪帝国大学より工学博士となる[2]。論文の題は「マグネトロン」ニ依ル不減衰超短波長電気振動ノ発生ニ関スル研究」 であった。
1929年(昭和4年)から[1]1934年(昭和9年)まで名古屋高等工業学校教授。東北帝国大学時代の恩師八木秀次教授が大阪帝国大学(現・大阪大学)理学部を創設する際、要請を受けて1935年(昭和10年)より大阪帝大理学部助教授就任、1939年(昭和14年)に教授昇任、同大学産業科学研究所、1956年(昭和31年)に大阪大学名誉教授[2]、同年より近畿大学教授就任[2]等、長年にわたり学生の教育指導と研究に携わった。
電磁波に関する研究会である輻射科学研究会を熊谷三郎教授らとともに開催し,電磁波工学の発展にも努めた[1]。
1935年(昭和10年)には大阪管を発明し、マイクロ波発生装置の開発とその機構解明に卓越した業績を残した[1]。1944年(昭和19年)文化勲章を受章した[2]他、朝日賞、学士院恩賜賞、1969年(昭和44年)に勲一等瑞宝章受章など、数多くの栄誉を受けている。
1984年(昭和59年)、老衰のため逝去。



マグネトロン
マグネトロン(英: magnetron)とは、発振用真空管の一種で、磁電管とも呼ばれる。電波の一種である強力なマイクロ波を発生する。レーダーや電子レンジに使われている
マグネトロン外形
構造と動作
マグネトロンは他の熱電子管と同様、ヒーターにより加熱される陰極(カソード)と、加熱されない陽極(アノード)からなる。
陰極は管球の空胴の中央に配置され、陽極はこの陰極を囲むように配置されるとともに、陰極に対して正の高電圧が印加されている。陰極をヒーターで加熱すると熱電子が放出され、陽極と陰極間の電界により陽極方向へ加速される。このとき、管球の軸方向に永久磁石などで強力な磁場が形成されており、電子はフレミングの法則に従い進行方向と直角な方向に力を受けて曲げられる。
この作用により、電子は陰極と陽極の間にある作用空間と呼ばれる場所で、サイクロイド曲線を描いて振動しながら周回運動を始める。陽極には規則的に形成された複数の空洞(キャビティ、cavity)があり、空洞の開口部をサイクロイド振動している電子が通過すると、空洞の共振周波数で空洞と電子が共振を起こし、マイクロ波が発生する。こうして空洞に発生したマイクロ波を、結合回路を介して出力回路へ効率よく伝播させることで、マグネトロンの外へと導き出し、各種の利用が可能になる。
この結合回路には、電磁結合(ループ)型と静電結合(スリット)型などがあり、出力回路には同軸型や導波管型がある。
分割陽極型マグネトロンの構造:
1.カソード、2.アノード、3.永久磁石
応用
マグネトロンが発生するマイクロ波は、レーダーや電子レンジなどに応用されている。
マイクロ波とは、電波の範疇で高周波帯側を示す概念であり、低周波よりもひろい周波数帯域を通信のために使うことが可能である。その結果として、一定の時間の間に低周波よりも多くの情報を伝送できる。
また、発生するマイクロ波は、強力で波長が短いことにより直進性も高いので、反射波が戻ってくるまでの時間とその方向を測定することにより、離れた地点にある物体の距離と方向の探知を行うことが可能であり、この原理を用いた装置をレーダー(電波探信儀、英語: radar)という。
一方、マグネトロンは、基本的に発振管本体は丈夫かつ堅牢であり、高出力で安定したマイクロ波を発振することが出来るが、発振周波数を可変することは一般的に困難であり、クライストロンや進行波管(TWT)の様に単体で、振幅変調や周波数変調を行うことも困難である。よって、通信の「変調した情報」を伝送する用途の無線装置には向かない。

マグネトロン断面
電子レンジに使用される周波数は、他の応用の電波帯域と干渉して障害を起こさないように、国際規格で『2,450 MHz(ISMバンド)』に統一されているが、アメリカ大陸に限り915 MHzの利用も認められている。電子レンジによる加熱の原理は、極性分子である誘電体にマイクロ波を照射すると、高周波電界の周期に従って、分子回転(分子間振動)を励起し、その回転エネルギーが散逸することにより熱が発生することを利用したものである(マイクロ波加熱参照)。
電子レンジの作動周波数が『2,450MHzに統一されている』理由は、他のマイクロ波帯に悪影響を及ぼさないためであり、水自体の誘電損失による吸収のピークは、さらに1桁ほど高い周波数(温度により変化するが、20 - 80GHz前後)である。 つまり2,450MHzは、水が回転エネルギーとして吸収するピーク周波数からは大きく外れているが、水のマイクロ波吸収特性の幅が非常に広いので、周波数がこの程度ずれていても、十分な吸収が起きて加熱を行える。アメリカ大陸における電子レンジがより低い周波数である915MHzを用いても加熱を十分に行えるのも同じ理由からである(ただし効率は若干劣る)
歴史
原型となるものは1920年に、ゼネラル・エレクトリック社の Albert Hull により発明された(1916年は静電制御型発振管の特許を回避するために磁力制御型の開発を開始した年)。これは陽極と陰極がそれぞれ1個の同軸構造であり、低周波しか発振できずマイクロ波を発振できなかった。1925年当時15kW出力20kHzの発振しか実現していない。Albert Hull 自身が通信用途よりも電源コンバータを用途に考えていた。
1924年、チェコ人でプラハ・カレル大学教授の物理学者August Žáček (1886-1961) と、ドイツ人の物理学者Erich Habann (1892-1968) は、マグネトロンが100MHz-1GHzの周波数で発振できることをそれぞれ独立で発見したが、Žáčekの論文が先に出版された。
1927年東北帝国大学の岡部金治郎により「分割陽極型マグネトロン」が開発されて国内で発表された。これによりマイクロ波の発振が可能になった。1928年にはアメリカの学会で八木アンテナと共に英文の論文も発表された。
その後、「陽極分割型マグネトロン」は1934年2月28日にRCAのErnest G. Linderによって、アメリカ合衆国で特許の出願と取得がされた。1935年にドイツの Hans Hollmann が「多分割共鳴空洞マグネトロン」として改良発明し、1940年にはイギリスの John Randall と Harry Boot が水冷式の大出力マグネトロンを開発した。1940年代に第二次世界大戦で使うマイクロ波レーダーの共同開発のためイギリスからアメリカ合衆国に技術がもたらされた。レイセオンが、マグネトロン・チューブの大量生産に成功し、連合国側の勝利に貢献した。技術者として徴用されたアーサー・アシュキンはこの時代に書いた論文を元に研究を発展させ、ノーベル物理学賞を受賞した。
大日本帝国は分割陽極型によるマイクロ波用のマグネトロンと八木・宇田アンテナという要素技術を他国に先駆けて発明していたにも関わらず、日本軍や産業界の無理解により、マグネトロンパルスレーダーを真珠湾攻撃の開戦までに実用化していなかった。ドイツ帝国を中心とした海外情報を元に旧式の3極管発振と非八木アンテナの低性能なレーダーだけを実用化していた。
朝永振一郎によって既にマグネトロンの振動理論が完成しており、戦後同氏はこれで学士院賞を受賞した[1][2]。海軍技術研究所の島田実験所の研究で、戦争末期に波長10cm、出力50kWのマグネトロンができたとされている[2]。
ウルツブルグ (レーダー)
当時の日本の技術開発は既に外国で完成された兵器の体系を模倣して国産化することであって、自力では演繹的に開発できなかった。戦時中に改めてナチス・ドイツから技術導入した射撃制御レーダーのウルツブルグはコヒーレントレーダーであり、単純にマグネトロンを使えず、完成したのは終戦直前の1945年7月だった。
日本軍は、1942年1月にアメリカ領フィリピン、2月にイギリス領シンガポールを陥落したときに接収したパルスレーダーをリバースエンジニアリングしているが、これもほとんど間に合わなかったとされる。当初から国産のマグネトロンを使用したレーダーは、大日本帝国海軍の二号二型電波探信儀だけでホーンアンテナを利用していた。この試作が1941年で、完成したのが1943年である。このレーダーは戦後、民生用の船舶レーダーに流用された。
1946年にパーシー・スペンサーによってマグネトロンの発生するマイクロ波が食品の温度を上昇させる効果が発見されて、これが電子レンジの端緒となった。
マグネトロンは2014年現在でもレーダー・電子レンジの高周波源として利用されており、デジタル信号処理の発達により、マグネトロン発振後にリアルタイムに単純なコヒーレント処理が可能となっている
殺人光線
殺人光線(さつじんこうせん)とは、光や電磁波、電光などによって、対象を破壊する光線兵器のことである。欧米ではニコラ・テスラや、ハリー・グリンデル・マシューズらによって研究された。また、大日本帝国海軍はB-29型超重爆を撃墜するために、「Z兵器」の名称で開発が進められた
Z兵器
太平洋戦争当時の大日本帝国海軍は、電波を利用したエネルギー兵器の実用化を試みていた[2]。この「Z兵器」は、通信や探知(レーダー)など間接兵器として使用されている電波を直接攻撃兵器として運用できないか……という発想からスタートした[3]。パラボラミラーによって電波を照射し、飛行機や自動車を焼損破壊しようという企図であった[3]。B-29型超重爆による日本本土空襲が始まると、従来の高射砲や防空戦闘機(局地戦闘機)を凌駕する対空兵器としてZ兵器の開発を急いだ[1]。静岡県島田に大型パラボラミラーや反射鏡が設置され、基礎実験をおこなう段階になっていたという[4]。
島田理化工業島田工場(島田製作所)(旧島田分室、島田実験所、島田実験会)において、同所長水間正一郎、海軍技術大尉伊藤庸二の下、旧東北帝国大学教授渡辺寧らによって真空管マグネトロンを用いた57種類の高出力殺人光線「Z」が計画・開発実験され、戦後GHQ科学情報調査団(コンプトン調査団)デイビット・T・クリッグス博士によって査察を受け接収された事が、島田製作所元職員八木春尚、牛込恵子(水間正一郎の娘)と水間の遺された日誌、島田実験所元海軍技術大尉矢波雅夫の証言、アメリカ国立公文書館に保管されたアメリカ陸軍諜報部門が作成した文書簡(1945年10月23日)およびワシントンポスト(1946年4月22日付)、米海軍訪日技術使節団(1945-1946年にグライムス海軍大尉作成)文書簡への取材を元に解明され、このことが2014年7月26日にTBSの報道特集において放映された(TBS報道特集「殺人光線「Z」 秘密実験所の深層 (2014/7/26 放送)」)。この分室では渡辺寧、宮島龍興、菊池正士、小谷正雄、渡瀬譲、小田稔などが研究していた[5]。島田実験所は1943年「強力極超短波」の兵器利用の研究のために設立されたものである。真空管とマグネトロンについてここで工学者と物理学者の間で研究が行われた[6]。


【海軍技術廠の殺人光線】
海軍の研究所は、静岡県島田市にあった「第二海軍技術廠(しょう)牛尾実験所」です。
本体である島田実験所では、電子レンジに応用されている「マグネトロン」で強力な電磁波を発生させる研究が進んでいました。この電磁波をパラボラアンテナから発信、1万メートル上空のB29に当てて、エンジンをスパークさせるものです。陸軍の研究と似ていますが、海軍は「Z研究」「Z装置」と呼び、朝永振一郎や湯川秀樹など後のノーベル賞学者も参加する中で開発が進みました。
島田実験所のスケッチ(『静岡県の昭和史』下巻)
その分室である牛尾実験所では、「A装置」の研究が行われました。これは、電波によって起爆する砲弾だと推測されています。
《高射砲によって発射される砲弾には、マイクロ波を受信するアンテナと起爆回路が組み込まれている。上空を飛ぶ航空機に向けて、パラボラ反射鏡からビーム状のマイクロ波を持続的に照射する一方、航空機に向けて打ち出された砲弾は、ビーム状のマイクロ波の照射されている領域に入ると、起爆する。こうして、航空機に接近した場所において砲弾を爆発させることができる。これが、「極超短波近距離起爆装置」ということになろう》(『第二海軍技術廠牛尾実験所跡遺跡』)
戦後の1945年9月から10月にかけて、アメリカから来日した科学情報調査団が日本の科学開発の状況を徹底的に調査し、コンプトン報告書を出しました。報告書には、「殺人光線」の開発に関与した八木秀次博士の聞き取りが記録されています。
報告書には陸軍において「3〜4キロワットの光線(極超短波)で30メートル先のウサギを殺す実験に成功したが、人体実験はしていない」と述べてありました
『第二海軍技術廠牛尾実験所』静岡県島田市













戦後 かれらはこの島田市にマイクロ波関連の会社を設立
それが島田理化SPCです


戦後に山梨に方向探知機の会社を設立それが光電KODENです

海軍技術研究の中枢にいた元海軍技術大佐伊藤庸二工学博士と技術者たちは、1947年(昭和22年)に光電製作所を創立しました。折しも食料不足の時代、コーデンの無線方位測定機「方探」は航海の安全と漁獲の増大を実現し、画期的な近代装備として急速に普及しました。このことも契機となって、わが国の漁業は近代漁業へ躍進していったといわれています。自由な研究開発と技術活用の場を求め集まった人々はいくつもの独創的な製品を生み出して、今日の基礎を築きました。
『陸軍登戸研究所』予告編
「殺人光線」開発 戦争に翻弄された科学者~島田実験所70年目の真実~
日本軍が密かに開発していた最終兵器「Z」【都市伝説】
2014牛尾実験所
「電波兵器」実験所跡、調査へ
旧海軍が開発していた「強力電波兵器」の実験所跡について、初の発掘調査が行われる見通しとなった。8月14日の報道でわかったもの。この実験所は、静岡県島田市内の牛尾山に残る「第二海軍技術廠牛尾実験所」。大きなパラボラアンテナで強力な電波を照射して、敵の飛行機を故障させる実験などを行っていた。電波兵器は実用化されることなく終戦を迎えたが、研究成果は戦後、電子レンジなどに応用されている。牛尾山は付近を流れる大井川の改修工事のため削られることになっており、「戦争遺跡として非常に重要」という声もあることから、写真や図面を残す記録保存を前提に発掘調査が進められるのでは、とみられている。ただ、地元からは実物の保存を求める声も上がっているとのこと。
171203旧海軍 島田・牛尾実験所を語る パネルディスカッション
25--GHQ軍事科学調査--Ngo未来大学院=NFS=NGO FUTURE SCHOOL
旧日本軍、最終兵器の都市伝説【都市伝説】
【都市伝説】知られざる旧日本軍の最終兵器
太平洋戦争末期のころ、静岡県島田市に爆弾が投下され多くの犠牲者が出た
その爆弾は2週間後 長崎に投下された原子力爆弾とほぼ同じ形、同じ重さの模擬爆弾だった
なぜ静岡県島田市がターゲットとなったのか?
マグネトロン
【高出力エネルギー兵器】米空軍がドローン群を瞬時に壊滅する
マイクロ波兵器「フェイザー」を配備へ
マイクロ波兵器「フェイザー」を配備へ
暴動鎮圧用の電磁波兵器
アクティブ・ディナイアル・システム (Active Denial System : ADS) は、アメリカ軍が開発中の暴動鎮圧等に用いるための対人兵器システム(指向性エネルギー兵器)。
ミリ波の電磁波を対象物(人間)に向けて照射すると、誘電加熱により、皮膚の表面温度を上昇させることが可能で、この照射を受けた者は火傷を負った様な錯覚に陥るという。実験段階での報告によれば致命的な殺傷能力は無いとされ、対象物から450m離れた場所からの照射でも効力が有り、人道的な兵器としての利用が期待されている。 使用される周波数は95GHzで電子レンジの2.45GHzより非常に高い。
暴動鎮圧用の電磁波兵器をアメリカ軍が公表
Solid State - Active Denial Technology
Danger Room Video Ops: Spencer Ackerman Zapped by 'Pain Ray'
Active denial system explainer
レーダーの歴史
戦後 かれらはこの静岡県島田市にマイクロ波関連の会社を設立
それが島田理化SPCです
島田理化工業 SPC ELECTRONICS CORPORATION
島田理化工業株式会社(SPC ELECTRONICS CORPORATION)は、に本社をおく企業。創業は。、などを主体とした通信事業部門と、を中心とした産業IH機器部門をもつ。
沿革
前身はの第二海軍技術廠島田実験所。日本の超一流の科学者を総動員してマイクロ波に関する通称「」が行われていた。この研究には、後にを受賞したも参加していた。戦後、高周波技術を平和産業に役立てようと、1946年(昭和21年)主として高周波機器、電気諸計器並びに通信機の製造、販売及び修理を目的として、島田理化工業所を(現)に設立した。
- 静岡県志太郡島田町(現:島田市)に島田理化工業所を創業。
- 島田理化工業株式会社を設立。に本社を、静岡県島田市に工場を設置。
- 東京都に本社を移転。
- 800万円に増資時、が資本参加。
- 東京都(現在地)に本社および本社工場完成移転。
マイクロ波からミリ波までアンテナをはじめとする給電部品を取り扱っています
44GHz列車無線用ホーンアンテナ
低域通過フィルタ
高域通過フィルタ
60GHzカセグレンアンテナ
30GHz複モードホーンアンテナ
高電力同軸導波管変換器
Ku-Band PLL LNB
18GHz帯から60GHz帯まで高帯域に対応した準ミリ波・ミリ波帯モジュールを開発・生産しております。周波数高安定度、低位相雑音のフロントエンドモジュールや周波数コンバータを提供しております。
近年の情報通信分野において高速・大容量化は重要なテーマであり、その情報の持つ広帯域性からミリ波帯(30GHz以上)の利用が積極的に行われています。またミリ波帯を使用することで装置の小型・軽量化も併せて実現可能となるなど非常に多くの利点を有しています。
一方情報通信分野以外では、車載用衝突防止レーダに代表されるような計測・センシング分野でもミリ波帯が利用されています。そこで重要になるのは装置のキーコンポーネントとなるフロントエンドモジュールの開発であり、当社ではこれまで18GHzから60GHzまでの周波数範囲に対応したモジュールを開発・生産しております。

高周波誘導加熱装置の基本
戦後に山梨に方向探知機の会社を設立それが光電KODENです
光電 KODEN 方向探知機
光電
海軍技術研究の中枢にいた元海軍技術大佐伊藤庸二工学博士と技術者たちは、1947年(昭和22年)に光電製作所を創立しました。折しも食料不足の時代、コーデンの無線方位測定機「方探」は航海の安全と漁獲の増大を実現し、画期的な近代装備として急速に普及しました。このことも契機となって、わが国の漁業は近代漁業へ躍進していったといわれています。自由な研究開発と技術活用の場を求め集まった人々はいくつもの独創的な製品を生み出して、今日の基礎を築きました。

日本海軍の電波技術と伊藤庸二大佐
太平洋戦争の記録をよむと、日本海軍は電信の暗号を解読され、電探(レーダー)で居場所を計測されて、実戦で次々に敗北し、総司令官山本五十六も戦死している。この海軍の中で当時誰も目を向けなかった電探の開発に心血を注いだ技術将校がいた。
その人は伊藤庸二大佐で、中川靖造著『海軍技術研究所―エレクトロニクス王国の先駆者たち』に比較的詳く紹介されている。
経歴の概要。
伊藤庸二(1901~1955)
明治34年(1901)に千葉県御宿に教育家伊藤鬼一郎の長男として生まれる。
大正13年(1924)東京帝国大学工学部を卒業後海軍造兵中尉に任官した。
昭和2年(1927)に海軍より独逸ドレスデン工科大学に留学し、八木秀次博士の勧めでBK振動の発見者であるバルクハウゼン教授に師事し、特殊振動管の研究を行い、工学博士号を取得した

戦中は海軍技術研究所の技術大佐としてマイクロ波レーダーの開発に携わると共に、マグネトロンの研究に没頭し、大戦末期には海軍技術研究所島田分室で大出力マグネトロン「Z装置(怪力光線)」の開発を指揮した。
(戦後は光電製作所を立ち上げ電波方向探知機の製造を行うと共に、財団法人資料調査会の役員として帝国海軍に関わる資料の保存・研究に尽力した。防衛技術研究所の開設が決まると、その初代所長への就任を要請されたが昭和30年(1955)5月9日に54才で急逝した。
なお、戦前日本無線で当時世界最高出力の水冷式マグネトロンを開発した中島茂は伊藤庸二の実弟である。)
伊藤は電波技術を索敵、攻撃兵器に応用すべきと早くから提唱していた人物で、昭和十五年、遣独軍事視察団に随行した際、実戦配備されていた「ウルツブルグレーダー」を目の当たりにし、その兵器としての威力に衝撃を受けた伊藤は、ウルツブルグレーダーに関する詳細な報告書を作成、艦政本部に提出した
当初は艦政本部は、そんなものは暗闇に提灯をつけるようなもので、海軍の伝統である奇襲攻撃には向かないと、取り合わなかった。
伊藤は研究所内に伊藤教室をつくり、若手の電波技術教育の充実を行い、さらにバルクハウゼン博士の招聘を行い、ドイツ海軍が夜間でも電波で測距できる装置を開発したらしいという話を聞きだしたたりした。
このような情報活動と、陸軍が電探の研究に着手したこともあり、海軍上層部でも電探技術の重要性が徐々に認識されるようになり、昭和十六年八月、ようやく海軍省は「電波探信儀研究着手」の訓令を発し、九月には伊藤を主任として電探兵器の開発が開始された。
この頃ワシントン駐在の海軍武官が米海軍の装備をよく調べると、おかしなアンテナが各軍艦のマストについていることがわかった。真珠湾攻撃の4ケ月前のことである。
伊藤らは、戦時中は海軍技術研究所電子部にあって、電探の研究開発に全力投球した。
昭和17年4月に米軍機の東京初空襲があったが、房総と三浦半島に設置された電探は、まだ敵機を補足出来なかった。

この年軍艦伊勢と日向につけられた電探は、35Kmの戦艦は検知できたが、航空機は補足出来なかった。
この両艦はアリュ―シャン列島の作戦にでて、濃霧のなかを無事撤退することができた。
さらなる改良研究や量産に消極的だった艦政本部も、米軍がガダルカナル上陸作戦で使用した地形判別マイクロ波装置に驚き、漸く組織改正や予算増強にのりだした。昭和18年5月のことである。
陸上見張り用は、4号機までつくられ、それなりの実績を残した。
船艦装備の見張り電探は、潜水艦、海防艦、駆潜艦に使用された程度で終わった。
対空射撃用電探は英国式を模倣したが、実用化までに至らなかった

伊藤らは、原爆や殺人光線の開発研究会「Z研究」を立ち上げたが、大風呂敷と批判された。
何とか島田技研の建設と人集めにこぎつけたが、終戦をむかえた。
しかしこれは戦後の復興に役立てられたという。
伊藤大佐は電探の開発で有名だが、米太平洋艦隊所属艦艇の発信電波を解析する算式、『"W"測定』(共同研究者である和智恒蔵大佐の頭文字を取って"W")の考案者の一人である。
この測定理論で、真珠湾作戦に先立って、在ハワイ太平洋艦隊の在伯状況を調査するのに利用され、伊藤大佐の電波伝播研究にも応用されていたという。
幕末から明治維新後に、日本が急速に電信技術を取り入れて、世界のトップレベルになっていたのに、昭和になって遅れをとったのは何故だろうか?
























SI-TEX/KODEN 511A AUTOMATIK DIRECTION FINDER
DIRECTION FINDER
乗船実習報告⑪ 合同授業②(無線方位測定機)
県立焼津水産高校の実習船「やいづ」に乗船し、1か月間のカツオ一本釣り実習を行いました。 焼津水産高校専攻科との合同授業の第2弾は、「無線方位測定機の演習」です
鹿児島と那覇のラジオ局の方位を測定し、船の今いる位置(船位)を実際に求めてみました
AQUA 712 automatic radio direction finder
R&S Direction Finders







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