第1章 マイクロ波方式の夜明け前



1.1 無線による多重電話伝送実験

 超短波電波による無線多重電話方式が米澤滋技師(後の電電公社総裁)により始めて提唱されたのは昭和10年半ばのことであった。昭和11年初頭の津軽海峡における予備実験を経て、昭和15年2月、石崎(青森側)と当別(北海道側)間61kmを結ぶ電話6チャネルの超短波多重電話回線(75MHz)が開通した。
 本方式の研究開発は昭和11年以降、米澤技師と日電田中技師との協力により進められた。昭和13年からは新進の黒川廣二技師(後の電電公社技師長)も加わり、幾多の技術的困難を乗り越え完成を見たものであるが、その間の経緯は黒川廣二博士論文集(電気通信協会)に詳しい。

超短波伝送実験記念碑
 昭和46年2月、尊敬する黒川廣二博士が現役の技師長でお亡くなりになるという悲劇が起きた。当時、私は東北通信局の施設部長であったが、副局長の千野孝さんから超短波伝送実験記念碑の建立を検討するよう命じられた。
 石崎無線中継所の跡に行ってみたが、津軽半島先端の竜飛岬に近く、訪れる人はほとんどいない僻地である。建築部長の栃本邦夫氏とも相談し、青森電話局の敷地内に建てる案でお認め頂いた。昭和46年11月6日に行われた除幕式には米澤総裁にもご臨席を得た。
 電電公社からNTTに変わって後、記念碑は電話局の敷地内から撤去されたが、碑文のパネルは武蔵野の電気通信資料館内に展示されている。
― 桑原 記 ―

第1.1図 青森電話局に設置された超短波伝送実験記念碑


黒川氏を偲ぶ
渋谷茂一氏の寄稿(第3部に全文掲載)より抜粋

在りし日の黒川廣二博士
在りし日の黒川廣二博士
 黒川廣二氏について一般に伝えられているのは「東大卒の俊才で米沢滋総裁の第一の後継者であった」ということであろう。次いで、生前を知る人たちは、それに「容姿端正、誠実温厚な貴公子」を加えるはずである。
 しかし、同氏が「最も無線を愛し、無線の未来を予見し、無線のために戦った情熱の人、無欲の人、下町の人情に厚い江戸っ子」だったと語る人は、今やごく少数になった。
 戦前戦後の逓信省~電々公社を通じて、私的に後輩をたしなめることはあっても、職場で黒川氏の叱声や不機嫌な顔に接したことはないと古老がいうし、私の実感でもある。
 黒川氏の対人姿勢は、地位(給仕、事務員、公務員、技手、技師)に関係なく常に平等で、だれの意見にも耳を傾け、権威で押さえつける事はなかった。
 逓信省出身者で、戦後復員したが戦争の惨禍を受け怪我や病気で復職できない者も少なくなかった。彼らに対する公的制度は冷淡で、一時金による雇用切捨てが横行した。
 黒川氏は、無線の古参者を通じて無線現場の末端まで雇用切捨てをせず、支援に尽くすうよう内密に指示した。本省の無線課にも該当者が数人いたが、給与賞与の差別なく自由出欠勤を許したので治療に専念でき、やがて本務に復したもの、半ば在宅勤務のまま15年生き延びて余生を全うした者もいた。それを知る人々は往時の恩情の深さを思い起こして、黒川氏の早逝に涙を絞ったのである。



1.2 VHF方式

(1)60MHzから200MHzへ
 電電公社が発足した昭和27年は、全国に施設された60MHz、AM方式のVHF回線がその前年実用化された200MHz帯のFM方式に切替えられ始めた時期である。当時作成されていたVHF回線は5,766システムkmで、そのうち60MHzの回線が4,405kmを占めていた。60MHz方式は、昭和19年以降、逐年拡充されてきたが、その後のマイクロ波方式からみると、回線の品質、安定度に問題が多く、その保守に払われた苦労はなみたいていなものでなかった。
 AM方式は、電波伝搬路の状態、送信機出力の変動、空中線系の特性の変動がそのまま通話路のレベル変動となって現われるほか、混信や外部雑音に弱い。有線による回線と同等の品質を保持するためには、保守に細心の注意が必要であった。
 機器の整備、調整の作業が多く、わずか1システムか2システム(通話路数にして6~12チャネル)のVHF回線を保守するのにも、端局では20~30名、中間中継所でも20名内外の保守員が配置され、日夜作業に追われる実情であった。当時の保守は、常時保守員が受信機のメータを監視し、受信機の検波電流が変われば、手動で出力が一定になるようコントロールする方法がとられた。
 端局では、頻繁に各チャンネルをモニターして、もし雑音や混信があれば各中継所と連絡して不良区間を切り分け、不良機を予備機と切替えて調整を行なうのであるが、これらの操作は通話中の回線を瞬断させて行なうほかなかった。
 新潟・秋田間に初めて施設された当時の新技術、FM方式は、AM方式で体験した保守の難点を解消することを目標に設計が行なわれたので、保守は格段に楽となり、安定した良質の回線が維持できるようになった。
 また、FM方式の導入は200MHz帯の周波数で行なわれたので、周波数帯域が広くとれ、収容チャンネル数は一挙に倍の12チャネルになった。
第1.2図 江古田超短波中継所
第1.2図 江古田超短波中継所

第1.3図 公社発足当時のVHF無線回線
第1.3図 公社発足当時のVHF無線回線

 一方、局当りの所要要員数を減少することができたので、保守能率は倍以上に向上された。この成果にもとづいて、60MHz回線の取替えが計画され、順次200MHz回線への切替えが行なわれた。200MHz回線は昭和30年にその最大に達している。
第1.1表 超短波通話路延距離
周波数帯システム延距離(km)電話回線延距離(km)
60MHz1,4718,969
200MHz7,82480,064

(2)VHF施設の保守
 200MHz方式の導入以来、VHF回線は品質、安定度とも向上し、電電公社発足当時、1日1回線当りの障害件数が0.12(60MHz回線)程度であったものが、200MHz方式の最盛期の30~32年度頃には1桁下った0.018件にまで低下している。
 このように安定化はしたけれども、VHFの中継所はその大半が山上僻地に置局されているため、保守要員は日々麓から山道を徒歩で登はんするか、または登山に数時間を要するような局では、交替で山の局に宿泊して保守に当らなければならなかった。当時は、山上まで車道を作って、自動車で通勤するようなことはとうてい望めず、毎日けわしい山道を登る苦労がつきまとった。
 通勤が困難であっただけでなく、社宅も僻地村落に置かざるを得なかったので、子弟の教育、傷病のおりの医療機関の不備など従事員の生活条件は恵まれず、保全部門は中継所の無駐在化を強く要望していた。
 この要求を実現するため、VHF中継所の無人化が研究され、山麓の監視所からの遠隔監視方式(昭和29年に開通した帯広―釧路回線の上厚内局にて試行)が実用化された。
 この方式は、山上局の機器が故障すると、監視所に警報が送られ、停電時には監視所に設置した予備エンジンにより電力ケーブルを用いて山上に給電する保守方法であり、監視所には3名程度の保守員が配置された。
 この回線は、今のマイクロ施設と同じように予備システムをもち、機器故障が修復するまでの間、収容回線は両端局において予備システムに切替えることができた。
 このような山上局の無駐在化のための遠隔監視制御方式は、200MHzのFM方式の実用化と併行して公社発足の頃から研究されていたが、マイクロ方式の導入後VHFルートは逐次マイクロ回線に吸収される方針が定められたので、VHF局の無駐在化工事は見合せられることとなった。
第1.2表 200MHz回線障害状況
周波数帯28年度(km)29年度30年度
1日1回線当り障害件数0.0490.0270.022
同障害時分0.48分0,43分0.30分
1件当り障害時分18分17分17分


1.3 諸外国におけるマイクロ波方式の実用化

 マイクロ波多重通信方式の最初は、電波兵器用真空管技術がそのまま役立つものとして、英国で波長6~7cmの8回線の時分割パルス変調方式の多重電話ができあがった。この技術が米国に渡って改良され、軍用あるいは公衆通信用として昭和21年にその内容が公表された。
 ベル研究所では4GHz帯96回線の時分割方式多重電話の実験を行ない、さらに同じ周波数帯で周波数変調方式により昭和22年ニューヨーク─ボストン間7中継300kmの試験回線(TD-X方式)が作られた。種々の現場試験の結果、昭和23年5月に電話480回線およびテレビジョン中継業務を開始した。
 AT&Tではこれをベースに開発したTD-2方式で昭和25年にニューヨーク─シカゴ間、昭和26年8月にはニューヨーク─サンフランシスコ間4800kmの米大陸横断マイクロ波中継回線を107局の中継で完成し、たまたま当時開催されていた対日講和会議の実況がこれによって全米国にテレビジョン中継された。
 このTD-2方式は、マイクロ波増巾管として3極板極管(モルトン管)を使用し、空中線はレンズアンテナで、また電源としては直流方式を採用しており、無線1ルート当り電話600回線または走査線525本のテレビジョン信号を伝送しうるものであった。
 英国においては昭和27年3月に4GHz帯を用いて、マンチェスタ-カークオショット間420kmを7中継で結んでBBC放送のテレビジョン中継を行ない、さらに昭和29年には北部スコットランドに同様な4回線を建設した。英国郵政省(BPO)のマイクロ波回線はSTC社の製品で、空中線はパラボラ形空中線を使用し、マイクロ波増巾管には進行波管を、局部発振にはクライストロンを使用した。
 フランスでは、昭和26年2月パリ─リール間203kmに1GHz帯2中継でテレビジョン中継回線を作り、さらにその後、同区間に別ルートで4GHz帯、4中継でテレビジョン回線ならびに市外電話回線を作成した。

レンズアンテナ
レンズアンテナ
 屈折率が1より大きい誘電体内では、電波の伝搬速度は真空(あるいは空気)中より遅くなる。図に見るように屈折率が1より大きい誘電体をレンズ状に作ると、中央部を通る電波は周辺部を通る電波より遅くなり波面が平面となる。これがレンズアンテナである。
― 桑原 記 ―



1.4 わが国におけるマイクロ波方式の開発

 日本においても日本電信電話公社(以下、電電公社)がマイクロ波方式の実用化を10大目標のひとつにかかげ、市外線の建設保守の劃期的な経済性と尨大なトラフィック消化能力を狙って実現に邁進した。
 電電公社以外でも国鉄、電力会社、放送会社、その他銀行商社においてもマイクロ波方式の利用に向けて検討が進められた。特に民間の関心は注目に価する。それは長距離電信電話回線の創設費がそれ程の大資本でなく、民間資本の及び得る範囲内で出来ることを意味するものであった。
 また、本方式の実現を促進したものは、日本におけるテレビジョン放送実施の気運であった。テレビ放送が開始された暁には、主要都市を連結するテレビ中継リンクが必要となってくると考えられたからである。
 マイクロ波方式では各種の変調方式が可能であるが、当時の日本においては次の2つの方式が開発された。

(1)PTM(パルス時分割変調)方式
 この方式はPPM(パルス位置変調)方式とも呼ばれる。
 電気通信研究所では昭和24年、箱根の双子山と調布市神代の研究所間で2.6GHz、10チャネルPTM方式の試験を行ない、その結果に基づいて昭和26年4GHz23チャネルPTM方式を試作し、東京中央電話局─横須賀(大楠山)間の50km区間において7月から12月に亘って実験を行った。本方式は次のFM広帯域中継方式への一段階としての役割を果たした。
 PTM方式は、その後日本国有鉄道において青函間で実用化された。また、電力会社も発電所と本社支社を結ぶ専用線としてPTM方式を採用した。

(2)FM(周波数変調)方式
 PTM方式により伝送しうる情報容量には限界があり、テレビジョンプログラムあるいは超多重電話の伝送にはFM方式が採用された。
 当時、同方式の特長として挙げられたのは、
長距離幹線の迅速な拡充に適する
創設費が低廉である
テレビあるいは電話の伝送が可能である
FDM(周波数分割)方式であり、ケーブル搬送方式に分岐接続が容易である
ヘテロダイン中継であるから、長距離回線においてもレベル変動や周波数特性の変動がない
高度の指向性を有する空中線を使用し、2つの周波数で上下1チャンネルの無線回線を作成しうる
 等である。また、本方式を実現する課題として挙げられたのは、
無線技術の粋を結集した諸装置の設計
回線設計を考慮した中継点を選定するための電波伝搬の測定と理論的考察
クライストロンや進行波管の製作技術と寿命、周波数安定度
搬送端局装置の実用化
 等である。

(本節までの参考文献 雑誌施設 昭和31年9月「保全特集」および同 昭和34年10月「マイクロ波方式の発展を顧みて」鈴木清高 臨時極超短波部長)


1.5 NHKの東名阪マイクロ波方式

(1) NHKのテレビ中継
 戦後、NHK技術研究所でもマイクロ波によるテレビ中継の研究が進められた。昭和25年11月には、周波数4GHz、出力0.5Wで東京-名古屋-大阪間全長464kmの中継ルートが第1.2図のように決定された。
 同時に、昭和27年7月から進行波管を使用した長距離用のテレビ中継装置の研究を開始した。使用機器の国産化を計り、それぞれ優秀な結果を得て、昭和27年10月、各中継所に設置された。越えて昭和28年1月わが国初の長距離中継回線として東京―名古屋―大阪を結ぶに到った。
 昭和28年1月中継回線の開通以来4月までは経済的な見地から東京―双子間は東京テレビ放送電波を利用し双子中継所からマイクロ波で中継していた。しかしVHFの東京テレビ放送電波を利用することはマイクロ波に比して解像度が甚だしく劣化するので5月以降は東京―双子山間もマイクロ波中継に変更し使用した。
 さらに、同年8月以降は双子中継所に全進行波管式テレビジョン中継機を使用し、各中継所導波管切換器により上下両回線用になった。

(2) NHK東名阪テレビ中継回線用中継機
 中継機の設計上問題となったのはSHF用増幅管である。当時モルトン管や2空洞クライストロンは製作が困難であり、且つ帯域特性も狭く、将来期待し得ないと見込んで、日本で最初に進行波管増幅器を使用することにした。尚設計当時進行波管を中継回線に実用に供した例はなくこの点大きな飛躍であった。
 他方アンテナ利得の増大については、経済性並びに鉄塔への取り付けを考慮し、口径4mのパラボラを設計した。この2つの考え方は、その後に海外事情が明らかになるにおよび、イギリスSTC中継機と同一傾向にあることが明らかにされた。
 中継方式についてはFM中継によるヘテロダイン中継方式を採用し、送受周波数を4000MHzと4045MHz、4045MHzと4000MHzを交互に用いた。中継機の受、送両周波数の偏位方式については種々の方式について検討されたが、結論として二重スーパーヘテロダイン方式中継機と全進行波管中継を考慮した。

第1.4図 NHK東京~名古屋~大阪テレビ中継回線
第1.4図 NHK東京~名古屋~大阪テレビ中継回線

TV中継用東名阪マイクロ回線の回想(抜粋)
― 元NHK放送技術研究所テレビ研究部 吉田 順作氏より ―

 昭和23年12月、NHKでもマイクロ波の研究を始めようという当時の溝上技研所長の発想で、極超短波研究室が新職制として発足しました。室長が原源之介・主任が鈴木桂二で、受信研究の2部から私も転属命令を受けて参加いたしました。これが私とマイクロ波との出会いでありました。戦後の混乱も収まりかけた頃で、禁止されていたTVの研究が再開されて半年ほど後と覚えています。(中略)
 長距離中継の実験としてNTT双子中継所・NHK技研間の70km送受信試験を行ったのが昭和25年秋でした。双子側アンテナには3m角の電波レンズを使い、これを試作してくれた機構係の方々にも一緒に出張してもらい実験に協力して頂いたものでした。
 TV放送の免許が下りるのも近いということで、TV研究部ができたのが昭和26年でした。そして私はTV中継研究室に移りました。TV研究部長野村達治、中継担当副部長鈴木桂二、中継研究室主任駒井又二で、私ほか若手4名が研究室員でした。TV放送開始に備えて東名阪マイクロ中継回線(自営)の企画を考え出したのがこのメンバーでした。東京-双子―牧ノ原-大山-名古屋-霊山-生駒という中継局置局構想ができたのはこの年度中で、確認のための伝播試験を始めていたと覚えています。
(寄稿文全文は第3部エピソード編に収録)


(3) 送信端局
 送信端局の構成は第1.3図に示す如くである。クライストロンのリペラー電圧に映像信号を重畳して直接変調し、その出力を進行波管2段増幅して出力3Wを得るようにした。尚この場合、映像信号による周波数変調は同期信号の頭の周波数を一定におさめるように工夫し、マイクロ波出力の1部をAFC用副導波管に取り出して定在波型周波数弁別器に加え、その途中にTR管を利用したスイッチ回路を挿入し、これに外部より同期パルスの瞬間だけ弁別器の方にマイクロ波信号を通すようにした。

第1.5図 送信端局の構成
第1.5図 送信端局の構成

NHK東名阪マイクロ回線の思い出(抜粋)
― 元NHK施設局送信設備部テレビ係 金田 實氏より ―

 GHQにより禁止されていたテレビ研究が解禁になるや、NHKはテレビの実用化に向けて急速に動き出した。テレビ技術要員養成のため急遽全国から砧のNHK放送技術研究所に集められ、浜松放送局に勤務していた私にもお呼びがかかった。(中略)
 最初の仕事は東芝小向工場で製作されていた、通り中継装置の調整。当時、東芝はマツダ研究所を中心に澤崎さん、蠣崎さんなどがNHKとプロジェクトを組み、名阪マイクロ回線の建設に全面的に協力しており、送信装置には3W進行波管を用いるなど大きな成果を上げていた。
 私は葉山にあったNHKの寮から毎日東芝の小向工場に通勤した。調整も終わりホッとしていたとき突如、青天の霹靂とも言うべき大難題が起こった。マイクロ回線のルート確認のための伝搬試験を実施していたグループから「大山-霊山間のルートは、途中の山が障害となり通らない」との報告があがったのだ。対策として名古屋を、通り中継所として、大山-名古屋-霊山という迂回路を造ることになったが、このため通り中継機用の受信装置が1式不足し、何とこれを約1ヶ月で製作せよとの厳命が若輩の私に降った。
(寄稿文全文は第3部エピソード編に収録)


(4) 通り中継機
 通り中継機は二重スーパーヘテロダインである。この方法は第1,第3混合用の局部発信器をクライストロン1本で共用でき、第2局部発信器周波数を第1,第2中間周波数の差周波数とし、且つ水晶制御にすれば、第1局部発信器の周波数変動が送信周波数の変動にならない利点がある。
 このため周波数の選定は次のようにした。

 入力周波数     4000MHz
 第1、3局発周波数 3930MHz
 第1中間周波数     70MHz
 第2局発周波数     45MHz
 第2中間周波数    115MHz
 出力周波数     4045MHz

 又SHF増幅器としては進行波管3段増幅器を使用し、出力3Wを得た。尚、通り中継機の理想型式は全進行波管式テレビジョン中継機と考えて、別に東芝との間に共同研究をすすめていた中継機が昭和28年6月に完成していたので、8月の上下回線に変更する際、双子中継所に設置し実用化を計った。
 全進行波管式中継機は進行波管7本を使用し、初段に低雑音型を、終段に出力管を使用している。尚、途中の周波数変換器には鉱石混合器を使用し、AGC方式には機械的に抵抗減衰器を動かす方法を使用した。総合ノイズフィギアは13dB、周波数特性は20MHzの帯域にわたって利得変化2dB以内、送信出力3Wである。

第1.6図 マイクロテレビ中継装置-1 第1.6図 マイクロテレビ中継装置-2
第1.6図 マイクロテレビ中継装置

霊山中継所の思い出(抜粋)
― 元 NHK施設局送信設備部テレビ係 宮城 崇氏より ―

 関西本線の新堂駅で下車すると、真東の方角に霊山が大きく見える。鈴鹿山脈の一角、標高766mの山頂に、東名阪回線の霊山中継所(名古屋と生駒を結ぶ中継所)が昭和27年の秋建設されることになり、要員の1人に加えて頂きました。人里離れた生活環境の中で、諸先輩や関係者の皆さんに支えていただき、与えられた役割に専念できた青春の一時でした。
(中略)
 中継所は約20坪の木造の平屋が機械室と宿直室兼休憩室、別棟が発電機小屋である。機械室にはテレビ中継装置がラック2つとVHFの局間連絡無線機がラック1つ、発電機小屋には小型のディーゼルエンジン発電機(単気筒の手動起動式)現用・予備各1台、屋外には、名古屋向けと生駒向けそれぞれ直径4mのパラボラアンテナが各1基とドラム缶を利用したディーゼルエンジンの冷却水タンクが据え付けられた。
(中略)
 中継所に配属されて、ご指導頂きながら受信装置の調整を始めました。マジックT、クライストロン局部発振器、中間周波増幅器を1段ずつ調整する。やっとできたと思うと利得不足でやり直し、各段間の回り込みを減らす工夫をして、又やり直す。真空管を一斉に交換して帯域特性の変化を確認したり、最初の1台の受信装置を調整するのに1ヵ月以上もかかったことが思い出されます。
(寄稿文全文は第3部エピソード編に収録)


第1.7図 双子中継所
第1.7図 双子中継所

(5) 送受信用パラボラアンテナ
 アンテナはパラボラアンテナであり、励振用ホーン用の導波管開口はポリフォームを糊付けして防水装置にしてある。利得は約40dB以上で、半値幅は水平1.34度、垂直1.44度である。

(6) テレビジョン中継の問題意識
 昭和28年の時点で、わが国のテレビジョン中継技術は大体諸外国の水準にまで立ち到ったので、その後は更に全進行波管中継機の簡易化、中継機操作の無人化に一層の努力を払う必要性が認識された。
 またFM中継の場合には多段に中継するほど雑音電力が累加され、最終端局のS/Nが距離と共に著しく低下するから、これを避けるためにPCM,デルタ変調によるテレビジョン中継方式が望ましく、更にテレビジョン中継方式に「情報理論」を応用し、撮像管に可変速度走査を使用して帯域幅を低減する方式などがその後の研究課題とされた。
 テレビジョンの中継はテレビジョンプログラムを豊富に提供出来る点や、プログラムの経済面からもテレビジョン放送実施上主要な問題である。わが国技術の粋により諸問題が解決され、全国主要都市がテレビの恩恵に浴し、国際間中継の開始されることを期待している。

全進行波管式テレビジョン中継装置(抜粋)
― 元NHK放送技術研究所テレビ研究部 桑田 徳治氏より ―

 NHK東名阪テレビジョン中継回線の中継装置として、反射型クライストロンをマイクロ波の発振、変調に、電力増幅器に進行波管を使用したことは、当時としては、諸外国の例をみても最も進んだものであった。
 通り中継装置としては、中間周波増幅器を使用した二重スーパーヘテロダイン方式を採用したが、進行波管の多段増幅器の安定性が確かめられ、広帯域特性と相まって進行波管の有用性が注目された。特に低雑音進行波管が開発されて、通り中継装置としては、ヘテロダイン方式でなく、全進行波管式が最も適当と考えられるに到った。
 昭和27年6月以降、NHK技術研究所と東芝マツダ研究所との間で共同研究を開始し、翌28年4月に試作装置が完成した。室内試験を経て、NHK東名阪テレビジョン中継回線の上下運用開始にあわせて同年8月箱根双子中継所に装置し、東名阪テレビジョン中継が日本電信電話公杜回線に移行された昭和29年5月10日まで運用され予期通りの成果を得た。
(中略)
 成果の一つとして進行波管増幅器の広帯域特性を利用し、一度入力信号を増幅した後、周波数帯を移行し同一進行波増幅器に加えてレフレックス形の増幅を行う方法で、同じ増幅利得をとるのに直接増幅器に比較して進行波管の数を数分の1にすることができる。この方法により、3本の進行波管を用いて4GHz帯の総合利得100dB以上、周波数帯域幅20MHz、雑音指数15dB以下のテレビジョン中継機が試作され、昭和29年6月にNHK技術研究所で公開実験された。
(寄稿文全文はエピソード編に収録)


本節はテレビジョン学会月報1953年8月
「マイクロ波によるテレビジョン中継」
鈴木桂二、沢村吉克 より抜粋・編集


1.6 国鉄におけるマイクロ波方式

 鉄道における通信は、明治5年10月14日の新橋-横浜間に鉄道が開通した時から始まる。明治、大正、昭和、平成の時代を通じて鉄道の発展に合わせ顧客サービスの向上、業務の能率化、鉄道の近代化に大きく貢献してきた。鉄道通信の最初は,3条の裸線で単信電信機による通信により閉塞を行ったのが始まりである。
 鉄道通信は鉄道輸送の安全のための閉塞と輸送の情報伝送を行う。この通信網の整備を鉄道沿線に敷設する必要があり、線的な通信網が必要であった。事故時の迅速な回線構成,経費の節減が可能であることなどから自営網を持つこととなった。

(1) 国鉄の無線設備
 国鉄無線設備は大正9年に津軽海峡連絡通信の目的で青森―函館間に500W瞬滅火花式無線電信を設備したのが始めである。装置は瞬滅火花式送信方式で出力500W、高さ30mの木柱にT型空中線を使用、受信装置は鉱石検波器と真空管検波器を持ち、当時の鉄道電報疎通に大きく貢献した。昭和22年に至りUHF多重無線通信装置が開発され、さらに昭和27年10月にSHF多重無線通信装置が使用開始になり、中短波による海峡無線はその役目を終えた。

昭和30年代初期の電波事情
― 元新幹線総局次長 当時電気局通信課補佐 石原 嘉夫氏より ―

 当時、電電公社もマイクロ波中継網の建設期に当たっており、国鉄業務専用回線への全国的規模での電波の割り当ては電波行政の立場から容易ならぬ問題であった。これに加えて、読売新聞社の正力マイクロという爆弾的計画などが飛び出し、混迷を極めた。この時期にあって郵政省、電電公社に国鉄通信を理解していただくため、電波監理局濱田成徳局長、電信電話公社梶井総裁、黒川廣二氏などに対し国鉄十河総裁、通信関係者が友好裡に面談を行い、国鉄への理解が得られ、7500MHz帯の4波の認可が得られた。
第1.8図 無線通信所位置図
第1.8図 無線通信所位置図


(2)マイクロ波通信の実用化
昭和25年の国鉄の機構改革による鉄道管理局の増設により、本土・北海道間に安定な長距離通信回線の増加が要求され、有線による海底ケーブルの布設という方法もあるが建設には8億円近くの予算が必要とされ、無線による多重化が注目されることとなった。
 初期の極超短波多重無線の技術としては,送信管としてのクライストロンや進行波管が未だ研究段階であり、マグネトロンは発信周波数の安定度がよく、出力も大きいので最も有望であった。通信機メーカーでは第2次世界大戦中に海軍で使用していた電探用マグネトロンの製作技術を温存していて、通信管としてのマグネトロンを開発し、PTM-AM多重無線通信装置の試作に成功していた。
 昭和26年5月、蟹田―函館山間77km海上伝播試験を行い、1か月間の実測によりフェージングマージンも実用に耐え得るとの見通しもついて、同年秋から着工した。置局の選定には既設UHF用無線局は3局であったが、冬季の保守上問題の解消と通話路の増大を考慮して青森、蟹田、函館山、桔梗の4局に決まった。
 当時導波管の長さが4000MHz帯で15m以上になるとLong Line Effectで通信不能になる現象が重要視され、長さは極力短くすることが第1と考えられた。また青森―蟹田間の見通しは海面すれすれなので、フレンネルゾーンを支障させないため、青森には6階建て、蟹田には5階建ての細長い塔状の局舎を建て、その屋上にパラボラアンテナを設置、最上階を無線送受信機室として導波管を極力短くするよう配置された。
第1.9図 蟹田中継所
第1.9図 蟹田中継所
6階建ての塔の屋上にパラボラアンテを設置した局舎は全国的にも珍しく、当時、高層建築物の少ない青森市内では目立つ存在であった。
 昭和26年度末の無線送受信機据付,現地調整、引き続きPTM端局を含めた総合試験の結果は予想以上の好成績を収め、最も懸念された長距離海上伝播によるフェージングにも十分耐えることが実証されたので、27年10月わが国最初の4000MHz帯通信回線が実用化された。伝送品質もS/N50dB前後を確保でき、従来国鉄で使用されていた裸線搬送回線に比して数段改善され、青森―函館間の連絡通信を確保できたので国鉄通信網構成上画期的な役割を果たした。


青函マイクロ波の建設から保全に携わって
― 元国鉄電気局調査役 赤川 馨氏より ―
 昭和27年当時は停電が多く、3エンジンが実用化されていないので、ガソリン発動機と発電機からなる2エンジンの停電時電源を使用していた。停電してから自動起動する電源であり、停電即しばらく通信不能になった。
 函館山に30メートルのハイトパターン測定用鉄塔を建て昇降式電界強度測定機を取り付けて、フェージング時および定時に電界強度の高さによる変化を測定した。また端局装置も無線機も全て真空管を使用しておりその真空管の性能の試験を月一度行うなどの保全が欠かせなかった。
 これらの苦労はその後の無停電電源装置の開発に結びつき、また電界強度の高さによる変化のデータはダイバーシティ受信の方式に役立った。


第1.3表 無線送受信機装置概要
項 目内    容(km)記 事
送信周波数3950MHz青森、函館山
4100MHz蟹田、桔梗
出力60W(平均値6W) 
変調方式PTM-AM 
送信管マグネトロン M-750 
受信局発管クライストロンJP-703 
導波管短形58x29mm 
空中線銅製2m パラボラ送受共用

マイクロ波建設への情熱
― 元国鉄 鉄道技術研究所無線研究室長 丸浜 徹郎氏より ―

 昭和27年、大阪-姫時間のケーブルの電蝕による取替需要として6000MHz帯のマイクロ波中継の採用が検討されることとなった。大阪-姫路間は直接見通しが利かない。当時、見通しがない2点間を結ぶ方法として、中間中継所を設置しないで金属反射板等を用いて電波の方向を変化させることにより目的を達成する、所謂「無き電中継」の研究を手がけておられた東京工業大学の森田清教授にご指導をお願いした。この指導のもとで六甲山―姫時間の伝播試験を実施した。無き電中継用の反射板は、姫路の西方4Kmにあって六甲山および姫路の両方から見透しのある苫編山という小山に設けられ,その面積は25平方メートルの大きさであった。
この試験結果から反射板の利得、指向性、鏡面精度などの数値が回線設計の中でパラメータとして定量的に計算できるようになり、その後の幹線系SHF網への足がかりを作った。


 前述したように導波管製作技術は未熟であったので、定在波比をよくするため、接続部はチョークフランジを使用してインピーダンス不整合度を軽減するように配慮した。パラボラアンテナも、銅板を鈍しながら手作業で叩き出し、2枚張り合わせて放物面を作った。
 これらの機器の保守検査には、予備機がないため土・日曜日のトラフィックの閑散時に回線を停止して行われた。本装置により完全に青函間の回線が確保されたかに思えたが、技術進歩の速い情勢変化により、昭和35年幹線系マイクロ波網に吸収されることになった。

(2) 全国SHF網へ
 国鉄通信の長距離回線は、SHF回線がその中核となりルート予備方式の7500MHz帯により全国の各支社/鉄道管理局を結んでいた。幹線系のSHFは昭和33年から順次工事が進められ、国鉄のSHF回線網が誕生した。
 その特徴としては次の各点が挙げられる。

無線ルートは予備ルート方式を採用し、信頼度を向上した。
反射板を有効に使用し,無線局はできるだけ主要駅の近くに置き、保守を容易にする。
置局の選定は出来るだけ経済的な回線を構成するよう、可能な限り長大スパンとする。
中長距離回線は中間のヘテロダイン局でリーク中継方式を採用、分岐挿入することにより出来るだけビデオ局を少なくして、長距離回線のS/N劣化を救済する。
電源装置はスリーエンジン方式の無停電電源装置を使用した。

 昭和34年の東京―大阪間、東京-仙台間の開通に引き続いて姫路-門司間、仙台-青森間…全国の工事が進められ、北海道から九州まで本土を縦貫したSHF回線網が昭和35年9月1日に完成した。また同年12月にはクロスバー交換機の導入により全国即時通話が可能となり、全国27鉄道管理局中23局が即時通話可能となった。
 第1.10図に昭和44年当時の全国SHF網を示す。

第1.10図 昭和44年当時 国鉄のマイクロ波ルート図
第1.10図 昭和44年当時 国鉄のマイクロ波ルート図

本節は、元国鉄電気局長 吉田一哉氏が鉄道通信発達史(社団法人鉄道通信協会―現鉄道電気技術協会刊)より抜粋し編集した。


1.7 東京電力におけるマイクロ波無線の導入

 東京電力が発足した昭和26年頃、水力発電所と給電指令所などの連絡用電話には、主として電力線搬送を用いていた。
 昭和20年代終わり頃、電力需要の増大に伴う発電所などの新設に合わせ、電力用通信回線の増強が必要になったが、従来の電力線搬送では周波数割当が困難となり、回線の増加に対応しきれなくなってきた。
このため東京電力では、昭和30年にマイクロ波無線を本店(東京)-赤城(群馬赤城山)-金井発電所(群馬)間にはじめて導入した。
以降、発電所や主要変電所などの電気所、本店・支店などの事業所を結び、各種情報を迅速・確実に伝送する信頼度の高い通信手段として、電力用通信の主役となっている。

(1) マイクロ波無線導入
 昭和27年頃に水力発電所の建設を進めていた奥利根の電源地帯と本店間の連絡用回線として、本店-赤城-金井間にマイクロ波無線を施設することを計画した。
本店から金井は直接見通しが得られないため、赤城山山頂に中継所を設置することとした。当時、マイクロ波無線については2GHz帯で局間スパンは50km程度が常識と考えられており、本店-赤城間110kmのロングスパンの陸上伝搬は国内外でも例がなく、実証試験を行う必要があった。
第1.11図 赤城山中継所マイクロ波無線鉄塔
第1.11図 赤城山中継所
マイクロ波無線鉄塔
 昭和28年10月から約1ヵ月間、東京大学生産技術研究所と郵政省電波監理局の指導のもとで2GHz、7GHz帯について長距離伝搬試験を行った。試験時は東京本店屋上が使用できなかったため、試験区間を日吉-赤城間(120km)に選定した。結果、フェージングの影響、スペース・ダイバシティの効果など有用なデータを得るとともに、実用化への見通しもついた。試験結果を踏まえて、周波数帯については、パラボラアンテナ口径を小さくでき、鉄塔強度が抑えられる7GHz帯を選定し、本店-赤城間についてはスペース・ダイバシティの採用により110kmを無中継の計画とした。
 昭和30年1月に東京本店社屋の完成に合わせ、本店-赤城-金井間にマイクロ波無線回線を新設した。

(2) 初期導入以降の展開
 マイクロ波無線回線は昭和30年の導入以降、電力系統の拡大と共に、電話回線の他、テレメータ、保護制御などへの活用がなされ通信量が増大したことから、順次、発電所および各事業所に導入していった。この間、変調方式は23ch、PTM-AM方式から60ch、SSB-FM方式へと移り、また12GHz帯についても伝搬試験が行われ、昭和36年に実運用した。さらに高周波トランジスタなどの採用により、装置の小型化・大容量化を図った。
 昭和43年には、マイクロ波無線を利用した電力系統保護リレーシステムを導入し、信頼度向上のためマイクロ波無線回線の2ルート化を進め、電力用通信におけるマイクロ波無線の重要性はますます高まった。
 昭和54年7月には、それまで利用していた400MHz帯などの固定無線の周波数帯が逼迫してきたことから、2GHz帯を利用したPCM方式小容量無線を開発した。最初の導入は本店-大井火力発電所間、本店-新東京火力発電所間に適用し、主として保安電話、制御情報やテレメータなどに使用した。
第1.12図 昭和40年頃の東電マイクロ波系統図
第1.12図
昭和40年頃の東電マイクロ波系統図
 その後、さらなる信頼性の向上とコスト低減のため、昭和60年に6.5GHz帯ディジタル無線機を導入した。
現在では、雷雲の位置を正確に捉える雷レーダー観測システム(5GHz帯)、機動的情報収集や連絡回線の確保のため車載型衛星移動局(14GHz帯)の利用など、マイクロ波無線を広く活用している。
 電気事業は、電力の安定供給のために、お客さまごとの電力の使用状況を的確に把握し、時々刻々と変化する電力需要に対応すると同時に、巨大かつ複雑化する電力系統の中で、確実な電力設備の保護・制御運転・保守・管理を実施する必要がある。
 このため、電力系統の保護用回線や電力設備の監視・制御回線などの高信頼度が要求される重要回線には、光ファイバ等の有線通信より耐災害性に優れていること、送電線や電柱等の電力設備との同時災害を防げることから、マイクロ波無線の利用が不可欠となっている。

参考文献
最近の電力用通信(1)、(15)~(19)、OHM、西山正五郎、舟山清親、大石宏、昭和30年3月、昭和31年5月~9月
東京電力・東京-金井間マイクロ波通信回線、OHM、西山正五郎、舟山清親、大石宏、功力悌三、昭和30年4月
最近の電力用通信、電気評論、高橋瑛、昭和47年3月
無線LANの技術動向と展望について、ARIB機関紙 No.33、板橋敏雄、平成15年4月

本節は元東京電力通信部長、加藤利雄氏の紹介により、築山宗之常務、並びに電子通信部通信業務グループ石田晴彦氏から寄せられた資料により編集した。


1.8 東北電力におけるマイクロ波方式の導入

(1) 仙台~会津マイクロ波回線
 電力用として初めて導入された東北電力仙台~会津若松間のマイクロ波回線(4中継5区間、亘長143km)は、
第1.13図 仙台本店端末局(昭和28年)
第1.13図
仙台本店端末局(昭和28年)
第1.14図 霊山中継所(昭和30年代)
第1.14図
霊山中継所(昭和30年代)
昭和27年7月に着工し、昭和28年3月に実用運転を開始した。只見川水系の電源開発に伴う給電指令や工事連絡用として通信回線の増強が求められたもので、当時の架空通信線の脆弱性や電力線搬送の周波数不足の対策としてマイクロ波方式の導入に至ったものである。
 使用した無線機は、米国ITT社の開発した無線方式を逸早く国産化した日本電気㈱が製造した。無線周波数は2000MHz帯、23通話路のPTM方式である。発振器には3極板極管(2C43)を採用した。4個所の中継所の内、3個所(霊山、五万堂、羽山)は積雪地に建設された山頂無人中継所で、次の工夫により運用に万全を期した。

無線送受信装置には全て予備機を備え、故障時に自動切換えとした。
電話のダイヤルインパルス信号を利用した遠隔監視制御装置を備え、両端末局(仙台、会津若松)で日常運転状況、事故状況を監視制御した。
電源は、2ルートの配電線と、ディーゼルエンジン発電装置の3段階自動切換え方式とした。
温湿度自動調整装置(エアコン)を設置した。

 ただし当初は無線機や電源装置の故障、真空管の点検などで頻繁に人が入所し、道路のない山頂無人中継所は有人中継所の様な状況であったとの記述も残っている。

マイクロ波無線導入記念行事に携わって
― 元東北電力工務部調査役
現東北電力通信親睦会会長 山内 博氏より ―

 只見川水系の電源開発の槌音高らかに鳴り響いている昭和26年、東北電力会津通信所に勤務していた当時は、本店(仙台)と会津間の通信手段としては通信線搬送による6チャンネルしかなかった。
 昭和27年「東北電力電源開発5ヵ年計画」が樹てられ、この一環として「通信網5ヵ年計画」の実施も決まり、当時の山内俶給電部長から、東北電力管内をトールダイヤル化し全管内どこでも3分以内に電話が通じるよう、「オール東北スリーミニッツ」の大号令が下された。
その第一弾として、昭和28年3月7日仙台~会津間マイクロ波無線回線(23ch)が運用開始し、電源開発と給電連絡等の業務の円滑かつ迅速化に寄与することが出来,私も会津側で運用保守に携わることが出来た。
 昭和39年本店工務部へ異動となり、本店在任中仙台~会津マイクロ運開25周年(昭和53年)と30周年(昭和58年)の夫々の記念行事に係る機会を得たが、特に思い出に残るのは、30周年記念行事の際、講演に来仙されたNEC会長小林宏治氏(故人)から、東北電力へ2000MHzマイクロ波無線の1号機を納入するに至った経緯の中で「仙台~会津間マイクロは2000MHz帯を使用し、遠方監視制御による山頂無人中継局による、わが国最初の実用施設であったということを忘れてはいけないだろうと思っております」との御忠言を頂いたことである。
 今年(平成15年)仙台~会津マイクロが運開50周年を迎えるに当たり、縁あって「マイクロ波無線記念碑」建立に係ることになり、東北電力と電力通信OBが協力して、昭和28年当時最初にマイクロ波無線鉄塔が施設された電力ビル敷地(仙台)に記念碑を設置すると共に記念誌を刊行することが出来た。
 現今、情報通信業務に携わる現役後輩から、記念碑の建立が東北電力の通信技術者としての誇りと新技術への飽くなき挑戦への励みとして受け止めているとの言葉を貰い、一連の行事に携わってきた関係者の一人として、将来に心強さを感じている。


(2) 集中的マイクロ波回線の建設と反射板の導入
マイクロ波回線の建設は建設所体制を敷いて次々と行われ、2GHz帯PTM方式により昭和28年12月に仙台~盛岡間(3中継4区間)、昭和29年2月に仙台~東京(6中継7区間)、昭和29年12月には盛岡~青森間(5中継6区間)を開設し、仙台本店から東京、青森へと東日本を縦断する基幹系統が完成した。
 一方で、山頂中継所は障害復旧と定期保守の苦労が多いことから、高山には金属反射板のみを設置し、中継用無線機を平地の事業所に設置する事業所中継方式を指向し、東京工業大学の森田・関口教授にマイクロ波反射板の研究を委託した。
 2GHzでは大きさの問題から実用は困難とされたが、昭和29年12月に会津~本名・只見間7GHzPTMマイクロ波方式で反射 板を初めて実用化した。山岳地帯の多い東北地域における経済的な中継方式として、その後各地で採用することになった。
 昭和31年8月には会津~山郷間に7GHzFDM方式(クライストロン使用、反射板中継)を導入し、これ以降は、PTM方式に代わって、回線容量や安定度、保守性などに優れたFDM方式を採用することとした。そして、昭和33年8月には東北6県と新潟県の各県庁所在地を結ぶ東北電力マイクロ波通信網の骨組みが完成した。
 仙台~会津マイクロに始まった東北電力のマイクロ波無線通信は、経路のループ化、装置の固体化、無線のディジタル化などを経て、今日もなお雷害時の電力系統保護用など電力用保安通信の中核システムとして活躍している。

第1.15図 東北電力マイクロ波回線系統図(昭和33年8月)
第1.15図 東北電力マイクロ波回線系統図(昭和33年8月)

樹氷に悩まされた反射板
― 元東北電力通信課勤務 現帝京平成大学長 竹下 信也氏より ―

 昭和31年、本店~山形支店~秋田支店間の7GHz帯マイクロ波回線の新設に際し、本店~山形支店間の見通しの関係から、樹氷の名所である蔵王連峰の北端に近い海抜1337mのカケスガ峯に、面積48㎡(6m×8m)の反射板2基を設置しなければならないことになった。   
 当然、反射板への樹氷の付着が予想され、着氷防止の検討を開始した。ジュラルミン製の試験用反射板面に、当時開発されたばかりのテフロン系塗料やメラミン樹脂などを塗布し、付着防止効果を調査した。しかし、期待された効果は得られなかった。
 一方、着氷による反射板特性への影響について北海道大学に研究を依頼した。樹氷の代わりに雪を利用して、実験的に研究した結果、約30cmの着雪では20dB以上の減衰を生ずると報告された。
 このような状態では問題解決を先送りせざるを得ず、送信出力5Wの進行波管増幅器を取り付けるなど事前の信頼度向上策をとって、実用回線を構成し、運用結果で対策を検討することにした。
 回線開通後、初冬の樹氷発生シーズンを迎えた。予想にたがわず、北西風をまともに受ける山形側に海老の尻尾が集合した形で樹氷が付着し、付着厚さが最大で30cm程度になると、40dB以上の減衰が発生し回線が途絶した。
 再三、山形通信所員に登山して除氷してもらうことになるが、その出張報告や写真などを見ると、樹氷の反射板への付着力は弱く、除氷のために板面に垂らしたままにしたロープ付近には、樹氷がこすられて脱落した痕があった。
 あっ!これだと思った。ロープを板面にたらせば、遮蔽影響により反射能率を低下させる。しかし、ナイロンのような絶縁体であれば、「縄のれん」のように、1m間隔で8本下げたとしても、計算結果では低下量が1~2dBであることが判明した。
 樹氷は強風の下で付着するので、ロープが強風に板面を摺り動けば着氷を妨げ、また付着した樹氷をこすり落とすに違いないと確信し、対策が実現した。「縄のれん」を下げて以後、予想通りの効果が得られ、着氷による回線途絶は殆ど発生しなくなった。
 水分を殆ど含まない氷で、
樹氷に覆われたカケスガ峯反射板
樹氷に覆われたカケスガ峯反射板
大きなマイクロ波の減衰が生ずるのは、何故か?
 持ち前の好奇心が頭を持ち上げた。結論として、氷の中を通過した電波は板面で反射され、再び氷を通過して大気中に出るので、氷を通過する長さに応じ位相差が生じ、これらの相互干渉により減衰することを突き止めた。このメカニズムを東北大学の虫明教授からのご指導を受け、論文にまとめることが出来た。


本節は東北電力㈱情報通信部情報通信監理グループの小鹿哲氏が下記資料より抜粋し、編集した。

① 「仙台―会津間極超短波無線電話施設について」
電気学会雑誌、木村幸雄、植田瑞穗、昭和28年7月
②「東北電力マイクロ波無線通信50周年記念誌」
東北電力㈱情報通信部、平成15年5月



VHFの歌 マイクロ波無線通信


電電公社の無線技術担当の方々は戦後にGHQのVHF回線を保守運用しました。その後 に電電のVHF回線を設営保守。この無線担当分野で その後、昭和27年のテレビ開局にむけ全国に4GHzのマイクロウエーブ回線を設営、 保守。その後50年間、NTTになった後も、全国テレビ網を保守運用してきました。し かし、ハイビジョンとデジタルに代わる時代となり、5年前に光ファーバー網に切り替わ り、マイクロ無線網は廃止となりまた。全国に張り巡らしていたマイクロ電話回線も伝送 容量が光ファイバーに劣るため、非常回線や離島通信をのこしNTTからマイクロ無線が 撤退してマイクロ無線担当も大きく縮小されました。「VHFの歌」こんな曲もあったので す。つわもの共の苦労を偲んで、パソコンによる疑似歌声で歌わせてみました。これらの画像は書 籍『私たちのマイクロ波通信50年」より勝手ながら、無断で使わせて頂きましたが、謝意を表し、多くの方々が、この歌詞のような 心意気で働いてこられたことに敬意を表します。




津軽の塔~石崎無線中継所~

津軽の塔~石崎無線中継所~建設記録映画(1978年) 日本電信電話公社




新興国でのネットインフラを支える超小型マイクロ波通信システム



 

マイクロ波アンテナ 設置工事 愛知県自治センター(Aichi Prefectural Office Local Autonomy)



 

放送現場での運用を狙った120GHz帯無線システム





60GHz帯超高速ワイヤレスシステム




移動式ICTユニット(8分版)


裏山原へ行こう!