スチュワーデスの日(3月5日 記念日)
1931年(昭和6年)のこの日、東京航空輸送社(後に大日本航空に吸収)が実施した日本初のスチュワーデス採用試験の結果が発表された。
「エアガール」という呼び名で募集され、2月5日に試験が行われた。140人の応募に対し、合格者は3人だった。その3人は東京-下田-清水間の定期旅客路線に新卒として採用された。
スチュワーデスについて
「スチュワーデス(stewardess)」とは、旅客機に乗り込み接客サービスを行う女性客室乗務員のことで、船舶の司厨員に由来する「スチュワード(steward)」の女性の呼称である。
現在では、テレビドラマなどの影響もあり、性差のない語である「キャビンアテンダント」または「CA(シーエー)」と呼ばれることが多い。ただし、「cabin attendant」は和製英語で、英語では「フライトアテンダント(flight attendant)」あるいは集合名詞「キャビンクルー(cabin crew)」と呼ばれ
「エアガール誕生」清水-東京間定期航空路 静岡市清水区(三保真崎飛行場)
スチュワーデスの日(3月5日 記念日) 「エアガール誕生」清水-東京間定期航空路 静岡市清水区(三保真崎飛行場)


郵便飛行のはじまり、定期航空スタート
1914(大正3)年以降、次々と定期の航空輸送を始めた欧米諸国に比べ、日本の民間航空は長距離飛行や旅客輸送の面で大きく立ち遅れていました。1920(大正9)年8月の陸軍省内への航空局の設置、翌年4月の航空法制定といった制度面の整備に並行して、定期航空による旅客・貨物・郵便の輸送を始めようという動きが出てきます。その中でも他に比べ軽量で負荷が少ないこともあり、遠方との通信手段の中心である郵便を「より早く」届けるための手段として、まずは航空郵便の実用化を目指して試行が始められます。
郵便飛行の試行

民間会社による定期航空の開始
続いて翌年1月11日に朝日新聞社が設立した東西定期航空会が東京-大阪間で、同年7月10日には川西清兵衛の日本航空株式会社が大阪-別府間で、それぞれ開業しました。
これらの定期航空の順調な運航を見て、逓信省は1925(大正14)年4月20日から、各路線を利用した郵便物の航空輸送を試験的に始めました。
本書には、こうした井上・川西・朝日新聞社らの航空路開発競争の様子が詳しく書かれています。1922(大正11)年7月に川西の設立した日本航空輸送研究会が、井上より先に営業開始をもくろんでいた矢先、飛行機を壊してしまい遅れをとったというエピソードなどが紹介されています。
官民合同会社による本格的な定期航空郵便・旅客航空の開始


1929(昭和4)年4月1日、官民合同の日本航空輸送株式会社が定期郵便・貨物輸送を開始しました。輸送ルートは同年6月21日には東京-大阪-福岡-蔚山-京城-大連となり、その後も各地へと延伸を続けました。この際、東西定期航空会は東京-新潟間、日本航空輸送研究所は堺-高松-松山間に運航区間が変更となりました。
同年7月15日には、定期旅客輸送も開始されています。東京-大阪が30円、大阪-福岡が35円でした。この旅客輸送は順調だったようで、同年秋ごろからは主要都市上空での遊覧飛行も実施されました。掲載資料では、そのような会社設立後10年間での航空路線の発展の様子がカラフルに紹介されています。
なお、1938(昭和13年)11月には大日本航空株式会社へと改組されますが、このときに各地のローカル線を運航していた各民間航空会社は営業を終了し、これをもって同社による国内の航空路線の統合がなされました。
これにより、現代まで続く定期旅客航空が確立されたわけですが、乗り心地はどうだったのでしょうか。『飛行機とともに』【NC111-18】p.85~88には、日本航空輸送株式会社が発行した「旅客航空輸送案内」が引用されています。一方、『読売新聞』1929(昭和4)年6月2日号【YB-41】には、記者の試乗体験記が載っています。「滑らか」「快絶」とほめちぎっていますが、実際はどうだったのか、気になるところですね。
定期航空郵便の開始に合わせて、通常の郵便料のほかに航空料金を徴収し、航空機による高速郵送を行う「航空郵便」制度が始まりました。それに伴い、1929(昭和4)年10月6日には初の航空切手が発行されました。この切手には芦ノ湖上空を飛ぶ日本航空輸送機が描かれ、その図柄の特徴から「芦ノ湖航空」と呼ばれました。
1938(昭和13)年5月に航空郵便制度が廃止となるまで、人々に親しまれました。
本書は2000(平成12)年の全国切手展を記念して出版された本で、芦ノ湖航空の他にも飛行機を扱った切手を数多く図版付で紹介しており、見た目にも楽しめます。

ローカル線の開通、初のフライトアテンダント

日本初のエアーガール
昭和6年の日本初の客室乗務員は近代的天女と呼ばれた
パイロット養成をしていた日本飛行学校は、サイドビジネスとして東京航空輸送を作り、昭和4年から海軍から払い下げを受けたハンザ・ブランデブルグ機で東京の羽田と伊豆の下田間に定期航空路を開設しています。もともとは、第一次世界大戦末期にドイツで作られた2人乗りの水上戦闘偵察機ですので、パイロットを除くと、乗客は1名しか運べませんでした。
日本初の女性乗務員
東京航空輸送は、愛知航空機が作った6人乗りの水上機である愛知AB型輸送機の貸与を受けると、昭和6年4月1日からエアーガールと呼んだ女性の客室乗務員を乗せ、航空路を海岸沿いに静岡・清水まで延長しています。
これが、日本初の客室乗務員によるサービスです。
世界で初めて客室乗務員を載せてサービスを行ったアメリカのボーイング航空輸送から11ヶ月後のことで、かなり早い段階での試みといえます。
6人乗りといっても、パイロットやエアーガールなどを除くと乗客は3人です。出発から到着まで座席に座っていなければならないという狭いスペースで、サービスと言っても限度があります。
サービスというより、「エアーガールが乗るほど安全です」というPR効果が狙いといわれています。
近代的天女
飛行機によく搭乗したという菊池寛は、「エアーガールは近代的天女である」と表現していますが、清水にある三保の松原の天女伝説を意識してのことかもしれません。
三保の松原は、静岡市清水区の三保半島にある景勝地で、ユネスコの世界文化遺産「富士山ー信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産となっています。
三保半島は江戸幕府の直轄地で、半島全体が松に覆われていました。明治以降開発が進んで半島全体が松林ではありませんが、「羽衣の松」の周辺は景観を残しています。
「羽衣の松」は、御穂神社の御神体で、祭神の三穂津彦命(大国主命)と三穂津姫命が降臨される祭に神霊が寄り付くものとされてきました。三穂津姫命という天女が、着ていた羽のよう軽い衣を枝にかけたというのが、三保の松原の天女伝説です。
最初に乗った女性乗客は小泉元総理大臣の母
黎明期の飛行機は、郵便の輸送に使われました。このため、飛行機を管轄している役所は、郵便を管轄している逓信省でした。
客室乗務員によるサービス開始直前の3月29日の試乗で、小泉又治郎逓信大臣は、愛嬢と一緒に乗り、「この芳江はプロペラの音を大変気にするが、私はプロベラの音があって飛行機に乗った気がする」と言っています。
つまり、最初に乗った女性乗客は、この愛嬢の小泉芳江ということになります。
小泉芳江嬢は、のちに防衛庁長官などを歴任する鮫島純也を婿にとり、小泉純一郎元総理大臣を生んでいます。
厳しい会社経営
乗客に少しでも快適な空の旅を提供しようとする試みが始まったのは静岡県ということになりますが、東京航空輪送による客室乗務員サービスは、1年ほどで中止となります。
厳しい会社経営があったためと思われます。
静岡県は、昭和3年4月から上空から海面付近を群をなしているマグロなどの位置を漁船に知らせる魚群探査事業をしています。この事業は、立ち上がりから鈴木興平(鈴与)の援助をうけ、静岡県三保で飛行場を経営していた根岸錦蔵に委託していました。
しかし、静岡県は、魚群探査事業の委託先を東京航空輸送に突然変更しています。推測ですが、その理由は東京航空輸送の経営を支援するためと思われます。
図は、昭和6年9月23日の魚群探険飛行ですが、駿河湾を飛行中にカッオを6群、黄肌マグロを1群発見し、出漁していた9隻の漁船に対して8個の報告筒を海に投下しています。
漁船は、この報告筒を回収し、魚の群れに急行しました。その後、漁船に無線機が積まれるようになると、無線で漁船に魚群の情報が伝えられますが、魚群探査の方法は同じです。
東京航空輸送の魚群探査事業は、記録的なマグロの豊漁をもたらし、それを使った「ツナ缶」が静岡の重要な輸出品となっています。
捨てる神あれば拾う神あり
根岸錦蔵は、東京航空輸送に魚群探検事業を奪われた形になりましたが、同じ頃、急拡大している飛行機へ情報を提供したり、逆に飛行機からの情報を得たいと考えていた中央気象台からの依頼を受けることになります。中央気象台三保臨時出張所の誕生です。
以後、根岸錦蔵とそのグループは、飛行機を用いた高層気象観測、雲の上からの皆既日食観測、流氷の観測、地震被害の上空からの調査など、中央気象台(気象庁の前身)の画期的な業績に貢献しています現在の気象庁と違い、中央気象台は、自由に使える飛行機と空港(三保空港と女満別空港)を持ち、機動的に自然現象を解明していた背景には、今では考えられない航空業界の黎明期の苦労があったのです。図出典:饒村曜(2010)、静岡の地震と気象のうんちく、静岡新聞社
<日本航空史> 女性の職場としての大空
「エアガール」の誕生は昭和6年(1931年)らしい。後のスチュワーデス、今はキャビンアテンダントなどと呼ばれる仕事で、今でも女性あこがれの職場だ。「エアガール」の呼称は、そのころ「モダンガール」とか「ショップガール」という言い方があって、それにならったようだ。
この時は、応募141人から3名が採用されたそうだ。乗務は、東京~伊東~下田~沼津~清水を結ぶ水上旅客機。全5席の客室にエアガールが1名乗るので非効率は甚だしいのだけれども人気は上々で、いつも満員という。会社が輸送効率を上げようとエアガールを降ろしたところ、「契約違反だ」といわれと伝えられている

日本航空輸送

概要[編集]
1928年(昭和3年)10月、日本の民間航空輸送を一手に担う航空会社として政府主導で設立された。内地のほか、台湾、朝鮮、関東州、満州国、中華民国へも航空路線を運航したが、1938年(昭和13年)12月に特殊法人大日本航空株式会社へ改組された。
沿革
第一次世界大戦によって航空技術は急速に進歩し、欧米では戦争終結直後から一般向けの定期航空輸送が行われるようになった。一方、当時の日本に存在した民間航空3社(東西定期航空会、(旧)日本航空株式会社(戦後の日本航空とは無関係)、日本航空輸送研究所)はいずれも小規模で営業成績も良いものではなく、将来性は見込めなかった。そこで、政府支援のもと日本の民間航空輸送事業を統括する大規模航空会社を設立することになった。渋沢栄一や井上準之助などの有名実業家の協力を得て会社の設立作業が進められ、1928年(昭和3年)10月20日に逓信省航空局所管の航空会社として日本航空輸送株式会社が発足する[1]。
日本航空輸送は日本の民間航空輸送を独占する企業として設立されたため、政府は既存の民間航空3社に対して日本航空輸送への合流を求めた。3社のうち東西定期航空会と(旧)日本航空株式会社の2社は合流に同意し、1929年(昭和4年)3月31日、日本航空輸送に無償吸収合併された。残る日本航空輸送研究所は合流を拒否し、最終的に政府が妥協して短距離路線に限り日本航空輸送以外の航空会社による運航を認めることになって運航を継続した。
日本航空輸送による営業運航は1929年(昭和4年)4月から始まり、陸軍から払い下げられた乙式一型偵察機(サルムソン2)18機によって、東京 - 大阪間週12往復の郵便・貨物輸送を行った。同年7月には東京 - 大阪 - 福岡間で、9月には福岡 - 蔚山 - 京城 - 平壌 - 大連間で旅客輸送を開始している。
1929年(昭和4年)7月に開設された東京 - 大阪間の航路は料金35円、平均搭乗時間約3時間だった[2]。
当初、東京の拠点は立川飛行場であったが、1931年(昭和6年)に羽田飛行場に移転した[2]。
日本国内各都市への就航も進み、東京 - 富山間を皮切りに大阪 - 富山間、東京 - 新潟間、大阪 - 鳥取 - 島根間、大阪 - 徳島 - 高知間、東京 - 仙台 - 青森 - 札幌間といった路線が新設された。後には台湾への就航も行っている。日本を代表する航空会社として設立された日本航空輸送であったが、当初は需要も少なく経営は不安定で、収入のほとんどを政府からの補助金に頼っていた。しかし、満州事変や日中戦争が発生し、大陸における日本の勢力圏が拡大すると状況は一変する。内地と大陸の間の輸送需要は急増し、満州国や中国各地に向かう路線が新設された。これらの路線は軍による利用が中心で運航経費も軍が負担したために日本航空輸送の経営は好転。搭乗率も上昇して満席が続くようになり、機材や航空施設の整備が進められていく。1938年(昭和13年)にはのべ32万3000人が利用し、この年の全世界における航空輸送量の2.6%を占めるまでになった。
日中戦争以降、満州国を含む中国大陸へ向かう航空路の軍事的重要性が更に高まったことから、民間航空輸送の統合政策のもと、日本航空輸送は国際航空株式会社と合併し、1938年(昭和13年)12月に特殊会社である大日本航空に改組された。日本航空輸送が運航していた路線や機材は大日本航空に引き継がれている
航空路
東京-大阪(週12往復)、大阪-福岡(週陸6往復水3往復)、福岡-蔚山(週3往復)、蔚山-京城(週6往復)、京城-平壌(週6往復)、平壌-大連(週3往復)
- 『東洋経済株式会社年鑑. 第10回(昭和7年版)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
役員・大株主
- 会長大谷登、社長原邦造、常務戸川政治、取締役稲畑勝太郎、大橋新太郎[6]、大川平三郎、根津嘉一郎 (初代)
- 大株主 三菱航空機、三井合名、瀬尾喜兵衛[7]、安田保善社、住友合資、瀬尾喜一郎[7]
- 『東洋経済株式会社年鑑. 第10回(昭和7年版)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
運航機材
- 乙式一型偵察機(サルムソン2)
- フォッカー スーパーユニバーサル
- フォッカー F.VIIb/3m
- Do J
- 中島P-1
- 中島AT-2
- エアスピード エンボイ
- ビーチクラフト スタッガーウィング C-17E
- ダグラス DC-2
- ダグラス DC-3
- ロッキード L-14 スーパーエレクトラ

フォッカー・スーパー・ユニバーサル

中島AT-2
日本初の客室乗務員は昭和6年(1931年)に誕生しました
これは覚えておくと良いですね


今から89年前のことです。
写真の客室乗務員さんは現代のCAかと思うほどの品格を感じます

写真は天空橋の工事現場で撮ってきました。
説明では昭和初期とされていますが、写真が撮影されたのはおおむね昭和6年から昭和14年の間となります。
東京航空輸送社は昭和3年に設立された民間航空会社であり、昭和4年から羽田ー下田ー清水間の定期航空営業を行っていました。
羽田ー川崎ー横浜ー横須賀ー伊豆半島を低空でゆっくり飛んだはずです


素晴らしい景色だったと思います。
昭和6年2月にエア・ガール(客室乗務員)を募集、選考の結果3名が選ばれたそうです。
昭和14年3月、国の方針により大日本航空に吸収合併され新たな歴史が始まりました。
清水-東京間定期航空路
清水-東京間定期航空路
東京府荏原郡羽田町にあった「日本飛行学校」(校長、相羽 有(あいば たもつ)氏(明治29年1896~昭和54年1979)は、日本飛行学校事業部として、
○昭和3年(1928)12月、東京ー伊東ー下田間の試験飛行を為す。
○昭和4年(1929)8月1日、東京ー伊東ー下田間の定期航空路の営業許可を受けました。
当時の政府は、民間航空の保護奨励の為に、奨励金や補助金を下付したり、陸海軍の不要航空機材の払い下げ、斡旋等を行っていました。その結果、全国各地で、海、海浜、川、湖、池、草原などを利用した飛行場が、雨後の筍のように設置されて、航空路が開かれました。
日本飛行学校事業部は、アブロ複葉水上機やハンザ単葉水上機(両機とも、乗員1名乗客1名。風防なし)の払い下げを受けて、
○昭和4年9月より、東京(大森・鈴ケ森海岸水上飛行場)ー伊東間の定期飛行を為す。
○昭和4年11月17日よりは、東京ー伊東ー下田間に、毎週水曜日、1往復就航しましたが、航空郵便物輸送、貨物輸送、エア・タキシー(遊覧飛行)、空中写真撮影、宣伝飛行も業務でした。
東京(鈴ケ森)発午前9時ー伊東(10時着、10時30分発)ー下田着10時55分。
下田発13時ー伊東着(13時20分着、14時発)ー東京(鈴ケ森)着15時。
○昭和5年(1930)4月1日(火)より、航空路を、下田より沼津市を経て、清水市(三保真崎水上飛行場)まで延長し、毎週、火、金の2往復運航しました。5月には、真崎海岸に、飛行機格納庫(15間×20間)を建設しました。
東京(鈴ケ森)発午前9時ー伊東10時05分ー下田10時55分ー沼津11時40分ー清水着12時。
清水発12時30分ー沼津13時ー下田14時ー伊東14時35分ー東京(鈴ケ森)着15時30分。
昭和5年(1930)7月22日、清水港上空で試験飛行中に、真崎西側の海へ墜落事故を起こしましたが、搭乗員は無事で、機体は引き上げました。
○昭和5年12月4日、東京航空輸送社(昭和3年9月設立、資本金20万円・相羽 有社長)は、日本飛行学校事業部より、定期航空路を引き継ぎました。
政府から貸与された、愛知式AB-1型水上輸送機や、フォッカー・スーパーユニバーサル旅客機水上機型を使用しての、東京ー伊東ー下田ー沼津ー清水間の定期航空で、下田から清水迄、航空郵便物輸送を延長することになったので、郵便、航空、鉄道、電気などを管轄する、逓信省の小泉又次郎・大臣(小泉元首相の祖父)に、試乗を願い出ました
○昭和6年(1931)3月29日(日)、小泉逓信大臣、同息女・芳江嬢(元首相の母)、秘書官、記者、エアガール・本山英子嬢(19歳)は、東京(鈴ケ森海岸)を、10時45分に発って、清水へ正午に到着しました。清水郵便局長他郵便局関係者多数の出迎えを受け、陳情を受けたりした後、飛行機は、清水を午後0時50分に飛び立ち、沼津市千本浜海岸へ13時5分に着水して、小泉大臣一行を下ろしてから、午後2時15分に無事に帰航しました。大臣一行は、沼津で昼食後、沼津駅発14時21分、東京駅到着16時40分の特急列車で帰京しました。
○清水迄の航空郵便物の輸送は、同年6月より始まりました。
昭和6年3月29日の試乗会。 東京・鈴ケ森海岸水上飛行場にて。

愛知式AB1型水上輸送機
(乗員2人、乗客4人、最高速度180Km、平均速度150Km)
右より、
エアガール・本山英子、小泉逓信大臣、同息女・芳江嬢、
北村兼子(飛行士訓練生・ジャーナリスト)、角屋秘書官
エアガール・和田正子、同・工藤雪江。
(敬称略)。太字が搭乗者。
飛行場
○東京(大森鈴ケ森海岸)飛行場は、多摩川に架かる六郷橋の下流・六郷川の河口で、川崎大師側の三角州の干潟にありました。現在の羽田飛行場や穴守稲荷の川を挟んだ反対(南)側です。羽田飛行場は、昭和6年8月25日に完成しましたが、東京航空輸送社が使用するのは、昭和8年6月からです。

○伊東水上飛行場は、伊東駅の東方の海水浴場(現、伊東オレンジビーチ)北側の海面でした。出張所は伊東町・東海自動車(株)内です。運航は、1年9ケ月でした。

○下田水上飛行場は、下田の武ケ浜海水浴場付近の海面でした。出張所は下田町・下田自動車(株)内で、後、下田支所は、下田町武ケ浜水上飛行場に。武ケ浜は、江戸時代に波除堤を普請した結果、砂が寄って出来た浜で、画像の左手は、旧下田港(稲生沢川河口港)と下田町市街地です。
赤い丸の下にある建物は、飛行機の格納庫ではないでしょうか。


○沼津水上飛行場は、千本浜海水浴場付近の海岸と思います。ここが選ばれたのは、広い浜辺と、周辺に、避暑地として、首都圏の貴賓の別荘が多かったためでしょう。現在は、海と松原との間に、長い海岸堤防が続いています。運航は、1年4ケ月で終わりました。

○清水三保真崎水上飛行場は、三保半島の先端・真崎の内海側、「三保海水浴場」の北側の海面でした。 ここが選ばれたのは、内海で波が穏やかな事と、広い海浜があった事でしょう。海を隔てた清水市街にも、渡船(ポンポン船)で楽に行けました。同飛行場には、格納庫や清水支所などの建物がありました。なお、水上飛行場には、浜辺での乗客の乗り降りに、飛行機巻き上げ機(ウインチ)や滑走台などが必要でした。戦後、清水市の西、静岡市の安倍川上流に砂防ダムが出来て、流れて来る砂礫の量が減ったために、現在は、海浜が当時より小さくなっています。
○昭和7年(1932)7月、飛行場の東隣の松原に、「清水市臨海学校」が建設されました。
○また、東京航空輸送社は、清水市三保にあった根岸飛行場を基地に、「漁群捜査飛行業」を行っていた根岸錦蔵氏に代わり、昭和5年(1930)6月10日(火)より、駿河湾と伊豆七島の「漁群探検飛行業」を始めました。
○漁群探見飛行
清水における漁群探見飛行は、初めは、根岸錦蔵氏(明治35年1902)~(昭和58年1983)が、国や県の補助を得て、昭和3年6月から、清水市三保の根岸飛行場を基地に、「漁群捜査飛行」として行っていましたが、政治の力で、昭和5年6月10日より、日本飛行学校が、「漁群探見飛行」として行う事になり、根岸氏は、「指導員兼漁群発見員」に格下げされてしまいました。
この漁群探見飛行の結果、駿河湾でのマグロの漁獲が増大し、清水市での、マグロ油漬け缶詰の発明、生産につながりました。
なお、根岸氏は、 オホーツク海の流氷観測飛行も行いましたが、日本で初めて、マグロ油漬缶詰の本格的な製造を始めた、清水食品(SSK)の社長で、清水の地方財閥鈴与の鈴木興平氏は、根岸氏に、飛行機購入費として、5,000円(現在の1000万円位?)の資金援助をしました。鈴与は、江戸時代の回船問屋の子孫の商社で、現在でも、清水の政財界の中心的存在です。
○漁群探見飛行成績
(昭和7年5月~11月)
○飛行回数 142回。
○飛行時間 138時間11分。
○漁群発見回数 451回。
○発見漁種別 カツオ183群。キハダまぐろ141群。メジ114群。
黒マグロ11群。ブリ11群。
○探見用飛行機。中島式3座水上機(無線電信電話同時受発装置付)。
○機上作業員。 飛行士1名、無線士1名、魚見役1名の3名。
○エア・タキシー(遊覧飛行)
○各発着場付近上空にて、遊覧飛行をなす。(料金1名1回10円)。
○遊覧飛行(一台定員3名)。S13,4.
東京飛行場一周、 10分、 10円、20km.
京浜コース、 15分、 15円、35km.
江ノ島コース、 32分、 30円、80km.
箱根コース、 1時10分、69円、175km.
銚子コース、 1時25分、84円、210km.
富士五湖コース、1時36分、96円、240km.
水戸コース、 1時36分、96円、240km.
軽井沢コース、 2時間、 120円、300km.
日光コース、 2時間、 120円、300km.
○「根岸飛行場」は、外海に面した清水灯台近くにあり、本州中部における唯一の水陸両用飛行場で、陸軍の飛行隊の演習場としても、時々使用されました。現在は、日本飛行連盟管理の飛行場として残っています。また、戦前、同飛行場は、日本航空輸送(株)の、不時着陸飛行場にも指定されていて、実際に、不時着した事があります。
○清水灯台は、明治45年(1912)に設置、初点灯された、日本で最初の鉄筋コンクリート造灯台です。
○昭和8年(1933)10月25日(水)より、東海空輸研究所が、毎週水曜日に、舘山寺水上飛行場より、三保及び鳥羽(三重県)へ、定期航空を始めました。廃止時期など詳細は不明。
清水ー東京間定期航空路2
アイデアマンで、商才に長けていた東京航空輸送社の相羽社長は、昭和6年(1931)4月1日(水)からの、東京ー清水間の定期航空路線で、日本で初めて、エアガール(現在のフライトアテンダント)3人を採用しました。初日から乗務しましたが、月末に、月給袋を開くと、給料が16~17円と余りにも安く、全員が4月末日で退職してしまいました。当時、大学出の月給は、30~40円だったようです。その後、エアガールの給料は大幅に上げられましたが、1年ほどで、エアガールは、廃止になりました。ちなみに、東京ー清水間の航空運賃は、1人25円で、運航日は、月、水、金が基本でした。4月1日の初飛行は、乗客2人、記者1人、アエガール3人でしたが、清水市側は、市長、助役などが出迎えて、助役が、半島の反対側の「羽衣ノ松」付近まで、船で観光案内をしました。
○東京航空輸送社の後継会社・東京航空(株)は、昭和11年4月23日、エアガールの一次試験を行い、4月30日の二次試験で、2名を採用しました。

三保真崎飛行場・格納庫前にて。
昭和6年4月1日?
(4月1日の定期飛行には、エアガール3人が同乗していました)。
○戦前の東海道線。東京ー清水間は、普通で、3等・2円40銭ですので、
当時の航空運賃25円は、現在の数万円位の感覚でしょうか。
昭和6年(1931)8月より、東京ー伊東ー下田ー沼津ー清水間のうち、伊東、沼津が廃止されて、東京ー下田ー清水間になりました。伊東は、昭和4年11月より1年9ケ月、沼津は、昭和5年4月より1年4ケ月の運航でした。伊東、沼津は、鉄道利用者が多かったのでしょう。
なお、東京ー下田間は1時間25分、下田ー清水間は1時間5分、東京ー清水間は2時間40分掛かりました。
昭和7年(1932)秋より、運航日が、月水金、月水、水金などと、いろいろに変わりました。
昭和8年(1933)6月より、東京(鈴ケ森海岸)発は、東京(羽田)発になりました。当時の羽田空港は、水陸両用空港で、水上飛行機は、飛行場の北側を流れる「海老取川」の水上で、発着しました。
昭和9年(1934)8月より、運航日は、月水金で順調でした。
同年12月、海軍より、90式2号水上偵察機の払い下げを受けました 昭和10年(1934)8月より、機種の変更(第11義勇号・前P掲載)「90式2号水上偵察機1型・E4N1改」、最高時速211KM。密閉式風防を取りつけ、2座席を、乗員1、客2に改造)があり、東京ー下田間は1時間、下田ー清水間は45分、東京ー清水間は、1時間55分と早くなりました。また、運賃も値下げになり、東京ー下田は15円から10円になりました。昭和11年(1936)3月より、運航日が、月水や月水金になりました。
8月、清水が廃止され、東京ー下田間になりました。東京ー清水間の定期航空は、昭和6年(1931)4月より昭和11年(1936)7月までの存在でした。
その後、東京ー下田間は、、休航、毎日運航、月水運航、など変化しましたが、遊覧飛行(1回1名10円)は、続けていました。
昭和12年(1937)にシナ事変が起き、
昭和13年(1938)4月には、国民総動員法が公布されました。
昭和13年11月に、東京ー下田間も、航空輸送を停止しました。
戦前の定期航空路では、飛行機事故が毎年起きていましたが、同社は、全期間を通じて、飛行機事故を1回も起こさず、有終の美を飾りました。
昭和14年(1940)、国策で、大日本航空へ吸収合併されました
○輸送実績(昭和5年4月~昭和6年3月)
○飛行回数 382回
○輸送旅客数 133人
○輸送貨物量 3085kg
○輸送郵便物量 290kg
○航空事故 0
(昭和10年4月~昭和11年3月)
○飛行回数 90回
○輸送旅客数 100人
○輸送貨物量 0
○輸送郵便物量 22Kg
○航空事故 0
●休航日多し。

三保真崎飛行場・格納庫前にて。
昭和6年4月1日?
(4月1日の定期飛行には、エアガール3人が同乗していました)。
当時の航空運賃25円は、現在の数万円位の感覚でしょうか。
昭和6年(1931)8月より、東京ー伊東ー下田ー沼津ー清水間のうち、伊東、沼津が廃止されて、東京ー下田ー清水間になりました。伊東は、昭和4年11月より1年9ケ月、沼津は、昭和5年4月より1年4ケ月の運航でした。伊東、沼津は、鉄道利用者が多かったのでしょう。
なお、東京ー下田間は1時間25分、下田ー清水間は1時間5分、東京ー清水間は2時間40分掛かりました。
昭和7年(1932)秋より、運航日が、月水金、月水、水金などと、いろいろに変わりました。
昭和8年(1933)6月より、東京(鈴ケ森海岸)発は、東京(羽田)発になりました。当時の羽田空港は、水陸両用空港で、水上飛行機は、飛行場の北側を流れる「海老取川」の水上で、発着しました。
昭和9年(1934)8月より、運航日は、月水金で順調でした。
同年12月、海軍より、90式2号水上偵察機の払い下げを受けました
8月、清水が廃止され、東京ー下田間になりました。東京ー清水間の定期航空は、昭和6年(1931)4月より昭和11年(1936)7月までの存在でした。
その後、東京ー下田間は、、休航、毎日運航、月水運航、など変化しましたが、遊覧飛行(1回1名10円)は、続けていました。
昭和12年(1937)にシナ事変が起き、
昭和13年(1938)4月には、国民総動員法が公布されました。
昭和13年11月に、東京ー下田間も、航空輸送を停止しました。
戦前の定期航空路では、飛行機事故が毎年起きていましたが、同社は、全期間を通じて、飛行機事故を1回も起こさず、有終の美を飾りました。
昭和14年(1940)、国策で、大日本航空へ吸収合併されました
○飛行回数 382回
○輸送旅客数 133人
○輸送貨物量 3085kg
○輸送郵便物量 290kg
○航空事故 0
(昭和10年4月~昭和11年3月)
○飛行回数 90回
○輸送旅客数 100人
○輸送貨物量 0
○輸送郵便物量 22Kg
○航空事故 0
●休航日多し。
民間航空記念日(10月25日 記念日)
1951年(昭和26年)のこの日、戦後初の国内民間航空会社として設立された日本航空が、1番機の「ど星号」または「もく星号」で東京~大阪~福岡間の運航を開始した。
第二次世界大戦で敗北した日本は、連合国より軍民問わず、航空機を運用することを禁止されていた。当時は模型飛行機でさえ飛ばしてはいけなかったという。そして、この日にようやく民間旅客機の定期路線が就航した。
ただし、実際には日本航空は営業面だけを日本側が担当し、実際の定期路線運航はアメリカのノースウエスト航空が操縦士つきで担当した。この時に使われたのが、アメリカの航空機・マーチン2-0-2型機であった。日本航空では5機を運航し、「すい星」「きん星」「か星」「もく星」「ど星」の太陽系の惑星に由来する愛称が付けられた。
下の写真は、笑顔でいっぱいの日本航空スチュワーデス第1期生。第二次世界大戦で敗れた日本にも戦後に民間飛行が再開、スチュワーデス採用試験には「英会話堪能、身長160cm、体重52kg、年齢25歳まで、独身」で1300人が応募したそうだ。超エリート、女神のような存在だった。
さて、上掲『別冊1億人の昭和史 日本航空史』の発行は、今から40年も前のことだ。これには「空に咲いた花々<女流パイロット>」「エアガール誕生」の項がある。わざわざ項目を設けたり「花々」という表現をしたり、そして今も変わらぬキャビンアテンダントという仕事への人気に、40年間で変わったものと変わらないものがあることを感じた

しかし、わずか半年後の1952年(昭和27年)4月9日に「もく星号」が伊豆大島の三原山に墜落し、乗客・乗務員37名全員が死亡するという大事故が発生した。この事故を受けて、マーチン2-0-2型機は全機返却された。軍事機密もあり、この事故の原因は不明のままである。

墜落した「もく星号」
日本航空のマーチン2-0-2型機

日本航空では5機のマーチン2-0-2型を運航し、それぞれの機体にのに由来する愛称を与えた。は「N」から始まる米国籍のままであった。
- 「」(N93041)
- 「」(N93043)
- 「」(N93049)
- 「」(N93060)
- 「」(N93061)
- 日本航空株式会社ではこれに先立って、1951年(昭和26年)8月27日から29日にかけてからチャーターしたダグラス DC-3型機(機体記号:PI-C7)に愛称「金星」号を授け民間航空定期便再開宣伝飛行を行っている。
マーチン2-0-2型機もこれを引き継ぎ、この内「きん星」号は漢字とひらがなの違いはあるが、重複の二代目、「てんのう星」号はノースウエスト航空の都合から1機のみ供与された型機(軍用のC-54を改修。機体記号:N88844)に授けられた。
航路の確認や点検飛行、宣伝体験搭乗を「もく星」号などで行い、「ど星」号は1番機として(昭和26年)に - 間の定期航空路線に就航した。しかし、(昭和27年)に発生したにより、日本航空株式会社は「もく星」号を喪失した。そのためか、(昭和28年)の日本航空株式会社()設立に伴う自主運航開始とともに全てノースウエスト航空に返却され、日本の空から姿を消した。
性能要目
- 全幅: 28.4 m
- 全長: 22.8 m
- 高さ: 8.70 m
- 操縦乗員: 3
- 乗客: 40(最大)
- エンジン: 双発
- 総重量: 30,367 kg
- 最大巡航速度: 450 km/h
- : 4,184 km


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「民間航空はじまる」No.CFSK-0250 [1951(昭和26)年公開]
稲毛民間航空記念館 (千葉県千葉市美浜区) 2014年9月14日
【ラジオで見る静岡】素敵なシーンウォッチング 第17回
〜こんなところに怪しい空港が?!三保飛行場!〜
〜こんなところに怪しい空港が?!三保飛行場!〜





































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