軍用無線のブログ JA2GZU suzuki shinichi

軍用無線機 船舶無線機 短波受信機 米軍最新兵器情報 アマチュア無線など

2020年12月

退役まであと僅か 原型エンジンのYS-11「スチュワデス呼び出し」表記が機内で発見 昭和レトロ
12/25(金) 18:12
空自のみで現役 オリジナルエンジンのYS-11太平洋戦争後に日本で開発された初の国産旅客機であり、かつ2020年までに量産された唯一の国産旅客機である「YS-11」。最盛期にはJAL(日本航空)やANA(全日空)をはじめとした国内航空会社だけでなく、海上自衛隊や航空自衛隊、海上保安庁などの官公庁まで幅広く採用され、日本中の空港で見られました。しかし老朽化によって次々と姿を消し、2015(平成27)年以降、YS-11を日本で運用するのは航空自衛隊のみ。その空自においても、オリジナルのロールスロイス製ターボプロップエンジン「ダート」を搭載しているのは2020年10月現在、1機しかありません。この貴重な唯一のオリジナルエンジン機を取材してきました。
オリジナルエンジンを積んだ最後の機体は「YS-11FC」。「FC」とはフライト・チェッカーの略で、日本語では飛行点検機といいます。この機体は自衛隊の飛行場に設置された航空保安無線施設を点検するもので、航空自衛隊航空支援集団隷下の飛行点検隊で運用されています。
飛行点検隊は埼玉県にある航空自衛隊入間基地に所在し、ここを拠点に全国にある陸海空自衛隊の飛行場を点検で巡っています。航空自衛隊だけでなく陸上自衛隊や海上自衛隊の飛行場(航空基地)の点検も一手に引き受けているため、結構忙しいとのこと。そのためYS-11FCも、古いとはいえ老骨に鞭打ち、全国を飛び回っているそうです。
忙しい任務の合間を縫って機体のなかを見学させてもらうと、至るところに昭和の面影を見つけることができました。
エンジン止めたYS-11に乗るための必須装備とは
機内に入る前に、隊員から手渡されたのが、ウチワです。なぜウチワが必要なのかというと、機内はエアコンが効いていないから。エンジンを回さない限り空調が効かないそうです。
 最初に見たのは操縦室。針が回転するタイプのアナログ計器が所狭しと並び、現代のマルチディスプレイを多用した、いわゆるデジタルコクピットとは明らかに違う雰囲気です。
 隊員によると、シートはリクライニングなどせず、操縦桿も重いとのこと。飛行状況によっては、フライトが終わると腕がパンパンになるほど疲れると語っていたのが印象的でした。
 ヘッドセットもマイクのないイヤホンのみのタイプで、管制塔などと交信する際は別体のハンドマイクで話します。その際もマイクが口元から遠ざかると声を拾ってくれなくなるとのことでした。
 キャビン部分は、飛行点検機のため様々な計測機器が並んでいましたが、これまたレトロ。YS-11FCの胴体下部に設けられたカメラの映像を映し出すモニターはブラウン管で、計測した電波を可視化するのにオシロスコープを用いていました
また計測機器は、複数設置された鉄製フレームのなかにいくつも並ぶ大きなもので、昭和時代のコンピュータを思わせるほど。YS-11FCとあわせて取材した最新のU-680A飛行点検機の計測システムが、筐体ひとつに収まる程度とコンパクトだったのに比べると、ここでも時代の差を感じました。
シートひじ掛けやトイレ表記に見る昭和レトロ感
計測機器のあいだを抜けて機体後部に行くと、そこは搭乗員の休憩スペース。しかしここにも昭和の面影が。設置されている2人掛けのシートのひじ掛けには灰皿があり、ドリンクホルダーも紙コップしか入らないような小さい簡易式のものでした。
 最後部にあるトイレを覗くと、そこには「飲料水」や「スチュワデス呼び出し(原文ママ)」という表記が。これらも現代の旅客機などでは見られない表記です。
 取材したYS-11FCは、1965(昭和40)年3月に航空自衛隊に引き渡された機体で、すでに55年運用されています。当初、輸送機仕様で導入され、1992(平成4)年に飛行点検機に改造された経緯を持つものの、トイレやシート含めて機内は清潔に保たれており、老朽機ながら隊員が大切に使っているのが伝わってきました。
 YS-11FCの後継となる新型のU-680A飛行点検機は、2020年10月現在、2機が飛行点検隊に配備されています。もう1機が入間基地に配備されるとYS-11FCも退役する予定です。オリジナルエンジンを積むYS-11の最後の1機も退役までカウントダウンに入っており、空を飛ぶ元気な姿が見られるのは、あと少しです。
柘植優介(乗りものライター)
 
large_201005_ys11fc_03
m_trafficnews-103256

large_201005_ys11fc_04 (1)
large_201005_ys11fc_05
large_201005_ys11fc_06
large_201005_ys11fc_07
large_201005_ys11fc_08
large_201005_ys11fc_09
large_201005_ys11fc_010
large_201005_ys11fc_011


YS-11(わいえす いちいち)は、日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機である。正式な読み方は「ワイエスいちいち」だが、一般には「ワイエスじゅういち」、または「ワイエスイレブン」と呼ばれることが多い(後述)。時刻表では主にYS1またはYSと表記されていたが、全日本空輸の便では愛称「オリンピア」の頭文字Oと表記されていた。

2006年をもって日本においての旅客機用途での運航を終了した。海上保安庁で使われていた機体は2011年(平成23年)に退役し、それ以外の用途では自衛隊輸送機として運用されていた(後述)。また、東南アジアへ売却された機体も多くが運航終了となっている。一部の機体はレストアされて解体こそ免れ、動態保存されている機体もあるものの、機体そのものが旧式であることもあり、運用されている場面は稀である


199

飛行するYS-11M 61-9041号機 (海上自衛隊所有、2007年9月28日撮影)

歴史

国産航空機計画

連合国軍占領下の日本では連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による航空禁止令が布告されて、日本にあるすべての飛行機を破壊され、航空機メーカーを解体され、航空会社を潰され、大学の授業から航空力学の科目を取り除かれていた。1952年(昭和27年)にサンフランシスコ講和条約の発効で再独立すると、日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が一部解除され、この年の7月に航空法航空機製造事業法が施行された。

民間航空会社1951年(昭和26年)に日本航空がGHQの意向で発足し、翌年の1952年(昭和27年)には全日本空輸の前身である日本ヘリコプター輸送極東航空が発足し、その翌年の1953年(昭和28年)までに東亜国内航空の前身となる日東航空富士航空北日本航空東亜航空が発足した。

戦後の日本の航空路線は、ダグラス DC-3DC-4コンベア440などのアメリカ合衆国製や、デ・ハビランド DH.114 ヘロンなどイギリス製の航空機が占めており、戦前の航空機開発・製造で実績のあった日本で、自国製の航空機を再び飛ばしたいという思いは、多くの航空関係者の抱くところであった。

戦後の日本の航空機産業は、1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争で米軍機の整備・修理の受注を皮切りに、1955年(昭和30年)4月には、川崎航空機(現川崎重工業航空宇宙システムカンパニー)と新三菱重工業(現三菱重工業)で自衛隊向けの機体(ロッキードT-33Aジェット練習機ノースアメリカンF-86F)の国内ライセンス生産が決定するまでになっていた。当時の航空機産業の監督官庁である通商産業省(通産省、現・経済産業省)は、商品サイクルの長い輸送機開発生産に取り組ませることで、その産業基盤を安定させる思惑があった。加えて、利用客の増加が見込まれた国内航空の旅客機に国産機を用いることで、軍用機民間機を共通化すれば開発コストが低下すると考え、「国内線の航空輸送を外国機に頼らず、さらに海外に輸出して、日本の国際収支(外貨獲得)に貢献する」との名目で国産機開発の計画が立ち上げられた。

世界的には国家から軍用機の開発を受注した航空機メーカーが技術を蓄積し、それを旅客機に転用する例が多く、通産省も開発コストを下げて価格競争力を持たせて販売するビジネスモデルを構想していた。当時は運輸省でも民間輸送機の国内開発の助成案があり、通産省の国産機開発構想と行政綱引きの対象となって権限争いが行われていた。閣議了承により、運輸省は耐空・型式証明までの管轄、通産省は製造証明と生産行政の管轄の、二重行政で決着した

国内線用の旅客機の本格研究は新明和工業(旧・川西航空機)で始まっていた。1956年(昭和31年)に運輸省が発表した「国内用中型機の安全性の確保に関する研究」の委託を受けて基礎研究を行い、後にYS-11の設計に参加する菊原静男徳田晃一が中心となって進められた。この研究はDC-3の後継機種の仕様項目を研究するもので、レシプロエンジン双発の第一案(36席)、第二案(32席)、ターボプロップエンジン双発の第三案(52席)、第四案(53席)の設計案が提案され、最適とされた案は第三案とされ、その後のYS-11の叩き台となった



輸送機設計研究協会発足

1956年(昭和31年)に通産省重工業局航空機武器課の赤澤璋一課長の主導で国産民間機計画が打ち出された[3]。通産省は各航空機メーカーと個別会談を行い、各社から賛同を得たことから、日本航空工業会に中型輸送機計画案を提出するように要請した。日本航空工業会がこの要請で開発案を提出したことから、通産省は中型輸送機計画開発の5カ年計画として、1957年(昭和32年)度予算で8,000万円を要求したが、第1次から第3次折衝まで予算請求が認められず、1957年(昭和32年)1月20日、水田三喜男通商産業大臣池田勇人大蔵大臣の大臣交渉で予算を獲得することができた。鉱工業技術研究補助金の名目で3,500万円の予算を獲得した

同年5月、理事長に新三菱重工副社長の荘田泰蔵が選任され、専任理事に木村秀政東京大学教授を迎えた「財団法人 輸送機設計研究協会」(通称「輸研」)が東京大学内に設立され、小型旅客輸送機の設計が始まった。輸研に参加したメーカーは新三菱重工業(現・三菱重工業)、川崎航空機(現・川崎重工業航空宇宙カンパニー)、富士重工業、新明和工業、日本飛行機昭和飛行機機体メーカーと、住友金属(現・住友精密工業)、島津製作所日本電気東京芝浦電気(現・東芝)、三菱電機東京航空計器部品メーカー各社であった。複数企業のジョイントとなった理由は、国内新型航空機開発と言う大型プロジェクトを、特定の企業一社に独占的に任せることで起こる他社の反発を懸念したためである

輸研には、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)雷電烈風を設計した新三菱堀越二郎中島飛行機一式戦闘機「隼」を設計した富士重工業の太田稔、先述の川西航空機二式大艇紫電改(及び紫電)を設計した新明和工業の菊原静男、川崎航空機で三式戦闘機(飛燕)五式戦闘機を設計した川崎重工業の土井武夫といった戦前の航空業界を支えた技術者が参加、設計に没頭した。航空業界ではこれに航研機の製作に携わった[5]木村秀政を加えて「五人のサムライ」と呼んだ。

設計案として、日本の国内線需要を勘案して1,200mの滑走路で運用できるもの、航続距離は500マイルから1,000マイル(800km-1,600km)、整備性から低翼、経済性から60席以上、双発ターボプロップエンジン、開発期間は4年、開発費用は30億円の基本設計で固まった。当初、開発期間は5年であったが、当時国内の旅客機の残余寿命が3-4年の機体が多く、代替時期を勘案すれば5年では長過ぎるとの運輸省の主張から4年に短縮された

国産旅客機製造の理解と国からの予算獲得のため、1958年(昭和33年)12月11日日本飛行機の杉田工場でモックアップを完成披露した。試作機の予算を獲得するためのデモンストレーションであり、技術的な検討を目的とするものではなかった。このため、客室の艤装に力を入れ、航法士席や二つの化粧室を設け、横列5席の構成とし、内装は当時の有力デザイナーの渡辺力に依頼して、表皮を西陣織とした座席が設置された。この座席は当時の価格で一脚50万円以上したと言われている

このモックアップを作るのにかかった費用は5,500万円(当時)に達し、ランプの点滅機構までは用意できなかったため、担当者が隠れてスイッチを入れたり切ったりしていた


198

YS-11の設計のために東京大学航空学科で使用された風洞模型(国立科学博物館の展示)


名称

機種名であるYS-11の「YS」は、輸送機設計研究協会の「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとったもの。一方、「11」の最初の「1」は搭載を検討していたエンジンの候補にふられた番号で、実際に選定された「ダート10」の番号は「1」であった。後ろの「1」は検討された機体仕様案の番号で、主翼の位置や面積によって数案が検討されていた。機体仕様案の中には第0案もあった。

先述のモックアップ完成披露キャッチフレーズが「横浜杉田で11日に会いましょう」であった。これはYに横浜、Sに杉田を掛け、11に合わせて公開日を11日にした語呂合わせであるが、これによって数値2桁「11」を「じゅういち」と読み発声することが一般に広まった。こうした経緯もあって、関係者のあいだでは当初正規に「ワイエス・いちいち」と呼ばれていたが、いつしか「ワイエス・じゅういち」と呼ばれるようになった。


日本航空機製造株式会社設立

モックアップ公開後、航空機メーカーの業界団体による設計組合的な輸送機設計研究協会から官民共同の特殊法人として日本航空機製造(日航製、NAMC)を1959年(昭和34年)6月1日に設立し、輸研は解散した。資本金を5億円とし、政府が3億円、民間からの出資は2億円であった。初代社長には輸研理事長の荘田康蔵が就任した。民間分の出資は輸研に参加した機体メーカー6社と材料・部品メーカーに加え、新たに商社金融機関が出資した

日航製は輸研の残留スタッフの30名と、出資各社からの出向者に役員13名の総勢125名で発足した。「五人のサムライ」は実機製作には携わらないと宣言したため、1960年(昭和35年)からの実機製作は三菱から技術部長として出向してきた東條輝雄に任せられた。東條は父親陸軍大臣首相を歴任した東條英機の勧めで、軍人ではなく技術者を目指し、かつて堀越の元で「零戦」の設計にも携わっていた。

設計部は、1.庶務及び設計管理、2.全体計画(空力性能、基礎研究)、3.胴体構造、客席艤装、胴体強度、4.主翼エンジンナセル、エンジン艤装、燃料供給装置、5.尾翼油圧、6.電気無線計器与圧防水、客室艤装の各6班に分かれて分担した

日航製は設計開発、生産管理、品質管理、販売、プロダクトサポートを行い、生産は機体メーカー各社が分担し、最終組立は三菱重工業が行うこととした。

中型輸送機開発を正式に決定すると、アメリカコンベアや、オランダフォッカーイギリスBACなどの欧米航空機メーカーが、自社との共同開発、もしくは自社機のライセンス生産への参画、つまり独自開発の計画中止を求めて殺到した。これらの企業はみなDC-3の後継となる機体の開発計画を持っており、競合機種が増えることを望まなかったからである。特にフォッカーは自社のF27 フレンドシップと日本の機体の規模が競合するためしつこく食い下がってきたが、通産省はこれらをすべて一蹴した。

設計・各種計算には、富士通のリレー式計算機FACOM 128B等が使われた。FACOM 128Bは同型機が現在、富士通沼津工場の池田敏雄記念室に展示・動態保存されている。同様の計算機の動態保存機としては世界最古である。


機体製造

機体は中型とし、レイアウトに余裕が持てるように真円部分を長く設計した。当初の設計案では太胴(外径3.3 m)であったが、設計重量超過が判明したことから、モックアップと違った細胴(外径2.88 m)に再設計された。太胴の重量ではSTOL性を確保できず、日本の地方空港に就航できないとの判断であった。このため、当初案の横列5人掛けから4人掛けに変更となった[4]。主翼は、整備性の良さや着水時に機体が浮いている時間が長くなる事を考え、胴体の下に翼がつく低翼に。また、地方空港を結ぶことを目的としたため、1,200 m 級の滑走路着陸が可能な性能をもたせることとした。製造は新三菱重工(現三菱重工業)、川崎航空機(現川崎重工業航空宇宙カンパニー)、富士重工業(現SUBARU)、新明和工業日本飛行機昭和飛行機工業住友精密工業の7社が分担し、最終組み立てを三菱小牧工場[6]が担当した。

各社の分担内容は以下のとおりである。

併せて治工具の開発も行われた。輸出を前提として米国のFAA(連邦航空局)の型式証明の取得を目指したため、戦前までの軍用機の生産技術は新しい民間機の生産技術にはほとんど役立たなかったと言われる[4]

エンジン耐空証明の取得に困難が予想されたため、自国での開発を諦めた。方式としては、当時主流になりつつあったターボプロップエンジンを使用し、イギリスロールス・ロイスダート 10を採用、プロペラダウティ・ロートル製の4翅、全脚のタイヤはグッドイヤー社製であった。当時の日本に手が出せなかった(試作はしたが実用性は低かった)電子機器も、運行する航空会社が、実績があってアフターサービスが充実しているメーカーの製品を強く指向したため、気象レーダー無線機は米国のロックウェル・コリンズ社やベンディックス英語版社の製品であり、ほぼ全て日本国外の製品を輸入する結果となった(それらの機器に、実績がない日本国産品を採用したのは運輸省に納入された機体のみであった)。

当時日本国内での調達が困難だった大型のジュラルミン部材は、アメリカのアルコア社から購入した。当初日本の金属メーカーも採用に向けて意欲を示したものの、YS-11に使用する量のみの生産では量産効果が期待できず、価格で対抗できないうえ、アルコア社のアルミ合金材は米国の軍用規格の金属材料であり、日本のJIS規格よりも品質が高かったため、アルコア社の金属材料が採用された経緯がある[4]


試作機

耐空性審査要領に規定された荷重に耐える強度と耐用寿命を持つことを証明するための2機の試験機が製造された(01号機〈静荷重試験用〉と02号機〈疲労試験用〉)。01号機を使用して1962年(昭和37年)に静荷重試験が実施され、破壊試験では制限荷重の153%で主翼が破壊するという好結果が得られた。02号機を使用した疲労試験は1961年(昭和36年)7月に開始された。安全寿命3万時間を目標としたYS-11の場合は、当時の統計理論より導かれた安全寿命係数(主翼は6.3、胴体は22.5)を適用して、1965年(昭和40年)4月までに世界でも例のない20万回を越える疲労強度試験が行われた。胴体は9万時間まで、主翼は6万4000時間まで主要構造部には疲労被害は生じなかった。一方、この時代にジェット旅客機が出現し、安全寿命の考え方では設計が困難であるとの認識が一般的になり、フェールセーフ設計によって耐用寿命を与えるように対空性審査要領も改訂された。YS-11の疲労試験でも、後半ではフェールセーフがあることを証明するために生じたクラックの進展データを得ることに重点が置かれた。胴体は22万5000時間、主翼は18万9000時間の疲労試験時間内では致命的な疲労被害が生じないことが確認された。

飛行試作機1号機(1001)は1962年(昭和37年)7月11日に三菱小牧工場でロールアウトした。1か月に渡る電子機能検査、平衡試験、燃料試験、プロペラ機能検査、超短波(VHF)検査を経て、8月14日にエンジンに初点火し、8月25日からは滑走路での地上試験、ブレーキテストを行った。

8月30日、日航製は200人以上のマスメディアを招き、実況中継放送が行われる中、1号機は初飛行した。「YS-11 PROP-JET」と描かれた機体には、テストパイロットとして正操縦士に飛行整備部飛行課長の近藤計三、副操縦士に長谷川栄三が搭乗、名古屋飛行場から伊勢湾上空を56分間にわたって飛行し、各種試験、およびマスメディアへのデモンストレーションは成功裏に終了した。

10月には全日本空輸(以下、全日空)との間で20機の予備契約が調印され、量産を開始した。しかし、全日空は後述する試作段階での三舵問題等の諸問題の発生から、正式な購入契約が交わされたのは2年後の1964年(昭和39年)であった。全日空では第一次受領分は3機とし、開発の遅れや日航製の改善要求の対応のまずさから不信感を増し、生産ラインが安定する10機目以降とするとの要求に加えて、一定の運航実績を積むまでは契約価格の一割の支払いを留保する条件とした。日本国内航空東亜航空も全日空と同様に、初期の導入機体は一定の運航実績を積むまでは契約価格の一割の支払いを留保するとの条件を出していた。また、日本航空も初期の開発段階の1963年(昭和38年)に5機の仮発注を行っていたが、国際線主体の日本航空では自社路線の適性となる路線が少ないことから本契約に至ることはなかった。国家プロジェクトにナショナル・フラッグ・キャリアとして協力する姿勢を表明する、アドバルーン的意味合いが強かったと言われている


問題と克服

開発段階から操縦性の悪さが露呈していた。12月18日には皇太子明仁親王を招いての完成披露式典が羽田空港で開かれ、その数日後に試作機2号機(1002)が初飛行を実施、2機による本格的な飛行試験が開始されたが、空力特性が悪いため振動騒音が発生し、性能にも重大な影響を与えていた。横方向への安定不足は特に深刻で、プロペラ後流によって右方向へ異常な力が働き、全ての舵も効きが悪く、操縦性は最悪の癖を抱え、試験中にきりもみを起こして墜落の危機に直面することもあった。いわゆる「三舵問題」である[7]

これらは、輸出に必要なアメリカ連邦航空局(FAA)の型式証明の取得の審査でも問題が指摘され、大規模な改修を余儀なくされた。この改修に予想以上に手間取ったため、マスメディアからは「飛べない飛行機」などと散々にこき下ろされた。全日空は納入の遅れがはっきりしたため、競合機種であったフォッカーF27 フレンドシップを導入した。

初飛行を見届けて三菱に戻っていた東條も問題解決のため再び日航製に復帰し、改修作業に加わった。横安定については主翼の上反角を4度19分から6度19分に持ち上げればよいとの結論を出したが、設計の変更と再組み立てには1年かかると見込まれた。そこで、川崎の土井の提案により主翼の付け根に角度2度のくさび型部品(通称:土井のくさび)を挟み込むことで上反角を変更した。これにより機体を前方より見ると、主脚が「八」の字のようながに股のようになっている。操縦性の悪さは方向舵バランスタブを、新考案のスプリングタブに変更して[8]、右偏向はエンジン取り付け部(エンジンナセル)の後ろに三角形の突起(通称、三味線バチ)を取り付けることで解決、また、地上でのステアリングの効きを良くするため、主脚を後方へ傾斜させ、車輪の位置を後退させた。これらの変更は組み立てが開始されていた量産機にも適用された

これらの大改修により、FAAの型式証明取得の再審査では耐空類別T類に必要な片発離陸(離陸直後のエンジントラブルで片方のエンジンが停止しても安全に離陸できるかを試すテスト)をクリアし、FAAの型式証明を取得している。


197

全日空のYS-11

就航

1964年(昭和39年)8月に運輸省(現国土交通省)の型式証明を取得し、国内線向けの出荷と納入を開始した。初飛行から型式証明取得まで、1号機の試験飛行は540時間、2号機は460時間であった。9月9日には全日空にリースされた2号機(JA8612)が東京オリンピック聖火を日本全国へ空輸し、日本国民に航空復活をアピールした。この聖火輸送に因んでその後、全日空が導入したYS-11には機首に「オリンピア」の愛称がマーキングされたが、機体や全日空の時刻表には「YS-11」の型式名や機種名は記されていない。表面上は聖火輸送の実績に由来した名称と説明されていたが、当時の日航製の開発が遅れていたことや、日航製の経営資金の枯渇から経営不安説も流れ、倒産した場合、倒産した会社の飛行機の名称をそのまま使う事態を避ける思惑が全日空にあったと言われている。他にも、米国の最有力顧客となったピードモント航空も、当時の米国では日本製品の信頼性が高くなかったことから、乗客のイメージを配慮して、広告宣伝や時刻表には「ロールスロイス・プロップジェット」と表記し、日本製航空機であることや、YS-11の機種名の表示は行わなかった

1965年(昭和40年)3月30日に量産1号機(2003)を運輸省航空局に納入、4月からは航空各社への納入が始まった。9月にはFAAの型式証明も取得して、輸出の体制が整った。

民間航空会社に最初に納入されたのは1965年(昭和40年)4月10日に東亜航空に引き渡された量産型2号機JA8639(S/N2004)であったが、納入した国内の航空会社で最初に定期路線で就航させたのは日本国内航空である。運輸省の量産一号機の翌々日の4月1日に、東京(羽田) - 徳島 - 高知線で定期航空路線の運用を開始した。

日本国内航空は量産機の発注を行っていたものの、納入が路線開設に間に合わず、試作2号機を1965年(昭和40年)3月11日に日航製からリースして間に合わせたものである。この試作2号機は全日空が聖火の輸送で使用したものであり、日本国内航空では自社塗装に塗り直し、「聖火号」(初代)と命名して就航させた。因みに日本国内航空が最初に受領したのは量産型4号機(S/N2006)JA8640で、1965年(昭和40年)5月15日に納入され、「真珠号」と命名されている。同年12月8日に量産型14号機(S/N2006)JA8651を受領し、「聖火号」(二代目)と命名し、初代「聖火号」を日航製に返却した

その後、YS-11の定期運航は日本国内航空に続き、1965年(昭和40年)5月10日に東亜航空が広島 - 大阪(伊丹)線、大阪 - 米子線に就航、同年5月31日に南西航空がリース契約で受領し、同年6月8日に那覇 - 宮古線に就航した。同年7月29日には全日空が受領し、同年9月20日に大阪 - 高知線で就航した。南西航空がリース契約となったのは、本土復帰前の沖縄では航空機登録制度が未整備で、南西航空への売却であっても表面上はリース契約とせざるを得なかったからである。南西航空は本土返還後に正式に購入した。

遅れて1969年(昭和44年)4月1日に、日本航空が日本国内航空よりウエットリースで福岡 - 釜山間で初の国際線の就航を始めて、当時の主要国内航空会社がYS-11の定期旅客運航を行ったことになった。日本航空では同路線の就航をボーイング727で計画していたが、同じ路線を運航する大韓航空の機材がYS-11であったことから、機材に差が出ることを嫌った韓国政府の意向から日本航空も同じとせざるを得なくなり、日本国内航空から調達したものであった

YS-11-100は運航を重ねるにつれ、主脚の異常、脚開閉扉の設計ミス、外板継ぎ目からの雨漏りによる電気系統不良などの欠陥が判明し始めた。そのたび、日航製職員や航空会社の整備士は改修のため徹夜の連続となった。この経験は、1967年(昭和42年)のYS-11A(2050以降)の設計に生かされた。

1968年(昭和43年)にはトラブルもほとんど解消し、1機あたりの飛行時間は月300時間以上、定時出発率99パーセントを誇る、高い信頼性を持つ航空機となった。


輸出

1964年(昭和39年)1月15日に日本機械輸出組合と日本航空工業界による「航空機東南アジア豪州市場調査団」が日本国外に派遣されたのを始めとして、日航製による日本国外の営業が繰り返された。しかし、日航製には航空機販売のノウハウがないことから、総合商社の販売ネットワークに頼ることとなった

YS-11の最初の輸出は1965年(昭和40年)10月にフィリピンのフィリピナス・オリエント航空であった。戦争賠償の一環として2012号機が引き渡された。同社はその後最大4機のYS-11を保有した。

無名で実績のない日航製が日本国外で販売するには実機を見せるほかに宣伝の手段はなく、YS-11は積極的に日本国外へ飛行し、デモンストレーションを行った。まず、1966年(昭和41年)9月15日から10月13日にかけて北米へ渡航、アメリカ合衆国サンフランシスコデンバーセントルイスワシントンD.C.マイアミを飛び、近距離路線を運航する中堅航空会社であるピードモント航空ハワイアン航空からまとまった数の受注を得ることができた。しかし、ピードモント航空では使用機材を例に機体仕様で多くの改善オプションを要求され、ハワイアン航空からリース契約で3機の輸出を行ったものの、搭乗口の低さ、騒音、振動、キャビンのデザインが不評で、僅か一年で全機が返却されてしまった。この反省が後のYS-11Aの開発で活かされることになった

1967年(昭和42年)は1月25日から3月15日にかけて南アメリカペルーアルゼンチンチリブラジルをデモ、10月11日12日ベネズエラ12月2日から12日カナダ1968年(昭和43年)8月27日から10月28日にかけてはイギリス西ドイツスウェーデンイタリアユーゴスラビアギリシャサウジアラビアパキスタンネパールビルマタイマレーシアを精力的に回ったが、アジアの多くの途上国では購入予算がないため受注をほとんど得ることはできなかった。その後ブラジルやアルゼンチン、ペルーでまとまった数の受注を獲得した。しかし、ヨーロッパでは競合機が多いため、ギリシャのみの受注となった。

1968年(昭和43年)のデモフライトではイギリスのファーンボロ・エアショーにも出展した。この出展でギリシャのオリンピック航空との商談が成立した。オリンピック航空では短期リースの2機を含め、最盛期には10機のYS-11を保有した[4]。当時のファーンボロ・エアショーでは、欧州の航空機メーカーの出展に限定されていたが、YS-11はロールス・ロイス社製のエンジンを搭載していることから、英国製に類するとして特別に出展が認められ、デモフライトを実施することができた

1969年(昭和44年)にも2月27日から3月1日メキシコ12月3日から1970年(昭和45年)2月14日にかけてモロッコセネガルカメルーンガボンザイール中央アフリカザンビアを飛行、同時に1月18日から22日シンガポール6月20日から7月9日にかけてエジプトケニアスーダン南アフリカ7月28日から8月3日ベトナム戦争中の南ベトナムサイゴンへ飛行し、いくつかの受注を獲得することができた。


196
ピードモント航空のYS-11

相次ぐ受注

デモフライトが功を奏し、知名度が高いピードモント航空からのオプションを含む20機の発注により信頼を得たことも手伝い、アメリカやブラジルを中心として日本国外からの受注が相次いだ。生産数は徐々に伸び、1967年(昭和42年)末には小牧工場は月産1.5機から2機に増産した。1968年(昭和43年)末に確定受注が100機を超え、この年だけで50機以上を新たに受注している。1969年(昭和44年)4月17日には全日空に量産100号機(通算102号機)を納入し、輸出は7カ国15社に達した。7月には当初の量産計画(150機)を上回る180機の量産計画が認可された。小牧工場は月産3.5機となり、順番待ちで発注から納入まで1年以上かかることもあった。しかし、この好調な日本国外への販売がその後の生産中止の引き金となった。


生産終了

安定的な販売網の構築を待たずに売上は鈍化し始めた。特に日本国外での販売では競合国並の長期繰り延べ低金利払で対抗せざるを得なくなったことや、第二次世界大戦後の日本で初めて作った機体のため、実績不足から足元を見られて、原価を割った値引き販売を余儀なくされることも珍しくなかった。また、宣伝費などの販売、営業関連費を初期コストの中に換算していなかったなど、原価管理も杜撰であったと言われている。加えて、航空機製造各社の寄せ集め所帯であったことで責任の所在が曖昧となり、納入部品価格の引き下げもままならず、官僚天下りが増加したことで社内に公務員気質が蔓延し始め、抜本的な経営改革が行われず赤字を加速させて行った。

特に日本国外での営業活動の赤字が当時予期せぬ変動相場制の移行で為替差損が発生した以外にも、会計検査院で指摘された米国での営業活動に日航製の問題が内因している。後述するYS-11Aの改造で米国国内の販売代理店を希望したノースカロライナ州に本社がある中古航空機や航空部品の販売ディーラーであるシャーロット・エアクラフト社のコードウェル社長が積極的な営業参加の意思表示を示し、同社と北米中南米スペイン地区の独占代理店契約を結んだ。しかし、同社は実質的な営業活動を行わず、三井物産と日航製の営業活動でピードモント航空と売却契約が締結されると、シャーロット・エアクラフト社は地区独占代理店契約を盾に多額の手数料を要求し、ピードモント航空やクルゼイロ航空からYS-11の販売で下取りした33機の中古機をシャーロット・エアクラフト社に渡すなど、会計検査院から不当な取引と指摘された。国会で問題になり、日航製の専務が引責辞任する事態となった。日航製は旅客機の販売の実績もなかったことで、シャーロット・エアクラフト社に対しての信用調査や、業務の内容や、販売しなかった場合のペナルティの取り決めなどもない杜撰な契約内容だったからである。シャーロット・エアクラフト社の地区独占代理店契約解除に、2億3,000万円の支出や下取り機を渡さなければならない失態を演じた。

他にも、航空会社の経営者からリベートを要求されたり、支払いの延べ払いには大蔵省や通産省の了解が必要となり、了解が得られなかったことで契約に至らなかった例が少なからずあったと言われる。

加えて、プロダクト・サポートも十分でなく、インドネシアのブラーク航空との間では補給部品の供給ができず、欠航が相次いだことから航空会社の信用を失墜させてしまい、リース料の支払いを拒否され訴訟になるなど、日航製の特殊法人としての甘さが指摘されていた。また、輸出先の航空会社は遠隔地が多く、遠隔地の輸出先の航空会社から、しばしば日航製の負担で部品の預託や部品の販売センターの設置が要求されていたが、その要求を受け容れることはなかった

日本航空機製造の経営赤字は1966年(昭和41年)の航空機工業審議会の答申で既に提言されていた。1970年(昭和45年)3月末で80億円の赤字、1971年(昭和46年)3月末で145億円の赤字となっていた。この赤字は1970年から1971年にかけて国会野党から追及される材料にもなった。このため航空機工業審議会では銀行代表団による経営改善専門委員会が設けられ、赤字の要因と今後の対策が検討された。

経営改善専門委員会は1971年4月27日に、同じ航空機工業審議会の政策委員会に改善策の最終案を報告した。その内容は、

  1. YS-11はその段階で認可されていた180機で製造を打ち切り
  2. 1972年(昭和47年)度末の時点で一切の累積赤字を解消する
  3. 1973年(昭和48年)度以降の日本航空機製造はYS-11に関しては売却した機体の売掛金回収と、補修部品の供給などに専念する

とされた。





202
203
204

207
208
209
210
211
212
213
215
216
217
218
219
220
221
223
225
226
227
228
229
230
231
232
233
234
235
236
237
238
239
240
241

243
245
246
247

250
251
252
253
254

256
257



























US Marines Use Samsung Android Tablets To Call In Air Strikes ...
Marines from MAWTS-1 conducted and organized Digitally Aided Close Air Support (DACAS) fire missions using Target Handoff System tablets at Chocolate Mountain Aerial Gunnery Range, California.

Using a tablet known as the Target Handoff System V2, they can relay their position to artillery and aerial support using GPS location and indicate where their target is. The tablet connects to a PRC-117G radio to use voice communication in conjunction with GPS.

Rogers said this helps the ground units by sending direct and accurate information to fire support. This is the first time these systems have been integrated and fielded for a Marine Corps exercise.
ダウンロード

200
201

100
101
104
102
103

This Android Tablet Is Deadlier Then A Gun – Digitally Aided Close Air Support (Air Strikes)





Rockwell Collins TruNet Networked Communications Solution









Marine Air Ground Tablet (MAGTAB)





TruNet™ AN/PRC-162(V)1 two-channel networking ground radio for dismounted operations





Rockwell Collins UAS solutions





Rockwell Collins TacNet Tactical Radio (TTR)





Rockwell Collins SubNetwork Relay





ARC-210 Gen 5





Rockwell Collins FireStorm™ integrated targeting system (U.S.)




Rockwell Collins To Provide ARINC Support As Part of US Army’s $37.4B C4ISR Contract








Rockwell Collins 718U-5M avionics HF SSB transceiver (AN/ARC-174)





AN/PRC-1088 ECCM secure military man pack radio





Rockwell Collins 718U-5N Aircraft HF transceiver Ham radio трансивер





Rockwell Collins Virtual Avionics Procedure Trainer (VAPT) Overview




Rockwell Collins 721S Radio -- Replacement of GRC-171 Demo







Warrior Expo Highlights | C4ISR Solutions




Defense and Security Connectivity Solutions – Dismounted Soldier, Ground, Aerospace & Marine




Dismounted Soldier Connectivity Solutions





Rockwell Collins FireStorm™ integrated targeting system (U.S.)




Rockwell Collins Head-up Guidance (HGS) with Synthetic Vision





©ASL7681ES Rockwell/Collins KWM-380





Rockwell Collins military radio GRC-220 (719D-15) in VC-120 configuration




Rockwell-Collins 651-S1





Rockwell Collins 851S-1 in action







US Marines Real Combat in Afghanistan - Furious Firefights and Heavy Clashes with Taliban






L3Harris Tech Talk - HF Radio - RF-7800H-MP




L3Harris Falcon III® RF-7800H-MP Wideband HF/VHF Tactical Radio System





L3Harris Falcon III® RF-7800M-MP Multiband Networking Manpack Radio





Radio Fundamentals: An Introduction to HF | Codan Radio Communications









CODAN 8528 HF SSB Transceiver




Codan 2110 manpack radio





CODAN 2110 Manpack - Inside





Jungle Communications Course | Marine Combat Training | US Marines Training | After Boot Camp







Russian air defense systems, electronic warfare systems, reconnaissance, command and control systems are effectively applied to counter hostile drones. This is a short overview of existing systems available for counter-UAV tasks: Repellent electronic warfare complex, Kupol and Rubezh-Avtomatika complexes, Pischal electromagnetic gun, Pantsir-S1 AAMGS, Tor-M2E ADMS, Verba and Igla-S MANPADS, Gibka-S combat vehicle of MANPADS squad, Barnaul-T scope, Polyana-D4M1 C4ISR, P-18-2 radar , Podlet-E and other radar systems.
ロシアの防空システム、電子戦システム、偵察、指揮統制システムは、敵対的なドローンに対抗するために効果的に適用されます。これは、UAV対策タスクに使用できる既存のシステムの概要です。忌避電子戦複合施設
Counter-UAV Systems
 



Russia introduces Gibka-S - Russia's Latest Anti-Drone Weapon





RUSSIA KNOCKING TURKISH DRONES FROM ARMENIAN SKIES I MILITARY NEWS 2020





DRONE ATTACK WENT BAD. HOW DID RUSSIANS PROTECTED THEIR BASE IN SYRIA?




Russian Drone Attack




Turkish firm to make 1st mobile anti-drone system export to Russia





Russian "Tor" surface to air m1ssile system dropped drone





The Thunder’s sound of the Grom (Thunder), what for Russian armed UAVs?




Advanced Russian Weapons Destroy 9 Drones Made by Erdogan's son-in-law






Anti-drone technology: U.S. Air Force buys $15 million Drone Guard system from Israel -
TomoNews





How can Turkish Defense Industry Continue to Grow so Rapidly





Russian Army Drones 2020





Anti-drone gun: Kalashnikov presents its REX-1





American drone attack on Syria repelled by Russian anti aircraft system, MSM





Top 5 Anti-Drone System In The World | Top 5 Counter-Drone Technologies





Turkey’s indigenous anti-drone DEW Alka unveiled





XPeller Counter UAV System






Israeli Tech Firm Develops New Anti-Drone System





Air defense system Tor-M2 to get special small missile against drones





DRDO ANTI DRONE SYSTEM | Namste Trump Rally protected by DRDO ADS





Russia: Kalashnikov unveils REX-1 anti-drone gun at 'Army 2017' expo





RAFAEL's DRONE DOME with LASER Intercepts Multiple Targets





Latest 4 Anti-Drone Guns and Inventions to take Down illegal Drones in 2017





Su-57 is here | Russian 5th gen jet enters service





Así está PREPARADA RUSIA para combatir ATAQUES AÉREOS | Escudos de Defensa rusos






MQ-9 Reaper: The Most Feared U.S. Air Force Drone in Action









ポツンと一軒家
山原無線中継所(静岡市清水区山原)

786

zzzzzzz




zzzzzzzzzz


777

779

778




1111111111111

200
201
311
312
313
314
315

444


昔は電電公社専用のロープウェイで通勤してました
ロープウェイの運転もやらされました
山原堤に発着駅がありました
昭和27年より東京~大阪間のNHKおよび民放5社のTVを中継しており
静岡の各TV局にも映像を分枝しており事件ニュースを
東京のキー局へ送る仕事をしてました

fcf0e3c074eb129b0d0229d6258c7163


山原無線中継所 概要・歴史

山原無線中継所(やんばらむせんちゅうけいじょ)は静岡県静岡市清水区にある無線施設。

1953(昭和28)年11月15日に運用開始。元々はテレビの無線中継を主たる目的とする施設だったという。

当時日本で2箇所しかなかった電電公社の専用ロープウェイが設置されており、山麓と山上の間、約1200mを定員12名の搬器が約12分で一日平均7往復していた。

1982(昭和57)年1月にふもとから山上局舎に至る道路が完成したため廃止。1983(昭和58)年3月に撤去された。

山原無線中継所自体は現在もNTTドコモや新聞社専用無線、海上保安庁の設備として使用されており、廃墟ではない。

2棟の現役電波塔の他に旧中継所が残されている。2017年頃まではもう1棟電波塔があったらしいが、解体され土台のみとなっている。

専用ロープウェイの遺構としてアイドルホイール(滑車)が見られるが、鉄柵により近づけない上、2019年現在、草木が繁茂し視認が難しくなっている。付近には記念碑が設置されている。

同地付近は富士山・第二東名・日本平・駿河湾・清水港、と名所を一望することができ、日中の展望や夜景を望む人気のスポットとなっている。

a
b
c
d
e
P1100174-007
yanbara1
yanbara2
yanbara3
yanbara4
yanbara5
yanbara6
yanbara7
yanbara8
yanbara9
yanbara10

131
132
133
134
116
115
135
136
137
144
143
139






もう1つの電電公社専用ロープウエイ
 己斐ロープウェイ。電電公社己斐無線中継所専用のロープウェイ
Ropeway_at_Koi_Radio_Relay_Station_1955

136
大茶臼山・山頂 1955年(昭和30年)に竣工したNTT己斐無線中継所。
畑峠を経由する車道整備が完成するまでは己斐ロープウェイがあって


部屋の整理してたら
昔の写真が出てきた昭和50年(1975年)頃の
山原無線中継所のテレビ調整室(昭和28年1953年開局)
NHK総合・教育とSBSとSUTと静岡朝日の5局だけだまだ静岡第一テレビが
開局してない時代だつたまた静岡に東京12ch(TV東京CX)系列は静岡では開局できなかつた
この山原より静岡の各放送局までSTLの11GHzで伝送していたが豪雨のとき
降雨減衰で回線が中断して(いま電々回線が故障中)ですとのテロップがよく流れた
その後 山原局から静岡曲金局に変わり同軸ケーブルで各放送局まで伝送したが
季節変動調整などがあつた道路工事などで同軸中断障害があり大事になつたこともあつた
いまはデジタルとなり光ケーブルで伝送している
102
103
104


部屋の整理してたら その2
昔の写真が出てきた昭和50年(1975年)頃の
名古屋東山無線中継所のテレビ調整室と機械室
まだ真空管の時代だつた
200
201
202


部屋の整理してたら その3
昔の写真が出てきた昭和45年(1970年)頃の
天城無線中継所にて(当時下田無線中継所勤務)
11GhzT2-1方式500mWクライトロン11V651/652(伊東~天城~下田)中継函 
天城トンネル上の無線局いまは廃局した
天城峠前の茶屋の親父にはお世話なつた思いでがある
昔天城トンネルを訪れたら踊り子像の横に銅像になつていて涙が流れた
100
101

250
251
252
253
254
255
256
257
264
265

降雨時におけるアンテナの電波減衰について
昔昔・・・日本にまだ衛星通信も無い時代に電電公社においてのマイクロ多重回線の周波数は2GHz帯・4GHz帯・6GHz帯を用いて通信していたが回線需要の逼迫で新しい周波数を使う必要に迫り昭和40年代(1965年)に郵政省に11GHz帯の周波数申請し11GHz方式のT2-1やT2-2方式など導入した私が始めて入社し勤務した伊豆の伊東無線中継所にも初めて導入されたこのルートは熱海~丹那~伊東~天城山~下田の伊豆半島を中継する多重電話回線でした当時11GHzは反射型クライストロン11V-651/652のリぺラー直接周波数変調で500mWで4mのパラボラアンテナで約20Km中継で多重回線電話480回線を3システム合計1500回線を伝送するものでしたがいざ運用を始めると集中豪雨が降ると回線が途切れて伊豆半島が通信孤立状態が多発しました・・いまでは子供でも衛星放送(11GHz)で集中豪雨で映像が切れることは知ってますが当時はある程度は雨による電波減衰は想定してましたが降雨量がどのくらいのときに回線が切れるかと研究して回線が切れたときの降雨量を気象台にそのつど問い合わせた結果10分間降雨量が10mmをこすと回線が切れるこ事を発見して報告した記憶がありますそのことと送信出力が500mWで小電力も問題ではと提言しのも記憶してます この送信クライストロン11V651/652で受信用局発クライストロン11V54は当時は非常に高価(私の初任給の半年分)で寿命も約1年(送信出力半減で取替え)でしてしかもクライストロンの自励発信器であり空洞共振器を調整して周波数を合わす必要がありまた480回線も変調かけるため帯域内の特性(微分)を6MHzP-Pでフラットに調整する必要があり調整を山上の中継所ではなく有人局(伊東・下田)で調整してこの無線機を取替えるのですが特に天城山中継所は有名な伊豆の踊り子の天城山トンネルの上あり道が険しいので地元の強力に他のみ無線機を担ぎ上げていました・・その天城トンネルの前には移動の茶店がありここで弁当や飲み物を買って天城無線中継所に登りました・・何十年か前にこの天城トンネルを訪れたら伊豆の踊り子像の横に茶屋の叔父さん(伊藤さん)の銅像がありました・・・おもわず涙が出てきました・・もう天城無線中継所はありません・・そのごNTTは15GHz帯 22GHz帯 26GHz帯と開発していきましたが降雨減衰で悩されスモッグでも切れることがありました
昔昔のお話でした
260
262
202

270


丹那無線中継所

512
511
513

514



ポツンと一軒家
浜石無線中継所(静岡市清水区由比阿僧)

222

111
203
204



ポツンと一軒家
高草無線中継所(静岡県藤枝市)
0000000000

0000
280




ポツンと一軒家
粟が岳無線中継所 静岡県掛川市倉真

000

0000
205
282


ポツンと一軒家
自衛隊 美保通信所
鳥取県境港市にある防衛省の電波傍受施設である。通称は象の檻。
大型円形アンテナのほか32本のアンテナがある。傍受している内容は、
北朝鮮、ロシア、中国の軍などの通信で、アメリカ軍への情報提供も行う
302
300


ポツンと一軒家
美保飛行場は境港市にある飛行場(空港)である
航空自衛隊美保基地(JASDF Miho Airbase)民間航空機の共用飛行場314万平方米の
敷地に2500m(07/25)の滑走路を、航空支援集団第3輸送航空隊があり隷下に
第403飛行隊と第41教育飛行隊が置かれC-2輸送機と、T-400
206

200
207



ポツンと一機
F104ジェット戦闘機が屋上にある会社(ハセガワ)
T3練習機もあるね(静岡県 焼津市 八楠 3-1-2

803
208
310

318
317
316
315
314
313
312


209
210

333
3



ポツンと一機 
永野自動車 静岡市葵区富沢
航空自衛隊 練習機 T-34A

800

400

211
212
211
213
212
214
215



ポツンと一機 
F86fジェツト戦闘機が屋上にある菅野病院(静岡市葵区瀬名)

801
775


500
773
712
711

501
213



コラム~屋上の飛行機について~

屋上のF 86Fセーバージェット機は、東京オリンピックの五輪マークや、万国博のEXPO-70等の飛行機雲を画いた有名な航空自衛隊のブルーインパルスの同型機であります。
退役后、アメリカへ返還される事になっていましたがアメリカ国務省の御好意で零戦愛好会へ貸与されたものです。
この飛行機の正面に日米戦災犠牲者の慰霊碑がある賤機山の山頂が見られます。

毎年この慰霊碑の前で行っている日米合同慰霊祭が縁となって、米国国務省ヘーグ長官マンスフィールド駐日大使の御理解を得てここに保管できる様になったものです。
このような訳ですので、この飛行機を日米親善のシンボルとして大切に保存したいと思います。

零戦愛好会 会長 菅野寛也



















静岡県無線漁協無線局 JFG

静岡県漁業無線局は、大正10年に我が国の最初の漁業用無線電信施設として、清水市の静岡県水産試験場内に、漁業無線局清水電信所として開局しました。大正14年には焼津漁業無線局が日本最初の民営漁業無線局として開局し、続いて昭和5年に御前崎漁業無線局が発足しました。
 昭和43年3月に輝かしい伝統と幾多の功績を持つ3つの漁業無線局が合理化と所属船の漁業活動の助長、漁業者の生命・財産の保全を使命とする漁業無線通信の機能を十二分に発揮させるために組織合併を行い、翌44年4月に現在地に静岡県漁業無線局として開局し、漁業・公衆・漁業公共通信業務を行い、現在に至っています。
 

111
受信所と送信所  送受信所連絡有線ケーブル 各100P-600m 


112
受信所および通信所

111
112
113
114
115
116
117
118



113
受信アンテナ

114
送信所

115
送信アンテナ

211
212
213
214
215
216
217
218
219
221
222
223







受信所施設の概要                                     


211



場  所焼津市田尻1991-1  北緯 34度49分42秒 東経138度19分55秒

敷地面積1691平方メートル

建物面積鉄筋コンクリート 一部ニ階建 本館 559平方メートル
    電源室 27平方メートル 倉庫・付属建物 60平方メートル

通信鉄塔4基 30m

2.装置内容                                     
全波受信機 
11台
27MHz SSB無線電話送受信機 
1台
27MHz DSB無線電話送受信機 
2台
2182kHz 無線電話警報自動受信機 
1台
27524kHz 注意信号自動受信機 
1台
垂直タブレット6、8、12、16、22MHz
5条
水平二段タブレット東西方向、南北方向
2条
八木アンテナ電信 16、22MHz
3素子
接地空中線T型、逆L型
5条
FAX設備 
3回線
電話 
5回線
商用電源(主)単相 100V (補)3相 220V
予備電源ディーゼル発電機 20KVA 200V


送信所施設の概要                                  

212


場  所 焼津市田尻2630-4 北緯 34度49分44秒 東経138度20分16秒

敷地面積 1982平方メートル

建物面積 鉄筋コンクリート高床式 158平方メートル

通信鉄塔 4基 40m

2.装置内容                                     

No.1 送信機電信・短波 出力1KW
No.2 送信機電信・電話・中短波・短波出力1KW/200W
No.3 送信機電信・電話・中短波・短波出力400W/200W
No.4 送信機電信・短波出力1KW
No.5 送信機電信・短波出力1KW
No.6 送信機電信・電話・中短波・短波出力1KW/200W
タブレット空中線3方向15条
垂直タブレット電話用2条
八木アンテナ電信用 16、22MHz
3素子
接地空中線T型、逆L型各1条
27MHz 垂直空中線送信・受信各1条
送受信所連絡有線ケーブル各100P-600m4条
商用電源(主)3相 220V (補)単相 100V
予備電源ディーゼル発電機 35KVA 220V

  出漁海域                                 

118  


航空自衛隊御前崎分屯基地 JASDF


ポツンとアンテナが
御前崎分屯基地(おまえざきぶんとんきち、JASDF Omaezaki Sub Base)とは
静岡県御前崎市御前崎2825-1に所在し、第22警戒隊が配置されている
航空自衛隊入間基地の分屯基地である。J/FPS-2レーダーが運用されている。
分屯基地司令は、第22警戒隊長が兼務。


150
151
152
153
154
418
417
416
415
414

412
411

423
422
421
420
419
511
512
513
514
515
516
517
518
519
521
522
523
524
525



155
156
157
158
159
160

固定式三次元レーダー


J/FPS-2/2AHamaoka NPP and Omaezaki Wind Power Station Phase 1 view from Omaezaki Lighthouse.jpg11箇所日本電気製 固定式パッシブフェーズド・アレイ・レーダー。1980年運用開始。
空中線装置、送受信装置、信号処理装置、表示装置によって構成される
261



多重通信装置 (OH) J/FRQ-503JASDF JFRQ-503(FRQ-8) at Iruma Air Base 20141103.JPG航空基地・レーダーサイト間等の通信に使用される、デジタル多重通信方式の見通し外通信装置。日本電気製。
262




米海兵隊 沼津海浜訓練場

沼津今沢基地
沼津に米軍の基地があるって知っていますか?
沼津市は総延長47キロメートルの長い海岸線を持つ市です。西側の海岸線には千本松原が広がっています。その西側旧片浜村今沢地区に、開設以来50年を越えた米軍今沢基地がありま基地 沼津海浜訓練場-海岸から県道(旧国道1号線)までの進入路を含む陸上施設)(約2,8ヘクタール沼津乗下船及び積込積下訓練場-波打ち際から海上一帯(約1358ヘクタール)

165
170

AN/PRC-47
昔はこの静岡県・沼津市の今沢海岸に沖縄から海兵隊が上陸用舟艇で御殿場のキャンプ富士まで米軍の憲兵が交通整理して戦車など車両が行進してました・・1週間まえから今沢海岸に米兵がPRC-47を設営して沖縄の基地と短波で交信してたのを覗きにいきました
AN/PRC-47 2MHz~12MHz( 1KHzステップ )SSB USBのみ  100W  電源はなんと水銀BATTでした この電池のジャンクが高く売れました・・なんたつて銀ですから
171
172
173
174
175
176
177
177
178


東富士演習場
166

米海兵隊キャンプ富士
陸上自衛隊 滝が原駐屯地
167
180
181
182
184
183


航空自衛隊 静浜基地
静浜基地 は、第11飛行教育団等が配置されている航空自衛隊の基地である。
基地司令は、第11飛行教育団司令が兼務。 所在地:静岡県焼津市上小杉1602
基地名の由来は旧志太郡静浜村の地域にあることから

404
405
406
407
408
409
402
401
400
410


航空自衛隊浜松基地(はままつきち、JASDF Hamamatsu Airbase)

静岡県浜松市西区西山町無番地にある航空自衛隊の基地。以前は浜松飛行場を中心に
南・北の基地が併設されていたが、現在は統合されて一つの基地になっている。

基地司令は、第1航空団司令が兼務。

301
302
300

【エアーパーク】航空自衛隊 浜松基地 広報館

303


静岡県浜松市 『喫茶飛行場』静岡県浜松市西区入野町4702-16

304
223
326
329
333
334
335
336
337
338
339
340
347
348
349
353
354
360

356
360
363
372
373





【YZF-R25】秘密基地みたいな喫茶店を発見!!休憩にちょうどいい場所!










































焼津ICから高草山へ




焼津ICから高草山へ つずき







粟が岳(静岡県掛川市)ハイキング2019年6月 茶文字の山




ハセガワプラモデルfeat.やいづTV





プラモデルのハセガワさんへ飛行機乗りに行ってきま~す!





[オルガンライフ]プラモデルのハセガワの飛行機に乗ってみた
焼津YouTube Clubの力で実現 F 104J T 3



























第47回静岡空襲犠牲者日米合同慰霊祭





74th Anniversary of Pearl Harbor Day Blackened Canteen Ceremony





Blackened Canteen ceremony honors fallen spirits at Pearl Harbor





Blackened Canteen Ceremony marks annual act of healing





Blackened Canteen Ceremony





VHFの歌 マイクロ波無線通信





津軽の塔~石崎無線中継所~





NTT語り部シリーズ「温故知新」①モールス通信士は語る





NTT語り部シリーズ「温故知新」③移動体通信研究者は語る





地域を支え、災害に備える無線設備





NTTグループ歴史映像 ― 1950年~ ―





NTTグループ歴史映像 ― 1970年~ ―





NTTグループ歴史映像 ― 2011年~ ―





NTT技術史料館ツアー映像「イントロダクション」





NTT技術史料館ツアー映像「歴史をたどるコース」





NTT技術史料館ツアー映像「技術をさぐるコース」





鈴鹿学園 頌歌






電電公社 鈴鹿学園寮歌





電電公社歌





鈴鹿海軍航空基地の資料




鈴鹿海軍航空隊跡 所在地は鈴鹿市南玉垣町(現在NTT研修センター正門)(近鉄白子駅より徒歩30分) ※現在は桜の森公園・鈴鹿医療科学大学白子キャンパス内にあります。
1938年、偵察飛行兵を養成する練習航空隊として鈴鹿海軍航空隊がこの地に開隊し ました。17歳と22歳前後の若者がこの航空隊で約半年間の飛行訓練を受け、各実践航 空隊に配属され、アジア・太平洋戦争へとかり出されていきました。戦争末期にはこの航 空隊は閉鎖され、「第一鈴鹿海軍航空基地」として改編され、同時に練習機「白菊」を特攻 機とする「若菊隊」が結成され、日々、特攻訓練がおこなわれ、沖縄戦の特攻隊員として 出撃した人も少なくありません。 戦後は鈴鹿電気通信学園の校舎となり、兵舎や格納庫などほとんどの建物が残されてい ました。戦争映画や映画「埋もれ木」のロケ地にも使用されました。しかし80年代より 次々と建物は建て替えられ、全国的にも貴重な3棟の格納庫も2011年に取り壊されて しまいました。現在は移築された正門と番兵塔、モニュメントなどが桜の森公園内に「戦 争遺産」として残されています。


263






WW2 米軍 無線通信機など

485





400
401
413
414
415

416
417
418

419
420
421
422
423
424

425
426
427
428
429
430
431
432
433
434
435
436
437
438
439
440
442
443
444
445
446
447
448
449
450
451
452
454

455
456

457
458
459
460

463
464

465
466
467
468
469
470
471
472
473
474
475
476
477
478
479
480
481

482
483
484
485
486
487
488
489
490
491
492
494
495
496
497
498
499
500


501
502

503
504

505
506
507
508
509
510
511
512
513


700
701
702
703
704
705
706
707
708
709
710
711
712
713
714
715
716
717
718
719
720
721
722
723
724
725
726
727
729
730
731
732
733
734
735
736
737
738
739
740
741
742
743
745
746
749
750
751
752
753
754









TM_11-227_RADIO_COMMUNICATION_EQUIPMENT_APRIL_1944


200
202
212
213
214
215
216
217
218
219
220
221
222
223
224
225
226
227
228
229
230
231
232
233
234
235
236
237
238
239
240
241
242
243
244
245
246
247
248
249
250
251
252
253
254
255
256
257
258
259
261
262
263
264
265
266
267
268
269
270
271
272
273
274
275
276
277
279
281
282
284
285
287
290
292
293
295
296
299

300
301
302
303
304
305
306
307
308
309
310
311
312
313
314
315
316
317
318
319
320
321
322
323
324
325
326
327
328
329
330
331
332
333
334
335


240542402_10217187001260716_6581316781129102827_n
240381478_10217187002780754_455051631303322744_n
239417043_10217187001660726_7478079662997313639_n





DAITON Hamventionでの3885KHZクラブです


601
602
603
604
605
606
607
608
609
610
611
612



Sixteenth meeting of the Military Radio Collectors Group (MRCG), 6 - 7 May 2011.
Camp Can Luis Obispo, CA,




MRCG Summer Field Day 2012 -- UPDATED





MRCG 2008





MRCG 2010




MRCG Field Day 2008




MRCG 2010 Summer Field Day





MRCG 1996 - 2006, A Slideshow





MRCG 2011 Fall Field Day





MRCG Fall Field Day 2010





AN/GRC-9 RT-77 military radio




BC-611 radio (SCR536) comes to life after 50 years




Military Backpack Radio Documentary (History Day 2005)





ARC-1 WWII Vintage Military Radio Receiver / Transmitter




1942 TBW Ham Radio Transmitter




BC-620 Jeep Mounted Vehicle Radio Detailed Walk Through
1942 Willys MB / Ford GPW / SCR-510




SCR-508 WWII tank radio description and actual on-air operation




BC-620 Radio Tuning/Alignment for Transmitter & Receiver WW2 SCR-510




WW2 Radio Receiver-Transmitter RT 159b /URC-4 Survival Radio KoreanConflict




BC 375 world war II transmitter used in B17 flying fortresses





ARC-5 COMMAND TRANSMITTER PART 2




BC 728 World War II (1940-1945) radio receiver (2015)




BC-342 Radio Receiver Capacitor Replacement Tips Part 1




SCR-506 WWII Vehicle Radio Set.




Collins ART-13 transmitter for sale demo




BC-342 Radio Receiver Capacitor Replacement Tips Part 2




Radio At War (Ca 1940's)




WW2 Submarine Radio Room




SCR-508 WWII tank radio description and actual on-air operation




Restoring a WWII US Army Field Radio - Crosley BC-654 Part 1




WW2 US ARMY BC611 HANDIE TALKIE FIELD RADIO




SCR300 (BC-1000) military WWII radio - history and actual on-air demonstration




1932 Army Signal Corps BC-175 Radio Receiver





ww2 Radio-Walkie talkie Bc 1000/Scr 300




1941 U.S. ARMY AIR CORPS TRAINING FILM " RADIO AIDS TO NAVIGATION " 32084





Hallicrafters Shortwave Radio; Winning WWII With Technology (1944)




BC-620 Jeep Mounted Vehicle Radio Detailed Walk Through
1942 Willys MB / Ford GPW / SCR-510




1941 U.S. ARMY SIGNAL CORPS " BASIC SIGNAL COMMUNICATION " FIELD TELEPHONE SYSTEM SETUP 17134




ww2 Bc 611 Radio Handie Talkie




Signal Corps BC-342 Farnsworth US Army Shortwave Radio BC342 WW2 Vintage




SCR-538/BC-603 SCR-638/BC-683

SCR-538/BC-603 20.0MHz-27,9MHz FM受信機 10CHプリセット

SCR-638/BC-683 27.0MHz-38,9MHz FM受信機 10CHプリセット

IF 2.65MHz

11 TUBU

12V/24V

100
101
102
103
105
106
107
108
109
110
111
112
113
114
115
116
117
118
119
120
121
122
126
127
129
130
131
132
133
136
138
139
140
141
142
143
144
145
146
147
148
149














↑このページのトップヘ