連合軍通信
GHQは昭和21年10月29日の覚書を発し当時の逓信省に対してそれまでの電話サービスに加え
通信サービス、施設、機器、資材ならびに人員を提供するように指令しその一環として
無線通信サービスについても人員を提供するように命じてきた
名古屋特別無線中継所
GHQの覚書により大和ビルにあった第5空軍司令部第一通信隊に所属する短波、極超短波無線送受信機の
保全サービス業務に当たった
保守業務概要は
①無線送信所 短波送信装置(2.5KW、1kW、500W)の点検・修理
②VHF・FM無線端局(AN/TRC-1)の保守 第5空軍~守山基地~小牧基地
③無線テレタイプ(RTTY)短波テレタイプ受信装置の点検・修理 守山受信所~大府受信所
④DC,AC,RFの測定器の修理更正並びに作成、通信隊用教材の作成
⑤名古屋と小牧のVHFk地局(50W)の移動局の保守 名古屋憲兵隊本部~小牧基地
⑥各務原那珂基地の短波送信機(500w)、VHF,FM基地局(50W)と車載移動機の保守
⑦CAX電話テレタイプ回線用搬送端局の保守運用
その他もろもろ
白羽(大井)、大山、青山特別無線中継所
戦後わが国に進駐した連合軍はAN/TRC-1と呼ばれるFM方式の可搬形極超短波無線機を
もち込んで主要の駐留基地を結ぶこととした
昭和23年6月に東京から札幌までに開通させ更に東京~大阪~福岡まで日本縦断回線の構築
した東海管内では既設(60MHzAM)の無線中継所に駐留軍が白羽、大山、青山に併設して
その開通後の保守を24時間にわたり中継所の職員があたり第5空軍の米兵4~5名が常駐した
同方式は70MHz~100MHz帯の周波数で送信出力は40Wで電話回線3CH多重で音声内合わせ
1CHであつた電源は115Vの交流でよかつたが商用電源が不安定の時代であつたが保守が容易であり
当時の日本の60MHzAMと比べると何十年もの開きあつたまたアンテナは八木博士の逆輸入とうべき
3素子の八木アンテナでアンテナから50Ωの同軸ケーブルをつていたが経年劣化で絶縁不良などおこした
富士特別分室
昭和26年、御殿場の米軍キャンプ富士と横浜根岸を結ぶ90MHz帯FM回線(AN/TRC-1)
3回線の保守サービスのため4名が派遣され当時は御殿場電報電話局の所属となつた
昭和28年10月には清水無線中継所富士特別分室となつたその後回線は
キャンプ富士~座間間の400MHz帯FM回線(AN/TRC-12送受信装置)4回線に変更され
職員も5名から6名となつた同分室はキャンプ富士の移管にともない昭和32年11月に廃止された
後日談
終戦を迎え思いがけないくも米軍通信隊の中枢に派遣され勤務することになり
初めてお目にかかる通信機材はそれまで見慣れた日本製とはずいぶん違っていた一言でいえば
コンパクトでスマートであり技術水準の差は明らかであつた構成部品でいえば真空管はほとんど
メタル管またがGT管であり移動無線機はミニチュア管が使われ当時の日本では無った
抵抗器がソリッド型でその抵抗値がRMAやAWS式のカラーコードが表示されとおりこの
カラーコードを覚えるのが最初であつたまた周波数変調方式に接したのも最初でそのFM理論を
米軍の取使説明書をたどって勉強した
米軍通信隊にはRCAやフィルコム等のメーカーから派遣された少数の米軍技術技師が通信隊の
技術指導にあたつて我われ派遣要員は当初は言葉の不自由さ、不慣れ、そして差別待遇など
困難もあつたが次第に機器、装置を習得しお互いの気心も知るところになり共に専門知識が
評価され信頼されるようなつた米語の会話もある程度理解できるようにらなければならず
技術用語は分かりやすかつたが一般会話は苦労したがなお公社の英会話能力検定の合格者には
語学手当てが支給された
連合軍のマイクロ回線
本社 林 義昭 |
連合軍の日本占領後の通信ネットワークがどうであったかは、文献も少なく、まして浅学非才の私が知る由もないが、マイクロ波通信50年の寄稿や資料の中にいくつか記されているので、先輩から伺った話も含めてその断片的な印象を記して見たい。
90MHz帯を用いたAN/TRC-1、及び4(4CH多重)は、戦後早くから逓信省のVHF局をも活用して、北は北海道から南は九州迄全国的に展開された。記録によると90MHzのAMによって、昭和20年初夏に開通した東京(双子)-三宅島-八丈島回線は、AN/TRCのために90MHzから60MHzに周波数変更を行ったが、これは全国すべての局で実施された。その建設工事の早さと無線機器の動作の安定性で遥かに優れており、これでは負けても仕方がないとの印象をもたれた諸先輩が多いと聞く。
昭和23年2月から連合軍(主として米軍)から、AN/TRC回線の保守を逓信省で行なうこととなった。これは、日米間の行政協定により日本側が保守を受託したもので、黎明編のVHFの記述の中にもその様子が散見される。昭和25年6月25日に発生した朝鮮動乱のためか、回線の増設と保守の強化が行われたが、次に述べる2GHz方式の展開により連合軍のAN/TRC施設は一時併用されていたが、昭和32年春頃には撤去された模様である。AN/TRCの真空管は、オクタルベースのメタルチューブで、及びGT管等色々な球種の混在であったが、ナス型のST管は使用されていなかったと言う。又、最終段は、空冷ビーム管の829B(2B29相当)であった。又、キャノンコネクターで機器が接続されており、空中線も八木アンテナと同軸給電線のために、風雨など天候の変化でも特性も変らず機械的にも丈夫であったと言う。いづれにせよ調整箇所が少ないのが特色であった。運用中は強制空冷の換気扇のうなりが室内に充満していたとの事である。
ついでて昭和28年頃からGE社製の2GHz,PTM24CHのシステムが電々のマイクロ波中継所を利用して、東京-大阪-福岡間に設置された模様である。東海の牧野豊太郎氏の「粟ケ岳の中継所」でのエピソードにも記載されている。又、双子山の写真にも巨大なパスレングスと一緒にAN/TRCが設置され、次にPTM 2GHzが併設され、そして、AN/TRCの八木アンテナがなくなっているのが年代順に並べて見ると明らかである。
我が故郷
-みちのく電電無線(昭和23~32年)-
の思い出
東北 稲葉 龍夫 |
昭和24年、逓信省が電気通信省と郵政省に分割され、そうして、昭和27年には電気通信省は日本電信電話公社となり郵政省の管轄下に入った。電気通信省の時代は極めて短いが、私は昭和25年4月に電気通信省に入省しました。ところで、私の故郷は東北(宮城県、主として仙台市)であり、社会に出るまで故郷で学び、また育ちました。それで、人一倍、みちのく東北には愛着が強く思い出も尽きません。昭和27年より31年までの間、東北管内の大森無線中継所(秋田県)、霊山(りょうぜん)無線中継所(福島県)、国見無線中継所(後に仙台統制無線中継所と名称変更、宮城県)の3中継所と仙台無線通信部に勤務しましたが、みちのく無線とは、それ以前から関係がありました。以下、東北での電電公社時代の思い出を振り返って、記述させて頂きます。
みちのく無線との関係は、昭和23年、国見無線中継所における学生実習に始まります。終戦間もない時期でもあり、中継所には満州、台湾など外地から引き揚げて来られた方も多く居られました。その中には同郷の方も居られ、今でも懐かしい友として脳裏に刻まれております。昭和24年、当時大学の3年生、東北大学永井研究室5号室(室長は佐藤利三郎先生)に所属していましたが、東北電気通信局施設部調査課(課長大森忠夫氏:元満州電電)への協力で、国見無線中継所における長距離給電線の実験に参加しております。当時の無線回線は60MHz帯、AM、6CH多重方式のものであり、無線中継所はすべて山上にあり有人中継所、中継所員の苦労は大変なものでした。その軽減のために試みられた実験でしたが、山麓の民家に設置された送信機から全長500mの給電線(平行二本線路)で山上の空中線に電力を供給しようとするもので、伝送効率50%の成果が得られました。しかしこの給電線の欠点は、平行二本線路の支持碍子の取り付け工法がデリケートで実用化上問題があり、また同軸ケーブルの出現により採用には到りませんでした。
昭和26年7月、今までの60MHz帯6CH多重AM方式(AR-6)無線に代わって、200MHz帯12CH多重PM方式(VF-12)無線が新潟-温海-秋田回線として全国に先駆けて開通しました。私は、そのとき秋田側の端局である大森無線中継所の一員でした。60MHz方式は、あとでいろいろと述べますが、全くでたらめな不安定回線で、「無線は無銭に通ず」と言われたほど無線屋の肩身は狭かったのです。200MHzになり、少しは一人前になったのか、あとで民放ラジオの音声なども乗るようにもなりました。しかし、完全に一人前になったのは、東北管内で言えば、昭和31年3月、東京-仙台-札幌の4GHz回線開通以降でしょう。温海無線中継所(所長は長井淳一郎氏)は、温海温泉近傍の山の上にあり、海抜800m、それも海面近くの標高から登るので、中継所員の勤務は大変なものでした。温海温泉にあるホテル万国屋は、中継所員ならびに出張者は、いつでも自由に入浴できたことを覚えています。私の勤務した大森無線中継所(河辺郡浜田村)は秋田市からバスで行く秋田市の近郊にあり、浜田海水浴場で知られる砂浜より、砂地を登った小高い山の上にありました。今は大森山公園となっており動物園もあるようですが、9月末になると海の水も冷たく海岸は寂れ、海から吹き上げる西風に日本海の荒波を感じさせられました。
私はその後、昭和27年4月から2年半、福島県の霊山無線中継所に勤務しました。その中継所は海抜800mの霊山山頂にありました。霊山は北畠親房の居城跡と言われ、峨々たる岩山でした。米軍の無線中継所も隣接してあり、その方の回線保守にも従事しました。米軍の無線機はANTRC-1、90MHz帯の3CH多重FM
域、そのチャネルは中継所間の連絡用チャネルでもありました。当時のリンガーは帯域内信号方式であり、中間中継所は笛を吹いて端末の交換手または保守者を呼び出すものでした。それは帯域内信号ですから笛を使用せず端末を呼び出すことも可能、米軍兵士はもっぱら口笛によっていました。真空管の時代で、米軍は無線機にすべて金属真空管を使用しておりまし公社の回線は60MHz帯、6CH多重AM方式の無線方式、それは大変なものでした。実は、昭和25年から26年にかけて私は、当時神奈川県の橋本にあった施設局調査課無線係の調査課分室で、昼夜を問わず、60MHzの送信機の製作に従事した経験があります。
当時、全国の無線中継所で使用中だった無線機は戦前の設計で、使用していた真空管は受信機に特徴的なものとしてエーコン管UN954を、その他全てがST管(硝子チューブ)であったが、どの社(国際電気、東芝、日電)製の無線機も共通的に問題だらけで、新しく作り直したものでした。送信機について新規製作の要点は、逓倍数を12逓倍から6逓倍に変更すること、超パス、チタコンVなどを使用、また筐体のシールドを改善し、スプリアス放射を減らすことでありました。霊山で勤務中は、また受信機の改造を現地でやることになりました。使用中の受信機をすっかりばらし、ストーブの煙で煤けたシャーシーをたわしで水洗い、それから抵抗、コンデンサ、真空管ソケットなど、半田付けして改造を行いました。現役の皆様には驚かれることと思います。60MHz方式が、どれほどでたらめであったかは、国見無線中継所の所でまた述べたいと思います。中継所勤務は、夏季は4日間勤務して4日間休み、冬季は6日間勤務して6日間休みというものでした。同僚のKさんの話では、かって1ヶ月勤務して1ヶ月休みということもあったそうで、新潟より通っていたとのことでした。4日間、6日間の休みをどう過ごすかが問題でした。私は仙台の自宅から通うことにしていました。通勤は、国鉄伊達駅下車、福島電鉄の電車で掛田駅下車、そこからバスで霊山村の社宅へ、勤務の際は更に米軍払い下げのスリークォータ(3/4トン)と呼んでいたダッジの中型トラックで山麓へ、そこから徒歩で山を登り、中継所へ。とても不便な所でした。米軍は、ジープを持っており、我々が徒歩で登る所をジープに乗ったまま上がって行きました。スターリンが亡くなった日、米軍が大勢登って来て、カーキ色の缶詰をお祝いの意味で大量に置いて行ってくれたこともありました。人ツ気のない山に2人ずれの妙齢の女性が現れ、泊めてくれということがありました。ここは男性ばかりでとお断りしたのでしたが、若い連中は何故追い返したのかと、呼び戻しに行き泊めてあげたことがありました。その夜、珍しい客のお泊まりで、山男それは親切なものでした。その頃は、美空ひばりの歌の数々、春日八郎のお富さん、神楽坂はん子の芸者ワルツなどの歌が流れており、当時の新製品であった真空管式のポータブルラジオで聞きながら、山の上り下りをしたものです。
比叡特別無線中継所長とマイクロ工事監督との兼務米軍からクレーム(昭和28年11月)
昭和28年6月1日付で比叡局工事監督を本社建設部長から被命。比叡特別無線中継所(略称・比特)長と兼務となったので、比特から尾根伝いにジャンパー線約100Mをマイクロ波工事現場に引き込み、磁石式の携帯電話機に接続、用事のある時は2分後には帰局出来るからと比特の係長に申し置き、新しい任務に精励した。米軍に提出すべきレポートは、回線に対してDaily、Weekly、Semimonthly、Monthlyと沢山あり、その他、飲料水の塩素滅菌・防火訓練(消防ホースを使っての放水試験)等があり、担当官が随時インスペクションに来所する。レポートは所長のサインを要するが、時々は不在中にインスペクションがあり、係長は平然と「所長不在でも報告は済ませておきました」と言う。「私はまだサインしていないが」と言うと「代わりに書体を真似てやって置きました」と涼しい顔。成る程、私の、K.Yamamotoは崩しようのない書体だと情けなく感心。ところが昭和28年秋頃、遂にインスペクターの将校からクレームあり、「おまえは何時来てもルス(留守)が多い。米軍が給料分は払っておるのにサボルとは何事だ。ミスター永田に言い付けるゾ」と言う。私は「サボっているのではない。永田通信局長にどうぞ申告して呉れ。私は1局分の給料で2局分働かされているのだ。マイクロウェーブは新技術で建設中だから必然そちらに居る事が多いが、必要があれば元局(比特)に駆け戻る手段は講じてある。Mr.永田は私の昔の上司で知っている人だ」と答えた。
やがて28年末か29年初頭に明石受信所から後輩の黒杭瀧夫君が比特所長心得に着任してくれて、私は比特の兼務を解かれて大阪無線通信部からの宿泊出張旅費にありつき、昭和29年2月15日の比叡無線中継所開局まで約1ヶ月の出張旅費で初めて他の出張職員並みに懐が潤った。
なお、私は米軍から怒鳴られて口答えしたが、後任の黒杭君は米軍から表彰されて悦々であった。
霊山米軍中継所(公社の中継所に隣接)
MAJOR COMPONENTS
- T-14(A,B,C,D,E)/TRC-1 Transmitter
- R-19/TRC-1 Receiver
- CY-29/TRC-1 Case for the antenna (2 sets)
- CY-30/TRC-1 Case for the mast and utensils (2 sets)
- CD-800 (4) Cords
- CY-17/TRC-1 Case for the T-14 (*)/TRC-1
- CY-18/TRC-1 Case for the R-19/TRC-1
- CY-67/TRC-1 Case for Crystal Units
- PE-75(*)/U
Reference files
- TM 11-2601 dec.1943
https://radionerds.com/images/7/73/TM_11-2601_AN.TRC_1%2C_3_AND_4_DEC._1951.pdf
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