
風船爆弾(ふうせんばくだん)とは、太平洋戦争において日本軍が開発・実戦投入した、気球に爆弾を搭載した無差別爆撃兵器である

風船爆弾は、太平洋戦争中盤から後半にかけて日本軍(陸軍、海軍)が開発し、日本陸軍が実戦投入した特殊兵器。 秘匿名称は「ふ号兵器」。 「風船爆弾」は戦後の用語で、当時の呼称は「気球爆弾」である[4]。1944年(昭和19年)11月初旬から1945年(昭和20年)3月まで放球を実施した。
戦果こそ僅少であったものの、ほぼ無誘導で、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器である。
実戦に用いられた兵器としても約7700km(茨城県からオレゴン州への概略大圏距離)は、発射地点から最遠地点への攻撃であった。 なお日本海軍の風船爆弾は「八号兵器」と呼称し、潜水艦に搭載してアメリカ大陸沿岸部まで進出、放球するという方式である



開発当初[編集]
風船爆弾は、陸軍少将であった草場季喜によれば、1933年(昭和8年)には自由気球に爆弾を懸吊し兵器として使用する着想があったと伝えられる[6]。想定地域は満州東部国境地域で、ソビエト連邦のウラジオストクを攻撃しようという作戦だった[1]。 ほぼ同時期に陸軍少佐であった近藤至誠が、デパートのアドバルーンを見て「風船爆弾」での空挺作戦への利用を思いつき、軍に提案をしたが採用されなかったので、軍籍を離れ、自ら国産科学工業研究所を設立し研究を進めた。この時点でコンニャク糊を塗布した和紙「メイジン紙」を使用することは近藤の想定の中にあった。1939年(昭和14年)には関東軍に持ちこまれ、近藤は極秘研究主任となる[7]。1940年(昭和15年)に近藤は病死するが研究は進められ、神奈川県の陸軍登戸研究所で開発されている。試験の責任者は佐藤賢了であった[8]。和紙とコンニャク糊で作った気球に水素を詰め、大気高層のジェット気流に乗せてアメリカ本土を攻撃しようとする兵器で、満州事変後の1933年(昭和8年)頃から関東軍、陸軍によって対ソ連の宣伝ビラ配布用として研究され、小型の気球爆弾の研究命令は1939年(昭和14年)8月に、ふ号兵器としては1943年(昭和18年)8月に研究命令が出された[9]。
1942年(昭和17年)8月15日、大本営陸軍部は「世界戦争完遂ノ為ノ決戦兵器ノ考案」を陸軍省に要望した[10]。その中に米国本土を攻撃可能な「超遠距離飛行機」「特殊気球(フ号装置)ノ能力増大」という項目があった[10]。前者が超重爆富嶽、後者が風船爆弾である[10]。 同年秋頃、太平洋の偏西風を利用して気球をはなち、アメリカ大陸本土を攻撃しようという計画が中央気象台を中心として日本陸軍と日本海軍に持ち込まれ、別個に開発がはじまった
日本陸軍
日本陸軍は、1942年に日本海軍によって行われ成功裏に終わったアメリカ本土空襲に次いで、アメリカ本土に直接攻撃することで心理的動揺を誘えること、材料が和紙とコンニャクのため他軍需品と競合しないことから、風船爆弾の実用化に熱意をそそいだ[2]。「ふ号兵器」の骨子は、日本の高層気象台(当時茨城県筑波郡小野川村(現・つくば市))の台長だった大石和三郎らが世界へ初めて発見していたジェット気流を利用し、気球に爆弾を乗せ、日本本土から直接アメリカ本土空襲を行うものであった[3]。
気球の直径は約10m、総重量は200kg。兵装は15kg爆弾1発と5kg焼夷弾2発である。ジェット気流で安定的に米国本土に送るためには夜間の温度低下によって気球が落ちるのを防止する必要があった。これを解決するため、気圧計とバラスト投下装置が連動する装置を開発した。兵装として爆弾を2発としたものや焼夷弾の性能を上げたものも発射された。爆弾の代わりに兵士2-3名を搭乗させる研究も行われた。
また、陸軍登戸研究所において研究されていた炭疽菌、ペスト等の搭載が検討され、登戸研究所第七研究班はふ号兵器用の牛痘ウイルス20トンを製造し使用可能な状態まで完成していた[12]が、昭和19年10月25日の梅津美治郎参謀総長の上奏に際して昭和天皇は本作戦自体は裁可したものの細菌の搭載を裁可せず、細菌戦は実現しなかった[13]。
1943年(昭和18年)8月、陸軍兵器行政本部は第九陸軍技術研究所に対し、風船爆弾(フ号兵器)による米国本土攻撃の研究を命じた[10]。同年11月、最初の試作気球が完成した[10]。 1944年(昭和19年)2月から3月にかけて、技術研究所は約200個の気球を用意し、千葉県一宮海岸で大規模な実験をおこなった[10]。実験は陸軍関係者の注目をあつめ、3月末の現地検討会議で昭和19年末~昭和20年春にかけての風船爆弾攻撃計画がまとまった
1944年(昭和19年)7月7日、船橋で「ふ」号編成会議が開かれる[2]。 9月5日、陸海民の科学技術の一体化を図るため、陸海技術運用委員会が設置され、研究の一つに「ふ号」も含まれていた[14]。開発責任者は第9陸軍技術研究所(登戸研究所)の草場季喜少将と書かれている資料もある[15]。 9月8日、杉山元陸軍大臣は風船爆弾関連の気球連隊および同補充隊の臨時動員を令達した[16]。9月25日、気球連隊は参謀総長の隷下に入った[16]。特殊作戦部隊であるため、大本営陸軍部の直轄部隊としたのである[17]。9月30日の大陸指第2198号をもって、気球連隊は10月末までに風船爆弾攻撃準備を完了するよう命じられた[17]。
1944年(昭和19年)11月、陸軍は風船爆弾を「ふ号兵器」として実用化した。
日本海軍
日本海軍では、1942年に成功裏に行われたアメリカ本土空襲に続いて、同年秋頃から艦政本部第一部・相模海軍工廠・海軍気象部・海軍航空本部が協力し、開発を進めた[1]。1944年(昭和19年)になると湘南海岸(平塚~小田原)で試作品の飛翔実験をおこない、その後は大分海軍航空隊基地と青島海軍航空隊基地で実験を進めた[1]。日本海軍の風船爆弾は、ゴム引きの羽二重を球皮にした有圧気球であった[11]。
同時期、風船爆弾を潜水艦に搭載するという構想が生まれた[1]。最終的には4隻の潜水艦に、1個5瓦の焼夷弾を約100万個搭載する計画であった[18]。軍令部(担当者、軍令部第一課長藤森康男中佐)と連合艦隊は協力し、新造の伊号第五十四潜水艦(3月31日竣工)と伊号第五十五潜水艦(4月20日竣工)で風船爆弾による米国本土攻撃を企図した[18]。2隻は6月初旬から呉海軍工廠で風船爆弾登載のための特殊工事を開始(水素ボンベの搭載)、6月27日-28日の工事完了を予定した[18]。
同年6月19日から6月20日のマリアナ沖海戦で日本海軍(第一機動艦隊)は大敗する[19][20]。連合艦隊(司令長官豊田副武大将、参謀長草鹿龍之介中将)は潜水艦2隻(伊54、伊55)を、山火事しか期待できない米国本土攻撃より、マリアナ諸島の作戦に投入したい意向を示した[18]。 当時の大本営(海軍部、陸軍部)や昭和天皇はサイパン島奪還作戦を企図し[19][21]、真剣に検討した[20][22]。最終的に東条英機総理大臣(陸軍参謀総長兼務)と嶋田繁太郎海軍大臣(軍令部総長兼務)は奪還作戦断念に至り、6月25日の元帥会議(昭和天皇列席)に至る[23][24]。席上、伏見宮博恭王海軍元帥は天皇の前で日本軍の装備が質・量ともに劣勢であることに触れ「陸海軍とも、なにか特殊の兵器を考え、これを用いて戦争をしなけばならない。(中略)現在の対米対策としては、なんとかして急いで特殊の軍艦や兵器を造らなければならない。陸軍も同様に、特殊兵器を造らねばならぬと思う。」と述べた[25]。伏見宮の意見に対し東條陸軍大将は「風船爆弾を考案し、昭和19年秋から三万個を使用する予定」「他に対戦車挺進爆雷や新兵器を考案中」と表明し[25]、嶋田大将も「海軍も特殊兵器を投入する」と述べた(水上・水中特攻兵器)[26]。
6月26日、草鹿参謀長は伊54と伊55に運砲筒を搭載し、グアム島への輸送任務を命じた[18]。7月5日、サイパン島の日本軍守備隊は玉砕する[20][27]。伊54は目的地をテニアン島に変更したが、運砲筒を波にさらわれて作戦失敗、伊55は目的地到着前にアメリカ軍に撃沈された[28]。その後、日本海軍は風船爆弾のすべての研究と実行を日本陸軍に移譲し[11]、これが東條首相の「陸軍は風船爆弾三万個投入予定」の発言につながっている
作戦開始後
1944年(昭和19年)10月25日、参謀総長は大陸指第2253号をもって気球聯隊長に対し、風船爆弾による心理的動揺を主目的とする米国本土攻撃を命じた[29][5]。作戦名称は「寅号試射」、攻撃開始は「概ネ十一月一日トス」[29]。 11月3日未明に3カ所の基地から同時に放球が開始された。この日が選ばれたのは、明治天皇の誕生日(明治節)であったことと、統計的に晴れの日が多い(晴れの特異日)とされたためであったが、実際には土砂降りの雨であった。
1944年冬から1945年春まで攻撃したが、戦況の悪化など[30]の理由により、1945年冬の攻撃は計画されなかった[31]。
千葉県一宮・茨城県大津・福島県勿来の各海岸の基地から、1944年11月から1945年3月までの間[32]約9300発が放球された
製造
材質は楮製の和紙が使われ、接着剤には気密性が高く粘度が強いコンニャク糊が使用された。このためコンニャク芋が軍需品となったため食卓から姿を消した[33]。楮の繊維が縦方向の大判に対し、小判の繊維を横方向にし網目状に組み合わせ[3]、和紙を5層にしてコンニャク糊で貼り合わせ、乾燥させた後に、風船の表面に苛性ソーダ液[34]を塗ってコンニャク糊を強化し、直径10mほどの和紙製の風船を作成した。気球を調査したアメリカ軍は、それが紙製であることはすぐに突きとめたものの、紙を張り合わせている接着剤が何であるかを特定することはできなかった[35]。気球内には水素ガス[36]を充填した。大佛次郎は1944年10月17日の日記に「新聞を読むと、ヘチマとコンニャクが航空機の基地で入用で供出を求めている。防諜用だとのこと」と記している[37]。
埼玉県比企郡小川町では1933年(昭和8年)ごろ小川和紙から風船爆弾用の気球紙が開発された。昭和19年以降は高知市をはじめ[3]日本国内のほかの地域でも気球紙は製造されるようになったが、開発段階で小川和紙が選ばれた理由は、楮の繊維が長く強靭であり、東京に近く、以前から軍需紙を漉いてきた歴史があることなどが挙げられている[3][38]。その後生産量の増加命令に伴い、各地方でもふ号兵器用の気球紙が製造されるにあたり、小川和紙の手法が全国の和紙産地に伝えられた。当時、紙漉き作業に携わった人々には爆弾に使用されるとは知らされてはいなかった
気球一基に対し和紙は約600枚必要であった[40]。気球紙のサイズは2種類あり大判は6尺3寸5分×2尺2寸(約193×67cm)、小判は2尺2寸四方(約67×67cm)だった[3]。昭和19年には軍の命令により楮の皮剥作業や紙漉きに対しても昼夜休むことなく作業するよう警察の監督のもとに作業が続けられた

ふ号兵器用気球紙(小川和紙)の実物。埼玉和紙科学工業株式会社製造。66.187cm。コンニャク糊含浸済み。昭和19年9月製造。不良品で実際には使われず現存。鶴ヶ島市立図書館収蔵。
風船爆弾開発に携わった地方や施設[編集]
- 陸軍兵器行政本部造兵部[10] - ふ号兵器生産本部
- 第9陸軍技術研究所[10](登戸研究所) - ふ号兵器研究開発
- 国産科学工業株式会社 - ふ号兵器開発製造
- 埼玉県(小川和紙 "細川紙")福岡県(八女和紙)、愛媛県(伊予和紙)、高知県(土佐和紙)鳥取県(因州和紙)、石川県(加賀二俣和紙)、岐阜県(美濃和紙) - 気球紙用原紙生産指定地[3]
無誘導の兵器であったが、自動的に高度を維持する装置は必須であった。川崎の東芝富士見町工場で製造と開発が行われていた[41]。これにはアネロイド気圧計の原理を応用した高度保持装置が考案され、三〇七航法装置と呼ばれる。発射されると気球からは徐々に水素ガスが抜け、気球の高度は低下する。高度が低下すると気圧の変化で「空盒」と呼ばれる部品が縮み、電熱線に電流が流れる。バラスト嚢[42]を吊している麻紐が焼き切られ、気球は軽くなりふたたび高度を上げる[43]。これを50時間、約二昼夜くり返して落下するしくみであった。
気球を天井から吊り下げて行う満球テスト(水素ガスを注入して漏洩を検査する)のために天井が高い建物が必要とされたため、日本劇場の他、東京では東京宝塚劇場、有楽座、浅草国際劇場、両国国技館[44]で、名古屋でも東海中学校・高等学校の講堂で作られた。他にも毒ガスの製造施設があり機密性の高かった瀬戸内海の大久野島[45]などでも製作が行われた。作業にあたって動員されたのは女子学生であった[46]。脚本家・作家の向田邦子も、学生だった当時、旋盤工として部品の製作に動員されたことを著書に記している[47]。吉村昭はこれに加えて芸者が参加しているという話を耳にしている。既に座敷遊びをするような客が少なくなり、三味線を弾くこともなくなっていたのである[48]。糊に混入されている防腐剤の影響で指の間がただれ、また作業者には疲労回復のためヒロポンが渡されたという証言も残る[49]。軍需工場で長時間勤務する工員へのヒロポン配給は、普通に行われていた[50]。製造中の事故により6名の死者を出している。また関西では天理研究会が開いた奈良県北葛城郡竹ノ内部落の教団本部跡地(1938年に教団幹部が検挙された後閉鎖され、警察が管理していたが、村のボスが買い取った)でも製造が行われた
部隊編制
千葉の気球連隊が母体となり『ふ』号作戦気球連隊が編制された。
1944年(昭和19年)9月8日、編成[16]。9月25日、参謀総長直轄部隊となる[17]。連隊長:井上茂大佐。連隊本部:茨城県大津。総員:約2千名。連隊本部のほか、通信隊、気象隊、材料廠を持ち、放球3個大隊で編制された。
- 第1大隊(3個中隊)茨城県大津(現在の北茨城市五浦海岸一帯)。132万平方メートルの敷地に、18基の放球台、水素ガスタンク、水素ガス発生装置などがあった。終戦とともに陸軍は施設を爆破し書類を焼却。放球作業中の事故の犠牲者供養のための石碑が残っている[52]。
- 第2大隊(2個中隊)千葉県一宮[53]。上総一ノ宮駅から一宮海岸まで、打ち上げのために引込線が敷設されていた[54]。
- 第3大隊(2個中隊)福島県勿来
1個中隊は2個小隊で構成され、1個小隊は3個発射分隊(発射台各1)を持つ。
中隊人員は、将校12-13名、下士官22-23名、兵約190名。大隊には水素ガスの充填、焼夷弾・爆弾等の運搬・装備を担当する段列中隊1個があった。また、陸軍気象部や中央気象台の技師といった科学者も配属されていた[16]。その中の一人に、陸軍軍医学校教官の内藤良一がいた[55]。
千葉県一宮には試射隊が置かれた。試射隊はラジオゾンデ装備の観測気球を放球し気象条件を探った。ほかに気球の行方を追う標定隊があり、陸軍の名取飛行場がある宮城県岩沼に本部を置いた。標定所は本部の他にも青森県古間木と千葉県一宮にも設置されたが、後に樺太標定所が設置された。
戦果
約9300発の放球のうち、アメリカ本土に到達したのは1000発前後と推定され(米西部防衛司令部参謀長W・H・ウィルバー代将の報告書要点抜粋から)[5]、アメリカの記録では285発とされている。最も東に飛んだ記録としてミシガン州で2発が確認されている[3]。米国軍事評論家の調査(1951年)によれば、ミシガン州デトロイトまで到達した[5]。
1945年5月5日、オレゴン州ブライで木に引っかかっていた風船爆弾の不発弾に触れたピクニック中の民間人6人(妊娠中の女性教師1人と生徒5人)が爆死した例が確認されている唯一の戦果である。放球は1945年3月が最終であるため、この5月の事故は冬の間に飛来したものが雪解けによって現れたのではないかと言われている[52]。
また、プルトニウム製造工場(ハンフォード工場、ワシントン州リッチランド)の送電線に引っかかり短い停電を引き起こした。これが原爆の製造を3日間遅らせた[56]という説がある。一方、実際には工場は予備電源で運転され、原爆の完成にほとんど影響はなかったという[57]説もある。(「シカゴ・パイル1号」参照)焼夷弾は小規模の山火事を起こしたが、冬の山林は積雪で覆われていたため火が燃え広がりづらく、大きな戦果をあげたという記録はない。山田風太郎は1944年12月15日の日記に、九十九里浜方面に大要塞建設中にして、毎日早朝に風船爆弾を上げており、アメリカで頻々と山火事が起こりつつあることを雑談で聞いた、と書き残している[58]。実際に1944年12月20日の時点で風船爆弾の存在自体はアメリカの新聞での報道が確認できる[59]。アメリカで気象将校の訓練中に風船爆弾が飛来し、高層風の学習に用いられたことがある[60]。
ただし、風船爆弾による心理的効果は大きく(日本側でもこの作戦自体が心理面での効果を期待していた[5]。担当したのが参謀本部第二部第8課、情報や傍受、諜報に関わる部署であった[61]。アメリカ国民は軍事施設への散発的な攻撃よりも、森林火災に心理的パニックを起こすため、これを利用した後方攪乱という意味合いがあった。藤田信雄も参照されたい[62])、アメリカ陸軍は、風船爆弾が生物兵器を搭載することを危惧し[5](特にペスト菌が積まれていた場合の国内の恐慌を考慮していた[63])、着地した不発弾を調査するにあたり、担当者は防毒マスクと防護服を着用した。調査に動員された細菌学者は4000名におよぶという[5]。また、少人数の日本兵が風船に乗ってアメリカ本土に潜入するという懸念を終戦まで払拭することはできなかった。また、終戦後すぐに、細菌兵器研究者を日本に派遣し、風船爆弾開発に関わった研究者の調査を行っている[64]。
風船爆弾対策のため、アメリカ政府と軍は大きな努力を強いられた[5]。アメリカ政府は厳重な報道管制を敷き、風船爆弾による被害を隠蔽した[5]。上記の事故の一報を受けた電話交換手は決して口外するなと軍から口止めされた[52]。これはアメリカ側の戦意維持のためと、日本側が戦果を確認できないようにするためであった。この報道管制は徹底したもので、戦争終結まで日本側では風船爆弾の効果は1件の報道を除いてまったくわからなかった。
戦後すぐの日本で放送された『眞相はかうだ』でも、風船爆弾については明確に触れられておらず、「日本の潜水艦から発進した飛行機が、アメリカの都市を爆撃したというのは本当か」という質問の形式をとって曖昧な説明を行うにとどめている。これを紹介した保阪正康は、風船爆弾のために発生した山火事の件を伏せたくて、ぼかしているという印象を持っている[65]。また、1948年4月に日本劇場屋上に戦後初のアドバルーンが揚げられたが、GHQの指令で2日後に禁止となった。風船爆弾を連想させるため、という理由からである[66
現存
兵器の現物は日本国内に残存しないが、東京都江戸東京博物館に5分の1模型があり、埼玉県平和資料館に7分の1模型が展示されている[67]。国立科学博物館に非公開ながら、重要部品の風船爆弾の気圧計(後述の高度保持装置)が保管されている[68][69]。アメリカのスミソニアン博物館の保管庫には気球部分が保管。気圧計及び爆弾部分の気球下部部分の実物は国立航空宇宙博物館に展示されている。
諸元
- 気球の直径:10.0 m
- 吊り紐の全長:15.0 m
- ガスバルブ直径:40cm
- 総重量:205kg
- 搭載爆弾量:15kg×1 / 5kg×4
- 飛行高度:標準10,000m 最大12,000m
- 飛行能力:70時間
明治大学生田キャンパスは戦争時、陸軍科学研究所がありました。現在は登戸研究所資料館として当時の秘密戦に関する資料を展示しています











































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