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2021年11月

今日は何の日 11月25日
1970年(昭和45年)三島事件。
作家・三島由紀夫(本名・平岡公威)が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である

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三島事件

三島事件とは、1970年(昭和45年)11月25日に、作家三島由紀夫(本名・平岡公威)が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる

この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、日本国外でも速報ニュースとなり、国際的な名声を持つ作家が起こした異例の行動に一様に驚きを示した。警視庁が2016年に実施した「警視庁創立140年特別展 みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件」のアンケート投票において三島事件は第29位となった(警視庁職員だけの投票では第52位)

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経緯

総監を訪問し拘束

1970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃、三島由紀夫(45歳)は楯の会のメンバー森田必勝(25歳)、小賀正義(22歳)、小川正洋(22歳)、古賀浩靖(23歳)の4名と共に、東京都新宿区市谷本村町1番地(現・市谷本村町5-1)の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地正門(四谷門)を通過し、東部方面総監部二階の総監室正面玄関に到着。出迎えの沢本泰治3等陸佐に導かれ正面階段を昇った後、総監部業務室長の原勇1等陸佐(50歳)に案内され総監室に通された

この訪問は21日に予約済で、業務室の中尾良一3等陸曹が警衛所に、「11時頃、三島由紀夫先生が車で到着しますのでフリーパスにしてください」と内線連絡していたため、門番の鈴木偣2等陸曹が助手席の三島と敬礼し合っただけで通過となった

応接セットにいざなわれ、腰かけるように勧められた三島は、総監・益田兼利陸将(57歳)に、例会で表彰する「優秀な隊員」として森田ら4名を直立させたまま一人一人名前を呼んで紹介し、4名を同伴してきた理由を、「実は、今日このものたちを連れてきたのは、11月の体験入隊の際、山で負傷したものを犠牲的に下まで背負って降りてくれたので、今日は市ヶ谷会館の例会で表彰しようと思い、一目総監にお目にかけたいと考えて連れて参りました。今日は例会があるので正装で参りました」と説明した

ソファで益田総監と三島が向かい合って談話中、話題が三島持参の日本刀・“関孫六”に関してのものになった。総監が、「本物ですか」「そのような軍刀をさげて警察に咎められませんか」と尋ねたのに対して三島は、「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。鑑定書をごらんになりますか」と言って、「関兼元」と記された鑑定書を見せた

三島は刀を抜いて見せ、油を拭うためのハンカチを「小賀、ハンカチ」と言って同人に要求したが、その言葉はあらかじめ決めてあった行動開始の合図であった。しかし総監が、「ちり紙ではどうかな」と言いながら執務机の方に向かうという予想外の動きをしたため、目的を見失った小賀は仕方なくそのまま三島に近づいて日本手拭を渡した。手ごろな紙を見つけられなかった総監はソファの方に戻り、刀を見るため三島の横に座った

三島は日本手拭で刀身を拭いてから、刀を総監に手渡した。刃文を見た総監は、「いい刀ですね、やはり三本杉ですね」とうなずき、これを三島に返して元の席に戻った。この時、11時5分頃であった[7]。三島は刀を再び拭き、使った手拭を傍らに来ていた小賀に渡し、目線で指示しながら鳴りを「パチン」と響かせて刀をに納めた

それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀はすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさぎ、つづいて小川、古賀が細引やロープで総監を椅子に縛りつけて拘束した[7]。古賀から別の日本手拭を渡された小賀が総監にさるぐつわを噛ませ、「さるぐつわは呼吸が止まるようにはしません」と断わり、短刀をつきつけた

総監は、レンジャー訓練か何かで皆が「こんなに強くなりました」と笑い話にするのかと思い、「三島さん、冗談はやめなさい」と言うが、三島は刀を抜いたまま総監を真剣な顔つきで睨んでいたので、総監は只事ではないことに気づいた。その間、森田は総監室正面入口と、幕僚長室および幕僚副長室に通ずる出入口の3箇所(全て観音開きドア)に、机や椅子、植木鉢などでバリケードを構築した

幕僚らと乱闘

お茶を出すタイミングを見計らっていた沢本泰治3佐が、総監室の物音に気づき、その報告を受けた原勇1佐が廊下に出て、正面入口の擦りガラスの窓(一片のセロハンテープが貼られ、少し透明に近づけてある)から室内を窺うと、益田総監の後ろに楯の会隊員たちが立っていた。総監がマッサージでも受けているかのように見えたが、動きが不自然なため、中に入ろうとすると鍵が閉まっていた

原1佐がドアに体当たりし、隙間が2、30センチできた。室内から「来るな、来るな」と森田必勝が叫び声を挙げ、ドア下から要求書が差し出された。それに目を通した原1佐らはすぐに行政副長・山崎皎陸将補(53歳)と防衛副長・吉松秀信1佐(50歳)に、「三島らが総監室を占拠し、総監を監禁した」と報告。幕僚らに非常呼集をかけ、沢本3佐の部下が警務隊に連絡した

総監室左側に通じる幕僚長室のドアのバリケードを背中で壊し、川辺晴夫2佐(46歳)と中村菫正2佐(45歳)がいち早くなだれ込むと、すぐさま三島は軍刀拵えの“関孫六”を抜いて背中などを斬りつけ、続いて木刀を持って突入した原1佐、笠間寿一2曹(36歳)、磯部順蔵2曹らにも、「出ろ、出ろ」、「要求書を読め」と叫びながら応戦した。この時に三島は腰を落として刀を手元に引くようにし、大上段からは振り下ろさずに、刃先で撫で斬りにしていたという。この乱闘で、ドアの取っ手のあたりに刀傷が残った[8]。時刻は11時20分頃であった。

彼ら5人を退散させている間に、さらに幕僚副長室側から、清野不二雄1佐(50歳)、高橋清2佐(43歳)、寺尾克美3佐(41歳)、水田栄二郎1尉、菊地義文3曹、吉松秀信1佐、山崎皎陸将補の7人が次々と突入してきた[6][7]。副長の吉松1佐が、「何をするんだ。話し合おうではないか」と言うが乱闘は続き、古賀浩靖は小テーブルや椅子を投げつけ、小川正洋は特殊警棒で応戦した

森田も短刀で応戦するが、逆に短刀をもぎ取られた[7]。三島はすかさず加勢し、森田を引きずり倒した寺尾3佐、高橋2佐に斬りつけた。総監を見張っていた小賀に、清野1佐が灰皿を投げつけると、三島が斬りかかった。清野1佐は、地球儀を投げて応戦するが躓いて転倒。山崎陸将補も斬りつけられ、幕僚らは総監の安全も考え、一旦退散することにした

この乱闘により自衛隊員8人が負傷したが、中でも最も重傷だったのは、右肘部、左掌背部切創による全治12週間の中村菫正2佐だった。三島の刀を玩具だと思って左手でもぎ取ろうとしたため掌のを切った中村2佐は、左手の握力を失う後遺症が残った。しかし中村2佐は、三島に対して「まったく恨みはありません」と語り、「三島さんは私を殺そうと思って斬ったのではないと思います。相手を殺す気ならもっと思い切って斬るはずで、腕をやられた時は手心を感じました」と述懐している

11時22分、東部方面総監室から警視庁指令室に110番が入り、11時25分には、警視庁公安部公安第一課 が警備局長室を臨時本部にして関係機関に連絡し、120名の機動隊員を市ヶ谷駐屯地に向けて出動させた[9][17]。室外に退散した幕僚らは三島と話し合うため11時30分頃、廊下から総監室の窓ガラスを割った。最初に顔を出した功刀松男1佐が額を切られた。吉松1佐が窓ごしに三島を説得するが、三島は「これをのめば総監の命は助けてやる」と、最初に森田がドア下から廊下に差し出したものと同内容の要求書を、破れた窓ガラスから廊下に投げた。

要求書には主に

(一)11時30分までに全市ヶ谷駐屯地の自衛官を本館前に集合せしめること。

(二)左記次第の演説を静聴すること。
 (イ)三島の演説(の撒布)
 (ロ)参加学生の名乗り
 (ハ)楯の会の残余会員に対する三島の訓示

(三)楯の会残余会員(本事件とは無関係)を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること。

(四)11時30分より13時10分にいたる2時間の間、一切の攻撃妨害を行はざること。一切の攻撃妨害が行はれざる限り、当方よりは一切攻撃せず。

(五)右条件が完全に遵守せられて2時間を経過したときは、総監の身柄は安全に引渡す。その形式は、2名以上の護衛を当方より附し、拘束状態のまま(自決防止のため)、本館正面玄関に於て引渡す。

(六)右条件が守られず、あるいは守られざる惧れあるときは、三島は直ちに総監を殺害して自決する

などと書かれてあった

幕僚幹部らは三島の要求を受け入れることを決め、11時34分頃に吉松1佐が三島に、「自衛官を集めることにした」と告げた。三島は「君は何者だ。どんな権限があるのか」と質問し、吉松1佐が「防衛副長で現場の最高責任者である」と名乗ると、三島は少し安心した表情となり腕時計を見てから、「12時までに集めろ」と言った。

その間、三島は森田に命じ、益田総監にも要求書の書面を読み聞かせた。手の痺れた益田総監は、細引を少し緩めてもらった。総監は、何故こんなことをするのか、自衛隊や私が憎いのか、演説なら内容によっては私が代わりに話すなどと説得すると、三島は総監に檄文のような話をして、自衛隊も総監も憎いのではない、妨害しなければ殺さないと告げ、「きょうは自衛隊に最大の刺戟を与えて奮起を促すために来た」と言った[11]

なお、三島が総監室で恩賜煙草を吸ったかどうかは不明であるが、「現場で煙草を吸うくらいの時間はあるだろう」と、他の荷物と一緒に、園遊会で貰った恩賜煙草もアタッシュケースに入れるように前々日にメンバーに渡していたという。

11時40分、市ヶ谷駐屯地の部隊内に「業務に支障がないものは本館玄関前に集合して下さい」というマイク放送がなされ、その後も放送が繰り返された。11時46分、警視庁は三島ら全員について逮捕を指令した。駐屯地内には、パトカー、警務隊の白いジープが次々と猛スピードで入って来ていた。この頃、すでにテレビやラジオも事件の第一報を伝えていた。

バルコニーで演説

部隊内放送を聞いた自衛官約800から1000名が、続々と駆け足で本館正面玄関前の前庭に集まり出した。中にはすでに食堂で昼食を食べ始め、それを中断して来た者もあった。彼らの中では、「暴徒が乱入して、人が斬られた」「総監が人質に取られた」「赤軍派が来たんじゃないか」「三島由紀夫もいるのか」などと情報が錯綜していた。

11時55分頃、鉢巻に白手袋を着けた森田必勝と小川正洋が、「」を多数撒布し、要求項目を墨書きした垂れ幕を総監室前バルコニー上から垂らした。自衛官2人がジャンプして垂れ幕を引きずり下そうとしたが、届かなかった。前庭には、ジュラルミンを持った機動隊員や、新聞社やテレビなど報道陣の車も集まっていた。

当日、総監部から約50メートルしか離れていない市ヶ谷会館に例会に来ていた楯の会会員30名については、幕僚らは三島の要求を受け入れずに会館内に閉じ込める処置をし、警察の監視下に置かれて現場に召集させなかった。不穏な状況を知って動揺する会員らと警察・自衛隊との間で小競り合いが起こり、ピストルで制止された。

正午を告げるサイレンが市ヶ谷駐屯地の上空に鳴り響き、太陽の光を浴びて光る日本刀・“関孫六”の抜身を右手に掲げた三島がバルコニーに立った。日本刀が見えたのは一瞬のことだった[6]。三島の頭には、「七生報國」(七たび生まれ変わっても、朝敵を滅ぼし、国に報いるの意)と書かれた日の丸の鉢巻が巻かれていた。右背後には同じ鉢巻の森田が仁王立ちし、正面を凝視していた[13]
「三島だ」「何だあれは」「ばかやろう」などと口々に声が上がる中、三島は集合した自衛官たちに向かい、白い手袋の拳を振り上げて絶叫しながら演説を始めた。〈日本を守る〉ための〈建軍の本義〉に立ち返れという憲法改正決起を促す演説で、主旨は撒布された「檄」とほぼ同じ内容であった[22][23]。上空には、早くも異変を聞きつけたマスコミヘリコプターが騒音を出し、何台も旋回していた[6][21]

おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。(中略)
おれは4年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。……4年待ったんだ、……最後の30分に……待っているんだよ。諸君は武士だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ。どうして自分を否定する憲法のために、自分らを否定する憲法にぺこぺこするんだ。これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。

自衛官たちは一斉に、「聞こえねえぞ」「引っ込め」「下に降りてきてしゃべれ」「おまえなんかに何が解るんだ」「ばかやろう」と激しい怒号を飛ばした。「われわれの仲間を傷つけたのは、どうした訳だ」と野次が飛ぶと、すかさず三島はそれに答えて、「抵抗したからだ」と凄まじい気迫でやり返した[12][22]

その場にいたK陸曹(原典でも匿名)は、うるさい野次に舌打ちし、「絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした」「ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した」と後に語り、いったん号令をかけて集合させたなら、きちんと部隊別に整列して聴くべきだったのではないかとしている。

三島は、〈諸君の中に一人でもおれと一緒に起つ奴はいないのか〉と叫び、10秒ほど沈黙して待ったが、相変わらず自衛官らは、「気違い」「そんなのいるもんか」と罵声を浴びせた[9]。予想を越えた怒号の激しさやヘリコプターの騒音で、演説は予定時間よりもかなり少なく、わずか10分ほどで切り上げられた[19]。三島が演説を早めに切り上げたのは、機動隊が一階に突入したのを見たからだとも推測されている[13]

演説を終えた三島は、最後に森田と共に皇居に向って、〈天皇陛下万歳!〉を三唱した。その時も、「ひきずり降ろせ」「銃で撃て」などの野次で、ほとんども聞き取れないほどだった。この日、第32普通科連隊は100名ほどの留守部隊を残して、900名の精鋭部隊は東富士演習場に出かけて留守であった。三島は、森田の情報で連隊長だけが留守だと勘違いしていた。バルコニー前に集まっていた自衛官たちは通信、資材、補給などの、現職においてはどちらかといえば三島の想定した「武士」ではない隊員らであった。

三島は神風連(敬神党)の精神性に少しでも近づくことに重きを置いて、マイクを使用していなかった。マイクや拡声器を使わずに、あくまでも雄叫びの肉声にこだわった。三島は林房雄との対談『対話・日本人論』(1966年)の中で、神風連が西洋文明に対抗するため、電線の下をくぐる時は白扇を頭に乗せたことや、彼らがあえて日本刀だけで戦った魂の意味を語っていた。

三島の演説をテレビで見ていた作家の野上弥生子は、もしも自分が母親だったら「(マイクを)その場に走って届けに行ってやりたかった」と語っていたという。水木しげるは、『コミック昭和史』第8巻(1989年)で、当時の自衛官が演説を聴かなかったことについて、「三島由紀夫が武士道を強調しながら自衛隊員に相手にされなかったのは自衛隊員も豊かな日本で個人主義享楽主義の傾向になっていたからだろう」としている[28]

事前に三島の連絡を受け、当日朝、11時に市ヶ谷会館に来るように指定されていたサンデー毎日記者・徳岡孝夫とNHK記者・伊達宗克は、楯の会会員・田中健一を介して三島の手紙と檄文、5人の写真などが入った封書を渡されていた。それは万が一、警察から檄文が没収され、事件が隠蔽された時のことを惧れて託されたものだった。徳岡はそれを靴下の内側に隠してバルコニー前まで走り、演説を聞いていた

前庭に駆けつけたテレビ関係者などは、野次や騒音で演説はほとんど聞こえなかったと証言しているが、徳岡孝夫は、「聞く耳さえあれば聞こえた」「なぜ、もう少し心を静かにして聞かなかったのだろう」とし、「自分たち記者らには演説の声は比較的よく聞こえており、テレビ関係者とは聴く耳が違うのだろう」と語っている


割腹自決へ

12時10分頃、森田と共にバルコニーから総監室に戻った三島は、誰に言うともなく、「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいた。そして益田総監の前に立ち、「総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と話しかけ、制服のボタンを外した。

三島は、小賀が総監に当てていた短刀を森田の手から受け取り、代わりに抜身の日本刀・関孫六を森田に渡した[13]。そして、総監から約3メートル離れた赤絨毯の上で上半身裸になった三島は、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち、森田に、「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした。

割腹した血で、“武”と指で色紙に書くことになっていたため、小賀は色紙を差し出したが、三島は「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、右腕につけていた高級腕時計を、「小賀、これをお前にやるよ」と渡した。そして、「うーん」という気合いを入れ、「ヤアッ」と両手で左脇腹に短刀を突き立て、右へ真一文字作法で切腹した。

左後方に立った介錯人の森田は、次に自身の切腹を控えていたためか、尊敬する師へのためらいがあったのか、三島の頸部に二太刀を振り降ろしたが切断が半ばまでとなり、三島は静かに前の方に傾いた。まだ三島が生きているのを見た小賀と古賀が、「森田さんもう一太刀」「とどめを」と声をかけ、森田は三太刀目を振り降ろした。総監は、「やめなさい」「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだ

介錯がうまくいかなかった森田は、「浩ちゃん頼む」と刀を渡し、古賀が一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断した。最後に小賀が、三島の握っていた短刀を使い首の皮を胴体から切り離した。その間小川は、三島らの自決が自衛官らに邪魔されないように正面入口付近で見張りをしていた。

続いて森田も上着を脱ぎ、三島の遺体と隣り合う位置に正座して切腹しながら、「まだまだ」「よし」と合図し、それを受けて、古賀が一太刀で介錯した。その後、小賀、小川、古賀の3人は、三島、森田の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両人の首を並べた。総監が「君たち、おまいりしたらどうか」「自首したらどうか」と声をかけた。

3人は総監の足のロープを外し、「三島先生の命令で、あなたを自衛官に引き渡すまで護衛します」と言った。総監が、「私はあばれない。手を縛ったまま人さまの前に出すのか」と言うと、3人は素直に総監の拘束を全て解いた。三島と森田の首の前で合掌し、黙って涙をこぼす3人を見た総監は、「もっと思いきり泣け…」と言い、「自分にも冥福を祈らせてくれ」と正座して瞑目合掌した

12時20分過ぎ、総監室正面入口から小川と古賀が総監を両脇から支え、小賀が日本刀・関孫六を持って廊下に出て来た。3人は総監を吉松1佐に引き渡し、日本刀も預け、その場で牛込警察署員に現行犯逮捕された。警察の温情からか3人に手錠はかけられなかった。群がる報道陣の待ち受ける正面玄関からパトカーで連行されて行く時、何人かの自衛官が3人の頭を殴ったため、警察官が「ばかやろう、何をするか」と一喝して制した。

12時23分、総監室内に入った署長が2名の死亡を確認した。「君は三島由紀夫と親しいのだろ?すぐ行って説得してやめさせろ」と土田國保警備部長から指示を受けて、警務部参事官兼人事第一課長・佐々淳行が警視庁から現場に駆けつけたが、三島の自決までに間に合わなかった。佐々は、遺体と対面しようと総監室に入った時の様子を「足元の絨毯がジュクッと音を立てた。みると血の海。赤絨毯だから見分けがつかなかったのだ。いまもあの不気味な感触を覚えている」と述懐している。

人質となった総監はその後、「被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった」とし、「国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う」と語った。

現場の押収品の中に、辞世の句が書かれた短冊が6枚あった。三島が2句、森田が1句、残りのメンバーも1句ずつあった

益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜
散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそと 吹く小夜嵐— 三島由紀夫

今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の 思ひを知るは 野分のみかは— 森田必勝

をらび しらさやぐ 富士の根の 歌の心ぞ もののふの道— 小川正洋


獅子となり となりても 国のため ますらをぶりも のまにまに— 古賀浩靖

三島由紀夫(本名・平岡公威)は享年45。森田必勝は享年25、自分の名を「まさかつ」でなく、「ひっしょう」と呼ぶことを好んだという

当日の余波

市ヶ谷会館の中で、警察官や機動隊の監視下に置かれていた楯の会会員30人中、森田と同じ班の者たちは事件を知って動揺し、「(現場に)行かせろ」と激しく抵抗して3名が公務執行妨害で逮捕された。会館に残された会員たちは、任意同行を求められ、整列して「君が代」を斉唱した後、四谷署に連れて行かれた。

12時30分過ぎ、総監部内に設けられた記者会見場では、開口一番、2人が自決した模様と伝える警視庁の係官と、矢継ぎ早に生死を質問する新聞記者たちとの興奮したやり取りが交わされ始めた。2人の首がはねられたことを初めて知った記者たちの間からは、うめき声が洩れ、どよめきが広がった。

吉松1佐も記者たちの前で一部始終を説明した。切腹、介錯という信じがたい状況を記者たちは何度も確認し、「つまり首と胴が離れたんですか」と1人が大声で叫ぶように質問すると、吉松1佐はそのままオウム返しで肯定した。もはや聞くべきことがなくなった記者たちはそれぞれ足早に外へ散っていった[12]

多方面で活躍し、ノーベル文学賞候補としても知られていた著名作家のクーデター呼びかけと割腹自決の衝撃のニュースは、国内外のテレビ・ラジオで一斉に速報で流され、街では号外が配られた[10][17][21][40]。番組は急遽、特別番組に変更され、文化人など識者の電話による討論なども行われた[41]。市ヶ谷駐屯地の前には、9つあまりの右翼団体が続々と押し寄せた。

12時30分から防衛庁で記者会見を開いた中曽根康弘防衛庁長官は、事件を「非常に遺憾な事態」とし、三島の行動を「迷惑千万」「民主的秩序を破壊する」ものと批判した。官邸でニュースを知った佐藤栄作首相も記者団に囲まれ、「気が狂ったとしか思えない。常軌を逸している」とコメントした。両人はそれまで、三島の自衛隊体験入隊を自衛隊PRの好材料として好意的に見ていたが、事件後は政治家としての立場で発言した[42]。なお、佐藤首相はこの日の日記に「(事件を起こした)この連中は楯の会三島由紀夫その他ときいて驚くのみ。気が狂ったとしか考へられぬ。詳報を受けて愈々判らぬ事ばかり。(中略)立派な死に方だが、場所と方法は許されぬ。惜しい人だが、乱暴はなんといっても許されぬ」と困惑している旨を書き残している。一方、中曽根は後に『私の履歴書』で「私は、これは美学上の事件でも芸術的な殉教でもなく、時代への憤死であり、思想上の諌死だったのだろうと思った。が、菜根譚にあるように『操守は厳明なるべく、しかも激烈なるべからず』であり、個人的な感慨にふけっているときではなかった」としている[44]

釈放された益田総監が自衛官たちの前に姿を現し、「ご迷惑かけたが私はこの通り元気だ。心配しないでほしい」と左手を高く振って挨拶すると、「いーぞ、いーぞ」「よーし、がんばった」などの声援が上がり、拍手が湧いた。その場で取材していた東京新聞の記者は、その光景になんとも我慢できないものを感じたとし、その「軍隊」らしくない集団の態度への違和感を新聞コラムに綴った[



テレビの正午のニュースで息子の事件を知り注視していた三島の父・平岡梓は、速報のテロップで流れた「介錯」「死亡」の字を「介抱」と見間違え、なぜ介抱されたのに死んだのだろうと医者を恨み動転していた。そのうち、外出先で事態を知った母・倭文重や妻・瑤子が緊急帰宅し、一家は「青天の霹靂」の混乱状態となった。

13時20分頃、三島と親しい川端康成が総監部に駆けつけたが、警察の現場検証中で総監室には近づけなかった[46]。呆然と憔悴した面持ちの川端は報道陣に囲まれ、「ただ驚くばかりです。こんなことは想像もしなかった――もったいない死に方をしたものです」と答えた。石原慎太郎(当時参議院議員)も現場を訪れたが、入室はしなかったという。石原は集まった記者団に対して「現代の狂気としかいいようがない」とコメントしている。

14時、警視庁は牛込警察署内に、「楯の会自衛隊侵入不法監禁割腹自殺事件特別捜査本部」を設置した[9]。自衛隊の最高幹部の1人は、「三島の自決を知ったあとの隊員たちの反応はガラリと変った。だれもが、ことばを濁し、複雑な表情でおし黙ったまま、放心したようであった。まさか自決するとは思っていなかったのだろう。その衝撃は、大きいようだ」とこの日の感想を結んだ。

演説を見ていたK陸曹も、「割腹自決と聞いて、その場に1時間ほど我を忘れて立ち尽くした」と言葉少なに語り、幕僚3佐のTも、「まさか、死ぬとは! すごいショックだ。自分もずっと演説を聞いていたが、若い隊員の野次でほとんど聞き取れなかった。死を賭けた言葉なら静かに聞いてやればよかった」という談話を述べた

17時15分、三島と森田の首は検視のため一つずつビニール袋に入れられ、胴体はに収められて、市ヶ谷駐屯地を出て牛込署に移送され、遺体は署内に安置された。署には民族派学生たち右翼団体が弔問に訪れ、仮の祭壇が設けられたが、すぐに撤去された。

22時過ぎ、警視庁は三島邸や森田のアパートの家宅捜索を開始し、三島の家は、翌日の午前4時頃まで捜索された。三島邸の閉ざされた門の前の路上には、多くの報道陣が密集し、その後方には、三島ファンの女学生が肩を抱き合い泣く姿が見られ、詰襟の学生服を着た民族派学生の一団が直立不動の姿勢で頬を濡らし、嗚咽をこらえて長い時間立っていたという

検視・物証・逮捕容疑

翌日の11月26日の午前11時20分から13時25分まで、慶応義塾大学病院法医学解剖室にて、三島の遺体を斎藤銀次郎教授、森田の遺体を船尾忠孝教授が解剖執刀した。その検視によると、2人の死因は、「頸部割創による離断」で、以下の所見となった

三島由紀夫:

頸部は3回は切りかけており、7センチ、6センチ、4センチ、3センチの切り口がある。右肩に刀がはずれたと見られる11.5センチの切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はヘソを中心に右へ5.5センチ、左へ8.5センチの切創、深さ4センチ。左は小腸に達し、左から右へ真一文字。身長163センチ。45歳だが30歳代の発達した若々しい筋肉。脳の重さ1440グラム。血液A型。

森田必勝:

第3頸椎と第4頸椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部の傷は左から右に水平、ヘソの左7センチ、深さ4センチの傷、そこから右へ5.4センチの浅い切創、ヘソの右5センチに切創。右肩に0.5センチの小さな傷。身長167センチ。若いきれいな体。— 解剖所見(昭和45年11月26日)

三島は、小腸が50センチほど外に出るほどの堂々とした切腹だったという[6]。また一太刀が顎に当たり大臼歯が砕け、を噛み切ろうとしていたとされる。

介錯に使われた日本刀・関孫六は、警察の検分によると、介錯の衝撃で真中より先がS字型に曲がっていた。また、刀身が抜けないように目釘の両端を潰してあるのを、関孫六の贈り主である渋谷の大盛堂書店社長・舩坂弘が牛込警察署で確認した。

刀剣鑑定の専門家・渡部真吾樹は、この刀の刀紋は「三本杉」でなく、「互の目乱れ」だとし、刀の地もかなり柔らかく、関孫六の鍛え方とは違うと鑑定した。他にも、この刀が本物の関孫六ではないとする専門家の断言や、刀の出所調査もあり、三島が贋物をつかまされていたという説は根強くある[55]

小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の所持品には、三島が3名に渡した「命令書」と現金3万円ずつ(弁護士費用)、特殊警棒各自1本ずつ、登山ナイフなどがあった。小賀への命令書には主に、以下の文言が書かれてあった

君の任務は同志古賀浩靖君とともに人質を護送し、これを安全に引き渡したるのち、いさぎよく縛に就き、楯の会の精神を堂々と法廷において陳述することである。
今回の事件は楯の会隊長たる三島が計画、立案、命令し、学生長森田必勝が参画したるものである。三島の自刃は隊長としての責任上当然のことなるも、森田必勝の自刃は自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範をたれて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛烈の行為である。
三島はともあれ森田の精神を後世に向かつて恢弘せよ。— 三島由紀夫「命令書」[

小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3名は、嘱託殺人不法監禁傷害暴力行為建造物侵入銃刀法違反の6つの容疑で、11月27日に送検され、その後12月17日に、嘱託殺人、傷害、監禁致傷、暴力行為、職務強要の5つの罪で起訴された


事件後

各所の反響・論調

自衛隊・防衛庁

事件翌日11月26日の総監室の前には、誰がたむけたのかの花束がそっと置かれていたが、ものの1時間とたたぬうちに幹部の手によって片づけられた。その後、東京および近郊に在隊する陸上自衛隊内で行われたアンケート(無差別抽出1000名)によると、大部分の隊員が、「檄の考え方に共鳴する」という答であった。一部には、「大いに共鳴した」という答もあり、防衛庁をあわてさせたという[57]

三島と対談したことのある防衛大学校長・猪木正道は、三島の「檄」を、「公共の秩序を守るための治安出動を公共の秩序を破壊するためのクーデターに転化する不逞の思想であり、これほど自衛隊を侮辱する考え方はない」と批判した。

その後、三島と楯の会が体験入隊していた陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地には、第2中隊隊舎前に追悼碑がひっそりと建立された。碑には、「深き夜に 暁告ぐる くたかけの 若きを率てぞ 越ゆる峯々 公威書」という三島の句が刻まれた。

警察が、三島と知り合った自衛隊の若い幹部に事情聴取すると、三島に共鳴し真剣に日本の防衛問題を考えている者が予想以上に多かったという。楯の会にゲリラ戦略の講義などをしていた山本舜勝1佐も事情聴取されたが、警察当局は事件を単なる暴徒乱入事件という形で処理する方針となっていたため、山本1佐は法廷までは呼ばれなかった。

12月22日、東部方面総監・益田兼利陸将が事件の全責任をとって辞職した。この際、益田総監と中曽根康弘防衛庁長官が談判したが、その時の記録テープには、中曽根が「俺には将来がある。総監は位人臣を極めたのだから全責任を取れば一件落着だ」「東部方面総監の俸給を2号俸上げるから…」(これは退職金計算の基礎額を増やし、退職金を増やすという意味)と打診していたくだりがあるとされる。

三島事件の被害者の1人である寺尾克美3佐は、このテープを聞いて「腸が煮えくり」かえり、それまで尊敬していた中曽根を、「こういう男かと嘆かわしく思った」としている。

事件から3年後の1973年(昭和48年)秋から、自衛官用の服務の宣誓文に「日本国憲法及び法令を遵守し」という文言を防衛庁内局が挿入した[36]。この文言は、それまで国家公務員警察官他)の宣誓文だけに書かれ、自衛官の宣誓文に「憲法遵守」を入れるのは躊躇されていたが(憲法第9条を素読すれば自衛隊の存在が違憲と捉えることが可能なため)、三島事件で自衛隊が全くの安全人畜無害な組織であることが明瞭となったため(誰1人としてこの文言を入れても将校が反抗しないと判断したため)、挿入することになった[36]

葬儀・記念碑・裁判など

事件翌日の11月26日、慶応義塾大学病院で解剖を終えた2遺体は、首と胴体をきれいに縫合された。午後3時前に死体安置室において、三島の遺体は弟・千之に引き渡され、森田の遺体は兄・治に引き渡された。森田の方は、そのまますぐに渋谷区代々木火葬場荼毘に付された。弟の死顔は、安らかに眠っているようだったと治は述懐している。

15時30分過ぎ、病院からパトカーの先導で三島の遺体が自宅へ運ばれた。父・は息子がどんな変わり果てた姿になっているだろうと恐れ、棺を覗いたが、三島が伊沢甲子麿に託した遺言により、楯の会の制服が着せられ軍刀が胸のあたりでしっかり握りしめられ、遺体の顔もまるで生きているようであった。これは警察官たちが、「自分たちが普段から蔭ながら尊敬している先生の御遺体だから、特別の気持で丹念に化粧しました」と施したものだった。

密葬には親族のほか、川端康成、伊沢甲子麿、村松剛、松浦竹夫、大岡昇平石原慎太郎村上兵衛堤清二増田貴光徳岡孝夫などが弔問に訪れた。三島邸の庭のアポロンの立像の脚元には、30本あまりの真紅の薔薇が外から投げ入れられていた。愛用の原稿用紙と万年筆が棺に納められ、16時過ぎに出棺となった。その時に母・倭文重は指で柩の顔のあたりを撫でて、「公威さん、さようなら」と言った[88][注釈 19]。三島の遺体は品川区桐ヶ谷斎場で18時10分に荼毘に付された。

森田の通夜も18時過ぎに、楯の会会員によって代々木の聖徳山諦聴寺で営まれた。森田の戒名は「慈照院釈真徹必勝居士」。この時に、三島が楯の会会員一同へ宛てた遺書が皆に回し読みされた。三重県四日市市の実家での通夜は、翌日11月27日、葬儀は11月28日にカトリック信者の兄・治の希望により海の星カトリック教会で営まれ、16時頃に納骨された。三島家からは弟・千之が出席した。

11月30日、三島の自宅で初七日法要が営まれた。三島は両親への遺言に、「自分の葬式は必ず式で、ただし平岡家としての式は式でもよい」としていた。戒名については「必ず〈武〉の字を入れてもらいたい。〈文〉の字は不要である」と遺言していたが、遺族は「文人として育って来たのだから」という思いで、〈武〉の字の下に〈文〉の字も入れることし、「彰武院文鑑公威居士」となった
12月11日、「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が、林房雄を発起人総代とした実行委員会により、池袋豊島公会堂で行われた。これが後に毎年恒例となる「憂国忌」の母胎である。司会は川内康範藤島泰輔、実行委員は日本学生同盟などの民族派学生で、集まった人々は3000人以上となった(主催者発表は5000人)。会場に入りきれず、近くの中池袋公園にも人が集まった

翌年1971年(昭和46年)1月12日、平岡家で49日の法要が営まれた。大阪のサンケイホールでは、林房雄ら10名を発起人とした「三島由紀夫氏を偲ぶつどひ」が催され、約2000人が集まった。1月13日は、負傷した自衛官たちへ三島夫人・瑤子がお詫びの挨拶回りに来た。

1月14日、三島の誕生日でもあるこの日、府中市多磨霊園の平岡家墓地(10区1種13側32番)に遺骨が埋葬された。自決日の49日後が誕生日であることから、三島が転生のための中有の期間を定めたのではないかという説もある。

1月24日、13時から築地本願寺で葬儀、告別式が営まれた。喪主は妻・平岡瑤子、葬儀委員長は川端康成、司会は村松剛。三島の親族約100名、森田の遺族、楯の会会員とその家族、三島の知人ら、そして一般参列者のうち先着180名が列席した。安達瞳子のデザイン制作により、黒のスポーツシャツ姿の三島の遺影を中心に、黒布の背景に白菊で作った大小7個の花玉が飾られた簡素な祭壇が設けられた

弔辞は舟橋聖一(持病のため途中から北条誠が代読)、武田泰淳細江英公佐藤亮一村松英子伊沢甲子麿藤井浩明出光佐三の8名が読んだ。演劇界を代表した村松英子は嗚咽しながら弔辞を読んでいた



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三島由紀夫の墓



三島由紀夫の名前の由来  三島からみた富士から

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三島 由紀夫(みしま ゆきお、1925年〈大正14年〉1月14日 - 1970年〈昭和45年〉11月25日)は、日本の小説家、劇作家、随筆家、評論家、政治活動家。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)。東京府東京市四谷区(現東京都新宿区)出身
「三島由紀夫」の出発――花ざかりの森
1941年(昭和16年)1月21日に父・梓が農林省水産局長に就任し、約3年間単身赴任していた大阪から帰京。相変わらず文学に夢中の息子を叱りつけ、原稿用紙を片っ端からビリビリ破いた公威は黙って下を向き、目に涙をためていた
同年4月、中等科5年に進級した公威は、7月に「花ざかりの森」を書き上げ、国語教師の清水文雄に原稿を郵送して批評を請うた。清水は、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされ」るような感銘を受け、自身が所属する日本浪曼派系国文学雑誌『文藝文化』の同人たち(蓮田善明、池田勉、栗山理一)にも読ませるため、静岡県の伊豆修善寺温泉の新井旅館での一泊旅行を兼ねた編集会議に、その原稿を持参した。「花ざかりの森」を読んだ彼らは、「天才」が現われたことを祝福し合い、同誌掲載を即決した。
その際、同誌の読者圏が全国に広がっていたため、息子の文学活動を反対する平岡梓の反応など、まだ16歳の公威の将来を案じ、本名「平岡公威」でなく、筆名を使わせることとなった[63]。清水は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい ――というのが、期せずして一致した同人の意向であった」と、合宿会議を回想している。筆名を考えている時、清水たちの脳裏に「三島」を通ってきたことと、富士の白雪を見て「ゆきお」が思い浮かんできた。
帰京後、清水が筆名使用を提案すると、公威は当初本名を主張したが受け入れ、「伊藤左千夫(いとうさちお)」のような万葉風の名を希望した。結局「由紀雄」とし、「雄」の字が重すぎるという清水の助言で、「三島由紀夫」となった。「由紀」は、大嘗祭の神事に用いる新穀を奉るため選ばれた2つの国郡のうちの第1のものを指す「由紀」(斎忌、悠紀、由基)の字にちなんで付けられた
昭和39年の新年号で、細身のスーツに身を包み写真に納まる三島由紀夫。『仮面の告白』や『金閣寺』が英訳出版され、海外での知名度も上がり、日本を代表する作家としての地位を確実にしたころの一枚です




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三島由紀夫×川端康成

1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端康成。その時、同時に候補となっていたのが、三島由紀夫だったことが分かった。1月にスウェーデン・アカデミーが当時の選考過程を公開、三島は「今後の成長によって再検討も」とされていたのだ。しかし、その2年後に、三島は割腹自殺。さらにその2年後、川端はガス自殺をする。二人はなぜ死を選んだのか?


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【HD映像】三島由紀夫 - "三島事件"最後の演説 




三島由紀夫 - 檄





三島由紀夫 自決シーン貴重映像 






100大事件スペシャル(1992年)「三島由紀夫事件」





三島由紀夫vs東大全共闘 自決1年前の“伝説の討論会”





三島由紀夫・伝説の討論会5/5 50年ぶり秘蔵映像発掘
「VS東大全共闘」#5「三島さんは敗退してしまった人」




「三島由紀夫に魅せられた人たち」






三島 由紀夫 - 





1969年、カナダのテレビ局による、三島由紀夫の貴重なインタビュー




【三島由紀夫】『文化』を大いに語る





川端康成氏を囲んで 三島由紀夫 伊藤整1|3




川端康成氏を囲んで 三島由紀夫 伊藤整2|3





川端康成氏を囲んで 三島由紀夫 伊藤整3|3





三島由紀夫 没後50年 生前最後の手紙につづられた言葉





三島由紀夫 没後50年 ともに自殺した男性の慰霊祭





映画『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』予告編




ぶんきょう浪漫紀行(三島由紀夫の足跡をたどる)12月28日~放送



























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Mitsubishi F-2 | Así es el caza MÁS AVANZADO de Japón que... ¿Podría derrotar al F-22 y Su-35?


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今日は何の日 1984年(昭和59年) 11月16日 世田谷局ケーブル火災 

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世田谷局ケーブル火災


1984年(昭和59年)に東京都世田谷区で発生した電話ケーブル火災事故である。加入電話や都市銀行のオンラインが一時不通となった都市型災害で、電電公社が完全復旧宣言を出すまでに9日間を要した
1984年11月16日(金曜日)午前11時50分頃、東京都世田谷区太子堂4丁目の日本電信電話公社(電電公社)世田谷電報電話局近くの洞道(とうどう)で、増設工事中の電話ケーブルより出火[1]。17時間近くにわたり延焼し、翌日午前4時37分に鎮火した[2]。作業員2名が一時行方不明となったが、死傷者は出なかった当時、同局と三宿交差点付近との間で電話回線の増設工事をしており、ケーブルを保護する鉛管をトーチランプで溶かす作業において、ランプの炎がポリエチレン製のケーブル被覆や、詰め物や敷物として使用していたウエス[3]に引火した事が原因とみられている。現場付近には、2,400回線を一束とする直径6cmの加入者ケーブル52本と、中継ケーブル35本、計87本のケーブルが通っていた
この火災により、世田谷電話局管内の加入電話約8万9千回線、管内の公衆電話、一部の警察電話、区内池尻にコンピュータ事務センターを置く三菱銀行(現:三菱UFJ銀行)のオンライン(全国243支店)が不通となった。区内三軒茶屋に東京事務センターを置く大和銀行(現:りそな銀行)の東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の61の支店で一時窓口での預金・ATMでの引き出しができなくなったほか、第一勧業銀行(現:みずほ銀行)、山種証券(現:SMBC日興証券)の一部支店や世田谷区、狛江市内の郵便局にも影響が生じた[4]。近隣の狛江、成城、砧、弦巻の各電話局管内でも電話がかかりにくい状況が続いた[2]。
119番や110番などでの緊急通報もできなくなったため、東京消防庁では火の見櫓を活用したり「東京消防庁アマチュア無線クラブ」がアマチュア無線で待機態勢を取ったり、市民が直接交番に出向いて警察の出動要請を行うなどの事態が生じた
洞道内部には、狛江、成城、砧、弦巻の各局からの中継系ケーブルがあり、6,400回線中4,000回線が不通になった。回線接続箇所は130万箇所。復旧工事にあたったのべ作業員2万3千人、直接工事経費3億3500万円。機動隊員300人、パトカー28台、消防車51台、伝言飛脚400人が動員された。
三菱銀行はマイクロ波中継車を用意し、17日朝に仮復旧した[2]。電電公社では臨時公衆電話の設置や、被災地域外からの電話内容のメモを被災地内の相手方に配達する「伝言飛脚」を実施した。弦巻電話局では、通常の土曜日は400 - 500通を扱う電報が、17日(土曜日)は4,400通となるなど、電報の扱いも急増した。
郵政省では、世田谷区・目黒区内へのダイレクトメールを除く通常郵便物を、速達郵便扱いとする措置を講じた[8]。世田谷区役所は札幌市内(市外局番011)に臨時に設けた番号から通信衛星で電話を転送する措置をとった。玉川通りでは通常は車両の通行量を感知して点滅間隔を調整する信号制御を行っていたが、復旧までの間は等間隔での点滅となった。
11月20日、三菱銀行のオンラインが完全復旧し、同日夜9時に世田谷電話局に隣接する加入電話398回線が初めて本復旧した。
11月25日、電電公社総裁の真藤恒は、「11月24日午後9時50分までに全加入者を対象としたテスト作業を完了した」と完全復旧を宣言した
問題点と対応
バックアップ体制の不備などが、この事件の最大の問題であった。
二重帰属 - 電電公社は、1つの施設に対し1つの局からの接続しか認めていなかったため、1つの電話局施設が問題を起こすと影響が全国に波及する懸念があった。そのため三菱銀行は事務センターを世田谷電話局の管轄のはずれに設置し、事故の2年前から2つの局への接続を要望したが、「技術上無理」と断られた。事故1ヶ月前から、電電公社と郵政省が協議を始めた。
2元化 - 当時三菱銀行の事務集中センターは東京の1箇所にしかなく、何らかのトラブルが全国に波及した。
手作業 - バックアップ体制の不備を補ったのが、三菱銀行の対策であった。三菱はそろばん、伝票による手作業訓練を行っており、現場にも手作業経験者がかなりいたため、手作業で乗り切ることができた。
想定外1 - 洞道は鉄筋コンクリートでできており、他のケーブルも入っておらず、使用する電圧も電流も低いので、火災事故は想定されていなかった。実際の事故はアセチレントーチという強力な火の使用と、強い可燃性のケーブル被覆が大量にあることから起こった。特にプラスチックは燃えると消火しづらく、発煙量が多い。
想定外2 - 通信衛星である「さくら2号」用の災害対策用車載局9台中3台が現場に入った。しかしこれは電話局が正常に機能していることを前提としており、一般家庭と電話局を結ぶ「加入者系ケーブル」がほぼ全滅した状態では、ほぼ機能しなかった
これを教訓とした対応として、以下が挙げられている。
出火防止対策の実施(難燃ケーブルの採用)
延焼防止対策の実施(防火壁)
洞道内作業管理を強化






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世田谷局ケーブル火災


世田谷局ケーブル火災(せたがやきょくケーブルかさい)は、1984年昭和59年)に東京都世田谷区で発生した電話ケーブル火災事故である。加入電話都市銀行オンラインが一時不通となった都市型災害で、電電公社が完全復旧宣言を出すまでに9日間を要した。

火災概要

1984年11月16日(金曜日)午前11時50分頃、東京都世田谷区太子堂4丁目の日本電信電話公社(電電公社)世田谷電報電話局近くの洞道(とうどう)で、増設工事中の電話ケーブルより出火。17時間近くにわたり延焼し、翌日午前4時37分に鎮火した。作業員2名が一時行方不明となったが、死傷者は出なかった。

当時、同局と三宿交差点付近との間で電話回線の増設工事をしており、ケーブルを保護する鉛管をトーチランプで溶かす作業において、ランプの炎がポリエチレン製のケーブル被覆や、詰め物や敷物として使用していたウエスに引火した事が原因とみられている。現場付近には、2,400回線を一束とする直径6cmの加入者ケーブル52本と、中継ケーブル35本、計87本のケーブルが通っていた


影響と対応

この火災により、世田谷電話局管内の加入電話約8万9千回線、管内の公衆電話、一部の警察電話、区内池尻にコンピュータ事務センターを置く三菱銀行(現:三菱UFJ銀行)のオンライン(全国243支店)が不通となった。区内三軒茶屋に東京事務センターを置く大和銀行(現:りそな銀行)の東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の61の支店で一時窓口での預金・ATMでの引き出しができなくなったほか、第一勧業銀行(現:みずほ銀行)、山種証券(現:SMBC日興証券)の一部支店や世田谷区、狛江市内の郵便局にも影響が生じた[4]。近隣の狛江、成城、砧、弦巻の各電話局管内でも電話がかかりにくい状況が続いた[2]

119番110番などでの緊急通報もできなくなったため、東京消防庁では火の見櫓を活用したり「東京消防庁アマチュア無線クラブ」がアマチュア無線で待機態勢を取ったり、市民が直接交番に出向いて警察の出動要請を行うなどの事態が生じた。

洞道内部には、狛江、成城、砧、弦巻の各局からの中継系ケーブルがあり、6,400回線中4,000回線が不通になった。回線接続箇所は130万箇所。復旧工事にあたったのべ作業員2万3千人、直接工事経費3億3500万円。機動隊員300人、パトカー28台、消防車51台、伝言飛脚400人が動員された。

三菱銀行はマイクロ波中継車を用意し、17日朝に仮復旧した[2]。電電公社では臨時公衆電話の設置や、被災地域外からの電話内容のメモを被災地内の相手方に配達する「伝言飛脚」を実施した[6][7]。弦巻電話局では、通常の土曜日は400 - 500通を扱う電報が、17日(土曜日)は4,400通となるなど、電報の扱いも急増した。

郵政省では、世田谷区・目黒区内へのダイレクトメールを除く通常郵便物を、速達郵便扱いとする措置を講じた。世田谷区役所は札幌市内(市外局番011)に臨時に設けた番号から通信衛星で電話を転送する措置をとった。玉川通りでは通常は車両の通行量を感知して点滅間隔を調整する信号制御を行っていたが、復旧までの間は等間隔での点滅となった[9]

11月20日、三菱銀行のオンラインが完全復旧し、同日夜9時に世田谷電話局に隣接する加入電話398回線が初めて本復旧した。

11月25日、電電公社総裁の真藤恒は、「11月24日午後9時50分までに全加入者を対象としたテスト作業を完了した」と完全復旧を宣言


主な被害施設

火災によるこのほかの不通事故

1975年4月20日、北海道旭川電報電話局東光分局の火災があり、1.9万回線が不通となり、復旧に2週間かかった。そのため、今回も当初復旧に5ヶ月かかると予想された。

1975年2月27日、ニューヨークのアベニュー電話局の洞道から出火し、電話局が全焼。管轄する17万回線中10万回線が不通になり、仮復旧に23日、完全復旧に6ヶ月を要した。

1980年3月、東京の富国生命ビル内のダクト内の電力・通信用ケーブルが炎上した。


問題点と対応

バックアップ体制の不備などが、この事件の最大の問題であった。

  • 二重帰属 - 電電公社は、1つの施設に対し1つの局からの接続しか認めていなかったため、1つの電話局施設が問題を起こすと影響が全国に波及する懸念があった。そのため三菱銀行は事務センターを世田谷電話局の管轄のはずれに設置し、事故の2年前から2つの局への接続を要望したが、「技術上無理」と断られた。事故1ヶ月前から、電電公社と郵政省が協議を始めた。
  • 2元化 - 当時三菱銀行の事務集中センターは東京の1箇所にしかなく、何らかのトラブルが全国に波及した。
  • 手作業 - バックアップ体制の不備を補ったのが、三菱銀行の対策であった。三菱はそろばん、伝票による手作業訓練を行っており、現場にも手作業経験者がかなりいたため[12]、手作業で乗り切ることができた。
  • 想定外1 - 洞道は鉄筋コンクリートでできており、他のケーブルも入っておらず、使用する電圧も電流も低いので、火災事故は想定されていなかった。実際の事故はアセチレントーチという強力な火の使用と、強い可燃性のケーブル被覆が大量にあることから起こった。特にプラスチックは燃えると消火しづらく、発煙量が多い。
  • 想定外2 - 通信衛星である「さくら2号」用の災害対策用車載局9台中3台が現場に入った。しかしこれは電話局が正常に機能していることを前提としており、一般家庭と電話局を結ぶ「加入者系ケーブル」がほぼ全滅した状態では、ほぼ機能しなかった。

これを教訓とした対応として、以下が挙げられている。

  • 出火防止対策の実施(難燃ケーブルの採用)
  • 延焼防止対策の実施(防火壁)
  • 洞道内作業管理を強化

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世田谷局ケーブル火災(1984年11月16日)現場の写真





NHKニュースハイライト1984年 後編



























































今日は何の日  11月14日
■1982年(昭和57年) ブルーインパルス墜落事故
11月14日に行われた浜松基地航空祭での展示飛行においてT-2が「下向き空中開花」という演技を行っていた時、4番機の引き起こしが間に合わず、会場近くの駐車場に墜落するという事故が発生した。これはブルーインパルス史上では初めてとなる展示飛行中の事故であり、墜落機のパイロットは殉職、地上の民間人にも負傷者が出た 上、航空祭には報道のカメラも入っていたことから、事故の一部始終を録画した映像が夕方以降のニュースで繰り返し流される事態になった。多くの報道では「危険な曲技飛行」として扱われ、ブルーインパルスは発足以来最大の危機を迎えた。
事故原因の究明が行なわれ、編隊長のブレイクコールは通常より約3秒遅れ、墜落か生還かの分岐点から0.9秒遅れだった この短い時間を過失に問えるかどうかが問題となった。当初は事故調査に対してどのパイロットも非協力的だった が、静岡地方検察庁の杉本一重が「0.9秒の遅れがどのようなものかが分からないと公訴事案とするかの判断ができない」と考え、実際にアクロバット飛行訓練に体験搭乗した後は、一転してブルーインパルスのパイロットは調査に協力的になったという。
また、この事故より前に、やはり「下向き空中開花」の訓練中に隊長機のブレイクコールの遅れが発生しており、この教訓からブルーインパルスのパイロットにおいては「リーダー機(編隊長機)の指示が遅れたと判断した場合、そのままリーダー機に追従するように」という申し合わせ事項が作成されていた が、事故機のパイロットはその申し合わせに「編隊長の命令である以上は従う」という理由で拒否しており、申し合わせ事項を明文化した「思想統一事項」が作成された際にも最後まで署名をしなかったという。ところが、事故調査報告書においては、最終的には編隊長のブレイクコールの遅れが原因と結論付けられた ものの、「危険を感じたのであればブレイクせずに編隊長についていくべきであった」として、事故機のパイロットの過失をも問うものになり、「思想統一事項」の存在が、事故機のパイロットの責任をも問うことになった。その一方、事故機のパイロットは本来の飛行予想ルートからは外れた場所に墜落しており、本来のルートの延長線上には住宅地や東名高速道路があったことから、事故機のパイロットは「墜落しても被害の少ない場所」を選んでいたのではないかと推測されている。なお、事故機にはフライトデータレコーダーやボイスレコーダーは搭載されていなかった[88] ため、真相は不明である
この事故の後、ブルーインパルスは徹底的に活動を自粛していた。松島基地のある周辺自治体でも「ブルーインパルスは出て行け」という雰囲気で、とても訓練が出来るような状況ではなかった しかし、航空自衛隊にとっても広報活動の大きな柱を失うわけにはいかなかった。実機の飛行とシミュレーターによる徹底的な検証が行われ、安全対策を検討した結果、1983年(昭和58年)10月25日の朝霞駐屯地における自衛隊観閲式での展示飛行から活動を再開することになった。しかし、この時点での活動は航過飛行のみで、アクロバット飛行についてはその後も慎重に検討された。最終的に、展示飛行の際の飛行高度引上げ「下向き空中開花」の課目からの除外などを条件にして、1984年(昭和59年)7月29日の松島基地航空祭からアクロバット飛行を含む展示飛行が再開された

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T-2ブルーインパルス事故を伝える報道各社のニュース.

     


T-2ブルーインパルス浜松基地航空祭(墜落事故).






ブルーインパルス


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ブルーインパルス( Blue Impulse )とは、航空自衛隊に所属する曲技飛行隊(アクロバット飛行チーム)の愛称

当初は部隊の中の1チームという位置づけで、1995年(平成7年)に正式に一部隊として独立した。正式部隊名は第4航空団飛行群第11飛行隊で、広報活動を主な任務とし、展示飛行を専門に行う部隊である 世界の曲技飛行隊の中でも、スモークを使って空中に描画する、いわゆる「描きもの」を得意とするチームである。少数機による密接した編隊での精密な演技を得意としている現在の本拠地は宮城県松島基地である。

本項では、旧日本陸海軍が行なっていた曲技飛行(アクロバット飛行)の歴史を踏まえたうえで第11飛行隊の体制についても解説する。また、第11飛行隊では、ブルーインパルスがイベント等で行う飛行のことを「展示飛行」、展示飛行の開催地に向かうことを「展開」と呼んでいる ため、本項の記述もこれに準ずる。

なお、航空交通管制における編隊のコールサインは、愛称がそのまま用いられている



沿革

本項では、自衛隊以前での階級については当時の階級で記述する。使用機材の変遷については歴代運用機節を参照

前史

源田サーカス

1916年(大正5年)に開隊された旧海軍横須賀海軍航空隊は、当初の任務は教育や飛行練成が主だった が、航空隊が各地に開隊される頃からは、戦技研究や航空機の実用試験を主な任務として行うようになっていた。海軍では、一般からの献金によって製造された戦闘機爆撃機を「報国号」と称しており、1932年(昭和7年)ごろから献納式典の際に、民衆の前で曲技飛行を行うようになった。これが日本におけるアクロバット飛行の始まりで、当時は「編隊特殊飛行」と称していた。この編隊特殊飛行を考えたのは、当時海軍の戦闘機分隊長だった小林淑人大尉で、小林が率いる編隊特殊飛行チームは「三羽烏」「空中サーカス」と新聞で持てはやされた。またこれに先駆ける1925年(大正14年)、旧陸軍所沢陸軍飛行学校で行われた航空兵科独立記念祝典にて、数万の観衆のもと空中分列式と並んで各種飛行曲技の供覧が実施されている

一方、1931年(昭和6年)に発生した柳条湖事件を機として満州(現在の中国東北部)を制圧した関東軍に当時の日本社会は高揚し、「報国号」の献納数も増えることになった。ちょうど1933年(昭和8年)に源田實が戦闘機分隊に配属され、編隊特殊飛行チームを受け継いだ時期と重なったため、曲技飛行の機会も増加し、使用する戦闘機の数も9機にまで増加した。これらの編隊特殊飛行は、専ら九〇式艦上戦闘機を使用して行なわれた。課目には「3機編隊で急降下し、引き起こし中に1機だけ背面飛行となり、そのまま急上昇」というものもあり、列機はほとんど姿勢を崩さなかったという。こうして、編隊特殊飛行チームは「源田サーカス」という通称が定着していった。しかし、戦争の激化と共に編隊特殊飛行は行なわれなくなった

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九〇式艦上戦闘機(きゅうまるしきかんじょうせんとうき)は1932年(昭和7年)に大日本帝国海軍で採用された艦上戦闘機である。略符号はA2N。製造は中島飛行機。機体、発動機ともに日本人が初めて設計、製造した戦闘機である。

自衛隊設立後


第二次世界大戦が終結した後しばらくは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の「301号訓令」によって、日本では航空機の製造や研究などが許されない時期が続いた。これが解除されたのはサンフランシスコ講和条約によって日本の主権が回復した1952年(昭和27年)で[、同年10月には保安隊が発足し、翌1953年(昭和28年)1月からは保安隊航空学校において操縦教育が開始された。さらに、1954年には自衛隊法が成立し、保安隊は自衛隊に改組されることになり、同年7月には航空自衛隊が発足した

1955年(昭和30年)にはMSA協定によって、航空自衛隊はアメリカからジェット戦闘機のF-86Fセイバーの供与を受けることになった[。これに対応し、パイロットの一部は教官課程に進むためにアメリカ留学することになった[。この時に日本のパイロットが留学していたのがアメリカ空軍ネリス空軍基地で、留学生のうちの1人のパイロットは、基地で見たサンダーバーズのアクロバット飛行演技に深く感銘を受けた また、アクロバット飛行チームのメンバーになることが、戦闘機パイロットにとっては大変な栄誉であることも目の当たりにした。

このパイロットは帰国後に浜松基地の第1航空団第1飛行隊の教官として着任し、当時浜松基地に主任教官として在日アメリカ軍事援助顧問団 (MAAGJ) から赴任していた ジョー・ライリー大尉の助言を受け同僚を誘い、1958年(昭和33年)ごろから飛行訓練の合間にアクロバット飛行の訓練を行うようになった。

これは極秘裏に行なった訓練で、やがて飛行隊長の知るところとなった。この飛行隊長は叱責するどころか訓練の趣旨に共感し、すぐに航空団の上層部にかけあって、正式に訓練できる環境を整えた。そのうえ、1958年秋に行われる浜松基地開庁記念式典のアトラクションとして、アクロバット飛行の公開を行うことが認められた。まもなく3番機が訓練に加わり、3機編隊での本格的な訓練が開始された。3人は教官として学生訓練を終えた後、午後4時ごろからアクロバット飛行の訓練を行なっており、1ヶ月で60時間ものフライトを行っていたという。この時期の第1飛行隊のコールサインは「チェッカー」で、編隊飛行の際にはこれに編隊名として色名をつけており、アクロバット飛行チームでは「チェッカー・ブルー」というコールサインを使用していた。

同1958年10月19日には、この3名によるチームにより、航空自衛隊によるアクロバット飛行が初めて一般に公開された。使用機材は通常装備のF-86Fであり、スモークも特別塗装もなかったものの、ジェット機のアクロバット飛行は映画の中でさえ珍しかった時代に、航空自衛隊関係者と観客に与えた衝撃はかなりのものだったといわれている。この後に4番機が加わり、翌1959年(昭和34年)3月15日には愛知県犬山市で行なわれた日本平和防衛博覧会の開会式、同年3月20日の防衛大学校卒業式、同年4月26日の名古屋空港祭において展示飛行が行われた

ここでチームはいったん解散という形態をとることになる者の、アクロバット飛行の訓練は継続された[29]。その後、同年8月にアクロバット飛行チームのリーダーは交代することになり、リーダ,ーの所属する第2飛行隊のコールサインが「インパルス」だったため、アクロバット飛行チームは「インパルス・ブルー」というコールサインを使用することになった

同年12月にアメリカ空軍のサンダーバーズが来日し、同月12日には埼玉県のジョンソン基地(当時)において超音速ジェット戦闘機のF-100Dスーパーセイバーを使用したアクロバット飛行を披露した。この時、航空自衛隊のアクロバット飛行チームもフライトを見学し、パイロットや地上要員のパフォーマンスを観察した ほか、整備員はサンダーバーズのメンバーからスモーク発生方法に関する情報を得ることが出来た

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1955年か1956年ごろのサンダーバーズ


F-86F時代(1961年→1981年)

正式発足へ

この間にアクロバット飛行チームはいったん活動休止状態になったものの、水面下では航空自衛隊アクロバットチーム設立に向けた準備が進められていた。とはいえ、自衛隊内部でも「基地上空での曲技飛行は規則違反」「国家公務員が曲芸ショーなどやる必要はない」 という反対意見も根強かった

しかし、1959年(昭和34年)7月に航空幕僚長が交代すると、航空幕僚長自身がアクロバットチーム設立に対して直接介入するようになった。この時の航空幕僚長は、戦前に「源田サーカス」と称してアクロバット飛行を披露していた経験がある源田實である。源田は過去の経験から、アクロバット飛行が一般人を引きつけることで、自衛隊が国民に親しまれる効果だけではなく、隊員の士気向上にも効果があることを知っていたと考えられている。また、非公認のままでは、訓練中に事故死しても殉職扱いにならない可能性があるため、源田は「万一の事故でも名誉ある措置が取れるように」と考えた

こうして、アクロバット飛行チームの制式化は航空幕僚長である源田の内諾を得られ、パイロットも7名に増員されて訓練が続けられた。1960年(昭和35年)3月4日には、浜松北基地で第1航空団司令と空幕防衛部長がアクロバット飛行の仕上がり具合をチェックすることになり、16課目のアクロバット飛行を披露した。なお、当初は展示飛行のことを「公開飛行」と称していた。まだアクロバット飛行チームは制式化されていなかったものの、これがブルーインパルスの第1回目の公式展示飛行とされている[30]。この検閲の結果、第1航空団司令と空幕防衛部長は「合格」という判断を下した。この報告を受けた源田は、同年4月12日の公式展示飛行を視察した上、同年4月16日にアクロバット飛行チームの編成を下命した

この下命を受けて、第2飛行隊内に「空中機動研究班」が制式発足した。空中機動研究班の目的は「戦闘機パイロットには不可欠の要素である操縦技術・チームワーク・信頼心・責任感・克己心を研究訓練し、技術と精神力の限りない練磨と向上」、展示飛行の目的も「チームの力を最大に発揮し、戦闘隊戦力の一端を多くの人に身近に観察する機会を与えるとともに、航空意欲の高揚を図る」と定められていた。なお、空中機動研究班は1個の独立した部隊ではなく、第1航空団の教官から選抜されたパイロットによるチームであり[29]、教官としての職務の傍らでアクロバット飛行訓練と展示飛行を行っていた。また、このときに考えられた課目は、ほぼすべてがサンダーバーズの課目構成に倣ったものだった


愛称決定と特別塗装の導入

同1960年(昭和35年)5月21日にはジョンソン基地において行われた「三軍統合記念日公開」において展示飛行が行われ、このときに初めてスモークが使用された。なお、機体にはまだ特別な塗装はされていなかった。同年8月1日には部隊名が「空中機動研究班」から「特別飛行研究班」に変更された。また、これとは別に親しみやすい愛称を設定することになり、自衛隊の部内で公募を行なった結果、浜松基地の近くを流れる天竜川にちなんで「天竜」という愛称が採用されることになった。ところが、航空交通管制のコールサインとして使用すると、アメリカ軍の航空管制官にとっては発音が難しい上、古臭いという意見もあった。そこで、これまで使用していた「インパルス・ブルー」を逆にした「ブルーインパルス」(青い衝撃)としたところ、語呂もよく一般にも分かりやすいという理由により、正式な愛称として決定した。編隊長であった稲田淳美3佐が愛称の命名を担当しており、「インパルス・ブルー」とするか「ブルーインパルス」に変更するかで迷っていたという。彼の妻が「衝撃という意味では、原爆の青い閃光ほど衝撃的なものはない」と言ったことから「ブルーインパルス」に決まったという

こうして、制式化された「ブルーインパルス」は、1960年には13回の公式展示飛行を行った。ところが、公式展示飛行が20回を超えた後の1961年7月21日、次期編隊長機として訓練を行なっていたF-86Fが伊良湖岬沖で墜落しパイロットは殉職。ブルーインパルスでは初の犠牲者となってしまった。このため、ブルーインパルスは約1ヶ月ほど飛行停止となり、事故調査の結果を受けて安全対策が整えられた。なお、この時期はブルーインパルスに限らず、各地の飛行隊で墜落事故が多発していた。防空上からもパイロット育成が急がれたため、事故から飛行再開までは短期間であった

この事故を契機として、それまで第1飛行隊と第2飛行隊から選抜されていたパイロットの所属をすべて第2飛行隊とすることによって、パイロットのスケジュール調整を容易にした

この時期まで、ブルーインパルスに使用されている機体はスモーク発生装置を装備していること以外は通常の塗装デザインであった。しかし、編隊飛行でのポジション取りのための目印が少ないうえ、派手さにも欠けていた。このため、隊員から塗装デザイン案を募集したうえで、初代となるブルーインパルス塗装が採用されることになった。これと並行して、カラースモークを発生させる研究も進められ、1961年(昭和36年)10月22日の展示飛行で初めて特別塗装機とカラースモークが披露された

1963年(昭和38年)9月には、東宝の映画『今日もわれ大空にあり』の撮影に第1航空団とブルーインパルスのパイロットが協力することになった。この撮影期間中に東宝からブルーインパルスの塗装デザイン案の提供の申し入れがあり、プロのデザイナーが新塗装のアイデアを提供した。これが正式に2代目となるブルーインパルス塗装として採用されることになった。この新デザインを施した機体は、1963年10月5日に美保基地で行われた航空祭において披露された

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特別塗装機とカラースモーク


東京五輪で五輪を描く

これより少し遡る1963年(昭和38年)1月、東京オリンピック組織委員会 (OOC) よりブルーインパルスに対して、1964年(昭和39年)10月10日の東京オリンピック(東京五輪)開会式における祝賀飛行の要請があった

ただし、当時航空幕僚長だった源田は1961年(昭和36年)から1962年(昭和37年)にかけて、自民党議員団や財界人、さらにはアマチュアレスリング協会の会長も浜松基地に呼んで展示飛行を行わせていた。また、東京五輪の準備に際しては防衛庁も「オリンピック準備委員会」を設けており、自衛隊も協力することになっていた。陸上自衛隊は祝砲を放ち、海上自衛隊は五輪旗を掲げて行進を行うことになっていたが、航空自衛隊の協力できる部分がなかった。源田は1962年の参議院選挙に出馬して政界入りしており、その直前に「開会式の上空に五輪を描く」ことを発案し、航空幕僚長から退官する際に業務引継ぎ事項の中に加えた。さらに、源田は政界入りした後も、オリンピック開催準備委員長でもあった参議院議員の津島壽一に対して、空に五輪を描くことを提案していた。こうした事情から、このOOCからの要請は源田の根回しの結果であるといわれている

この結果、当初は単なる航過飛行(フライバイ)の要請であったが、第1航空団の飛行群司令からブルーインパルスに対して「五輪を描け」というオーダーが入ることになった。同年5月23日にはOOCの事務局から数名のスタッフが浜松基地を訪れ、ブルーインパルスのアクロバット飛行を見学した後、スモークで五輪を描く任務が具体化することになった

この準備に際して、まずブルーインパルス側である程度の案を作成し、これを叩き台にしてOOCが開会式典の構成を策定した 結果、OOCから航空自衛隊への要望は「五輪マークを15時10分20秒から描き始め、位置は昭和天皇が座るロイヤルボックスの正面で、全景が見えること」という細かいものとなった。それに合わせて高度や円の大きさなどの方針を固めていった。しかし、何度訓練してもなかなか上手く描くことはできなかったという。また、カラースモークも、1番機が青、2番機が黄、3番機が黒、4番機が緑、5番機が赤の5色で五輪を描くように準備した。しかし、黒の発色がうまくいかず、ようやく完成したのは開会式の10日前である。

開会式前日の東京は土砂降りの雨で、もし開会式当日の10月10日も雨の場合は開会式は中止されることになっていた。このため、ブルーインパルスのパイロットらは「これは明日はない」と早合点し、深夜1時まで酒を多く飲んでそのまま新橋に宿泊してしまった。しかし、翌朝パイロットらが目を覚ますと東京の空は快晴であり、泡を食ったブルーインパルスのパイロットらは二日酔いのまま入間基地に駆け付け、本番に臨むことになった

ブルーインパルスは出発に際し、入間基地の航空管制官から "Any altitude OK."、つまり「どの高度で飛んでもよろしい」という離陸許可を得た。予定通り午後2時半に離陸したブルーインパルスは、神奈川県湘南海岸の上空で待機した。入場行進の遅れから秒単位で指定されていた式の進行が乱れ、隊長の松下治英は機転を利かせて航空無線機器でNHKラジオを受信しながら開会式の状況を確認してタイミングを見計らった。聖火ランナーが国立競技場に入場すると同時に、ブルーインパルスは江の島上空を通過し国立競技場へ向かった。会場でが放たれ君が代斉唱が終わった直後、赤坂見附の上空にたどり着いたブルーインパルスは松下の号令でスモークで五輪を描き始め、30秒後には東京の空に東西6キロメートル以上にわたる五輪が描かれた。練習でも経験したことのない会心の出来栄えであり、「成功」の無線を受けたパイロットらはコクピット内で歓喜の声を上げたという。展示飛行を終えたブルーインパルスは、銀座の上空を低空で通過したり、上野池袋新宿渋谷品川の上空をスモークを引きながら「凱旋飛行」し、入間基地に帰投したとされている[44]。当時は都内での飛行は厳しく制限されていなかった 上、前述の通り航空管制官からは「どの高度で飛んでもよい」という許可を受けていた

これはオリンピック史上でも前例のないアトラクションであり、開会式が全世界に衛星生中継されていたこともあって、ブルーインパルスは日本国民のみならず、世界的にも大々的に知られることになった。ブルーインパルスの隊員らはこの展示飛行の功績で防衛功労賞とOOCからの感謝状とトロフィーを10月20日に授与されている。なお、OOCからは開会式後に閉会式での実施も打診されたが、松下は「もう成功できるかどうか分からない」と辞退している

1960年代後半

当初は訓練空域が今ほど飛行場から遠くはなく、錬度の維持が行いやすかった。そのため演技の精度は高く、さらに規制も緩やかだったために展示飛行での高度が低かった。その高度の低さは、課目「ハイスピード・ローパス」を例にすると高度35フィート(約11メートル)というもので、「草をむしりとった」という逸話さえある。なお、1965年(昭和40年)から単独機のパイロットを務めた経験のある村田博生は「舞い上がった草の切れ端が翼についていただけ」としている

1965年1月に築城基地から第33飛行隊が浜松基地に移転の上第1航空団所属となり、さらに同年11月20日には第2飛行隊が解隊となったため、ブルーインパルスのパイロットは全員が第1飛行隊所属となった。また、チーム制式名も「特別飛行研究班」から「戦技研究班」に変更となった。この年はパイロットのメンバー交代や補充もあり、各ポジションに2名ずつパイロットを配置することが可能となった。なお、この時期に第1航空団戦技研究班のインシグニアが作成されているが、作成したのは当時ブルーインパルスのパイロットだった村田博生1尉である。同年7月25日には松島基地の航空祭において、ブルーインパルスとしては通算100回目の展示飛行が行われた。しかし、同年11月24日にはアクロバット飛行訓練中に1機が失速して墜落、パイロットが殉職するという、ブルーインパルスでは2度目の事故が発生した

その後も活動は続けられ、1969年(昭和44年)9月7日の丘珠航空祭において、通算200回の展示飛行を達成した。この頃になると航空自衛隊の航空祭以外にも、1966年(昭和41年)11月6日に入間基地で開催された「第1回航空宇宙ショー」において展示飛行を行う など、イベントにおいて展示飛行を要請されることが増え、自衛隊のイメージアップという当初の目的は実を結びつつあった。その一方、1967年(昭和42年)頃からは浜松基地周辺における宅地化の進展に伴い、騒音問題が発生していたため、訓練空域を海上に移さざるをえなくなった


大阪万博で文字を描く

1969年(昭和44年)12月、日本万国博覧会協会からブルーインパルスに対して、日本万国博覧会(大阪万博)の開会式上空における展示飛行の要請があった

当初、展示飛行の内容についてはブルーインパルス側に任されていた。この当時のブルーインパルスは飛行技術面や組織面でも安定した時期で、実力のあるパイロットも揃っており、自主的な研究によって "EXPO'70" という文字を描くことになった。早速訓練を行ない、万博協会の関係者が浜松基地を訪れた際に訓練中の文字を見せた結果、本格的にプロジェクトとして進められることになった。これは五輪を描くよりも困難であったが、1970年(昭和45年)1月12日には浜松基地上空で "EXPO'70" の文字を描くことに成功した

一方、万博の会場からわずか8マイルの地点に大阪国際空港があるため、大阪航空局からは「飛行の承認はできない」と通告を受けた。これに対し、万博協会からも陳情を行なった結果、1970年2月中旬には飛行許可を得ることができた

開会式当日の1970年3月14日、浜松基地を出発したブルーインパルスは、万博の会場で4課目のアクロバット飛行を行なった後、2分30秒かけて会場上空に "EXPO'70" の文字を描いた。その後、同年6月29日の「ジャパンデー」にも同様に文字を描いている。閉会式当日の同年9月13日に万博会場上空で、当初「サヨナラ」の文字も描く予定だったが当日は曇り空だったため「描けない」と判断し航過飛行のみを行う


1970年代

1971年(昭和46年)に入ってからも、ブルーインパルスは順調に展示飛行を重ねていた。しかし、同年7月30日に全日空機雫石衝突事故が発生したため、展示飛行を自粛する事態になった。この事故の影響で、1973年までの展示飛行の回数が減少した。また、この事故を契機として航空路と訓練空域の見直しが行なわれ、アクロバット飛行訓練にも大きな制約が加えられることとなった ため、ブルーインパルスのメンバー養成に要する期間が2倍になってしまった。展示飛行が再開されたのは、同年11月3日に名古屋空港(当時)で行なわれた「国際航空宇宙ショー」からで、この国際航空宇宙ショーにはアメリカ海軍のアクロバット飛行チームであるブルーエンジェルスも参加していた

1972年(昭和47年)11月4日には入間基地を離陸した直後に3番機がエンジンのフレームアウトにより墜落する事故が発生したが、この事故による活動への大きな影響はなかった。なお、3番機のパイロットはベイルアウトによって無事で、地上への被害もなかった。 ここまでのブルーインパルスの展示飛行は5機体制であったが、1976年(昭和51年)9月26日に行われた「第1航空団創立20周年記念式典」においては、6番機を加えた単独機2機による演技が公開され、以降地元浜松基地での展示飛行など特別な場合に6機での演技が披露されるようになる

しかし、実働部隊ではF-86Fどころか、その後継機であったF-104Jにも後継機としてF-4EJが導入されるようになり、高等練習機としてもT-2の導入が開始されていた先に述べたようにブルーインパルスのパイロットは教官が兼任しており、この時期のブルーインパルスは1年間に30回以上の展示飛行を行なっていたこれは、F-86Fを使用した飛行教育が減少していたため、その分展示飛行の機会が増えていたということである。こうした事情の中、1978年(昭和53年)3月には、航空幕僚長から松島基地の第4航空団に対して、T-2によるアクロバット飛行について研究するように指示が出され、同年からは松島基地でアクロバット飛行を行うT-2が目撃されるようになった。既に航空自衛隊では1980年度(昭和55年度)中にF-86Fを全て退役処分とする予定が決まっており、F-86Fを使用したブルーインパルスの展示飛行も1980年度で終了することが正式に決定した

なお、1979年(昭和54年)1月にF-86Fのパイロット養成が終了したことに伴って第1飛行隊が解隊された。そのため、ブルーインパルスは第35飛行隊所属の戦技研究班となった

1981年(昭和56年)2月8日に入間基地で実施された展示飛行が、F-86Fを使用したブルーインパルスとしては最後の展示飛行になった。この最後の展示飛行では、松島基地から通常塗装のT-2が飛来してアクロバット飛行を披露した。F-86Fを使用した展示飛行の実績は545回だった。その後、浜松北基地で3月3日に行われた飛行訓練が最後の訓練となり、同年3月31日限りで第35飛行隊の戦技研究班も解散となった


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横田基地でのブルーインパルス(1981年)



T-2時代(1982年→1995年)

国産練習機の導入

F-86Fの後継機については、日本で製造した「国産機」によってパフォーマンスを行うことが、自国の防衛力や航空産業のレベルを誇示する上で大きな意義があると考えられた。このため、前述したように後継機としてT-2によるアクロバット飛行について研究の指示が出されていた

T-2は超音速機であることから、飛行速度の高速化に伴いターン(旋回)やループ(宙返り)の半径が大きくなり、会場上空へ戻るのに時間がかかるため、課目の間の時間が長くなる。このため、「T-2では単独機を1機増加させた6機体制での展示飛行が効果的である」という研究報告がまとめられた。これに伴い、1979年(昭和54年)にはブルーインパルス用として6機のT-2が予算として計上された。つまり、編隊飛行による演技の間隙を単独機による演技で埋めるという工夫である

1980年(昭和55年)10月には次期ブルーインパルスの塗装デザインの一般公募が行なわれ、2,055作品が集まった。1981年(昭和56年)1月には、女子高校生4名による合作デザイン案が最優秀賞として採用された。1982年(昭和57年)1月12日には松島基地の第4航空団第21飛行隊内に戦技研究班が設置され、同年3月10日までに新造された6機のT-2がすべて引き渡された。機種の変更と同時に、パイロットと地上要員の制服についても新しいデザインとなり、さらに地上でのパフォーマンスも変更された

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T-2によるブルーインパルス



浜松基地航空祭での墜落事故

こうして、F-86Fブルーインパルスの最終展示飛行から約1年半が経過した1982年(昭和57年)7月25日、松島基地航空祭において、T-2を使用したブルーインパルスでは初の展示飛行が実施された。ただし、当日は天候不良のためアクロバット飛行は行われず、2機を使用した低空飛行(ローパス)と編隊飛行のみが披露された。同年8月8日に行われた千歳基地の航空祭からは本格的なアクロバット飛行による展示飛行が開始された

ところが、同年11月14日に行われた浜松基地航空祭での展示飛行において「下向き空中開花」という演技を行っていた時、4番機の引き起こしが間に合わず、会場近くの駐車場に墜落するという事故が発生した。これはブルーインパルス史上では初めてとなる展示飛行中の事故であり、墜落機のパイロットは殉職、地上の民間人にも負傷者が出た上、航空祭には報道のカメラも入っていたことから、事故の一部始終を録画した映像が夕方以降のニュースで繰り返し流される事態になった。多くの報道では「危険な曲技飛行」として扱われ[76]、ブルーインパルスは発足以来最大の危機を迎えた

事故原因の究明が行なわれ、編隊長のブレイクコールは通常より約3秒遅れ、墜落か生還かの分岐点から0.9秒遅れだった。この短い時間を過失に問えるかどうかが問題となった[76]。当初は事故調査に対してどのパイロットも非協力的だった が、静岡地方検察庁の杉本一重が「0.9秒の遅れがどのようなものかが分からないと公訴事案とするかの判断ができない」と考え、実際にアクロバット飛行訓練に体験搭乗した後は、一転してブルーインパルスのパイロットは調査に協力的になったという

また、この事故より前に、やはり「下向き空中開花」の訓練中に隊長機のブレイクコールの遅れが発生しており[80]、この教訓からブルーインパルスのパイロットにおいては「リーダー機(編隊長機)の指示が遅れたと判断した場合、そのままリーダー機に追従するように」という申し合わせ事項が作成されていたが、事故機のパイロットはその申し合わせに「編隊長の命令である以上は従う」という理由で拒否しており、申し合わせ事項を明文化した「思想統一事項」が作成された際にも最後まで署名をしなかったという。ところが、事故調査報告書においては、最終的には編隊長のブレイクコールの遅れが原因と結論付けられた ものの、「危険を感じたのであればブレイクせずに編隊長についていくべきであった」として、事故機のパイロットの過失をも問うものになり、「思想統一事項」の存在が、事故機のパイロットの責任をも問うことになった[84]。その一方、事故機のパイロットは本来の飛行予想ルートからは外れた場所に墜落しており、本来のルートの延長線上には住宅地や東名高速道路があったことから、事故機のパイロットは「墜落しても被害の少ない場所」を選んでいたのではないかと推測されている。なお、事故機にはフライトデータレコーダーやボイスレコーダーは搭載されていなかったため、真相は不明である

この事故の後、ブルーインパルスは徹底的に活動を自粛していた。松島基地のある周辺自治体でも「ブルーインパルスは出て行け」という雰囲気で、とても訓練が出来るような状況ではなかった。しかし、航空自衛隊にとっても広報活動の大きな柱を失うわけにはいかなかった。実機の飛行とシミュレーターによる徹底的な検証が行われ、安全対策を検討した結果、1983年(昭和58年)10月25日の朝霞駐屯地における自衛隊観閲式での展示飛行から活動を再開することになった。しかし、この時点での活動は航過飛行のみで、アクロバット飛行についてはその後も慎重に検討された。最終的に、展示飛行の際の飛行高度引上げ、「下向き空中開花」の課目からの除外 などを条件にして、1984年(昭和59年)7月29日の松島基地航空祭からアクロバット飛行を含む展示飛行が再開された

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任期の問題

展示飛行を再開した1984年(昭和59年)には8回、翌1985年(昭和60年)には年間18回の展示飛行を行うなど、事故後のブルーインパルスは順調に展示飛行を繰り返していた。1990年(平成2年)4月1日には国際花と緑の博覧会の開会式上空で会場の上空に全長20kmにも及ぶ巨大な花のマークを保有する9機すべてを使って描き、同年6月3日の岐阜基地航空祭ではT-2ブルーインパルスとしては100回目となる展示飛行を行い、表面的には順調だった。

一方、ブルーインパルスは広報活動の一環ではあったが、この頃までは隊員と一般市民が接する機会があまりなかった。これは「パイロットは映画スターでも何でもない」「いい気になっていたら事故を起こす」という考えがあったことによる。しかし、1986年(昭和61年)からは市民との交流に前向きな取り組みが開始され、航空祭ではパイロットのサイン会も行なわれるようになった

しかし、こうしてブルーインパルスとしての活動が活発になるにつれて、問題が発生していた

ブルーインパルスのパイロットは教官を兼務しており、これはF-86F時代と変わっていなかった。このため、アクロバット飛行訓練の時間が十分に確保できず、結果的にブルーインパルスへの在籍期間が長くなった。これは実働部隊(TAC部隊)から長期間離脱するということになり、戦闘機パイロットにとっては好ましい状況ではなかった。また、航空祭の時期ともなれば「木曜日か金曜日に展開のため他の基地に移動、土休日に航空祭の展示飛行をこなして松島基地に帰還」というスケジュールとなり、残る月曜から水曜の3日間でアクロバット飛行の訓練ともに教官としての業務もこなさなければならなかった

さらに、T-2ブルーインパルスが活動を開始する少し前の1981年(昭和56年)12月17日には、より実戦的な空中戦教育を行うための組織として、築城基地で飛行教導隊が発足していた。このような状況では、「戦技研究班」と称しつつアクロバット飛行専門であるブルーインパルスを希望するパイロットは少なくなってい

その一方で、1980年代後半には、自衛隊を中途退職して民間航空会社へ転職するパイロットが増え、あまりに退職者が多いためにスクランブル待機の勤務間隔が短くなるなど、実任務にも支障が出る状況になっていた[。ブルーインパルスでさえ、1990年3月にはパイロットの半数が転出や退職となり、9ヶ月ほどの間は6機体制での演技が不可能になっていた


T-4時代(1995年以降)

独立した飛行隊として発足

1989年(平成元年)ごろから進められていた新しいブルーインパルスの準備にあたって、関係者は「展示飛行を専門とする独立した飛行隊」を設けることを考えた

T-2の時代まで、ブルーインパルスのパイロットは教官と兼務する形態で、パイロットの負担が大きかった。独立した飛行隊とすることによって、航空祭などのイベントがある週末は忙しくなるものの、週明けには休暇が取得可能となる。また、ブルーインパルスのパイロットになることによって戦闘機パイロットとしての生涯飛行時間を削ることになるという問題についても、任期を3年と約束し、任期終了後はもとの部隊に戻る体制とすることによって、ブルーインパルスの任務に対して士気が保たれる。さらに、教官と兼務ではブルーインパルスのメンバー養成にも支障をきたすことがあり、これを解決するためにも独立した飛行隊にすることが必要と考えられた

展示飛行専門の飛行隊を新規に創設することは容易ではなかったが、折りしも1990年代は災害派遣や国際貢献などで自衛隊が活動する機会が増加しており自衛隊に対しても国民からの理解が深まっていた時期、自衛隊は広報活動に対して、より積極的になっていた

こうした背景から、前述の問題点を解決して安全で効率の良い運用を行うため、展示飛行専従の部隊として独立することが認められた。1992年(平成4年)11月6日にはブルーインパルスの塗装デザインの一般公募が行なわれ、2,135作品が集まった。その中から、精神科医で飛行機ファンでもある斎藤章二のデザイン案が採用された。また、展示飛行の課目についてもT-4の性能を生かした内容が検討された

1994年(平成6年)10月1日には松島基地第4航空団に「臨時第11飛行隊」が編成された。翌1995年(平成7年)7月30日には研究飛行と称するアクロバット飛行が松島基地航空祭において一般公開され、T-2のブルーインパルスと競演した。同年11月12日には百里基地で一般公開された航空訓練展示でもT-2のブルーインパルスと競演した。この時はブルーインパルス塗装のF-86Fも展示されたため、3世代のブルーインパルスが同時に展示されることになった。同年12月22日、第4航空団第21飛行隊内の戦技研究班が解散すると同時に、「臨時」のない第11飛行隊が制式飛行隊として発足した

こうして、1996年(平成8年)4月5日の防衛大学校入学式で航過飛行(フライバイ)による展示飛行、同年5月5日に岩国基地で開催された「日米親善デー」ではアクロバット飛行による展示飛行 を皮切りに、新しいブルーインパルスの活動が開始され、この年度は22回の公式展示飛行が行なわれた


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1995年11月12日に百里基地で並んだ3世代のブルーインパルス。手前からT-2×7機、F-86F、T-4×7機


40周年目の事故

ブルーインパルスが40周年、第11飛行隊も5周年となる2000年(平成12年)は、岩国基地で行われたフレンドシップデーなどで、「2000」という文字を描くなど、ブルーインパルスが得意とする「描きもの」が展示飛行に採りいれられた

ところが、同年7月4日、金華山沖での訓練を終えて帰投する途中、5番機と6番機が宮城県牡鹿郡牡鹿町(当時・2005年以降は石巻市)の光山山頂付近に墜落、3名が殉職するという事故が発生した。この事故直後からブルーインパルスは活動を停止、同年7月末に予定されていた松島基地航空祭も中止となった

事故原因は海霧の中で高度を下げすぎたのが原因とされた。1991年(平成3年)の同じ7月4日にも墜落事故が発生しており、その日がどんな日であるかはブルーインパルスのメンバー全員が分かっていたにもかかわらず発生してしまった事故だった。しかも、この事故では墜落地点が女川原子力発電所に近い地域で、女川原子力発電所の半径3.6kmに設定されていた飛行禁止区域をかすめて飛んでいたことが問題視され、周辺自治体の一斉反発を招いてしまった

このため、航空自衛隊では、訓練空域や松島基地への進入経路を一部見直した上で飛行最低高度を設定するなどの安全対策を実施し、自治体との話し合いを続けた結果、2001年(平成13年)2月9日から訓練飛行を再開した。単独機である5番機と6番機の要員を失ったブルーインパルスの建て直しのため[1]、第11飛行隊発足当時のメンバーだったパイロットが一時的にブルーインパルスに教官として復帰し[132]、パイロット育成を実施した。また、機体も2機が失われ、通常2機が川崎重工でIRAN(定期検査)に入っているため[130]、6機での展示飛行は出来なくなった

それでも、同年8月26日の松島基地航空祭から展示飛行が再開された。同年9月9日の三沢基地航空祭ではアクロバット飛行を含む展示飛行も行われた が、同年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の発生により、その後の展示飛行はすべて中止となった

2002年(平成14年)4月5日に行われた防衛大学校入校式から活動を再開した。これがT-4ブルーインパルスとしては通算100回目の展示飛行となった。また、6月4日に行なわれたFIFAワールドカップ会場の埼玉スタジアム2002上空でも航過飛行(フライバイ)を行なった。同年中には2001年度予算案で2機の調達が認められたことから、9月までに2機のT-4が引き渡され、再び6機での展示飛行が可能となったのは同年12月1日の岐阜基地航空祭からである。

この期間はパイロットのローテーションが変則的となり、3年という本来の任期を越えて在籍したパイロットもいた が、2003年にはほぼ以前と同様の状態に戻すことができた


50周年、通算展示飛行1,000回を達成

その後は新しい課目の研究や開発を行う余裕も生まれ、2004年(平成16年)には航空自衛隊発足50周年を記念した「サクラ」などの新課目も加わった

2006年(平成18年)には第11飛行隊が創設されて10周年になることを記念し、同年2月17日・18日に記念行事も行われた。この記念行事では、第11飛行隊で天候偵察用に使用されている通常仕様のT-4に対して特別塗装が施された ほか、2000年(平成12年)の事故で殉職したパイロットの慰霊行事も行なわれた[136]。翌2007年(平成19年)5月27日の美保基地航空祭で、T-4によるブルーインパルスとしては通算200回目となる展示飛行を達成した。2009年(平成21年)10月18日には三沢基地航空祭においてサンダーバーズとの競演が実現した

2010年(平成22年)はF-86Fでブルーインパルスが活動を開始してから50周年を迎え、パッチや帽子のデザインが変更されたほか、同年8月21日には松島基地で50周年記念式典が行われ、1982年(昭和57年)以降に事故で殉職したパイロットの慰霊祭が行なわれた。また、2011年(平成23年)1月23日に那覇基地で行なわれた「エアーフェスタ2010」では、F-86F・T-2時代を通算して1,000回目となる展示飛行が行われた

東日本大震災における被害

2011年(平成23年)3月、ブルーインパルスは同年3月12日九州新幹線全線開通を記念した展示飛行のため、同月10日に芦屋基地への展開を行なった。ところが、同月11日、九州新幹線全線開通記念の展示飛行予行を行なった直後に東北地方太平洋沖地震東日本大震災)が発生した。ブルーインパルスの母基地である松島基地は震源地に近かったため、巨大津波に直撃されて、主力戦闘機を含む航空機28機が水没するという甚大な被害を受けた。松島基地に配備されていた航空機で被害を免れたのは、留守にしていたブルーインパルスの機体のみという惨状であった。言い換えれば、基地に残してきた予備の1機が水没した[ものの、ブルーインパルス専用機は不幸中の幸いで被害を回避できた。しかし、基地に帰還することもできなくなってしまった。当然ながら、翌3月12日の九州新幹線全線開通記念の行事全てとともにブルーインパルスの展示飛行は中止されている

基地機能の復旧に時間がかるため、ブルーインパルスの隊員たちは、機体は九州に残したまま、同月14日に松島基地および周辺地域の復旧作業のために帰還した。その後も、基地機能の復旧や津波対策を行う関係から松島基地でのブルーインパルスの機体の受け入れ態勢が整わず、その都度松島からクルーが芦屋基地へ出向く「移動訓練」という形態を余儀なくされた[。訓練飛行が再開されたのは同年5月23日であった。展示飛行は同年8月7日に千歳基地で行なわれた航空祭から再開された。仮の母基地となった芦屋基地では第13飛行教育団の隊舎内にある会議室に間借りする運びとなった。芦屋基地では環境問題の関係からアクロバット飛行の訓練を行うことはできなかった ため、地元との調整の結果、同8月26日からは築城基地上空においてアクロバット飛行の訓練が再開された。離陸課目の訓練で築城基地に離着陸することもあった。整備員が移動しなくて済むように、芦屋基地から築城基地上空まで飛来して訓練を行う「リモート訓練」形式となり、地上統制要員は築城基地まで陸路を移動していた。このほか、日本海側にある見島分屯基地でも洋上訓練を行なっていた。

なお、松島基地が所在する東松島市では同年8月に避難者の応急仮設住宅入居が完了し、全避難所8月31日に閉鎖された。ちょうどこの時期(8月20日)に東松島市で行なわれた「ありがとう!東松島元気フェスタ」で展示飛行が行なわれた。この時は三沢基地からのリモートショー形式であった。

震災による訓練中断と、その後の不安定な天候により、この時期のブルーインパルスでは要員練成にも遅れが生じ、半年ほど第11飛行隊からの転出が遅れる事態になった。このような事情から、要員練成をメインとして、2012年の展示飛行は通常の年の半分以下である12回に減らされた



松島基地への帰還

その後、松島基地の復旧と津波対策が進んだことにより、ブルーインパルスは2012年度(平成24年度)内に松島基地へ帰還することになった。2013年(平成25年)3月15日には、移動訓練の記念として、築城基地に配置される第6飛行隊F-2第304飛行隊F-15との編隊飛行訓練が行なわれたが、ブルーインパルスがTAC部隊の戦闘機と編隊飛行を行なった事例はほとんど前例がないといわれている。同年3月25日には芦屋基地において移動訓練終了を記念して「ブルーインパルスお別れフライト」と称した展示飛行と帰還記念式典が行なわれた が、展示飛行は平日の午前中であるにもかかわらず3,500人の観客が訪れたという。この時の課目には、本来なら2011年(平成23年)3月12日に披露するはずであった「サクラ」も含まれていた

ブルーインパルスは同2013年3月28日に芦屋基地を出発、百里基地を経由しながら3月30日に松島基地に帰還し、3月31日には小野寺防衛大臣 や地元の自治体関係者も集まって 帰還行事が行なわれた[159]。また、同年4月6日には東松島市商工会によって帰還イベントが開催され、悪天候のため訓練飛行は行なわれなかったものの、タキシングやブルーインパルスジュニアの展示が行なわれ

帰還時点では、ブルーインパルスの格納庫はかさ上げ工事中のため、津波対策として新たに整備された退避用の格納庫とエプロンを使用する状態である が、同年4月4日からは再び金華山沖でアクロバット飛行の訓練が再開された。

同2013年6月1日、東日本大震災からの復興を後押しするために福島県福島市で開催された「東北六魂祭」で、パレード会場の国道4号線上をショーセンターとして、ブルーインパルスの編隊連携機動12課目が行われた。


エンジン不具合による飛行停止

2019年(平成31年)4月2日に三沢基地所属の通常仕様のT-4が訓練中のエンジンの不具合で緊急着陸した。

その後の原因調査の結果、エンジン内の振動でタービンブレードが破損していたことが判明し、エンジンの振動を抑える部品を改良したものに交換する必要が出てきたことから、部品交換のされていないT-4はそのまま飛行停止となった。同型機を使用するブルーインパルスも部品交換まで訓練ができず、4~6月に予定されていた鹿児島、山口、静岡、鳥取の各県での展示飛行を中止した。

その後、5月下旬に訓練を再開し、2019年(令和元年)7月21日に宮城県松島町で行われたイベントで飛行を再開したが、部品交換の進度の関係上2機での再開となった。 また同年8月25日に開催された松島基地航空祭においては午前中に1番機・5番機・6番機の3機で飛行し、午後には1番機・2番機・3番機の3機で飛行した。

その後、ブルーインパルス所属機の部品交換が進み、9月5日には6機での飛行訓練を再開した。その直後に行われた三沢基地航空祭では訓練の進捗状況により、1番機・4番機・5番機・6番機の4機で展示飛行を行ったが、9月16日の小松基地航空祭から6機での展示飛行が再開されている。

カラースモークの試験と再開

2019年(令和元年)8月29日には、使用を禁止していたカラースモークの実機試験を実施した。これは2020年(令和2年)の東京五輪関連行事での展示飛行に向けたものであり、まず8月29~31日に地上試験を行い、9月3、4日には空中での試験を実施した。この試験では、スモークの視認性や、空中で拡散するよう改良した染料の地上への影響を確認した。

2020年3月20日、松島基地で「聖火到着式」が開催された際、ブルーインパルスが「五輪」を描き、改良型のカラースモークが初使用された。

史上初の2チーム・12機体制の構築

2020年3月20日、松島基地での東京オリンピック・パラリンピック聖火到着式典においてブルーインパルス史上初となる2チーム・12機体制の飛行が行われた。A(アルファ)編隊が「五輪」を描き、B(ブラボー)編隊がリーダーズ・ベネフィットを披露した。

コロナ・パンデミックにおける医療従事者等への応援

2020年に入って新型コロナウイルスのパンデミックが発生したことで、患者が爆発的に増え、医療従事者等に過大な負担が生じるようになった。世界各地の曲技飛行隊が医療従事者らに向けた展示飛行を実施したことから、ブルーインパルスも医療従事者をはじめとする全国の皆様へ敬意と感謝を示すため、2020年5月29日の12時40分から13時に掛けて東京都心の病院の上空を中心に巡回する展示飛行を実施した[166]。人の集合を避けるため、飛行ルートは飛行開始の3時間前に公表された


2020年東京オリンピック・パラリンピック大会

2020年東京オリンピック開幕に合わせ、開幕式前日の7月23日、5色のカラースモークを出して東京上空に五輪マークを描いた。今回もトラブルに備えて2チーム・12機体制を構築し、通常仕様のT-4が1機、第11飛行隊に追加配備された。両チームとも2から6番機が戦技研究仕様機、1番機は通常仕様のT-4が用いられた。

同年8月24日の東京2020パラリンピック競技大会開会式当日昼にも3色のカラースモークを用いてパラリンピックマークを東京上空に描いたが、予備機3機が入間基地に着陸する直前、適正高度以下でカラースモーク噴射を実施。基地周辺の300台程度の車に水・洗剤で洗い落とせない粒子が付着する被害を与えた


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東京オリンピック聖火到着式にて

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東京オリンピック開会式前日の展示飛行

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体制

前述の通り、ブルーインパルスは当初「飛行隊の中で曲技飛行(アクロバット飛行)を担当する1セクション」という扱いで発足している。このことを踏まえ、本節では第11飛行隊として設立された1995年(平成7年)12月以降の体制について記述する

組織

第11飛行隊の内部組織は、飛行隊長を頂点とし、その下に飛行班・整備小隊・総括班という3つの部署が設置されているが、これは他の航空自衛隊の飛行隊と同様である。

第11飛行隊特有の特徴として、パイロットと整備員については任期が3年と定められている ことが挙げられる。これは、実戦部隊を離れたがらないパイロットが多い事に配慮し、3年間という条件をつけることによって第11飛行隊への選出を行いやすくするためである。また、飛行班・整備小隊においては階級が「空士」の隊員は存在しない。これは、空士は2等空士・1等空士・空士長とも任用期間が3年(2任期目以降は2年)に限られており、第11飛行隊の3年という限られた任期の中では、他の部隊で行われているような新人養成や空曹への昇進試験などに時間を割く余裕がないための配慮である。

通常の制服のほかに『展示服』と呼ばれる、展示飛行の際に着用するための専用の制服や飛行服が用意されていることや、整備員とパイロットの連帯感が強いことも特徴である。相互の理解を深めるため、訓練時にパイロットが他のポジションの後席に同乗する機会を設けている。

飛行班

飛行班長以下、1機あたり1〜3人のパイロットが在籍する。パイロットは「ドルフィン・ライダー」と呼ばれており、パイロットスーツの左腕に装着するパッチにも "DOLPHIN RIDER" と記されている。1番機については飛行隊長と飛行班長の両方が担当する期間もある が、2番機から6番機までは交代要員としてのパイロットは存在しない。第11飛行隊は展示飛行の任務しか行なわないため、日常のミッションはアクロバット飛行やウォークダウン・ウォークバックの訓練となる。

自衛隊では珍しく所属するパイロットの個人名が紹介されている。

前述のように3年間という任期が定められており、任期の業務内訳は以下の通りである。

1年目
TR(訓練待機、Training Readiness)として演技を修得する。展示飛行の際にはナレーションを担当したり、訓練のため後席に搭乗することがある。
2年目
OR(任務待機、Operation Readiness)として展示飛行を行う。
3年目
ORとして展示飛行を行いつつ、担当ポジションの教官としてTRのパイロットに演技を教育する。

限られた期間内で訓練と展示飛行をこなす必要があるため、途中での担当ポジションの変更は一切なく、また第11飛行隊に選出されたパイロット自身が担当ポジションを希望することもできない。左胸のネームタグもポジションナンバー入りとなっている。

パイロットの選出にあたっては、操縦技量が優れていることのほか、高度なチームワークが要求されるために協調性があることが求められている。また、広報活動が主な任務であり、航空自衛隊の代表として多くの観衆と接するため、社交性も要求される。なお、手当ては普通のパイロットと同様である。ブルーインパルスへの異動は「本人の希望による異動」と「命令による異動」があり、2003年(平成15年)時点ではどちらかといえば後者の方が多かったが、2010年(平成22年)時点では本人が希望することが多くなっている[178]

それまでのTAC部隊では全くやったことのない操縦技術を習得せねばならず、最初はどのパイロットも戸惑いがあるという。また、TAC部隊で戦闘機を自在に操っていたパイロットにとっても、訓練内容は高度で厳しい内容であるといわれる。一方、訓練の中で編隊飛行の操縦技量等が著しく向上し、3年の任期を終了してTAC部隊に戻ると、空中集合の早さに同僚のパイロットから驚かれたり、「どうしてこんなに編隊が上手いの?」と質問されたりするという。これについて第11飛行隊の初代飛行隊長は「高度な操縦技術を3年間みっちり行なえば、一般の部隊に戻った後にフィードバックできることも多いはず」と述べている。

なお、展示飛行は日中にしか行われないが、技量維持のため1ヶ月に数回ほど夜間飛行訓練を行なっている。

基本的に過去の在籍者の再在籍は行われないが、事故による要員不足時に教官要員としての再在籍があったほか、それ以外でも、要員の都合上異動から数年後に担当ポジションを変えて再在籍した例がわずかながらある。また、2020年3月20日に行われた東京オリンピック・パラリンピック聖火到着式典において、史上初の2チーム・12機体制とする為に、OBがTAC部隊から一時的に異動していた。その後、2021年の2020東京オリンピック・パラリンピック大会においても同様の措置が取られている


『ブルーインパルス』武田頼政

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