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日本海軍がレイテ沖海戦の結果として大規模な艦隊作戦能力を失ったため、台湾攻略の戦略的な価値が下がったが、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサーは依然として台湾攻略を主張していた。このため、統合参謀本部で海軍と陸軍は真っ向から対立した。その中、陸軍航空軍のヘンリー・アーノルドがより効果的な日本本土への戦略爆撃が可能になることから硫黄島攻略の意義を唱え、10月2日に硫黄島攻略という基本戦略が40日後の沖縄上陸(後の沖縄戦)への前提としてアメリカ軍全体の方針となった
これを受けて、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援を受けて開始された。上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍大将を最高指揮官とする日本軍硫黄島守備隊(小笠原兵団)の激しい抵抗を受けながらも、アメリカ軍は同島をほぼ制圧。3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した
いったん戦闘が始まれば、日本軍には小規模な航空攻撃を除いて、増援や救援の具体的な計画・能力は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けた太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、フィリピンの戦い (1944-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦の太平洋戦線屈指の最激戦地の一つとして知られる
硫黄島は、日本の首都東京の南約1,080km、グアムの北約1,130kmに位置し、小笠原諸島の小笠原村(旧硫黄島村)に属する火山島である。島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われているところからこの島名がつけられた。長径は北東から南西方向に8km未満、幅は北部ではおよそ4km、南部ではわずか800mである。面積は21km2程度、最高点は島の南部にある標高169mの摺鉢山である。土壌は火山灰のため保水性はなく、飲料水等は塩辛い井戸水か雨水に頼るしかなかった。戦前は硫黄の採掘やサトウキビ栽培などを営む住民が約1,000人居住していた
日本軍は1941年12月の太平洋戦争開戦時、海軍根拠地隊約1,200名、陸軍兵力3,700ないし3,800名を父島に配備し、硫黄島をこの部隊の管轄下に置いていた。開戦後、南方方面(東南アジア)と日本本土とを結ぶ航空経路の中継地点として、小笠原諸島で唯一飛行場にできる平地のある硫黄島の戦略的重要性が認識され、海軍が摺鉢山の北東約2kmの位置に千鳥飛行場を建設し、航空兵力1,500名および航空機20機を配備した
1944年2月、アメリカ軍はマーシャル諸島を占領(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)、トラック島へ大規模空襲を行い、多数の艦艇や航空機を含む日本海軍の兵力を粉砕した(トラック島空襲)。日本の大本営はカロリン諸島からマリアナ諸島、小笠原諸島を結ぶ線を絶対国防圏として死守することを決定する。中でも飛行場のある硫黄島が米軍の攻撃目標となることは明らかであったそこで陸軍は本島を重要防衛地域とし、守備兵力として小畑英良陸軍中将の指揮する第31軍が編成され、配下の小笠原地区集団司令官には、太平洋戦争緒戦の南方作戦・香港攻略戦で第23軍参謀長として従軍、攻略戦後は留守近衛第2師団長として内地に留まっていた栗林忠道陸軍中将が任命され就任した。硫黄島には3月から4月に増援部隊が到着し、総兵力は5,000名以上に達した
そのため、アメリカ統合参謀本部は、
などを目的として、硫黄島の占領を決定した。フィリピンにおけるレイテ島の戦いが終わりに近づくと、沖縄侵攻までの2か月間に行う作戦計画として硫黄島攻略が決定され、一連の進攻作戦は「デタッチメント作戦」と命名された
硫黄島の衛星写真(2000年)左下が摺鉢山、中央の飛行場は自衛隊が使用している硫黄島航空基地
硫黄島には陸軍の伊支隊と海軍部隊が所在していたが、1944年6月、小笠原方面最高指揮官として栗林忠道陸軍中将は父島へ赴任した。当初は要塞のある父島に司令部を置くことになっていたが、情勢を調査した結果、アメリカ軍は飛行場適地がある硫黄島へ進攻すると判断した(陸軍部隊は)他の在小笠原方面部隊と併せ22日に第109師団に改編、師団司令部と主力も硫黄島に移動した(硫黄島に混成第2旅団、父島に混成第1旅団、母島に混成第1連隊を配置)
しかし栗林中将は、サイパン島の戦いにおける戦訓報において水際での防御戦闘が制空権と制海権を持つアメリカ軍に対して、硫黄島が長く持ちこたえることができないことを承知していた。このため、上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をし、防衛計画の第一歩として軍人・軍属を除く民間人全員の疎開が7月後半までに完了した。次に、島の全面的な要塞化が立案された。地上設備は艦砲射撃や爆撃に耐えられないため、天然の洞窟と人工の坑道からなる広範囲な地下坑道が建設されることになった
同年6月26日、海軍のあ号作戦の失敗に伴って、サイパン島奪回が不能となり、これらの戦力として準備された歩兵第146連隊と戦車第26連隊の運用に支障が生じたため、小笠原方面への増強の必要性を大本営が判断し、大本営直轄部隊たる小笠原兵団が編成された。これは第109師団以下の陸軍部隊を「隷下」に、第27航空戦隊以下の海軍部隊を「指揮下」とし、兵団長は栗林中将(第109師団長)が兼任した。この帝国陸軍の小笠原兵団が硫黄島守備隊であり、その主な基幹部隊としては新たに増強された同守備隊唯一の歩兵連隊(他の歩兵戦力は既存の独立歩兵大隊)である歩兵第145連隊(連隊長・池田増雄陸軍大佐)、同じく九七式中戦車(新砲塔)と九五式軽戦車を主力とする戦車第26連隊(連隊長・西竹一陸軍中佐)があり、またその他の有力部隊として、秘密兵器である四式二十糎噴進砲・四式四十糎噴進砲(ロケット砲)を装備する噴進砲中隊(中隊長・横山義雄陸軍大尉)、九八式臼砲を装備する各独立臼砲大隊、九七式中迫撃砲を装備する各中迫撃大隊、一式機動四十七粍砲(対戦車砲)を装備する各独立速射砲大隊が配属されていた
日本軍の増援部隊も徐々に硫黄島へ到着した。栗林中将はまず大須賀應陸軍少将指揮下の混成第2旅団5,000名を父島から硫黄島へ移動させた。旅団長は12月に千田貞季陸軍少将に交代する。サイパン陥落に伴い、池田益雄大佐の指揮する歩兵第145連隊2,700名も硫黄島へ転進した。海軍ではまず第204建設大隊1,233名が到着し、速やかに地下陣地の建設工事に着手した。8月10日、市丸利之助海軍少将が硫黄島に着任し、続いて飛行部隊および地上勤務者2,216名が到着した
次に増強されたのは砲兵であり、1944年末までに75mm以上の火砲約361門が稼動状態となった
さらに、北満駐屯の後に当時は日本領だった朝鮮半島の釜山へ移動していた戦車第26連隊が、硫黄島へ配備された。連隊長は騎兵出身でロサンゼルス・オリンピック馬術金メダリストである、「バロン西」こと男爵西竹一陸軍中佐で、兵員600名と戦車(九七式中戦車・九五式軽戦車)計28両からなっていた。26連隊は陸軍輸送船「日秀丸」に乗り7月中旬に本土を出航したが、7月18日、父島まで250kmの海上でアメリカ海軍のガトー級潜水艦「コビア」の雷撃によって撃沈された。この時の連隊の戦死者は2名だけだったが、戦車は他の硫黄島向け資材や兵器とともに全て海没した。補充は12月に行われ、最終的に11両の九七式中戦車(新砲塔)と12両の九五式軽戦車の計23両が揚陸された。硫黄島に前後するサイパン島、ルソン島、占守島等の戦いと異なり、面積が極めて狭い孤島である硫黄島への戦車連隊の配備は比較的異例であった。西中佐は当初、戦車を機動兵力として運用することを計画したが、熟慮の結果、戦車は移動ないし固定のトーチカとして待伏攻撃に使われることになった。移動トーチカとしては事前に構築した複数の戦車壕に車体をダグインさせ運用し、固定トーチカとしては車体を地面に埋没させるか砲塔のみに分解し、ともに上空や地上から分からないよう巧みに隠蔽・擬装された。
アメリカ軍の潜水艦と航空機による断続的な攻撃によって多くの輸送船が沈められたが、1945年2月まで兵力の増強は続いた。最終的に、小笠原兵団長・栗林中将は小笠原方面陸海軍最高指揮官として陸海軍計兵力21,000名を統一した指揮下に置くことになった。しかしながら、硫黄島総兵力の半数に達する程の海軍部隊については海軍の抵抗により完全なる隷下とすることができず、また最高指揮官である市丸海軍少将以下兵に至るまで陸上戦闘能力は陸軍部隊には及ばない寄せ集めでありながら、水際防御・飛行場確保・地上陣地構築に固執するなど大きな問題もあった。そのため、栗林中将は海軍の一連の不手際、無能・無策を強く非難し、また陸海軍統帥一元化に踏み込んだ内容を含む総括電報「膽参電第三五一号」(最後の戦訓電報)を戦闘後期の1945年3月7日に参謀本部(大本営陸軍部)に対し打電している
栗林中将は硫黄島着任間もなくして島民に対して本土または父島への避難(強制疎開)をさせている。日本軍将兵が総力を挙げて要塞化を進める一方で、栗林中将は防御戦術を練っていた。第31軍司令官小畑中将は、上陸には水際防衛で対抗すべしという当時の原則から海岸近くでの戦闘を命じていた。しかし栗林中将は、水際での抵抗はアメリカ軍の艦砲射撃による防御射撃を招き、意味が薄いと考えていた(実際にサイパンの戦いで水際作戦を取った際には、上陸3日で3万人の守備隊が壊滅する事態に陥っていた)。栗林中将の採用した戦術は、サイパンやペリリューの戦訓を勘案し、従来の水際防御戦術を改めて内陸での持久抵抗戦を主とし、上陸した敵部隊に消耗を強いることを主眼とする以下のようなものであった
火砲は摺鉢山の斜面と元山飛行場北側の高台の、海上からは死角となる位置に巧みに隠蔽されて配置された。食糧と弾薬は持久抵抗に必要となる2.5か月分が備蓄された
だが、混成第2旅団長の大須賀應陸軍少将、第109師団参謀長の堀静一陸軍大佐、硫黄島警備隊および南方諸島海軍航空隊司令の井上左馬二海軍大佐らは、水際作戦にこだわり、栗林中将の戦術に強く反対したため、大須賀少将・堀大佐を賛成派の千田貞季陸軍少将・高石正陸軍大佐にそれぞれ交代し、司令部の意思の統一を図った
1945年1月に発令された最終作戦は、陣地死守と強力な相互支援を要求したもので、従来の攻撃偏重の日本軍の戦術を転換するものであった。兵力の大幅な損耗に繋がる、防護された敵陣地への肉弾突撃・万歳突撃は厳禁された
1944年10月9日、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ海軍大将はデタッチメント作戦の準備を発令した。参加兵力は第5艦隊司令官レイモンド・スプルーアンス海軍大将指揮下の5個任務部隊であった。硫黄島派遣軍最高指揮官には第51任務部隊司令官リッチモンド・ターナー海軍中将が任命され、第53任務部隊、戦艦を含む水上打撃部隊である第54任務部隊、高速戦艦2隻と空母12隻からなる第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将指揮)、上陸部隊である第56任務部隊(司令官:ホーランド・スミス海兵中将)がその指揮下に入った。また硫黄島の戦場にはジェームズ・フォレスタル海軍長官自らの同行視察が予定された
上陸部隊はシュミット少将指揮下の第5水陸両用軍団(海兵隊第3、第4、第5海兵師団基幹)だった第3海兵師団はブーゲンビル島の戦いやグアムの戦いですでにその名を知られていたが、1944年秋の時点ではまだグアムにあり、残存日本兵の掃討作戦に従事していた。上陸第1波は第4、第5海兵師団(第26海兵連隊を除く)で、硫黄島東海岸に対して第4海兵師団が右側、第5海兵師団が左側に並んで上陸し、第3海兵師団はDデイ+3日まで沖合いで予備兵力として残るとされた。作戦計画は、橋頭堡の迅速な確保と、第5海兵師団には南の摺鉢山、第4海兵師団には右側面の元山周辺の速やかな占領を要求していた。もし両地点の占領に手間取れば、両方向から砲撃を受けて上陸部隊に多数の死傷者が出ると予想された
東海岸には不利な寄せ波の可能性があったため、西海岸へ上陸する代替計画も立てられたが、北北西の季節風によるうねりの危険性もあり、実行される可能性は低かった。東海岸は摺鉢山から北東へ伸びる約3kmの海岸があり、アメリカ軍はこれを500yd (457.2m) ごとに7つの区画に分割し、左から右(南西から北東)に向かってグリーン区、レッド1区、レッド2区、イエロー1区、イエロー2区、ブルー1区、ブルー2区と名付けた
第5海兵師団は、第28海兵連隊が一番西側に当たるグリーン区に上陸し摺鉢山へ進撃する。その東側には第27海兵連隊が上陸し西海岸まで到達、次に北東へ向きを変えて作戦区域「O-1ライン」まで前進する。第26海兵連隊は予備兵力とされた。第4海兵師団は、第23海兵隊がイエロー1区とイエロー2区に上陸し、千鳥飛行場を占領して北東へ進撃、元山飛行場の一部と作戦区域「O-1ライン」内を制圧する。第25海兵隊はブルー1区に上陸後、千鳥飛行場とブルー2区を占領しつつ、北東方向へ進撃して作戦区域「O-1ライン」への到達する。第24海兵隊はDデイ初日は予備とされた
1945年2月16日、作戦開始を控えた記者会見でスミス中将は説明した。「攻略予定は5日間、死傷は15,000名を覚悟しているアメリカ軍は、島や洞窟に潜む日本兵を殲滅し、アメリカ兵の被害を少なくするためには毒ガスの使用が最も効果的との結論を得ていたが(毒ガス禁止のジュネーヴ議定書に当時の日米は署名をしていたが、批准はしていなかった)、統合参謀本部議長のウィリアム・リーヒ海軍元帥から反対する意見具申もあって、国際的非難を顧慮したフランクリン・ルーズベルト大統領は許可しなかった
マリアナから第7空軍のB-24が上陸準備として74日間の連続爆撃を行ったが、水平爆撃ではピンポイント攻撃は不能であり、資材運搬の日本軍の二等輸送艦を数隻(参加した全て)撃沈できたのみで日本軍陣地へのダメージは少ないと判断された。そこで、海兵隊は10日以上の準備艦砲射撃を要請したが、海軍側は沖縄上陸作戦などの事後の作戦の都合から、準備砲爆撃の期間を3日間に短縮した
アメリカ海軍は、硫黄島と日本本土との交通遮断の作戦のため空母部隊での日本本土空襲を行う予定であったが、参加予定の米新鋭空母艦隊は2月中旬までは補給ができず、しかも、沖縄上陸戦開始への日程が迫っていたB-29の戦略爆撃の支援のための硫黄島攻略に、主作戦の日本本土上陸への足がかりの沖縄戦への戦力を削ってまで、硫黄島への兵力を投入はできないという判断であったこれは上陸後の海兵隊の苦戦の一因とされている。
そして、2月16-17日、アメリカの高速空母機動部隊は硫黄島上陸の前哨戦ともいえる日本本土の攻撃を、艦載機によって2日間にわたって行い、航空施設を攻撃し、40機程度の日本機を撃墜した(ジャンボリー作戦)この攻撃で日本側の注意を硫黄島上陸作戦からそらし得たと判断したアメリカ軍は、硫黄島上陸作戦を開始した
19日、午前6時40分に艦砲射撃が始まり、8時5分にB-29爆撃機120機、その他B-24や海兵隊所属機を含む艦載機による重爆撃に交代(効果は上がらなかったと報告されている)、8時25分から9時まで再度艦砲射撃が続いた。9時、第4、第5海兵師団の第1波が上陸を開始した。水際での日本軍の抵抗は小火器や迫撃砲による散発的な射撃にとどまり、海兵隊は円滑な上陸に意外の感を受けつつ内陸へ前進した。だが日本軍は地下坑道の中で艦砲射撃に耐え、機をうかがっていた。午前10時過ぎ、日本軍は一斉攻撃を開始、海兵隊の先頭へ集中攻撃を浴びせた。柔らかい砂地に足を取られ、動きがままならない状態の所に攻撃を受けたためたちまち第24、第25海兵連隊は25パーセントの死傷者を出し、M4 シャーマン中戦車は第1波で上陸した56両のうち28両が撃破された。これほどの濃密な火力の集中を受けた戦場は南方作戦緒戦を除き、太平洋ではそれまで例がなかった。硫黄島の土壌は崩れやすい火山灰のため、しっかりした足場も無く、海兵隊は塹壕(蛸壺)を掘ることもできなかった。また高波を受けて、上陸用舟艇や水陸両用車が転覆や衝突によって損傷した。各地に上陸した誘導隊の努力にもかかわらず、海岸には舟艇や車輌があふれて後続部隊の上陸を妨げた。やっとの思いで揚陸した戦車も日本軍高射砲の水平射撃によって撃破された。19日だけで海兵隊は戦死501名、戦傷死47名、負傷1,755名という損害を受けた
夕方までに海兵隊30,000名が上陸して海岸堡を築き、ごく少数ではあるが、突進して西海岸に到達する将兵も現れた。海兵隊はそれまでの島嶼作戦で日本軍の常道だった夜襲と万歳突撃を待ち構えたが、日本兵は来なかった。日本軍が実施したのは少人数による手榴弾を使った襲撃(挺進攻撃)と夜間砲撃というハラスメント(嫌がらせ)攻撃であり、アメリカ軍が浜辺に集積していた物資の一部がこの攻撃により炎上し損害を受けた。しかし、それも海兵隊が警戒し始めると効果は薄くなり始め、帰ってこない日本兵が徐々に増えていった。この夜襲は日本軍にとっても死傷率の高い作戦であり、所属部隊が全滅後に他の隊と合流した将兵や、陸戦に慣れていない海軍兵が主に指名された
21日、予備兵力の第3海兵師団が上陸した。同日、千葉県香取航空基地から出撃した爆撃機「彗星」12機、攻撃機「天山」8機、直掩の零式艦上戦闘機12機の計32機からなる神風特別攻撃隊第二御盾隊による攻撃が行われた。この特攻は日本本土から初めて出撃したもので、八丈島基地で燃料を補給した後に硫黄島近海のアメリカ艦隊に突入した。同隊突入前に、千葉県木更津の第七五二海軍航空隊の一式陸攻2機が欺瞞隊として硫黄島上空に到達、錫箔をまいてレーダーを
また回天特別攻撃隊千早隊(伊44、伊368、伊370)が編成され、2月20~22日に出撃したが戦果は確認されておらず伊368と伊370が未帰還となった
アメリカ軍の被害について(翌22日公式発表)「2月21日1800現在、硫黄島での損害推定は戦死644、負傷4108、行方不明560」と公表されると、ワシントンの一部新聞が硫黄島での毒ガス攻撃を呼びかけるほど、本国では硫黄島戦における苦戦が衝撃的であった
22日、元山方面を攻撃していた第4海兵師団は損害の大きさに第3海兵師団と交代する。摺鉢山の山麓では死闘が続いていた。アメリカ軍は火炎放射器で坑道を焼き尽くし、火炎の届かない坑道に対しては黄燐発煙弾を投げ込んで煙で出入口の位置を確かめ、ブルドーザーで入口を塞いで削岩機で上部に穴を開けガソリンを流し込んで放火するなどして攻撃した。日本軍ではこうした方法を「馬乗り攻撃」と呼んだ
擱座・遺棄されたLVT
23日午前10時15分、第5海兵師団は遂に摺鉢山頂上へ到達し、付近で拾った鉄パイプを旗竿代わりに、28×54インチ(約71×137センチ)の星条旗を掲揚した硫黄島攻略部隊に同行していたジェームズ・フォレスタル海軍長官は、前線視察のため上陸した海岸でこの光景を目撃し、傍らにいたホーランド・スミス海兵中将に「これで(創設以来、アメリカ軍部内で常にその存在意義が問われ続けてきた)海兵隊も500年は安泰だな。」と語り、この旗を記念品として保存するように望んだ。そこで、揚陸艇の乗員が提供した先の旗の2倍もある5×8フィート(約152×244センチ)の星条旗を改めて掲げ、先の旗と入れ換えることになった午後12時15分にAP通信の写真家・ジョー・ローゼンタールが、まさに「敵の重要地点を奪った海兵隊員達が戦闘の最中に危険を顧みず国旗を掲げた」瞬間を捉えた有名な写真とあわせ写真3枚を撮影したこの写真は同年ピューリッツァー賞(写真部門)を受賞している(硫黄島の星条旗)
ジョー・ローゼンタール(Associated Press所属)撮影『硫黄島の星条旗』
硫黄島の戦いは「アメリカ海兵隊は水陸両用作戦のプロである」という存在意義を広く世界へ向けて示したのだった。しかしその4日後のサンフランシスコでは「(タラワ、サイパン、硫黄島での損害の大きさに)マッカーサーの指揮した戦闘では、このような損害は一度も出ていない」と海軍批判の社説が掲載された
アメリカ軍はようやく攻撃開始7日目に擂鉢山山頂を制圧したが、擂鉢山付近での散発的な日本軍の抵抗はまだ継続していた硫黄島に派遣された経験を持つ秋草鶴次によると24日の早朝、気が付くと山頂に日章旗が翻っているのを、玉名山から目撃したという『十七歳の硫黄島』では、その後、擂鉢山へアメリカ軍のロケット砲攻撃があり、再び星条旗が掲げ直され、その星条旗は24日中そのまま掲げられていたが、翌25日早朝の摺鉢山頂上では又も日の丸の旗がはためいていたため、これはその周辺にいまだに頑張っている日本兵がおり、日の丸を揚げに夜中、密かに山頂へ来ていたのではないか、と秋草は推測して書いている。その以降の戦闘の後、アメリカ軍によってもう一度星条旗が掲げられ、それが日章旗に代わることはもうなかったという
フォレスタル海軍長官はアメリカ本国へ戻っていったが、硫黄島の戦いはいよいよ激しさを増していった。
24日、アレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官の長男、アレクサンダー・ヴァンデグリフトJr.中佐も重傷を負う24日から26日にかけ、海兵隊は馬乗り攻撃を繰り返しながら元山飛行場へ向けて少しずつ着実に前進した前進速度は10m/h。市丸少将はアメリカ軍の戦術を「さながら害虫駆除のごとしと報告している。摺鉢山を攻略したアメリカ軍は3個師団全力で島北部への攻撃に移り、日本軍は戦車第26連隊を投入するも、
2月26日夕刻、元山飛行場は陥落した。この時点で日本軍の兵力は2分の1に減少、弾薬は3分の1に減少した。
同日にはアメリカ海軍建設大隊により、確保された千島飛行場が修復されて観測機の使用が可能となり、3月初めには飛行場の機能が殆ど完成した
そして3月4日、東京空襲で損傷したアメリカ軍のB-29爆撃機「ダイナ・マイト」号が、両軍砲火の中で緊急着陸に成功し、補修と燃料の補給を受けた。これが、硫黄島に不時着した最初のB-29である
元山正面の日本軍陣地は千田少将の率いる混成第2旅団が守備していた。混成第2旅団は元々練度の低い寄せ集め部隊であったのだが、歩兵戦闘の専門家である千田少将の訓練の下で強兵に生まれ変わっていた。元山正面の守りは堅く、アメリカ軍は「ミート・グラインダー」(肉挽き器)と呼んで恐れた。だが混成第2旅団の戦闘力も限界に近づいていた
5日、栗林中将は戦線縮小を決定し拠点を島の中央部から北部へ移す
7日、第3海兵師団がアメリカ軍としては異例の払暁奇襲を断行、中央突破に成功し日本軍を島の北部と東部に分断した
3月7日、栗林中将(第109師団)は最後の戦訓電報(戦闘状況を大本営に報告する一連の電報)である総括電報「膽参電第三五一号」を発する。名義は膽部隊長(第109師団長栗林)で、宛先は参謀次長(参謀本部:大本営陸軍部)と、栗林中将の陸軍大学校時代の兵学教官である恩師・蓮沼蕃陸軍大将(当時、帝国最後の侍従武官長)であった(「参謀次長宛膽部隊長蓮沼侍従武官長ニ伝ヘラレ度」「以上多少申訳的ノ所モアルモ小官ノ率直ナル所見ナリ 何卒御笑覧下サレ度 終リニ臨ミ年釆ノ御懇情ヲ深謝スルト共二閣下ノ御武運長久ヲ祈リ奉ル」)
後の作戦立案などに生かすため参謀本部(大本営陸軍部)に送る戦訓電報を、畑違いである蓮沼侍従武官長にも宛てた理由としては、栗林中将が強く訴えている陸海軍統帥一元化と海軍批判が黙殺されることを危惧したためであり、また、栗林中将が硫黄島で展開した一連の防衛戦術は、栗林中将が陸大学生時代に蓮沼教官から教わったものを基本としていることによる(「硫黄島ノ防備就中戦闘指導ハ陸大以来閣下ノ御教導ノ精神ニ基クモノ多シ 小官ノ所見何卒御批判ヲ乞フ」)
水の乏しい硫黄島で日本軍の飲用水は払底し、将兵は渇きに苦しんだ。暗夜に雨水を求めて地下陣地を出た兵士の多くは戻って来なかった。
3月14日、小笠原兵団基幹部隊として栗林中将を支えてきた歩兵第145連隊長・池田大佐が軍旗を奉焼した。
16日16時過ぎ、栗林中将は大本営へ
南の孤島から発信されたこの訣別電報は、本土最北端である海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別通信所により傍受され、通信員が涙ながらに大本営へ転送したとされる
17日、アメリカ軍は硫黄島最北端の北ノ鼻まで到達した。この日、大本営よりその多大な功績を認められ(「追テ本人ハ第百九師団長トシテ硫黄島ニ在テ作戦指導ニ任シ其ノ功績特ニ顕著ナル……」)同日付けで特旨を以て日本陸海軍最年少の大将(陸軍大将)に昇進した栗林は、同日に最後の総攻撃を企図し隷下各部隊へ最後の指令が送られた
しかし同日は出撃の機会を見つけられなかったため、夜に約60m離れた来代工兵隊壕(歩兵第145連隊指揮所)への転進が行われ、市丸少将以下の海軍残存兵力と合流した戦車第26連隊を率いていた西中佐は火炎放射器によって負傷してもなお戦い続け、正確な最期は分かっていないが19 - 21日頃に戦死したとされる
25日深夜、木更津基地から6機の一式陸攻が離陸、うち根本正良中尉機のみが硫黄島に到達し、単機爆撃を行った(根本機は生還)これが硫黄島における日本軍最後の航空攻撃となった
26日、17日以来総攻撃の時機を待っていた栗林大将は最後の反攻を敢行。栗林大将以下、約400名の将兵がアメリカ軍陣地へ攻撃をかけた。この最後の攻撃は栗林が戦闘前から戒めていた決死の万歳突撃ではなく必至の夜襲であり、また攻撃を受けたアメリカ陸軍航空軍の野営地には整備員など戦闘の訓練を受けていない者が多く、当地は混乱に陥ったアメリカ側では53名が戦死、119名が重傷を負ったとされる。
一方、栗林大将の最期の模様は正確には分かっていない。一説には突撃時に敵迫撃砲弾の破片を大腿部に受け前線から避退、近くの洞窟で中根中佐らと自決したとされている海兵隊は栗林大将に敬意を表し遺体を見つけようとしたが、栗林は軍服の襟章(階級章)や軍刀の刀緒、所持品など、
これを以って日本軍の組織的戦闘は終結しただが残存兵力によって局地的戦闘やゲリラによる遊撃戦が終戦まで続いている
栗林大将による最後の総攻撃に先立つ3月6日、機能を回復した硫黄島の飛行場に最初のP-51戦闘機部隊が進出した。
3月15日(日本時間)、アメリカ軍は硫黄島の完全占領を発表した
3月21日、日本の大本営は硫黄島守備隊の玉砕を発表した
「戦局ツヒニ最後ノ関頭ニ直面シ、17日夜半ヲ期シ最高指導官ヲ陣頭ニ皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ全員壮烈ナル総攻撃ヲ敢行ストノ打電アリ。通爾後通信絶ユ。コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ」
戦車第二十六連隊長 #西竹一中佐 (戦死後大佐に昇任)を偲ぶ碑が 東海岸に建立されています。西大佐は1932年ロサンゼルス五輪の障害馬術で優勝したことで有名です本碑北側約250mに「西大佐戦死の碑」がありますが、地熱が高く通行困難なことから昭和63年に改めて現在の場所に建立されました
海中においては電波が減衰しやすいため、海中を航行する潜水艦に対しては、通常の短波・極超短波などの通信は不可能であり、水中レーザー通信も実用化されていない。通信設備としては、比較的海中を透過しやすい超長波(VLF)などを利用し地上との通信を行うがVLFでは多量の情報を受信することが難しく、また潜水艦側からの発信もできないために、必要に応じて露頂し、短波・極超短波や衛星通信を行なう。
極超長波(ULF)は海中深くまで到達するので、潜水艦は最大潜行深度付近で受信可能である。ただし、送信できるデータ量が非常に少ないので、大量の情報受信には向かない。また、ULFは送信するために、全長数十kmに渡る長大なアンテナ施設が必要で、有事の際にはこれらの施設の脆弱性に問題がある。陸上からの単方向通信であり、潜水艦からの送信は不可能である。
超長波(VLF)は海中深度10m程度まで到達するので、深度数メートル程度を潜行すれば受信可能である。実際はそこまで浅く潜ると発見される可能性が高まるが、曳航ブイまたはフローティング・アンテナを使用すれば、潜水艦本体は深深度で受信が可能となる。しかし、送信できる情報量が少ないので、大量の情報通信には向かない。また陸上からの単方向通信であり、潜水艦からの送信は不可能である。
送信するには巨大な地上アンテナ施設を使う他、潜水艦が存在する海域の上空で長いアンテナを曳航して電波を受信し、信号を別回線により地上へ伝送するTACAMO機(空中通信中継機)も利用されている。TACAMO機としてはE-6マーキュリーやTu-142MRなどがある。
通信衛星を利用できる国では、通信衛星との間でマイクロ波送信により送受信を行うことができる。マイクロ波は海中まで到達しないので、通信時には潜水艦のアンテナを海面上に露出させる必要があり、敵に探知される可能性が高まる。しかしマイクロ波は大量情報の送受信が可能なため圧縮通信を行なえば作業は短時間で済む。
水中電話を利用することにより、潜航中の潜水艦同士や水上艦と通信を行なうことができる。また、海底の要所に音波を利用した通信中継装置を設置し、それを海底ケーブルで地上施設と結ぶ事で、潜水艦との通信を行う。冷戦時には、アメリカおよびソ連海軍が音響通信装置を多数敷設した。
潜水艦向けの超長波(VLF)送信施設として新設されたものである。えびの市北部の丘陵上にあり、建設に際しては反対運動もあっ。1986年にえびの市に開設の打診がなされ、1991年(平成3年)に完成している
海上自衛隊では、潜水艦通信の充実を図り、1980年代初頭よりVLF送信施設の整備を検討していた五六中業にも整備が明記される等、重要施策であり、当初は福岡県での建設も検討されたが、最終的にはえびの市に建設された。
えびの送信所は、システム通信隊群中央システム通信隊が管理・運営を行っている。これ以前は日本電信電話の名崎送信所を用い、長波による対潜水艦送信を行なっていた。中央システム通信隊では、他に通信施設として千葉県市原市に市原送信所、旭市に飯岡受信所を運用している。
稼働中の超長波通信施設としては日本国内唯一のものであり、使用周波数は22.2kHz、出力200kW、識別符号JJI。また電波特性上、アンテナ(電気興業製)も巨大で高さ約160mから約270mの4基2列、計8基の鉄塔間にアンテナワイヤーをめぐらしたものとなっており、これは日本で最も大きなアンテナとなっている
えびの送信所は、宮崎県えびの市大字大明司字六本原に所在する海上自衛隊の送信所
海上自衛隊の潜水艦「そうりゅう」が高知県足摺岬沖で民間商船と衝突した事故で、そうりゅうは艦橋のゆがみや、船体中央から横に延びる「潜舵」のうち右舷側が折れ曲がるなどの損傷があったことが9日、海自への取材で分かった。潜舵は航行時の深さを調整する役割がある。そうりゅうはアンテナも損傷して外部との通信が一時不能になり、事故発生を連絡できるまで3時間以上かかる結果になった。第5管区海上保安本部(神戸)は、9日午前7時から高知港でそうりゅうの調査を始め、原因究明に乗りだした。海自も8日に事故調査委員会を設置しており、当時の詳しい状況の解明を進める。
2022年9月20日
高知県の足摺岬沖で昨年2月、海上自衛隊の潜水艦「そうりゅう」が洋上確認のため浮上した際に民間貨物船と衝突した事故で、海自は20日、事故調査結果と、浮上時の手順見直しなどの再発防止策を発表した。酒井良海上幕僚長は同日の定例記者会見で、「二度とこのような事故を起こさないよう、あらゆる対策を徹底する」と強調した。
海自は調査結果で、艦のシステムが貨物船の存在可能性を指摘しながらソナー(水中音波探知機)に反応がないため誤探知と判断したことや、その後探知した音を離れた場所にいた別の船のものと誤認したことが主な原因と指摘。ソナー手から艦長らへの報告にも問題があったとした。
8月に公表された運輸安全委員会の調査報告書にも合致する内容。海自は再発防止に向け、船舶の可能性がある音や反応を捉えた場合は必ず報告し、浮上前には詳しい状況図を作成するなど手順を見直すとした。酒井海幕長は自ら音波を発して周囲の状況を確認する「アクティブソナー」の搭載も検討するとし、「現有装備をフル活用して安全を徹底する」と話した。
高知県沖で2021年、海上自衛隊の潜水艦「そうりゅう」と貨物船「オーシャン アルテミス」が衝突した事故を受け、海自は20日、潜水艦が浮上する際の周囲の安全点検を厳格化するなどの再発防止策を発表した。船舶の航行音を確認できなくても、水中音波探知機(ソナー)の反応があれば、上司に報告するよう改める。
事故は21年2月8日午前11時ごろ、高知県・足摺(あしずり)岬の南東約50キロの太平洋上で発生した。そうりゅうは潜望鏡で洋上を見る「露頂」と呼ばれる作業のため浮上中、貨物船の船底に衝突。そうりゅうの乗員3人が負傷した。
海自の調査報告書によると、そうりゅうの乗員はソナーが音波を探知したことに気づいたが、航行音を確認できなかったため船舶によるものとは認識せず、艦長らに報告しなかった。その後に乗員は航行音を確認したが、ほぼ同じ方角を航行していた別の船のものと誤認し、衝突まで貨物船の存在に気づかなかった。
海自は、こうした誤認が事故の主原因と判断。当時の艦長と哨戒長がソナーの探知した音源が何かをきちんと確認しなかったことも、原因の一つとした。
従来の規定では、ソナーが目標物を探知しても、乗員が航行音を確認しなければ、報告義務はなかった。今後は、ソナーが音波を探知すれば一律に「探知目標」として報告するよう見直す。目標を把握する体制の強化にも取り組む。
酒井良・海上幕僚長は20日の定例記者会見で「ご迷惑とご心配をおかけし誠に申し訳ない。二度とこのような事故を起こさないよう対策を徹底する」などと述べた。
愛媛県立宇和島水産高等学校に所属する漁業練習船えひめ丸(499トン)が浮上したアメリカ海軍所属のロサンゼルス級攻撃型原子力潜水艦グリーンビルと衝突しエンジン周辺を損傷、約5分程度の間に沈没した[5]。えひめ丸側35名の乗務員の内9名が死亡し、衝突の際に海上に投げ出された26名は救出されたがその内の1名が鎖骨骨折、うち11名が軽傷を負った。
この事故の際、浮上以前からソナーでえひめ丸の存在に気付いてはいたが、グリーンビルには民間人16名が搭乗、グリーンビルのクルー等はこの民間人の対応に追われ、ソナーによる確認作業が等閑になっていたとされる。その他、いくつかのミスが事故の原因とされている。また事故後、グリーンビルは現場海域に留まったものの同乗の民間人に配慮して積極的な救難活動を行わなかったとする非難の声がある。だが、衝突当時周辺の海はかなり荒れており(波高3-6フィート)、潜水艦が積極的な救助活動を行うことは難しかったとアメリカ海軍は主張している。アメリカ海軍側が早々に捜索を打ち切ろうとした際に現場に派遣されていた桜田義孝外務大臣政務官が「捜索を打ち切ると言われたから断ると言ってやった」と報道陣の前で啖呵を切ったシーンが話題になった
同年2月16日には水深600mの地点で沈んでいたえひめ丸の船体が発見された。えひめ丸の引き上げを希望する行方不明者家族側と、引き上げコストを理由に難色を示すアメリカ海軍側の意見のすれ違いもあった。しかし、2001年10月16日、一旦船体をダイバーが潜行して調査できる水深35mの位置まで移動させ、ダイバー等による1か月以上の捜索を実施後、えひめ丸の船体は水深1800mの海底に移動された
えひめ丸は600mもの海底に沈んだため、船体引き上げは困難であり、沈没当初はアメリカの慣習に従い沈没船体は放置される予定だった。
しかし、事故発生時から行方不明者家族らにより沈没した船体の引き上げが強く望まれたこと、日本の火葬による葬儀の風習、また日本人の感情などに配慮したアメリカ側は、代行案として船体の浅瀬への曳航を提示、行方不明者家族側もこれを了承した。日本政府は2001年8月に愛媛県からの要請により潜水艦救難艦ちはやを災害派遣し、遺体捜索作業を行った[4][8]。日本側の支援のもと、船体を浅海底に移送し、アメリカ海軍のダイバーが11月7日までに行方不明者9名の内8人の遺体を収容した[4]。
この引き上げ・曳航作業の資金として、アメリカは6,000万ドルを投入した。このことはアメリカ国内で議論を呼び、拠出の事実のみを批判するアメリカ人も存在した。なお、英語圏のマスコミ報道ではえひめ丸について「漁船」 (fish boat)と紹介され、高校生が乗っていた実習船であることを報道した記事は少なかった。日本の産経新聞は「こうしたアメリカへのある種の“甘え”はこれきりにしたい」など、日米両国に対し終始批判的だった。
引き上げ後の調査で、えひめ丸は船底のフレーム21から54にかけて「くの字」状の亀裂が入っていたことが判明し、下から突き上げられたことによる衝撃で沈没したことが確認された。
当時のグリーンビルの艦長であるスコット・ワドル中佐(当時)は事故の責任について軍法会議で審議されることはなく、司令官決裁による減俸処分を受けただけで、後に軍を名誉除隊した(懲戒免職に相当する不名誉除隊ではなく、軍人年金などの受給資格のある一般退職となった。退職後、ただちに海軍関連の企業に再就職した)。2002年12月には愛媛県の宇和島市を訪れ、宇和島市内にあるえひめ丸慰霊碑に献花した。
National Transportation Safety Board(国家運輸安全委員会, 通称NTSB)は、2005年10月19日にこの事故に関する報告書を出している。この報告書では、グリーンビルのワドル元艦長の責任を含めアメリカ海軍による内部調査の多くの部分を認めている。ワドル元艦長は2003年にThe Right Thing(ISBN 1591450365)と題した著書を出版し、この事故にどのように対応したかを述べている。
また、2006年にえひめ丸に乗船していた元実習生の一人が別の実習生に恐喝を行った容疑で逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受けた。この事件は事故後の実習生たちの心のケアにあたっていた関係者にも衝撃を走らせた。
事故から10年経った2011年から、宇和島市では「うわじまハワイアンフェスティバル」が行われている。事故を風化させないために、また、もともと宇和島市の姉妹都市であったホノルル市との友好を深めることが目的である。
2002年、ハワイ州・オアフ島のホノルルのカカアコ・ウォーターフロント・パーク内に当時の高野山高校宗教科の生徒らが寄付を募り、慰霊碑が設置された。2018年6月4日には、訪米中の秋篠宮夫妻が立ち寄り慰霊を行っている。 また、高野山高校宗教科の海外研修としてハワイに何度か訪れて、慰霊碑の前で物故者慰霊法会をしている。
トルコ軍は500機の「神風ドローン」を導入したとトルコのメディアAndoluが報じた。トルコ軍が導入するのは、トルコの軍事メーカーSTM社のKargu-2というドローンで、ドローンが大群で上空を回遊し、敵や標的を見つけるとドローン自体が突っ込んでいき攻撃をしかけるタイプ。「Kamikaze drone」(神風ドローン)の名前の由来は神風特攻隊で、神風ドローンは一般的な名称として使われている。STM社のCEOのムラット・イクニチ氏は「神風ドローンのKarguには顔認識機能も搭載されており、特定の人物を検知することができます。また大量に空中を回遊しているドローンが攻撃を行うので短い時間で敵陣に大打撃を与えて破壊することが可能です」とトルコのHurriyet新聞で語っている。この神風ドローンは全てトルコ国内で開発、生産されている。
神風ドローンのKargu-2は大群(一度に20機程度)で上空を回遊して、ドローンのセンサーとカメラで敵を察知し、顔認識機能も搭載している。ドローンの大群はいっせいに敵に突っ込むこともできるし、別々の場所に敵がいてもそれぞれに突っ込んで攻撃をすることができる。敵に突っ込むと大破するので再利用はできない
神風ドローンのオペレーションは人間の軍人が遠隔地で操作をして行うので、攻撃には人間の判断が入る。最近では攻撃に際して人間の判断が入らないでAI(人工知能)を搭載した兵器自身が標的を判断して攻撃を行う自律型殺傷兵器(Lethal Autonomous Weapon Systems:LAWS)の開発が懸念されている。神風ドローンのKargu-2は顔認識機能で敵を察知してから、遠隔地にいる人間が攻撃判断をしてから攻撃を行う。ドローンが察知してから、遠隔地の人間が判断するまでに時間差があり、敵を逃がしてしまったり逆襲されることもありうるので、自律型殺傷兵器のように敵を認識したら即座に攻撃を仕掛けられる方が効率が良いという意見もある。また、遠隔地にいるとはいえ神風ドローンに攻撃の判断を行い敵を殺害する人間にも精神的な負担がある。
一方で、敵の攻撃に人間の判断が介さないで兵器が人間の生死を判断することは非倫理的、非道徳的だとNGOなどは主張して自律型殺傷兵器の開発に反対している。近い将来、神風ドローンが人間の判断を介さないで、自ら判断して敵の人間や標的を攻撃してくるようになるかもしれない。
英語の頭文字からUAVと呼ばれることも多い。ICAOにおいてはRPAS、アメリカの連邦航空局ではUAS[3]と呼称する。
無人航空機に対し、人間が搭乗して操縦する従来の航空機を有人機[4]と表現することもある[5]。
人間が乗り込んで操縦することも可能であり、オプションを追加することで無人でも飛行可能な航空機は「OPV」(OPV)と呼ばれる[6]。日本の航空法では第八十七条において「無操縦者航空機」として定義されており、法的には有人機の一種として分類される
「ドローン」の語義のひとつに、この種の無人航空機のことを指す用法がある。オックスフォード英語辞典第2版では「drone」の、語義のひとつとして「a pilotless aircraft or missile directed by remote control.(遠隔操作で指向され、操縦手の搭乗しない航空機ないし飛翔体)」としており、そこに挙げられている用例としては1946年のものが最も古い。しかし2018年現在の英語圏では特に無線操縦機と区別して自律性を持つ機体をドローンと呼んでいる場合もある
英語ではUCAV (Unmanned Combat Aerial Vehicle) と呼ばれる。偵察型や哨戒型にハードポイントを設置し兼用できる機体も登場しており、武装した状態で偵察し目標を発見した際はそのまま攻撃任務に移行できるマルチロール機が実用化された。無人偵察機がマルチロール化した例では、RQ-1 プレデターがMQ-1 プレデターとなり、MQ-9 リーパーが作られた経緯がある。
MQ-9 リーパー
人間が搭乗しないため、敵地で撃墜されても操縦員が死傷したり、捕虜になるリスクがない。現代ではMQ-1 プレデターなど武装した無人航空機が世界で数多く登場しており、2001年のアメリカ同時多発テロ事件後、アメリカ軍がアフガニスタンへの侵攻を開始した2001年10月14日に先立つ10月7日、MQ-1 プレデターがヘルファイアミサイルを搭載して武装偵察飛行を行ったことに始まり、その後アフガニスタン戦線の外、イラク戦争、イエメンなど中東地域での攻撃に多用されるようになった。主な任務は対地攻撃だが、2002年12月にスティンガーで武装したプレデターがイラク戦争でイラク軍のMiG-25と交戦し、互いに対空兵器を装備した有人機と無人機の史上初の空中戦となった
アメリカ政府によるテロ容疑者暗殺作戦ディスポジション・マトリックスの開始で[53]、攻撃能力を持つ無人機はアフガニスタンとパキスタンでのターリバーン、アルカーイダ攻撃への参加が推し進められ、2009年8月にパキスタン・ターリバーン運動のバイトゥッラー・マフスード司令官を殺害しているが、誤爆や巻き添えによる民間人の犠牲者が多いことが問題となっている。これは、無人機操縦員の誤認や地上部隊の誤報、ヘルファイアミサイルの威力が大きすぎることなどが原因となっている。ヘルファイアミサイルの問題に関しては、より小型で精密なスコーピオンミサイルを採用して対処することになっている。
無人機によるテロリスト組織への攻撃は、しばしば倫理や法律上の議論を惹起するが、アメリカ政府によれば無人機による攻撃は、テロリストの攻撃に対して均衡が取れている規模であること、結果的に多くのアメリカ兵の生命を救っていることをあげ、合法的でかつ倫理的にも反していないとの見解を示している[57]。アメリカ軍では無人機の操縦者のうち7人に1人は民間人(ブラックウォーターUSAなどの民間軍事会社)だが、アメリカ軍の交戦規定により攻撃は軍人が担当している。無人攻撃機にはアメリカ軍の他にイスラエルも早くから導入している。多様な無人攻撃機の実証実験機などのテストが進行中である。無人攻撃機の実証実験機にはX-45やX-47がある。
現代では司令部と前線部隊の通信中継、取得した画像提供と同時に援護攻撃を行うなど多彩な任務に投入されている。イラク戦争ではイラク軍の防空網に対する囮として使われたほか、イラク戦争に先立つ2002年12月23日には、イラク飛行禁止空域を警戒飛行していたMQ-1が搭載していたスティンガー空対空ミサイルでイラク軍のMiG-25を攻撃している。広く知られた利用方法はアルカーイダやターリバーンへの攻撃で、宣戦布告なき戦争(=不正規戦争)でパキスタンやイエメン、ソマリアなど、撃墜されパイロットが捕虜となった場合国際的な問題とされそうな国で多用されている。
アメリカ軍が、無人機での攻撃を開始して以降、殺害した人数は、2013年2月時点で約4,700人と推定されている。アメリカ空軍は2023年までに、すべての攻撃機のうち3分の1が無人機になるとしている。
世界最大の無人攻撃機輸出国となった中国は翼竜や彩虹など積極的に攻撃能力を持つ無人機を発展途上国に輸出してイラク軍やエジプト軍のISILへの作戦やナイジェリア軍のボコ・ハラム攻撃、サウジアラビア軍とアラブ首長国連邦軍の2015年イエメン内戦への軍事介入など中東やアフリカで実戦使用され、先進国に輸出を限定していた米国もこれに規制緩和で対抗しており、武装無人機の拡散による紛争拡大が懸念されている。また、イランは武装無人機のシャヘド129によってシリアで反政府勢力を攻撃し、市販の中国製エンジンを搭載したアバビールのような武装無人機を中東のシーア派民兵組織に拡散させて問題になっており、イエメンのフーシが自前化したアバビール(カセフ1)やサマド3などでサウジ石油施設攻撃を起こして世界経済に大きな影響を与えた。2014年リビア内戦では暫定政府のトルコ製無人攻撃機のバイラクタル TB2とリビア国民軍の中国製無人攻撃機の翼竜が互いに破壊し合う無人機戦争が起きている。
テロ組織側でもISILは自動識別や自動運航が可能で滑走路での離着陸を必要としないDJIやスカイウォーカー・テクノロジーなど殆どは世界市場でメジャーな中国製の民生用無人機に爆発物を載せて攻撃機に改造するといった利用が拡大している。2017年のシリア・イラクにおける紛争で、ISは手榴弾や迫撃砲弾、たる爆弾などを搭載した民生用ドローンを投入して政府軍に多くの死傷者を出している。構造は単純で、真下に爆弾を落とすだけの簡素なものだが、誤差数メートルという驚異的な精度で攻撃できた。小型のドローンは被発見性も低く、騒音も軍用機に比べてはるかに小さいため、直下の兵士が全く気付かないまま攻撃を受けることもあった。戦車に対する攻撃にも使用されており、撃破の事例はまだないが、対戦車榴弾や対戦車ロケットによる攻撃が試みられている。少なくともこの攻撃で乗員が殺傷されたことがISの連日投稿する動画で確認されており、脅威度の高さを裏付けるものとなった。民生用ドローンを攻撃用途に用いる場合、防護が一切ないので小銃弾を受けるだけで簡単に撃墜されてしまうが、十分な高度があれば攻撃後の退避は容易である。赤外線をほとんど出さない上にRCSも低いので、SAMによる対処は不可能である。軍用機として見れば極めて安価であり、歩兵が直接運用し自前で近接航空支援が可能なことから、テロリストから見れば理想的な航空兵器であり、懸念が高まっている。イラクで充電不足で自動帰還した自らのドローンにISの戦闘員が誤爆されるという珍事が起きた際は民生用ドローンの高性能化の脅威を示すものと報じられた。2018年8月にベネズエラではDJIの商用無人機に爆弾を搭載して大統領暗殺を狙ったテロ事件(Caracas drone attack)も起きており、これはドローンによる国家指導者に対する初のテロとされた
また、アメリカやイスラエルなどの正規軍でも廉価で使い勝手が良いことから民生用無人機は使用されており、イスラエル軍はDJIの無人機に催涙弾を搭載して2018年3月にガザ地区のデモ隊に使用して死傷者を出した
無人で制空戦闘を行う無人戦闘機の研究が各国で続けられているが、構想段階である。無人攻撃機の装備に空対空ミサイルが含まれる場合もあるが、あくまで自衛用武装に過ぎず、有人機の様な汎用性や空対空戦闘を行える運動性・機動性・エンジン出力はないため、有人戦闘機と遭遇した場合、ほぼ被撃墜は確実である。開発中の精密な空中自律行動能力と空対空戦闘機能を持つUCAVは、無人戦闘攻撃機と呼ばれることもあるが、これも対地攻撃がメインの無人攻撃機である。
現状では制空戦闘は難しいため、有人戦闘機からの制御で対地攻撃を行うことにより、役割分担でパイロットの負担を減らす「ロボット僚機」など技術的なハードルを下げた構想がある。また、戦闘機に100機以上搭載できる小型UAVを対象に突撃させるなどミサイルのような機体の試験も既に行われている
戦闘機を無人化した実験機は複数製作されているが、空力試験や標的機としての活用である。
1945年に日本で計画された秋水式火薬ロケットは機体前部に衝角を備えており、発射後は地上からの無線誘導で爆撃機に体当たりしてダメージを与えた後、滑空して地上に戻り機体を再利用するという地対空ミサイルと無人迎撃機の中間のような運用を予定していた。
1959年からアメリカ空軍に配備された長距離地対空ミサイルのボマークは、無人戦闘機「F-99」として配備され「最初の無人戦闘機」と喧伝された
トルコ製のバイラクタールTB2 UCAV。アゼルバイジャン軍によって実戦投入され
アルメニア軍を撃破する様子が報道された(画像:トルコ防衛産業省)
How A Drone Strike Works - Cheddar Explains