早期警戒レーダー(B29警戒)
日本軍のレーダー開発は、アメリカ、イギリス、ドイツなどの主要参戦国と比較すると大きく出遅れていた。それでも陸軍が「超短波警戒機甲」と「超短波警戒機乙」の開発に成功すると、1942年から「超短波警戒機甲」、1943年には「超短波警戒機乙」が優先的に日本本土の主に海岸線や離島に設置されて早期警戒網を構築した。一方で海軍のレーダー「電波探信儀」の配置は前線のラバウルやウェーク島が優先されて、日本本土への配備はその後にされたが、設置された箇所は海軍基地や軍港周辺に限られた。レーダーの設置個所についても、陸海軍の連携はなく、隣接した箇所に陸海軍がレーダーを設置するなど無駄が多かった。それでも、B-29による日本本土空襲が開始される1944年後半には、関東、中京、阪神の太平洋側及び九州は全周囲に渡ってレーダー網を構築できた。日本海側にはほぼ設置されず、東北方面も手薄ではあったが、それでも大都市や工業地帯といった主要地域については十分カバーができていた。中でも八丈島に設置された「超短波警戒機乙」はマリアナから出撃するB-29を真っ先に捉えることができたが、乙型レーダーの探知距離は最大で250㎞であり、八丈島から東京までの距離が300㎞で合計550㎞の距離しかなく、巡航速度が約400㎞/hのB-29であれば一時間ほどで到達してしまう距離で、八丈島から報告を受けて日本軍が迎撃の準備を行う時間的余裕はあまりなかった。日本軍の警戒用レーダーの周波数がドイツ軍のレーダーとは異なっていたので、ヨーロッパ戦線で使用していたチャフの効果がなく、アメリカ軍は幅2.5㎝、長さ30mから100mといった長細いアルミフォイルでつくったチャフを新たに作成している。このチャフは形状から「ロープ」と呼ばれていた。
しかし日本軍のレーダーは、いずれも接近してくる航空機の高度や編隊の性格(直掩戦闘機の有無など)まで探知することはできず、また方向もおおまかにわかるといった原始的なものであった。そのため、レーダーを補うために哨戒艇や目視監視哨戒といった人の目のよる旧来の手段に頼らざるを得ず、しばしば、これら人の目による第一報がレーダーよりも正確な情報となった
日本軍は探知だけではなく火器管制レーダーについても配備を進めていた。大戦初期にシンガポールで鹵獲したイギリス軍のGL Mk.IIレーダー(英)をデッドコピーしたり、ドイツからウルツブルグレーダーの技術供与を受けたりして、「タチ1号」・「タチ2号」・「タチ3号」・「タチ4号」などの電波標定機を開発して本土防空戦に投入している。B-29が夜間爆撃を多用し始めると、日本軍は高射砲と探照灯の照準を射撃管制レーダーに頼るようになった。各高射砲陣地には「た号」(タチの略称)が設置されて、レーダーの誘導で射撃する訓練を徹底して行うようになり、6基~12基で1群を編成する探照灯陣地にもレーダーもしくは聴音機が設置されて、レーダーや聴音機に制御された探照灯がB-29を照射すると、他の探照灯もそのB-29を照射した
アメリカ軍は日本軍の射撃管制レーダーがイギリス製のものをもとに開発していることを掴むと、その対抗手段を講じることとし、B-29にジャミング装置を装備した。そしてB-29に搭乗してジャミング装置を操作する特別な訓練を受けた士官を「レイヴン」(ワタリガラス)と呼んだ。東京大空襲以降の作戦変更により、B-29が単縦陣で個別に爆弾を投下するようになると、爆弾を投下しようとするB-29は多数の日本軍火器管制レーダーの焦点となって、機体個別のジャミングでは対応できなくなった。そこで、アメリカ軍はB-29数機をECM機に改造して、専門的にジャミングを行わせることとした。そのB-29には18基にものぼる受信・分析・妨害装置が搭載されたが、機体のあらゆる方向にアンテナが突き出しており、その形状から「ヤマアラシ」と呼ばれることとなった。ヤマアラシは、1回の作戦ごとに10機以上が真っ先に目標に到着して、熟練したレイヴンの操作により電波妨害をして探照灯や高射砲を撹乱、聴音機に対してはエンジンの回転数をずらしてエンジン特性を欺瞞するなど、爆撃を援護し最後まで目標に留まった。
聴音機
八丈島に設置された「超短波警戒機乙」はマリアナから出撃するB-29を真っ先に捉えることができたが、乙型レーダーの探知距離は最大で250㎞であり、八丈島から東京までの距離が300㎞で合計550㎞の距離しかなく、巡航速度が約400㎞/hのB-29であれば一時間ほどで到達してしまう距離で、八丈島から報告を受けて日本軍が迎撃の準備を行う時間的余裕はあまりなかった
八丈島末吉村に設置されたレーダーによって
キャッチされた敵機来襲の情報をいち早く東京に伝え本土空襲の備えにため
昭和19年にはいると太平洋戦争は徐々に戦況悪化いつつあり八丈島を最前線とする
本土決戦をとゆうことまで考えられ切迫した状況となつた 当時本土と八丈島間には
下田からの海底ケーブルがあつたが それは明治年間に布設されたもので故障が多く
しかも一度事故があれば数か月も通信が途絶する状態であつた
その年の4月 陸海軍両省は逓信院に対して東京~八丈島間に早急に電話回線を布設
するように依頼した しかし資材は払底しており 布設船も少なく新しく海底線を布設
することは到底不可能であつた そこで本省において種々検討の結果 新技術の超短波
を使用し八丈島~富士山~長津田とゆう無線ルートを選定し 長津田~東京は有線による
こととした
長津田~八丈島無線ルート図
6月には綱島無線課長 黒川技師の一行による実地調査が行われ 八丈 長津田両方
の見通し点の朝日岳が決定し7月静岡電気通信工事局長へ工事命令が発せられた
山頂の厳しい立地条件の中で 短期間のうちに工事を完遂すべく工事局長を建設隊長
内藤沼津分局長とし破天荒な工事を着工した
機器配置の略図 やぐら型空中線(富士山頂)
これより前に 東京~大阪間の超短波方式工事中であつた
中継所の局舎は中央気象台の好意により旧観測所の建物を借用し
その場に簡易な宿泊施設を造ることとした
工事についての難問題は まず短期間に必要資材を頂上までいかに安全に
運搬するかとゆうことであつた 空中線は両端局への見通しを充分にするため
高さ10mとし 暴風雨に耐えるよう柵を組むようにした送信用 受信用
計4基の棒組電柱は7.5mを中心として300本以上を要した これら空中線材料
と送信機 受信機 電池 発電機 更に建設営繕材料を含めると重さ120トンにも
達した それに電力工事用のケーブルなど数10トンを含めて山頂まで運び上がかければ
ならかった
そこで太郎坊までは貨物自動車(代燃車の木炭車)を使用し そこから7合8尺までは
馬に頼った しかしその上については当時 浅間神社の御神域で馬で入ることはできなかつた
専ら人力によることとした山梨県側からも強力を動員して荷上げをおこなつた
3700mの頂上は気圧は下界の半分となり風の強い日が多く職員をはじめ地元運送業者
軍隊 学徒 強力ともども全員の血のにじむよう苦労を味わったのである
また工事に参加した方々の苦労は(富士無線中継所を語る)(昭和51年12月)に
記載されているので参照されたい
工事の概要
電力線ルート図
空中線は硬銅線使用の4エレメント反射板付き 露氷の妨害を防ぎためエレメント
フィーダーをすべて木桶に入れた 空中線工事は7月着工 8月末には完了している
空気が希薄な山頂に従事した人達は過労のため顔がむくんでしまい人相がわからなく
なうてしまう程であつた
電力線は3相3300ボルトを山頂まで送電するため山麓の滝ケ原から専用線路を
建設し無線中継所をへて気象観測所まで送電できるようにした
この工事は地元滝ケ原の決兵団から500名の兵隊が参加し9月に着工されました
頂上に向けて8.5Kmのケーブルは全区間長深さ50Cm埋設したが困難な状況を
克服してケーブル接続工程を残してわずか5日間で完了した接続工程は関東電力側で
行うことになつていたが変更になり直営工事で頂上まで実施し送電は11月28日の
午後であつた
局内工事は8月から開始した 山頂で使用する発電機 蓄電器は低温 低気圧による
能率低下を見込んだ特殊設計のものが望ましかつたが当時の切迫した状況からその余裕
もなく他工事残品を充当さぜる得なかつた そのため発電機燃料とか電池の比重などの
取り扱いに大変苦労した
無線の送信機 受信機は東京~大阪間工事中のものと同様の乙型を使用することし
セット予備を置いた
このような悪戦苦闘して進められた難工事もやがて全員の努力が報いられ11月27日
に無線回線が開通し11月30日の東京~八丈島間に回線が開通した
閉局まで
当回線は当初の目的どおりは八丈島末吉村に設置されたレーダーによって
キャッチされた敵機来襲の情報をいち早く東京に伝え本土空襲の備えに役立つた
保守は はじめ沼津電気通信工事局が担当していたが翌昭和20年1月20日
名古屋無線工事局の静岡分局が設置され これに移管された職員10名が配置され
名古屋からの応援を得ながら1ヶ月交代で山頂勤務をおこなつた
昭和20年7月 中継所付近を基地としてレーダーの伝搬試験を行うこととなり
一行十数名が登山した その中で逓信院の栗山技師が高山病となり一同の必死の
看護もむなしく下山の途中で不帰の客となつてしまつた
昭和43年 故人の23回忌にあたり笹原名古屋無線通信部長 今村静岡電気通信部長
江藤沼津駐在所長の3氏が発起人となり昭和43年8月に山頂分室の全前に
(富士無線中継所記念碑)と並んで殉難碑が建てられた碑文は岩館東海電気通信局長が
自ら筆をとられ(今後いかなる悪条件でも ふたたびこのような悲劇をくりかえさない)
と25歳の若さで散った栗山技師の霊を慰めた
富士無線中継所にある2つの碑
富士無線中継所
山頂南東側には石造りの小屋がある。以前から存在は知っていたが、金明水と同じく面倒でこれまでは素通りしていた。これは、東京と八丈島を結ぶ無線中継所として1944年に開設された富士無線中継所。中継所の手前には2つの碑が建っている。向かって右側に「富士無線中継所記念碑」、左側に「栗山國雄君殉職碑」。栗山國雄という人物は、超短波多重通信電解強度試験(何のことかさっぱり)のために山頂に滞在している間に、高山病で亡くなった人らしい。…って、高山病で死亡する事あるの?!
さて やっと完成した送電線は雪崩や雷による故障がしばしば起こり
その修理には平地では考えられない困難が伴ったルートは当初から専門家の意見を
取り入れ雪崩の少ない地点を選んでだのであるが春ともなればしばしば雪崩に
見舞われ線路の流出を招いた また夏になると雷が多く火山灰のアース抵抗は高く
地下ケーブルやトランスを直撃した その対策として電気試験所の協力を得て
ケーブルと架空線路に平行してアース線を布設すること 途中アレスタの設置を
多くして改善した
前後するが昭和21年 剣が峰の高空医学研究所の建物を利用して第二東名阪の
計画があり測量も行った東京~大阪間の青山無線中継所には富士山送受用の
空中線も作られた
戦後 平和な時代を迎え昭和23年6月 長津田~双子~三宅島~八丈島回線が
開通した また八丈島新局舎も建設されたので苦難の多かつた富士山頂の無線中継所
はここに幕を閉じた
送電線の保守はその後も主として気象庁の観測所へ向けて送電するため御殿場電報電話局
によって保守された
昭和39年 山頂にレーダー基地が設置され気象庁として本格的に電力を必要とすることとなり
昭和40年7月 正式に気象庁に財産を移管した
夏山臨時無線公衆電話
富士山頂臨時電話
戦後 東京~大阪間にAM方式による60MHz回線が開通して間もなく
昭和23年6月に東京~富士山頂~八丈島の回線が廃止された そこで山頂の設備
乙型送信機 受信機を改修して夏山の臨時回線を設営することになつた
わずか1チャンネルの電話回線であつたが東海として初めてであり極めて好評であつた
無線回線は山頂の無線中継所と そのころ御殿場町新橋にあつた郵便局との間を結んだ
山頂では小型磁石式交換機を1台設置し公衆電話とし山室業者(山小屋)など6か所に電話機を置いた
昭和24年夏 二省分離により御殿場電報電話局富士山分室と称するようになり
昭和27年には20回線磁石式交換機を1台設置し20加入を収容した
昭和28年になるとFM方式による60MHz帯の可搬無線機がようやく開発され
また空中線は八木アンテナとなり保守は簡易化され回線の質も一段と向上した
このように登山者へのサービスはより向上したが一方 下界の物価に比べると
通話料は安く電報の取り扱い料を入れても年々収支率は悪くなっていつた そこで
昭和35年から無線回線は山頂から直接 静岡電報電話局に飛ばした また
昭和43年から山頂の交換業務を廃止するなど改善をお行なつた その結果
昭和42年には直接費だけでも収支率274%と極めて悪かつたが 翌
昭和43年には133%と改善された また設備はTZ-63形から
昭和35年にTZ-403形に変更された(450MHz帯)24チャンネル
昭和43年には これまで無線通信部主管で実施されていた無線回線の設営と
保守は静岡通信部へ移管された
60MHz帯可搬無線機
昭和28年3月 60MHz帯を使用したTB-1型FM送信機とRJ-1型FM受信機
1対向が配備された出力は30W位相変調で磁石式電話回線1CH収容であつた
翌年になると これを改良したTC-1型送信機とRJ-1型受信機1対向が配備され
いずれも無線通信部保全課で保守を担当した重量は実に送信機95Kg 受信機110Kg
もあり機動性に乏しかったが 1KVAガソリン発動発電機もあり
ここに災害対策無線の一歩が開始された
TZ-61
次にTC RCを小型化したTZ-61形可搬無線機が開発された
送受信部が40Kg 電源部は60Kgと約半分の重量となつた そして
昭和29年から全国的に配備され共電式及び磁石式交換台相互 交換台~加入者間などの
伝送路に使用された またTZ回線付加装置を接続することにより
自動交換機と加入者間を接続できるようになつた
TZ-63
昭和30年には回線需要にこたえ初めて3CH収容可能TZ-63形可搬無線機が開発され
この無線機は磁石式電話に使用され非常災害時や夏季における海岸や山岳の
臨時電話回線として広く活躍した
TZ-64
また電力事情の悪い離島やへき地など使用できる方式の開発も望まれ
昭和30年12月に送信出力1Wで直流6Vの電池を電源とする
TZ-64形可搬無線機が開発された
TZ-65
次いで昭和33年1月には山間へき地など電話架設困難な無電話地域の電話回線や
非常回線として商用電源があつて比較的近距離間用としてTZ-65形可搬無線機が
開発された重量は送信機 受信機ともに21kgと軽量で保守も容易であつた
初期のものは磁石式信号方式のみに適用されたが その後 共電式にも
適用できるようになつた
昭和33年 60MHz帯の周波数間隔は60KHzから半分の30KHzに縮少された
当初 保守の担当をしていた無線通信部で保有していた可搬無線機はTZ-63形が4対向
TZ-65が1対向であつた これら可搬無線機は昭和33年の狩野川台風
昭和34年の伊勢湾台風など相次いだ東海地方を襲った台風や集中豪雨に伴う
災害時には実力を発揮した
TZ-67
昭和34年にはTZ-64形を改良してTZ-67形可搬無線機が開発された
これは直流6Vの蓄電池によって動作し電源はサイクリックスイッチを採用し
通話のない待機時には受信機は一定間隔の休止時間をおいて受信機を周期的に
動作させる方式を採用した また受信部の大部分をトランジスタ化し電力消費量を
少なくした 重量は送受信機10kg 電源部も10kgと小型化になり
送信電力1W 運用は磁石式にも共電式にも運用できるようになつていた
昭和36年4月に名古屋中統制無線中継所が発足と同時に それまで
無線通信部が保有していた可搬無線機全部を同所に所属替えし出動範囲は
従来どおり東海管内一円とした
TZ-68
昭和41年7月に至り 全トランジスタ化したTZ-68形可搬無線機が実用化された
これは1CH方式の1号 2号 及び3CH方式の3号の3機種であつたが その後
2号は廃止されたこれらの装置は全トランジスタ化されたため消費電力は小さく
信頼度も高くなつている送信出力は20Wであるが送信増幅部を除くと1Wとして運用
するこが可能である 重量は極めて軽く3号の場合 送受信部5.3kg
送信増幅部4.2Kg 端局装置16.3kgであつた
TZ-403の多重(24CH)無線電話で臨時災害時を開設に活躍いたしました
NTT西日本富士山頂電話交換所
NTT西日本富士山頂電話交換所
富士山御殿場口登山道 2合目(1440m)
大石小屋
TZ-2201 加入者無線(2GHz)
Camp Fujiに訓練遠征している沖縄海兵隊の部隊が富士登山しました
年月日 | 出来事 |
1832(天保3)年 | 江戸の高山たつが女性初の登頂。たつは旧暦9月26日(現在の10月下旬)、女人禁制の富士山に男装して富士講行者とともに吉田口から登った。【9月26日】 |
1860(万延元)年 | 初代イギリス公使のオールコックらが登頂。外国人の初登頂。この時、標高を測り4322.6メートルの結果。【7月26日】 |
1867(慶応3)年 | イギリス人ハリー・パーク夫人が外国人女性として初めて登頂。 |
1872(明治5)年 | 富士山の女人禁制が解かれる。 |
1891(明治24)年 | ウオルター・ウエストンが村山口から冬季富士登山。【12月】 |
1895(明治28)年 | 野中至が山頂での越冬気象観測を目的に登頂。秋に山頂に小屋を建て、10月1日から越冬観測に入った。10日ほど遅れて合流した千代子夫人と12月下旬まで観測を続けたが、厳寒と病気で動けなくなっているところを救出された。【2月14日】 |
1898(明治31)年 | 小泉八雲が御殿場から富士山へ。 |
1906(明治39)年 | 西多摩郡調布村の光時、吉原、木村らが自転車で山頂へ。23日に吉田口から入り、25日に登頂し御殿場口へ下山。【8月25日】 |
1907(明治40)年 | 武田千代三郎知事(日本山岳会員)ら数人が6合目あたりまで登り登山道改修、山小屋建設、電話開設の調査を行う。【5月】 |
吉田口の8合目、富士宮口の頂上に郵便局開設。【7月11日】 | |
吉田口8合目で電話開通式があり、武田知事らが出席。【8月1日】 | |
この年の登山者は総数5万3943人。このうち吉田口が3万5000人。 | |
1909(明治42)年 | 視覚障害者8人が御殿場口から登山。【7月19日】 |
1913(大正2)年 | 鶴見宜信歩兵大尉ら軍人6人が吉田口からスキー登山。12月31日に登山を開始、1日午後1時半、風雪の中を登頂した。【1月1日】 |
1914(大正3)年 | 新潟・高田スキークラブの8人がスキー登山。4日、8合目で突風にあおられ2人が滑落、1人が死亡。【1月2日〜4日】 |
1915(大正4)年 | 5合目の佐藤小屋が営業を開始。現在も冬も営業の小屋として知られる。 |
1921(大正10)年 | 東京市役所パーティーが突風に遭い1人が滑落、死亡。【11月11日】 |
1945年7月10日、富士山頂にあった富士山測候所にアメリカ軍による機銃掃射攻撃が行われた。富士山は独立峰で遠方への眺望が効き、日本本土空襲を行うアメリカ軍機の動向を視認できる場所であったほか、1944年には東京と八丈島を結ぶ無線通信回線の中継拠点として山頂の旧登山小屋が活用されたため麓からの送電が始められ、高層気象観測拠点として重要な測候所へも給電された。また、この測候所からは東京の灯火管制を点検していた。日本の象徴という文化的意味に加え、軍事拠点ともなった富士山頂への攻撃が大戦末期に行われ、観測員に負傷者が出た事が業務日誌である『カンテラ日記』を通じて残されている。
また、アメリカ軍は日本の降伏を早めるために富士山をペンキで真っ赤に染め上げ、士気を下げるという計画を立案した。しかし、計画に必要な物資の量がB-29約3万機、ペンキ約12トンという膨大な量になる計算だったため、現実性に欠けるとして計画は中止されたというエピソードも紹介されている
富士山頂郵便局開設の歴史
・明治39年7月30日に富士山郵便局として富士山麓吉田口及び須走口寄り八合目に開設
・明治40年7月16日に富士山北郵便局へ改称
・明治42年7月20日に富士山郵便局へ改称し、富士山頂に開設
・昭和18年から昭和22年までは太平洋戦争の影響で一時閉鎖
・昭和24年7月10日に富士山頂郵便局へ改称、再開し現在に至る
※明治42年~昭和17年は大宮郵便局(現在の富士宮郵便局)が受け持ち局、昭和24年~昭和27年は御殿場郵便局が受け持ち局、昭和28年~ 現在は富士宮郵便局が受け持ち局となっています。
日本一の高所にある郵便局をご紹介します。それは、特に7月・8月に登山客でにぎわう富士山頂に開設される「富士山頂郵便局」です。富士山頂郵便局は、毎年、7月10日から8月20日の間(営業時間:午前6時~午後2時 42日間無休)だけ開設している季節開設局です。42日間で1万人以上の登山者が利用する非常に人気のある郵便局です。
富士山頂郵便局のオリジナル商品として、富士山麓で間伐された富士ひのきに焼き印を押した『ひのきメール』や『登山証明書』『登頂証』があります。
現在使用している風景入通信日付印は、長年愛されてきた気象レーダードームが撤去されたことにより、平成14年7月から雲の上にそびえる富士山と山頂郵便局をデザイン化した風景印に変わっています。
期間中、富士宮郵便局から職員1人とゆうメイト(非常勤職員)1人の2人1組が一週間交替で富士山頂郵便局に常駐します。寝泊まりは事務室の奥、2畳程の部屋で2段ベットを利用し、食料品は持参したおにぎり、カップラーメンが主食で、風呂はありません。
1週間で交替しますが、天候によっては交替できず、そのままさらに3~4日間閉じ込められ、トイレに行くにも難儀をすることがあります。その間は、じっと嵐が通り過ぎるのを待つのみですが、嵐の後の見事な快晴が楽しみです。
富士山頂郵便局は、登山者の方の郵便物受取りや郵便商品の販売、風景入通信日付印の押印など日本一高いところからの郵便発送の業務を行っています。日本全国はもとより海外からも多くの登山者が訪れる富士山とともに愛され親しまれる郵便局として今後も在り続けたいと思います。【富士宮郵便局員一同談】
27) 電気試験所の富士山試験所J1AJ オールジャパンVHF試験 (1932年8月9-13日)
読みやすいように私が下に転記しました。この試験では逓信本省より電話用の "呼出名称"として「富士山試験所」、電信用の "呼出符号"「J1AJ」の指定を受けています。周波数は水晶式の8m(37.5MHz)と8.2m(36.6MHz)で出力はおよそ0.3Wでした。
二、送信波長 八・〇米或ハ八・二米
三、送信電力 十ワット以下
四、送信時間
(1) 八月九日、十日、十一日、十二日ノ四日間ハ毎日左記時間送信ス
第一回 自〇九〇〇 至一〇〇〇
第二回 自一四〇〇 至一五〇〇
(2) 八月十三日ニ限リ同日〇九〇〇ヨリ翌十四日〇八二〇迄毎時ノ始二十分ヅツ送信ス
そのほか富士山頂からのVHF波の受信要請を受けたのは日本放送協会技術研究所、東京電気、東北帝国大、逓信官吏練習所、海軍技術研究所、海軍通信学校、陸軍科学研究所、陸軍通信学校などで、(東北帝大は別として)およそ東京近郊で超短波を受信し得る全ての機関が、その垣根を超えて電気試験所の試験に協力しました。まさしくVHFオールジャパン試験だったといって良いでしょう。
受話地 | 受話強度 | 受話状態 |
電気試験所平磯出張所 (茨城県) | R4 | 雑音なく明瞭 |
電気試験所 (東京市品川区五反田) | R7 | 概して明瞭 |
逓信官吏練習所 (東京市芝区) | R8 | 一般に明瞭 |
日本放送協会技術研究所 (東京市外砧村) | 可聴度5,000以上 | 雑音あれど極めて明瞭 |
東京電気 (神奈川県川崎市) | 感なし | - |
海軍技術研究所 (東京市目黒区) | 可聴度5,000 | 明瞭 |
海軍通信学校 (神奈川県田浦町) | 感なし | - |
軍艦K (千葉県館山湾内) | 極めて強し | 概して明瞭 |
各艦総合成績 (千葉県館山湾内) | 強感 | 概して明瞭 |
陸軍科学研究所 (東京市淀橋区) | R6 | 明瞭 |
陸軍通信学校 (東京市中野区) | 感度強し | 明瞭 |
東北帝国大学所(宮城県) | 感なし | - |
28) 東北帝大J6BAの富士山試験所J1AK受信試験
30) 富士山頂観測所JGY と三島支台JGZでVHF実用化 (1932年8月31日)
31) 日本初の実用VHF無線の裏話
37) 東京逓信局の離島VHF(33.3MHz)試験 (1933年初頭?)
45) 富士山頂からのVHFによる実況中継 (1933年7月24-25日)
『酷暑にあえぐ七月の下旬に海抜一万二千有余尺、富士山頂より中継放送をして万斛(ばんこく)の清涼を与え、之を聴く者をして無限の生気を感じさせ、かつ我等の誇り富士山を改めて確然と思い起さしめる「富士山を仰ぐ一日」の放送を行おうとする計画が六月廿日過ぎ大体決定した。・・・(略)・・・超短波は送信空中線がはなはだ簡単であり、空電、混信、その他の雑音に煩わされることが短波に比してはるかに少なく又適当に設計、製作すれば重量も軽く容量も小さくて済む得典がある。
なお、富士山頂では昨夏電気試験所で超短波に依る電話の送信試験をせられたる事もあり、現在山頂朝日岳にある中央気象台観測所でもこの超短波を利用して極く小電力の送信機で三島の支台との間に毎日通話して居られるなどの事実に鑑み今回の中継放送は超短波に依る事に決定し、放送実施の許可を逓信省に出願すると共にこれが送信機の設計製作に取り掛る事になった。』 (久我桂一, "富士山頂から", 『ラヂオの日本』, 1933.9, 日本ラヂオ協会, pp14-15)
富士山頂、快適通信の舞台裏 アンテナ設置に毎夏4日
佐野正弘のモバイル最前線
夏休みシーズンが到来しようとしている。夏休みには多くの人たちが観光地や、花火大会などさまざまなイベントに訪れ、特定のエリアに携帯電話の利用が集中する。大手携帯会社は、そうした時期に合わせて、人が多く訪れる場所へのインフラ増強対策を進めている。
そうした夏の人気スポットの一つが富士山である。富士山は7月1日より登山ルートごとに順次山開きになり、9月10日の閉山までの間は非常に多くの登山客が訪れる。近年は世界遺産に登録されたことや、外国人観光客の増加もあって、日本人だけでなく外国人の登山客も増加。人気が一層高まりつつある。
さらに、SNSなどに登山中や登頂後の様子などをアップロードする人も増えており、山開き期間は携帯電話の利用者が大幅に増える。そこで大手携帯会社は毎年、山開きシーズンに合わせて富士山のエリア対策を実施し、登山客が快適に携帯電話を利用できる環境の構築に力を入れているのだ。
今回、筆者はソフトバンクから、富士山におけるネットワーク対策の説明を、現地で受ける機会を頂いたことから、実際に富士山に登って携帯会社のネットワーク対策状況を確認してみた。そのときの様子をお伝えしながら、携帯会社がどのようにして、富士山をカバーしているのかを確認してみたい。
富士山は標高3776mと、日本で一番高い山として知られている。だがそれだけに通信機器を設置すること自体難しく、また国立公園の一部であることから、電波塔を建てたり、光ファイバーを敷設したりといったように、地上と同じ方法で電波対策をとることは難しい。では一体、携帯会社はどのような方法で富士山のエリア対策を進めているのだろうか。
地上から電波を射出して山小屋を基地局化
ソフトバンクでは、もう一つの方法によって富士山のエリア対策を進めていると、楠見氏は話す。それは「無線エントランス」を用い、富士山に携帯電話基地局を作ってしまうというものだ。
無線エントランスとは、簡単に言ってしまえば携帯電話事業者の基幹のネットワークから基地局までをつなぐ伝送路に、光ファイバーではなく無線の電波を用いるというもの。光ファイバーと比べ通信速度や容量は落ちるが、光ファイバーを敷設できない場所にも柔軟に対応できることから、ケーブルを引くのが難しい離島のエリアカバーや、災害発生時の一時的なエリア復旧などに用いられることが多い。
ソフトバンクでは富士山のエリア対策に当たり、5GHz帯の周波数帯を用いた無線エントランスを活用。地上に設置された電波塔から、山小屋などに設置された基地局に向けて5GHz帯の電波を射出。それを基地局側が受け、そこから携帯電話の電波を射出することにより、周辺のエリアをカバーするわけだ。
アンテナはシーズン終了時に外す必要あり
富士山頂までの登山ルートには、大きく分けて「富士吉田」「富士宮」「須走」「御殿場」の4つがあり、今回筆者らが通ったのは須走ルート。その本八合目にある山小屋の側面には、無線エントランスを用いたソフトバンクの基地局が設置されていた。
楠見氏によると、無線エントランスを用いる最大の理由は、やはり富士山に直接基地局を設置することで、より多くの人に快適な通信環境を提供できることだという。最近ではLTEによる高速・大容量通信が広く普及し、トラフィックの量も増える傾向にあるだけに、レピーターよりも無線エントランスによるエリア構築が主体となっているようだ。
ただ楠見氏によると、富士山のエリア対策をする上では、そうした技術面以外にも課題がいくつかあるとのこと。何より大きな課題となるのはアンテナの設置・管理だ。アンテナをはじめとした基地局設備の多くは、登山道や山頂にある山小屋などに許諾を得て設置しているが、「アンテナを設置したままにしておくと、冬の雨や積雪などで、設置許可を頂いている山小屋の建物に影響を与えてしまう可能性がある」(楠見氏)ことから、年中設置したままにしておくわけにはいかないのだそうだ。
しかもアンテナは、冬場の気温や湿度の変化などによって故障してしまう可能性もあることから、外して現地に保管しておくことも難しいという。それゆえ毎年、山開きシーズン開始直前にアンテナを地上から運搬して設置し、シーズン終了後にアンテナを外して地上に運搬する、という作業を繰り返しているのだと、楠見氏は話す。
筆者が富士山に登頂したのは全ての登山ルートが解禁される7月10日であったことから、ちょうど富士宮ルート頂上の山小屋にアンテナを運搬し、設置する様子も見ることができた。ちなみにアンテナなど必要な機材は専用のブルドーザーで地上から3時間かけて運搬し、作業員は3泊4日のスケジュールでアンテナの設置や、地上と連携して無線エントランスの調整などの作業を進めるとのこと。この間作業員は山小屋に宿泊し、風呂に入ることもできないなど、大変な環境での作業になるようだ。
専用のブルドーザーをチャーターしてアンテナなどの機材を運搬する。3時間かけて地上から荷物などを運ぶとのことだ
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