800MHz帯の自動車電話への妨害波被害の話
60MHz帯の妨害の話
僻地の警察や役場に配備した無線機でした
5GHzマイクロ回線の妨害電波の話
400MHz帯 都市災害用無線への妨害電波の話
150MHzの船舶電話のお話
150MHz帯のポケベルのお話
ポケベル、半世紀のサービスに幕…9月30日にサービスを終了
チップ専用船 東北丸 Tohoku Maru 34843総トン・呼出符号JGRB
降雨時におけるアンテナの電波減衰について昔昔・・・日本にまだ衛星通信も無い時代に電電公社においてのマイクロ多重回線の周波数は2GHz帯・4GHz帯・6GHz帯を用いて通信していたが回線需要の逼迫で新しい周波数を使う必要に迫り昭和40年代(1965年)に郵政省に11GHz帯の周波数申請し11GHz方式のT2-1やT2-2方式など導入した私が始めて入社し勤務した伊豆の伊東無線中継所にも初めて導入されたこのルートは熱海~丹那~伊東~天城山~下田の伊豆半島を中継する多重電話回線でした当時11GHzは反射型クライストロン11V-651/652のリぺラー直接周波数変調で500mWで4mのパラボラアンテナで約20Km中継で多重回線電話480回線を3システム合計1500回線を伝送するものでしたがいざ運用を始めると集中豪雨が降ると回線が途切れて伊豆半島が通信孤立状態が多発しました・・いまでは子供でも衛星放送(11GHz)で集中豪雨で映像が切れることは知ってますが当時はある程度は雨による電波減衰は想定してましたが降雨量がどのくらいのときに回線が切れるかと研究して回線が切れたときの降雨量を気象台にそのつど問い合わせた結果10分間降雨量が10mmをこすと回線が切れるこ事を発見して報告した記憶がありますそのことと送信出力が500mWで小電力も問題ではと提言しのも記憶してます この送信クライストロン11V651/652で受信用局発クライストロン11V54は当時は非常に高価(私の初任給の半年分)で寿命も約1年(送信出力半減で取替え)でしてしかもクライストロンの自励発信器であり空洞共振器を調整して周波数を合わす必要がありまた480回線も変調かけるため帯域内の特性(微分)を6MHzP-Pでフラットに調整する必要があり調整を山上の中継所ではなく有人局(伊東・下田)で調整してこの無線機を取替えるのですが特に天城山中継所は有名な伊豆の踊り子の天城山トンネルの上あり道が険しいので地元の強力に他のみ無線機を担ぎ上げていました・・その天城トンネルの前には移動の茶店がありここで弁当や飲み物を買って天城無線中継所に登りました・・何十年か前にこの天城トンネルを訪れたら伊豆の踊り子像の横に茶屋の叔父さん(伊藤さん)の銅像がありました・・・おもわず涙が出てきました・・もう天城無線中継所はありません・・そのごNTTは15GHz帯 22GHz帯 26GHz帯と開発していきましたが降雨減衰で悩されスモッグでも切れることがありました昔昔のお話でした
部屋の整理してたら
天城トンネル上の無線局いまは廃局した
昔天城トンネルを訪れたら踊り子像の横に銅像になつていて涙が流れた
準ミリ波帯通信方式の末路
電電公社では,年々増大・高度化する通信需要に対応するため,15GHz帯に次いで新しく20GHz帯を用いた長距離大容量ディジタル通信方式の開発を行い,51,52年度に東京―横浜,大阪―神戸の2区間において商用試験を行い良好な結果を得た。20GHz帯は,降雨による減衰が大きいため長距離回線には不適当と考えられてきたが,この方式は超高速PCM技術及び固体電子化技術の活用並びにPCMの性質と中継所構成の大幅な簡略化により約3kmごとに中継を繰り返し,長距離幹線系にも使用可能としたものである。1システム当たり400Mb/s(電話換算5,760回線)の伝送容量を有し,1ルート当たり現用8システムを用いて最大電話換算4万6,080回線を収容できる長距離大容量方式であるさらに,公社ではデータ,ファクシミリ,画像通信等の新サービスの進展に伴い増大することが予想される広帯域ディジタル加入者線の需要に対処するため,準ミリ波帯(26GHz帯)を用いて電話局と加入者を結ぶ加入者無線方式の開発を行っている。
加入者無線方式は,電話局を基地局とし四つの扇形ビームを用いて,半形約7km内の事業所加入者等に広帯域ディジタル加入者線を提供するものである。
静岡県も東西155キロメートルを3Kmごとに50局の中継所を建設して
開通したが結局は雨による瞬断が多発し
また26GHzの加入者無線も同様に降雨障害やスモッグでも切れる始末で廃止
このころから高速大容量の光ケーブルが普及しで無線伝送は太刀打ちできず
無線屋はDOCOMOに移籍したりしNTTから無線屋が消え去った
南大東島 対流圏散乱通信
その建設工事で導波菅にフランジ付をした際に半田が管内はみでたまま
送信試験したところ導波菅が熱くなりフランジから焼き落ちたアクシデントが
12km離れている南大東島~北大東島間は60MHz帯のTZ-63で1回線を開通させました
それまで南大東島からの外地への通信は短波によるリンコペックス回線で
申し込んでから1時間のかかるため非常に不便で短波通信であつたので
混信もあり不安定だつたのが即時ダイヤル通話になつたので島民が大喜びでした
回線開通前に南大東島に唯一いたアマチュア無線局がたずねてきて
その大きいバックネットANTを使わしてほしいと懇願されフードホーンに
144MHzのANTを縛りつけ電波出したところ350Km離れた沖縄の
アマチュア無線局が59で受かりパイルアップした裏話がある
南大東島は1面さとうびき畑で製糖所から甘い黒さとうの匂いが
いまでも思いだされる
海を越えて沖縄と結んだ
LS(Long Span)ルート
1961年、鹿児島-奄美大島-沖縄間に山岳回折を利用してテレビ用の800MHz、電話用の2GHz を伝送する見通し外伝搬方式を導入した。1975年には、2GHz 帯で対流圏散乱を利用したテレビ用見通し外通信方式を宮古島-沖縄間に導入。更に、沖縄の復帰にともなって1972年には、4/6GHz 帯を利用し、見通し内伝搬で散乱する島伝いに鹿児島-名瀬-首里を結ぶルート(第1LSルート)が開通した。その後、鹿児島─沖縄間のトラヒックの増大に伴い、市外伝送路の即時維持及び伝送路の安定化のため、第2LSルートが必要となり、1980年から建設工事を進め1982年に開通した。 第2LSルートの実現にあたっては、第1LSルートの伝搬調査結果を反映させると共に、固体電子回路素子技術及び 伝搬補償技術を用いて高品質化、高信頼化並びに低消費電力化を達成した。更に第2LSルートをディジタル化するため、マルチキャリア伝送を用いた16QAM無線方式の開発を開始し、1985年にLS-200M方式を導入した
TS-102形非常災害用短波無線機
電電公社時代の非常用短波無線昔昔・・衛星通信も無い時代に電電公社は地方通信局と本社などを結ぶ非常用の無線電話(TS-301)や地方局同士の非常用短波無線(TS-102)が配備され通信孤立時に備えていた地方通信局(TS-301)は300Wでアンテナは短波アドコックアンテナで即ざに使えるようになつていたが地方局同士の短波通信機(TS-102)50Wは常時は倉庫に保管され非常にアンテナ(ロングワイヤー)やダブレットアンテナをそのつで設営して運用していた当時はマイクロ無線中継所に配備された私が勤務した下田のこのTS-102の真空管の無線機があり月1回の定時通信時はそのつどアンテナを屋上に設営して訓練してましたとのきの思い出で・・尾鷲無線中継に新しくTS-102が配備されるので電波検査時の実通試験に尾鷲と通信せよとの命令でした周波数は3MHz~6MHzに5チャンネルありCH1-3180KHzCH2-3687.5KHz,CH3-3757.5KHzCH4-4905KHz,CH5-5345.0KHzでしたがその電波検査時間がお昼ごろだつたと思います当時私は新入社員でしたがアマチュア無線をやつていたのでまかされましたが指定された周波数が3MHz帯であつたのでアマチュア無線の体験より昼間の3MHz帯での尾鷲との通信は困難ですと進言したが3MHz帯で試験が始まったがS1ぐらいでやつと通信できたが電波管理局から注意を受けた記憶があります このTS-102はその真空管からトランジスターのTS-102Trに更新されたがアンテアカプターだけはかわらなかつたこのカプラーは手動でしたが3Aの高周波電流計がありこれを最大調整し使ってましたが衛星通信や自動車電話や携帯電話が出来て廃止された昔昔のお話しでした
TZ-151連絡用(工事車両)無線
で使ってました車載機とポータブル無線機がJRC製で1Wで重宝しましたが
アンテナが金属での巻き尺のリボンアンテナで折れやすかつたんです
あるとき先輩が山上の無線中継所の地局選定に行き行方不明となり
何度無線で読んでも応答なし
だいぶたってから救助依頼の無線連絡が聞いたところアンテナが折れ連絡
できななかつたとのことだがANT端子に水筒(アルミ製)を接触させ
いま通信しているとのこと・・・水筒は金属製にかぎる(笑い)
富士山頂臨時無線公衆電話
森ミドリさんの思い出
昔・昔そう昭和28年にテレビ放送が開始して全国各地にも放送局が開局し
それらの局に映像・音声を伝送するため電電公社が一手に請け負い日本全国
にテレビ中継網を4GHzで構築して全国に無線中継所からTV局までSTLで
配送していたそのTV中継回線は6回線+予備回線の最大7回線しかなく
NHKを含め民放5社(TBS・NTV・ANB・TX・CX)の東京キー局が電電公社の
TV下り回線6回線を独占占有しておりこの回線を地方局が電電の無線中継所から
分岐しSTLで地方局に配信していており地方局のニュース事件などを東京キー局に
送る場合は電電公社の上り回線(7回線)で東京キー局に送り東京キー局が編集して
また全国の地方局に電電公社の下り回線(7回線)で配信しており
この回線は上下7回線の合計14回線しかなくこれをNHk+民放5社が取り合いになり
事件など発生すると争奪戦がくりひろがられ大混乱にいつもなっていたその中継の
挿入・分岐(インサート・ドロップ)を電電公社の無線中継所で手動で切り替えていた
その時私は名古屋の東山無線中継所に勤務し名古屋の地方局に配信している仕事をしていた
最大の混乱は浅間山荘事件だつたあの銃撃戦が始まると真っ先にNHKが中継をはじめた
すると即に名古屋の民放(CBCなど)のマスターから直通電話でいまNHKで映るてる映像を
送るてほしいと・・ええ民放さんにはNHKの映像はドロップできませんと・・NHKには
事後処理で連絡するから早く映像よこせと押し問答をくりかえすうち民放(TBS)も映像配信
できたためNHKはいいから民放5社の共同映像を流してほしいと緊急ドロップして対処したが
あのときはNHK以外の民放5社は同一映像で壮観であり忘れない一夜であつた
さて話は長くなつたがようするにTV中継回線が7回線しかなくこれを手動で切り替え
いて切り替え合図は時計(めざまし時計の高級のやつ)で30分ごとにプリセットして
申し込み時間30秒まえから番組スタートまでの30秒間で切り替えしなけてばならいが
NHkはじめ民放5社は当時は朝5時がスターの放送開始であつたが夜勤明けで寝坊して
切り替えを失念して朝にニュースなどによく穴をあけた私も前科3犯ぐらいかな
NHK教育に民放のCMを流してしまつたことも・・・
中継線の申し込みはそんな事情もあり30分の単位しか受け付けてなかつたが
TBS系列で全国地方局(30社)の天気を生放送したいが30分単位だと
全国の天気が放送できないので3分単位で申し込みできないかと・・・3分
電電公社も一大事で検討した結果OKをだしてしまつた・・・どうするの
全国の無線中継所マンが3分単位で切り替えしなけては・・放送事故はおこるな
ます時計の改修からは始まっていざ本番だが
配信キー局はなんと名古屋のCBCとのこと・・・ええ私の名古屋地方局発だと大変
そうしてそうして始またのが
こちら名古屋は全国地方局からの映像を3分単位で切り替えしなく大変であり
朝がくるのが怖かった・・放送事故は毎日発生した記憶がある
そのつど森ミドリさんが・・あらまた電電公社のかた寝坊したのね!!と
その間エレトローン演奏して場を綱いでもらっていたが3分間の間には映像こず
森ニドリさんが・・きょうは札幌の空はお休みでつぎは秋田の空とホローしていた
あの1972-1976年は地獄であつた(いまではいい思い出かな)
そのご手動切り替えはコンピーターに置き換えられたそしてテレビのデジタル化に伴い
4GHzマイクロ回線は廃止され光ファイバー網に置き換えられまた無線マイクロ伝送路は
離島通信や非常回線を除き光ファイバーに置き換えられNTTから無線屋はDOCOMOに
移ったりしてNTTから無線屋はほとんどが消え去った
短波無線からテレビ中継から船舶無線からポケットベルから自動車電話や携帯電話と
時代に翻弄された無線屋の一生だった・・・つわもの共の夢のあと・・・
8時の空
『8時の空』(はちじのそら)は、1972年4月3日から1980年9月26日までTBS系列局で放送されていたTBS制作の朝の情報番組である。放送時間は毎週月曜 - 金曜 8:00 - 8:10 (JST) 。
放送開始までのいきさつ
TBSは1971年4月5日、朝の時間帯に大型ワイド番組『モーニングジャンボ』をスタートさせたが、視聴率の不振から1972年4月3日放送分からは7時台の『モーニングジャンボJNNニュースショー』と、8時30分からの『モーニングジャンボ奥さま8時半です』に分割。さらに、12時台に放送されていた『ポーラテレビ小説』を両番組の間の時間帯である8時から再放送することで対処したが、午前8時20分からの10分間が空白となってしまった。
その空白を埋めるべく制作されたのがこの番組である。当初、TBSはオーソドックスな天気予報番組を考えていたが、ビルの屋上に無人のリモートコントロールカメラを設置し、全国各地の生の映像を中継しようという考えが系列局との間で持ち上がり、これによって主要都市に本社を構えるJNN加盟局が著名なポイントにカメラを設置するようになった。その結果、日本各地をお天気カメラを使って伝えるというシンプルな内容でスタートした。