YS-11(わいえす いちいち)は、日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機。第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機である。正式な読み方は「ワイエスいちいち」だが、一般には「ワイエスじゅういち」、または「ワイエスイレブン」と呼ばれることが多い(後述)。時刻表では主にYS1またはYSと表記されていたが、全日本空輸の便では愛称「オリンピア」の頭文字Oと表記されていた。
2006年をもって日本においての旅客機用途での運航を終了した。海上保安庁で使われていた機体は2011年(平成23年)に退役し、それ以外の用途では自衛隊で輸送機として運用されていた(後述)。また、東南アジアへ売却された機体も多くが運航終了となっている。一部の機体はレストアされて解体こそ免れ、動態保存されている機体もあるものの、機体そのものが旧式であることもあり、運用されている場面は稀である
飛行するYS-11M 61-9041号機 (海上自衛隊所有、2007年9月28日撮影)
歴史
国産航空機計画
連合国軍占領下の日本では連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による航空禁止令が布告されて、日本にあるすべての飛行機を破壊され、航空機メーカーを解体され、航空会社を潰され、大学の授業から航空力学の科目を取り除かれていた。1952年(昭和27年)にサンフランシスコ講和条約の発効で再独立すると、日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が一部解除され、この年の7月に航空法や航空機製造事業法が施行された。
民間航空会社は1951年(昭和26年)に日本航空がGHQの意向で発足し、翌年の1952年(昭和27年)には全日本空輸の前身である日本ヘリコプター輸送、極東航空が発足し、その翌年の1953年(昭和28年)までに東亜国内航空の前身となる日東航空、富士航空、北日本航空、東亜航空が発足した。
戦後の日本の航空路線は、ダグラス DC-3やDC-4、コンベア440などのアメリカ合衆国製や、デ・ハビランド DH.114 ヘロンなどイギリス製の航空機が占めており、戦前の航空機開発・製造で実績のあった日本で、自国製の航空機を再び飛ばしたいという思いは、多くの航空関係者の抱くところであった。
戦後の日本の航空機産業は、1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争で米軍機の整備・修理の受注を皮切りに、1955年(昭和30年)4月には、川崎航空機(現川崎重工業航空宇宙システムカンパニー)と新三菱重工業(現三菱重工業)で自衛隊向けの機体(ロッキードT-33Aジェット練習機、ノースアメリカンF-86F)の国内ライセンス生産が決定するまでになっていた。当時の航空機産業の監督官庁である通商産業省(通産省、現・経済産業省)は、商品サイクルの長い輸送機の開発生産に取り組ませることで、その産業基盤を安定させる思惑があった。加えて、利用客の増加が見込まれた国内航空の旅客機に国産機を用いることで、軍用機と民間機を共通化すれば開発コストが低下すると考え、「国内線の航空輸送を外国機に頼らず、さらに海外に輸出して、日本の国際収支(外貨獲得)に貢献する」との名目で国産機開発の計画が立ち上げられた。
世界的には国家から軍用機の開発を受注した航空機メーカーが技術を蓄積し、それを旅客機に転用する例が多く、通産省も開発コストを下げて価格競争力を持たせて販売するビジネスモデルを構想していた。当時は運輸省でも民間輸送機の国内開発の助成案があり、通産省の国産機開発構想と行政の綱引きの対象となって権限争いが行われていた。閣議了承により、運輸省は耐空・型式証明までの管轄、通産省は製造証明と生産行政の管轄の、二重行政で決着した
国内線用の旅客機の本格研究は新明和工業(旧・川西航空機)で始まっていた。1956年(昭和31年)に運輸省が発表した「国内用中型機の安全性の確保に関する研究」の委託を受けて基礎研究を行い、後にYS-11の設計に参加する菊原静男、徳田晃一が中心となって進められた。この研究はDC-3の後継機種の仕様項目を研究するもので、レシプロエンジン双発の第一案(36席)、第二案(32席)、ターボプロップエンジン双発の第三案(52席)、第四案(53席)の設計案が提案され、最適とされた案は第三案とされ、その後のYS-11の叩き台となった
輸送機設計研究協会発足
1956年(昭和31年)に通産省重工業局航空機武器課の赤澤璋一課長の主導で国産民間機計画が打ち出された[3]。通産省は各航空機メーカーと個別会談を行い、各社から賛同を得たことから、日本航空工業会に中型輸送機計画案を提出するように要請した。日本航空工業会がこの要請で開発案を提出したことから、通産省は中型輸送機計画開発の5カ年計画として、1957年(昭和32年)度予算で8,000万円を要求したが、第1次から第3次折衝まで予算請求が認められず、1957年(昭和32年)1月20日、水田三喜男通商産業大臣と池田勇人大蔵大臣の大臣交渉で予算を獲得することができた。鉱工業技術研究補助金の名目で3,500万円の予算を獲得した
同年5月、理事長に新三菱重工副社長の荘田泰蔵が選任され、専任理事に木村秀政東京大学教授を迎えた「財団法人 輸送機設計研究協会」(通称「輸研」)が東京大学内に設立され、小型旅客輸送機の設計が始まった。輸研に参加したメーカーは新三菱重工業(現・三菱重工業)、川崎航空機(現・川崎重工業航空宇宙カンパニー)、富士重工業、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機の機体メーカーと、住友金属(現・住友精密工業)、島津製作所、日本電気、東京芝浦電気(現・東芝)、三菱電機、東京航空計器の部品メーカー各社であった。複数企業のジョイントとなった理由は、国内新型航空機開発と言う大型プロジェクトを、特定の企業一社に独占的に任せることで起こる他社の反発を懸念したためである
輸研には、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)や雷電、烈風を設計した新三菱の堀越二郎、中島飛行機で一式戦闘機「隼」を設計した富士重工業の太田稔、先述の川西航空機で二式大艇や紫電改(及び紫電)を設計した新明和工業の菊原静男、川崎航空機で三式戦闘機(飛燕)や五式戦闘機を設計した川崎重工業の土井武夫といった戦前の航空業界を支えた技術者が参加、設計に没頭した。航空業界ではこれに航研機の製作に携わった[5]木村秀政を加えて「五人のサムライ」と呼んだ。
設計案として、日本の国内線需要を勘案して1,200mの滑走路で運用できるもの、航続距離は500マイルから1,000マイル(800km-1,600km)、整備性から低翼、経済性から60席以上、双発ターボプロップエンジン、開発期間は4年、開発費用は30億円の基本設計で固まった。当初、開発期間は5年であったが、当時国内の旅客機の残余寿命が3-4年の機体が多く、代替時期を勘案すれば5年では長過ぎるとの運輸省の主張から4年に短縮された
国産旅客機製造の理解と国からの予算獲得のため、1958年(昭和33年)12月11日に日本飛行機の杉田工場でモックアップを完成披露した。試作機の予算を獲得するためのデモンストレーションであり、技術的な検討を目的とするものではなかった。このため、客室の艤装に力を入れ、航法士席や二つの化粧室を設け、横列5席の構成とし、内装は当時の有力デザイナーの渡辺力に依頼して、表皮を西陣織とした座席が設置された。この座席は当時の価格で一脚50万円以上したと言われている
このモックアップを作るのにかかった費用は5,500万円(当時)に達し、ランプの点滅機構までは用意できなかったため、担当者が隠れてスイッチを入れたり切ったりしていた
YS-11の設計のために東京大学航空学科で使用された風洞模型(国立科学博物館の展示)
名称
機種名であるYS-11の「YS」は、輸送機設計研究協会の「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとったもの。一方、「11」の最初の「1」は搭載を検討していたエンジンの候補にふられた番号で、実際に選定された「ダート10」の番号は「1」であった。後ろの「1」は検討された機体仕様案の番号で、主翼の位置や面積によって数案が検討されていた。機体仕様案の中には第0案もあった。
先述のモックアップ完成披露キャッチフレーズが「横浜・杉田で11日に会いましょう」であった。これはYに横浜、Sに杉田を掛け、11に合わせて公開日を11日にした語呂合わせであるが、これによって数値2桁「11」を「じゅういち」と読み発声することが一般に広まった。こうした経緯もあって、関係者のあいだでは当初正規に「ワイエス・いちいち」と呼ばれていたが、いつしか「ワイエス・じゅういち」と呼ばれるようになった。
日本航空機製造株式会社設立
モックアップ公開後、航空機メーカーの業界団体による設計組合的な輸送機設計研究協会から官民共同の特殊法人として日本航空機製造(日航製、NAMC)を1959年(昭和34年)6月1日に設立し、輸研は解散した。資本金を5億円とし、政府が3億円、民間からの出資は2億円であった。初代社長には輸研理事長の荘田康蔵が就任した。民間分の出資は輸研に参加した機体メーカー6社と材料・部品メーカーに加え、新たに商社、金融機関が出資した
日航製は輸研の残留スタッフの30名と、出資各社からの出向者に役員13名の総勢125名で発足した。「五人のサムライ」は実機製作には携わらないと宣言したため、1960年(昭和35年)からの実機製作は三菱から技術部長として出向してきた東條輝雄に任せられた。東條は父親で陸軍大臣や首相を歴任した東條英機の勧めで、軍人ではなく技術者を目指し、かつて堀越の元で「零戦」の設計にも携わっていた。
設計部は、1.庶務及び設計管理、2.全体計画(空力、性能、基礎研究)、3.胴体構造、客席艤装、胴体強度、4.主翼、エンジンナセル、エンジン艤装、燃料供給装置、5.尾翼、脚、油圧、6.電気、無線、計器、与圧、防水、客室艤装の各6班に分かれて分担した
日航製は設計開発、生産管理、品質管理、販売、プロダクトサポートを行い、生産は機体メーカー各社が分担し、最終組立は三菱重工業が行うこととした。
中型輸送機開発を正式に決定すると、アメリカのコンベアや、オランダのフォッカー、イギリスのBACなどの欧米航空機メーカーが、自社との共同開発、もしくは自社機のライセンス生産への参画、つまり独自開発の計画中止を求めて殺到した。これらの企業はみなDC-3の後継となる機体の開発計画を持っており、競合機種が増えることを望まなかったからである。特にフォッカーは自社のF27 フレンドシップと日本の機体の規模が競合するためしつこく食い下がってきたが、通産省はこれらをすべて一蹴した。
設計・各種計算には、富士通のリレー式計算機FACOM 128B等が使われた。FACOM 128Bは同型機が現在、富士通沼津工場の池田敏雄記念室に展示・動態保存されている。同様の計算機の動態保存機としては世界最古である。
機体製造
機体は中型とし、レイアウトに余裕が持てるように真円部分を長く設計した。当初の設計案では太胴(外径3.3 m)であったが、設計重量超過が判明したことから、モックアップと違った細胴(外径2.88 m)に再設計された。太胴の重量ではSTOL性を確保できず、日本の地方空港に就航できないとの判断であった。このため、当初案の横列5人掛けから4人掛けに変更となった[4]。主翼は、整備性の良さや着水時に機体が浮いている時間が長くなる事を考え、胴体の下に翼がつく低翼に。また、地方空港を結ぶことを目的としたため、1,200 m 級の滑走路で離着陸が可能な性能をもたせることとした。製造は新三菱重工(現三菱重工業)、川崎航空機(現川崎重工業航空宇宙カンパニー)、富士重工業(現SUBARU)、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機工業、住友精密工業の7社が分担し、最終組み立てを三菱小牧工場[6]が担当した。
各社の分担内容は以下のとおりである。
- 三菱(分担率: 54.2%) - 前部胴体、中部胴体、
- 川崎(25.3%) - 主翼、エンジンナセル(エンジンの覆い)
- 富士(10.3%) - 機首、圧力隔壁、垂直尾翼、水平尾翼
- 日飛(4.9%) - 床板、補助翼、フラップ
- 新明和(4.7%) - 後部胴体、翼端、ドーサルフィン(垂直尾翼前方の安定翼)
- 昭和(0.5%) - 操縦席、主翼前縁
- 住友(0.1%) - 降着装置
併せて治工具の開発も行われた。輸出を前提として米国のFAA(連邦航空局)の型式証明の取得を目指したため、戦前までの軍用機の生産技術は新しい民間機の生産技術にはほとんど役立たなかったと言われる[4]。
エンジンは耐空証明の取得に困難が予想されたため、自国での開発を諦めた。方式としては、当時主流になりつつあったターボプロップエンジンを使用し、イギリスのロールス・ロイス製ダート 10を採用、プロペラはダウティ・ロートル製の4翅、全脚のタイヤはグッドイヤー社製であった。当時の日本に手が出せなかった(試作はしたが実用性は低かった)電子機器も、運行する航空会社が、実績があってアフターサービスが充実しているメーカーの製品を強く指向したため、気象レーダーと無線機は米国のロックウェル・コリンズ社やベンディックス社の製品であり、ほぼ全て日本国外の製品を輸入する結果となった(それらの機器に、実績がない日本国産品を採用したのは運輸省に納入された機体のみであった)。
当時日本国内での調達が困難だった大型のジュラルミン部材は、アメリカのアルコア社から購入した。当初日本の金属メーカーも採用に向けて意欲を示したものの、YS-11に使用する量のみの生産では量産効果が期待できず、価格で対抗できないうえ、アルコア社のアルミ合金材は米国の軍用規格の金属材料であり、日本のJIS規格よりも品質が高かったため、アルコア社の金属材料が採用された経緯がある[4]。
試作機
耐空性審査要領に規定された荷重に耐える強度と耐用寿命を持つことを証明するための2機の試験機が製造された(01号機〈静荷重試験用〉と02号機〈疲労試験用〉)。01号機を使用して1962年(昭和37年)に静荷重試験が実施され、破壊試験では制限荷重の153%で主翼が破壊するという好結果が得られた。02号機を使用した疲労試験は1961年(昭和36年)7月に開始された。安全寿命3万時間を目標としたYS-11の場合は、当時の統計理論より導かれた安全寿命係数(主翼は6.3、胴体は22.5)を適用して、1965年(昭和40年)4月までに世界でも例のない20万回を越える疲労強度試験が行われた。胴体は9万時間まで、主翼は6万4000時間まで主要構造部には疲労被害は生じなかった。一方、この時代にジェット旅客機が出現し、安全寿命の考え方では設計が困難であるとの認識が一般的になり、フェールセーフ設計によって耐用寿命を与えるように対空性審査要領も改訂された。YS-11の疲労試験でも、後半ではフェールセーフがあることを証明するために生じたクラックの進展データを得ることに重点が置かれた。胴体は22万5000時間、主翼は18万9000時間の疲労試験時間内では致命的な疲労被害が生じないことが確認された。
飛行試作機1号機(1001)は1962年(昭和37年)7月11日に三菱小牧工場でロールアウトした。1か月に渡る電子機能検査、平衡試験、燃料試験、プロペラ機能検査、超短波(VHF)検査を経て、8月14日にエンジンに初点火し、8月25日からは滑走路での地上試験、ブレーキテストを行った。
8月30日、日航製は200人以上のマスメディアを招き、実況中継放送が行われる中、1号機は初飛行した。「YS-11 PROP-JET」と描かれた機体には、テストパイロットとして正操縦士に飛行整備部飛行課長の近藤計三、副操縦士に長谷川栄三が搭乗、名古屋飛行場から伊勢湾上空を56分間にわたって飛行し、各種試験、およびマスメディアへのデモンストレーションは成功裏に終了した。
10月には全日本空輸(以下、全日空)との間で20機の予備契約が調印され、量産を開始した。しかし、全日空は後述する試作段階での三舵問題等の諸問題の発生から、正式な購入契約が交わされたのは2年後の1964年(昭和39年)であった。全日空では第一次受領分は3機とし、開発の遅れや日航製の改善要求の対応のまずさから不信感を増し、生産ラインが安定する10機目以降とするとの要求に加えて、一定の運航実績を積むまでは契約価格の一割の支払いを留保する条件とした。日本国内航空や東亜航空も全日空と同様に、初期の導入機体は一定の運航実績を積むまでは契約価格の一割の支払いを留保するとの条件を出していた。また、日本航空も初期の開発段階の1963年(昭和38年)に5機の仮発注を行っていたが、国際線主体の日本航空では自社路線の適性となる路線が少ないことから本契約に至ることはなかった。国家プロジェクトにナショナル・フラッグ・キャリアとして協力する姿勢を表明する、アドバルーン的意味合いが強かったと言われている
問題と克服
開発段階から操縦性の悪さが露呈していた。12月18日には皇太子明仁親王を招いての完成披露式典が羽田空港で開かれ、その数日後に試作機2号機(1002)が初飛行を実施、2機による本格的な飛行試験が開始されたが、空力特性が悪いため振動と騒音が発生し、性能にも重大な影響を与えていた。横方向への安定不足は特に深刻で、プロペラ後流によって右方向へ異常な力が働き、全ての舵も効きが悪く、操縦性は最悪の癖を抱え、試験中にきりもみを起こして墜落の危機に直面することもあった。いわゆる「三舵問題」である[7]。
これらは、輸出に必要なアメリカ連邦航空局(FAA)の型式証明の取得の審査でも問題が指摘され、大規模な改修を余儀なくされた。この改修に予想以上に手間取ったため、マスメディアからは「飛べない飛行機」などと散々にこき下ろされた。全日空は納入の遅れがはっきりしたため、競合機種であったフォッカーF27 フレンドシップを導入した。
初飛行を見届けて三菱に戻っていた東條も問題解決のため再び日航製に復帰し、改修作業に加わった。横安定については主翼の上反角を4度19分から6度19分に持ち上げればよいとの結論を出したが、設計の変更と再組み立てには1年かかると見込まれた。そこで、川崎の土井の提案により主翼の付け根に角度2度のくさび型部品(通称:土井のくさび)を挟み込むことで上反角を変更した。これにより機体を前方より見ると、主脚が「八」の字のようながに股のようになっている。操縦性の悪さは方向舵のバランスタブを、新考案のスプリングタブに変更して[8]、右偏向はエンジン取り付け部(エンジンナセル)の後ろに三角形の突起(通称、三味線バチ)を取り付けることで解決、また、地上でのステアリングの効きを良くするため、主脚を後方へ傾斜させ、車輪の位置を後退させた。これらの変更は組み立てが開始されていた量産機にも適用された
これらの大改修により、FAAの型式証明取得の再審査では耐空類別T類に必要な片発離陸(離陸直後のエンジントラブルで片方のエンジンが停止しても安全に離陸できるかを試すテスト)をクリアし、FAAの型式証明を取得している。
全日空のYS-11
就航
1964年(昭和39年)8月に運輸省(現国土交通省)の型式証明を取得し、国内線向けの出荷と納入を開始した。初飛行から型式証明取得まで、1号機の試験飛行は540時間、2号機は460時間であった。9月9日には全日空にリースされた2号機(JA8612)が東京オリンピックの聖火を日本全国へ空輸し、日本国民に航空復活をアピールした。この聖火輸送に因んでその後、全日空が導入したYS-11には機首に「オリンピア」の愛称がマーキングされたが、機体や全日空の時刻表には「YS-11」の型式名や機種名は記されていない。表面上は聖火輸送の実績に由来した名称と説明されていたが、当時の日航製の開発が遅れていたことや、日航製の経営資金の枯渇から経営不安説も流れ、倒産した場合、倒産した会社の飛行機の名称をそのまま使う事態を避ける思惑が全日空にあったと言われている。他にも、米国の最有力顧客となったピードモント航空も、当時の米国では日本製品の信頼性が高くなかったことから、乗客のイメージを配慮して、広告宣伝や時刻表には「ロールスロイス・プロップジェット」と表記し、日本製航空機であることや、YS-11の機種名の表示は行わなかった
1965年(昭和40年)3月30日に量産1号機(2003)を運輸省航空局に納入、4月からは航空各社への納入が始まった。9月にはFAAの型式証明も取得して、輸出の体制が整った。
民間航空会社に最初に納入されたのは1965年(昭和40年)4月10日に東亜航空に引き渡された量産型2号機JA8639(S/N2004)であったが、納入した国内の航空会社で最初に定期路線で就航させたのは日本国内航空である。運輸省の量産一号機の翌々日の4月1日に、東京(羽田) - 徳島 - 高知線で定期航空路線の運用を開始した。
日本国内航空は量産機の発注を行っていたものの、納入が路線開設に間に合わず、試作2号機を1965年(昭和40年)3月11日に日航製からリースして間に合わせたものである。この試作2号機は全日空が聖火の輸送で使用したものであり、日本国内航空では自社塗装に塗り直し、「聖火号」(初代)と命名して就航させた。因みに日本国内航空が最初に受領したのは量産型4号機(S/N2006)JA8640で、1965年(昭和40年)5月15日に納入され、「真珠号」と命名されている。同年12月8日に量産型14号機(S/N2006)JA8651を受領し、「聖火号」(二代目)と命名し、初代「聖火号」を日航製に返却した
その後、YS-11の定期運航は日本国内航空に続き、1965年(昭和40年)5月10日に東亜航空が広島 - 大阪(伊丹)線、大阪 - 米子線に就航、同年5月31日に南西航空がリース契約で受領し、同年6月8日に那覇 - 宮古線に就航した。同年7月29日には全日空が受領し、同年9月20日に大阪 - 高知線で就航した。南西航空がリース契約となったのは、本土復帰前の沖縄では航空機登録制度が未整備で、南西航空への売却であっても表面上はリース契約とせざるを得なかったからである。南西航空は本土返還後に正式に購入した。
遅れて1969年(昭和44年)4月1日に、日本航空が日本国内航空よりウエットリースで福岡 - 釜山間で初の国際線の就航を始めて、当時の主要国内航空会社がYS-11の定期旅客運航を行ったことになった。日本航空では同路線の就航をボーイング727で計画していたが、同じ路線を運航する大韓航空の機材がYS-11であったことから、機材に差が出ることを嫌った韓国政府の意向から日本航空も同じとせざるを得なくなり、日本国内航空から調達したものであった
YS-11-100は運航を重ねるにつれ、主脚の異常、脚開閉扉の設計ミス、外板継ぎ目からの雨漏りによる電気系統不良などの欠陥が判明し始めた。そのたび、日航製職員や航空会社の整備士は改修のため徹夜の連続となった。この経験は、1967年(昭和42年)のYS-11A(2050以降)の設計に生かされた。
輸出
1964年(昭和39年)1月15日に日本機械輸出組合と日本航空工業界による「航空機東南アジア・豪州市場調査団」が日本国外に派遣されたのを始めとして、日航製による日本国外の営業が繰り返された。しかし、日航製には航空機販売のノウハウがないことから、総合商社の販売ネットワークに頼ることとなった
YS-11の最初の輸出は1965年(昭和40年)10月にフィリピンのフィリピナス・オリエント航空であった。戦争賠償の一環として2012号機が引き渡された。同社はその後最大4機のYS-11を保有した。
無名で実績のない日航製が日本国外で販売するには実機を見せるほかに宣伝の手段はなく、YS-11は積極的に日本国外へ飛行し、デモンストレーションを行った。まず、1966年(昭和41年)9月15日から10月13日にかけて北米へ渡航、アメリカ合衆国のサンフランシスコ・デンバー・セントルイス・ワシントンD.C.・マイアミを飛び、近距離路線を運航する中堅航空会社であるピードモント航空やハワイアン航空からまとまった数の受注を得ることができた。しかし、ピードモント航空では使用機材を例に機体仕様で多くの改善オプションを要求され、ハワイアン航空からリース契約で3機の輸出を行ったものの、搭乗口の低さ、騒音、振動、キャビンのデザインが不評で、僅か一年で全機が返却されてしまった。この反省が後のYS-11Aの開発で活かされることになった
1967年(昭和42年)は1月25日から3月15日にかけて南アメリカのペルー・アルゼンチン・チリ・ブラジルをデモ、10月11日と12日にベネズエラ、12月2日から12日にカナダ、1968年(昭和43年)8月27日から10月28日にかけてはイギリス・西ドイツ・スウェーデン・イタリア・ユーゴスラビア・ギリシャ・サウジアラビア・パキスタン・ネパール・ビルマ・タイ・マレーシアを精力的に回ったが、アジアの多くの途上国では購入予算がないため受注をほとんど得ることはできなかった。その後ブラジルやアルゼンチン、ペルーでまとまった数の受注を獲得した。しかし、ヨーロッパでは競合機が多いため、ギリシャのみの受注となった。
1968年(昭和43年)のデモフライトではイギリスのファーンボロ・エアショーにも出展した。この出展でギリシャのオリンピック航空との商談が成立した。オリンピック航空では短期リースの2機を含め、最盛期には10機のYS-11を保有した[4]。当時のファーンボロ・エアショーでは、欧州の航空機メーカーの出展に限定されていたが、YS-11はロールス・ロイス社製のエンジンを搭載していることから、英国製に類するとして特別に出展が認められ、デモフライトを実施することができた
1969年(昭和44年)にも2月27日から3月1日にメキシコ、12月3日から1970年(昭和45年)2月14日にかけてモロッコ・セネガル・カメルーン・ガボン・ザイール・中央アフリカ・ザンビアを飛行、同時に1月18日から22日にシンガポール、6月20日から7月9日にかけてエジプト・ケニア・スーダン・南アフリカ、7月28日から8月3日にベトナム戦争中の南ベトナムサイゴンへ飛行し、いくつかの受注を獲得することができた。
ピードモント航空のYS-11
相次ぐ受注
デモフライトが功を奏し、知名度が高いピードモント航空からのオプションを含む20機の発注により信頼を得たことも手伝い、アメリカやブラジルを中心として日本国外からの受注が相次いだ。生産数は徐々に伸び、1967年(昭和42年)末には小牧工場は月産1.5機から2機に増産した。1968年(昭和43年)末に確定受注が100機を超え、この年だけで50機以上を新たに受注している。1969年(昭和44年)4月17日には全日空に量産100号機(通算102号機)を納入し、輸出は7カ国15社に達した。7月には当初の量産計画(150機)を上回る180機の量産計画が認可された。小牧工場は月産3.5機となり、順番待ちで発注から納入まで1年以上かかることもあった。しかし、この好調な日本国外への販売がその後の生産中止の引き金となった。
生産終了
安定的な販売網の構築を待たずに売上は鈍化し始めた。特に日本国外での販売では競合国並の長期繰り延べ低金利払で対抗せざるを得なくなったことや、第二次世界大戦後の日本で初めて作った機体のため、実績不足から足元を見られて、原価を割った値引き販売を余儀なくされることも珍しくなかった。また、宣伝費などの販売、営業関連費を初期コストの中に換算していなかったなど、原価管理も杜撰であったと言われている。加えて、航空機製造各社の寄せ集め所帯であったことで責任の所在が曖昧となり、納入部品価格の引き下げもままならず、官僚の天下りが増加したことで社内に公務員気質が蔓延し始め、抜本的な経営改革が行われず赤字を加速させて行った。
特に日本国外での営業活動の赤字が当時予期せぬ変動相場制の移行で為替差損が発生した以外にも、会計検査院で指摘された米国での営業活動に日航製の問題が内因している。後述するYS-11Aの改造で米国国内の販売代理店を希望したノースカロライナ州に本社がある中古航空機や航空部品の販売ディーラーであるシャーロット・エアクラフト社のコードウェル社長が積極的な営業参加の意思表示を示し、同社と北米・中南米・スペイン地区の独占代理店契約を結んだ。しかし、同社は実質的な営業活動を行わず、三井物産と日航製の営業活動でピードモント航空と売却契約が締結されると、シャーロット・エアクラフト社は地区独占代理店契約を盾に多額の手数料を要求し、ピードモント航空やクルゼイロ航空からYS-11の販売で下取りした33機の中古機をシャーロット・エアクラフト社に渡すなど、会計検査院から不当な取引と指摘された。国会で問題になり、日航製の専務が引責辞任する事態となった。日航製は旅客機の販売の実績もなかったことで、シャーロット・エアクラフト社に対しての信用調査や、業務の内容や、販売しなかった場合のペナルティの取り決めなどもない杜撰な契約内容だったからである。シャーロット・エアクラフト社の地区独占代理店契約解除に、2億3,000万円の支出や下取り機を渡さなければならない失態を演じた。
他にも、航空会社の経営者からリベートを要求されたり、支払いの延べ払いには大蔵省や通産省の了解が必要となり、了解が得られなかったことで契約に至らなかった例が少なからずあったと言われる。
加えて、プロダクト・サポートも十分でなく、インドネシアのブラーク航空との間では補給部品の供給ができず、欠航が相次いだことから航空会社の信用を失墜させてしまい、リース料の支払いを拒否され訴訟になるなど、日航製の特殊法人としての甘さが指摘されていた。また、輸出先の航空会社は遠隔地が多く、遠隔地の輸出先の航空会社から、しばしば日航製の負担で部品の預託や部品の販売センターの設置が要求されていたが、その要求を受け容れることはなかった
日本航空機製造の経営赤字は1966年(昭和41年)の航空機工業審議会の答申で既に提言されていた。1970年(昭和45年)3月末で80億円の赤字、1971年(昭和46年)3月末で145億円の赤字となっていた。この赤字は1970年から1971年にかけて国会で野党から追及される材料にもなった。このため航空機工業審議会では銀行代表団による経営改善専門委員会が設けられ、赤字の要因と今後の対策が検討された。
経営改善専門委員会は1971年4月27日に、同じ航空機工業審議会の政策委員会に改善策の最終案を報告した。その内容は、
- YS-11はその段階で認可されていた180機で製造を打ち切り
- 1972年(昭和47年)度末の時点で一切の累積赤字を解消する
- 1973年(昭和48年)度以降の日本航空機製造はYS-11に関しては売却した機体の売掛金回収と、補修部品の供給などに専念する
とされた。