概要
1959年の伊勢湾台風では台風の接近と伊勢湾の満潮の時刻が重なったこと(異説あり[誰によって?])で大規模な高潮被害が発生し、死者行方不明者5,000名という大災害となった。これを受けて台風被害を予防する目的で日本本土に近づくおそれのある台風の位置を早期に探知することが社会的要請となり、気象庁が対策として気象レーダーを設置することとなった。
設置場所は全方向にわたってレーダーの電波が山岳で遮られることがないという観点から富士山頂が選定された。従来から測候所として機能していた富士山測候所にレーダー棟を増設することとなった。
工事は設置場所までの資材搬入経路の確保が格別に困難なこと、設置場所の気象条件が過酷なこと、納入機器が他に例を見ない性能であることから、気象庁は取引先選定で競争入札は機能しないと判断し、公共工事としては異例の随意契約により三菱電機と大成建設に発注した。設置費用は2億4千万円、着工は1964年5月であった。
現場の気象条件は過酷であるため、工事は難航した。資材の搬入も難題であった。レーダーの設置を請け負った三菱電機では、搬入をブルドーザー、強力(ごうりき、人力輸送のこと)、輸送用ヘリコプターの3方法を試みた。1964年8月15日にヘリコプター輸送を行い設置に成功した。最終的に、工事資材は500tを超え、そのほとんどがブルドーザー啓開道により運ばれることになった[要出典]。
当時の気象庁の富士山レーダーにかける期待はきわめて高く、すでに運用されていた新潟県弥彦山や島根県三坂山の山岳レーダーで用いた5.7cm波レーダーではなく、観測エリアを広範囲にわたって確保するため、途中の雨雲等による電波減衰を防ぐ目的で異例の10cm波レーダーを用いることとした。他方、波長が長くなることによるレーダー画像の分解能低下を防ぐため、使用するアンテナを当時標準だった直径3mのものから直径5mに大型化することとしている。
この富士山レーダーができるまで世界で一番高所にあった気象用レーダーはアメリカ合衆国モンタナ州にある標高2,600mの山の山頂にあったものだったので富士山レーダーは一気に1,100m以上も世界記録を塗り替えた。レドームの白いジオデシック・ドーム構造物は、設置されていた当時は富士山頂の代表的な構造物のひとつであった。
1999年11月1日、富士山レーダーは気象衛星により台風の接近を観測できるようになったことと、代替レーダーが静岡県の牧之原台地(牧之原気象レーダー観測所)と長野県の車山(車山気象レーダー観測所)の2カ所に設置されることによりその役割を終え、運用を終了した。その本体は解体撤去され、2001年9月に富士吉田市に移設され、富士吉田市立富士山レーダードーム館として公開されている。
レーダードーム骨格の空輸
アンテナを保護するレドームのジオデシック・ドーム構造の骨格は、様態から開発関係者や現場工事関係者らに「鳥籠」とあだ名された。直径9mの半球状ドーム骨格でパネルを貼ったのちに風速100m/秒の冬の風に耐えられる仕様で、重量620kgであった。これを現地に搬送する際に一部を分解して運搬し山頂で組み立てることは難しく、ヘリコプターによる空輸では揚力が不足することが骨格完成後に判明[注釈 1]し難工事の最後の障害となって立ちふさがった。最終的には揚力が不足している分だけヘリコプターのドアや座席など取り外して軽くし、最小限の燃料搭載で対応した。
この時に利用されたヘリコプターシコルスキー S-62は、晴天となった1964年8月15日の午前7時55分に富士宮市にある臨時ヘリポートを離陸。約18分後に骨格設置予定の富士山頂に到着。好天が災いし富士山頂上空は無風でホバーリングに適さず、ヘリコプターの操縦は困難を極めたが「置き逃げ(エスケープ)」と呼ぶマニューバで強行し、レーダードーム設置に成功した。
レーダー性能諸元
1965年の運用開始時、使用波長は2.88GHz帯(10センチ波、Sバンド)で出力は1,500kW、5m径回転式パラボラアンテナ(3 - 5回転/分)の気象レーダーで最大800km先まで観測が可能だった(雨雲域は上空10,000m以下を想定)。1978年には従来の真空管方式から半導体回路に改められた2代目に更新され、1999年の運用終了まで使用された。
富士山頂レーダー基地建設
標高世界一の気象レーダー「富士山レーダー」大成建設
社内報「たいせい」2001年6月号 「社史探訪」より
標高3,776mの富士山頂に気象レーダーを設置すること、それは気象関係者にとって長年の悲願だった。富士の山頂に気象観測施設を設置すれば、レーダー探知半径が広がり、南方洋上から接近してくる台風を早期に発見できるようになる。そうすれば、昭和34年、死者・行方不明者5,101名を出した伊勢湾台風のような甚大な被害を未然に防ぐことができるからである昭和38年2月、レーダー設備を担当する三菱電機(株)と当社では、気象庁によるレーダー設置工事受注に向け、頂上の剣ヶ峰から東京の気象庁までレーダー電波が届くことを実証するための調査を行った。また、剣ヶ峰の地盤がレーダードーム建設に適しているかどうかを測量・調査する必要もあった。スケジュールの都合上、厳寒期の調査となったが、真冬の富士山は雪はもちろん強風による危険性も高い。
高山病にもかかるので、よほどの物好
きでなければこの時期に富士山に登ろうとする者はいなかったしかも、昭和38年というのは、全国的に雪の多い年で、アイゼンをはいて山に登るだけでも困難な上、竜巻が同時に3,4個発生することもあり、まさに命がけであった。厳冬期の調査を決行
高山病と闘いながら完成 調査が終わり、設置場所の標高、緯度・経度、探知半径、送信出力といずれも当時世界一となる気象レーダー設置が可能なことが実証されると、当社グループが富士山レーダー建設工事を受注。すぐさま工事にとりかかった資材の運搬のためにブルドーザー用道路をつくったが、型枠などの大きな資材や生コンクリートなどを運ぶために、ヘリコプター(11人乗り4機、
33人乗り1機)も活用した。しかし、富士山頂付近は乱気流が渦巻く危険地帯で、ベテランのパイロットですら決死の思いで操縦桿をにぎったという富士山頂は気圧が低く、酸素は地上の約7割。高山病にかかると、脳に酸素が届きにくくなり、脳が手足に指令を出しても、実際の体の動きが異なってしまう。そして常に頭痛がする。さらに雷が、この世のものとは思えないほどすさまじい音で落ちる。したがって、かなりの賃金を得ていても、作業交代のために一度下山すると二度と戻らない作業員が多かったという。そのため、延べ10日間以上働いた作業員の名を銅板に刻み、後世に残すことを約束し、工事は進められたのである山頂で作業ができるのは、比較的気候の穏やかな6月末~9月中旬まで。雷雨や強風により昭和38年の実労働日数は約30日。しかし翌39年は天候に恵まれて工事が進み、この年にレーダー棟は完成した。これだけの悪条件ながらも、けが人は一人も出なかった時を経て、昭和52年に気象衛星「ひまわり」が打ち上げられた。さらなる高精度の観測が可能になり、平成11年11月、富士山レーダーは老朽化もあって、その役割を終えることになった(現在富士山測候所で計測は続行中)新田次郎著『富士山頂』は、当時、気象庁測器課長で、この工事のリーダーであった新田氏が、工事の苦難の様子を描いたもので、昭和45年に石原裕次郎主演で映画化もされています
大成建設OBに聞く
「つくるんだ」ただその一念で
なにしろまともに登山もしたことがないのに、いきなり真冬の富士でしたからね。高山病に苦しみながら測量しましたが、口で説明してもあのつらさは伝えきれるものではありません。工事が始まり、ヘリで山頂に向かうときなど、激しい気流に巻き込まれてヘリが墜落しそうになり、死を覚悟したこともありました。私はとにかく「つくるんだ、つくらなきゃいけないんだ」という一心で、文字通り命をなげうって工事に取り組みました。この工事を経験して、自然に対する畏敬の念も芽生えました。大自然に対しては人間はちっぽけなものであり、謙虚になると自然はよく見えてくる、教えてくれることを体験しました。
私もそうですが、この工事にかかわった人の中には毎年富士山に登る人も多いと聞いています。建設会社の社員として、社会に役立つ施設をつくったことは私の大きな自信となりました。工事に従事した社員および作業員の皆さんに、あらためて感謝の気持ちを表したいと思います。
概要
| 所在地 | 静岡県・山梨県 |
|---|---|
| 発注 | 三菱電機 【元発注】気象庁 |
| 設計 | 当社 |
1964年9月神田真三機長(元海軍パイロット)富士山頂にレドームを 朝日ヘリコプター(現・朝日航洋) ●●謎の「置き逃げ」操縦法: 決行の時点でも、機体はなお80㎏重量超過しており、ホバリングを伴わずに設置作業をする、特殊な飛行方法が考案されました。新田氏は小説の中で「置き逃げ(エスケープ)」と呼んでいますが、具体的にどんな飛び方をしたのか、何度読んでも細部が目に浮かびませんでした。 小説によると、朝日ヘリコプターは富士宮ヘリポートに台座の実物大模型を作り、S62を飛ばして「置き逃げ」のリハーサルを繰り返しました。ヘリが近づいて、レドーム骨格が台座の真上に来ると、2人のベテラン作業員が取り付いて、骨格に付けた目印の赤リボンと、台座に付けた合わせマークが一致するよう、素早く位置決めをするのだそうです。 しかし幾ら低速飛行とは言え、620㎏のレドーム骨格は大きな慣性を持っています。たった2人で移動中のレドームをつかんで一瞬のうちに、果たして正確な位置合わせが出来るものでしょうか。取り付けボルト穴を合わせるため、求められる精度は1㎝未満だそうです ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 新田次郎新田 次郎(にった じろう、本名:藤原 寛人(ふじわら ひろと)、1912年6月6日 - 1980年2月15日)は、日本の小説家、気象学者。無線電信講習所(現在の電気通信大学)卒業。来歴・人物長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)角間新田(かくましんでん)に藤原彦、りゑの次男として生まれる。ペンネームは“新田の次男坊”から(「しんでん」を「にった」と読み替え)。 旧制諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)・無線電信講習所本科(現在の電気通信大学の母体)・神田電機学校(現在の東京電機大学の母体)卒業[1]。 『八甲田山死の彷徨』など山岳小説の分野を拓く[1]。登山好きの今上天皇が愛読する作家として知られる。 1956年(昭和31年)『強力伝』で直木賞、1974年『武田信玄』等で吉川英治文学賞受賞[1]。 親族伯父(父の兄)に気象学者藤原咲平[2]。妻ていは作家。次男正彦は数学者・エッセイスト。長女の咲子も、家族を書いた小説を発表している。父方のいとこ(叔母の長男)に、ハリウッド化粧品創業者の牛山清人[3]。1880年(明治13年)創業で現在も続く新橋のすき焼き専門店「今朝(いまあさ)」は親戚で、父方の祖母ふくの弟・藤森勝三郎が初代(従兄)の養子となって跡を継いだ[4][3]。 略歴
エピソード初めての小説は、1942~45年の間に書かれたと思われる、藤原廣の筆名の自伝小説『山羊』で原稿用紙7枚。内容は、半生を振り返り抑留生活の辛さと、今後作家として活動していきたいという決意の表明となっている。 帰国後は、伯父の咲平(気象の第一人者)が公職追放されるなど気象台自体が組織として混乱しており、気象台はバラック立てで隙間風が吹き抜ける状態で、給与も微々たる物で大変な困窮ぶりであった。手始めにアルバイトとして、教科書の気象関係の執筆を引き受けた。このころ、ジュブナイル小説『超成層圏の秘密』『狐火』などを著したが、刊行はされなかった。1949年に、妻・ていの書いた『流れる星は生きている』がベストセラーになり映画化もされ、とても生活が助かったため、さらに、作家活動を考えるようになる。 気象職員として最も知られている仕事に、富士山気象レーダー建設がある。これには、1959年の伊勢湾台風による被害の甚大さから、広範囲の雨雲を察知できるレーダー施設の設置要請を受け、無線ロボット雨量計で運輸大臣賞を受賞するなど、気象測量機の第一人者にして高山気象研究の専門として携わった。富士山気象レーダーは当時世界最高(高度)・世界最大であったため、同レーダーの完成後はそのノウハウを国際連合の気象学会で説明するなどの公務に明け暮れた。この時の体験を基にして書いた作品が、小説『富士山頂』である。小説の解説が、会計検査院の定期誌「会計と監査」に題材として連載された。またこの工事に関しては、NHKの『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』第1回で取り上げられた。 1966年3月31日、文筆一本に絞るため気象庁を退職したが、この決意に至るまで、果たして作家業だけで食べてゆけるのか、6年後の定年まで待つべきか、など大変懊悩したという。また、退職に際しては気象庁から繰り返し強い慰留を受けたという。 新田の小説は緻密で、小説構成表(年表のように縦軸と横軸を設定し、人物の流れを時系列に当てはめたもの)を先に作成してから執筆に取り掛かっていた。司馬遼太郎が新聞記者であった頃原稿執筆を依頼しに行ったが、依頼を受けることができない理由として勤務時間・執筆時間・病気になる可能性などをしっかりと並べて断ったと言われる。山岳小説、時代小説を問わず、現地取材を欠かすことはなかった。 映画化された『八甲田山死の彷徨』や『聖職の碑』などに見るように、新田次郎の山岳や気象、地形に関するリアルな筆致は、他の作家の追随を許さない。また、大学山岳部関係者主体で極地法を重視した日本山岳会とは一線を画し、社会人を主体とするプロのクライマーを糾合して尖鋭的登山によるヒマラヤ8000メートル峰登頂をめざした第2次RCCに賛同し、マッターホルン北壁日本人初登頂の芳野満彦をモデルにした小説『栄光の岩壁』、アイガー北壁に挑んだ2人の日本人登山家の実名小説『アイガー北壁』を書くなど登山家との交流もあり、いわゆる「山岳小説家」の代表とされる。しかし、新田自身はそう呼ばれることを大変嫌っていた。むしろ歴史小説である『武田信玄』が最も気に入っており、続編である『武田勝頼』、さらには続々編『大久保長安』を執筆するほどの入れ込みようであったが、その執筆中に亡くなった。夫人のていも、自分の健康を顧みないほどの執筆態度をかなり心配していたが、不幸にも予感が的中した事になる。またNHK大河ドラマで映像化される事を熱望していたが、生前に実現を見る事ができなかった。 彼の作品は山岳小説をはじめとする「夢と挑戦」をコンセプトにしているが、題材として、歴史上の人物や科学者や技術者、また強い意志で道を切り開いた人物を描いた人物伝・公害やリゾート開発などに伴う問題を取り上げた作品・海外での経験を生かした作品・科学者としての作品などを多彩にとった。ビーナスラインに関して『霧の子孫たち』(旧制諏訪中学の一級先輩で考古学者の藤森栄一がモデル)に反対を示したことは、自然保護運動を盛り上げさせる契機となった。 新田の急逝後には、スイス・ユングフラウ地方の自然を愛し何度も訪れていた思いを受け、アイガー、メンヒ、ユングフラウ三山を望むクライネ・シャイデック駅の裏手の丘に、墓碑(記念碑)が作られた。 諏訪市図書館の2階には、新田次郎記念室というコーナーが設けられており、取材で山に登った時の遺品や、本人や家族の著作や蔵書が常設展示されている。生前の書斎も再現されている。 また「お天気博士」として親しまれた、おじの藤原咲平記念室も併設されており、蔵書を中心に胸像・遺品・墨蹟などが常設展示されている。 ![]() 富士山頂 (小説)『富士山頂』(ふじさんちょう)は、新田次郎原作の日本の小説、およびそれを元に製作・公開された1970年の日本映画。石原裕次郎が主演、製作し劇場公開 概要富士山頂の富士山測候所に台風観測のための巨大レーダーを建設する様子を描いたもの。作者の新田は、気象庁課長として実際にそこの建設に携わっていた。小説では建設の様子だけでなく、建設に至るまでの旧・大蔵省における予算の復活折衝の様子や大手電機メーカー各社による激しい入札争い・政治家や政府高官を使った圧力など、気象庁職員だった作者の経験に基づくエピソードや、富士山の馬方や強力が合同して富士山頂までブルドーザーを使った輸送方法を開発する様子が描かれ、建設が始まってからも3700メートルを越える高所で高山病に苦しみながら働く建設会社の現場監督や労働者たちの様子や、ヘリコプターの能力を超えた危険なドーム輸送に立ち向かうヘリコプター会社の人々とパイロットなどが描かれている。 また、この小説を元に石原プロモーションが映画を製作、1970年2月に東宝系で封切られた。 映画前述の通り1970年2月に東宝系で封切られたが、製作者の一人であり主人公を演じた石原裕次郎の「映画は大スクリーンで見るもの」という意向から、本作はビデオソフト化もDVD化もされていなかった。その後、石原裕次郎23回忌法要特別番組の一環として2009年7月4日、テレビ朝日系列(ただし一部系列局除く)にて放送された。なお、本編では地上波初登場とナレーションしたが事実と異なることがHPへ謝罪文として補足された。 富士山レーダーを納入した三菱電機の全面的な協力により製作されたため、主人公が新田次郎自身をモデルとする気象庁課長葛木章一から、石原裕次郎の演じる三菱電機社員・梅原悟郎に変更されており、社名も原作では全ての会社名が架空の社名に置き換えられており、例えば三菱電機は「摂津電機」とされていたが、映画では三菱電機と実名で登場する。このほか、大成建設、三菱重工業、朝日ヘリコプターの3社は、「協力」とクレジットされた上で、映画に実名で登場している。 毎年日本列島が襲われ大きな被害を受けることから、大型台風の事前予知のための観測レーダーを富士山頂に建設する様子を映画化した作品。『黒部の太陽』、『栄光への5000キロ』と並ぶ作品とされる![]() ![]() 資材を宙づり山頂へ ヘリで輸送始める 富士山のレーダー建設 1963年(昭和38年)7月19日付
気象庁の富士山頂レーダー基地へ建設資材を空輸する作業が18日朝から始まった。世界でいちばん高い場所のレーダーとなるだけに、建築工事としても前例のない難作業。梅雨あけの天候安定を待って第一段階の資材輸送にとりかかったもので、ことしは8月末までに約350トンをヘリコプターでピストン輸送する。 この日の富士山は、中腹から上は真っ白な夏雲におおわれていたが「これでも富士山のお天気としてはいい方」というパイロットの話。 山ろくの御殿場滝ケ原特設基地から大型ヘリ1機、小型ヘリ2機がそれぞれ500キロと250キロの材木、鋼材などを機体にぶらさげてつぎつぎに飛び立つ。厚い雲の中をおよそ十分、急に雲が切れて8合目付近の赤茶けた山ハダがあらわれた。ところどころ残雪がちらちらと輝く。ハダをさすような冷たい風が吹きこんでくる。激しい気流でちっぽけなヘリががたがたゆれる。山頂剣ケ峰の測候所屋上で、待ち構えていた作業員に宙づりの荷物を引き渡して引き返す。この間わずか30分で真夏の下界から20度も違う冬のような山頂を往復するためパイロットは数往復でへとへとになるという。 そのうえ、変わりやすい山のお天気相手でスリルは倍加する。作業計画では飛行可能日数は8月末までにわずか20日間。それも午前中だけに限られる。ことしは基礎資材の輸送だけで終わる。【当時の紙面から】 (1963年7月19日付 山梨日日新聞掲載)富士山頂にレドームを(上)●●台風を迎え撃つ砦:まず、歴史的背景のお話を少々。富士山レーダー建設のきっかけは、1959年9月の台風15号(伊勢湾台風)で5000人を超す犠牲者が出たことでした。まだ気象衛星はなく、地上の観測網も貧弱で、気象レーダーの視程は最大で300Km。台風の正確な位置や針路は、上陸の数時間前まで分からなかったそうです。 レーダー波が届く範囲は、基本的には地平線より手前ですから、高い所に置くほど遠くが見えます。仮に3776mの高みに大出力のレーダーを設ければ、観測範囲は一気に800Kmまで広がります。「ぜひ富士山頂にレーダーを。台風から列島を守る砦を」というのが気象関係者の悲願でした。 伊勢湾台風から4年後、予算を獲得して建設開始。出力は国内初の2000Kwとなりました。東京スカイツリーの送信電力は、関東広域圏向け放送でも10Kwですから、いかに強力だったか分かります。電子装置とパラボラアンテナ、レドームは三菱電機、建物は大成建設が担当。完成は東京オリンピックの直前でした。YS-11が飛び始め、東海道新幹線も開業寸前という、日本経済の快進撃が始まった時代のお話です。 レーダーと工事の全容を知るため、取りあえず小説「富士山頂」(新田次郎)を読みました。新田氏(本名・藤原寛人)は当時気象庁観測部の官僚で、建設計画を中枢で進める測器課長でした。なので小説は、激しい受注合戦を演じるメーカーをどうあしらったとか、役人的な自慢話がいささか目立ちますが、工事全般にわたる技術面の創意工夫や、山頂の過酷な自然がふんだんに書き込まれ、スリリングな読み物です。新田氏自身、富士山頂の観測経験を持つだけに、暴風にめった打ちにされるレドーム内では、耳に激痛が走って一瞬気が遠くなる描写や、作業員宿舎が吹っ飛ぶシーンなどは圧巻です。このほか、ネットからも多くの情報を得ました。 ●●どんなフライトだったか: 建設工事の最大の敵は積雪で、完全に消える7~8月のうち、好天はわずか40日。予定の2年で建設を終えるには、500トンに及ぶ建設資材をいかに荷揚げするかが、勝負の分かれ目です。従来からの馬と人力では間に合わず、ブルドーザーとヘリが主役に躍り出ました。 富士山は戦前から、乱気流で知られた山。資材空輸を請け負った朝日ヘリコプター(現・朝日航洋)は、5センチ大に切った大量の紙片を繰り返し散布して、詳細な気流図を作りました。その結果「火口上空に立ち入らなければ飛行可能。ただし安全圏の境界線はシャープで、10㎝はみ出ても危険」と判定。間もなく始まった空輸作業では、安全のため風速22mを限界としましたが、これは42.7Ktに当たりますから、無事故で山頂へ輸送を続けたパイロット達に脱帽します。 秒速100mの烈風からパラボラアンテナを守る、直径9mのレドームを山頂へ運ぶのもヘリの仕事でした。「ジオデシックドーム」と呼ばれるモノコック構造の多面体で、まずアルミ合金の骨組みを運び上げ、表面に多数のFRP製三角パネルを張る仕組みです。骨組みは強度を保つため一体構造で、あまり細いと強風でつぶれますが、太過ぎると電波の透過率が落ち、重くて空輸もできなくなります。使用するシコルスキーS62のペイロードは最大600Kgと聞き、三菱電機はレドーム骨格を何とか620Kgに収めました。 ところがこれが大失敗。ペイロード600Kgは海面高度のお話で、空気の薄い富士山頂では420Kgがホバリングの限界だったのです。S62からキャビンドアや副操縦士席、消火器が取り外され、搭載燃料も30分の飛行分としました。富士宮市に仮設したヘリポートから山頂へは13分掛かりますので、設置作業のため山頂に滞空できるのは、わずか数分に限られます。 本番では、S62の神田真三機長(元海軍パイロット)は、午前7時55分に富士宮を出発。レドーム骨格を吊って富士山頂に向かい、誘導係の合図で慎重にレーダー台座へ接近しました。腹ばいになった副操縦士が乗降口から肩まで乗り出し、ドームと台座の位置関係を確認。8人の作業員が素早くドームに飛びつき、押したり引いたりして定位置へ。「離脱!」の合図で、ヘリは無事に索を切り離しました。 ●●謎の「置き逃げ」操縦法: 決行の時点でも、機体はなお80㎏重量超過しており、ホバリングを伴わずに設置作業をする、特殊な飛行方法が考案されました。新田氏は小説の中で「置き逃げ(エスケープ)」と呼んでいますが、具体的にどんな飛び方をしたのか、何度読んでも細部が目に浮かびませんでした。 小説によると、朝日ヘリコプターは富士宮ヘリポートに台座の実物大模型を作り、S62を飛ばして「置き逃げ」のリハーサルを繰り返しました。ヘリが近づいて、レドーム骨格が台座の真上に来ると、2人のベテラン作業員が取り付いて、骨格に付けた目印の赤リボンと、台座に付けた合わせマークが一致するよう、素早く位置決めをするのだそうです。 しかし幾ら低速飛行とは言え、620㎏のレドーム骨格は大きな慣性を持っています。たった2人で移動中のレドームをつかんで一瞬のうちに、果たして正確な位置合わせが出来るものでしょうか。取り付けボルト穴を合わせるため、求められる精度は1㎝未満だそうです。 本番フライトの記述では、さらに疑問が深まります。 決行の際の理想的天候は、快晴・風速5~10m。ヘリはご存じの通り、相対風を受けるとローター面の吸い込み空気量が増え、揚力が増します。これがトランスレーショナルリフトで、風に逆らってホバリングしたり前進飛行をすると発生します。S62は重量オーバーですから、ぜひ適度な風が吹いて欲しいのですが、本番では無風になってしまいました。ここで新田氏は再び「置き逃げ」の説明をします。 「建物の上端にほとんどすれすれの高さで静かに近づいていって、鳥籠(レドーム骨格のこと)の赤いリボンが、十六面円筒の上端の赤いマークの上にきたとき、鳥籠と機を切り離さねばならなかった。空中停止(ホバーリング)ではないが見かけ上は空中停止(ホバーリング)と同じであった」 …これは混乱した記述です。小説は「ホバリングは不可能だ」と繰り返し強調していますので、前段のセンテンスは、ヘリは前進飛行を続けて定位置に来た瞬間にレドームを切り落とす、と読めます。ところが後段は「見かけ上は空中停止」だと言う。しかし重量超過のうえ無風ですと「見かけ上」も何もあったものではなく、空中停止は無理。ところが1ページ後には、いよいよ目標に近づいたパイロットの心理描写として「転移揚力には自信があった」と書いています。えっ! 転移揚力ってトランスレーショナルリフトのことでしょう、無風かつ「見かけ上は空中停止」なのに、どうやったら発生するのですか? ネットを探したら、まさにこのドーム設置フライトを記録した、モノクロ映像がありました。何度見直しても、ヘリは台座の真上に少なくとも連続20秒、ほぼ静止しています。つまり瞬時に位置決めをして「逃げた」わけではなく、しばらくホバリングしています。しかし映像の別の部分では、神田機長は「山頂に着いたら無風だった」と証言していますし、バックに聞こえる無線交信の音声も、風速は「北西0.5m」としているので、確かに事実上無風だったのでしょう。となるとトランスレーショナルリフトは効きませんので、なぜホバリングが出来たのか不明。「置き逃げ」とはどんな飛び方か、謎は深まるばかりでした。 ●●レドームを作ってぶら下げる: ともかくレドームの骨組みを作って、ヘリに吊してみることにしましょう。 富士山のレドームは、前述の通りジオデシックドームと呼ばれる多面体。ジオデシックとは、幾何学で言う「測地線」(大円=大圏コースと同じ)のことで、ドーム表面のあちこちから、三角パネルの継ぎ目が直線となって数方向に、大円を描いて伸びて見えるため、こう呼ばれるのでしょう。 この方式のドームを実際に作る人のため、各部の寸法を計算してくれるサイトを見つけたのですが、私の数学の知識では、モデリングソフト(AC3D)で正確に作るのは無理なようでした。やむを得ず、実際に富士山レーダーに使われたドームより、やや面の数が少ないタイプを選び、更に一部の辺の長さを多少ごまかしています。多面体さえ作れば、骨組みはAC3Dで生成可能でしたので、最後にヘリから吊すためのステーを作って出来上がり。 これをヘリから鉛直にぶら下げるには、例えばEC135p2であれば、Models/ec135.xml ファイルを開き、ドーム骨組みのファイル名をパス指定した上で、吊り下げフックの位置座標を指定。ヘリのピッチおよびロールバンク角を、常に打ち消す方向に傾くように、アニメーションのrotateタグを使ってプログラムします。私は自分のフライト・コードラント(航空四分儀)やドリフト・ディレクター(偏流計)で使った、ジンバル機能のスクリプトを転用しましたが、本質的には、A-10の姿勢計の球体を水平に保つ記述と同じです。吊したドームが完全に鉛直では不自然なので、今回は factor を少しいじって、機体と反対方向に少し傾くようにしました。また画面表示をオンオフするため、と書きました。これでメニューにドーム表示のトグルスイッチが出ます。デフォルトでは非表示です。 あとは…レドームがまったく見えない機長席から、どうやって台座に精密な接近飛行をするかが課題です。実機ですと副操縦士や地上員が誘導してくれますが、私にはこうした支援がありませんから、ある種の照準器か何かが必要になりそうです。 ●●佐貫亦男さんの風向風速計: 次はフライトのターゲットとなる、富士山測候所の自作モデルを改良します。前回お目に掛けた画像は、勝手に吹き流しを立てるなど、かなりラフな出来でしたので、もう少し実物に近づけるべく、ネットで資料を探してあれこれ手を加えました。 一番面白かった資料は大成建設の、元工事責任者のインタビューです。これによると、100mの風に耐える建物は設計が難しく、苦し紛れに潜水艦の船体を利用したいと思ったそうですが、重くて論外。ならば飛行機の胴体はどうか。これも特許の関係で断念。最後に「新幹線を参考にしよう! 強風に耐えているし軽い」となって、実際にゼロ系の車両を作っていた工場で、アルミ合金の庁舎が建造されました。なるほどカマボコ型の屋根は新幹線的ですし、製造中の内部写真を見ると、航空機によく似たモノコック構造です。窓は小さくて数も少なく、出入り口は小さい中間室を挟んだ二重ドア。いかにも気密性が高そうで、南極基地みたいな造りです。強風でも内圧が上がらず、屋根が飛ぶ心配のない設計ですね。 …ここで唐突ながら。昔の気象庁測器課長には、新田氏以外にもう一人、面白い人がいたことを思い出しました。珠玉の航空エッセイを多数遺した、あの佐貫亦男さんです。佐貫さんは在職中、確か風向風速計を設計していたはず。ちゃんと風を受けて回るようにモデル化して、私の富士山測候所に備え付けたら、楽しいだろうなと思いました。 調べてみると記憶通り、佐貫さんの風向風速計は退職後に制式採用され、まだ多数使われているとのこと。スマートな流線型胴体に後退角付きの垂直尾翼を立てて、4枚ブレードのプロペラが回る、海上保安部の屋上などでよく見かけるアレです。子供のころ「ヒコーキみたいだ!」と眺めた記憶があります。 佐貫さんの著書によれば、垂直尾翼の断面は対称翼のNACA0012で、胴体も同じ翼型の回転体。NACAの00番台と言えば昔、Uコン曲技機のスタントリブによく使われまして、私も中学時代に設計した機体に0018や0020を使ったので懐かしく、さっそくネットで0012の画像を手に入れました(なんと便利な時代!)。 AC3Dに下絵として読み込み、リブを大小2枚作成。それぞれの頂点同士を結んで翼面を成型し、回転体にして胴体も作りました。ブレードも同じ0012をコード方向にずんぐり圧縮し、押し出して板状部品に仕上げました。風速計のブレードは断面を翼型にすると、気流が乱れた場合に測定精度が落ちるそうで、佐貫さん自身は風洞実験の結果、断面を台形にしたそうです。 この風向風速計、本当は尾翼の後端下部をえぐってカッコ良くカーブを付け、シッポには電球を仕込んで飛行機の尾灯に見立てるつもりでしたが、実現できず残念だったとか。敗戦でプロペラ設計者の道を絶たれ、せめて気象の世界に少しでも「航空」を取り込もうとの思いが伝わる、熱くて切ないお話です。 私の模型は製造メーカーのサイトにあった、1枚の写真とイラストを参考に作り、簡単なxmlスクリプトを添えて、常に風上を向いて回るようにしました。全長40㎝あまりしかないので、アプローチ中の機上からはほとんど見えず、およそ吹き流しの代用品にはなりませんが、まあ「気は心」ということで(^^;)。スクリプトの要点は次の通りです。…わが富士山測候所に設置してみると、微風ではゆっくり、強風ではいかにも懸命に、小さなプロペラが回ります。まるで命あるもののようで、自分で作ったくせに、ちょっぴり感動しました(^^;)。 準備編はここまで。続編でいよいよフライトのお話をお届けします。 富士山頂にレドームを(下)●●「空飛ぶクレーン」をテスト: レドームの骨格は出来たものの、まだ機体にその分の重量を加えていません。なにぶん620㎏(1367Lbs)もありますから、よほど機体を軽くしなければ、山頂まで上昇できそうにありません。 そこで発想を変え、もっとペイロードが大きくて、しかも操縦しやすいヘリコプターを探しました。目に付いたのがシコルスキー S-64 エアクレーンでした。巨大な草食恐竜の骨格模型が、おなかに大荷物を吊り下げて飛ぶような、アレです。多用途の大量空輸を狙った機体で、朝は乗客ポッド(スカイラウンジというバス)を吊って大都市の通勤客を運び、日中は貨物コンテナを空輸。夕方は再び乗客ポッドで帰宅客を運ぶ…という構想だったのですが、このサンダーバード2号みたいなアイディアは、あまりニーズが無くて実現しなかったそうです。 (アメリカの大都市では1960年代、大型ヘリを空港リムジンバスのように使う試みがありましたが、どれも採算が取れず失敗しました。1977年、ニューヨークのパンナムビル屋上で定期便が復活したものの、離陸直前のシコルスキーS61が金属疲労で脚を折り横転。ローターブレードが数人を殺し、ビル街に降り注いだ大量のガラス片や、4ブロック先まで飛んだブレードの断片でも死傷者が出て、事業は打ち切られました) …エアクレーンをダウンロードしてみますと、大型で適度に動きが鈍く、SASがよく効いて飛ばしやすいです。パネルは素っ気ないものの外観はよくできていて、EC135p2と同様にブレードの挙動なんか相当リアルです。非常に力持ちの機体で、ペイロードは実に2万Lbs(!)。半分の1万Lbsを積んで東京上空でテストしたところ、余裕で高度12000ftを超えました。これならレドーム空輸は問題ありません。 副操縦士席と背中合わせにクレーン(ウインチ?)操作席があり、専用ビューで積み荷の方向を見ることが出来ます。レドーム台座への接近に便利かなと思いましたが、後ろを向いての操縦は、ラジコンヘリの難関「対面ホバリング」と同じで私には到底無理。そこでイレギュラーながら、レドーム底部の中央から1.5m上に空輸専用のビューを新設しました。誰かがレドーム骨格の中に入って、誘導するような視野です。 …しかし。羽田の私設ヘリポートで、着陸帯の円形マークを目標に接近訓練を重ねたところ、エアクレーンの意外な短所が分かりました。まず、ラダー軸によるヨー・コントロールの利きが非常に悪いこと。前進飛行中は、サイクリックのロール操作で旋回するため気にならないのですが、ホバリングに入ると機首を左右に振るのが困難です。次いで機体の慣性重量が大きいため、狙った一点で思うように止まらず、精密なアプローチは難しいことが分かりました。姿勢の制御は楽ですが、位置の制御は困難。いわゆる「操縦性はいいが、運動性は悪い」飛行特性です。結局、エアクレーンの使用は断念しました。 ●●最初の試み: となると、飛ばし慣れたEC135p2が頼りです。まず機体のacファイルをいじって医療装備を外しました。デフォルトの貨物搭載量623Lbsを、この分の重さと見なしましたが、ドームを吊すと更に700Lbsくらい負荷が加わります。サーチライトなどダミーの外部装備も取り外し、両側のスライドドアを撤去。これで20㎏(約130Lbs)稼いだことにしましたが、まだとても足りません。後は燃料を減らすのみです。 となると…発進基地にしようと考えていた芦ノ湖ヘリポートは遠すぎて、とても富士山頂まで往復できそうにありません。もっと近い、例えば御殿場の富士スピードウェイにはヘリポートがあるので、一応正確な位置を調べましたが、できることなら史実通り、三菱電機が仮設ヘリポートを設けた富士宮市から発進したいものです。正確な地名は不明ながら、場所は同市北部の朝霧高原だったことが確認できたので、羽田と同じヘリパッドを高原台地の中央付近、県道沿いの一角に設置して吹き流しを立てました。給油が可能な地点のサインとして、飾りのドラム缶も並べておくことにします。 ここから9合目あたりまで2回上昇テストを行い、一応は富士山頂まで昇れる自信が湧いてきました。この機体にも、レドームの内部から周囲を見る空輸専用ビューが設けてあります。 本番への準備が整ったところで、今春以来ヘリ訓練の拠点にしている羽田から、改めて富士宮ヘリポートまでEC135p2を回航しました。前回の江の島ルートとは趣向を変え、東名沿いに厚木、御殿場、三島、富士宮市街地を経由して、朝霧高原へ向かう77nmのコースを設定。41分で翔破しました。 (余談ながら。東名上空を三島へ緩降下中、大昔にホンダVT250Fで、九州目指して同じ場所を走ったことを思い出しました。100㎞/h強の気流を切り裂いて進む、オートバイの夜旅は孤独です。右肩越しに一瞬振り返ると、夕焼けの最後の残照を背に、冷たく壮大な、影絵の富士がのしかかっていました。美しくも恐ろしい光景で、何度も振り返った覚えがあります。…ジョイスティックのハットスイッチで振り返ると、当時と同じ角度で富士が見えて、すごく懐かしい思いをしました) 広大な富士の裾野で、無線標識もないヘリポートを発見するのは大変かと思いましたが、富士宮市街地を起点に、計画通り磁気方位349度へ4分飛ぶと、案外簡単にヒットしました。地形さえ頭に入れておけば、割に見当が付けやすい場所です。あとの区間は大部分、地上目標さえ見ていれば中継点をたどることが出来ます。 富士宮ヘリポートに着いて吹き流しを確認し、県道を避けて北から進入。着陸後、かなり画面処理が重くなっていましたので、いったんパソコンを再起動。いよいよ富士山頂への空輸フライトに挑みます。 燃料はゆとりを見て約920Lbs(満タンの6割強)搭載。さらに貨物重量とパッセンジャー体重のアジャスターを使って、レドーム骨格分の1367Lbsを追加しました。あいにく天候が悪く、リアルウエザー使用は諦めて快晴を選択し、エンジンを掛けて離陸。短時間ホバリングの後、メニューでレドーム骨格を出現させ、FlightGearのローカル時刻を史実通り、午前7時55分に合わせました。さあ上昇です。 季節と天気、そして時刻と地形。いずれも実際と同じですから、私が眺めている景色は光線の具合を含めて、本番で朝日ヘリコプターの神田真三機長が目にした光景とよく似ているはずです。 …山頂に向けて直進し、途中から山体の南へ回って上昇を続け、山腹に見えてきた宝永山第1火口あたりで西向きに反転。このあたりから事前のテスト通り、左ラダー軸の利きがひどく低下しました。空気が薄いことと高負荷によるエンジン出力低下のため、テールローターのトルクも落ちているものと思われます。史実の空輸飛行では、15000ftまで上昇してから剣が峰に近づいたのですが、とてもそんな余力はありません。しかし剣が峰までの所要時間は、史実通り約13分でした。 さて特設ビューに切り替えて、微速でレーダー台座に近づきますが、揚力はギリギリいっぱいで、高度変更も前進や停止も、思うに任せません。5回のアプローチを重ねて、ようやくレドーム骨格を台座から高さ・距離ともに数㍍まで近づけましたが、現状ではこれ以上は無理と思われました。 一応画像を撮ったあと燃料残を素早く確認し、もう一度だけアプローチしようと思って、撮影用の外部視界のまま姿勢を立て直しかけたら…ああやっぱり私は、コクピット視界以外では飛べませんね…想定外の大傾斜を起こし、何かがどっかに接触して、あっという間に墜落判定。しばらくは息も出来ないほど、がっかりしました。とっさにポーズを掛けて、視界を切り替えればよかったのですが。 気を取り直して再挑戦。副操縦士を降ろして燃料も815Lbsまで減らすと、少しだけ操縦が楽になりました。が、まだまだ台座の至近距離に寄るのは困難です。2回の接近後、早くも燃料が285ポンドまで減ってしまい、限界と判断して帰投。前回よりは台座に近づいた画像が撮れたので、ひとまずレドーム設置が成功したことにしようかと、画面表示と搭載重量の両方を「空荷」状態にしました。しかし、頂上を離脱してヘリポートに機首を向け、降下を開始すると「これじゃレドームを投げ捨てて、逃げ帰るのと同じだ」という苦い思いが、どっとわき上がりました。何とかリターンマッチをしなくては。 ●●揚力と操縦性の改善: 2回の挑戦を振り返って、問題点を整理しました。 ①エンジンの出力が足りず、揚力も左向きヨーコントロールも顕著に不足。 ②レドーム下端の特設ビューを使って飛ぶと、うまく目標地点で行き足が 止まらない。幾ら機首を上げても、機体が前進し続ける傾向を感じる。 …まず①の対策として、フライトコントロールのnasファイルを調べ、手探りでヨーの操縦ゲインを増しました。テストしたところ、これで平地のホバリングは操縦性が大きく向上しました。しかし高空で左ヨー操縦の利きが悪くなるのは、明らかにパワー不足が原因ですから、単に制御則をいじっただけでは、また上空で苦労しそうです。本来はテールローターの操縦設定を詰め直さないといけないのでしょうが、揚力不足の対策もかねて、まずは少しパワーを上げたいところです。 EC135p2.xml ファイルをじっくり調べたところ、ギアボックスの項目の中に、やっとエンジン出力の記述が見つかりました デフォルトは616でしたが、実機は667軸馬力なので、遠慮なく667に変更。燃料搭載量はデフォルト、副操縦士は搭乗、レドーム骨格も搭載…という高負荷状態にして、富士宮ヘリポートでホバリング旋回テストを試みました。デフォルト出力では、左360度ヨー旋回の途中で機体が一息ついて、止まってしまう場面があり、一周するのに16~30秒も掛かったのですが、パワー増強後は16秒コンスタントに改善。試しに副操縦士を降ろして(その分の重量を減らして)、メインタンクの燃料も1/3に減らしたところ、12~14秒に短縮されました。たった8%のパワーアップですが、十分に有意な変化が見られました。 ●●特殊な照準器を考案する: ②については、ローター回転軸が水平飛行を考慮して、5度前傾していることを計算に入れていなかったのが原因です。そこでレドームの吊り下げ軸も5度傾け、併せて特設ビューのカメラ位置も修正。また特設ビューの画角と俯角を、コクピット視野とまったく同じにしました。こうすれば目標の直前で、コクピットビューのまま機体を安定ホバリングさせたあと、精密接近のため特設ビューに切り替えても何一つ違和感がなく、機体の姿勢が崩れません。 特設ビューで正しいホバリング姿勢が確認できるよう、何らかの照準器が必要だと感じ、レドームの底部に出現する、大きな8角形のわくを制作しました。レドーム骨格自体は絶えず揺れて鉛直を保ちますが、この照準器はレドームとは無関係に、機体と一体になってカメラ下1.5mの相対位置を守ります。台座に接近飛行をする時は、この照準器をスキッドのように、台座にふんわり接触させるつもりで操縦すると、ほぼピタリのはず。こんなものを付けるとリアリティーが台無しですが、副操縦士や地上誘導員の代わりですから、やむを得ないところです。例によって必要な時だけ、メニューから表示する仕掛けとしました。 これでひとまず、思いつく限りの対策は施しました。ヘリパッド上で何度も接近練習を繰り返し、燃費も測定して3回目の挑戦に備えます。 ●●「置き逃げ」の謎が解ける: そうこうするうち、ネットで意外な情報が見つかりました。NHK「プロジェクトX 挑戦者たち」のファンの方が、このレドーム空輸飛行を取り上げた放映第1話の内容を、詳しく紹介していたのです。20KB以上ある文章は基本的に、放送のナレーション文と同じ構成らしく見えます。録画から起こして関係者のスタジオインタビューの内容を付け加え、編集し直したものでしょうか。 この新資料は情報の宝庫で、まず三菱電機が仮設した「富士宮ヘリポート」は、井出という場所にあったことが判明。Google地図には今も富士宮市上井出という地名があり、私の選んだ場所のすぐ隣と分かって、悪くない選択だったなと安心しました。 謎の「置き逃げ」飛行についても、小説より詳しい説明がありました。置き逃げとは…無風の時に目標の真上で、まずホバリングに入れます。高所ですと揚力不足で機体が沈みますが、ここで「沈んだと同時に、レドームを台枠にポンと置き、直ちにロープをカットして、パワーを上げてそこから逃げ出すという方法」だそうです。そうかぁ。さすがはNHK、簡潔で明快です。新田次郎の小説「富士山頂」では、微速で飛ぶヘリが台座上を通過する瞬間、レドーム骨格を切り落とすように読めましたが、実際は機体を沈むに任せて、吊り下げたレドーム骨格をいったん台座に接触させるのですね。ならば確かに、ホバリングが可能になります。 もう一度YouTubeの動画を見ますと、機体はやはり20秒程度ホバリングして見えます。ロングに引いた構図がないため、何が起きたか分かりにくいのですが、要するに「レドームを台枠にポンと置く」操縦によって、まずレドーム下端が台座に接触。この時点ではレドーム骨格が傾いているため、下端のふちの一部しか当たっていないのですが、それでも重量620㎏の一部分を、台座が負担することになります。 これでヘリの負荷が軽くなるため、ホバリングが継続できて、この間に作業員8人が力を合わせ、正確に位置決めをしたもののようです。映像では、レドーム骨格はしばらくあちこちへ傾いたり、ちょっと浮いたり、いろんな動きをしています。 となりますと、S62はレドームを「ポンと」置いて「直ちにロープをカット」したわけではありませんから、置き逃げという呼び方には少々抵抗を感じます。新田氏も「ホバーリングではないが、見かけ上はホバーリングと同じ」などと、あいまい極まる書き方をせず、もっと端的に「吊り下げたドーム重量の一部を台座に委ねる、変則的なホバリング」とでも書いてくれれば、苦労せずに済んだのですが…。 ちなみに「置き逃げ」または英語の escape は、一般的なヘリ操縦用語ではないようで、この富士山レーダーの話題以外では、ネットで具体的用例は見つかりませんでした。 ついでに言いますと。レドーム骨格の吊り下げワイヤーを切り離すには、小説では機長が「レバーを左足で踏んだ」ことになっていますが、大変疑問に思います。ヘリは速度を落とすと、機体の風見効果が失われて直進しにくくなり、アンチトルクペダル(ラダー軸)の使用頻度が増えます。S52のメインローターは左回転ですから、特に左ペダルはトルク反動を打ち消す側にあたり、死活的に重要です。地上すれすれに浮かぶ危険な瞬間に、左ペダルから足を離すことを強要する設計は、非常に不自然です。新資料では「操縦桿にあるカットスイッチ」を操作したとありますから、恐らくこちらが正しいでしょう。 ●●最後の試み: 3回目の山頂アタックは、リアルウエザーで快晴・西の微風。素晴らしいコンディションになりました。 燃料搭載量は史実通り半時間分で、メインタンクの3分の1、サプライタンクは左右満タンの合計757Lbsとしました。今回は副操縦士も史実通り乗せます(体重分を搭載重量に加えます)。ただしデフォルトでは1人の体重が180Lbsと日本人離れしているので、正副パイロットとも121Lbsにしました。以上で機体のグロス重量は4141Lbs、レドームを足して5508Lbsです。 離陸後約12分で測候所に到着し、台座へアプローチを開始。揚力とヨーコントロールは改善してホバリングがやや楽になり、特設ビューも使いやすく、照準器の具合もよろしいです。3回トライしましたが、あとちょっとの出来映え。ガス欠が迫って反転離脱し、ドーム重量を積んだまま富士宮に帰着。停止時の燃料残は182Lbsでした。まだ台座までかなりクリアランスがあり、さらに近づけたいところです。 史実の燃料半時間分は、やはり非常に厳しい条件と分かりましたので、燃料を約4分の1増しの961Lbsにして4回目の挑戦。富士宮を離陸してから16分32秒後、最初のアプローチを開始しました。これまでよりレドーム下端が台座に寄って、多少サマになる絵が撮れました。燃料残は560Lbsもあったため、さらに2回アプローチ。3回目の接近は歩く程度の微速で、フレアを掛けてさらに減速。レドームが少し後ろへ傾き、台座へ最接近して…まさに、そっと置くような形に誘導できました。万歳っ! 理想を言えば、ここで完全静止させたいところですが、実際にドームを台座の上に置くことは(接触判定がないし、あっても吊り下げワイヤーのたるみが再現できないので)どっちみち不可能ですから、最微速のどんぴしゃりフライパスで、もう十分に「ドーム設置成功」の気分を実感。ここでポーズを掛けて静止画を撮りました。やれやれと安心して帰還準備に掛かります。レドーム骨格搭分の重量と3Dオブジェクト表示を消すと、機体は急に身軽になりました。 十分に山頂を離れ、コレクティブ・ピッチをいっぱいに絞って、真西へ降下を開始。回転計が針割れしてローターのみ増速し、オートローテーション気味に降下を続けます。ヘリポートは5nmくらいまで接近しないと見えませんが、位置は把握しており、安心して凱旋気分で降りていくことが出来ます。ふとビクトリー・ロールを打とうかと思いましたが、ここで事故っては馬鹿丸出しです。7000ftまで来たら、いきなり雲がどっさり出て雲海に近い風景に。切れ目を縫って降下を継続します。ずっと天気が保ったのは幸運でした。 離陸から27分、富士宮ヘリポートに安着。エンジンを切るとさらにシーリングが下がり、雲が裾野一面を這って、あっという間に富士の全身が隠れ、まるで芝居の幕が下りたようでした。1カ月ばかり費やした私の挑戦は高揚感とともに終わり、頭の中では中島みゆきの「ヘッドライト・テールライト」が、ひたすら鳴っておりました。 ○付記○ 富士山レーダーは35年間活躍し、気象衛星や後継レーダーに道を譲って1999年退役。翌2000年には「電気・電子技術やその関連分野における歴史的偉業」の一つに数えられ、米国電気電子学会から「IEEEマイルストーン」の認定を受けました。レーダーとドームは富士吉田市で永久保存し公開中。 長い歴史を持つ富士山測候所は、今も剣が峰にありますが、2004年から無人観測に移行しました。写真で見るレーダー台座や庁舎は、半世紀に及ぶ風雪に耐えて貫禄十分。私の模型も、壁面は風化した感じにしました。願わくば未来の日本が、さらに素晴らしい技術遺産を残せますように。 ![]() ![]()
『巨大台風から日本を守れ~富士山頂・男たちは命をかけた~』 かつて2000年から2005年までに放送された 「プロジェクトX~挑戦者たち~」の第1回目放送の再放送でした。 昭和34年の伊勢湾台風による被害の甚大さから、 広い観測範囲をもつ気象レーダーの建設が要請されました。 台風を24時間以上前に南海上で捉えるには 4000メートルの高さにレーダーを建設する必要があり、 その地点は富士山頂しかありませんでした。 当時世界最大、最高レベルの気象レーダーを建設するプロジェクトは 昭和38年にスタートしました。 山頂の空気は地上の3分の2の薄さ。 高山病の激しい頭痛と吐き気におそわれ、 現場から逃げ出そうとする作業員を必死で説得した現場監督の伊藤庄助さん。 「男は一生に一度で良いから子孫に自慢できるような仕事をするべきである」 自ら慢性の高山病にもかかわらず、みんなをリードしていった伊藤さんの 姿に心を打たれました。 他方では三菱電機が山頂での100メートルの突風に耐えられる レーダードームの開発に成功、 アルミ合金で造られた620キロの骨組みは ヘリコプターでの空輸が予定されました。 ところが富士山頂の気流は複雑で ヘリコプターで空輸できる重量の限界は450キロといわれる厳しい状況。 全ては操縦の第一人者、旧日本海軍航空隊出身の神田真三さんに 託されました。 空輸日は奇しくも8月15日、 太平洋戦争中、零戦パイロットを養成する教官として 特攻作戦で戦地に向かう教え子を見送った神田さん。 「こっちは生き残ったから目一杯のことをやらにゃいかんわけですよ」 戦争を経験された方の言葉の重さを感じました。 頂上にドームを運び終わった後、着陸したヘリから2分間姿を現さなかったという 神田さんの心中を思うと、こみ上げてくるものがありました。
観測の歴史に幕を下ろしましたが、35年間台風から日本を守る砦となりました。 レーダードームを空輸した神田真三さんは71歳まで飛び続け、 その飛行時間は現在も日本の最高記録となっているそうです。 当時のプロジェクトに関わった方々が思い出話をされる時の 表情がとても生き生きとしているのを見て、とても刺激を受けました。 そして何かを成し遂げたという喜びが強く感じられ、心の底から感動しました。 多くの無名の巨人たちによって日本は今日まで支えられてきたんですね。 TV番組「プロジェクトX」第1回目の放送で、富士山山頂にレーダードームのフレームを運び、TVの前のおっさんを感動の渦に巻き込んだのは紛れもなくこの機体である。 この機体の出生は「コレを売り出してやろう!」と思って作ったモノではなく、H-3、つまりS-61を製作するにあたり、性能評価・実験用として作られたS-61のミニチュア機である。 ところが、これが作ってみたら意外にも性能が良く、また艇体構造を有して水陸両用だったためにコレの市場があるということになり、S-62も量産されることになったのである。 とりあえず言うと、コレが市場に出たのはやっぱり時代のなせるワザといったところか。性能が良かった、というのは実は「他に比肩する性能を有する機体がなかった」が正解であり、民間の物資輸送業務においてはそのしばらく後にあっという間にベル204に席巻されてしまったところからも明白である。 実際のところ、この機体はそもそも実験機であったが故に信頼性が低く、また整備性もイマイチで無駄も多く、使い勝手は悪かったらしい。 だいいち、この機体の元となったS-54/55の信頼性が低かった。異常振動等のトラブルでかなりの機体が失われたらしい。ちなみにこのS-55はH-19の名で陸上自衛隊で使用され、これは所沢の博物館で見ることが出来るが、おそらく日本ではこの例しかないであろう落下傘によるヘリからの緊急脱出が敢行されている。 ところで、冒頭に記したプロジェクトXの回に登場の朝日のS-62も、レドーム輸送のそれ以前に実に2度のエンジンフレームアウト→不時着を経験している。 余談になるが、アクチュアルでのオートローテーションは非常に難しい。飛行場なんかでタイミングを合わせて行ってやっと安全に出来るレベルである。コレを2回も、しかも場外で安全に成功させたのは、ひとえに操縦士の神田氏の資質のなせる技としか言いようがない。 事実、この機体はこのレドーム輸送の後にはアフリカかどっかの国に転売され、そして速やかに失われてしまったというのだから、全く持って当然の結末と言えよう。 富士吉田市立富士山レーダードーム館富士吉田市立富士山レーダードーム館(ふじよしだしりつふじさんレーダードームかん、英称:Mt. Fuji Radar Dome Museum)は、山梨県富士吉田市にある富士吉田市立の科学館。富士山親水公園(リフレ富士吉田)内にある。
概要日本の気象観測に欠かせない存在であった富士山レーダーを移設し、体験学習施設として公開している。 常設展示室1階「富士山レーダーの軌跡」 2階「富士山からの気象観測」 3階「35年の役割を終えて」 沿革1964年(昭和39年)に設置された富士山レーダーは日本の台風観測の砦として利用されてきたが、1999年(平成11年)にその役割をひまわり5号に、周辺のレーダー観測を静岡県の牧之原と長野県の車山に譲り、35年の歴史に幕を下ろした。 その後、2001年(平成13年)9月に山麓の富士吉田市に移設され、2004年(平成16年)に体験学習施設として一般公開を開始した。 交通 富士山レーダードーム館 テレビが記録した日本 富士山頂レーダードウム建設 基地建設
新田次郎
富士山・観測所レーダドームの撤去 2001 日本一高い大気科学研究所」(富士山測候所を活用する会) 富士吉田 富士山頂レーダードーム館
富士山頂
気象庁 新型レーダー
新型レーダー 2方向に電波発射
気象レーダー 気象予報士試験
車山の気象レーダー
東芝 フェーズアレイレーダー
二重偏波気象レーダー 気象予報士
新型レーダーは2つの電波を発射 羽田空港レーダー
気象予報士 ドップラーレーダー
最先端気象レーダー
富士無線中継所(山頂)戦前~戦後 逓信省~郵政省~電電公社~NTT西日本 東京大空襲早期警戒(B29警戒)富士山頂臨時無線電話三菱電機株式会社( MITSUBISHI ELECTRIC) |






























































コメント
コメント一覧 (2)
あれは,小説の主人公の話で,本人は運輸大臣賞貰ったし,気象観測の第一人者として気象庁の要職を歴任し,引き留められつつ文筆活動に入った様.
新田次郎氏の小説は巧みすぎて,「剣岳」読んで,あれを実話と信じ込んでる登山家も多いそうですよ.
追 そうですその時試験電波でレーダーで写ったのが日本に接近中の大型台風の画像でした・・これを発表したため電管から大目玉となり担当官の新田次郎氏が左遷されることに・・・
prc77
が
しました
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