2021年03月
今日は何の日 3月22日 放送記念日 1925(大正14)年NHK東京放送局)が日本初のラジオ仮放送を始めた。7月12日本放送
3月22日
放送記念日
日本放送協会(NHK)が1943(昭和18)年に制定。
1925(大正14)年のこの日、社団法人東京放送局(現在のNHK東京放送局)が日本初のラジオ仮放送を始めた。
東京・芝浦の東京高等工芸学校に仮スタジオを設け、午前9時30分、京田武男アナウンサーの「アー、アー、アー、聞こえますか。JOAK、JOAK、こちらは東京放送であります。こんにち只今より放送を開始致します」という第一声が放送された。
元々は3月1日に放送を開始する予定だったが、購入予定の日本にたった1台しかない放送用送信機が、同じく設立準備中の大阪放送局に買い取られてしまった。
そこで東京放送局は、東京電気研究所の送信機を借り放送用に改造して使用することにしたが、2月26日の逓信省(後の郵政省)の検査で「放送設備は未完成のため3月1日からの放送はできない」と判断されてしまった。既に3月1日から放送を開始すると報じており、また、大阪放送局よりも先に日本初のラジオ放送を行いたいということで、「試験放送」という形で逓信省の許可を受け、なんとか3月1日から放送を開始することができた。
22日には逓信省から正式に免許を受けて仮放送を開始し7月12日に愛宕山からの本放送が開始された。大阪放送局はその年の6月1日から仮放送を開始した。
愛宕山の東京放送局
日本のラジオ放送
歴史
国民のラジオ熱(免許制以前)
日本のアマチュア無線家は1920年代初期から自作の無線機で個人間の無線交信を行っており、1922年にはラジオ受信機の製作に関する情報誌『ラヂオ』が創刊されている
その後、現在はオーディオ雑誌に変わっているが誠文堂新光社刊の『無線と実験』などが数多く発売され、また新聞社による独自のラジオ中継が行われたりした。1924年には、大阪朝日新聞による皇太子裕仁親王(昭和天皇)御成婚奉祝式典や大阪毎日新聞による第15回衆議院議員総選挙開票の中継をはじめ、数多くの実験的要素の強い中継が行われている。
1923年12月、逓信省は放送用私設無線電話規則を制定。翌年、当面東京、名古屋、大阪の3地域で、公益法人として各1事業者ずつ、ラジオ放送事業を許可する方針を打ち出した。
日本初のラジオ放送
日本初のラジオ放送は、1925年3月22日9時30分、社団法人東京放送局(JOAK:現在のNHK東京ラジオ第1放送。略称:AK)が東京・芝浦の東京高等工芸学校(千葉大学工学部の前身)内に設けた仮送信所から発した京田武男アナウンサーによるもので、第一声は
アーアー、聴こえますか。……JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始致します
だった。
波長は375m(周波数800kHz)、空中線電力(出力)約220Wだった。当時の受信機の性能に比して出力が弱かったため、東京市内でないとよく聴こえなかった。
元々は3月1日に放送を開始する予定だったが、購入する予定だった、当時日本に1台しかないウェスタン・エレクトリック(WE)社製の放送用送信機が、前年12月に同じく設立準備中の社団法人大阪放送局(JOBK:現在のNHK大阪放送局、略称:BK)に買い取られてしまった。
そこで東京放送局は、東京市電気局電気研究所が放送実施のために購入したゼネラル・エレクトリック社製の無線電信電話機を借り放送用に改造して使用することにしたが、2月26日の逓信省の検査で「放送設備が未完成のため3月1日の放送開始は時期尚早」と判断された。
既に3月1日から放送を開始すると発表しており、また、大阪放送局よりも先に日本初のラジオ放送を行いたいということで、「試験送信」の名義で逓信省の許可を受け、何とか3月1日から放送を開始することができた。
3週間の試験放送の後、逓信省の検査に合格し、3月22日に仮放送(仮施設からの正式な放送という意味)を開始し、7月12日に東京府東京市芝区(現在の東京都港区)の愛宕山からの本放送が開始された。これには改めて購入した出力1kWのWE社製送信機を使用した。
大阪放送局はその年の6月1日から仮放送を出力500Wで開始した。
さらに、社団法人名古屋放送局(JOCK:現在のNHK名古屋放送局、略称:CK)も同年7月15日に、出力1kWのマルコーニ社製送信機を使用して放送を開始した。
1925年、ラジオ聴取契約者は東京13万1373、大阪4万7942、名古屋1万4290件、受信機は鉱石式10円、真空管式120円
1925年のラジオ番組表。『朝日年鑑 大正14年 - 大正15年』より。“米突”はメートルの当て字。つまり375m=800kHz、
1925年のラジオ番組表。『朝日年鑑 大正14年 - 大正15年』より。“米突”はメートルの当て字。つまり375m=800kHz、385m=779kHz
1925年のラジオ番組表。『朝日年鑑 大正14年 - 大正15年』より。“米突”はメートルの当て字。つまり375m=800kHz、
1945年まで
社団法人東京・大阪・名古屋放送局は翌年の1926年に「社団法人日本放送協会」として統合された。これは実質的には政府機関的な性格を持っていた。「全国鉱石化」(日本全国のどこでも鉱石受信機によるラジオ聴取を可能とするインフラの整備)を目標に日本各地に放送局を開設したほか、外地の南樺太(豊原放送局)や南洋群島(パラオ放送局)にも置局した。さらに、朝鮮には朝鮮放送協会、台湾には台湾放送協会が設立され、日本放送協会の番組を多く中継した。
1927年8月、ラジオで全国中等学校優勝野球大会が中継された(初のスポーツ中継)
1928年11月には昭和天皇の即位の礼が全国中継された(初の本格的な全国ネット放送)。また、1930年2月にはロンドン軍縮会議の中継が行われた(初の国際中継)
受信機としては、交流商用電源や大容量電池によって作動する真空管を使ったものが登場し、鉱石式のイヤホンに代わって、スピーカーで大きな音量の放送が聞けるようになる。ラジオ受信機自体は国内メーカーによって生産が可能となっており、アマチュアによる受信機自作も当時から趣味の一ジャンルとして広まり始めていた。
ラジオ聴取契約者は1931年に100万を突破した。 聴取世帯数は1932年2月には100万、1935年2月には200万、1939年1月には400万を突破。ラジオ受信機の普及が進み、音楽、演芸、スポーツ中継、ラジオドラマなどの多彩なプログラムが提供されるようになったことで娯楽の主役となったが、1941年の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦とその後の戦局の進行と共に大本営発表を行なうための機関と化しプロパガンダ的な番組が増えた。この傾向は終戦まで続いた。1941年12月25日、NHKは全国を軍管区にしたがって5群に分け各群ごとに同一周波数放送を実施した。
聴取世帯数は1940年代にも増加し続け、1940年5月には500万、1941年8月には600万、1943年3月には700万を突破した。しかし、1945年4月になると放送時間は大幅に減少し、1945年5月には名古屋中央放送局が空襲により焼失、8月6日には広島中央放送局が核攻撃で大打撃を受けた(25時間後に再開)
1945年8月15日に終戦ノ詔勅(いわゆる玉音放送)が放送され、戦後は海外領土を失う。「社団法人日本放送協会」は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の管理・監督下に置かれ言論統制が行われた。アメリカ軍とイギリス軍を中心とした(中華民国軍及びソビエト連邦軍は日本に進駐していない)、いわゆる進駐軍向け放送局が主要都市に置かれた。アメリカ軍向けは後にFEN、現在のAFNの前身である。一部の局については日本放送協会から施設や役務の提供が行われた
1920年代末のラジオ放送収録風景。右は粟島すみ子(中央)ら松竹蒲田撮影所の映画俳優たちによるラジオドラマ、左は演奏中の新橋芸者たち。
1945年 - 1959年
戦後、ラジオ受信世帯数は減少しており1946年7月には538万であった
1950年に「社団法人日本放送協会」が公共企業体としての「特殊法人日本放送協会」に改組され、翌1951年には9月1日朝に中部日本放送(現・CBCラジオ)、同日昼に新日本放送(現・毎日放送〔MBS〕)民間放送が開始された。東京では、民間放送の申請を目指す会社が乱立。新聞社系の放送会社の一本化が行われたこともあり、同年12月25日になってラジオ東京(現・TBSラジオ)に開始された。1953年にはテレビ放送も開始されたが、白米10kg680円、銭湯の入浴料15円程度だった時代にテレビ受像機の価格は20 - 30万円程度と高価で一般には買えず、ラジオが一家の主役であり続けた。
民間放送開始以前にはラジオ受信機の所持には政府の許可が必要であり、聴取料を納める必要があったが、無料で聴ける放送の開始によってラジオへの関心が高まり、『初歩のラジオ』『模型とラジオ』など少年向けのラジオ製作雑誌が相次いで創刊された。当時は物品税が高価で、メーカー製完成品を購入するよりは秋葉原などから真空管などの部品を買い集めて自作したほうが安かったために、受信機を製作する人が多かった。彼らは「少年技師(後のラジオ少年)」とも呼ばれ、高度成長期の日本のエレクトロニクス産業の発展の基礎を作る要因の一つともなった
1955年には東京通信工業が日本初のトランジスタラジオを発売。1958年11月にはラジオ受信契約数が1481万件を越えピークとなった[21]。しかし、当時の皇太子・明仁親王が1959年に正田美智子と結婚しパレードのテレビ中継が行なわれたのをきっかけに、テレビ受像機が普及し始め、ラジオは斜陽化の時代を迎える。
超短波を使用したFMラジオ放送については、1957年12月にNHK-FMが東京で試験放送を開始し、翌1958年12月には学校法人東海大学により、放送教育を目的とした「東海大学超短波放送実験局」が放送を開始した。1960年には日本最初の民放FM局 であるFM東海となり、1970年には同局を引き継ぐ形でFM東京が開局している。
1955年頃のラジオ受信機、5球スーパー式。FM放送が始まる前の機種なのでバンドは中波と短波のみ
1955年頃のラジオ受信機、5球スーパー式。FM放送が始まる前の機種なのでバンドは中波と短波のみ
1960年 - 1974年
この頃、部品のトランジスタの普及が進み、これを使ったトランジスタラジオの商品化や、さらにモータリゼーションにより、カーラジオが普及するなど、ラジオは一家に一台から一人に一台というパーソナル化の方向へ向かう。ラジオ放送は家族をターゲットにした編成から、個人をターゲットにした編成へと転換していく。情報トーク番組や音楽番組が増えた他、ターゲットを絞った深夜放送も盛んになった。
1950年代後半から試験放送を続けていたFMラジオ放送は、1969年にNHK-FMの本放送が開始され、同年にはFM愛知が開局している。1970年から71年にかけては、FM大阪、FM福岡、そして東海大学から一企業に運営が引き継がれたFM東京の3局が相次いで開局した。いずれも音楽を中心とした編成で、高音質のステレオ放送により、レコードに次ぐHi-Fi音源として人気を集めることになる。同時期に登場したラジカセの普及によって、放送される楽曲をオープンリールテープやカセットテープで録音する「エアチェック」も流行し、エアチェックを目的として放送される楽曲が載ったFM情報誌も創刊された。しかし、民放局を中心に「楽曲そのものを楽しむ」から「トークの合間に楽曲が流れる」など番組スタイルの変化などから、次第にエアチェックという言葉自体が廃れていくようになる。
1975年 - 1989年
1970年代後半に、中東戦争やオイルショックをきっかけとして海外の国際放送を受信するBCLブームが中学生・高校生を中心に起こった。この時期には、日本向け日本語放送の充実を図る放送局も多く、時事ニュースに留まらずその国の文化などの理解を深めるうえで一定の役割を果たした。また、受信報告書を送ると受け取れるベリカードの収集も盛んに行われた。さらに、送信方向が日本向けではないなど、一般的には受信困難な放送を工夫を重ねて受信しようとするマニアも増えた。これに応じ、受信周波数帯域の広いラジオ受信機、いわゆるBCLラジオが各社より発売され、戦後2回目の黄金期だった。しかし、日本からの海外旅行の一般化や通信自由化を遠因とする国際放送の縮小などで、BCLブームも終わりを遂げ、2006年現在、BCLラジオもソニー以外は撤退した(そもそも一般のラジオ受信機自体、ソニーとパナソニックに整理されている)。
1978年11月23日には国際電気通信連合(ITU)の取り決めによりAMラジオの周波数一斉変更(10kHz間隔→9kHz間隔。通称:9キロヘルツセパレーション)が行われた。
1982年のFM愛媛をはじめに全国に民放FM放送局が相次いで開局する。1988年には東京で2番目となるエフエムジャパン(現:J-WAVE)が開局、大都市圏では複数の民放FM局が開設されるようになり、対象セグメントの多様化が進んだ。
代表的なBCLラジオ ソニー スカイセンサー5900
1990年 - 1999年
1992年にはコミュニティ放送が制度化され、都道府県単位よりもかなり狭い地域を対象としたラジオ放送が行われるようになった。1992年にはAMステレオ放送が開始した。1995年にはFM文字多重放送もスタートする。
1995年の阪神・淡路大震災では、災害時における情報伝達メディアとしてのラジオの重要性がクローズアップされる結果となった。以降、各局とも災害への対応を重点に置くようになり、また大都市圏には外国語FM局も開局する。
2000年 - 2009年
既存のラジオ放送に加え、インターネットによる音声のみの配信であるインターネットラジオの登場、さらに衛星や地上デジタルラジオも加わり、従来のアナログラジオ放送とともに、ラジオの多様化が進んでいる。
一方、メディアの多様化が起因となりラジオ離れの動きが顕著化してきており、それに伴い広告費も減少し続けていることから、ラジオ局は厳しい運営状況を強いられている(詳細はラジオ離れを参照)。
AMステレオ放送を実施していた放送局も会社の合理化に加え、送信機更新の際に必要な装置が2000年半ばまでに生産中止になったのに伴い、AMステレオ放送を終了して元のモノラル放送に戻す放送事業者も2000年代後半に九州地区で出てきた
iPodにおけるラジオ受信装置(左のリモコン)
2010年以降
2010年、AMステレオ放送を終了してAMモノラル放送へ移行する局が相次いだ。MBSラジオとHBCラジオが2月28日深夜(3月1日未明)、ABCラジオが3月14日深夜(3月15日未明)、STVラジオが3月28日深夜(3月29日未明)の放送をもってAMステレオ放送を終了した。終了の理由としてステレオ放送対応のための機材の生産が終了していてメンテナンスの保証がなくなった事があげられている。
2011年1月30日深夜(1月31日未明)にはTBSラジオも終了し、今後も縮小傾向が続く様相である。
2010年3月14日深夜(3月15日未明)より、地上波のラジオ放送と同内容をインターネットを利用してサイマル配信するIPサイマルラジオ「radiko」の実証実験が開始された(同年12月1日より本格的に開始)。またこれとは別に、RNBラジオでは、独自で2010年10月1日にCATVサイマル放送を、同年12月18日から2011年3月31日までIPラジオ実験放送をした。
radikoは当初、本来の放送エリア内での無料配信のみとしていたが[注 12]、2014年4月1日からは放送エリア外からも有料で聴取が可能になるエリアフリーサービス「radikoプレミアム」がスタートした。
また、AM放送については「都市型難聴対策」・「外国波混信対策」・「地理的・地形的難聴対策」・「災害対策」の観点から、2012年までに終了したアナログテレビ放送の周波数帯の一部を利用してFM波による補完放送が行われることになり、2014年12月1日の北日本放送・南海放送を皮切りに、翌2015年に名古屋・東京・広島・長崎・鹿児島など、2016年には大阪・福岡など全国各地でスタートしている。これらの放送は一般的に「ワイドFM」と呼ばれる。
2019年11月に発生した新型コロナウイルスへの感染対策として、2020年4月以降は収録時におけるアクリル板設置やリモート出演などの措置をとる所もみられた
ステレオ放送
二波利用のステレオ受信機
複数の放送波によるステレオ放送(立体放送)
1950年代、NHKラジオ第1放送・第2放送や民放各社などが、2つの放送波を使ったステレオ放送(当時は立体放送と呼ばれた)を行った。NHKの例でいえば第1放送が左側の音声、第2放送は右側の音声をそれぞれ放送し、2つのラジオを並べて置いたり、2台分のチューナーを搭載したレシーバーを使ってステレオ音声を受信するものだった。テレビ放送が開始されると、ラジオとテレビを併用した立体放送も実施された。番組の冒頭では「左のラジオを○○放送に、右のラジオを○○放送に合わせ、私の声が中央から聞こえるように、受信機の音量を調節して下さい」といったアナウンスと、受信機の調整のための音楽が流された。
この方式では「モノラル放送との互換性がとれず、受信機を2台用意しないと片方のチャンネルしか聞くことができない」「左右の受信機に位相特性、周波数特性、レベル等の特性差があると、正しいステレオイメージが得られない」「NHKを除き、2局が協力しないと実現できない」などの問題が多かった。1963年以降、FMラジオ放送で、これらの問題点を解決したステレオ放送が行われるようになったことで、2つの放送波による立体放送は終了した。
二波利用のステレオ受信機
二波利用のステレオ受信機
FMステレオ放送
日本では1963年6月25日から当時のFM東海によってこの方式による試験放送が開始される。
日本においてステレオ放送が開始された当初は、電電公社のステレオ中継回線が整備されていなかったため、ステレオでの生放送は東京近辺のごく限られた地域でしか聴取できなかった。ステレオ収録された番組を放送する場合、NHKでは各基幹局(札幌、仙台、東京、金沢、名古屋、大阪、広島、松山、福岡)にパッケージテープを送り、各地方局ではテープを流している基幹局の電波を再生する「放送波中継」方式がとられていた。また、FM東京をはじめとする民放でもパッケージテープを再生する方式がとられた。
その後、1978年10月1日からFM放送用のPCMステレオ回線が整備され、パッケージテープの送付が廃止される。1980年代には全国のNHK及び民放FM局に、PCMステレオ回線設備が導入され、全国でステレオ音声での生放送が聴取できるようになっている。
沿革
- 1960年8月 - FM東海が、米クロスビー研究所が開発したFM-FM方式によるステレオ実験放送を開始(1961年にAM-FM方式が標準ステレオ方式になるまで実施)。
- 1963年
- 1964年 - NHK-FMが全国に放送局を相次いで開局させ(この時に同時にステレオ放送を開始した局も多い)、遂にFMステレオ放送が全都道府県で聴けるようになる。
- 1969年3月1日 - 全国のNHK-FMの本放送開始。
- 1977年12月 - 全国のNHK-FMのローカル放送ステレオ化工事完了。NHK-FMのローカル番組が全局でステレオで放送できるようになる。これに伴い、NHK沖縄のFM放送でもローカル番組のみステレオで聴けるようになる(全国放送はモノラル放送のまま)。
- 1978年10月1日 - NHKのFM放送用PCMステレオ回線が東京-名古屋-大阪間で開通し、運用を開始する。
- 1979年12月24日 - 全国のNHK-FMの基幹局全てにFM放送用PCMステレオ回線が開通し、運用を開始する。これに伴い、ステレオ放送開始当初から行っていた各基幹局へのパッケージテープの送付が廃止される。
- 1980年 - FM民放4局間(FM東京 - FM愛知 - FM大阪 - FM福岡)にFM放送用PCMステレオ回線が開通、運用開始。
- 1984年 - NHK沖縄にFM放送用PCMステレオ回線が開通し、同県及び鹿児島県の奄美大島地域がようやく全国放送のFM番組がステレオでの放送が可能になった。
- 1985年頃[いつ?] - 全てのNHK放送局に、FM放送用PCMステレオ回線が導入される。
- 2010年頃[いつ?] - 全てのNHK放送局でこれまで使用していたFM放送用PCMステレオ回線から、AM(ラジオ第1・第2)・FMラジオ共用の光デジタル回線に切換。
AMステレオ放送[編集]
詳細は「AMステレオ放送」を参照
インターネットを利用した展開
SimulRadio
詳細は「SimulRadio」を参照
IPサイマル配信
詳細は「radiko」および「NHKネットラジオ らじる★らじる」を参照
災害耐性
送信システムは比較的簡単な構造で、仮に地震などで放送局が破壊されても、肩に担げる程度の大きさの小型送信機から放送することも可能。これを活かし、大規模災害の発生時には臨時災害放送局が開設されることがあり、東日本大震災以降、この開局が盛んとなっている。一部のラジオ放送局ではこの特長を利用し、自分以外の局員が全員操作できない状態になっても、1人いれば、全てを遠隔操作して放送が続けられるようになっている
BCLカード
BCLカード
80年の歴史が詰め込まれたラジオ「LEGACY・ELECTRONICS」vol.1
NHK発祥の地!愛宕山NHK放送博物館
NHK放送博物館 - 地域情報動画サイト 街ログ
NHK放送博物館
さぐり式鉱石ラジオ NHK放送博物館
鉱石ラジオ Crystal Radio 1
鉱石ラジオ Crystal Radio 2
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ジャンク・東芝FM付き真空管ラジオを再生してみた・2021/02
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電卓(電子式卓上計算機)の歴史 電卓戦争 3月18日 1964年(昭和39年)早川電機(現在のシャープ)とソニー電子式卓上計算機(電卓)を発表
電卓(電子式卓上計算機)の歴史 電卓戦争
今日は何の日3月18日1964年(昭和39年)早川電機(現在のシャープ)とソニーが、商用化された製品としては初の電子式卓上計算機(電卓)を発表50万であつた
シャープ COMPET CS-10A
電卓(電子式卓上計算機)の歴史
1 電卓以前
電卓が開発される以前においては、計算は主としてそろばん、計算尺、手動式加算機の他、機械式計算機、電動計算機が使われた。
こうした中で1957年11月、カシオはリレーを使った計算機Casio 14-Aを開発、販売した。リレーとは、継電器のことで電磁石の動作によっていくつかのスイッチの接点を開閉させるものである。
14-Aは、リレーを342個使った「純」国産の計算機であった。 14-Aの14は、14桁計算ができること、Aは最初の計算機という意味である。 14-Aのサイズは78(H)×108(W)×44.5(D)cm。140kg。価格は48万5千円だった。当時、既にテンキー方式を既に採用していた。
1959年5月には自動開平計算機能を装備した後継機 14-B が発売された。理科大の博物館にはこの 14-B が展示されている。
カシオはリレー計算機で計算機の市場をリードした結果、半導体を使った電卓の市場への参入に出遅れることとな
2 世界で最初の電卓
世界で最初の電卓は、英国の Bell Punch社が発売した Anita Mk 8といわれている。
同社は1956年から電卓の開発に取組み、1961年ロンドンで開催されたビジネスショーにおいて、Anita Mk Ⅶ、Mk 8を発表し、1962年に入ってから実際の受注を開始した(Mk Ⅶ、Mk 8は、販売先ごとに分けられたもので、ドイツ、オランダ、ベルギーなど大陸向けがMk Ⅶ、その他の地域がMk 8として販売された) 。
この電卓は機械式計算機の歯車を真空管に置き換えたもので、図体は極めて大きく、重量も14キロもあり、なおかつ非常に高価だった。しかし、電子式のため機械式のような騒音が出ることなく、かつ計算速度が速いことから大きな反響を呼び、その後の電卓開発のきっかけとなった。
ちなみにAnita は、"A New Inspiration To Arithmetic"または、"A New Inspiration To Accounting"の略である。
大きさ 376(W)×450(D)×255(H)mm。
重量 13.9kg。
当時の価格 約 $1,000
また米国では1964年、Friden EC-130が発表された。これはディスプレイにCRTを使用したものであるが、真空管を使っていない世界で最初の電卓の1つといえる。
3 日本のメーカーの取り組み
Anitaに刺激され、日本のメーカーも本格的に電卓の開発にとりかかり、1964年に各社がいっせいに電卓を発表する。3月にはシャープとソニーが最初の電卓をCS-10AとSobaxを発表し、5月には大井電気とキャノンが晴海で開かれた第28回のビジネスショウに最初の電卓 Aleph-zero と Canola 130 を発表した。これらは、Anitaとは違い計算回路にトランジスタやダイオード、パラメトロンという素子を使った世界で最初の電卓であった。
CS-10Aは、シャープ(当時は早川電機)が1964年3月に発表したわが国最初の電卓であり、世界で最初のオールトランジスタ型の電卓といわれている。外観はAnita Mk 8と似ており、Anita同様フルキータイプを採用している。発表時期は他社と同様1964年であるが、実際の発売が6月と他社に先行したことからわが国最初の電卓といわれている。当時の価格は53万5000円と車が買えるほど高価なもので、重量も25kgあった(当時車の価格は54万円程度)。
CS-10Aは、フルキーボードを使用し、重量が重く、価格が高かったことから、シャープは翌年テンキー方式を採用したCS-20Aを発売する。CS-20Aは、重量が16kg、価格が379,000円であった。
SOBAXは、Sony (当時東京通信工業)が開発した電卓である。同社はIBMの後追いではないユニークなものとして「ポータブルコンピュータ」の開発を目標に1961年から電卓の開発に取り組み、1964年3月、シャープが CS-10Aを発表した日と正に同じ日に試作機「MD-5号」を発表し、その後ニューヨーク世界博にも特別出品した。
MD-5号は真空管を使わない世界で最初のオールトランジスタ電卓の1つで、幅35センチ、奥行43センチ、高さ22センチ、重量は約10キロだった。MD-5号は技術水準が高いだけではなく、その操作性も優れていたことから好評を博した。
社内では早く製品化すべきとの声もあったが、片手で持ち運びができるくらいもう少しハンディなものを販売しようということでさらにモデル11まで開発を続け、3年後の1967年6月" SOBAX ICC-500"という名前で販売を開始した。
ソニーは、モジュールICの採用、磁歪遅延腺の開発、数字表示管の改良などきわめて高い技術を凝縮した高級電卓を中心に電卓の開発を行うが、電卓戦争がドロ沼化する中、技術的にも大して面白みがなくなったということで1973年5月、電卓分野から撤収した。ソニーが電卓市場にとどまった期間は6年にも満たないが、これらの電卓開発過程で生み出された技術が、その後ソニーがパーソナルコンピュータ市場に再参入し、大成功をおさめる上で重要な役割を果たすことになる。
なお、SOBAX(ソバックス) はSOLID STATE ABACUS (固体回路のそろばん)の略。そろばんのように手軽に使え、しかも複雑な演算をスピーディにこなせる計算機という意味からついた商品名である。
Canola 130 は、カメラメーカーのキャノンが開発した電卓である。キャノンはカメラレンズを設計する過程で高性能の計算機を必要とし、自ら電卓の開発に取り組んだ。
同機は、1964年5月東京晴海で開かれた第28回ビジネスショウで発表され、10月から発売された。使用したトランジスターは600個、ダイオードは1600個にのぼり、演算桁は1兆まで計算できるよう13桁に設定されていた。当時の価格は 395,000円で4か月前に発売されたCS-10Aより140,000円も安かった。
Canola 130には以下のような特徴を持った当時としては非常に先進的なマシンであった。
①テンキー式を採用、
②ニキシー管に代えて新しいディスプレイ装置である光点式表示を採用、
③事務机にのる大きさとした。
同機は理科大の近代科学博物館に所蔵されている。
アレフゼロ 101 は大井電気が開発した電卓である。
大井電気は通信、制御機器の専門メーカーである。1949年東洋通信機工業から、当時電力搬送の第一人者であった石田寛をはじめとする技術系の人たちがスピンアウトし、発足したベンチャー企業あり、常に技術的に新しいものへ挑戦していく雰囲気があった。
同社は1962年の終りから社長以下全力で電卓の開発に取り組み、1963年8月に日本で初めて電卓の試作に成功した。これは直ちにアレフゼロ101として商品化され、大学の研究室などに販売された(場合によってはアレフ・ゼロはわが国で最初に市場化された電卓であるといえるかもしれない)。
アレフゼロ101は、トランジスタではなくパラメトロンを約1700個用いていた。パラメトロンは東大の高橋秀俊教授により開発された素子であり、多くの電力を必要としたものの、トランジスターより正確で製品寿命が長いといった特徴があった。またテンキー操作を採用し、四則演算、一定数乗除算、累積、自乗、開平、組合演算などが簡単な操作でできた。特に、従来手間のかかった開平演算は、ワンタッチで計算できる特徴を持っていた。また浮動小数点を採用しているので、小数点の位取りは自動的にできた。
大井電気は1000台のアレフゼロを製造・販売したが、その後1970年電卓販売から撤退した。アレフゼロ101は現在大井電気本社に展示してある。
(アレフゼロ101の仕様)
計算容量 加減算 10桁 乗算 20桁 除算 10桁(剰余10桁) 開平 9桁
消費電力 300W
大きさ 550×520×380mm。
当時の価格 80万円
一方、14-Aなどリレーによる機械式計算機で市場をリードしていたカシオはあくまで機械式計算機にこだわり1964年5月新型のリレー式計算機Casio 81を発表したが失敗に終わった。これによりカシオも電卓分野への進出を決意し、1965年10月に最初の電卓 Casio 001を発売する。
4 トランジスタからIC,LSIへ
1964年に開発されたシャープのCS-10Aは、トランジスタを530個、ダイオードを2300個使用しており、重量は25kgと極めて重く、価格も当時の価格で50万円を超える非常に高価なものであった。電卓を小型化し、価格も引き下げるためにはトランジスタに代え当時の最先端の技術であったICやLSIを電卓に搭載する必要があった。
電卓へのIC活用で他社をリードしたのがシャープである。
シャープの電卓開発の主導的役割を果たしたのが当時シャープの専務であった佐々木正である。
彼は1964年すなわちシャープが最初の電卓CS-10Aを制作した年に神戸工業から専務としてシャープに入社し、次々と新しい電卓の開発にたずさわった。彼は頭の回転、行動のスピードが非常に速く、世界中を飛び回っていたので「ロケットさん」とも呼ばれた。
シャープはまずCS-10Aを改良し、1966年テンキータイプの電卓CS-20Aを制作し、また、同年世界初のバイポーラ型ICを使用した電卓CS-31Aを、翌年MOS型ICを使用したCS-16Aの開発に成功する。
ICには、バイポーラ(bi pola)とMOS(メタル・オキサイド・セミコンダクター)の2つがある。バイポーラは、演算のスピードが速いため兵器や宇宙開発機器用のコンピュータにはもっぱらこれが用いられた。しかしMOSと比べ大きいため、電卓の小型化には向かなかった。
(LSIの活用)
その後、シャープは計算機をより小さくかつ安くするため目標をMOS型LSI使った電卓の開発に取り組んだ。しかし、当時MOS-LSIを作るには非常に高度な技術を要する上、需要がどれくらいあるのかわからないことから国内ICメーカーはシャープの要請に応じようとはしなかった。
1968年佐々木正は渡米し、フェアチャイルド、テキサスインスツルメント、AMI、ナショナルセミコンダクター、RCA、ウェスティングハウス、シルバニアといった多くのICメーカーに生産を依頼して回った。しかし当時米国メーカーは利益率の高い軍との取引に力を入れており、量は莫大でも利益率の低いシャープの提案を受けようとはしなかった。あきらめて帰国しようとした佐々木に手を差し出したのはロックウェル社のアイストン社長である。ロックウェル社はシャープの提案を受け入れ、3百万のLSIを3000万ドルで供給する契約を結んだ。
ロックウェル社は当時宇宙開発に力を入れており、こうした高度なデータ制御技術を電卓の設計に取り入れることでシャープは1969年世界で最初のLSI電卓QT-8Dを製造することに成功した。QT-8Dは大ヒットし、両社に莫大な利益をもたらした。
この成功を目の当たりにした日本の電卓メーカーと米国のLSIメーカーはLSI電卓の重要性を認識し、お互いパートナーを模索し、LSI電卓の時代が到来した。
(参考)
CS10A トランジスタ 25kg 50万円
CS20A トランジスタ 16Kg 38万円
CS31A バイポーラIC 13kg 35万円
CS16A MOS・IC 4kg 23万円
5 ポケット電卓の誕生
(Cal Tec (テキサス・インスツルメント))
電卓が普及する中で、各社はこれを胸ポケットに入る大きさまで小型化できないかとの模索した。特に熱心だったのはテキサス・インスツルメント社である。TI社の社長パトリック・ハガティは自社が得意とするICを一般商品の分野まで拡大したいと考え、当時開発研究所の所長で集積回路の発明者であったジャック・キルビーにポケットサイズの電卓の開発を依頼した。キルビーの指示を受け実際電卓の開発プロジェクトを指揮したのはジェーリー・メリマンである。メリマンは、1965年から研究を開始し、1年半後の1967年3月に世界で最初のハンディタイプの電卓カルテク (Cal Tec )を完成させる。
カルテクはディスプレイがなく、入出力はサーマル・プリンタにより感熱紙に印字するタイプの電卓であった。1534個のICを搭載し、ニッケル・カドミウム電池を搭載、1回の充電で約4時間使用できた。縦13センチ、横10センチ、高さ4センチ、重量約640g。弁当箱くらいの大きさであった。
しかし、カルテクは試作にとどまり、生産、販売されることはなかった。これは、この開発が、ICの応用性を顧客に示すことでICの民生分野の販売拡大を目指していたこと、また、ハガティはポケットタイプの電卓をめざしており、カルテクではまだ大きすぎると考えたためである。ハガティはさらに開発チームに対し、ポケット型の電卓を6ヶ月以内に開発するように指示した。しかし、TI社が実際にポケット電卓を発売したのはそれから6年後の1973年になってからのことである。
(ポケトロニック(Canon))
カルテクに刺激を受けたのがキャノンである。
キャノンはシャープに対抗するため、カルテクの設計図を買い取り、改良を加えポケトロニックという名前で1970年10月日本で、1971年2月米国で販売を開始し、大人気を博した。これが製品として市場に出回った最初の携帯型電卓である。ポケトロニックはカルテクと同様表示管を持たずサーマルプリンタを搭載していた。しかし、実際の設計では、キャノンはいくつかの変更を加えた。このうち最も大きな変更はLSIだった。カルテクはバイポーラ型ICを使っていたが、ポケトロニックではMOS型LSIを使っている。
(LE-120A(ビジコン))
ポケトロニックは世界で最初に市場に出回った携帯型電卓であるが、実際ポケットに入れて持ち運ぶには大きくかつ重く、ポケット電卓とはいえなかった。
世界で最初のポケット電卓は1971年に発売されたビジコン社のLE-120Aである。
ビジコン社はインテル社との間でマイクロプロセッサ4004を共同開発したことで有名だが、これと平行してポケット電卓を開発するため、1970年から米国モステック社との間でワンチップ電卓用LSIの共同開発を進めた。モステック社は、テキサスインスツルメンツ社のMOSテクノロジー・ディビジョンからスピンアウトした14人の若者が作った会社で、当時イオン注入法という最新技術を採用し大きな成果をあげていた。開発に当たってはビジコン社は論理部分を担当し、同社の製品であるビジコン120をシュミレーターにして開発を行い、それをモステックがワンチップLSIにした。野心的な若者たちの必死の努力により開発は着手からわずか6ヶ月で完了した。このチップを搭載することで、ビジコン社は1971年には当時としては驚異的な小ささの手のひらサイズの電卓「ビジコンLE-120A」を発売する。これが世界最初のポケット電卓である。
(Executive(Sinclair))
英国ではLE-120 が発売された翌年である1972年にシンクレア社がテキサス・インスツルメント社の開発したワンチップLSIを使いExecutiveという電卓を開発した。ExecutiveはLE-120Aよりさらに薄く、常時ポケットに入れて持ち歩く「手帳型電卓」の走りともいうべき電卓であった。
(901B (Bowmar))
1971年秋に米国で初めて発売されたポケット電卓。Craig 社へも供給された。当時の価格は$240。
(901B (Bowmar))
1971年秋に米国で初めて発売されたポケット電卓。Craig 社へも供給された。当時の価格は$240。
ワンチップのポケット電卓は日本、英国、米国でほぼ同じ時期に開発、製造されたが、スペックはかなり異なっていた。特に電源については901Bが従来の電卓と同じ充電式を採用したのに対し、LE-120Aは使い勝手を重視し、市販の単3乾電池(4本)を使用できるようにした。また、Executive は電卓の薄型化の観点からボタン電池(2個)を採用した。こうした面でも LE-120A と Executive は先進的なマシンであった。
6 ワンチップLSIによる電卓価格の低下
ワンチップLSIの開発は、電卓製造過程において部品点数の大幅な削減を通し電卓の小型化、ポケット電卓の実現に大きな役割を果たした。
さらに、ワンチップLSIは部品点数の大幅な減少により製造費用を大幅に削減することで電卓の価格の大幅な低下を実現した。また製造過程が単純化し、町中の小さな工場が電卓を作ることを可能にした。その結果、電卓の製造市場に多数の中小零細企業が参入し、生き残りをかけた激しい価格競争が展開されることになる。
(Omron 800 (オムロン))
1971年オムロンもワンチップLSIを使い49,800円という当時の電卓の価格相場の半額程度でデスクトップ電卓Omron 800を売り出し大きな反響を得た(当時「オムロンショック」と呼ばれた)。その後、シャープや町工場の信和ディジタルからも次々4万円程度の電卓が発売されるようになる。
(Tallymate (Victor Comptomater))
Tallymate はビジコン社のLE-120Aが発売された1971年頃信和ディジタルという会社により製造されVictor社にOEM供給されたワンチップLSI電卓である。
1968年にテキサスインスツルメント社は日本にLSI 工場を作り1971年には多くの小さな電卓メーカーにこのチップを供給しはじめたが、Tallymateにはこのチップが使用されている。Tallymate の大きさはLE-120A より大きく、ポケット電卓とはいえなかったもののLE-120A と同様乾電池を使い、価格はLE-120A の半額だった。信和ディジタル社は電卓の価格低下により経営がいきづまり最後はリコーに買収されたといわれている。
(DigitalⅢ (Royal))
DigitalⅢ は1972年初めに米国ロイヤルタイプライター社から発売された電卓である。当時、各社にとって電卓の製造コストをいかに引き下げるかが最大の課題だった。DigitalⅢは製造コストの高いボタンを取りはらい、電流の流れているペンを金属板に接触させることで入力する方式を採用した。また表示桁数も4桁とし、読み出し機能をつけることで8桁の計算ができるよう工夫した。こうした工夫の結果、DigitalⅢは当時初めて100ドルを下回る99ドルで販売することができた。しかし、その年の秋にはカシオミニが60ドルで販売され、市場から姿を消すことになる。DigitalⅢ は当時の電卓の価格競争の熾烈さを物語る電卓でもある。
7 カシオミニの登場
(カシオミニ)
こうした激しい価格競争が続く中、1972年8月にカシオは12,800円という当時の相場の3分の1の低価格でカシオ・ミニを発売した。カシオの強力な宣伝効果も加わり、カシオミニは爆発的なヒットとなった。販売台数は、発売後10か月で100万台、3年で600万台と爆発的な売り上げを記録した。かって会社に1台、職場に1台しかなかった電卓はカシオミニの登場により1人が1台を持つ時代に突入した。カシオミニは電卓の価格の大幅な低下を通じ、個人向けの新たな電卓市場を作り出した「大衆電卓」の先がけになった電卓である。
カシオミニは、海外にも数多く輸出されたが、海外では縦型のタイプが好まれ、Unisonic社やSperry Remington社から縦型のものが発売されている。日本で横型のカシオミニがヒットした背景には日常ソロバンという計算用具が使用されていたという背景もあったと考えられる。
(EL-120(Sharp))
カシオミニの出現はライバル企業にとって大きな脅威となった。
当時業界のリーダーであったシャープも窮地に立たされた。同社はこの窮地から脱出するため2つの対抗策をとった。一つは価格面でカシオミニに負けない低価格の電卓を発売すること、二つは価格ではなく高付加価値の新しいタイプの電卓の開発である。
EL-120は1973年に発売された表示桁数3桁の電卓である。表示桁数を抑えることで9,900円と、初めて10,000円の壁を下回ることに成功した電卓である。
(オムロン 60)
数多くのポケット電卓を製造販売していたオムロンも、1973年にカシオミニに対応してオムロン60を発売する。
オムロン 60は、表示桁数6桁、価格は12,800円とカシオミニを意識したスペックとなっている。
価格の低下は新たな需要を作り出す一方、価格競争についていけない企業を輩出させた、電卓の低価格化により多くの企業が市場を奪われ倒産したり、電卓市場からの退出を余儀なくされた。
8 液晶電卓の登場
シャープはカシオミニに対抗するため9900円の3桁電卓EL-120を発売するが、これと平行して高付加価値の新しいタイプの電卓の開発に取り組む。1973年、1年半の開発期間を経てシャープは"COS-LCD"タイプの新しい電卓 EL-805 を発売する。COSはCrystal-on-Substrate若しくはCalculator -on-Substrate の略で1枚のガラス基板上に、表示、回路、キー接点等全機能を一体化したものであり、当時非常に高度な総合技術が必要とした。
EL-805は、世界で始めてCOS-LCD を活用することにより単3電池一本でなんと100時間も使用することを可能にした。価格は26800円とカシオミニに比べると高かったが、電池寿命を考慮するとこの価格差は消費者にとって納得できるものであった。実際EL-805は爆発的なヒットとなった。EL-805の開発の成功により、シャープは電卓業界のリーダーの地位を確保し続けることができた。またこうした液晶電卓を開発したという自負が今のシャープの液晶テレビのヒットにつながっているとも考えられる。
液晶電卓は、電気の消費量が蛍光管電卓と比べ極めて少ないことから、携帯の多いポケット電卓を中心に導入が進み、蛍光管タイプの電卓は急速に市場から消えていった。
このころになるとほとんどのメーカーが市場から退出し、電卓市場は寡占化が進んだ。1971年当時では、日本事務機械工業会加盟の電卓メーカーだけで約20社、アウトサイダーを含めると40社を越していたが、このうち20数社が、厳しい価格引下げ競争に耐えられず、倒産したり、撤退したりした。電卓市場のシェアの8割はカシオ、シャープが占め、他のメーカーは思い切った縮小の中で守りに徹せざるを得ない状況になった。こうした中で、シャープとカシオの技術競争、シェア争いは一層激化していった。
(Accumatic100 (Lloyd's))
液晶電卓を最初に開発したのはシャープといわれているが、実際は1972年に米国Lloyd's社より液晶を搭載した電卓が発売されている。しかし、この電卓は表示管を単に液晶に切り替えただけで、バックライトを使うなど液晶の持つ低消費電力という利点が生かされていなかったことから程なく市場から姿を消した。そういった意味で液晶電卓の時代を切り開いたのはCOS-LCDを開発したシャープといってよいだろう。
9 電卓の薄型化競争
液晶電卓EL-805の開発に成功したシャープは、液晶技術をもとに薄型電卓の開発に力を入れた。1975年に厚さ9ミリの手帳タイプ電卓EL-8010を発売した後、1975年には厚さ7ミリのフイルムキャリア電卓EL-8020を、1977年には厚さ5ミリのボタンレス電卓を次々に発売し電卓市場をリードした。当時のシャープのパンフレットには、電卓分野で絶対的優位に立った自信がよく出ている。
(名詞サイズ電卓 LC-78の登場)
こうしたシャープの攻勢に対して、カシオは手帳型よりさらに小さい名刺サイズ電卓ミニカードLC-78を開発して対抗した。シャープの手帳型電卓はポケットに入れることはできるが、これをポケットに入れると他の物をポケットに入れることができなくなる。名刺サイズにすることでほとんどの人が電卓を携帯しているという感触を忘れることができる。カシオの開発スタッフは名刺の大きさ、液晶表示、メモリーつきで携帯に便利な軽さの電卓の開発にあたったが、薄さも当時最も薄かったシャープのボタンレス電卓EL-8130の5ミリを下回る3.9ミリを実現した。このミニカードは1978年の円高不況の真っ最中に売り出されたにもかかわらす、爆発的なブームを巻き起こし、注文が工場に殺到した。カシオミニがピーク時で月産20万台だったのに対し、LC-78は月産40万台に達した。
こうしたヒットに対抗し、各社もいっせいに名刺サイズの電卓を発売するが、シャープも半年後、ボタンレスで名刺サイズの電卓EL-8140を出して対抗した。EL-8140は厚さ3.8ミリとLC-78と比べて、0.1ミリ薄く設定されるなどLC-78を非常に意識したものとなっており、また電源を切った場合でも情報を長時間記憶できるストレージ・コンピュータの機能がついていた。
(SL-800)
その後、電卓の薄型化競争は両社の面子をかけた争いとして激しさを増した。1983年4月にカシオは厚さ0.8ミリのクレジットカードサイズの電卓SL-800を発売する。SL-800はあまりに薄いことから、持ち運びには折り曲がらないよう返って神経を使わなければならなかった。この電卓は、20年にわたる電卓の小型化、薄型化の流れの終着点ともいうべき電卓であり、現在MOMAの永久保存品として保管されている。
10 複合電卓
電卓の技術的制約や価格面での制約がなくなる中で電卓メーカーは新たな市場開拓を余儀なくされた。とくにカシオは電卓の高付加価値化を図る観点から「カシオミニ」のヒット以降、複合電卓の開発にも力を入れた。その中の一つが1976年に発売した時計と電卓を組み合わせた複合電卓CQ-1(愛称「でんクロ」)である。でんクロは電卓機能とアラーム機能を合体させることにより学生やビジネスマンのみならず家事にも使われ、電卓の新しい需要を開拓した。またカシオは電卓の利用層を拡大する観点からゲーム電卓についても力を入れ様々なゲーム電卓を発売した。
これに対し、シャープも複合電卓やゲーム電卓を発売するが、シャープはカシオと比べビジネス関連分野や液晶関連製品の開発に力を注いだ。
11 電卓の発達史
以上、電卓の発達過程をまとめたのがこの表である。
1962年から約20年の間に25kgの電卓が12gまで小さくなることができた。
価格も当時車と同じ程度だったのが今では100円ショップで購入することもできる。
こうした驚異的進歩において日本の企業が、日本人の能力が果たした役割が極めて大きいというのも、電卓の特徴である
12 太陽電池式電卓(補足)
以上が電卓の発達史であるが、最後に2点ほど補足したい。
まず1つは太陽電池式電卓である。
これについては、情報が限られており、不明な点が多い。太陽電池自体電卓開発のために開発されたのではないという背景にあるのかもしれない。
ここでは、私が今持っている情報をお示ししたい。
PHOTON Ⅲ(TEAL社)
まずTEAL社のPHOTON Ⅲであるが、これは折りたたみ型のカード電卓の片面が全て太陽電池という電卓である。
この電卓の説明書には世界で最初の太陽電池式電卓と書かれている。
この電卓は別の資料では東和サン機電社の TOWA V-001という名前で、世界で最初の太陽電池式電卓とされていた。
TEAL社と東和サン機電社の関係は不明で東和メックス(当時東和サン機電社)に問い合わせたが返事をいただけなかった。
また、TEAL社からは、PHOTON という太陽電池式電卓も発売されているが、これとPHOTON Ⅲの関係は不明である。
EL-8026 (Sharp)
同じく世界で最初の太陽電池式電卓を謳っているものにシャープのEL-8026 がある。
EL-8026 は1976年に発売されたものだが、PHOTONⅢ の発売年が不明なためどちらが最初の太陽電池式電卓であるか不明である。両者を比較すると、液晶はEL-8026 が灰色タイプなのに対し、PHOTONⅢは黄色タイプである。またEL-8026 は充電池を搭載していたのに対しPHOTONⅢは搭載していないといった違いがある。
ところでシャープはPHOTON Ⅲと同じタイプの電卓EL-825 を発売している。これは太陽電池部分はPHOTON Ⅲと同じで数字表示部分が灰色液晶(PHOTON Ⅲは黄色)タイプとなっている。不思議なことにシャープの製品カタログにはこの機種についての記述がない。
1980(Adler)
この他、別の資料では世界で最初の太陽電池式電卓は1976年にドイツのAdler 社より発売された1980 という電卓であるとの記述もある。
CX-1 (Sanyo)
なお、アモルファスシリコン太陽電池を使用した電卓を最初に発売したのは、アモルファスシリコン太陽電池の実用化に世界で最初に成功した三洋電機である。同社はアモルファスシリコン太陽電池の実用化に成功した翌年の1980年に世界で最初のアモルファスシリコン太陽電池内臓の電卓CX-1 をアモルトンの名前をつけて発売している。
いずれにせよ太陽電池の電卓への応用については不明な点が多い。
13 電卓のデザイン(補足)
電卓開発に各社がしのぎ削り開発に取り組んだ結果、電卓に必要とされる技術は完成し、電卓はもはや大企業にとって魅力のある商品ではなくなった。日本のメーカーで電卓製品を作り続けているシャープ、カシオ、キャノンなども生産工程を中国など海外に移してしまい魅力的な製品をほとんど生産しなくなってしまった。
今後とも電卓が人々に愛され続けるためには、電卓の多機能化、複合化と合わせ、電卓自体が人々の生活にマッチした美しいものになっていくことが必要である。そのため電卓のデザインが重要になってきている。
最近では、LEXON社などヨーロッパを中心とした一部の企業では電卓をデザインの面から見直し、人々に愛される魅力的な電卓を生み出すようになってきており、こうした面での日本のメーカーの取り組みも期待したいところである。
ここでは電卓の技術的発達を中心にまとめたが、私自身は電卓のデザインにも非常に興味を持っている。
最後に優れたデザインの電卓をいくつか紹介してこの発表を終りたい。
カシオ リレー式計算機 14-A(国立科学博物館の展示)
Anita Mk VIII calculator 2007年5月撮影
Friden Model 132 calculator 2011年3月撮影
シャープ COMPET CS-10A 2015年2月撮影
キヤノン Canola161 2012年6月撮影
シャープ Micro COMPET QT-8D (1969)
2017年1月撮影
Busicom 141-PF (1971)
2017年1月撮影
HP-35 (1972)
2019年11月撮影
カシオミニ (1972)
2018年7月撮影
CASIOが販売していたカード型電卓のSL-750。厚さは2mm。
電子手帳機能を持つカード型電卓のCASIO DC-665
世界最初のポケットコンピュータ SHARP PC-1210
世界最初のグラフ電卓 CASIO fx-7000G
【懐かCMソング】答え一発!カシオミニ【カシオ計算機】
【懐かCMソング】答え一発!カシオミニ【カシオ計算機】
電卓CM カシオ シャープ キヤノン ビジコン
キャノン 電卓 ニューキャノーラ
1975-1991 カシオ計算機CM集
【レトロ電卓】カシオミニCM-601で計算する
【懐かCM・1977年】カード電卓 シャープエルシーメイト「ボタン戦争」
カシオ計算機のリレー式計算機「14-A」の操作
CASIO Calculators: Part 1: History & Evolution /カシオの創る計算機:パート1: 歴史と進化
CASIO CALCULATORS - Part 2: Building Quality / カシオの創る計算機 - パート2: 品質の追求
CASIO Calculators - Part 3: Calculating the Future! /カシオの創る計算機:パート3: 未来を計算してみよう!
「電卓の歴史と現在がわかる」カシオツアーに参加してきました! その1
「電卓の歴史と現在がわかる」カシオツアーに参加してきました! その2
「電卓の歴史と現在がわかる」カシオツアーに参加してきました! その3
「電卓の歴史と現在がわかる」カシオツアーに参加してきました! その4
60年前のコンピューター、動かし続ける「守人」浜田忠男さん
愛しの昭和の計算道具(前編)
愛しの昭和の計算道具(後編)
世界初の小型純電気式計算機「14 -A」2号機「AL-1」
御殿場 キャンプ富士 & 沼津海浜訓練場 US Marines Japan Camp Fuji Training Center
キャンプ富士
1947年、日本軍富士裾野演習場に連合国軍が進駐を始め、米軍東富士演習場と呼ばれる。
1953年、北側にあったキャンプの一部が米陸軍から米海兵隊に移管される。
現在のキャンプ富士は、富士山ふもとの陸上自衛隊の東富士演習場に隣接し、米海兵隊が常駐しています。
キャンプには兵舎、兵士食堂、消防署、医療クリニック、冷蔵施設、ジム、郵便局、図書館、下水道処理施設などが完備しています。
沖縄に駐留する砲兵部隊が富士演習場で実弾射撃訓練を行っています。
任務
在日米軍に訓練施設としての施設維持と運営そして役務や物資を提供して在日米軍の様々な部隊の訓練を支援することです。
地域への関与
地域との文化交流は訓練実施と同時に計画されることが多く、隊員が日本の伝統や文化を学ぶ、絶好の機会であると同時に、地域の人々にとっては海兵隊だけではなく、アメリカについても学べる機会となっています。
訓練に参加する部隊の上層部は、地域の人たちが訓練について事前に周知されるよう、地元の首長たちと話し合っています。
在日米海兵隊沼津海浜訓練場
東富士演習場
米海兵隊キャンプ富士
陸上自衛隊 滝が原駐屯地
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米海兵隊 沼津海浜訓練場
海上自衛隊によるLCAC2隻を伴う輸送艦による訓練(今沢海兵訓練基地)2021年 2月14日~16日
沼津海岸の沖合いに大型船 海上自衛隊の輸送船くにさき
アメリカ軍キャンプ富士で感染広がる 累計46人に
CATC Camp Fuji Welcome Aboard
US Marines Live-fire Exercises at the Foot of Mount Fuji, Japan
Marines Training During Fuji Viper I Marines Training in Japan | Marine Combat Training 2021
米軍海兵隊キャンプ富士フレンドシップフェスティバル2014
米軍今沢基地での上陸演習(2017年5月・6月)
海上自衛隊 LCAC 揚陸訓練【№2】静岡県沼津 今沢基地(2018年1月27日)
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AAV7水陸両用装甲車の訓練・今沢基地(沼津市) 陸上自衛隊 [HD]
【ビッグレスキューあづま】ラニーミード級汎用揚陸艇 沼津今沢基地揚陸
海上自衛隊 LCAC 揚陸訓練【№1】静岡県沼津 今沢基地(2018年1月27日)
エルキャック・積込積下訓練(ホバークラフト・上陸用舟艇)
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海上自衛隊 LCAC 揚陸訓練【№5】静岡県沼津 今沢基地(2018年1月27日)
エルキャック・積込積下訓練(ホバークラフト・上陸用舟艇)
エルキャック・積込積下訓練(ホバークラフト・上陸用舟艇)
陸自16式機動戦闘車16MCV、海自エアクッション艇LCACから初上陸!!!
U.S. Marines conduct the culminating event, Litoral Strike, during exercise Fuji Viper 21.2
January 22, 2021 - U.S. Marines with 3d Battalion, 8th Marine Regiment, conduct the culminating event, Litoral Strike, during exercise Fuji Viper 21.2 at Combined Arms Training Center, Camp Fuji, Japan. During this evolution of Fuji Viper, Marines honed their tactical skills, demonstrating that infantry formations can facilitate joint force multi-domain maneuver in support of naval operations. 3/8 is forward deployed in the Indo-Pacific under 4th Marine Regiment, 3d Marine Division.
Marines Conduct Joint Littoral Strike - FV 21.2
Drones, Helos, Hercs, and Mortars - USMC Fuji Viper - Japan
Welcome to Japan for Soldiers
Marine Corps forward deployed artillery relocation training - Camp Fuji Japan
Marines sharpen their skills in the shadow of Mount Fuji
U.S. Marines with Combined Arms Training Center and 12th Marines shoot table 5 course of fire
U.S. Marines participate in a live-fire and a M4 carbine live-fire of exercise Fuji Viper 21.2
U.S. Marines fire M777A2 155mm Howitzers
キャンプ富士フレンドシップフェスティバル2018
Mk 44S Bushmaster II cannon live firing 30mm Mk 310 Programmable Air Burst Munition
Mk44 Bushmaster II Live Fire - M1296, M1128, M1126 Strykers in Action
Orbital ATK MK44 30mm BUSHMASTER II
2021 MEGURO K3 撮影紀行
MEGURO K3 のプロモーション動画では、カワサキやメグロにゆかりのある土地々々で撮影しました。この動画では、その撮影地をエクストラシーンとともに巡ります。
2021 MEGURO K3
MEGURO K3は、日本の大型スポーツバイクの歴史を紡ぐカワサキのコメモラティブモデルです。その存在を誇示する美しいエンジンや流麗なタンク形状。そしてホイール、シートがバランスよくまとめられたそのフォルムは、スポーツバイクメーカーとして日本初のブランドとなった「メグロ」の歴史を引き継いだカワサキの誇りであり、伝統を決して途絶えさせないという、強い決意の表れなのです。 多くの人は時代の移り変わりに影響されない絶対的な価値観を尊びます。モーターサイクル黎明期と今をつなぐMEGURO K3もそのひとつ。スタイリングはあくまでも往年の“メグロ”ブランドを前面に押し出しながらも、先進の技術を投入し普遍的な美しさを追い求めました。 クラシカルな造形に現代的な技術を融合させたMEGURO K3。 それは国内二輪メーカーにおいて最長の歴史を紡ぐモーターサイクルです。