ゴールデンウェーク休みを取って4月30日から5月3日まで3泊4日の
沖縄ジャンク屋ツアーにいってきました
レンターカーで周りましたが米軍放出ジャンク屋が町から消えてました
しかたないので観光してきました
収穫なしでした
嘉手納基地ではF-22ラプターのタッチアンドゴーの訓練も見ることができました
ものすごい爆音でした
喜納昌吉とネーネーズのライブショーも見てきました








































































UGR 米軍の分隊レーションです。 50人近くの兵隊が1度に食べる分が入っている
この中に入っている朝食用のワッフルが微味です
UGRレーション Unitized Group Ration(ユニタイズド・グループ・レーション)
UGR(ユージーアール)は、Unitized Group Ration(ユニタイズド・グループ・レーション)の略称。現在が使用しているユニット式集団用であり、50名分の食事を1セットとして構成される。
メニューは朝食用が7食、昼食・夕食用が14食で、内容は毎年更新され、マイナーチェンジが加えられる。1食あたり4種類(温野菜・メイン・スターチ・デザート)のトレイとスナック・ドリンク・好みの調味料から成り立つ。水と石灰石で構成されたヒーターは箱の底にあり、ビニールのタブを引き抜くとビニールの中の水が石灰石と化学反応を起こして加熱する(その際スナック・ドリンク・好みの調味料はいち早く箱から出す)。45分間の加熱で温かい食事が出来上がる。
MRE Review: UGR Trays (Unitized Group Ration) Sweet and Sour Pork and White Rice
MRE Birthday Cake! UGR Tray: Yellow Cake with Chocolate Icing (Unitized Group Ration)
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730 (交通)
730(ナナ・サン・マル、ナナサンマル)とは、沖縄県において日本への復帰6年後の1978年に、自動車の対面交通が右側通行から左側通行に変更することを事前に周知するため実施されたキャンペーン名称であり、実施後はその変更施行自体を指す通称となった。なお“730”の名称は、変更施行月日である「7月30日」に由来する

実施の経緯
戦前の沖縄県は、日本国内の他の地域と同じく、自動車は左側通行であったが、沖縄戦終了後に沖縄を占領下に置いたアメリカ海軍政府が1945年11月に出した指令により、右側通行に変更され、1947年5月には沖縄民政府により右側通行を定める「自動車交通取締規則」が発布された
この日本本土とは逆の“自動車は右側通行”という状況は、1972年の本土復帰後も「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」による規定[注釈 1]の下で続いたが、右側通行は暫定的なものとされ、道路交通に関する条約(ジュネーブ道路交通条約)による「一国一交通制度」を遵守する立場から、1975年以降に左側通行への切替を実施することが同法律の規定に基づいて策定された。
当初、国は復帰4年後の1976年に変更作業を実施することを検討していたが、海洋博覧会の開催が優先されたことから延期され、1975年6月24日の閣議により、1978年7月30日をもって県内全域で左側通行に戻すことが決定され、1977年9月20日、「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律第五十八条第一項の政令で定める日を定める政令」の公布により法定化された。これは、沖縄県の日本復帰を象徴的に示す戦後の一大プロジェクトであった
変更作業
変更実施前から準備段階として、幹線道路ではあらかじめ左側通行用の標識や信号を設置した上で、それらをカバーで覆い隠しておき、変更作業時にその覆いを外して右側通行用の標識にかぶせ直す方法が用いられた[10]。また、車線のレーン・右左折表示などの道路標示も、左側通行用の標示をあらかじめ描いた上で黒のカバーテープで覆い、変更作業時にバーナーによってテープを除去するという方法が取られたこれら覆いやカバーテープを用いた方法は世界初であり、「カバーアンドテープ方式」や発案者の名を取って「久高方式」と呼ばれ、短時間で効率よく作業を行うことを可能にした[その他、ガードレールを左側通行に併せて重ね直したり[16]、交差点の改良、交通の改善を兼ねて道路の拡幅を行った区間もあった
1978年7月27日には、接近した台風8号に伴い、信号機や大型標識のカバーが先行して撤去された。
7月29日22時より沖縄県全域で緊急自動車を除く自動車の通行が禁止され、沖縄県警察本部から県内の警察署への無線連絡により、一斉に変更作業が開始された。変更作業は翌30日6時までの8時間で行われた変更作業に際しては約800人の作業員と約300台の車両が動員され、約19億円が投資された。その間、新標識から旧標識へ目隠しの移動、新白線を隠していたテープの除去などが行われた。30日4時18分、沖縄県の管理する全ての道路で切り替え工事が終了。5時50分、一旦解除されていた自動車の通行規制が再度行われ、全ての車が停車したのち右車線から左車線に移動。6時に再びサイレンが鳴り、多くの県民が見物する中で、止まっていた車が左車線を走行し始めた
変更日以降、カバーを掛けた旧標識の撤去[21]、左側通行に適した反射材の設置、土嚢などで仮設された交通島の恒久化などが行われ、変更作業の総仕上げを行った。
わずか8時間という短時間での一斉切り替えが可能だった要因のひとつとして、当時の沖縄県には路面電車がなかったことが挙げられる。路面電車を自動車に合わせ右側通行から左側通行にするには、全ての車両と乗降場の構造を変更する必要がある
変更日後
作業に伴う交通整理などは沖縄県警だけでは対処しきれないことから、警視庁をはじめ全国各県警の警察官約3,000人が応援に駆けつけ、沖縄県警の警察官約1,400人と合わせて、8月下旬まで交通整理にあたった。
路線バスにおいては、バス事業者から沖縄県警に対して事前の実地訓練の申し出があったが、当初は「事前の訓練は運転士の感覚を混乱させることから事故を誘発する」という理由で認められず、変更作業実施目前の7月20日に空き地を利用しての実地訓練が許可された。実地訓練は7月28日まで行われたが、9日間という短期間では訓練不足であり、変更直後は路線バスによる事故が多発し、玉城村[注釈 5]では路線バスが原野に転落する事故も発生した
また、変更後は左側通行を体験しようとした自家用車が一斉に走り出したが、多くのドライバーが左側通行に不慣れであったことから、国際通りなどの主要通りでは渋滞が発生し、都心部の交通は混乱した。朝に営業所を出たバスが、あまりの渋滞により夜になってようやく戻ってくるという状況もあり、当時の新聞には「市内バス3時間で一回り」「超低速バス、やっと来たら超満員」などという見出しが連日登場した
そのほかに交通指導員が撥ねられる、または自動車同士の接触事故も発生したが、落命を伴う大事故は発生しなかった
沖縄730道の記録県民にとって何であったのか
沖縄県の道の歴史をたどりつつ、7・30の変更を記録する。7・30は、県民にとって何であったのか。アメリカ世から大和世へ。
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