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2021年01月


 

GEN H-4


GEN H-4長野県松本市に本社のあるGEN CORPORATIONによって製造・開発中の小型ヘリコプターである。販売はキットの状態で購入者に引き渡され、購入者が組み立てを行うホームビルト機である。
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概要

GEN H-4はテールローターのない同軸二重反転式ローターを採用している。すなわち同軸で上段と下段の2つのメインローターが互いに反対方向に回転することで機体の回転を抑制し安定させている。

機体はフレームのみで、上部にエンジン及びローターが備えられ、上部から操縦バーが胸元まで伸びており、フロントガラスは無く、一人乗りの座席と脚には車輪が4個付いただけというシンプルなものである。

1990年から農業用ヘリコプターの開発を試みていたゲン・コーポレーションは、1995年に原型となったH-4を社有地内でホバリングに成功させた。その後、動力ユニット、エンジン、コントロール装置を改良し、1998年、H-4としてアメリカ・EAA エアベンチャー・オシュコシュのウルトラライト用飛行場で初飛行を行い、約8分間のホバリングを観客に披露した。

2000年には耐空テスト機として機体記号(JX0076とJX0077)が付与され、試験飛行を行った。

2011年には災害救援軽量航空機開発研究会(立命館大学 理工学部)と参画し、電動モーター化のH-4Eを計画。

2012年において同社は量産の体制を整えていないことから、個別の機体の販売を行っておらず、10機単位の受注があれば生産可能としている。また、アメリカ連邦航空局(FAA)や欧州航空安全機関(EASA)の型式証明は取得していない
2012年に電動モータとスピードコントローラ、最新型ハイレート・リチウムイオンポリマー電池による有人飛行(OGE、ホバリング)に成功し、試作による技術所見を得た。(日本経済新聞に掲載)

2016年には開発・販売を停止し、事業はドローンスクールを経営する五光物流に引き継がれた


特徴

機体構造

  • メインローターは1880mmのブレード2枚が上下2段で、セミ無関節固定ピッチ方式。C-FRP(カーボン複合材)製で、ローター1本の重さは約1kg。
  • エンジンは自社開発のGEN125型で、125ccの空冷式平対向エンジンを4基搭載。定格総出力は10馬力/8,400rpm。

エンジン

  • 型式名:GEN CORPORATION式GEN125型 4基
  • 種類:2気筒水平対向式(2サイクル)
  • 排気量:125cc
  • 吸気:自然吸気キャブレター式
  • 冷却:ダクト付ファンによる強制空冷
  • 燃料:無鉛レギュラーガソリン、2サイクル専用オイルの混合
  • 大きさ:267×280×171(mm)
  • 重量:2.8kg

性能・主要諸元

  • 乗員 - 1名
  • 全長 - 12.0m
  • 全高 - 2.5m
  • 主回転翼直径 - 4.0m
  • 自重 - 75kg
  • 全備重量 - 180kg
  • 発動機 - GEN 125-F型 2気筒水平対向式 ×4基
  • 出力 - 8PS/7,250rpm(定格)、10PS/8,400rpm(最大)
  • 機体内燃料積載量 - 10L
  • 超過禁止速度 - 40km/h(理論値)
  • 航続距離 - 10km(理論値)
  • 上昇速度 - 4m/秒


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長野県松本市にある「gen-corp」という会社で、ギネス公認の世界最小1人乗りヘリコプター「GEN H-4」が制作されています。日本の技術力がどの程度なのか一緒に見ていきましょう。実際に飛んでいるムービーもあります。

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大まかな図面はこうなります。意外と簡単なつくりになっています

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図面を実体化するとこうなります

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プロペラが2枚あり馬力がありそうです。

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ハンドル部分。自転車みたいです。

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椅子も自転車とほとんど変わりません。

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こんな感じで乗ります。

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実際に飛んでいるムービー

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空とぶじゅうたんからはじまった空への憧れ

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子供の頃に『空とぶじゅうたん』の話を読んでもらって以来、「空を飛びたい」という思いがありました。 その後、大戦の最中に迎えた少年期は、身近に飛行機乗りが何人かいて、かなり感化されておりました。『きけわだつみのこえ』に出てくる上原良司は、叔父にあたり、その姿は小学生の私には眩しい限りで、実にカッコイイ存在でした。 何よりも、松本は民間航空機のメッカで、河川敷で飯沼飛行士の先生のような人が飛んでいたんです。それに松本市内から現在の松本空港のある神林あたりまでは、戦争中に三菱をはじめ飛行機メーカーが疎開企業として全国から集まっていました。だからいまだにポンコツのプロペラがそこらへんに落ちていたりします。そんな影響もあり、私は小さい頃から飛行機乗りが憧れで、飛行機は身近な存在、小さな頃から「自由に空を飛びたい」と強く思っておりました。


エンジンへの夢と創造

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学生時代の写真

空に魅せられていた私は、エンジンの開発を勉強したいと志し、迷うことなく早稲田大学理工学部機械工学科に進みました。空への強い思いがあったので、飛行機のエンジンをつくる会社でアルバイトをしたこともあります。アメリカの基地から借りてきたエンジンを分解して、それをモデルにT-3というエンジンの羽の計算をしていました。というのも朝鮮戦争の影響でアメリカの飛行機を修理する工場が必要になったために、昭和28年頃には、日本も飛行機をつくることを許されていたんです。三菱、川崎、富士重工、石川島などのタービン屋たちがみんな動員されてエンジン開発をしていましたが、私もその中の一人だったのです。 その後、東京大学内燃機関実験室に在籍しながら、アルバイトで自動車会社にも出入りし、車のエンジンも勉強していました。その頃、モノづくり的にはアメリカ系がどんどん堕落していき、ドイツ系が良くなっていくのが見えたんです。就職を考える頃になると、BMWの完全コピーをつくろうという会社へ入社し、技術者の道へ本格的に足を踏み入れました。



ヘリコプターの開発の技術の原点を叩き込まれた修業時代

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その頃にスケッチして作ったオートバイ

この会社はもとは靴下を編む紡績機械を作っていた会社。戦争中、軍用機や戦車のエンジンを設計したなどという強者エンジニアや、製造の現場のたたきあげの職工さんたちから「大学出てもこんなこともできないのかね?」などと笑われたり怒られたりしながら、旋盤から工作機械の扱いまでを徹底して叩き込まれました。そしてこの技術がGEN H-4の開発の力になったと思います。ハイテクとローテクという言葉がありますが、私はローテクを極めた技術者こそがハイテク屋だと理解しています。一見飛行機やヘリコプターは最新技術のハイテク屋でつくられているように思われがちですが、実はローテクのかたまりなんです。完成された技術、鍛えに鍛えられた技術でかためないと危なくてしかたないんです。


一人乗りヘリコプターの開発
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レオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチ

一人乗りヘリコプターは私のライフワークです。開発の過程では、学者や研究者の八割が「こんなの、飛ぶはずがない」という意見でした。実際に飛ぶようになるまでには13年かかりました。失敗を重ね、随分と苦労しましたが、アメリカで先行販売し、おかげさまで日本でも売れるようになりました。実はこのタイプのヘリのコンセプトは昔からあったんです。私がやるまで日の目を見なかっただけなんです。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチは、既にこのようなヘリコプターを考えていました。もっとさかのぼれば、中国やギリシャでも考えられていたんです。技術者の先人が「未来は自分の先にあるのではなく、自分の後ろにあるんだ」と語っていますが、同じことをやろうとした人は、いっぱいいるんです。ですから、「俺が発明した」なんて言えるひとは世の中にはそうはいなんですよ。


技術の組み合わせと改良の妙で実現させた夢

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社長の構想のスケッチ

いままでお客さんから「何とかならないか」という相談を受けて、世の中にないものをつくってきましたが、自分で発明したものはないんです。先にものべたように、技術者というのは既にある確実な技術を組み合わせたり、改良したりしているだけ…でもその先に新たなものづくりの原点があるんです。技術が生まれた背景を知り、何故うまくいかなかったのか失敗例からも学んでいく、このような技術の伝承が「ものづくり」の創造につながると思います。 今は理論さえ間違っていなければ、かなりのことができる時代で、「ものづくり」をするためには恵まれた環境です。だから、私に言わせれば「できません」というのはゼイタクかズクなしですよ。私は動くものなら何でも作る自信があります。 やりたいと思ったことはやれるし、思ったらできる。夢は実現させるためにあるんだ。こういう私の信念がGEN H-4の開発につながり、その考えが会社事体にも浸透しています。


ドラえもんのタケコプターのような存在がこれからの目標

スクーターを運転するような簡単な操作で自由に空をとぶことができるGEN H-4ですが、実際には様々な法規制があり、活躍のシーンが限られているのが現状です。規制緩和を目指すとともに愛好家を増やし、災害現場での活用など、活躍の場を広げ、みなさんにとってドラえもんのタケコプターのような存在になってくれることが目標ですね。
ズク…長野県の方言の一つ。根性、面倒くさがらずにやる気、根気、気力、気合、などに似た言葉。



開発経緯


『何とかならないか、を何とかする会社』として40年働き続けてきた『エンジニアリングシステム株式会社』のオーナーだった社長柳澤源内が、自身最大の夢、「空を自由に飛びたい」を何とか実現させようと、1980年代半ばに空飛ぶ道具の開発を思い立ちました。そして夢は現実となり、一人乗りヘリコプターGEN H-4が完成しました。それでは開発の契機から夢が実現する2000年迄のゲン・コーポレーションの歩みを、空中散歩で見てみましょう。

1985年 開発の契機

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GEN H4のエンジン

70年代、社長柳澤源内は、モーターサイクル、特にエンジンの開発設計者としてスタート、その後、超小型エンジンを多数世に送り出した後に、エンジニアシリング・システム株式会社を設立、幾多の会社の自動化と開発品の製造を手伝う。21世紀までにあと15年のこの年を契機に、21世紀までに超軽量小型高性能エンジンを製作、空へ挑戦することを決意する。最初はエンジンから。世界一軽くパワーの出るエンジン、一人を空に持ち上げることのできるエンジンから作ろうと試みる。



1988年 エンジンの開発と機体の工夫

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GEN125強制空冷エンジン

最初は、紙切れに書いた走り書きだった。最も困難な型とも知らず、二重反転の型のカッコ良さをイメージし、小型と安全を求めて同軸の二重反転型を選んだ。 確かに推力を全て揚力に変えるために羽根もコンパクトにできることは分かった。 決意から3年後の年末、軽くて小型、しかしパワフルな「GEN125エンジン」開発成功。その後、同軸二重反転のフライング・ソーサー型の荷物運搬を開発。固定ピッチ型ローターヘリの操作方法の一つであるローター全体を傾けるテストを開始。



1991年 エンジンの力試し

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水平対向型、2サイクル125cc、10馬力、3.5kg、思い通りの超小型軽量エンジンができた。プロペラをつけて背中を押すようにして、自転車に乗ってみた。時速100kmも出た。 翌年1992年には、ハングライダーに積んで空を飛んでみた。空も飛べた。


1995年 H-1浮上に成功

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初飛行 1995.12.10


空を散歩するには、空中で止まりたい。夢は膨らみ続けた。 一号機は30馬力、直径3mの二重反転ローターを傾斜させるように工夫して、ヘリ免許を有する友人の試乗により、自社の敷地内で浮上に成功した。その場安定性も割合に良好、アクセルコントロールだけで上下移動はできた。GEN-H4は最も単純で安全でメンテナンスゼロを目指してローターは固定ピッチを採用している。これは、世界中のヘリコプター技術者が追い求めているが、今もって実現できないでいる方式である。


1996年 動力ユニット基本形決定

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上下移動はできるが、どうやって前進、後退、ヘリコプターを意のままに操縦するか。羽の回転面を傾けた方向に進むはず、ジャイロコプターのような操作方法がある筈だ。エンジンごと傾けてしまえ・・・この考えにたどりつくのに、かなりの時間を要した。ハングライダーは125ccエンジン一基で空に浮くのに。ヘリコプターは3ユニットの直列エンジンでも力不足だった。96年始めよりヨー・コントロールのための差動トランスミッションを開発、同時にパワーアップのためにエンジンを3ユニットから4ユニットとしてパワープラントを整え、パイロットの頭上に置くことにより振動の発生をなくすことにも成功した。


1997年 ヨー・コントロール解決

アメリカ・オシコシへの旅行途中、電動モーターを使う方法を決意するとともに、ジャイロからの信号により、ヘディングを一定に保つ方法も同時に決めた。


1998年 アメリカでデモ飛行成功

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オシコシ・エアベンチャーの写真

オシコシ・エアベンチャーのウルトラライト用飛行場にて初飛行を行い、千人を超える観客の前で、デビュー、8分程度のホバリング、ヨー・コントロールの効き等を披露し大いに注目を集めた。新しいものへの挑戦に喝采を惜しまない米国人の姿勢に大いに感激した。


1999年 オシコシでの飛行

2000年 カッパーステート(アメリカ)エアショー出展、飛行

2001年/2002年 サンファン(アメリカ)エアショー出展、飛行

2002年 ヘリジャパン宇都宮で日本公式披露 


もっと自由に、もっとたくさんの人のもとへ


「誰でも飛べる」が夢のその先

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鳥のように空を飛びたい、飛べたらいいな…飛んでみたいな…まるでバイクに乗るように、エンジンを始動させ。大空に舞い上がる…空中散歩を楽しむように、好きなところで止まって、景色を眺めることだってできる…。しかしまだ、・誰でも飛べます・になるためにはまだ少し時間が必要です。それなら、今すぐに使える所から、始めまてみませんか


規制の多い日本では農作業から

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手始めは農作業のお手伝いでしょうか…地上2~3メートルをゆっくり飛びながら、肥料を撒く、種子を蒔く、農薬を撒く…。ある若者が楽しそうに始めました。農業の空中機械化の始まりです。能率は地面を歩く農業の300~500倍になるでしょう。もうこの若者は農地見回りを空からしか考えなくなることでしょう。空からならば斜面も山奥の田んぼも畑も別に苦労なく面倒がみられます。日本には10ヘクタール以上の耕地を有する農家が600,000戸、1ヘクタール以上の農家が900,000以上あるのです。将来的には空からの農業経験者が1,000,000人になる事も考えれます。彼らは散歩もドライブも道路だけでなく、空から直線的に目的地を目指すことになるでしょう。


都市交通から災害救助まで無限に広がる可能性

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GEN H4 災害救助バージョン


もちろんこのヘリの持つ可能性は農業従事者だけのものでなく、無限にあるのです。特に現在の日本のように、都市部において慢性的な交通渋滞を抱えながら大きな滑走路やヘリポートも確保できない状況でも、もしGEN H-4が規制の枠を乗り超え自由に飛べる日が来るなら、都市交通でも充分に機能するものになっていくでしょう。また非常に小型のため運搬がしやすく、一台のトラックで多数の機体を運ぶことも可能ですから、大地震など都市機能がマヒするような災害時には車が入れるところまでヘリを輸送し、それを現地で組立て、車が入り込めない災害の中心部に空中から入っていくといったコミューター的役割を果たす事も可能なのです。農業から波及し、林業、水産業等への利用はもちろん、海浜、山岳パトロール、レスキュー等々使用方法は次から次へと、使われる皆さんの考え次第で無限に広がって行くことでしょう。


趣味の域からいつかはスクーターのような存在に

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GEN H-4に乗って一旦地面を離れると、そこにはフリーな空間が広がり、地上の狭い道路はいつしか大空の300米道路に変わります。今は趣味や楽しみの役割が大きいこの乗り物も、たくさんの皆さんに使われて初めて安全性も使いやすさも今のオートバイ、スクーターのようになり、誰でも使えるものになるのです。


ドラえもんのタケコプターの世界も、もうすぐそこ!

私たちもGEN H-4ために、愛好家クラブを組織したり、法的な環境整備に邁進してまいりますが、たくさんの需要や要望があってこそ航空法などの規制緩和が進み、さらに自由になっていくのです。そしていつしかこの小さな乗りものがたくさんの方の生活に欠かせないものとなっていことでしょう。そう、夢は次から次へと広がっていきます。タケコプターが行き交う、ドラえもんのような未来の世界が もうそこまできています。最後に…鳥のように空を飛ぶ夢は必ずや実現するのです!


2008.5.25

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GEN H-4はレオナルドの生誕の地イタリアのヴィンチ村に招かれて、イタリアの地で2日間に渡りフライトを披露して来ました。レオナルドの考えたように、より簡単な仕組みで空を自由に飛べるのだということを実証して来ました。イベント当日、町の郵便絵葉書も100人以上のスタッフの昼食に用意されたワインラベルもGEN H-4が描かれていて感激でした。


一人乗りヘリコプター GEN H-4


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GEN H-4は同軸二重反転ローターを持つ小型有人ヘリコプタです。上段の羽根と下段の羽根が反対方向に回転することで、お互いのローターから発生する反トルクを打消しあい、安定して飛ぶことができます。操縦者の前方にあるコントロールバーにより、ローター回転面を傾けることで、前後・左右に移動することができます。上下のローターの回転差を発生させ、その場での旋回をすることも可能です。エンジンは自社開発のGEN 125(125ccの水平対向エンジン)を4基積んでいます。

販売価格 ¥7,500,000円(税別)


  • 販売価格は工場渡し値となります。キット形式での販売となります。
    組立てはお客様が行います。日本国内での飛行にあたっては、航空局の許可が必要です。
    許可申請についてはお客様ご自身が行っていただきます。(申請フォームはこちらにあります。)GEN H-4ご購入のお客様についきましては、フライトトレーニングを受付けます。(別料金となります)受注生産のため、受注後4か月ほどお時間を頂きます。ご了承ください。



航空機用エンジン GEN 125


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型式名GEN CORPORATION式GEN125型
種類2気筒水平対向式
大きさ267×280×171(mm)
(マフラー,スタートモーターを含まず)
重量2.8kg(マフラーを含まず)
冷却強制空冷(ダクト付ファン)
吸気自然吸気キャブレター式
排気量125cc
最大出力10PS/8,400rpm
定格出力8PS/7,250rpm
燃料無鉛レギュラーガソリン
2サイクル専用オイル 混合
混合比30:1


  • GEN H-4に使用しているエンジンです。取付についてはご相談ください。
    オプションで特注取付部品を作成いたします。遠心クラッチ式で、ラジコンヘリコプター等に最適です。取付図は

    こちら(PDFファイル:393KB)

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コントロール



.移動する


コントロール方法(移動する)

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GEN H-4のフレームは、このようなジンバルによってローター(動力部)につながっています。そのため、コントロールバーを手前に引くとローター面が傾き、前進飛行をすることができます。同様にして、コントロールバーを押し出すと後進、右に振ると左へ、左に振ると右方向へ移動することができます



2.向きをかえる

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コントロール方法(向きをかえる)
ヨーコントロールはDCモーターを動力源として作動ギアを動かし、上下のブレードの回転数に差をつけることによって行います。上下のブレードの回転差により反トルクが発生し、それによってパイロットは機体の方向を制御します


3.コントロールパネル


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コントロールパネル解説

メインスイッチ機体の電源のON/OFF
オートヨーコントロールスイッチオートヨーコントロールシステムのON/OFF
ヨーコントロール右に押すと機体は右に旋回、左に押すと左に旋回する
エンジンスタートボタン左からNo.1~No.4のエンジンスタートボタン。
上のLEDはエンジンが停止するとそれに対応したLEDが点灯する。
スロットルレバー押し込むとエンジンの回転数が上がる
タコメーターエンジンの回転数を表示


エンジン


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エンジン主要データー


エンジン主要データー

型式名GEN125
種類2気筒 水平対向 強制空冷 自然吸気 キャブレター式
4基搭載
排気量125cc/1基 (GEN H-4は4基搭載 合計500cc)
発動機定格出力10馬力/8400rpm
連続最大出力8馬力/7250rpm
冷却装置ダクトつきファン、強制空冷
TBO500時間
エンジンスタート方式それぞれのエンジンで独立した電気式のスターターを使用。そのため同期を取りながらエンジンをスタートさせる必要がない。

エンジンのみの販売もおこなっております。詳しくはエンジン販売のページ



ブレード


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ブレード主要データー


ブレード長さ1880mm
翼弦長最大 128.9mm
最小 35mm
先端ねじり下げ6.3°
翼端速度ブレード 860R.P.M の時 648km/h
材質C-FRP
プレコーニング角4.8°



機体緒元


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機体緒元表


機体高さ約 2.4m
ローター径4.0m
乾燥重量約 75kg
飛行速度時速 10km/h~ 40km/h        
ホバリングもできます。        
最大離陸重量160kg/海抜600m, 180kg/海抜0m


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ブレードができるまで


GEN H-4のブレード(羽根)は自社にて製作されています。
ほんのわずかな形の違いが機体の性能に大きくかかわってくるブレード。
ブレードが出来るまでの工程をご紹介します。

まず、ブレードの中身になるコアを作成ます。材質は硬質発泡ウレタンです。

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裁断したカーボンクロスを樹脂で型に貼りこんでいきます。
中にはコアを入れます。
カーボンロービングをスパン方向にいれ、強度をあげます。
すべて張り込んだ後、型のふたを閉めて熱をかけます。


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型からブレードを取り出し成型します。

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ブレードをとりつけるボルトを通す穴をあけます。
この穴がまがると迎角が変わってしまうので慎重に…

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ブレードを塗装します。中にはいっている硬質ウレタンフォームは温度が上がると膨張します。
カーボンクロスの地色である黒のままだと屋外で熱を吸収し、ブレードが変形するため、
ブレードは白く塗装します。 塗装後、前縁側にステンレステープを張ります。
実際の塗装作業は塗装ブースで行います。

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ブレードの重さ、形状を計測し、左右のブレードの組合わせと迎角を決定します。
あらかじめブレードに穴をあけ、鉛を入れながら、左右のブレードの静的バランスをとります。
その後風のない夜にモーターテストベンチにとりつけ、ストロボをあてて左右の
ブレードが同じ軌跡をとおるように迎角を調整します。


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耐久テスト用のテストベンチに取付け、上段と下段の回転数が同一になるように迎角を調整します。この迎角をもとにして、それぞれのブレードにあった迎角をもつブレードホルダーがつくられます。

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こうしてブレードが完成し、GEN H-4にとりつけられます。


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おまけ

バランスダンパーが導入される前は、このようにしてローターの重心と回転中心を合わせていました。それでもなかなかあわせきれない場合もあり、今に比べて振動がずいぶんとありました。バランスダンパー導入後はこの作業はなくなり、振動もぐっと少なくなりました。


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2004年横浜でおこなわれたJAPAN AEROSPACE2004でのデモフライト。パイロットは横山保俊。



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2002 Sun 'n Fun Air show

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人も運べるドローン|自律飛行型GEN H-4R|


GPSおよび加速度センサ等各種センサからの情報を元に 自律飛行を実現しています。 重心移動システムの新たな追加により 高速移動や風の中での飛行安定性が良くなります。


重心移動するGEN-H4|人も運べるドローン|


GEN-H4は重心移動することで、一般のヘリコプターと同等かそれ以上の性能を発揮できると、考えています。 GEN CORPORATIONは人も運べるドローンの、開発を行うパートナー企業を探しています。



GEN-H4|ハイパフォーマンス|



GEN H-4E




Homemade helicopter



10 successful HOME MADE helicopter





homemade Helicopter jugad | Homemade helicopter Flying successful | how to make helicoptor at home




5 Homemade Helicopters that Failed




Amazing Homemade Helicopter Inventions




Worlds smallest One-man Helicopter GEN H-4 by ADEYTO






Jetman Dubai Takeoff - 




Overview of Homemade Helicopter





TOP 3 SUCCESSFUL HOMEMADE HELICOPTER





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Indian inventor makes helicopter from junk




7 Real Flying Machines That Actually Fly




[Drone Design]Vol.07 実用化間近?ドローンタクシーのデザインが面白くなってきた

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加速するドローンタクシー実用化の動き

ドローンの基本的な飛行技術が確立されてきた影響なのか、はたまた空を飛んで移動したいというニーズが高まっているのか。新しい移動手段としてのドローンタクシーを実用化する動きが一気に加速しています。

最初にドローンタクシーが話題になったのは、2016年のCESで中国のドローンメーカーEHang社が出展した「EHANG 184」のコンセプトモデルでしょうか。2段式ローターで駆動するクワッドアームタイプの一人乗りドローンで、アプリを使って完全な自律飛行が可能というふれこみでした。

当時はドローンの認知度が上がって、CESでも展示エリアが大幅に拡張されたタイミングだったこともあり、見た目が小型の一人乗りヘリコプターにしか見えないことや、「無人じゃないからドローンとはいえない」とツッコミされつつも、新しもの好きなCESの来場者が連日詰めかけ、展示ブースはいつも人でいっぱいという状態でし
著者自身も取材当時、このままフェイクに終わるんじゃないかと思っていたのですが、翌年の2017年2月にはドバイで実用化のための試験運用を開始。その後も改良が続けられていて、環境に優しい低高度自律飛行型航空機(low altitude autonomous aerial vehicle)として正式に発売されています。

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新型の「EHANG 216」

さらに最新型の「EHANG 216」は、6ローターで2人乗りができるカタチにまで進化しています。リリースによると今年4月にはウイーンで開催された「4GAMECHANGERS Festival」というイベントで初お披露目され、これからオーストリアの航空会社と一緒に実用化を進めていくということです。


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世界最初のドローンタクシー実現に力を入れるドイツのVolocopter

そして、そんなEhang社よりも実は先にドバイでドローンタクシーを飛ばしたのがドイツのVolocopter社です。見た目はやはりヘリコプターに似ていますが、頭上にあるのはローターではなく、放射状に枝分かれしたサークル状の上に合計18ものローターが配置され、2人乗りの機体は100mの高度で30kmの距離を移動できます。

最も厳しい航空交通規制をクリアできるほど安定した飛行性能を持っていて、超高層ビルの間をすり抜けることも可能なのだとか。実は人を乗せるドローンを開発するキャリアはかなり長くて、2011年に手作りのドローンにそのまま乗って空を飛ぶところからスタートしています。その後、本格的にスタートアップとして開発を続け、現在はインテルとオンデマンドでサービスを利用できるシステムを共同開発するほどの企業に成長しています。

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Volo-Portはこんなデザインになる予定

先日発表された最新のプレスリリースによると、シンガポールの民間航空局と運輸省と連携し、今年後半に都市内でサービスを提供するためのテスト飛行を開始するために専用の「Volo-Port」を設置するということです。専用ポートはデザインに定評のあるイギリスのエージェンシー「Brandlab」が手掛けるので、そちらのデザインも気になるところです。


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エアバスのドローンタクシーはさすがの完成度


さらにフランスの国鉄にあたるRATPがエアバスと提携して、都市交通としてドローンの運用を開始するという発表もあります。最初はパリからスタートして、主要な都市で展開できるドローンタクシーのソリューションを開発するということで、両社の持つ技術やこれまでの蓄積を活かしていくとしています。具体的に実用化する時期などはプレスリリースには書かれていないのですが、エアバスが公開しているドローンタクシーの機体がとにかく完成度が高く、これならパリの空を飛んでもゆるされるのではないかと思わされるほどです。

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ドローンタクシーといえばGoogle創業者の一人、ラリー・ペイジが投資するスタートアップ企業の傘下にあるZephyr Airworks社も「Cora」という機体を開発していて、日々の交通手段として運用できるeVTOLを目指し、ニュージーランド航空と提携して実用化を進めています。


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ニュージーランドで開発が進められているCoraのプロトタイプ

016年末に設立されたZephyr Airworks社は、それより前の2011年からドローンタクシーの開発をスタートしていて、人を乗せたまま垂直栗陸から水平飛行へスムーズに移行できる機体を設計する実験を繰り返していました。4年かけて飛ぶ仕組みはできたものの、人を乗せられるようになるまで3年を費やし、2017年10月にプロトタイプが完成しました。

11mある翼に12の独立したウィンドファンを前後に搭載し、垂直離陸後はかなり大きな尾翼でバランスをとりながら水平飛行で最高時速180kmで飛行するという機体は、他のドローンタクシーとは異なる特徴的なデザインをしています。すでにニュージーランドの民間航空局と米国連邦航空局の両方で滞空証明を取得し、いよいよサービス開始間近ではないかとも言われています。

まとめ

これまでドローンタクシーは主に都心部で高速に移動するための手段として開発されていましたが、一方でニュージーランドのように公共交通が少なく、地形的にクルマでの移動も不便で、環境にも厳しい国でも急速に開発が進んでいます。どこか一つでもサービスが始まればさらに新規参入が増え、さらに独創的なデザインの機体が登場する可能性があります。そしてドローンタクシーをきっかけに、空飛ぶクルマの開発も一気に進むかもしれませんね。

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【連載特集】空飛ぶクルマまもなく! 有人飛行のSkyDriveに乗り物の未来を聞いた
【未来のモビリティ・第3回】

















岡部 金治郎  マイクロ波源とする分割陽極マグネトロンを発明 1928年(昭和3年)1月25日

岡部金治郎

 

岡部 金治郎(おかべ きんじろう、1896年3月27日 - 1984年4月8日)は、日本の工学者。専門は電子工学

マグネトロンを実用的なマイクロ波源とする分割陽極マグネトロンを発明した[1]東北大学で助教授、名古屋高等工業学校大阪帝国大学近畿大学で教授を歴任。学士院恩賜賞文化勲章の受章者。八木秀次に師事

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分割陽極型マグネトロンの構造:
1) カソード, 2) アノード, 3) 永久磁石

人物

1896年明治29年)、名古屋市に生まれる。1916年大正5年)に名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)を卒業し[1]1922年(大正11年)に東北帝国大学(現・東北大学)工学部電気工学科を卒業する[2]

卒業後そのまま東北帝大に奉職し、同年講師[1]1925年助教授となる[1]。アメリカのアルバート・ハル (Albert Hull) により低周波用増幅管として発表されていた単陽極マグネトロンを用いて学生と実験をしているときに印加磁界Hと陽極電流Iとの関係が理論値からずれていることに気づき、何らかの発振現象が起きていることを発見した[1]

1927年(昭和2年) に円筒状陽極を軸方向に2分割しその間に振動回路を形成したものが効率良くマイクロ波(当時は波長3cm、周波数10GHz、振動モードとしてはA型振動とB型振動)を安定して発振できることを見出し、多分割陽極マグネトロン(Multi-Split-Anode Magnetron)の開発の端緒となった[3][4][1]

この発見は優れた研究として国内外から着目された[1]。その時点までの最短の発振波長(最高周波数)がドイツで発表されていたバルクハウゼン-クルツ振動管(BK管)による波長24cm、周波数1.25GHzのものであったためである[1]

1929年(昭和4年)に大阪帝国大学より工学博士となる[2]。論文の題は「マグネトロン」ニ依ル不減衰超短波長電気振動ノ発生ニ関スル研究」 であった。

1929年(昭和4年)から[1]1934年(昭和9年)まで名古屋高等工業学校教授。東北帝国大学時代の恩師八木秀次教授が大阪帝国大学(現・大阪大学)理学部を創設する際、要請を受けて1935年(昭和10年)より大阪帝大理学部助教授就任、1939年(昭和14年)に教授昇任、同大学産業科学研究所1956年(昭和31年)に大阪大学名誉教授[2]、同年より近畿大学教授就任[2]等、長年にわたり学生の教育指導と研究に携わった。

電磁波に関する研究会である輻射科学研究会熊谷三郎教授らとともに開催し,電磁波工学の発展にも努めた[1]

1935年(昭和10年)には大阪管を発明し、マイクロ波発生装置の開発とその機構解明に卓越した業績を残した[1]1944年(昭和19年)文化勲章を受章した[2]他、朝日賞学士院恩賜賞、1969年(昭和44年)に勲一等瑞宝章受章など、数多くの栄誉を受けている。

1984年(昭和59年)、老衰のため逝去。


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マグネトロン


マグネトロンmagnetron)とは、発振真空管の一種で、磁電管とも呼ばれる。電波の一種である強力なマイクロ波を発生する。レーダー電子レンジに使われている

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  マグネトロン外形


構造と動作

マグネトロンは他の熱電子管と同様、ヒーターにより加熱される陰極(カソード)と、加熱されない陽極(アノード)からなる。

陰極は管球の空胴の中央に配置され、陽極はこの陰極を囲むように配置されるとともに、陰極に対して正の高電圧が印加されている。陰極をヒーターで加熱すると熱電子が放出され、陽極と陰極間の電界により陽極方向へ加速される。このとき、管球の軸方向に永久磁石などで強力な磁場が形成されており、電子はフレミングの法則に従い進行方向と直角な方向に力を受けて曲げられる。

この作用により、電子は陰極と陽極の間にある作用空間と呼ばれる場所で、サイクロイド曲線を描いて振動しながら周回運動を始める。陽極には規則的に形成された複数の空洞(キャビティ、cavity)があり、空洞の開口部をサイクロイド振動している電子が通過すると、空洞の共振周波数で空洞と電子が共振を起こし、マイクロ波が発生する。こうして空洞に発生したマイクロ波を、結合回路を介して出力回路へ効率よく伝播させることで、マグネトロンの外へと導き出し、各種の利用が可能になる。

この結合回路には、電磁結合(ループ)型と静電結合(スリット)型などがあり、出力回路には同軸型や導波管型がある。

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分割陽極型マグネトロンの構造:

1.カソード、2.アノード、3.永久磁石


応用

マグネトロンが発生するマイクロ波は、レーダーや電子レンジなどに応用されている。

マイクロ波とは、電波の範疇で高周波帯側を示す概念であり、低周波よりもひろい周波数帯域を通信のために使うことが可能である。その結果として、一定の時間の間に低周波よりも多くの情報を伝送できる。

また、発生するマイクロ波は、強力で波長が短いことにより直進性も高いので、反射波が戻ってくるまでの時間とその方向を測定することにより、離れた地点にある物体の距離と方向の探知を行うことが可能であり、この原理を用いた装置をレーダー(電波探信儀、英語radar)という。

一方、マグネトロンは、基本的に発振管本体は丈夫かつ堅牢であり、高出力で安定したマイクロ波を発振することが出来るが、発振周波数を可変することは一般的に困難であり、クライストロン進行波管TWT)の様に単体で、振幅変調周波数変調を行うことも困難である。よって、通信の「変調した情報」を伝送する用途の無線装置には向かない。

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   マグネトロン断面


電子レンジに使用される周波数は、他の応用の電波帯域と干渉して障害を起こさないように、国際規格で『2,450 MHzISMバンド)』に統一されているが、アメリカ大陸に限り915 MHzの利用も認められている。電子レンジによる加熱の原理は、極性分子である誘電体にマイクロ波を照射すると、高周波電界の周期に従って、分子回転(分子間振動)を励起し、その回転エネルギーが散逸することにより熱が発生することを利用したものである(マイクロ波加熱参照)。

電子レンジの作動周波数が『2,450MHzに統一されている』理由は、他のマイクロ波帯に悪影響を及ぼさないためであり、水自体の誘電損失による吸収のピークは、さらに1桁ほど高い周波数(温度により変化するが、20 - 80GHz前後)である。 つまり2,450MHzは、水が回転エネルギーとして吸収するピーク周波数からは大きく外れているが、水のマイクロ波吸収特性の幅が非常に広いので、周波数がこの程度ずれていても、十分な吸収が起きて加熱を行える。アメリカ大陸における電子レンジがより低い周波数である915MHzを用いても加熱を十分に行えるのも同じ理由からである(ただし効率は若干劣る)


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  電子レンジは食品を調理するために誘電加熱を使用する。


歴史

原型となるものは1920年に、ゼネラル・エレクトリック社の Albert Hull により発明された(1916年は静電制御型発振管の特許を回避するために磁力制御型の開発を開始した年)。これは陽極と陰極がそれぞれ1個の同軸構造であり、低周波しか発振できずマイクロ波を発振できなかった。1925年当時15kW出力20kHzの発振しか実現していない。Albert Hull 自身が通信用途よりも電源コンバータを用途に考えていた。

1924年、チェコ人でプラハ・カレル大学教授の物理学者August Žáček (1886-1961) と、ドイツ人の物理学者Erich Habann (1892-1968) は、マグネトロンが100MHz-1GHzの周波数で発振できることをそれぞれ独立で発見したが、Žáčekの論文が先に出版された。

1927年東北帝国大学岡部金治郎により「分割陽極型マグネトロン」が開発されて国内で発表された。これによりマイクロ波の発振が可能になった。1928年にはアメリカの学会で八木アンテナと共に英文の論文も発表された。

その後、「陽極分割型マグネトロン」は1934年2月28日にRCAのErnest G. Linderによって、アメリカ合衆国で特許の出願と取得がされた。1935年にドイツの Hans Hollmann が「多分割共鳴空洞マグネトロン」として改良発明し、1940年にはイギリスの John Randall と Harry Boot が水冷式の大出力マグネトロンを開発した。1940年代第二次世界大戦で使うマイクロ波レーダーの共同開発のためイギリスからアメリカ合衆国に技術がもたらされた。レイセオンが、マグネトロン・チューブの大量生産に成功し、連合国側の勝利に貢献した。技術者として徴用されたアーサー・アシュキンはこの時代に書いた論文を元に研究を発展させ、ノーベル物理学賞を受賞した。

大日本帝国は分割陽極型によるマイクロ波用のマグネトロンと八木・宇田アンテナという要素技術を他国に先駆けて発明していたにも関わらず、日本軍や産業界の無理解により、マグネトロンパルスレーダーを真珠湾攻撃の開戦までに実用化していなかった。ドイツ帝国を中心とした海外情報を元に旧式の3極管発振と非八木アンテナの低性能なレーダーだけを実用化していた。

朝永振一郎によって既にマグネトロンの振動理論が完成しており、戦後同氏はこれで学士院賞を受賞した[1][2]。海軍技術研究所の島田実験所の研究で、戦争末期に波長10cm、出力50kWのマグネトロンができたとされている[2]

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ウルツブルグ

ウルツブルグ (レーダー)




当時の日本の技術開発は既に外国で完成された兵器の体系を模倣して国産化することであって、自力では演繹的に開発できなかった。戦時中に改めてナチス・ドイツから技術導入した射撃制御レーダーのウルツブルグはコヒーレントレーダーであり、単純にマグネトロンを使えず、完成したのは終戦直前の1945年7月だった。

日本軍は、1942年1月にアメリカ領フィリピン、2月にイギリス領シンガポールを陥落したときに接収したパルスレーダーリバースエンジニアリングしているが、これもほとんど間に合わなかったとされる。当初から国産のマグネトロンを使用したレーダーは、大日本帝国海軍二号二型電波探信儀だけでホーンアンテナを利用していた。この試作が1941年で、完成したのが1943年である。このレーダーは戦後、民生用の船舶レーダーに流用された。

1946年パーシー・スペンサーによってマグネトロンの発生するマイクロ波が食品の温度を上昇させる効果が発見されて、これが電子レンジの端緒となった。

マグネトロンは2014年現在でもレーダー・電子レンジの高周波源として利用されており、デジタル信号処理の発達により、マグネトロン発振後にリアルタイムに単純なコヒーレント処理が可能となっている


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殺人光線

殺人光線(さつじんこうせん)とは、電磁波、電光などによって、対象を破壊する光線兵器のことである。欧米ではニコラ・テスラや、ハリー・グリンデル・マシューズらによって研究された。また、大日本帝国海軍B-29型超重爆を撃墜するために、「Z兵器」の名称で開発が進められた

Z兵器

太平洋戦争当時の大日本帝国海軍は、電波を利用したエネルギー兵器の実用化を試みていた[2]。この「Z兵器」は、通信や探知(レーダー)など間接兵器として使用されている電波を直接攻撃兵器として運用できないか……という発想からスタートした[3]。パラボラミラーによって電波を照射し、飛行機や自動車を焼損破壊しようという企図であった[3]B-29型超重爆による日本本土空襲が始まると、従来の高射砲や防空戦闘機(局地戦闘機)を凌駕する対空兵器としてZ兵器の開発を急いだ[1]静岡県島田に大型パラボラミラーや反射鏡が設置され、基礎実験をおこなう段階になっていたという[4]

島田理化工業島田工場島田製作所)(旧島田分室、島田実験所、島田実験会)において、同所長水間正一郎、海軍技術大尉伊藤庸二の下、旧東北帝国大学教授渡辺寧らによって真空管マグネトロンを用いた57種類の高出力殺人光線「Z」が計画・開発実験され、戦後GHQ科学情報調査団(コンプトン調査団)デイビット・T・クリッグス博士によって査察を受け接収された事が、島田製作所元職員八木春尚、牛込恵子(水間正一郎の娘)と水間の遺された日誌、島田実験所元海軍技術大尉矢波雅夫の証言、アメリカ国立公文書館に保管されたアメリカ陸軍諜報部門が作成した文書簡(1945年10月23日)およびワシントンポスト(1946年4月22日付)、米海軍訪日技術使節団(1945-1946年にグライムス海軍大尉作成)文書簡への取材を元に解明され、このことが2014年7月26日にTBS報道特集において放映された(TBS報道特集「殺人光線「Z」 秘密実験所の深層 (2014/7/26 放送)」)。この分室では渡辺寧、宮島龍興、菊池正士小谷正雄渡瀬譲小田稔などが研究していた[5]。島田実験所は1943年「強力極超短波」の兵器利用の研究のために設立されたものである。真空管とマグネトロンについてここで工学者と物理学者の間で研究が行われた[6]


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【海軍技術廠の殺人光線】

 海軍の研究所は、静岡県島田市にあった「第二海軍技術廠(しょう)牛尾実験所」です。
 本体である島田実験所では、電子レンジに応用されている「マグネトロン」で強力な電磁波を発生させる研究が進んでいました。この電磁波をパラボラアンテナから発信、1万メートル上空のB29に当てて、エンジンをスパークさせるものです。陸軍の研究と似ていますが、海軍は「Z研究」「Z装置」と呼び、朝永振一郎や湯川秀樹など後のノーベル賞学者も参加する中で開発が進みました。

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島田実験所のスケッチ(『静岡県の昭和史』下巻)

その分室である牛尾実験所では、「A装置」の研究が行われました。これは、電波によって起爆する砲弾だと推測されています。

《高射砲によって発射される砲弾には、マイクロ波を受信するアンテナと起爆回路が組み込まれている。上空を飛ぶ航空機に向けて、パラボラ反射鏡からビーム状のマイクロ波を持続的に照射する一方、航空機に向けて打ち出された砲弾は、ビーム状のマイクロ波の照射されている領域に入ると、起爆する。こうして、航空機に接近した場所において砲弾を爆発させることができる。これが、「極超短波近距離起爆装置」ということになろう》(『第二海軍技術廠牛尾実験所跡遺跡』)

 戦後の1945年9月から10月にかけて、アメリカから来日した科学情報調査団が日本の科学開発の状況を徹底的に調査し、コンプトン報告書を出しました。報告書には、「殺人光線」の開発に関与した八木秀次博士の聞き取りが記録されています。
 報告書には陸軍において「3〜4キロワットの光線(極超短波)で30メートル先のウサギを殺す実験に成功したが、人体実験はしていない」と述べてありました



『第二海軍技術廠牛尾実験所』静岡県島田市
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戦後 かれらはこの島田市にマイクロ波関連の会社を設立
それが島田理化SPCです
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戦後に山梨に方向探知機の会社を設立それが光電KODENです
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海軍技術研究の中枢にいた元海軍技術大佐伊藤庸二工学博士と技術者たちは、1947年(昭和22年)に光電製作所を創立しました。折しも食料不足の時代、コーデンの無線方位測定機「方探」は航海の安全と漁獲の増大を実現し、画期的な近代装備として急速に普及しました。このことも契機となって、わが国の漁業は近代漁業へ躍進していったといわれています。自由な研究開発と技術活用の場を求め集まった人々はいくつもの独創的な製品を生み出して、今日の基礎を築きました。





『陸軍登戸研究所』予告編





「殺人光線」開発 戦争に翻弄された科学者~島田実験所70年目の真実~




日本軍が密かに開発していた最終兵器「Z」【都市伝説】




2014牛尾実験所




「電波兵器」実験所跡、調査へ


旧海軍が開発していた「強力電波兵器」の実験所跡について、初の発掘調査が行われる見通しとなった。8月14日の報道でわかったもの。この実験所は、静岡県島田市内の牛尾山に残る「第二海軍技術廠牛尾実験所」。大きなパラボラアンテナで強力な電波を照射して、敵の飛行機を故障させる実験などを行っていた。電波兵器は実用化されることなく終戦を迎えたが、研究成果は戦後、電子レンジなどに応用されている。牛尾山は付近を流れる大井川の改修工事のため削られることになっており、「戦争遺跡として非常に重要」という声もあることから、写真や図面を残す記録保存を前提に発掘調査が進められるのでは、とみられている。ただ、地元からは実物の保存を求める声も上がっているとのこと。

171203旧海軍 島田・牛尾実験所を語る パネルディスカッション




25--GHQ軍事科学調査--Ngo未来大学院=NFS=NGO FUTURE SCHOOL




旧日本軍、最終兵器の都市伝説【都市伝説】


【都市伝説】知られざる旧日本軍の最終兵器 太平洋戦争末期のころ、静岡県島田市に爆弾が投下され多くの犠牲者が出た その爆弾は2週間後 長崎に投下された原子力爆弾とほぼ同じ形、同じ重さの模擬爆弾だった なぜ静岡県島田市がターゲットとなったのか?



マグネトロン



【高出力エネルギー兵器】米空軍がドローン群を瞬時に壊滅する
マイクロ波兵器「フェイザー」を配備へ




暴動鎮圧用の電磁波兵器

アクティブ・ディナイアル・システム (Active Denial System : ADS) は、アメリカ軍が開発中の暴動鎮圧等に用いるための対人兵器システム(指向性エネルギー兵器)。

ミリ波電磁波を対象物(人間)に向けて照射すると、誘電加熱により、皮膚の表面温度を上昇させることが可能で、この照射を受けた者は火傷を負った様な錯覚に陥るという。実験段階での報告によれば致命的な殺傷能力は無いとされ、対象物から450m離れた場所からの照射でも効力が有り、人道的な兵器としての利用が期待されている。 使用される周波数は95GHzで電子レンジの2.45GHzより非常に高い。



暴動鎮圧用の電磁波兵器をアメリカ軍が公表



Solid State - Active Denial Technology




Danger Room Video Ops: Spencer Ackerman Zapped by 'Pain Ray'




Active denial system explainer



レーダーの歴史







戦後 かれらはこの静岡県島田市にマイクロ波関連の会社を設立
それが島田理化SPCです


島田理化工業株式会社SPC ELECTRONICS CORPORATION)は、東京都調布市に本社をおく企業。創業は1946年マイクロ波ミリ波などを主体とした通信事業部門と、高周波誘導加熱を中心とした産業IH機器部門をもつ。

沿革

前身は日本海軍の第二海軍技術廠島田実験所。日本の超一流の科学者を総動員してマイクロ波に関する通称「Z研究」が行われていた。この研究には、後にノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎も参加していた。戦後、高周波技術を平和産業に役立てようと、1946年(昭和21年)主として高周波機器、電気諸計器並びに通信機の製造、販売及び修理を目的として、島田理化工業所を静岡県志太郡島田町(現島田市)に設立した。



マイクロ波からミリ波までアンテナをはじめとする給電部品を取り扱っています

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 44GHz列車無線用ホーンアンテナ
                       低域通過フィルタ
                       高域通過フィルタ


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60GHzカセグレンアンテナ

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 30GHz複モードホーンアンテナ


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 高電力同軸導波管変換器

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Ku-Band PLL LNB

18GHz帯から60GHz帯まで高帯域に対応した準ミリ波・ミリ波帯モジュールを開発・生産しております。周波数高安定度、低位相雑音のフロントエンドモジュールや周波数コンバータを提供しております。


近年の情報通信分野において高速・大容量化は重要なテーマであり、その情報の持つ広帯域性からミリ波帯(30GHz以上)の利用が積極的に行われています。またミリ波帯を使用することで装置の小型・軽量化も併せて実現可能となるなど非常に多くの利点を有しています。
一方情報通信分野以外では、車載用衝突防止レーダに代表されるような計測・センシング分野でもミリ波帯が利用されています。そこで重要になるのは装置のキーコンポーネントとなるフロントエンドモジュールの開発であり、当社ではこれまで18GHzから60GHzまでの周波数範囲に対応したモジュールを開発・生産しております。

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高周波誘導加熱装置の基本






戦後に山梨に方向探知機の会社を設立それが光電KODENです



漁業用機器の方向探知機が昔よく入荷してきましたその会社は光電(KODEN)です海もない山梨の会社です・・気になつてましたやはり海軍の残党たちが作った会社でした
海軍技術研究の中枢にいた元海軍技術大佐伊藤庸二工学博士と技術者たちは、1947年(昭和22年)に光電製作所を創立しました。折しも食料不足の時代、コーデンの無線方位測定機「方探」は航海の安全と漁獲の増大を実現し、画期的な近代装備として急速に普及しました。このことも契機となって、わが国の漁業は近代漁業へ躍進していったといわれています。自由な研究開発と技術活用の場を求め集まった人々はいくつもの独創的な製品を生み出して、今日の基礎を築きました世界初、わが国初の製品を次々と開発 画期的なブラウン管式無線方位測定機、わが国初の純国産ロランA航法装置やシンクロソナー、世界初のカラー魚群探知機や船舶用カラーレーダー、米国や日本の市場を制覇したロランC航法装置など、コーデンはトランジスター化・IC化・コンピューター化・カラー映像化といった技術革新を他社に先駆けていち早く取り入れ、エポックメーキングな製品を次々と市場に送り出してきました。コーデンの製品は世界の海でも高い評価を得ています。また、多数の研究開発テーマが国や公的機関による研究助成金の対象となり、いくつもの製品が各国で優秀製品に選定されています。船舶用電子機器業界初のGマーク選定商品も、コーデンの製品です。GPS航法装置でも、衛星の数がまだ揃わない早い時期から船舶用の装置を開発しています

光電
海軍技術研究の中枢にいた元海軍技術大佐伊藤庸二工学博士と技術者たちは、1947年(昭和22年)に光電製作所を創立しました。折しも食料不足の時代、コーデンの無線方位測定機「方探」は航海の安全と漁獲の増大を実現し、画期的な近代装備として急速に普及しました。このことも契機となって、わが国の漁業は近代漁業へ躍進していったといわれています。自由な研究開発と技術活用の場を求め集まった人々はいくつもの独創的な製品を生み出して、今日の基礎を築きました。

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日本海軍の電波技術と伊藤庸二大佐

太平洋戦争の記録をよむと、日本海軍は電信の暗号を解読され、電探(レーダー)で居場所を計測されて、実戦で次々に敗北し、総司令官山本五十六も戦死している。

この海軍の中で当時誰も目を向けなかった電探の開発に心血を注いだ技術将校がいた。

その人は伊藤庸二大佐で、中川靖造著『海軍技術研究所―エレクトロニクス王国の先駆者たち』に比較的詳く紹介されている。

経歴の概要。
伊藤庸二(1901~1955)
明治34年(1901)に千葉県御宿に教育家伊藤鬼一郎の長男として生まれる。
大正13年(1924)東京帝国大学工学部を卒業後海軍造兵中尉に任官した。
昭和2年(1927)に海軍より独逸ドレスデン工科大学に留学し、八木秀次博士の勧めでBK振動の発見者であるバルクハウゼン教授に師事し、特殊振動管の研究を行い、工学博士号を取得した

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戦中は海軍技術研究所の技術大佐としてマイクロ波レーダーの開発に携わると共に、マグネトロンの研究に没頭し、大戦末期には海軍技術研究所島田分室で大出力マグネトロン「Z装置(怪力光線)」の開発を指揮した。
(戦後は光電製作所を立ち上げ電波方向探知機の製造を行うと共に、財団法人資料調査会の役員として帝国海軍に関わる資料の保存・研究に尽力した。防衛技術研究所の開設が決まると、その初代所長への就任を要請されたが昭和30年(1955)5月9日に54才で急逝した。
なお、戦前日本無線で当時世界最高出力の水冷式マグネトロンを開発した中島茂は伊藤庸二の実弟である。)

伊藤は電波技術を索敵、攻撃兵器に応用すべきと早くから提唱していた人物で、昭和十五年、遣独軍事視察団に随行した際、実戦配備されていた「ウルツブルグレーダー」を目の当たりにし、その兵器としての威力に衝撃を受けた伊藤は、ウルツブルグレーダーに関する詳細な報告書を作成、艦政本部に提出した

当初は艦政本部は、そんなものは暗闇に提灯をつけるようなもので、海軍の伝統である奇襲攻撃には向かないと、取り合わなかった。
伊藤は研究所内に伊藤教室をつくり、若手の電波技術教育の充実を行い、さらにバルクハウゼン博士の招聘を行い、ドイツ海軍が夜間でも電波で測距できる装置を開発したらしいという話を聞きだしたたりした。
このような情報活動と、陸軍が電探の研究に着手したこともあり、海軍上層部でも電探技術の重要性が徐々に認識されるようになり、昭和十六年八月、ようやく海軍省は「電波探信儀研究着手」の訓令を発し、九月には伊藤を主任として電探兵器の開発が開始された。
この頃ワシントン駐在の海軍武官が米海軍の装備をよく調べると、おかしなアンテナが各軍艦のマストについていることがわかった。真珠湾攻撃の4ケ月前のことである。

伊藤らは、戦時中は海軍技術研究所電子部にあって、電探の研究開発に全力投球した。
昭和17年4月に米軍機の東京初空襲があったが、房総と三浦半島に設置された電探は、まだ敵機を補足出来なかった。
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この年軍艦伊勢と日向につけられた電探は、35Kmの戦艦は検知できたが、航空機は補足出来なかった。
この両艦はアリュ―シャン列島の作戦にでて、濃霧のなかを無事撤退することができた。

さらなる改良研究や量産に消極的だった艦政本部も、米軍がガダルカナル上陸作戦で使用した地形判別マイクロ波装置に驚き、漸く組織改正や予算増強にのりだした。昭和18年5月のことである。

陸上見張り用は、4号機までつくられ、それなりの実績を残した。
船艦装備の見張り電探は、潜水艦、海防艦、駆潜艦に使用された程度で終わった。
対空射撃用電探は英国式を模倣したが、実用化までに至らなかった
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伊藤らは、原爆や殺人光線の開発研究会「Z研究」を立ち上げたが、大風呂敷と批判された。
何とか島田技研の建設と人集めにこぎつけたが、終戦をむかえた。
しかしこれは戦後の復興に役立てられたという。


伊藤大佐は電探の開発で有名だが、米太平洋艦隊所属艦艇の発信電波を解析する算式、『"W"測定』(共同研究者である和智恒蔵大佐の頭文字を取って"W")の考案者の一人である。

この測定理論で、真珠湾作戦に先立って、在ハワイ太平洋艦隊の在伯状況を調査するのに利用され、伊藤大佐の電波伝播研究にも応用されていたという。
幕末から明治維新後に、日本が急速に電信技術を取り入れて、世界のトップレベルになっていたのに、昭和になって遅れをとったのは何故だろうか?

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SI-TEX/KODEN 511A AUTOMATIK DIRECTION FINDER




DIRECTION FINDER




乗船実習報告⑪ 合同授業②(無線方位測定機)


県立焼津水産高校の実習船「やいづ」に乗船し、1か月間のカツオ一本釣り実習を行いました。 焼津水産高校専攻科との合同授業の第2弾は、「無線方位測定機の演習」です
鹿児島と那覇のラジオ局の方位を測定し、船の今いる位置(船位)を実際に求めてみました



AQUA 712 automatic radio direction finder





R&S Direction Finders




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 今日は何の日 プエブロ号事件 昭和43年1月23日

プエブロ号事件  昭和43年1月23日

1968年
プエブロ号事件。アメリカの情報収集艦「プエブロ号」が 領海侵犯したとして北朝鮮警備艇より攻撃され1人死亡、残る乗員82名が身柄拘束 乗組員らは12月になってから解放されたものの、プエブロ自体の返還は行われなかった。

プエブロ号事件(プエブロごうじけん)は、1968年アメリカ海軍情報収集艦プエブロ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に拿捕された事件である。
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プエブロ(1967年10月)

概要

朝鮮人民軍のゲリラ部隊が大韓民国の朴正煕大統領殺害を企てた青瓦台襲撃未遂事件から2日後の1968年1月23日、北朝鮮東岸の元山沖の洋上でNSAの電波情報収集任務に就いていたプエブロ号が、領海侵犯を理由に北朝鮮警備艇などから攻撃を受け、乗員1名が死亡、残る乗員82名が身柄を拘束され、北朝鮮当局の取り調べを受けた。ただし、実際に領海侵犯が行なわれたかどうかについては、現在もアメリカと北朝鮮で主張が食い違っている。
アメリカ合衆国政府はアメリカ空軍に戦闘準備を命じ、海軍空母部隊(航空機200機)を日本海に展開して乗組員の解放を要求したが、北朝鮮はこれを撥ね付け、逆に領海侵犯を謝罪するよう求めた。アメリカは1953年7月27日に署名した朝鮮戦争の休戦協定を破るわけにはいかず、またベトナム戦争が拡大し続ける中であり、戦線の拡大は「ソ朝友好協力相互援助条約」に基づく北朝鮮の同盟国であるソ連の自動参戦を招きかねないことでもあった。
結局、アメリカは外交的解決として、板門店での会談で北朝鮮の用意したスパイ活動を認める謝罪文書に調印することとなった。乗員は11か月の拘束の後の同年12月に解放された。プエブロ号の船体は返還されず、現在も北朝鮮の管理下に置かれて首都平壌市内の大同江で一般向けに観光公開されており、同国の反米宣伝に利用されている。
このプエブロ号拿捕事件を受けて、当時ベトナム戦争の北爆任務前の休養のため日本に初めての原子力空母として寄港していたエンタープライズは北爆任務を中断して佐世保港から緊急出港(佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争)。日本海へと向かった。朴正煕暗殺未遂に続いて起こった出来事に、朝鮮半島情勢は緊張。第2次朝鮮戦争の危機を感じさせる事件であった。
この事件は、アメリカ人を人質に捕ることで、朴正煕政権の北進を断念させる狙いがあったともいえる。一方、戦争の危険を顧みずにアメリカに挑戦し、ぎりぎりの外交戦術で相手の譲歩を勝ち取る瀬戸際外交の始まりであったと見るものもいる
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        報告によるプエブロ号の位置


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朝鮮人民軍に拿捕されたプエブロ号の航空写真(CIAA-12撮影)

事件の詳細


拿捕

1968年1月5日に日本の長崎県佐世保基地を出航したプエブロは、対馬海峡で行動するソビエト海軍の潜水艦の探知と、北朝鮮による通信の傍受を命じられていた。
1月21日プエブロは4km近くをソ連製の駆潜艇が通過するのを探知し、翌22日には20mほど近くをトロール船2隻が通過した。
1月23日、プエブロは北朝鮮の駆潜艇に発見され、国籍を問われて星条旗を掲げた。駆潜艇は国際信号旗“SN”を用いて停船を要求した。プエブロは逃亡を図ったが、水平線上に3隻の魚雷艇を発見、さらに北朝鮮側からはMiG-21戦闘機と駆潜艇1隻、魚雷艇2隻が応援に急行した。
駆潜艇の乗組員が接舷し乗り込もうとしたが、プエブロはこれを回避、なおも逃亡しようとした。これに対し駆潜艇が57mm機関砲でプエブロを銃撃したが装甲が厚く、余り効果はなかった。
しかし2回目の砲撃で、見習い機関兵デューン・ホッジスが死亡、駆潜艇から北朝鮮兵士が乗り移って白兵戦に発展。アメリカ兵を縛り上げた後目隠しをし、銃床で殴ったりして捕らえた。
上瀬谷通信施設の米海軍保安部は無線でこの事態を知ったが、群山空軍基地のF-4は装備の問題から発進に手間取り、救援に駆けつけることができなかった。アメリカ本国で大統領リンドン・ジョンソンが事件を知ったのは乗組員が拘束された後であった。

収容

拿捕後プエブロは元山港に入港させられ、乗組員は2回に渡って捕虜収容所を移動させられた。乗組員の証言によると、この間に乗組員は拷問を受け、プロパガンダ用の写真を撮影しようとした北朝鮮兵に向かって乗組員がファックサインをした際に最も激しい拷問がなされたという。
艦長のロイド・M・ブッチャー中佐も拷問され、スパイ行為を行ったと自白させるため「部下を目の前で処刑する」と脅されたという。そのため、ブッチャーは自白を承諾した。北朝鮮側は彼自身の言葉で自白させたが、この時ブッチャーはささやかな抵抗として、「私は北朝鮮と、偉大な指導者金日成に感謝する」と発言した際、「感謝する」を意味する「paean」を、「小便する」という意味の「pee on」と発音した。しかし、英語に詳しい者のいなかった北朝鮮側は誰ひとりとして気付かなかった。


コンバット・フォックス作戦

この事件はアメリカ東部時間の深夜に発生したが、翌日の大統領昼食会で対応が検討され、それから連日にわたって国家安全保障会議が開催された[1]。国防長官ロバート・マクナマラは空軍の増派と政府の態勢強化を主張し、ベトナム戦争の最中であったが、本国とベトナムから最終的に戦術機400機以上が朝鮮半島周辺に展開された。また、B-52戦略爆撃機24機が嘉手納基地とグアムに前進配備され、給油機10機が嘉手納基地に駐屯した。海軍では6個の空母群を集結するとともに、海空軍予備役の動員も行なわれた。



外交交渉

アメリカ合衆国政府は乗組員の解放を要求したが、北朝鮮はこれを撥ね付け、逆に領海侵犯を謝罪するよう求めた。

アメリカ側では元山港の機雷封鎖や航空基地の爆撃も検討された[1]。しかし、乗組員が人質となっており、第二次朝鮮戦争につながればベトナム戦争と並行して戦争を遂行しなければならなくなることから、徐々にソ連を通じた外交交渉により乗組員と船体の引渡しを要求する意見が大勢を占めるようになった[1]。さらにベトナム戦争では1968年1月30日からテト攻勢が始まりアメリカ政府の関心は再びベトナムに移った[1]

事件発生当時、北朝鮮は領海12海里、アメリカは領海3海里を主張していた[1]。事件発生時にアメリカ側は12海里以上離れて航行していたと主張したが、1968年12月には12海里以内だったことを認めることで乗組員解放交渉が妥結した

その後

2014年1月、機密指定解除で公開された公文書により、事件を受けてのアメリカ太平洋軍による対北有事行動計画「フレッシュ・ストーム」「フリーダム・ドロップ」がまとめられていた事が明らかになった。このうち後者では、核兵器の使用すら検討されていたという

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北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の首都平壌に係留されているプエブロ(2009年
現在は
反米プロパガンダのための観光資源となっている。


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北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の首都平壌に係留されているプエブロ(2009年
現在は
反米プロパガンダのための観光資源となっている。

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The Strange Tale of the USS Pueblo




【北朝鮮】係留されているプエブロ号の中で説明を受けました






プエブロ号事件




北朝鮮、「祖国解放戦争勝利記念館」=拿捕、略奪した米戦闘機、戦車など展示




「プエブロ」号の末路




50 Years After North Korea Captured The USS Pueblo, The Ship Is Still On Display | NBC Nightly News




Interview: The Man Who Seized the Pueblo





대한뉴스 제 707호-푸에블로호 승무원 돌아오다



북한이 '푸에블로호' 나포했을 때 美, 핵공격 검토 / YTN





[현지 기획보도] 북한 9.9절 & 푸에블로호









アメリカ海軍EC-121機撃墜事件      今日は何の日 昭和44年4月15日


1969年(昭和44年)北朝鮮とソ連に対する電波情報収集活動を行っていた米空軍のEC-121機が、北朝鮮により撃墜。31名全員死亡。


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事件で撃墜されたEC-121Mと僚機のF-4B

飛行の目的

1969年4月15日の火曜日の午前7時、在日米軍厚木海軍飛行場から、海軍所属のEC-121M ウォーニングスター(コールサイン:ディープ・シー129(Deep Sea 129))1機が離陸した。8人の士官と23人の下士官・兵が搭乗、うち1人は海兵隊員であった。乗員のうち9人は、暗号技官(cryptology technician)とロシア語および朝鮮語の通訳官であった。「ディープ・シー129」に与えられた任務とは、日本海に向かい「ムス・ポイント(Musu point)」と呼ばれるソ朝国境に近い北朝鮮の吉州郡舞水端里沖合でソ連と北朝鮮の間の電波情報の収集活動(諜報活動)を行うことであった。この任務は「ディープ・シー129」が長さ120海里(222km)の楕円状の周回コースに沿って飛行し、電波を傍受するもので北東方向はソビエト連邦に向けたものであった。またこの任務は、名目上アメリカ太平洋軍第7艦隊の指揮下であったが、実際にはNSAが行っていた。

撃墜

この活動は2年間続けられており、北朝鮮の海岸から50海里(90km)よりも接近することは禁止されており、それまで北朝鮮からの反撃などはなかった。だが12時34分(現地時間)に在韓米軍群山基地のレーダーとアメリカ陸軍機密保全庁(ASA)は朝鮮人民軍空軍のMiG-17戦闘機2機が「ディープ・シー129」の行動を探知し、離陸した事を感知した。「ディープ・シー129」は13時に予定通りに活動報告を送信したが、異常はなかった。しかしMiG-17が近づいていたため作戦中止を伝達。13時47分、MiG-17を探知した約2分後「ディープ・シー129」はレーダーから消えた。「ディープ・シー129」は撃墜され北朝鮮の清津から90海里(167km)沖の日本海(北緯41度28分00秒 東経131度35分00秒)に墜落、乗員31名全員が死亡した。

捜索

14時20分頃、ASAは「ディープ・シー129」が消失した旨を、約1時間後の14時44分には撃墜された旨を大統領リチャード・ニクソンと国家安全保障担当補佐官ヘンリー・キッシンジャーを含む国家上層部に伝えた。また捜索活動のためアメリカ空軍と海軍の航空機が最大26機投入されたほか、駆逐艦「ヘンリー・W・タッカー」とミサイル巡洋艦「デイル」の2隻が4月15日の午後に佐世保基地から出港した。最初に機体の残骸を発見したのは翌朝9時30分であった。4月17日正午、ヘンリー・W・タッカーが2名の遺体を回収した。この海域にはソ連の艦艇や航空機も出動しており、その後ソビエト海軍の駆逐艦「Vodokhnovenny(D-429)」と捕鯨船に遭遇した。残り29人の遺体は発見出来なかった。

報復せず

このように、日本海を舞台に数日間は米ソ両海軍による軍事的デモンストレーションが行われた上に、報復のために戦術核兵器による北朝鮮への攻撃準備をニクソン大統領は軍に命じるも、当時ニクソン大統領は酩酊状態のため、キッシンジャー大統領補佐官が「大統領が酔いに醒めるまで待ってほしい」と進言して撤回されたその一方、北朝鮮の軍事力でアメリカの情報収集行動が妨げられないことを示すため、1週間もしないうちに情報収集飛行を再開した。

その後

北朝鮮郵政当局は1971年4月に「反帝・反米闘争」と題するプロパガンダ切手を発行したが、その切手には拘束されるプエブロ号の乗員と共に、「EC121」と書かれた飛行機の残骸が描かれている
北朝鮮に対するアメリカ軍による同様の諜報活動は現在もRC-135を用いて継続されている。これに対し2006年6月に北朝鮮当局は、アメリカによるスパイ活動を非難するとともに「アメリカは1960年代のEC-121の哀れな運命を忘れない方がよい」と当事件を指すと思われる挑発的なメッセージを送った。

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미국이 잊은 냉전의 희생자. EC-121M 사건.





Navy remembers those lost in plane shot down by North Korea 50 years ago





EC-121 Warning Star




アメリカ海軍EC-121機撃墜事件





In 1969, north korea shot down a u.s. airplane and killed 31 americans





Inside the Lockheed EC-121T-LO Warning Star Super Constellation




Qantas 'Connie' Super Constellation Takeoff with flames (1080p HD)





Why does North Korea hate the U.S.? Look to the Korean War.














「今日」なんの日  

飛行船の日


1916年1月22日
大正5年
陸軍飛行船「雄飛号」が所沢〜豊橋〜大阪間の飛行に成功

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国産初の飛行船の実験飛行が行われ、所沢〜豊橋〜大阪間の飛行に成功したのが1916年1月22日でした。陸軍の「雄飛号」は、所沢から大阪までの試験飛行をまず行なったそうです。益田済少佐、岩本周平技師という方が搭乗しており、途中、豊橋に着陸し、所沢〜豊橋間は約4時間、豊橋〜大阪城東練兵所までは、5時間10分、その他も含めて、合計11時間34分の旅だったようです。
しかし機関不調により、帰りの飛行は中止になったそうで、機体を分解し陸送されました。飛行船による初の東京~大阪間の飛行でしたので雄飛号の名は全国的に有名になり、この飛行を記念して、1月22日は「飛行船の日」となったそうです。

「雄飛」の主要諸元は以下の通り。様式:軟式パルセバール、容積:1万m3、重量:8.1t、全長:85.0m、全幅:15.5m、全高:22.5 m、乗組人員:6~12名、巡航速度:57.6 km/h、最大速度:68.4 km/h、昇騰高:2.5km、最大航続時間:20時間。

同機が製作された埼玉県所沢市ではこの雄飛を記念して作られた焼き菓子「雄飛焼き」が販売されている。「雄飛焼き」は、1930年(昭和5年)に「帝国優良品大審査会壱等賞金牌」を受賞しており、昔と変わらぬ素朴な味で所沢名物となっている。

艦歴
発注
起工1914年8月26日
進水
就役1915年4月21日
退役1917年7月廃止決定
その後
性能諸元
重量8.1 t
体積10,000 m3
全長85.0 m
全幅15.5 m
全高22.5 m
機関マイバッハ発動機 150 hp 2基
速度巡航速度:57.6 km/h
最大速度:68.4 km/h
航続距離
兵員6~12名

飛行の経緯

世界の航空軍事の進展に伴い、日本においても飛行船研究の必要性が認識され、陸軍、海軍が主導となって1909年(明治42年)に臨時軍用気球研究会が発足しました。委員には、東京帝大の物理学教授であった田中舘愛橘(たなかだて・あいきつ、1856-1952)などの学者も参加、日本ではじめてのグライダーを飛ばすなどの実績をあげました。

関連の日:12月 9日 日本初のグライダーが飛ぶ(1909年)

日露戦争の旅順攻略作戦で気球隊を運用して一定の成績を上げていた陸軍は研究に熱心で、雄飛号の航行も益田済(陸軍工兵少佐)、岩本周平(陸軍技師・気球隊付)が臨時軍用気球研究会委員として、雄飛号の組み立て、操船にあたりました。

飛行船の構造

全長85メートル、高さ22.5メートル、幅15.5メートルの巨体で、6~12名の乗員を乗せて、時速約60キロメートル程度での巡航が可能でした。竜骨のない軟式飛行船で、2個の空気袋を収めたガス嚢に、推進用の機関はマイバッハ製の水冷式直列6気筒エンジンを2台を搭載していました。実用上の上昇最高高度は2500メートルでした。

もともとドイツから輸入されたパルセバールPL13飛行船が不時着・大破してしまったものを改修・改造した船体で、所沢で組み立てられました。再設計された箇所も多いため、初の国産飛行船とされています。
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飛行船のガス嚢に充填する浮揚ガスには水素が使用されました。

ですが、1937年の「ヒンデンブルク号」爆発事故以降、不活性気体のヘリウムが使用されるようになります。ドイツは飛行船先進国でしたが、やがてアメリカのヘリウム供給停止のために、浮揚ガスの調達に苦労するようになります。

関連の日:5月 6日 ヒンデンブルク号爆発事故(1937年)

航行の様子と日本の航空運用のその後

所沢にある臨時軍用気球研究会の所沢試験所から大阪までの所要時間は、のべ11時間34分、平均巡航速度は時速40キロメートルでした。途中、豊橋練兵場で燃料補給などのために着地しています。

当初は往復の航行を目的としていましたが、機関不調で修理に時間をとられている間に暴風に見舞われたため、残念ながら復路は水素ガスを抜いて解体のうえ陸路を貨物列車で輸送されました。

雄飛号の航行にも携わった臨時軍用気球研究会でしたが、やがて海軍が独自の航空開発をするようになり、また科学研究目的としても文部省が独自に東京帝国大学・航空研究所(現・東京大学先端科学技術研究センター)を設けたこともあり、1920年に解散してしまいます。陸軍は航空本部を設置して飛行船の研究を続けますが、やがて航空の主役は飛行機へと集約されていきます。

無題

現在、雄飛号の離陸した飛行場は、所沢航空公園となっており、航空発祥の地として記念館も設置されています。また、所沢には、この雄飛号の航行を記念して、「雄飛焼」というお菓子もあるそうです。

雄飛焼

大正5年に所沢で初めて日本で作られた飛行船「雄飛号」が初飛行した記念に創製し、
昭和5年には「帝國優良品大審査会壱等賞金牌」を受賞した逸品。
古くからの所沢名物です。

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有限会社 梅月(所沢市

  • 有限会社 梅月

  • 昔、所沢は野呂沢村といわれ武蔵野の山村で鎌倉街道として知られている。その街道を行く旅人が保存食として携行されたと言われている「葛」。それを独特の製法で作り上げた「久ずの里」、保存がきき、しかも滋養に富む葛湯である。
  • また、当時の所沢では焼き団子が名物(現在も)で、大正5年所沢飛行場で作られた日本初の飛行船「雄飛号」が所沢~大阪間の飛行に成功。同じ大正5年創業の「御菓子司 梅月」の初代、三之助さんがそれを記念し、炭火で焼いた団子をまねて、雄飛号をかたどった紡鐘形の和菓子を串に刺して炭火で焼き上げ出来たのが焼菓子「雄飛焼」。一個一個、串にさして炭火で焼く方法は当時からのままで、香ばしく風味がありシナモンがまぶしてあるこのお菓子は大正当時モダンなものとされていて軍人や町を訪れる人々に珍重されていたそうである。昭和5年には「帝國優良品大審査会壱等賞金牌」を受賞した逸品。
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代表者氏名星野 善基(ほしの よしもと)
住所所沢市御幸町3-18                
電話番号04-2922-2443
取扱商品焼菓子・葛
定休日木曜日
営業時間10:00~19:30


山田猪三郎


山田 猪三郎(やまだ いさぶろう、文久3年12月1日1864年1月9日) - 大正2年(1913年4月8日)は、日本の飛行船のパイオニアである。1910年9月8日に国産飛行船、山田式1号飛行船で自由飛行に成功した。

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経歴[編集]

紀伊国(現・和歌山県和歌山城下(現和歌山市)で和歌山藩士の家に生まれた。

1886年に和歌山県沖で多くの遭難者を出したノルマントン号事件を受けて救命具の開発を志し、1888年に大阪へ出て、外国人についてゴムの性質や製造法を学んだ。1892年上京して救命具の製作を始め[2]1894年には東京大崎気球製作所(後に大田区北糀谷の現在地に移転)を創業。

救命具から軍用気球の製作に転じて、陸軍の工兵会議の援助を得て、1900年2月に山田式気球の特許(第4164号)を取得。山田式気球は日露戦争で用いられた。

1909年、アメリカ人チャールズ・ケニー・ハミルトンが飛行船の公開飛行を行ったのをうけて飛行船の研究を始め、1910年9月8日に50馬力のエンジンをつけた、山田式1号飛行船で自由飛行に成功した[2]。さらに改良した山田式2号飛行船は1911年2月7日に初飛行し、翌2月8日に大崎から青山練兵場(現明治神宮外苑)まで自由飛行に成功した。2月23日に2号飛行船が係留中に強風で破壊されたが、3号飛行船を製作し7月1日初飛行させた。1911年9月17日、大崎から帝都訪問飛行を行ない20kmの周回飛行を行なった。3号機は中国に売却する商談が破談となり、問題が片付かないうちに病を得て急逝した。


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航空先覚者 山田 猪三郎(やまだ いさぶろう)

文久3年(1863)~ 大正2年(1913)
和歌山市生まれ
国産飛行船の初飛行に成功した航空界の先覚者

文久3年(1863)、現在の和歌山市に生まれる。少年時代から物作りの技能に優れ、研究熱心であったという。明治19年(1886)、串本大島沖でイギリスの貨客船ノルマントン号が遭難、多くの乗客が犠牲になった。猪三郎は救命具の必要性を強く感じ、ゴムの浮輪の研究を開始、明治21年(1888)、大阪で外国人からゴム製品加工技術を学び、明治25年(1892)に上京し、港区芝浦でゴムを使った救難浮輪の製造所を開設。翌年には防波救命器の特許を得ることに成功した。

明治30年(1897)からは気球の研究に着手、以後亡くなるまでの16年間、私財の全てを費やすほど気球・飛行船の研究に没頭することとなる。明治33年(1900)、日本で初めて円筒型係留気球を発明。陸軍に採用され「日本式係留気球」と名付けられた。風圧に対する抵抗力が強く、展望時の動揺が少ないなどの特徴があり、当時の欧米の気球よりも優れていたといわれ、日露戦争時にも用いられた。

明治40年(1907)には品川区大崎に飛行船製作工場を建設。明治43年(1910)に山田式1号飛行船を完成させ、品川区大崎から目黒区駒場間を足かけ2日をかけて、国産飛行船による初の往復飛行を行った。猪三郎は改良を加えた飛行船を次々に製作、第3号飛行船は大崎から品川、お台場を巡る総飛行距離20kmの循環飛行に成功し、東京の人たちを大いに驚かせた。明治45年(1912)には中国革命軍から飛行船の発注があり、販売のため中国大陸に渡ったが、悪天候により飛行船が破損するなどの不運に見舞われ、失意の内に帰国。帰国する船上で病を患い、大正2年(1913)、51歳で亡くなった。

昭和4年(1929)、和歌山市和歌浦の高津子山のふもとに、有志によって顕彰碑が建立された。

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飛行船


飛行船(ひこうせん、英:airship)は、空気より比重の小さい気体をつめた気嚢によって機体を浮揚させ、これに推進用の動力や舵をとるための尾翼などを取り付けて操縦可能にした航空機(軽航空機)の一種である。

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     ツェッペリンNT飛行船

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USSロサンゼルス号
1924-1932年頃のニューヨーク市南マンハッタン上空

概要

機体の大部分を占めるガス袋(気嚢)に水素もしくはヘリウムが充填されている。通常、ガス袋は空気抵抗を低減させるため細長い形状をしており、乗務員や旅客を乗せるゴンドラや、エンジンおよびプロペラなどの推進装置が外部に取り付けられている。機体後部には尾翼があり、方向安定を得るとともに取り付けられた舵面を動かして船体の方向を変える。

20世紀前半には大西洋横断航路などで旅客運行に従事していたが、1937年に発生した「ヒンデンブルク号」の爆発事故を契機に水素利用の飛行船の信頼性は失墜し(ただし、現在では事故原因は水素ガスの使用ではないとされている。ヒンデンブルク号爆発事故の項目を参照)、航空輸送の担い手としての役割を終えた。その後、広告宣伝用や大気圏の観測用等として、不燃性のヘリウムガスを利用した飛行船が小規模に使われている。

呼称

飛行船は英語では "Airship" (エアシップ)、ドイツ語では "Luftschiff" (ルフトシッフ)と言い、フランス語では  "Dirigible" (デリジャブル、ディリジャブル)という。フランス語の "Dirigible" という単語は、もともとは「操縦できるもの」という意味である。日本語ではもともと「飛行船」という言葉はなく、1909年(明治42年)頃には飛行船に相当するものは「飛行気球」あるいは「遊動気球」と呼ばれた[1]。1914年(大正3年)になると「航空船」という名称が用いられるようになり、大日本帝国海軍で航空船を運用する部隊は航空船隊と呼ばれた。その後、1928(昭和3年)に、航空母艦による「航空隊」の創設が決まり、同じ読み仮名となるのを避けるために航空船隊が飛行船隊に改称された。これに伴い航空船は「飛行船」と呼ばれることとなった。

飛行原理

飛行船は、周囲の大気より軽い浮揚ガスを用いて空中に浮揚する。船体内の浮揚ガスの重さと、船体が押しのけた大気の重さの差から、重力を上回る浮揚力を得る。この浮揚力は、いわゆるアルキメデスの原理による浮力であり、静的浮力(静的揚力ともいう)と呼ばれる。静的浮力はエネルギーを消費することなく得られ、その大きさは、飛行船が飛行していても、空中に静止していても同じである[5]

飛行船に働く浮力は、静的浮力の他に、動的浮力(揚力)もある。揚力は、物体の周りを流体が流れる時に発生する力であり、飛行機は翼に働く揚力によって飛行する。飛行船においても、船体に迎え角をつけて飛行することで揚力を得る場合がある。

構造様式による分類

飛行船の分類は、浮揚ガスを収めるガス袋を直接船体とする加圧式と、船体の中に別にガス袋を設ける非加圧式に分けられる。飛行船は、構造様式によって軟式、半硬式、硬式に大別され、その他に全金属式や準硬式と呼ばれるものもある。

軟式飛行船

軟式飛行船(以下、軟式船)は、船体がエンベロープと呼ばれるガス袋でできている。エンベロープはガスが漏れないよう加工された膜材で構成され、その内部に浮揚ガスが充填される。エンベロープの形状は内部のガス圧により保たれる。初期の飛行船は気球から直接発展し、基本的に軟式であった。21世紀初頭における飛行船は、ほとんどが軟式である。

重量やコストの面で有利であり、現代の飛行船はほとんどがこのタイプである。しかし、ガスの放出によって圧力が弱まると船体を維持できなくなる。突風などによって船体が変形するとコントロールを失ってしまう。また、一旦気嚢に穴が開くとガスの漏出が全体に影響するなどの欠点もある。また、船体の剛性が確保できなくなるため大型化に適しない。


半硬式飛行船


半硬式飛行船(以下、半硬式船)は、エンベロープの下側に沿ってキール(竜骨)を取り付けたものである。軟式船のエンベロープは、上側に張力、下側に圧縮力が作用し、船体が「へ」の字型に折れる傾向がある。これを防ぐため、船舶と同様にエンベロープの下部にキールを設けることで船体形状を維持し、大型化を可能とした。

イタリアで開発された『ノルゲ号』や『イタリア号』などが半硬式船である。

半硬式の利点として、硬式よりも骨格が少なく軽量化できるにもかかわらず、硬式飛行船と同様に大型化が可能であること、硬式同様に枠組みにエンジン船室を取り付けられるので設計に柔軟性があり制約が少ないことがある。たとえばエンジンと船室を離れた場所に設置できるので、船室内の環境が快適である利点がある。

硬式飛行船

硬式飛行船は、アルミ合金や複合材料といった軽量な部材により籠のように船体骨格を組み立てて、これにピアノ線などを張って補強を加え、船体に強度を持たせる[13]。骨格は肋材(フレーム)と縦通材で構成され、それを外皮で覆うことで船体形状を維持する。船体内部のガス袋は、十数個に分割されている。

金属製の枠組みにより船体の重量が増加する欠点があるが、船体の強度が高くなるため大型化、高速飛行が可能。ツェッペリン号の最高速度は135km/h。

特にツェッペリン伯爵製作による一連の飛行船が有名であり、「ツェッペリン」は硬式飛行船の代名詞となった。しかし、船体が頑丈といっても強風や荒天に耐え切れるほどではなく、悪天候による「難破」事故も多発している。また航空機の進歩により大型飛行船の存在意義自体が消滅したため、21世紀現在では生産・運用はされていない。


全金属飛行船

エンベロープを膜材でなく薄いジュラルミンの板で構成した飛行船は、全金属飛行船(以下、全金属船)またはメタルクラッド飛行船と呼ばれる。アメリカ海軍が運用したZMC-2が全金属船である。

ZMC-2は1929年に初飛行し、1941年に運用を終了し解体された。主力飛行船型には採用されることはなかったが、現在の素材や接合技術を用いれば、こうした構造もまた十分再検討に値すると考えられる。

準硬式飛行船

20世紀末に開発・初飛行したツェッペリンNTは、膜製のエンベロープを持ち、その内部に骨格を備える。骨格はキールではなく、三角形のフレームと縦通材で構成される[19]。当初は準硬式の用語が無くツェッペリンNTを半硬式船と分類していたが、ツェッペリンNTの構造は従来の半硬式船とは異なることから、準硬式飛行船と呼ばれている。


歴史

  • の飛行船を運用していた。
  • アメリカ海軍は第二次世界大戦後も飛行船部隊を維持した。冷戦時代、飛行船の滞空能力を活かし、レーダーを搭載することで北極海方面からの戦略爆撃機に対する警戒網の一助とした。だがこうした早期警戒飛行船は1960年代中頃には早期警戒機の登場や地上レーダー網の構築により退役した。民生用に払い下げられた飛行船の多くは広告用途などに広く用いられた。

ヒンデンブルク号爆発事故


ヒンデンブルク号爆発事故

当時、ヘリウムアメリカでしか生産されておらず、アメリカがナチス・ドイツへのヘリウムの供給を拒否したため、爆発の危険を冒しながらも水素ガスを利用していた。そのため、この事故は水素ガスによるものと推測され、水素ガスを使用する飛行船の安全性に対する信用は失墜し、以後水素による飛行船が使われなくなる原因となった。
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     ヒンデンブルク号爆発の瞬間




ヒンデンブルク号爆発事故
(ヒンデンブルクごうばくはつじこ、Hindenburg Disaster)は、1937年5月6日アメリカ合衆国ニュージャージー州マンチェスター・タウンシップにあるレイクハースト海軍飛行場で発生したドイツの硬式飛行船LZ129 ヒンデンブルク号の爆発・炎上事故を指す。

この事故で、乗員・乗客35人と地上の作業員1名、合わせて36名が死亡し多くの乗客が重傷を負った。映画、写真、ラジオなどの各メディアで広く報道されたことで、大型硬式飛行船の安全性に疑問が持たれ、飛行船時代に幕が降ろされるきっかけとなった。

1912年4月14日に起きたイギリスの豪華客船タイタニック号沈没事故、1986年1月28日に起きたアメリカのスペースシャトルチャレンジャー号爆発事故などとともに20世紀の世界を揺るがせた大事故のひとつとして知られている。


硬式飛行船の黄金期

硬式飛行船の第1号は1900年のLZ1で、1909年には、飛行船による航空輸送を行うツェッペリン飛行船会社が設立された。

硬式飛行船の設計が優れている点は、浮揚用水素ガス袋と、船体構造とを分離した点にある。従来の軟式飛行船は、ガス袋そのものを船体としていたため、変形しやすくなり、高速飛行は不可能であった。硬式飛行船はアルミニウム合金の多角形横材縦通材で骨格をつくり、張線で補強し、その上へ羽布(麻または綿布)を張って流線形の船体を構成し、ガス袋を横材間に収めた。

このような構造をもつ硬式飛行船は、船体の外形を保持することができ、飛行機よりは遅いものの、駆逐艦には追尾できない高速(特急列車と同程度)を発揮した。飛行船は実用的な空の輸送手段となった。

硬式飛行船の優れたもう一点は、大型化を可能にしたことである。飛行機と違って、ツェッペリン飛行船の浮力は寸法の3乗である体積に比例し、一方、構造重量は「大雑把に球体とみなすと、構造材の量は表面積によると考えれば寸法の2乗に比例する」ので、単純に寸法に比例して搭載貨物を増大できる。

第一次世界大戦中には119隻建造されて、偵察や爆撃などに用いられたが、空爆による軍需工場破壊や国家そのものに与えるダメージだけでなく、空を舞う威圧的な飛行船を見せて敵国の市民の戦意をそぐことも視野に入れられていた。

ただし軍事行動中に撃墜されたものもあり、またそれ以上の数の飛行船が悪天候で遭難した。また複葉機の台頭に伴い、次第に戦果が挙げられなくなる。

第一次世界大戦後の1928年、ツェッペリン飛行船会社は、LZ127グラーフ・ツェッペリンツェッペリン伯)号を建造して、世界一周に成功。このときは日本(茨城県霞ヶ浦)を含めた世界各地に寄港し、各地を熱狂させた。

爆発事故

その後、1930年代後半のナチス党時代に、ドイツの威信をかけたLZ129ヒンデンブルク号は花形である大西洋路線に就航。しかし、そうした硬式飛行船の黄金期は、突如として幕を閉じる。

ヒンデンブルク号は、マックス・ブルス船長の指揮のもと、ドイツ・フランクフルトを発ち(現地時間5月3日20時20分、アメリカ東部時間5月3日14時20分、日本時間5月4日4時20分)、2日半かけて大西洋を横断したが、向かい風の中を飛行したため予定より8時間遅れていた。しかも雷雨の影響により、着陸はさらに遅れることとなった。

予定より12時間遅れとなった現地時間(アメリカ東部時間)1937年5月6日19時25分(日本時間5月7日8時25分、ベルリン・フランクフルト時間5月7日1時25分)頃、アメリカニューヨーク近郊のニュージャージー州マンチェスター・タウンシップのレイクハースト海軍航空基地着陸の際に、尾翼付近から突如爆発。炎は瞬く間に船体を焼き尽くし、ヒンデンブルク号は爆発から僅か32秒(34秒、37秒とも)で墜落、乗員・乗客97人中35人と地上の作業員1名が死亡した。

このときの様子は写真・映像及びラジオ中継により記録され、現在も事故直後の様子を知ることができる。また、映像技術の発展に伴い、モノクロ映像だったヒンデンブルク号の映像を処理してカラー化されたものも出ている


事故原因

事故発生当時は水素ガス引火による爆発事故ということで、浮揚ガスに水素ガスを用いるのは危険だとする説が流布された。

着陸直前に船尾が重い状態であったことから、爆発が起きた船尾で水素漏れが起きていたという説もある[誰?]

ツェッペリン社は原因については一切公表しなかったが、濡らした外皮に電流を流して発火させる実験を行い、外皮が事故の原因であるとの結論に達していた。この事実をツェッペリン社が公表しなかったのは、保険金の問題もしくは国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の圧力が原因であると考えられている。その後、ツェッペリン社は外皮塗料を改良した新型機を製造したが、アドルフ・ヒトラーの指示により解体された。

その後、1997年NASAケネディ宇宙センターの元水素計画マネジャー、アディソン・ベインが当時の証言、映像分析、そして実物の外皮 の分析により、事故の原因はヒンデンブルク号の船体外皮の酸化鉄アルミニウム混合塗料(テルミットと同じ成分である)であると発表した。

彼の説は、ヒンデンブルク号の飛行中に蓄積された静電気が、着陸の際に着陸用ロープが下ろされた瞬間に、外皮と鉄骨の間の繋ぎ方に問題があったために十分に電気が逃げず、電位差が生じて右舷尾翼の前方付け根付近で放電が起こったことから外皮が発火・炎上した、というもので、現在ではこの説が有力になりつつある(この場合、浮揚ガスが水素でなくヘリウムの場合でも飛行船の外皮は炎上する。ただし、水素と違ってヘリウムは爆発しないので被害は少なくなる)。以上の説は、1999年にイギリスのトゥエンティ・トゥエンティ制作のテレビ番組 "Secrets of the Dead, What Happened to the Hindenburg?" でベイン自身の解説とともに取り上げられ、日本でも翌2000年6月16日にNHK総合で「ドキュメント 地球時間 ヒンデンブルク号 豪華飛行船の悲劇」として放送された。

また、「ドイツ政府の工作員による自爆テロだったのではないか」という陰謀説もある。当時、「飛行機の実用化を進めていたドイツにとって、『飛行船はもはや時代遅れ』という見方が強まっており、大衆の目前で飛行船の危険性を印象づけることで航空機への転用を図ろうとした」という理由であるが、この説には証拠となる証言や物的証拠は一切存在せず、ツェッペリン飛行船製造会社と、当時ドイツの政権政党であったNSDAPは仲が悪かったという状況証拠のみを根拠としている。

また、ヒンデンブルク号はドイツの威信を象徴する乗り物であり、さらに外遊先の敵国アメリカで、大事故を起こし全世界に醜態をさらすことなど、国家の体面を非常に気にしていたヒトラーやドイツのNSDAP政権が許すはずもないため、NSDAPを嫌うツェッペリン社社長エッケナー博士の破壊工作という説もあるが、これも製造会社とNSDAPの不仲という状況以外に根拠はない


事故後の影響

この事故の後、飛行船の安全性に対する信頼は打ち砕かれ、水素で満ちた飛行船による旅客輸送は許容されなくなってしまった。例えば、世界一周の偉業を遂げたLZ 127は事故の1ヶ月後にその役目を終え、博物館に収蔵されることになった。また、ドイツ国内のほかの飛行船も、第二次世界大戦の勃発と共に相次いで引退、その生涯を終え、飛行船時代に幕を下ろした。

1940年3月、ドイツ空軍元帥であったヘルマン・ゲーリングは、残るすべての飛行船の破壊を命じ、アルミニウム製の部品をドイツ戦争産業省へと供給した。一方、アメリカ海軍ドイツ海軍の方針を引き継いでツェッペリン型飛行船を採用したが、採用について、浮揚ガスにはヘリウムガスを使用した。しかし、アクロン号を始めとして、ほとんどが荒天で難破した。

1975年ユニバーサル映画がこの史実を、人為爆破説に基づき映画化した。ロバート・ワイズ監督、ジョージ・C・スコット主演でタイトルはそのまま「ヒンデンブルグ」(The Hindenburg)。飛行船内部の詳細な再現に加え、爆発後のシーンに、実際のニュースフィルムが用いられたことも話題となった


天然ガス運搬用飛行船

1970年代に天然ガスを運搬するためにAerospace Developments (AD)によってハニカムサンドイッチによるセミモノコック構造の半硬式飛行船の計画が立案された。この飛行船の計画は浮揚ガスとして空気よりも軽量の天然ガスと共に、少量のヘリウムを使用し、天然ガスを燃料とするエンジンからの廃熱で浮揚ガスを暖めて浮力を増やすという構想だった。第二次世界大戦前に建造された現時点において史上最大のLZ 129ヒンデンブルク号の全長は245mで浮揚ガスの体積は200000m3だったが、この構想された天然ガス運搬用飛行船は全長549mで浮揚ガスの体積は2750000m3という途轍もなく巨大な飛行船だった。天然ガスを運搬後はヘリウムガスで浮揚してガス田へ戻るという仕様だった。

この方法は政情不安定な国に天然ガスの液化施設を建設する地政学的なリスクを抑える点で有効であると考えられた。半硬式飛行船ではなく軟式飛行船を使用して天然ガスを運搬するという類似の概念は既に1920年代にR100飛行船の設計に携わったバーンズ・ウォリスによって考案されていたが大型の軟式飛行船という設計が災いして頓挫した。

計画は当時の技術水準では非実用的であるとして採用されなかったが、近年では類似の概念の飛行船の構想が複数提案される。

高高度プラットフォーム

無人制御の飛行船の用途として、地上局・人工衛星と並ぶ第三の情報通信網としての「成層圏プラットフォーム」飛行船が注目されている。地上20キロメートルの成層圏に全長300メートル以上の大型無人飛行船を停留させ、無線通信の基地局として用いるというものである。基地局として必要な電力は飛行船上面に取り付けられた太陽電池でまかなうアイデアもある。地上局に比べ広範囲をカバーでき、人工衛星に比べ遅延時間が短く運用コストが低いという利点がある。

「成層圏プラットフォーム」実用化に向けた取り組みは世界各国でなされており、日本では政府による「ミレニアムプロジェクト」の一つとして、成層圏滞空飛行船を利用した通信・放送サービスが計画された。2004年には大規模に税金が投入され、北海道大樹町多目的航空公園で全長60メートルの実験機(ラジコンの軟式飛行船)の飛行試験が行われたが、資金難から中止された


日本国内での飛行船を用いた広告


  • BMW
    • Yokoso JAPAN 号同様、日本飛行船所属の Zeppelin LZ N07-100型。
  • スヌーピーJ号
    • 当時の「アメリカン・ライフ・インシュアランス・カンパニー 日本支社」が通称をアリコジャパンから「メットライフ アリコ」へと改名することをPRするため、ブランド名とスヌーピーを掲げて2010年11月〜2016年12月末まで日本国内を飛行させていた。2014年当時、日本で運用されている唯一の飛行船だった。機体はLIGHT SHIP A-60R型。(機体番号N614LG)

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    飛行船を用いた富士フイルム広告


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    ニッセン「スマイル号」

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   メットライフアリコ「スヌーピーJ号」

硬式飛行船 ツェッペリン飛行船




飛行船ヒンデンブルグ号爆発事故 (カラー処理映像)




ヒンデンブルク号爆発事故に迫る!「タイムレス」その時何が起きたのか?




【歴史ミステリー】ヒンデンブルク号爆発事件!一瞬にして炎上した豪華飛行船!





2007飛行船スマイル号



飛行船 airship スヌーピー号 離陸・着陸 千葉県




箱庭東京を独り占め=東京上空を飛行船でゆったりクルージング




飛行船 ツェッペリンNT -Part1- (Zeppelin NT)


撮影地:静岡県浜松市浜北区貴布祢 これは2005年7月21日にビデオ撮影した、飛行船ツェッペリンNT「シュガーレディ号」 の初回飛来時の記録です。「㈱日本飛行船」所有のこの飛行船は、世界にたった3隻しか 存在しないとても貴重な乗り物です。 ・全長:75.1m/全幅:19.7m/全高:17.5m。ちなみにジャンボジェット 機は全長は約70mです。 ・通常時速65~80キロ(最高速度は125キロ程度)で、高度約300~600メー トルを飛行。 ・飛行船に充填されるヘリウムガスは、マッチで点火しても燃えない不燃性のガスです。 ・化石燃料をあまり使用しないこともツェッペリンNTの大きな特長で、環境に優しい新 時代の乗り物です。 飛来の目的は、その年に開催された「愛知博覧会」へのフライトにありました。「PLE 葉 WALK浜北」となった今は無き「浜北係留地」には、20回近く飛来しました。


東京マラソン、飛行船で警備 セコムが日本初開発




Amazonの近未来的なドローン配達を始める




飛行船「スヌーピーJ号」の離陸~Airship SnoopyJ Takeoff


北海道石狩市 石狩湾新港樽川ふ頭 付近に係留されていた メットライフアリコの「スヌーピーJ号」。 この日は、一般公開イベントが開かれていました。 12時30分頃に離陸、札幌に向け飛行する様子を観ることが出来ました。 (2012年7月22日(日)撮影)


世界初!首都から飛び立つ飛行船クルーズ


世界で初となる東京・晴海からの首都離着陸の飛行船遊覧クルーズを2010年4月10日より開始される。先がけて31日に報道陣にむけた体験搭乗が行われた。


[NEWS] 世界最大のハイブリッド航空機 初飛行に成功



災害支援活動にも利用、世界最大の飛行船




戦闘機の射出座席で緊急脱出する時の一連の流れ

戦闘機や爆撃機などの軍用機には、空中での爆発や墜落が避けられない時に乗員が機外に脱出するための射出座席が装備されています。ロケットモーターなどを使って一瞬のうちに機体から十分な距離にまでパイロットを打ち出すための装置ですが、実際の使用時には複雑な操作が要求されることになります















戦闘機の射出座席(緊急脱出装置)テスト


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1機あたり数十億円~数百億円という税金が投じられる軍用機は、緊急事態が起こってもそうやすやすと破棄できるものではありません。しかし、制御不能などで回復が見込めない場合には、パイロットを機外に脱出させることで、機体を失っても軍人の命を守るための仕組みが取り入れられています。

実際に射出装置が使われた一例がこの写真。アメリカ空軍のアクロバットチーム・サンダーバーズのF-16戦闘機が墜落事故を起こした瞬間で、火薬によって吹き飛ばされた透明のキャノピーと、その次に射出装置のガス噴射によって機外に射出されたパイロットが写っています
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その他にもさまざまな脱出の瞬間がカメラに収められており、いずれも最悪の状況において装置が起動されている様子がよくわかります。


かつてはパイロットを射出するのに火薬が使われていましたが、現在では小型ロケットともいうべきロケットモーターが使われています。一瞬の力でドカンと打ち出す火薬に比べ、より長い時間をかけて推力を生むロケットモーターはパイロットにかかる負担が軽減されるという特徴がありますが、それでも10~15Gという強い加速度がパイロットにかかります。そのため、脱出時には体を守るための姿勢が定められており、不用意に腕や足を伸ばしていたり、首を想定以外の角度にしていると、加速のショックで骨折や脊椎損傷などのけがを負うことも十分に起こり得ます。

また、射出時の速度も安全性に大きく関わります。多くの場合は音速よりも低い亜音速(マッハ0.3~0.8程度)の速度での脱出が想定されているのですが、あまり例は多くないもののマッハ1を超えるスピードでの脱出が行われた例も。1989年にはF-15戦闘機で戦闘訓練を行っていたパイロットと相棒が、600ノット(約1000km/h)というほぼマッハ1での射出を経験するという事故が起こっています。超高速で機外に放り出されたパイロットは風圧でヘルメットが脱げて顔じゅうの血管を損傷し、顔面はバスケットボールの大きさに、唇はキュウリほどの大きさに腫れ上がったとのこと。海に着水したパイロットは、片腕と片足を骨折して死をも覚悟したそうですが、なんとか救命ボートによじ登って一命をとりとめました。なお、この時の相棒は残念ながら命を落としたとのこと


F15 Ejection at Supersonic speed





脱出の際には、シートの横に配置された脱出用のレバーを引くと、まずコックピットを覆っているキャノピーが爆薬で破壊・取り外されます。次にパイロットがシートごと打ち出されるのですが、この時、2列シートの場合はまず後部座席から発射されるとのこと。その理由は、同時あるいは前部座席から射出されるとロケットモーターの炎で後部座席のパイロットがやけどを負ってしまうからというもの。

無事に脱出が行われるとシートは自動的にパイロットから切り離されて落下し、高度が1万4000フィート(約4300メートル)以下の場合にはパイロットが背負っているパラシュートが自動で展開されるようになっているとのこと。その理由は、これよりも高度が高い場合だと気温が低すぎることと、気圧が低すぎて十分な酸素が得られないためにパイロットが死亡してしまう恐れがあるため。

射出が行われてすぐ、パイロットは自らの状況を確認する必要があります。海の上なのか、陸地の上なのか、そして最も重要である、高度が十分であるかどうかという確認を行います。現代の射出装置は、高度ゼロ・速度ゼロの状態からでもパイロットを十分な高さに打ち上げてパラシュートを展開して安全に着地できる「ゼロ・ゼロ射出」が可能な性能を備えてはいますが、そのような場合でも体にかかる衝撃を和らげるために、パイロットは手足を体に引きつける衝撃対応姿勢をとります。

通常であれば、射出の際に機体側に取り付けられた装置が外れることで、自動でパラシュートが展開するようになっているのですが、もし自動で開かない場合には自分でワイヤーを引っ張ってパラシュートを動作させる必要があります。前述のようにパラシュートの展開は高度1万4000フィート以下と規定されていますが、機外に打ち出されたパイロットに高度を知る術はまずありません。そのため、パイロットの教官は「地面がどんどん迫ってきて大きく見えるようであれば、パラシュートを展開せよ」と教えているとのこと。

陸地までの高度があまり残されていない場合、パイロットにできることはあまりありません。まずはパラシュートが正常に展開されていることを確認し、地面を見て着地までの時間を確認。そして着地の際にはまず片側の足を地面に着け、もも、尻、体の側面、そして肩へと順番に着地させる体勢をとります。これは着地の衝撃力を分散させるためであり、かりに直立の状態でかかとから降り立つと、いくらパラシュートを着けていたとしても骨折や打撲などのけがは免れないとのこと。

高度が十分に残されている場合は、訓練でたたき込まれて暗記しているチェック項目を確認します。パラシュートが正常に展開しているか、ヘルメットのバイザーを上げているか、マスクは外したか、シートキット、救命ユニットは正常か、前方にパラシュートを進ませる「4-line jettison」用の装置は正常か、方向は風上に向かっているか、などをチェック。もしこの時、パラシュートのラインが絡まったりねじれたりしていると以下の動画のように操作して解消しますが、場合によってはラインを切断することもあり得るとのこと。パイロットが着用するフライトスーツには、このためだけに使われるフック付きのナイフがあらかじめ装備されています。


全てが正常に動作していることが確認できたら、4-line jettisonを行ってパラシュートを前方向に進める力を得ます。操縦用のハンドルを腰の位置まで引き下げると、片側あたり4本のラインが切断され、キャノピー(パラシュートの布)の形が変わって5ノット(約9km/h)の速度で前方向へと進む力が生まれます。4-line jettisonが完了したら、次はハンドルを操作して風向きに進むように向きを調整。そして着地の際には衝撃で負傷しないようにPLF (Parachute Landing Fall)の姿勢を取ります。これは両足をそろえて膝を曲げ、顎を引いた状態で体の側面から着地し、自ら転がることで全身を使って衝撃を吸収するというもの。パルクールで高いところから着地する時の動きと同じ要領です。

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着陸後は、救助されるまでいかに生き延びるかが最も重要な課題となります。訓練の際に発生した事故であれば、軍の救助部隊がすぐに駆けつけてくれることになりそうですが、実際の戦闘であればそう簡単には救助されることはないのが普通なので、救命ユニットに含まれるファーストエイド・キットで可能な治療を行ったり、水、食糧で飢えをしのぎます。海に着水した場合は基本的に自動でラフト(小型ボート)が展開しますが、作動しない場合は自分でレバーを引いてラフトを膨らませて乗り込みます。そして救助が訪れたら、発煙筒の煙や、明るく光るフレアを打ち上げて自分の居場所を知らせます。

この時は何らかの外傷や骨折などを負っていることが多いとのこと。また、パイロットは誰も緊急脱出したいと思う者はおらず、非常に高価な戦闘機が一機失われることになってしまいますが、それでも軍人一人の命が救われることに代えられるものはないといえます。なお、アメリカの場合は例え民間人の体験飛行であってもパラシュートを使った脱出訓練が必須となっているため、体験できるケースは非常に珍しいとのことですが、この規定が存在しないロシアであれば比較的簡単にチャンスを得ることができるそうです。

パイロット最後の命綱「射出座席」 作り続け70年の老舗メーカー、7500人の命救う

戦闘機などに装備されている「射出座席」。これを作り続け、7500人ものパイロットの命を救ったメーカーがあります。その積み重ねられた歴史の背景には、友の死と、死をも恐れぬ献身、そしてなによりパイロットの命を救いたいという切実な願いがありました。

射出座席の老舗、70年、7500名の「実績」

「射出座席」を作り続けて実に70年の伝統を誇るイギリスのマーチン・ベイカー社は、2016年9月、自社製射出座席によって救われたパイロットの数が7500人を突破したと発表しました。

 現代の戦闘機や爆撃機など、ほぼすべての「戦う軍用機」は、事故や戦闘によって墜落不可避となった場合に、パイロットやそのほかの乗員を「ベイルアウト(緊急脱出)」させるための「射出座席」と呼ばれる装置を備えています。乗員が作動レバーを引っ張ると、座席に装着されたロケットないし火薬が点火、座席ごと乗員を機外へと放り出し、パラシュートの展開までを自動的に行うというもので、緊急事態に陥った乗員にとってはまさに「最後の命綱」です。

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F-35A戦闘機における「Mk.16射出座席」の試験。火薬でキャノピーを割り強度を下げ、射出される座席がそれを粉砕することで脱出する(写真出典:マーチン・ベイカー)


かつて射出座席が存在しなかった時代、戦闘機パイロットたちが自機から脱出しようとする場合は、ハーネス(ベルト)を外し、キャノピー(風防)を開け、座席に立ち上がって転げるように落ち、パラシュートをひらく、という手順を、すべて自力で行わなければなりませんでした。

 しかし戦闘機の速度が飛躍的に高まると、風圧でキャノピーが開かなかったり、スピン中の遠心力で身体が動かせなかったり、パニックになったり、また運良く飛び降りても尾翼に激突したりと、安全なベイルアウトは至難の技になります。

 ですが射出座席ならば、射出時に40Gもの加速にさらされるというリスクはあるものの、十分に飛行速度が低い状態で作動させれば、高確率でパイロットは無傷で済み、救助後は現役復帰することができます。亜音速以上では、風圧による全身粉砕骨折などによって元の身体には戻らないかもしれませんが、少なくとも「100%死ぬよりはマシな選択」を可能にしました。

友の死と命がけの実験を乗り越えて

 このたび救った命の数が7500を越えたマーチン・ベイカー社は、世界で最も信頼されている射出座席メーカーのひとつであり、かつ、その第一人者といえる存在です。

 元々は航空機メーカーであった同社が射出座席の研究、開発へ取り組むようになったのは、創業者のひとりであったヴァレンタイン・ベイカーが1942(昭和17)年、墜落事故により殉職してしまったことがきっかけでした。残されたもうひとりの創業者であるジェームズ・マーチンは友の死を悲しみ、ひとりでも多くのパイロットを救いたいと願うようになります。

 射出座席の実用化には、マーチン・ベイカー社のテストパイロット、バーナード・リンチの献身的な活躍が不可欠でした。彼は1946(昭和21)年、最初の試作モデルにおける空中射出試験を成功させると、そののち30回にわたりこの危険な「人体実験」へと志願。その貢献もあって1949(昭和24)年、最初の製品モデル「マーチン・ベイカーMk.1」は完成しました。

こののち、マーチン・ベイカー社製の射出座席は改良が重ねられ、「Mk.6」以降は地上静止時に動作させても生還できるようになります。

生還したパイロットにはネクタイ進呈

 これまでマーチン・ベイカー社製の射出座席を搭載してきた機種は、実に200以上。7万5000席が出荷され、アメリカや欧州製の戦闘機では、マーチン・ベイカー社のものを搭載したことがない機種のほうが少ないほどで、航空自衛隊においてもF-4戦闘機が「Mk.7」を装備しています。また、同社の最新鋭モデル「Mk.16」はF-35、「ラファール」、「ユーロファイター」といった欧米の最新鋭戦闘機にもれなく搭載されています。

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「ユーロファイター」用の「Mk.16」。股のあいだのレバーを引っ張ることで射出座席が動作する(写真出典:マーチン・ベイカー)。

マーチン・ベイカー社は1957(昭和32)年以降、自社の射出座席で生還したパイロットらを表彰する「エジェクション・タイ・クラブ」活動を行っており、現在は、創業者ジェームズの孫にあたるアンドリュー・マーチンがそれを運営。表彰では証明書、会員カード、パッチとともに、男性にはネクタイとタイピン、女性にはブローチが授与されます。ジェームズ・マーチンの理念はこのように、いまなお生き続け、多くのパイロットを生かし続けています。

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射出座席


射出座席 (しゃしゅつざせき) は、航空機から非常時に脱出 (ベイルアウト、英: bailout) するための装置。作動させると、搭乗者は座席ごとロケットモーターなどによって機外へと射ち出され、パラシュートで降下する。主に戦闘機など小型の軍用機に装備されている。射出時には搭乗者に人間の耐久限界を超える15G - 20G程度の加速度が掛かるため、訓練経験がないと脊椎損傷の危険がある。
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歴史

航空機が開発された初期の頃から第二次世界大戦の頃までは、航空機の速度は比較的低速であり、脱出はそれほど困難ではなかった。そのため、射出座席はほとんど使用されず、脱出はパラシュートを搭乗前にあらかじめ装備しておき、脱出時は自力でコックピットから飛び降りる方式がほとんどであった[1]。しかし、このような脱出方法だとコックピットから飛び出した後に自機の尾翼にぶつかる可能性があり、実際にその様な事故が多発したため[2]、第二次大戦中のドイツの一部の航空機(He 219Do 335He 162など)には圧縮空気で打ち出すタイプの射出座席が装備されていた。世界初の射出座席搭載機は、ドイツのHe 280 V1である。

射出座席を本格的に実用化したのは、イギリスマーチンベーカー・エアクラフト社で、第二次大戦中から開発を行っていた。マーチンベーカー社が開発をしていた射出座席は、ドイツが採用していた圧縮空気より力のある火薬式のものだった。マーチンベーカー社は現在でも射出座席の代表的メーカーのひとつである。

射出座席が一般的に使用されるようになったのは、航空機がレシプロ機からジェット機になり急激に高速化した第二次大戦後である。空気抵抗速度の2乗に比例するため、速度が2倍になった場合、体が受ける抵抗は4倍にもなる。そうなると機体から自力で脱出するのは非常に困難であるため、射出座席が装備されるようになった。

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構造

大きく分けて、座席を直接射出する方式と、与圧された操縦席全体を機体から切り離すモジュール式脱出装置の二種類がある。

座席をそのまま射出する方式は、機体を大きく改造する必要が無く運用コストも低いが、音速以上の速度や高高度では脱出が難しいため、音速機や高高度爆撃機などではモジュール式が採用されることがある。F-111B-1A(試作機)の様に、コックピットがそのまま脱出カプセルとなって着陸後の漂流に耐えるものや、風圧やキャノピーの破片から防護するシールドだけの簡易型などがある。

公式に音速以上での射出をサポートしている例として、ロシアSu-27MiG-31Tu-160などに装備されている、ズヴェズダ製のK-36Dが存在する。また、XB-70の脱出カプセルは、空中衝突事故で実際に使用されたことがある。

脱出後に救出されるまでの間に搭乗者が生存できるよう、射出座席には一人用の膨張式いかだ非常食、護身用拳銃、防水シールの施されたアルミケースに入ったサバイバルキット(マッチなど火熾し用具、釣り具、ワイヤー、応急手当用医薬品と絆創膏救難機が上空に来た際に信号を送る方位磁石、折り畳みナイフなど。ケースは方位磁石への影響を避けるために非鉄金属製である)、救出部隊との連絡用トランシーバーなどが同梱されている。冷戦時代にはこれらに加えて、アメリカ合衆国U-2偵察機パイロットのように、捕虜になった時に備えての自殺毒薬まで持たされていた例もある。モジュール式の場合は、さらに多く物品を積むことができるため、より長い時間救援を待つことができる。

パイロットは飛行機を操縦する前に、備品を使用したサバイバル技術を学ぶ訓練を受ける。

モジュール式脱出装置は、射出できる環境条件や生存性などで有利な点も多いが、重量や機構の複雑さから運用コストが大きい。また、音速以上の速度での脱出はほとんど起きないことも判明したため、2010年末に退役したオーストラリア空軍F-111Cを最後に、モジュール式の正式採用例はない。

B-58は当初は通常の射出座席だったが、超音速飛行中の脱出で死亡事故が起きたため、座席をシールドで覆い与圧するモジュール式に変更された。小型であり内部は非常に狭いものの、衝撃吸収用のエアバッグや着水時に作動するフローティングシステム、や食料を備えシェルターの役目も果たすなど意欲的な設計であったが、当初から問題視されていた開発費の増大に拍車をかけることとなった。

F-104Aの初期型のように下方に向かって射出する方式もあったが、低空飛行時の脱出は不可能であり、安全性の目安にされるゼロ・ゼロ射出(後述)もできないため、現在では採用されていない(F-104も生産途中から上方射出式の座席に変更されている)。


ヘリコプターでの採用

現在の射出座席は、主に戦闘機など小型の航空機を中心として使用されているが、ヘリコプターに射出座席を搭載する計画もあった。 しかし、ほとんどのヘリコプターは射出の際にメインローターが干渉してしまう関係上搭載されず、射出座席が装備された機体はロシアカモフ設計局が開発したKa-50/Ka-52などごくわずかしかない。Ka-50では脱出時に障害となるメインローターを火薬で吹き飛ばしてから射出される。

ヘリコプターの場合、脱出装置が必要となるほど速度が速くないため必要性が考慮されないという現実的理由もある(操縦免許を取得する際に、不時着の際に必須となるエンジン停止時の滑走着陸法の「オートローテーション」を会得させられる)。


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現況


現代の射出座席は大きく進化を遂げた。射出可能な速度域が広がり、高度0速度0の状態からでも、パラシュートが十分開く高度までパイロットを打ち上げる「ゼロ・ゼロ射出」が可能な射出座席がほとんどとなっている。また、座席を打ち出すための推進装置として、火薬よりもパイロットにかかるGが小さいロケットモーターが多く使われている。

脱出時にはキャノピーへの衝突を防ぐため、火薬を使ってハッチやキャノピーを丸ごと投棄したり、あるいはキャノピーにプリマコードを埋め込んでおき、グラスを細かく砕くようになっている。しかし、火薬よりかかるGが小さいといっても、パイロットには15-20Gがかかるため、適切な姿勢をとっていない場合は脊柱を痛めるなどの可能性がある。そのため、射出される直前に全身がシートベルトで拘束され適切な姿勢に矯正されるようなものが多い。悪条件が重なった場合、先に投棄されたキャノピーに射出されたパイロットが衝突する危険性や、コックピット内に発生するロケットモーターの高温の噴出ガスでパイロットが火傷を負うこともある。

このような危険性と取り扱い上の注意事項から、アメリカ軍では戦闘機など射出座席を装備する航空機へ搭乗する人間には射出座席の訓練を修了し、「航空機搭乗員」の資格を取得することを義務付けている。これは操縦も操作も行なわず乗っているだけの人間であっても修了義務があるため、訓練を受けていない観光客などが戦闘機に乗ることはできない。一方、ロシア連邦軍他一部の国ではこの義務がないため、観光客が訓練なしに戦闘機に乗ることができる場合もある。また、射出後はパラシュート降下するため、当然パラシュートの操作ができることも要求される。

射出座席は使用者にある程度の技量が必要であるため、民間航空機などに装備しても空中に放り出された乗客が死亡したり行方不明になったりするリスクが高いのみで安全性の向上にならない。まして海上では、訓練を受けていない一般人にパラシュートで撒かれれば大半が行方不明になることは確実であり、航空機が不時着水する方が遙かに安全であることが明確であるため、民間の旅客機に射出座席やパラシュートは搭載されない。また、機体操縦を放棄する事が前提となっているため、市街地での脱出や輸送機での使用は避けられる[3]。戦場で脱出した場合、降下中に敵に銃撃される危険性もある。

脱出後、水上に着水した場合でも、ハーネスに内蔵されたライフジャケットで最低限の浮力は得られる。着水時に意識を失っているような場合でも確実にパラシュートが外れるよう、ハーネスに自動切り離し装置が内蔵されているものが多い。ただし、パラシュートの切り離しに失敗したり、パラシュートが搭乗員にかぶさるように落下してきた場合は、絡まったパラシュートに引き込まれるなどして溺死する場合もある。

モジュール式の場合は、救援が来るまで雨風をしのぐ避難所として利用できる(海の場合はいかだとして機能する)。

マーチンベーカー社は、自社製の射出座席で生還した人々に対するネクタイバッジ、認証書、ネクタイピン〔女性パイロットの場合はブローチ〕[4]や会員証を作成して「イジェクション・タイ・クラブ」(Ejection Tie Club)のスポンサー活動を行っている。1957年にこのクラブが設立されて以来2012年までに5,800名がここの会員に登録されている[5]


Ejection Tie Club - Martin-Baker

Here at Martin-Baker, we run an exclusive club that unifies all pilots whose lives our ejection seats have helped save.




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戦闘機の射出座席(緊急脱出装置)テスト




Salvar la vida del piloto - ¿Cómo funcionan los ASIENTOS EYECTABLES?




Así funciona el sistema de asiento eyectable de los aviones de combate




Asiento eyectable - TEST





Martin-Baker ejection seats




Martin-Baker MK10 Ejection Seat Tour





U.S. AIR FORCE AIRCRAFT PILOT EJECTION TRAINING FILM "EJECTION DECISION" 53574




Martin Baker’s 7,550-strong 'ejection club'




RAF Harrier GR9 Crash and Ejection at KAF May 15th 2009




ACES 5® Next Generation Ejection Seat





Salvar la vida del piloto - ¿Cómo funcionan los ASIENTOS EYECTABLES?


 


Hyakuri Air Festival, 1st December 2019. Mitsubishi F-15J








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