軍用無線のブログ JA2GZU suzuki shinichi

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2020年09月


 電気興業のあゆみは、大正14年、当時、時代の要請であった海外との無線通信の充実を図るため設立された国策会社、日本無線電信株式会社(後に国際電気通信株式会社)に遡ります。同社は発足後まもなく、愛知県碧海郡依佐美村(現在の愛知県刈谷市高須町)に依佐美送信所を開設、昭和4年から本格的に対外通信を開始しました(送信所は、平成5年に閉鎖しております)。

その後、第二次世界大戦の終結に伴い、国際電気通信株式会社が解散されたことにより、同社の第二会社として、昭和25年、電気興業株式会社が設立されました。

当社は、国際電気通信株式会社から受け継いだ豊富な技術経験を基に、技術陣および施設の充実を図り、通信・放送施設の設計・建設・改修の工事業務を中心に、各種アンテナならびに鉄塔、マイクロ波中継用平面反射板、送受信局舎、伸縮柱などの設計・製作・建設などの電気通信施設に関する事業を順次拡大してきました。

また、事業の拡大政策の一環として、高周波エネルギーを利用する焼入設備・高周波応用機器の製作や焼入受託加工についても進出し、多くの実績を誇っております。 さらにそれらによって得た豊富な経験と実績を基盤として、海外にも積極的な事業展開を進めてまいりました。

当社が手がけてきた今日までの事業に対しては、各方面より多大なる評価をいただいております。


創業の時代

1950年(昭和25年)

  • 6月1日 電気興業株式会社創立
  • 国策会社である国際電気通信株式会社の第二会社として資本金5,000万円で設立、依佐美送信所を引き継ぐ
  • 民放第一号の中波放送用(ラジオ)アンテナ初受注

1952年(昭和27年)

  • 高周波応用機器の製作・高周波熱処理加工を開始
  • 建設機械補修用部品の焼入れ受託業務初受注
  • 依佐美出張所を開設し、送信施設を防衛施設庁に賃貸

1953年(昭和28年)

  • 北海道出張所(現北海道支店)開設
  • [東京地区でテレビ放送を開始]

依佐美送信所の歴史

明治維新以来わが国の対外通信は、欧米の電信会社が所有する海底電線によらなければなりませんでした。このような対外通信施設の不備は、外交上・通商上の不利益をわが国にもたらしました。こうした時代背景と海底電線の短所を補うため、また、国際通信の自主性を保つために、無線通信の研究が本格化しました。当時、長距離通信は電力を増すと同時に、波長を長くしなければならないと考えられていました。
一方、大正14年、議会で日本無線電信電話株式会社法案が通過、同社が設立され、電信電話事業が政府管掌から半官半民の会社でも運営できることになりました。 そこで、新たに建設される対欧無線局依佐美送信所は大電力の長波送信所として設計され、昭和2年7月に着工、同4年に完成し、本格的に運用を開始しましたが、実用化されたころには、短波通信が比較的小さな電力でも遠距離通信に有効なことが判明し、その結果、短波による対外通信が大いに普及するところとなりました。その一方で地球の広い範囲をくまなくカバーするためには、大電力の長波送信でなければならないこともわかってきたため、長波通信は特殊な通信手段としてのみ利用されることとなりました。


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                  送信所開設(昭和4年)

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                   設立当時全景

戦後、施設は米国に貸与され、使用されてきましたが、平成5年に米国から送信所の閉鎖の通告を受け、翌年8月に全面返還となり、送信所の施設も撤去の方向へと話が進められました。これに伴い、平成7年11月から空中線及びコイルハウスの撤去工事が始まり、平成8年7月より鉄塔の全面撤去が行われ、平成9年3月に工事が完了し、その使命を終えることとなりました

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               鉄塔(高さ250mの鉄塔が8本そびえていました) 
   

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                本館全景


           
            
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                 送信室全景


平成21年5月に、旧依佐美送信所で使用されていた無線送信設備が、IEEEマイルストーンに認定されました。
 
旧依佐美送信所で使用されていた無線送信設備は、現在愛知県刈谷市の「フローラルガーデンよさみ」内にある依佐美送信所記念館に保存展示されています。これらの無線送信設備は、2009年5月19日にIEEEマイルストーンとして認定されました。IEEEマイルストーンとは、IEEE、すなわち米国電気電子学会が電気・電子技術やその関連分野において社会に大きく貢献した発明や技術開発を称えて表彰するものであり、1983年に制定されました。2009年現在、全世界で80件以上が認定されており、旧依佐美送信所で使用されていた無線送信設備は日本で9番目の認定となりました。

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         300
                依佐美送信所記念館
               


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                  記念館内部の様子

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                    ローディング型コイル


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                 直流電動機(手前)と交流発電機(奥)



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            203
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高度成長の時代

1955年(昭和30年)

  • 九州出張所(現西部支店)、大阪出張所(現大阪支店)開設

1956年(昭和31年)

  • 初の国産テレビ放送用アンテナ受注
  • 東京タワー向けテレビ放送用アンテナ受注

1958年(昭和33年)

  • [東京タワー完成「テレビ時代」の到来]
  • [東京の電話機50万台]

1960年(昭和35年)

  • 川越工場(現川越事業所)を建設し、無線鉄塔、鉄鋼構造物などの製作を開始

1961年(昭和36年)

  • 電電公社本社向けパラボラアンテナ初受注
  • クランクシャフト自動焼入装置製作

1963年(昭和38年)

  • 名古屋出張所(現名古屋支店)開設


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                 初の国産テレビ放送用アンテナ

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                   通信パラボラアンテナ  

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                    クランクシャフト自動焼入設備
           

激動の時代

1965年(昭和40年)

  • 浜松工場(現在、デンコーテクノヒート株式会社に賃貸中)を建設し、高周波誘導加熱処理受託加工を拡大

1966年(昭和41年)

  • 松山出張所(現中四国支店 四国営業所)、仙台出張所(現仙台支店)開設

1967年(昭和42年)

  • 鈴鹿工場(現在、デンコーテクノヒート株式会社に賃貸中)を建設し、高周波誘導加熱処理受託加工を拡大
  • [モータリゼーションにより自動車保有台数1,000万台]
  • [テレビ受信契約数2,000万突破]

1968年(昭和43年)

  • 厚木工場を建設し、高周波応用機器の製作および高周波誘導加熱処理受託加工を拡大
  • [加入電話1,000万台突破]

1970年(昭和45年)

  • 広島出張所(現中四国支店)開設

1972年(昭和47年)

  • 鹿沼工場を建設し、各種アンテナの製作を開始

                  

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                        海外向け19mパラボラアンテナ

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                       バルブロッカー全自動ロー付焼入装置
  

安定成長の時代

1978年(昭和53年)

  • 自動車電話基地局用アンテナの製作を開始

1981年(昭和56年)

  • 川越工場を建設し、鉄塔などの鋼構造物の製作を強化

1985年(昭和60年)

  • 厚木工場の隣接工場を買収し、高周波応用機器の製作を拡大

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海外向け19mパラボラアンテナ


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                    FF等速4ジョイント全自動焼入装置

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                     海外マイクロ鉄塔  

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               臨界プラズマ試験装置(JT-60)用加熱装置の開発



1991年(平成3年)

  • 超長波大電力送信施設を建設し保守運転業務を開始
  • 滋賀工場(現在、デンコーテクノヒート株式会社に賃貸中)を建設し、高周波誘導加熱処理受託加工を拡大
  • 携帯電話用基地局アンテナの製作を開始

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                     超長波アンテナ 


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                    マルチメディアタワー


1992年(平成4年)

  • 電子線照射装置(エレクトロンシャワー)販売開始
  • 西独(当時)アルフィン社と技術提携し、追従型クランクシャフト焼入設備販売開始


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                      電子線照射装置
              

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                   追従型クランクシャフト焼入設備本体


1994年(平成6年)

  • PHS用基地局アンテナの製作を開始
  • 東海テクノサービスセンターを開設し、高周波誘導加熱処理受託加工を拡大(現在、デンコーテクノヒート株式会社刈谷工場に賃貸中)
  • 薄スラブ用誘導加熱システム販売開始

                  
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                       薄スラブ用誘導加熱システム


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                       PHS用基地局アンテナ

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                     テレビ放送中継用217m鉄塔


1997年(平成9年)

  • 依佐美送信所を閉鎖、70年の歴史に幕
  • 川越事業所、川越工場、鹿沼工場、厚木工場が、品質管理システム(ISO 9000s)の認証取得

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                    携帯電話基地局


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                     移動通信用鉄塔

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                   地上デジタル放送用アンテナ


1999年(平成11年)

  • 地上デジタル放送共同実験アンテナ(全国7地区)工事受注

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                     長波標準電波局250m鉄塔

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                   地上デジタル放送実験設備(東京タワー)


IT革命がひらく新世紀へ

2000年(平成12年)

  • 会社創立50周年
  • 鹿沼工場が環境マネジメントシステム (ISO 14001) の認証取得
  • [携帯電話の加入数5,000万突破(平成11年度)]
  • [ PHSの加入数570万(平成11年度)]
  • IMT-2000用携帯電話基地局アンテナ受注

                    
                      500
               
                       
地上デジタル


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                      MT-2000用携帯電話アンテナ   
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                     地上デジタル放送用アンテナ

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仙台地区地上デジタル放送対応大型鉄塔

 





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                     第二長波標準電波局200m鉄塔


                 
               603

東京地区地上デジタル放送設備受注(東京タワー向け)

  • 川越工場/関係会社((株)デンコー)が環境マネジメントシステム(ISO 14001)




1925年国策会社である日本無線電信株式会社の設立
1929年依佐美送信所開局
1950年旧国策会社の第二会社として電気興業株式会社を設立
電気通信施設の設計・製作・建設・改修などの業務を開始
1952年高周波応用機器の製作、高周波熱処理加工業を開始
1959年東京証券取引所にて株式店頭公開
1960年川越工場(現川越事業所)を建設 無線鉄塔、鉄構などの製作を開始
1961年東京証券取引所第二部に上場
1968年厚木工場を建設 高周波応用機器の製作および熱処理受託加工業務を拡大
1972年鹿沼工場を建設 各種アンテナ製作業務を開始
1990年東京証券取引所第一部に上場
1990年タイに通信用鉄塔の関係会社、DKK Sino-Thai Engineering Co., Ltd.を設立
1991年えびのテクノセンターを開所 超長波大電力送信施設の保守運転業務を開始
1997年依佐美送信所を閉鎖 70年の歴史に幕を閉じる
1999年おおたかどや山 標準電波送信所の保守運転業務を開始
2000年会社創立50周年
2001年はがね山 標準電波送信所の保守運転業務を開始
2002年東京タワーにデジタル放送用アンテナを設置(2003年より放送開始)
2004年アメリカに高周波応用機器関連の関係会社、DKK of America, Inc.を設立
2012年タイに通信用アンテナおよび高周波応用機器関連の関係会社、DKK (THAILAND) Co., Ltd.を設立
中国に高周波応用機器関連の関係会社、電気興業(常州)熱処理設備有限公司を設立
2013年タイに電気通信・高周波の両部門における海外生産拠点としてDKK MANUFACTURING (THAILAND) CO., LTD.を設立
2017年メキシコに高周波部門の受託加工関連の関係会社、DTHM,S.A.DE C.V.を設立
2018年韓国に高周波部門の海外生産およびメンテナンス拠点として韓国電気興業株式会社を設立

製品紹介

携帯電話の基地局アンテナや放送用アンテナなど、超長波からミリ波にいたる各種アンテナ、付帯装置をはじめ、鉄塔から局舎まで、開発・設計・製作・建設を一貫して手がけています。メンテナンスなどのアフターサービスまでを含めたトータルシステムは、お客様の高い信頼を得ています。

取り扱い周波数

VLF
超長波は非常に長い波長を持ち、地表面に沿って遠くまで伝わります。低い山なら越えることができ、さらには水中までも伝わることができます。
送信設備は非常に大きなものが必要となりますが、当社では全長が数百メートルにもなる超大型アンテナも、設計・製作・建設・保守までご提供することができます。

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LF
長波(LF)  30KHz~300KHz

長波の特徴は、直進性が低く、障害物を回り込みながら遠くまで伝わるという点です。日本標準時を全国に伝える標準電波施設や、海上交通に安全をもたらす位置情報を提供する電波標識などの公共サービスにおいて、主に利用されています。

はがね山標準電波送信所

標準時刻を伝える標準電波送信所は全国に2か所あり、どちらも当社がアンテナ設計・製作・設置工事・メンテナンスにいたるまで、一貫して手がけています。

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MF
中波(MF) 300~3000KHz

中波は、電波が安定して遠くまで伝わることから、主に中波放送(AMラジオ)や船舶通信、ロラン(無線航法)などに使用されています。

中波ラジオ送信所
当社は、国内はもちろんのこと海外にも数多くの中波ラジオ送信所を建設してまいりました。エリアの検討から設計・製作・施工はもとよりメンテナンスに至るまで、トータルでお手伝いすることが可能です。

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HF
短波(HF) 3~30Mz
短波は、地球の上空をとりまく電離層と地表の間で反射を繰り返して遠くまで届くという性質があり、短波ラジオ放送や遠洋の船舶通信、国際線航空機用の通信、国際放送およびアマチュア無線に広く利用されています。

短波ラジオ放送アンテナ
短波の性質を利用して、国外へ電波を送信する短波ラジオ放送アンテナをはじめ、当社は、これまでの経験と知識を生かし、カーテンアンテナやダブレットアンテナなど各種短波帯用アンテナをご提供しています。

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VHF
超短波(VHF) 30~300MHz
超短波は、直進性がありながらも、障害物もある程度回り込んで伝わることができます。短波に比べて多くの情報を伝えることができるため、テレビ放送やFMラジオをはじめとして船舶・航空機の通信、防災行政無線、警察無線、消防無線、アマチュア無線など、幅広く利用されています。
 

VHFテレビ放送アンテナ
当社は全国各地に双ループアンテナやダイポールアンテナなど、テレビ用送信アンテナを数多く納入しています。エリア検討から現地調査・設計・施工といった、検討から開局までのすべてをサポートします。アンテナのみならず、アンテナ設置用の鉄塔から無線局舎まで、トータルでご相談ください。
                

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防災無線中継施設

超短波は放送向け以外にも、船舶・航空機の通信、防災行政無線、警察無線、消防無線、アマチュア無線など、幅広く使用されています
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極超短波(UHF) 300MHz~3000MHz
現在最も利用されているのが、この周波数帯です。超短波よりさらに直進性は高くなりますが、伝えられる情報量が大きく、また、小型のアンテナや送受信設備で通信が可能であることから、携帯電話や地上デジタル放送、警察無線、タクシー無線、航空・気象レーダー、アマチュア無線などに幅広く利用されています。

移動通信基地局

携帯電話などの移動通信の中継設備である基地局用の、アンテナ・鉄塔・周辺機器の製作からアフターサービスまで、一貫して承ります。建設地や使用周波数など、あらゆる条件に応じて最適なご提案をいたします。

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テレビ放送送信所(親局)
テレビ放送はアナログ放送からデジタル放送へとシフトしています。デジタル化に伴い、テレビ放送の送信施設もデジタル放送用へと切り替わっています。各地の親局においてもアンテナ・鉄塔・建設工事まで一括してご提供しました。
※親局:放送電波を受信する代表的な送信所

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テレビ放送送信所(中継局)
親局からの放送電波が届かない地域には、中継局を介して送信が行われます。中継局においても設置される地域に合わせたエリアの検討から、アンテナの製作・設置工事・現地調整、さらには鉄塔の強度検討から設計・施工・メンテナンスまで、一貫して承ります。

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マイクロ波(SHF) 3~30GHz
伝えられる情報量が非常に大きいことから、放送番組中継(STL/TSL/TTL)や各種レーダー(気象など)、衛星通信・衛星放送などに使用されています。当社では、各種口径のパラボラアンテナやFPU回転装置をはじめ、反射板など、マイクロ波通信回線に不可欠な設備をご提供します。

マイクロ波通信アンテナ
放送局が現場で取材した映像・音声データをマイクロ波にて放送局へ伝送する際に必要不可欠な設備がFPU回転装置です。当社は各種タイプを取り揃え、日本国内のみならず海外へも輸出しています。

                                     
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FPU回転装置 
放送番組の中継はFPU回転装置にて放送局やFPU基地局へマイクロ波伝送されます。放送電波の受信に欠かせないFPU回転装置もさまざまな条件に対応した製品をご提案いたします

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衛星用通信アンテナ
衛星通信において、映像、音声、データの相互通信を行うVSAT用、Ku-Bandのオフセット小型アンテナです。

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ミリ波(EHF) 30GHz以上
ミリ波は非常に大きな情報量を伝送することができ、各種レーダーをはじめ、簡易型地上通信や各種衛星通信などに利用されています。当社では、お客様のご要望に応じた各種ミリ波アンテナの検討・開発を行います。

加入者無線パラボラアンテナ
37GHzで実験用に試作した0.3mパラボラアンテナです。お客様のご要望にお応えするアンテナを設計・製作します


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加入者無線平面アンテナ
60GHz帯で実験用に試作した平面アンテナです。さまざまな条件に応じ、ご提案します

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使用シーン

携帯電話で通話をしたりインターネットをしたり、そしてテレビやラジオを視聴したりするために欠かせない「アンテナ」。当社ではそのアンテナとアンテナを搭載する「鉄塔」の製作、建設工事を行い、日常生活に欠かせない「通信」をより快適に利用していくための環境を構築しています。ここではその一例をご紹介します。

携帯電話設備

携帯電話がつながるために必要となるのが右写真のような「基地局」です。当社はその基地局を製作することにより携帯電話通信網を支えています。

携帯電話がつながる仕組み

(1)電話をかけた人から一番近い「基地局」に電波がつながります。
(2)基地局で受信した電波は、電話局の固定電話回線へと送られます。
(3)電話局の固定電話回線を利用して、通信相手に一番近い基地局まで送られます。
(4)基地局から送られた電波が、通信相手の携帯電話につながります。

※中継方式の一例です。
                 
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携帯電話を中心とした各種移動通信のインフラ整備を行っています。移動通信は「基地局」と呼ばれる中継設備を介すことで通信が可能になり、当社は基地局用のアンテナ・鉄塔・周辺機器の製作から、建設工事・メンテナンスなどのアフターサービスまでトータルでサービスをご提供しています。

基地局アンテナ
携帯電話を中心とした各種移動通信のインフラ整備を行っています。移動通信は「基地局」と呼ばれる中継設備を介すことで通信が可能になり、当社は基地局用のアンテナ・鉄塔・周辺機器の製作から、建設工事・メンテナンスなどのアフターサービスまでトータルでサービスをご提供しています。

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ビームチルト角制御
携帯電話などの基地局では、通信品質の確保を目的として無線ゾーン整形が行われています。これに利用されているのがアンテナの垂直面指向性制御、即ち、ビームチルト角制御です。 当社では、お客様のご要望に沿って、遠隔チルト角制御システム機器、ハンディタイプコントローラ、集線装置などを提供しています。また、独自のシステムをお持ちでないお客様向けにはAISG対応機器をご用意しています。
    
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小形アンテナ
移動通信の高速化・大容量化に伴い、通信帯域を確保したり、電波の届きにくい場所をカバーするために、各種の小型アンテナが活躍しています

小型アンテナ
山間部や建物の陰などの電波が届きにくい場所では、軽量・小型の基地局アンテナによって通信がサポートされています。
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屋内設置型アンテナ
地下街やビル屋内など、電波が届きにくい場所においては、屋内設置型アンテナで通信エリアを確保できます。周囲の景観との調和とアンテナとしての機能の両立を実現しています。
   
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可搬型アンテナ
イベント開催時などの通信量の一時的な急増に備えて、暫定的な基地局を設置できるアンテナです。小型・軽量で可搬性に優れており、災害時における迅速な通信網の確保にも活躍しています。

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WiMAX
高速無線移動通信の世界的な規格であるモバイルWiMAX向けの製品です。携帯電話向けの製品で培ってきたノウハウを生かし、高速・大容量のデータ通信をサポートしています。

偏波共用セクターアンテナ
水平・垂直偏波共用のセクターアンテナです。3本のアンテナを一組にして360度全周をカバーするような使い方をされることが多いですが、1本で特定の方向だけをカバーをするように使われることもあります。

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垂直偏波無指向性アンテナ
無指向性で、360度全周をカバーすることができるアンテナです。比較的小型のアンテナであるため、通信可能領域は偏波共用アンテナよりは狭くなりますが、基地局設置を容易に行えるという利点があります

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周辺機器
移動通信アンテナの設置の際に必要となる周辺機器をご提供しています。また、新規開発にも対応いたします

電力分配器
アンテナへの供給電力を分配します。あらゆる周波数帯、コネクタに対応します。
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ハイブリッド
アンテナへの供給電力を分配します。分配の方向性をもつタイプです。
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終端抵抗器
アンテナの使用されないポートに接続したり、ハイブリッドのアイソレーションポートに接続するために使用されます。
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移動通信鉄塔
基地局アンテナは概ね地上高30m~50mの範囲に設置されていることが多く、都市部ではマンションやビルの屋上に設置されており、郊外では鉄塔を建設して設置する方法がとられています。当社は、通信用鉄塔の厳しい建築基準をクリアするための高度な設計技術を有しています

アングルタイプ
国内で最も一般的な鉄塔です。主なる材料に山形鋼(アングル材)を使用し、アンテナ等の搭載変更・改造・補強などに比較的容易に対応可能な構造です。

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シリンダータイプ
主なる材料として大口径の鋼管(パイプ材)を使用した鉄塔です。景観に配慮した構造となっています
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三角パイプラーメンタイプ
主なる材料として比較的小口径の鋼管(パイプ材)を使用し、3本の主材を梁で繋ぎ、斜め材を無くした構造です。特性的に、アングルタイプとシリンダータイプの中間に位置した鉄塔です。
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伸縮柱
移動通信、電界強度測定に使用する伸縮柱です。当社独自の技術を生かして開発された電動式の伸縮柱は小型軽量、伸縮自在で、簡単に操作することができます。
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建設工事
コンサル設計・地質調査・行政対応から土木・外構・電気設備、鉄塔建設、アンテナ設置までトータルで基地局の建設工事を行っています。

基礎工事
杭工事から基礎工事まで、地質や地盤を考慮してトータル設計を行います。施工においても安全性を重視し、効率性も考慮した上で最適な工法を選定、一貫した施工管理を行います。
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鉄塔建設工事
鉄塔の規模・構造や建設する場所により、最適な建方工法を選定します。
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アンテナ設置
アンテナ据付工事では、測定・調査から実際に電波を出す最終調整まで、一貫した施工管理を行います。
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メンテナンス
アンテナや設備の劣化度合いや、鉄塔における鉄骨・鉄鋼構造物の劣化度合い、亜鉛めっき、塗装の劣化度合いなどを診断します。

劣化診断システム
点検する物件の基礎データに加え、画像解析判定機能をはじめとした各種機能からなるデータベース機能によって高精度、短期点検を可能としています。劣化診断結果に基づく補修工事では、調査から設計・積算・見積り・補修工事までを一貫してご提供いたします。

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放送
テレビ・ラジオなどの各種放送網のインフラ整備を行っています。地上デジタル放送の送信設備においては「地上デジタル放送用送信設備共通仕様書」に準拠したアンテナ・鉄塔の設計・製作、共用器、電源、局舎およびフィーダーを含めたトータルシステムでの一括請負工事で対応することが可能です。

放送用アンテナ(VHF/UHF)
放送電波を中継局やご家庭に送信するVHF帯・UHF帯の送信アンテナや、送信された電波を受信するUHF受信アンテナまで各種放送設備向けのアンテナを取りそろえています。

VHF送信アンテナ
マルチメディア放送用送信アンテナをはじめ、FMラジオ放送用アンテナなど、これまでの実績を基に各種検討から設計・製作まで対応します。
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UHF送信アンテナ
アナログTV放送用アンテナの実績をもとに、地上デジタル放送用送信アンテナをはじめとした各種アンテナの検討から設計・製作まで対応します
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受信アンテナ
UHF/VHF用のスタンダードなアンテナから妨害電波除去用の特殊アンテナまで、各種アンテナを取りそろえています。
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マイクロ波アンテナ(STL TTL TSL)
マイクロ波通信回線を支えるパラボラアンテナ、回線設計から製作、設置工事、現地調整まですべてをご提供します。

マイクロ波通信用パラボラアンテナ
偏波面共有や周波数バンド共有など、特殊パラボラも多数取りそろえています。ご希望の使用条件をお問い合わせください。
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中短波アンテナ

各ラジオ放送用を中心とした、中・短波用のアンテナを幅広く取りそろえています。国内のみならず、ODAとして政府機関を通じ、開発途上国のインフラ整備にも貢献しています。

ラジオ放送用アンテナ
中・短波用アンテナは主に、AM放送や短波放送などのラジオ放送に用いられています。当社では、アンテナ・鉄塔の製作から建設工事にいたるまで幅広く対応しています。
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ギャップフィラー
地上デジタル放送の受信対策として、良好に受信できる地点で受信した電波を難視聴地域に再送信するシステムです。


ギャップフィラー用アンテナ
専門メーカーならではの設計・製品製作はもちろん、施工までの一括管理にて、お客様のニーズに沿った置局のご提案・実現が可能です。

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その他のサービス
  • 受信点調査、エリア調査など
  • 光伝送路、ギャップフィラー工事
  • 受信鉄塔、設計製作、工事
  • 定期点検など
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鉄塔
各種アンテナに対応した鉄塔を開発・設計から製作、現地工事まで一貫して対応可能です。


放送用鉄塔
中継局用鉄塔は、地上デジタル放送においては、想定されるあらゆる条件に対応可能なラインナップを取りそろえています。共通部材の見直し、施工性の向上などにより、最大限のコストパフォーマンスをご提供します
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伸縮柱
各種アンテナ・小口径パラボラアンテナ・小型カメラなどが搭載でき、電界測定車、中継車、SNG車搭載用として優れた性能を発揮します。
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局舎
使用目的や設置場所、気象条件に応じてさまざまなスタイルの局舎をご提供します。組立工事が簡単なシェルタータイプから、耐震性・耐蝕性に優れているRCタイプまで各種対応可能です。

DK-Kシリーズ
組立式パネル構造のシェルタータイプの局舎です。現場での施工性に優れ、短期間での建設が可能です。
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RCタイプ
建設場所や使用目的に応じて設計し、ご提案します。また、現地工事の際は、現地調査から諸官庁への申請業務まで一貫してご対応します。
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電源装置
商用受電から、非常用発電装置まで、電源設備をトータルコーディネートします。デジタル放送設備への安定した電力の供給をお約束します。

非常用発電装置
商用発電が停止した際に、瞬時に起動する発電装置です。使用容量、必要対応時間に応じてご提案します。
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FPU回転装置
中継車や中継用ヘリコプターからの映像・音声データを確実に伝送する際に必要なFPU回転装置を各種取りそろえています。ヘリコプター自動追尾システムにも対応可能です。

回転装置
0.6mφから1.2mφの小口径パラボラアンテナ、周波数バンド共有や偏波面共有など各種のご要望に対応可能です。また、追尾受信機を搭載することにより、ヘリコプター自動追尾による中継が可能です。
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ローカル操作盤
ワンタッチでFPU回転装置を制御する、視認性に優れた操作盤です。アンテナの指向方向が一目で分かる地図による指針表示と、デジタル7セグLEDによる角度が表示されます。
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建設工事
アンテナから鉄塔・局舎・電源設備・各種装置据付まで放送局建設に関して一括して対応します
                     
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局舎・基礎工事
杭工事から局舎・基礎工事まで、地質や地盤を考慮してトータル設計を行います。施工においても安全性を重視し、効率性も考慮した上で最適な工法を実施いたします。
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鉄塔建設工事
鉄塔の規模・構造や建設する場所により、最適な建方工法を選定します。
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アンテナ設置工事
アンテナ据付工事では、測定・調査から実際に電波を出す最終調整まで、一貫した施工管理を行います。
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メンテナンス
アンテナ・鉄塔・局舎・電源設備・付帯機器などの放送設備に対し、長年培った高度な技術と幅広い知識で、その機能・特性面の点検調査や動作確認を行います。異常個所を早期に発見することで、設備を良好な状態に維持・管理することにご協力します。

劣化診断システム
点検する物件の基礎データに加え、画像解析判定機能をはじめとした各種機能からなるデータベース機能によって高精度、短期点検を可能としています。劣化診断結果に基づく補修工事では、調査から設計・積算・見積り・補修工事までを一貫してご提供いたします。
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情報通信
消防・防災向け通信から各種衛星通信など、さまざまな情報通信のインフラ整備を行っています。防災無線からバックアップ用衛星通信まで幅広い用途に対応しています。

消防救急デジタル無線/デジタル防災無線
消防救急無線および防災行政無線のデジタル化への移行に当たり、調査設計から施工、保守まで無線設備の構築を幅広くサポートいたします。

調査・設計業務
電波伝搬シミュレーター及び実験局による置局調査・設計や既設アンテナへの影響調査(キャンデラブラ検討)等の業務を行います。
                   

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アンテナ、共用器

所要エリアの確保および不要エリアの抑制などサービスエリアの形状に応じたカスタマイズを実現します。

各種鉄塔、局舎
アプローチ回線搭載タイプなど、バリエーションに富んだ標準鉄塔(アングル鉄塔、鋼管柱)や、組立工事が簡単であり、移設の容易性、耐震性・耐蝕性に優れた局舎を取り揃えております。

非常発電装置
全国の放送・通信施設で実績のある、各種電源装置を取り揃えております。

関連商品等
伸縮柱や地域情報ネットワークシステムなど、各種デジタル無線をサポートする商品を取り揃えております。

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富士無線中継所(山頂)戦前~戦後 逓信省~郵政省~電電公社~NTT西日本  東京大空襲早期警戒(B29警戒)

閉鎖されたNTT西日本富士山頂電話交換所

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室名 NTT西日本富士山交換所
 逓信省富士無線中継所の跡に立つ、三角形の茶色い建物がNTT西日本富士山頂交換所である。
 富士山での電話の歴史は以外に古く、明治時代の警察電話にはじまる。1907(明治40)年6月大宮町(現在の富士宮市)有志が、富士山頂に警察電話設置を当時の静岡県知事に誓願した記録が残っている。その2年後の1909(明治42)年7月20日、大宮警察署分署(現在の富士宮警察署)~山頂間と御殿場警察署分署(現在の御殿場警察署)~須走~山頂間に夏季の登山シーズンのみ電話が仮設された。
 1911(明治44)年からは逓信省としても登山者の便を図るためにこれを使用して公衆通信を行なうようになった。また、要所要所の山室にも電話機が設置された。
 しかし1944(昭和19)年から1946(昭和21)年の間は、戦時下・戦後の資材・労働者不足で一時公衆用としては使用を中止した。(ただし1944(昭和19)年、富士無線中継所建設工事ではこの電話回線はフル活用された。)
 1947(昭和22)年久須志神社隣の山室、扇屋に公衆電話が設置され、戦後の富士山の電話は再開した。翌1948(昭和23)年には廃止された富士無線中継所庁舎を利用して本格的に電話回線が敷設された。
 その後組織改変(逓信省→電々公社→NTT→NTT西日本)を経ながら現在に至っている



早期警戒レーダー(B29警戒)

日本軍のレーダー開発は、アメリカ、イギリス、ドイツなどの主要参戦国と比較すると大きく出遅れていた。それでも陸軍が「超短波警戒機甲」と「超短波警戒機乙」の開発に成功すると、1942年から「超短波警戒機甲」、1943年には「超短波警戒機乙」が優先的に日本本土の主に海岸線や離島に設置されて早期警戒網を構築した。一方で海軍のレーダー「電波探信儀」の配置は前線のラバウルウェーク島が優先されて、日本本土への配備はその後にされたが、設置された箇所は海軍基地や軍港周辺に限られた。レーダーの設置個所についても、陸海軍の連携はなく、隣接した箇所に陸海軍がレーダーを設置するなど無駄が多かった。それでも、B-29による日本本土空襲が開始される1944年後半には、関東、中京、阪神の太平洋側及び九州は全周囲に渡ってレーダー網を構築できた。日本海側にはほぼ設置されず、東北方面も手薄ではあったが、それでも大都市や工業地帯といった主要地域については十分カバーができていた。中でも八丈島に設置された「超短波警戒機乙」はマリアナから出撃するB-29を真っ先に捉えることができたが、乙型レーダーの探知距離は最大で250㎞であり、八丈島から東京までの距離が300㎞で合計550㎞の距離しかなく、巡航速度が約400㎞/hのB-29であれば一時間ほどで到達してしまう距離で、八丈島から報告を受けて日本軍が迎撃の準備を行う時間的余裕はあまりなかった。日本軍の警戒用レーダーの周波数がドイツ軍のレーダーとは異なっていたので、ヨーロッパ戦線で使用していたチャフの効果がなく、アメリカ軍は幅2.5㎝、長さ30mから100mといった長細いアルミフォイルでつくったチャフを新たに作成している。このチャフは形状から「ロープ」と呼ばれていた。

しかし日本軍のレーダーは、いずれも接近してくる航空機の高度や編隊の性格(直掩戦闘機の有無など)まで探知することはできず、また方向もおおまかにわかるといった原始的なものであった。そのため、レーダーを補うために哨戒艇や目視監視哨戒といった人の目のよる旧来の手段に頼らざるを得ず、しばしば、これら人の目による第一報がレーダーよりも正確な情報となった

日本軍は探知だけではなく火器管制レーダーについても配備を進めていた。大戦初期にシンガポールで鹵獲したイギリス軍のGL Mk.IIレーダー()をデッドコピーしたり、ドイツからウルツブルグレーダーの技術供与を受けたりして、「タチ1号」・「タチ2号」・「タチ3号」・「タチ4号」などの電波標定機を開発して本土防空戦に投入している。B-29が夜間爆撃を多用し始めると、日本軍は高射砲と探照灯の照準を射撃管制レーダーに頼るようになった。各高射砲陣地には「た号」(タチの略称)が設置されて、レーダーの誘導で射撃する訓練を徹底して行うようになり、6基~12基で1群を編成する探照灯陣地にもレーダーもしくは聴音機が設置されて、レーダーや聴音機に制御された探照灯がB-29を照射すると、他の探照灯もそのB-29を照射した

アメリカ軍は日本軍の射撃管制レーダーがイギリス製のものをもとに開発していることを掴むと、その対抗手段を講じることとし、B-29にジャミング装置を装備した。そしてB-29に搭乗してジャミング装置を操作する特別な訓練を受けた士官を「レイヴン」(ワタリガラス)と呼んだ。東京大空襲以降の作戦変更により、B-29が単縦陣で個別に爆弾を投下するようになると、爆弾を投下しようとするB-29は多数の日本軍火器管制レーダーの焦点となって、機体個別のジャミングでは対応できなくなった。そこで、アメリカ軍はB-29数機をECM機に改造して、専門的にジャミングを行わせることとした。そのB-29には18基にものぼる受信・分析・妨害装置が搭載されたが、機体のあらゆる方向にアンテナが突き出しており、その形状から「ヤマアラシ」と呼ばれることとなった。ヤマアラシは、1回の作戦ごとに10機以上が真っ先に目標に到着して、熟練したレイヴンの操作により電波妨害をして探照灯や高射砲を撹乱、聴音機に対してはエンジンの回転数をずらしてエンジン特性を欺瞞するなど、爆撃を援護し最後まで目標に留まった。


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          聴音機

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八丈島に設置された「超短波警戒機乙」はマリアナから出撃するB-29を真っ先に捉えることができたが、乙型レーダーの探知距離は最大で250㎞であり、八丈島から東京までの距離が300㎞で合計550㎞の距離しかなく、巡航速度が約400㎞/hのB-29であれば一時間ほどで到達してしまう距離で、八丈島から報告を受けて日本軍が迎撃の準備を行う時間的余裕はあまりなかった

八丈島末吉村に設置されたレーダーによって
キャッチされた敵機来襲の情報をいち早く東京に伝え本土空襲の備えにため
昭和19年にはいると太平洋戦争は徐々に戦況悪化いつつあり八丈島を最前線とする
本土決戦をとゆうことまで考えられ切迫した状況となつた 当時本土と八丈島間には
下田からの海底ケーブルがあつたが それは明治年間に布設されたもので故障が多く
しかも一度事故があれば数か月も通信が途絶する状態であつた
その年の4月 陸海軍両省は逓信院に対して東京~八丈島間に早急に電話回線を布設
するように依頼した しかし資材は払底しており 布設船も少なく新しく海底線を布設
することは到底不可能であつた そこで本省において種々検討の結果 新技術の超短波
を使用し八丈島~富士山~長津田とゆう無線ルートを選定し 長津田~東京は有線による
こととした


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長津田~八丈島無線ルート図

6月には綱島無線課長 黒川技師の一行による実地調査が行われ 八丈 長津田両方
の見通し点の朝日岳が決定し7月静岡電気通信工事局長へ工事命令が発せられた
山頂の厳しい立地条件の中で 短期間のうちに工事を完遂すべく工事局長を建設隊長
内藤沼津分局長とし破天荒な工事を着工した

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機器配置の略図            やぐら型空中線(富士山頂)


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これより前に 東京~大阪間の超短波方式工事中であつた
中継所の局舎は中央気象台の好意により旧観測所の建物を借用し
その場に簡易な宿泊施設を造ることとした

工事についての難問題は まず短期間に必要資材を頂上までいかに安全に
運搬するかとゆうことであつた 空中線は両端局への見通しを充分にするため
高さ10mとし 暴風雨に耐えるよう柵を組むようにした送信用 受信用
計4基の棒組電柱は7.5mを中心として300本以上を要した これら空中線材料
と送信機 受信機 電池 発電機 更に建設営繕材料を含めると重さ120トンにも
達した それに電力工事用のケーブルなど数10トンを含めて山頂まで運び上がかければ
ならかった
そこで太郎坊までは貨物自動車(代燃車の木炭車)を使用し そこから7合8尺までは
馬に頼った しかしその上については当時 浅間神社の御神域で馬で入ることはできなかつた
専ら人力によることとした山梨県側からも強力を動員して荷上げをおこなつた
3700mの頂上は気圧は下界の半分となり風の強い日が多く職員をはじめ地元運送業者
軍隊 学徒 強力ともども全員の血のにじむよう苦労を味わったのである
また工事に参加した方々の苦労は(富士無線中継所を語る)(昭和51年12月)に
記載されているので参照されたい

工事の概要

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 電力線ルート図


空中線は硬銅線使用の4エレメント反射板付き 露氷の妨害を防ぎためエレメント
フィーダーをすべて木桶に入れた 空中線工事は7月着工 8月末には完了している
空気が希薄な山頂に従事した人達は過労のため顔がむくんでしまい人相がわからなく
なうてしまう程であつた

電力線は3相3300ボルトを山頂まで送電するため山麓の滝ケ原から専用線路を
建設し無線中継所をへて気象観測所まで送電できるようにした
この工事は地元滝ケ原の決兵団から500名の兵隊が参加し9月に着工されました
頂上に向けて8.5Kmのケーブルは全区間長深さ50Cm埋設したが困難な状況を
克服してケーブル接続工程を残してわずか5日間で完了した接続工程は関東電力側で
行うことになつていたが変更になり直営工事で頂上まで実施し送電は11月28日の
午後であつた


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局内工事は8月から開始した 山頂で使用する発電機 蓄電器は低温 低気圧による
能率低下を見込んだ特殊設計のものが望ましかつたが当時の切迫した状況からその余裕
もなく他工事残品を充当さぜる得なかつた そのため発電機燃料とか電池の比重などの
取り扱いに大変苦労した

無線の送信機 受信機は東京~大阪間工事中のものと同様の乙型を使用することし
セット予備を置いた
このような悪戦苦闘して進められた難工事もやがて全員の努力が報いられ11月27日
に無線回線が開通し11月30日の東京~八丈島間に回線が開通した


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閉局まで
当回線は当初の目的どおりは八丈島末吉村に設置されたレーダーによって
キャッチされた敵機来襲の情報をいち早く東京に伝え本土空襲の備えに役立つた
保守は はじめ沼津電気通信工事局が担当していたが翌昭和20年1月20日
名古屋無線工事局の静岡分局が設置され これに移管された職員10名が配置され
名古屋からの応援を得ながら1ヶ月交代で山頂勤務をおこなつた

昭和20年7月 中継所付近を基地としてレーダーの伝搬試験を行うこととなり
一行十数名が登山した その中で逓信院の栗山技師が高山病となり一同の必死の
看護もむなしく下山の途中で不帰の客となつてしまつた
昭和43年 故人の23回忌にあたり笹原名古屋無線通信部長 今村静岡電気通信部長
江藤沼津駐在所長の3氏が発起人となり昭和43年8月に山頂分室の全前に
(富士無線中継所記念碑)と並んで殉難碑が建てられた碑文は岩館東海電気通信局長が
自ら筆をとられ(今後いかなる悪条件でも ふたたびこのような悲劇をくりかえさない)
と25歳の若さで散った栗山技師の霊を慰めた


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        富士無線中継所にある2つの碑


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     富士無線中継所

山頂南東側には石造りの小屋がある。以前から存在は知っていたが、金明水と同じく面倒でこれまでは素通りしていた。これは、東京と八丈島を結ぶ無線中継所として1944年に開設された富士無線中継所。中継所の手前には2つの碑が建っている。向かって右側に「富士無線中継所記念碑」、左側に「栗山國雄君殉職碑」。栗山國雄という人物は、超短波多重通信電解強度試験(何のことかさっぱり)のために山頂に滞在している間に、高山病で亡くなった人らしい。…って、高山病で死亡する事あるの?!


さて やっと完成した送電線は雪崩や雷による故障がしばしば起こり
その修理には平地では考えられない困難が伴ったルートは当初から専門家の意見を
取り入れ雪崩の少ない地点を選んでだのであるが春ともなればしばしば雪崩に
見舞われ線路の流出を招いた また夏になると雷が多く火山灰のアース抵抗は高く
地下ケーブルやトランスを直撃した その対策として電気試験所の協力を得て
ケーブルと架空線路に平行してアース線を布設すること 途中アレスタの設置を
多くして改善した


前後するが昭和21年 剣が峰の高空医学研究所の建物を利用して第二東名阪の
計画があり測量も行った東京~大阪間の青山無線中継所には富士山送受用の
空中線も作られた

戦後 平和な時代を迎え昭和23年6月 長津田~双子~三宅島~八丈島回線が
開通した また八丈島新局舎も建設されたので苦難の多かつた富士山頂の無線中継所
はここに幕を閉じた

送電線の保守はその後も主として気象庁の観測所へ向けて送電するため御殿場電報電話局
によって保守された
昭和39年 山頂にレーダー基地が設置され気象庁として本格的に電力を必要とすることとなり
昭和40年7月 正式に気象庁に財産を移管した


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夏山臨時無線公衆電話

7月1日は富士山の登山開山日ですが今年は残雪が多いので1週間ほど遅れそうですがこの富士山山頂や5合目から9合目までかく室(山小屋)に臨時無線電話を開通させなければならない富士山頂には我社の富士山頂無線局舎があるが去年に廃止したいまは御殿場と富士宮から2.5GHzの無線でかく室(山小屋)にデジタル無線で結んでいるが毎年7月の初めに室(山小屋)の開設と同時にANTを設営して無線電話を開通させて
8月の下旬にまたANTを撤去する仕事がある7月の開設時はまだ梅雨明けまえであるので風雨にて設営が非常に困難で高所で酸素不足で作業員は過酷な仕事である最近はこのデジタル回線で富士山頂のDOCOMOとAUの携帯電話基地局もでき富士山頂で7月~8月には携帯電話がつかえます作業員は富士山頂まで行きはブルトーザーで乗っていきかく室(山小屋)の無線電話を開通させ徒歩で下山していきます富士山頂までブルで行ける知ってましたか!!昔は強力が活躍してましたがこの強力組合が富士山特注のブルトーザーを導入したんですあの富士山レーダー建設のときからです富士山頂に電話が開設されたのは明治40年からだそうで富士山頂に無線局舎ができたのは昭和19年に富士山ー八丈島回線(B29防空警報用)ができてから現在にいたりますが戦後は60MHz帯の多重回線でやってましたがそのご450MHz帯の多重回線になりまして富士山頂局舎に泊り込み無線機を保守しました特に雷の雷害が激しく無線機が半導体化したたときは無線機が全滅して真空管の無線機に戻した歴史もありました保守員は高山病で1度も起き上がれず下山した者も多かったです今年の夏はこんなことを頭にいれて富士登山しませんか
逓信省富士無線中継所
案内  1944(昭和19)年11月、開発されたばかりの超短波多重電話方式を使い東京-八丈島間を結ぶ電話回線が開通した。このとき東京-八丈島を結ぶ無線中継所として逓信省富士無線中継所は開設された。
 この電話回線は本土と八丈島を結ぶ老朽化した海底ケーブルに代わる回線として、軍部から短期間に開設するよう要求されていた。このため少ない数の中継所で結ぶために富士山頂に中継所が建設されたのである。1944(昭和19)年7月からはじまった工事は超突貫工事の末4ヶ月後の11月に完了した。その後1948(昭和23)年6月に三宅島経由の新しい電話回線が開通し廃止されるまで使用されていた。
現在もやぐらの基礎や機械室などが残っている。機械室は、元は臨時富士山観測所(富士山測候所の前身)として鈴木靖二氏(故山階宮菊麻呂王殿下の運転手を経て東京自動車学校を設立した実業家)が寄贈した建物で、通称『佐藤小屋』と呼ばれていた。※1
 また富士無線中継所跡地に立つ二つの記念碑『富士無線中継所記念碑』と『栗山國雄君殉職碑』(超短波多重通信電解強度試験のために登頂、滞在中に強度の高山病のため亡くなる)には、建設・保守の困難さ過酷さが刻まれている。
 富士無線中継所は各方面に多大な影響を与えた。富士無線中継所のために敷設された送電線は富士山の山室を電化し、富士山レーダー誘致につながった。また富士無線中継所に携わった技術者は、この経験を生かしてマイクロ波通信網の建設や衛星通信開発に携わり、無線中継技術発展に寄与した。
※1 臨時富士山観測所(佐藤小屋)については、新田次郎の小説『凍傷』に詳しく書かれているので興味がある人はこちらを参考にしてください。(なお『凍傷』は新潮文庫『強力伝・孤島』におさめられています。)


富士山頂臨時電話

戦後 東京~大阪間にAM方式による60MHz回線が開通して間もなく
昭和23年6月に東京~富士山頂~八丈島の回線が廃止された そこで山頂の設備
乙型送信機 受信機を改修して夏山の臨時回線を設営することになつた
わずか1チャンネルの電話回線であつたが東海として初めてであり極めて好評であつた

無線回線は山頂の無線中継所と そのころ御殿場町新橋にあつた郵便局との間を結んだ
山頂では小型磁石式交換機を1台設置し公衆電話とし山室業者(山小屋)など6か所に電話機を置いた
昭和24年夏 二省分離により御殿場電報電話局富士山分室と称するようになり
昭和27年には20回線磁石式交換機を1台設置し20加入を収容した
昭和28年になるとFM方式による60MHz帯の可搬無線機がようやく開発され
また空中線は八木アンテナとなり保守は簡易化され回線の質も一段と向上した

このように登山者へのサービスはより向上したが一方 下界の物価に比べると
通話料は安く電報の取り扱い料を入れても年々収支率は悪くなっていつた そこで
昭和35年から無線回線は山頂から直接 静岡電報電話局に飛ばした また
昭和43年から山頂の交換業務を廃止するなど改善をお行なつた その結果
昭和42年には直接費だけでも収支率274%と極めて悪かつたが 翌
昭和43年には133%と改善された また設備はTZ-63形から
昭和35年にTZ-403形に変更された(450MHz帯)24チャンネル
昭和43年には これまで無線通信部主管で実施されていた無線回線の設営と
保守は静岡通信部へ移管された


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60MHz帯可搬無線機

昭和28年3月 60MHz帯を使用したTB-1型FM送信機とRJ-1型FM受信機
1対向が配備された出力は30W位相変調で磁石式電話回線1CH収容であつた
翌年になると これを改良したTC-1型送信機とRJ-1型受信機1対向が配備され
いずれも無線通信部保全課で保守を担当した重量は実に送信機95Kg 受信機110Kg
もあり機動性に乏しかったが 1KVAガソリン発動発電機もあり
ここに災害対策無線の一歩が開始された

TZ-61
次にTC RCを小型化したTZ-61形可搬無線機が開発された
送受信部が40Kg 電源部は60Kgと約半分の重量となつた そして
昭和29年から全国的に配備され共電式及び磁石式交換台相互 交換台~加入者間などの
伝送路に使用された またTZ回線付加装置を接続することにより
自動交換機と加入者間を接続できるようになつた

TZ-63
昭和30年には回線需要にこたえ初めて3CH収容可能TZ-63形可搬無線機が開発され
この無線機は磁石式電話に使用され非常災害時や夏季における海岸や山岳の
臨時電話回線として広く活躍した

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TZ-64
また電力事情の悪い離島やへき地など使用できる方式の開発も望まれ
昭和30年12月に送信出力1Wで直流6Vの電池を電源とする
TZ-64形可搬無線機が開発された

TZ-65
次いで昭和33年1月には山間へき地など電話架設困難な無電話地域の電話回線や
非常回線として商用電源があつて比較的近距離間用としてTZ-65形可搬無線機が
開発された重量は送信機 受信機ともに21kgと軽量で保守も容易であつた
初期のものは磁石式信号方式のみに適用されたが その後 共電式にも
適用できるようになつた

昭和33年 60MHz帯の周波数間隔は60KHzから半分の30KHzに縮少された
当初 保守の担当をしていた無線通信部で保有していた可搬無線機はTZ-63形が4対向
TZ-65が1対向であつた これら可搬無線機は昭和33年の狩野川台風
昭和34年の伊勢湾台風など相次いだ東海地方を襲った台風や集中豪雨に伴う
災害時には実力を発揮した

TZ-67
昭和34年にはTZ-64形を改良してTZ-67形可搬無線機が開発された
これは直流6Vの蓄電池によって動作し電源はサイクリックスイッチを採用し
通話のない待機時には受信機は一定間隔の休止時間をおいて受信機を周期的に
動作させる方式を採用した また受信部の大部分をトランジスタ化し電力消費量を
少なくした 重量は送受信機10kg 電源部も10kgと小型化になり
送信電力1W 運用は磁石式にも共電式にも運用できるようになつていた


昭和36年4月に名古屋中統制無線中継所が発足と同時に それまで
無線通信部が保有していた可搬無線機全部を同所に所属替えし出動範囲は
従来どおり東海管内一円とした
 

TZ-68
昭和41年7月に至り 全トランジスタ化したTZ-68形可搬無線機が実用化された
これは1CH方式の1号 2号 及び3CH方式の3号の3機種であつたが その後
2号は廃止されたこれらの装置は全トランジスタ化されたため消費電力は小さく
信頼度も高くなつている送信出力は20Wであるが送信増幅部を除くと1Wとして運用
するこが可能である 重量は極めて軽く3号の場合 送受信部5.3kg 
送信増幅部4.2Kg 端局装置16.3kgであつた

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TZ-403の多重(24CH)無線電話で臨時災害時を開設に活躍いたしました


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富士山御殿場口登山道 2合目(1440m)

大石小屋
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Camp Fujiに訓練遠征している沖縄海兵隊の部隊が富士登山しました


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年月日出来事
1832(天保3)年江戸の高山たつが女性初の登頂。たつは旧暦9月26日(現在の10月下旬)、女人禁制の富士山に男装して富士講行者とともに吉田口から登った。【9月26日】
1860(万延元)年初代イギリス公使のオールコックらが登頂。外国人の初登頂。この時、標高を測り4322.6メートルの結果。【7月26日】
1867(慶応3)年イギリス人ハリー・パーク夫人が外国人女性として初めて登頂。
1872(明治5)年富士山の女人禁制が解かれる。
1891(明治24)年ウオルター・ウエストンが村山口から冬季富士登山。【12月】
1895(明治28)年野中至が山頂での越冬気象観測を目的に登頂。秋に山頂に小屋を建て、10月1日から越冬観測に入った。10日ほど遅れて合流した千代子夫人と12月下旬まで観測を続けたが、厳寒と病気で動けなくなっているところを救出された。【2月14日】
1898(明治31)年小泉八雲が御殿場から富士山へ。
1906(明治39)年西多摩郡調布村の光時、吉原、木村らが自転車で山頂へ。23日に吉田口から入り、25日に登頂し御殿場口へ下山。【8月25日】
1907(明治40)年武田千代三郎知事(日本山岳会員)ら数人が6合目あたりまで登り登山道改修、山小屋建設、電話開設の調査を行う。【5月】
吉田口の8合目、富士宮口の頂上に郵便局開設。【7月11日】
吉田口8合目で電話開通式があり、武田知事らが出席。【8月1日】
この年の登山者は総数5万3943人。このうち吉田口が3万5000人。
1909(明治42)年視覚障害者8人が御殿場口から登山。【7月19日】
1913(大正2)年鶴見宜信歩兵大尉ら軍人6人が吉田口からスキー登山。12月31日に登山を開始、1日午後1時半、風雪の中を登頂した。【1月1日】
1914(大正3)年新潟・高田スキークラブの8人がスキー登山。4日、8合目で突風にあおられ2人が滑落、1人が死亡。【1月2日〜4日】
1915(大正4)年5合目の佐藤小屋が営業を開始。現在も冬も営業の小屋として知られる。
1921(大正10)年東京市役所パーティーが突風に遭い1人が滑落、死亡。【11月11日】


1945年7月10日、富士山頂にあった富士山測候所アメリカ軍による機銃掃射攻撃が行われた。富士山は独立峰で遠方への眺望が効き、日本本土空襲を行うアメリカ軍機の動向を視認できる場所であったほか、1944年には東京と八丈島を結ぶ無線通信回線の中継拠点として山頂の旧登山小屋が活用されたため麓からの送電が始められ、高層気象観測拠点として重要な測候所へも給電された。また、この測候所からは東京の灯火管制を点検していた。日本の象徴という文化的意味に加え、軍事拠点ともなった富士山頂への攻撃が大戦末期に行われ、観測員に負傷者が出た事が業務日誌である『カンテラ日記』を通じて残されている。

また、アメリカ軍は日本の降伏を早めるために富士山をペンキで真っ赤に染め上げ、士気を下げるという計画を立案した。しかし、計画に必要な物資の量がB-29約3万機、ペンキ約12トンという膨大な量になる計算だったため、現実性に欠けるとして計画は中止されたというエピソードも紹介されている


富士山頂郵便局開設の歴史

・明治39年7月30日に富士山郵便局として富士山麓吉田口及び須走口寄り八合目に開設
・明治40年7月16日に富士山北郵便局へ改称
・明治42年7月20日に富士山郵便局へ改称し、富士山頂に開設
・昭和18年から昭和22年までは太平洋戦争の影響で一時閉鎖
・昭和24年7月10日に富士山頂郵便局へ改称、再開し現在に至る

※明治42年~昭和17年は大宮郵便局(現在の富士宮郵便局)が受け持ち局、昭和24年~昭和27年は御殿場郵便局が受け持ち局、昭和28年~ 現在は富士宮郵便局が受け持ち局となっています。
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日本一の高所にある郵便局をご紹介します。それは、特に7月・8月に登山客でにぎわう富士山頂に開設される「富士山頂郵便局」です。富士山頂郵便局は、毎年、7月10日から8月20日の間(営業時間:午前6時~午後2時 42日間無休)だけ開設している季節開設局です。42日間で1万人以上の登山者が利用する非常に人気のある郵便局です。
 富士山頂郵便局のオリジナル商品として、富士山麓で間伐された富士ひのきに焼き印を押した『ひのきメール』や『登山証明書』『登頂証』があります。
 現在使用している風景入通信日付印は、長年愛されてきた気象レーダードームが撤去されたことにより、平成14年7月から雲の上にそびえる富士山と山頂郵便局をデザイン化した風景印に変わっています。

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期間中、富士宮郵便局から職員1人とゆうメイト(非常勤職員)1人の2人1組が一週間交替で富士山頂郵便局に常駐します。寝泊まりは事務室の奥、2畳程の部屋で2段ベットを利用し、食料品は持参したおにぎり、カップラーメンが主食で、風呂はありません。
 1週間で交替しますが、天候によっては交替できず、そのままさらに3~4日間閉じ込められ、トイレに行くにも難儀をすることがあります。その間は、じっと嵐が通り過ぎるのを待つのみですが、嵐の後の見事な快晴が楽しみです。
 富士山頂郵便局は、登山者の方の郵便物受取りや郵便商品の販売、風景入通信日付印の押印など日本一高いところからの郵便発送の業務を行っています。日本全国はもとより海外からも多くの登山者が訪れる富士山とともに愛され親しまれる郵便局として今後も在り続けたいと思います。【富士宮郵便局員一同談】

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27) 電気試験所の富士山試験所J1AJ オールジャパンVHF試験 (1932年8月9-13日)

 電気試験所は1932年(昭和7年)8月中旬に富士山頂からの超短波試験を計画し、関係方面の各機関へ受信協力を打診していました。そして7月29日に楠瀬雄次郎電気試験所第四部長名で正式な協力要請書が送られました。下図がその要請書に添えられた試験要項です。


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読みやすいように私が下に転記しました。この試験では逓信本省より電話用の "呼出名称"として「富士山試験所」、電信用の "呼出符号"「J1AJ」の指定を受けています。周波数は水晶式の8m(37.5MHz)と8.2m(36.6MHz)で出力はおよそ0.3Wでした。

超短波無線電話試験
逓信省電気試験所
一、送信場所 富士山頂中央気象観測所
二、送信波長 八・〇米或ハ八・二米
三、送信電力 十ワット以下
四、送信時間
 (1) 八月九日、十日、十一日、十二日ノ四日間ハ毎日左記時間送信ス
  第一回 自〇九〇〇 至一〇〇〇
  第二回 自一四〇〇 至一五〇〇
 (2) 八月十三日ニ限リ同日〇九〇〇ヨリ翌十四日〇八二〇迄毎時ノ始二十分ヅツ送信ス
五、局名 「富士山試験所」 (電信符号J1AJ
六、送話ノ内容ハ試験ニ必要ナル事項ノ外朗読、蓄音機ニヨル奏学等トス


まず東京の中央気象台と富士山頂に建設中の観測所に送信機と受信機を設置し、相互通信が行われました。ところで電気試験所の実験局のコールサインですが、第四部J1AF、平磯J1AG、磯浜J1AHの次が富士山のJ1AJに飛ぶことから、私は東京の中央気象台に臨時で施設された電気試験所の超短波実験局が "中央気象台試験所J1AIではないかと考えています(・・・残念ながらその物証は発掘できておりません)。
 中央気象台からの波長7m(42.9MHz, 出力1W)は富士山で大変良く受かりましたが、中央気象台では富士山頂からの波長8/8.2m(37.5/36.6MHz, 出力0.3W)は都市雑音に邪魔され、安定的な通信は望めないことが分かりました。
『・・・(略)・・・(中央気象台では)一一二Aプッシュ・プル主発振機(波長一四米)の第二高調波をとって之を増幅した出力約一W陽極変調方式の送信機を使用して通話試験を行ったが、山頂側の送受信機設置点が賽の河原の陰になっているにも拘わらず、山頂で受信した場合は受信状態は極めて良好で、各スイッチを入れただけで東京と通話することが出来、いつも高声器で聞き得た。ただし気象台側においては予想外の甚だしい雑音で感度を上げることが出来ず。かなり受信をを妨げられたが強度はビートでR6程度あったから通話には充分であった。 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第1巻, 1950, 電波監理委員会, pp414-415)

通信はまず富士山頂と東京市内中央気象台との間で行われた。・・・(略)・・・山頂で東京からの電話を受けた成績は第二表の如く極めて好成績であった。東京で山頂からの電話を聴く場合には、受信場所が都市の中心にあったために予想外の激しい雑音の妨害をこうむり、受信音がR6程度であったにも拘らず、成績はようやく実用通信に差支えないという程度に過ぎず到底完全な成績を挙げることは困難であった。勿論雑音の原因は受信機固有のものではなくて附近の自動車、電車その他種々の電気設備より発するものである。中央気象台附近は特に雑音が著しいものらしく、五反田の電気試験所屋上で受話した場合には雑音の妨害は気象台に於けるよりも相当軽減された。』 (中井友三/木村六郎/上野茂敏, "超短波通信に関する実験", 『電気学会雑誌』 Vol.52-No.533, 1932.12, 電気学会, pp975-976)
 
<東海道線列車での受信試験(大垣駅より東行き)
東海道線第36列車(大垣発午前7.20, 東京着午後6.34)の最後部に木造二等車を連結して試験した(鉄道省と共同)。浜松あたりからようやくビートが聞こえ始め、静岡付近で電話が分かり、御殿場付近で最も強感であったが、国府津以東はほとんど不感に終った。電化区間は雑音が著しいが(中波の)放送波における如く激烈ではない。列車内の試験に際して雑音の最も著しいものは踏切のブザー、発車合図のベル等で、レールの側にある丘、樹木、人家等は顕著な遮蔽作用を与え、トンネル内では全く不感であった。』 (難波啑吾, 富士山頂よりの超短波放送試験, 『電気学会雑誌』vol.52-No.530, 電気学会, p739)
<大洋丸 横浜-神戸航路での受信試験(横浜港より西行き)
大洋丸の横浜神戸間航路は第一図(下図)に示した如くである。出帆後相模湾までは極めて明瞭であったが伊豆半島の陰では強度は、あるいは強く、あるいは弱く複雑な変化をなし、遠州灘に進むと共に再び強感となり山頂より約220kmの点で不感になった。以後神戸まで全く不感であった。船内には不良発電機がありその雑音に悩まされた。』 (難波啑吾, 富士山頂よりの超短波放送試験, 前傾書)

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そのほか富士山頂からのVHF波の受信要請を受けたのは日本放送協会技術研究所、東京電気、東北帝国大、逓信官吏練習所、海軍技術研究所、海軍通信学校、陸軍科学研究所、陸軍通信学校などで、(東北帝大は別として)およそ東京近郊で超短波を受信し得る全ての機関が、その垣根を超えて電気試験所の試験に協力しました。まさしくVHFオールジャパン試験だったといって良いでしょう。

受話地 受話強度 受話状態
 電気試験所平磯出張所 (茨城県) R4 雑音なく明瞭
 電気試験所 (東京市品川区五反田) R7 概して明瞭
 逓信官吏練習所 (東京市芝区) R8 一般に明瞭
 日本放送協会技術研究所 (東京市外砧村) 可聴度5,000以上 雑音あれど極めて明瞭
 東京電気 (神奈川県川崎市) 感なし -
 海軍技術研究所 (東京市目黒区) 可聴度5,000 明瞭
 海軍通信学校 (神奈川県田浦町) 感なし -
 軍艦K (千葉県館山湾内) 極めて強し 概して明瞭
 各艦総合成績 (千葉県館山湾内) 強感 概して明瞭
 陸軍科学研究所 (東京市淀橋区) R6 明瞭
 陸軍通信学校 (東京市中野区) 感度強し 明瞭
 東北帝国大学所(宮城県) 感なし -


読売新聞が下山した平磯出張所の難波氏にインタビューし、『好成績を収めた富士山からの超短波放送 (『読売新聞』, 1932年9月20日, 朝刊p4)というタイトルでこのVHF試験を紹介しています。
 
 この年の7月上旬より中央気象台の手で富士山頂無線局の建設がはじまっていましたが、そもそも中央気象台の無線技術陣に超短波のノウハウを指南したのは電気試験所平磯出張所でした(短波JGSは8月1日、超短波JGYは8月31日に運用開始)。そういう経緯からこの8月9日より行われた電気試験所の富士山テストには、気象台が自力で建設中のVHF局を、師匠である平磯のメンバーが支援する目的が水面下にあったかも知れません。
 電気試験所が山頂に到着した時には、既に7.24MHzで中央気象台へ観測データを送る短波局JGSが運用を開始していました。電気試験所「富士山試験所(J1AJ)」の超短波は中央気象台では(前述のとおり)雑音が多くてあまり良い成績ではありませんでした。


28) 東北帝大J6BAの富士山試験所J1AK受信試験

 東北帝大による受信試験の記録が残されていますので紹介します。
東北帝国大の宇田氏らは8月7日に新潟での実験を終えると、すぐさま仙台に戻り、休む間もなく電気試験所の富士山超短波試験を受信するために八木山(9-10日)と金華山(12-15日)に向いました。明言はありませんが、おそらく有坂氏もお供したものと想像します。
八月九日より十五日にかけて、逓信省電気試験所によって富士山頂より放送された八米(37.5MHz)超短波無線電話の受信の依頼を受け、金華山に参りました(第九図参照)。これは超短波は前にも申した如く、余り遠方に参らないのでありますが、万一到達すれば、記録すべきことなので、一生懸命に実験をやったのであります。その結果富士山よりのものは受信できなかったのでありますが、序でに私共の実験もやりました。即ち学校の屋上に八メートル送受信機を置き、金華山で受信し、アンテナを種々に変えて実験しました。 (宇田新太郎, "超短波無電の実用時代へ", 『発明』, 1932.12, 帝国発明協会, p4)
 この第九図というのが左図ですが、テントに「J6BA」というコールサインプレートが吊られているのが見えます。東北帝大は移動先ではこのようにコールサインを掲示していたのでしょうね。とても珍しい写真です。

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この東北帝大の自前の実験では偏波面の違いによる影響と、水平空中線の指向性など、今日では明らかになっている当然ともいえる事象が試験により確認されました。
八月九日、十日は仙台市郊外八木山に於て、同十二日より十五日までは金華山に於て、何れも富士山頂より放送さるる逓信省電気試験所の8米(37.5MHz)超短波無線電話の受信試験をなした。その傍ら、金華山に於て同じく8米超短波を用い、当方の実験を行ったのである。発振器は蓄電器を挿入し、ある程度波長を変え得るものを用いた。これは空中線との連結により波長が幾分変るから、正しく8米に調整する必要があったからである。送信機は東北帝国大学屋上に置き、金華山(距離60km)では受信のみを行った。・・・(略)・・・金華山頂上(高さ445米)に於ては送信側に垂直、水平何れの空中線を用いるも、受話強度極めて大、150米、88米の中腹に於ても電話明瞭、50米の高さに於ては、送信側が垂直空中線の時のみ受話可能で、水平空中線の時は全く不能であった。頂上は眺望がきくも、他の三地点はすべて樹木が生繁り、眺めが全くきかない所である。
 受信側に於ても空中線を種々変えて試験した。送信側が垂直アンテナの時は受信側が矢張り垂直がよく、水平になると感度が殆どなくなる。送信側が水平空中線の時は受信側も水平空中線の方がよろしい。但し頂上に於ける実験では送信側が水平空中線の時、受信側を垂直空中線にしても相当の感度があったが、88米の高さに於ける実験では、送信側水平の時、受信可能で、垂直空中線では受信不能であった。
 次に送信側を水平空中線にすると、受信側では極めて容易に方向探知が出来る。試みに頂上で、(受信用の)水平空中線を用い、之を水平面内に回転すると、空中線が仙台(東北帝大)方向と正しく一致する時に感度零となった。 (宇田新太郎/小原武顯/有坂磐雄/關知四朗, "超短波に依る離島と本土間の通話試験に就いて", 『電気学会雑誌』, Vol.52-No.536,1932.11,  p872)

30) 富士山頂観測所JGY と三島支台JGZでVHF実用化 (1932年8月31日)

 1932年(昭和7年)8月31日、我国初となる超短波の民間無線の常設実用無線局が富士山で運用を開始しました。中央気象台の「臨時富士山頂気象観測所」JGY(A2/A3, 65.2MHz, 3W)と、「三島支台」JGZ(A2/A3, 71.4MHz, 3W)です。無線電信の呼出符号は「JGY」と「JGZ」ですが、無線電話には呼出名称「富士山観測」と「三島気象」が指定されています。
 記念すべき常設実用化VHFの第一号ですので3日後に告示された官報を掲載しておきます。


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中央気象台は富士山頂で通年観測を行う計画を立てましたが、夏季は臨時に有線電話が架設されますが、それ以外のシーズンは通信手段がなく、1月の事前調査で超短波回線が望まれました。そして平磯J1AGの協力を得て、気象台の無線陣が自前で超短波無線機を完成させました。
中央気象台の無電陣は、これ(VHF無線)を自ら研究、開発しつつ世にさきがけて実用に供しようとし、さきに、世界にさきがけて気象放送専用の無線施設を設けた岡田(中央気象台長)を喜ばせた。彼(岡田)の進取の気性は衰えるところを知らず、この案を推進した。勿論、市販品などはなかった。主任の曽我をはじめ、森脇、柳本、桂、山本などの若い技術者は張り切って、以前富士山で超短波の実験を行った)平磯試験所の木村の実験を見学したり、文献をあさり試作を重ねたりして、送受信機二台を自作した。周波数は六・五二(65.2の誤記)と七・一四(71.4の誤記)メガサイクルの二つであった。時代の先端を行くこの器械は、その後ズッと故障もなく作動し、山頂勤務者にはかり知れない心強さを与えた。 (須田瀧雄, 『岡田武松伝』, 1968年, 岩波書店, p319)
 
 日本無線史第三巻から引用します。
『昭和七年八月三十一日、富士山頂に於ては前記本台(東京)との(短波の)連絡通信機の外、その予備装置を兼ね、静岡県三島測候所(現:静岡県三島市東本町2-5-24)間に中央気象台無電係自作の、プッシュ・プル自励発振陽極変調方式の超短波無線電話を装置した。使用周波数は山頂A1(A2,A3の誤記) 六五二〇〇kc、三島はA1(A2,A3の誤記) 七一四〇〇kc、真空管は送受共UX一二A(一一二Aの誤記)又は二〇一Aを使用した。 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第三巻, 1951, 電波監理委員会, pp347-348)
 
 気象庁が1975年(昭和50年)に編纂した『気象百年史』(資料編 第13章富士山観測所, p374)からも引用します。
『・・・(略)・・・送受信機2台を自作して山頂に上げ8月31日には運用にこぎ着けた(逓信省告示は9月2日)。これは我が国で超短波無線電話が実用化された最初のものである。周波数は65.2MHz、出力5W、呼出符号は電信電話それぞれJGY・富士山観測(山頂)、JGZ・三島気象(三島)で、保守は大変であったが、よくその役目を果たした (気象庁編, 『気象百年史』[資料編], 1975, 日本気象学会, p374)
 
 マイクと並列にブザーがあり、これを電鍵で操作すれば可聴音で変調された電信になるようです。アンテナは全波長の垂直ダブレット式です。

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(気象台が完成させVHF実用局第一号送信機と受信機の回路図: 『日本無線史』第三巻, p347)
 
 超短波無線と一緒に据えつけられた短波送信機(富士山-東京の直通回線)の方は8月1日から運用され、観測データを富士山頂JGSから中央気象台JGRへ短波の電信(A1)で送られました(超短波ではありません)。
 この短波無線は逓信省告示第1535号(8月13日)で、中央気象台JGAの第三装置(東京)と第四装置(富士山頂)として公表されていますが、コールサインの記載はありませんでした。開局当初には中央気象台と富士山頂は共にJGAのコールサインを使っていたと考えられなくもありません。しかし双方が同じコールサインJGAで交信するのは不便極まりないでしょうから、私は8月1日の運用開始時よりJGRJGSが使われたと考えています。
【参考】 逓信省の官報告示には免許(承認)日の項目はありません。免許(承認)の翌日から場合によっては数ヵ月経過したのちに国民にその事実が告示されました。従って告示は8/13ですが承認された日付はもっと早いです。


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昭和七年八月一日から、国際的に実施せらるべき国際極地及び高層気象観測通報に、本邦も参加する事となり、中央気象台では富士山頂に臨時観測所を設け山頂気象観測を本台(東京)に通報せしむる事とし、左の如き装置を増設した(注:中央気象台JGAは第一装置・第二装置で既に気象放送を実施中)
 (一) 中央気象台に第三装置(呼出符号JGR?)として、日本無線電信株式会社製出力五〇W単信式真空管発振機、周波数三八〇〇kc、使用真空管は発振管としてS一〇〇S型、整流管はHK八五〇型二個を用いた。
 (二) 山頂観測所には第四装置(呼出符号JGS?)として、水晶制御持続電波単信式送信機一台、周波数七二四〇kc、使用真空管は発振真空管としてUX二〇二A一個、電力増幅真空管として、同じくUX二〇二A二個を用いた、周波数は七二四〇kcで、出力は二五W以下であった。 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第三巻, 1951, 電波監理委員会, pp346-347)
 
 気象庁が1975年に編纂した『気象百年史』(資料編)にある臨時富士山頂気象観測所に関する記述は、1974年に富士山測候所がまとめた『富士山の気象観測90年』から圧縮転載されたものです。その『富士山の気象観測90年』から引用します。



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一方中央気象台との短波は日本無線電信KK製で、山頂7.24MHz 10W(12月に25Wに増力)、東京3.80MHz 50Wの電信回線で8月1日から運用を開始した(逓信省承認は8月13日)。官舎の東側にはこのアンテナが着水保護用の板枠に収められて長く伸びていた・・・(略)・・・極年観測は8月1日からであったが、観測は7月1日から開始された。最初に観測に従事したのは妹田、三浦、出渕、矢木の4名でこの一行に曽我、桂も加わって無線機の設置工事にあたり、7月28日藤村、水野、田島、村瀬と交替した。臨時富士山頂観測所の所長は中央気象台長岡田武松が兼任したが、実質的な責任者は関口鯉吉であった。・・・(略)・・・観測の成果は(8月1日より短波JGSの)無線電信で毎日3回(6, 12, 18時)本台に通報された。 (富士山測候所編, 『富士山の気象観測90年』, 1974, 富士山測候所, pp17-18)
 
 Web上では「山頂から超短波で中央気象台へ観測データが送られた」との記述が散見されますが、それは誤りです。東京の中央気象台へは短波7.24MHzの無線電信で送られました。超短波が三島回線だったことは前述の昭和七年逓信省告示第1632号で明らかですし、また上記の写真は「富士山の気象観測90年」(p17)からの引用ですが、これにも超短波は三島回線で、短波が東京回線であることがはっきりと記されています。
 アンテナを木枠で覆ったのはアンテナ線にツララ等が成長するのを避けるためで、非常に珍しい写真だといえるでしょう。VHFアンテナは、65.2MHzの送信用と、71.4MHzの受信用の2本あります。短波の富士山頂JGS-東京JGR回線の方を主線とした理由は、安定性の面では超短波の富士山頂JGY-三島JGZ回線の方が優れていたが、三島支台(三島測候所)を経由して東京へ送る手間があったからだと想像します。
 ちなみに富士山頂観測所と共に、我国の実用VHF無線の発祥の地である「三島測候所」は国の登録有形文化財となり、2009年(平成21年)4月1日より一般公開されているそうです。

31) 日本初の実用VHF無線の裏話

 日本初の民間の実用VHF無線は技術開発面や高所での建設作業面での苦労だけではありませんでした。富士山は神の山、聖地だったからです。岡田武松伝から引用します。
『 (富士山での)通年観測開始のパイオニア(岡田中央気象台長)の苦難は、思わぬところにもあった。
富士山頂に俗人が永住するようなことは、富士山を神とする宗教心の厚い潔癖な人々の癇(かん)に触れた。お山はご神体として冒すべからざる聖地であった。浅間神社当局は、何回か訪問した岡田の人格や気象事業の公共性を理解してはいたが信仰上の大問題とした。岡田の謙虚な態度だけでは事は運ばず、庶務係で建設を担当した三浦喜一は、山頂と富士宮市の浅間神社との間を何回となく往復するという羽目になった。岡田をはじめ関係者の誠意と熱意は、ついに神社当局の心の線にひびき、建設は了承された。だが、問題はそれだけではなかった。
 あるとき、国粋主義の大物、笹川臨風が中央気象台へ殴り込みをかけてきた。観測所建設は神聖な山頂を冒涜するので怪しからんというのである。彼は仕込杖(座頭市が持っていたような刀を持っていたようであった、と田島節夫は噂に聞いたという。いきり立つ笹川に対して、岡田が直接会ったか、観測係主任の三浦栄五郎などが、代理人として対応したか、詳らかでないが、結局暴力は撃退された。後に、軍人におどかされたときに見られるように、このような場合の岡田の態度は誠に豪胆で少しも驚かず、そこには、臆病とも見えるほど自動車に気をつける彼の面影は見られなかった (須田瀧雄, 『岡田武松伝』, 1968年, 岩波書店, p317)
 こんな苦労も跳ね除けて、世界でも例をみない高所での通年観測と、観測データを送る超短波無線が実用化されました。
 

37) 東京逓信局の離島VHF(33.3MHz)試験 (1933年初頭?)

 上記「電気工学年報 昭和八年版」(電気学会編)に、東京逓信局が離島への無線通信を検討するために試験を行ったことが記されています。やはり1932年(昭和7年)暮れから1933年(昭和8年)春頃ではないかと推測します。

海岸島嶼連絡  東北大学及び仙台逓信局連合でλ=7~9m, 出力10Wで、宮城県女川 江の島間(14km)及び出島間(7km)、山形県飛島 酒田間(40km)で通信試験を行い・・・(略)・・・
また東京逓信局では検見川無線局と三宅島通いの船舶の間で、90kmまで、下田港と神津島間(60km)でλ=9m(33.3MHz)、出力10Wで通話が出来た。結局λ=8m附近を使えば減衰も少なく、廻折も伴うから、送受信所の位置と高さを注意すれば、容易に実用出来ることが解ってきた。 (電気学会編, 『電気工学年報』昭和八年版, 1933.7, 電気学会, p151)

1933_Kemigawa_VHF_Test
 
 酒田-飛島の超短波回線の実用化を目指す逓信省工務局が、伊豆諸島を管轄に持つ東京逓信局に対し、「海岸-島嶼」間VHF通信の試験協力を要請したものと想像します。

45) 富士山頂からのVHFによる実況中継 (1933年7月24-25日)

 スタジオ外中継の歴史を振り返ると名古屋放送局JOCKが1925年(大正14年)10月31日に第三師団東練兵場から天長節の分列式の実況放送を有線中継で行ったのが日本初です。また東京では1927年(昭和2年)2月8日に大正天皇御斂葬当夜、高松宮邸前にマイクを設備したのが最初になりますが、同年6月25日に行った帝国劇場からの中継が、無線式による我国初の中継でした。波長は210m(1429kHz)を使用しました。翌年8月16日には波長35m(8.57MHz)の短波中継機で甲子園野球大会の模様をJOAKへ送りました。
 前述のとおり超短波を使ったスタジオ外中継放送は仙台放送局JOHKが最初でした。兄貴分の東京放送局JOAKも、富士山頂からの超短波による中継放送を計画し、波長8m(37.500MHz)中継機と波長7m(42.860MHz)中継機を完成させました。両機は同じ概観の空中線電力50Wですが、8m機はDC電源式なので直流発電機で使用し、7m機の方は電灯線のAC電源にも対応しています。
 東京放送局JOAK技術部の久我桂一の記事を引用します。
酷暑にあえぐ七月の下旬に海抜一万二千有余尺、富士山頂より中継放送をして万斛(ばんこく)の清涼を与え、之を聴く者をして無限の生気を感じさせ、かつ我等の誇り富士山を改めて確然と思い起さしめる「富士山を仰ぐ一日」の放送を行おうとする計画が六月廿日過ぎ大体決定した。・・・(略)・・・超短波は送信空中線がはなはだ簡単であり、空電、混信、その他の雑音に煩わされることが短波に比してはるかに少なく又適当に設計、製作すれば重量も軽く容量も小さくて済む得典がある。
 なお、富士山頂では昨夏電気試験所で超短波に依る電話の送信試験をせられたる事もあり、現在山頂朝日岳にある中央気象台観測所でもこの超短波を利用して極く小電力の送信機で三島の支台との間に毎日通話して居られるなどの事実に鑑み今回の中継放送は超短波に依る事に決定し、放送実施の許可を逓信省に出願すると共にこれが送信機の設計製作に取り掛る事になった。
』 (久我桂一, "富士山頂から", 『ラヂオの日本』, 1933.9, 日本ラヂオ協会, pp14-15)
 ちなみに中央気象台の富士山頂観測所JGYのところで述べましたが、VHF通信は東京の中央気象台ではなく、三島を対手局としていたことがここにも触れられています。


1933_JOAK_VHF_1

1933年(昭和8年)7月24日は、夜明け前の午前四時三十分、富士山頂の松内アナウンサーによる御来迎(ごらいごう)の中継により放送がスタートしました。山頂からは8m中継機を使いました。また富士町からの連絡用には7m中継機が使われました。写真は山頂に設置された中継装置です。
 左端が送信機でアルミ筐体で軽量化し、さらに運搬しやすいように上(50W電力増幅機)(発振部と変調部)分離できるようになっています。下部だけでも約5Wの中継機として使うことも可能です。写真中央は電源スイッチ盤でフィラメント用、プレート用など4つの開閉器が付いています。右端はおそらく受信機だと思われます。山頂ではガソリンエンジンで廻す直流発電機を用いました。
超短波受信に普通使用されている超再生方式を送受信所間の連絡用に使用したが、放送用としては(電界強度が弱くなったとき超再生方式では大きなノイズが出るため)実際使用したのはスーパー・ヘテロダイン式のもので・・・(略)・・・表口頂上浅間神社奥宮の一隅参籠所内に送信機を据え波長八メートルで送信した。送信空中線は神社前面の岩上に六米の木柱を建て、これに約二米の銅管を碍子で支えたものを二本ダブレット型にして、これより給電線を以て送信機に結合した。給電線は、その間隔約十糎(10cm)長さ二十八米である。
 受信所は山麓東海道線富士駅のある富士町富士見高等女学校の一室に設け、ここに前記の受信機と連絡用の送信機を設置した。スーパー・ヘテロダイン受信機の出力は電話線を以て静岡放送局に連絡し、ここより全国に中継されたのである。連絡用送信機の送信波長は七メートルで山頂と容易に通話連絡を取ることが出来た。 (久我桂一, 前傾書, p16)
 


富士山頂、快適通信の舞台裏 アンテナ設置に毎夏4日

佐野正弘のモバイル最前線


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夏休みシーズンが到来しようとしている。夏休みには多くの人たちが観光地や、花火大会などさまざまなイベントに訪れ、特定のエリアに携帯電話の利用が集中する。大手携帯会社は、そうした時期に合わせて、人が多く訪れる場所へのインフラ増強対策を進めている。

そうした夏の人気スポットの一つが富士山である。富士山は7月1日より登山ルートごとに順次山開きになり、9月10日の閉山までの間は非常に多くの登山客が訪れる。近年は世界遺産に登録されたことや、外国人観光客の増加もあって、日本人だけでなく外国人の登山客も増加。人気が一層高まりつつある。

さらに、SNSなどに登山中や登頂後の様子などをアップロードする人も増えており、山開き期間は携帯電話の利用者が大幅に増える。そこで大手携帯会社は毎年、山開きシーズンに合わせて富士山のエリア対策を実施し、登山客が快適に携帯電話を利用できる環境の構築に力を入れているのだ。

今回、筆者はソフトバンクから、富士山におけるネットワーク対策の説明を、現地で受ける機会を頂いたことから、実際に富士山に登って携帯会社のネットワーク対策状況を確認してみた。そのときの様子をお伝えしながら、携帯会社がどのようにして、富士山をカバーしているのかを確認してみたい。

富士山は標高3776mと、日本で一番高い山として知られている。だがそれだけに通信機器を設置すること自体難しく、また国立公園の一部であることから、電波塔を建てたり、光ファイバーを敷設したりといったように、地上と同じ方法で電波対策をとることは難しい。では一体、携帯会社はどのような方法で富士山のエリア対策を進めているのだろうか。
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初心者でも登りやすいとされる富士山だが、実際に登ってみるとその道のりは非常に険しく、ケーブルなどを敷設するのは難しい環境でもある

地上から電波を射出して山小屋を基地局化

ソフトバンクでは、もう一つの方法によって富士山のエリア対策を進めていると、楠見氏は話す。それは「無線エントランス」を用い、富士山に携帯電話基地局を作ってしまうというものだ。

無線エントランスとは、簡単に言ってしまえば携帯電話事業者の基幹のネットワークから基地局までをつなぐ伝送路に、光ファイバーではなく無線の電波を用いるというもの。光ファイバーと比べ通信速度や容量は落ちるが、光ファイバーを敷設できない場所にも柔軟に対応できることから、ケーブルを引くのが難しい離島のエリアカバーや、災害発生時の一時的なエリア復旧などに用いられることが多い。

ソフトバンクでは富士山のエリア対策に当たり、5GHz帯の周波数帯を用いた無線エントランスを活用。地上に設置された電波塔から、山小屋などに設置された基地局に向けて5GHz帯の電波を射出。それを基地局側が受け、そこから携帯電話の電波を射出することにより、周辺のエリアをカバーするわけだ。

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富士山頂の山小屋に設置された無線エントランスのアンテナ。先程の電波塔から射出された5GHz帯の電波を受けることで、山小屋に携帯電話基地局を構築する

アンテナはシーズン終了時に外す必要あり

富士山頂までの登山ルートには、大きく分けて「富士吉田」「富士宮」「須走」「御殿場」の4つがあり、今回筆者らが通ったのは須走ルート。その本八合目にある山小屋の側面には、無線エントランスを用いたソフトバンクの基地局が設置されていた。

この基地局は須走ルートの登山道全体をカバーするために用いられているそうで、無線エントランスを受信するためのアンテナと、携帯電話の電波を山頂方面に射出する上向きのアンテナ、そして下の登山道をカバーする2つのアンテナが設置されている。


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須走ルートの本八合目にある山小屋の側面に設置されたアンテナ。上の四角いアンテナが無線エントランス用で、他の3つがLTEの電波を射出するアンテナとなる

楠見氏によると、無線エントランスを用いる最大の理由は、やはり富士山に直接基地局を設置することで、より多くの人に快適な通信環境を提供できることだという。最近ではLTEによる高速・大容量通信が広く普及し、トラフィックの量も増える傾向にあるだけに、レピーターよりも無線エントランスによるエリア構築が主体となっているようだ。

ただ楠見氏によると、富士山のエリア対策をする上では、そうした技術面以外にも課題がいくつかあるとのこと。何より大きな課題となるのはアンテナの設置・管理だ。アンテナをはじめとした基地局設備の多くは、登山道や山頂にある山小屋などに許諾を得て設置しているが、「アンテナを設置したままにしておくと、冬の雨や積雪などで、設置許可を頂いている山小屋の建物に影響を与えてしまう可能性がある」(楠見氏)ことから、年中設置したままにしておくわけにはいかないのだそうだ。

しかもアンテナは、冬場の気温や湿度の変化などによって故障してしまう可能性もあることから、外して現地に保管しておくことも難しいという。それゆえ毎年、山開きシーズン開始直前にアンテナを地上から運搬して設置し、シーズン終了後にアンテナを外して地上に運搬する、という作業を繰り返しているのだと、楠見氏は話す。


筆者が富士山に登頂したのは全ての登山ルートが解禁される7月10日であったことから、ちょうど富士宮ルート頂上の山小屋にアンテナを運搬し、設置する様子も見ることができた。ちなみにアンテナなど必要な機材は専用のブルドーザーで地上から3時間かけて運搬し、作業員は3泊4日のスケジュールでアンテナの設置や、地上と連携して無線エントランスの調整などの作業を進めるとのこと。この間作業員は山小屋に宿泊し、風呂に入ることもできないなど、大変な環境での作業になるようだ。

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専用のブルドーザーをチャーターしてアンテナなどの機材を運搬する。3時間かけて地上から荷物などを運ぶとのことだ

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富士宮ルート山頂の山小屋では、早速運搬されたアンテナなどを用いて工事が進められた


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シャープミュージアム 早川徳次

シャープ株式会社
  • 1912年 - 早川徳次東京で創業した。徳尾錠というベルトのバックルの発明が始まりである。
  • 1915年 - 金属製繰出鉛筆(早川式繰出鉛筆)を発明。販売開始後、商品名をエバー・レディ・シャープ・ペンシルに変えた。アメリカで爆発的にヒット。現在の社名はこれに由来する。
  • 1923年 - 関東大震災によりシャープペンシル工場を焼失。早川は家族もすべて失い、大阪へ移り再起を図った。
  • 1925年 - 鉱石ラジオをシャープの名前で発売。戦前の主力商品となる。
  • 戦後、総合家電では松下電器産業ソニーが台頭し、営業・販売力においてこの2社に圧倒的な差を付けられていた上、シャープ製のテレビ(ブラウン管アメリカ等海外製)が突然発火して大火事になった事件などもあり、低迷の時代が続く。
  • 1962年 - 日本の家電企業で初めて電子レンジを発売(当初は業務用)。1966年には世界初のターンテーブル方式の電子レンジを開発する。
  • 1963年 - 太陽電池の量産を開始。なお、一般の電池(乾電池二次電池など)は生産していない。
  • 1964年 - オールトランジスタダイオードによる電子式卓上計算機(世界初)を開発。その後のカシオなどとの電卓戦争の中で、表示部品としての液晶技術の開発を始め、1973年、液晶を表示装置に使ったCMOS化電卓(世界初)を開発。この経験が「液晶のシャープ」と呼ばれる現在につながっている。
  • 1970年1月1日 - 社名をシャープ株式会社に変更。シンボルマークをリニューアル。なお、早川電機時代のシンボルマーク(楕円形にSharp)は社名変更後も正式な社章として引き継がれた。
  • 2016年
    • 4月2日 - 経営の失敗を受けて、台湾に本拠を置く鴻海精密工業が3分の2弱の株式を取得し、日本の大手電機メーカーとしては初の外資傘下の企業となる[4]
    • 7月1日 - 長年本社を置き続けた大阪市阿倍野区から、工場がある堺市堺区へ本社を移転した


  • 早川徳次 (シャープ)



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    早川 徳次(はやかわ とくじ、1893年明治26年)11月3日 - 1980年昭和55年)6月24日)は日本実業家発明家総合家電メーカーシャープ創業者。シャープペンシルバックル「徳尾錠」の発明で知られる。東京府(現・東京都)出身。大正三美人として知られる江木欣々は異父姉。

    徳尾錠の考案[編集]

    1909年(明治42年)4月15日、7年7か月の年季奉公を勤め上げ、その後、1年間のお礼奉公を終えて、徳次は一人前の錺職人となった。1912年(明治45年)、ベルトに穴を開けずに使えるバックル「徳尾錠」[1]を考案し、33グロス(4,752個)の大量受注を機に独立する。

    1912年(大正元年)9月15日、本所区松井町1丁目30番地(現・江東区新大橋)の民家を借り、開業資金50円(うち40円は借金)、従業員2名の金属加工業を開業した[2]。寝る間も惜しんで働き、翌月には借りた40円を返済した。1913年(大正2年)には、新たに水道自在器(蛇口:5号巻島式水道自在器)を発明して特許を取得し、こちらも大ヒットした。

    1914年(大正3年)3月、清水政吉の長女・文子と結婚。同時に住宅兼仕事場を本所区林町2丁目35番地(現・墨田区立川)へ移転。従業員を7名に増やすと共に、200円の大金を投じて1馬力モーターを設置し、作業の効率化を図った。

    また独立と前後して、自分が出野家に養子に入ったこと、実の両親が既に死亡していることを知り、生き別れの兄姉と再会する。兄の政治(まさはる)と一緒に仕事をするようになり、徳次が製品開発、政治が販売を主に担当した。



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    シャープペンシルの発明

    政治が扱っていた雑貨から、徳次は金属文具に着目して万年筆の付属金具のクリップや金輪の製造を手掛けるようになった。取引先も拡大し、そのうちの1社「プラム製作所」の中田清三郎から依頼された繰出鉛筆(後のシャープペンシル)の内部部品製造が大きな転機となった。徳次以前からシャープペンシルの原型は存在したが、セルロイド製で非常に壊れやすい代物だった。徳次は創意工夫して、内部に真鍮の一枚板の部品を使用、外装もニッケルメッキを施した金属軸とすることで実用性と装飾性の高い製品を完成させた。

    1915年(大正4年)、早川姓に復籍して「早川式繰出鉛筆」の名称で特許を申請[3]。兄の政治と「早川兄弟(けいてい)商会金属文具製作所」を設立して販売を開始した。しかし「和服には向かない」「金属製は冷たく感じる」など評判は芳しくなく、全く売れなかった。それでも銀座文房具店・伊東屋に試作品を置いてもらうなどの努力を続けるうちに第一次世界大戦で品薄となった欧米で売れるようになり、海外での高い評価が伝わると日本国内でも注文が殺到するようになった。

    輸出向け商品は、最初はプロペリングペンシル、スクリューペンシル(軸をひねってを出す機構だったため)の名称で販売した。翌1916年(大正5年)に芯をさらに細いものに改良した際、関西総代理店の福井商店(現・ライオン事務器)の勧めで「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」(“Ever-Ready Sharp Pencil”:常備芯尖鉛筆)と改名したが、後に当初考案していた「シャープペンシル」に改名して、日本国内では繰出鉛筆の代名詞として今日まで広く使われるようになった。この初代シャープペンシル(早川式繰出鉛筆)は奈良県天理市のシャープ歴史・技術ホール天理で保管・展示されており、プラチナ萬年筆が復刻して限定販売を行っている[4][5]

    徳次は商品の大量生産のため、当時としては先駆的な試みの流れ作業を工場に導入。1919年(大正8年)には林町の工場付近の土地を購入して、120(約400m2)の新工場と24坪(約80m2)の事務所を建設。新工場にはコンベアシステムを導入、従業員は100名を超えた。会社の規模は大きくなっていき、1920年(大正9年)には押上(現・墨田区八広)に分工場を増設。翌1921年(大正10年)には、第3工場建設用地として亀戸に250坪(約830m2)の土地を購入した。1923年(大正12年)には林町の工場を300坪(約990m2)に拡張、従業員も200名を越え、月間売上高5万円と業績も順調に推移した。

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    ラジオ事業[編集]

    1923年(大正12年)12月に大阪へと移り、14人の従業員と共に技術指導を行う。1924年(大正13年)8月、契約を満了して日本文具製造を退社する。徳次は大阪で再起を図ることを決意し、関東大震災から1年後の1924年(大正13年)9月1日、大阪府東成郡田辺町大字猿山25番田(現・大阪市阿倍野区長池町、2016年〈平成28年〉6月30日までのシャープ本社所在地)に「早川金属工業研究所」を設立。当初は万年筆の付属金具の製造販売を行っていたが、徳次は新規事業を模索し、海外で実用化されていたラジオに興味を持った。大阪の心斎橋にある縁戚の石原時計店を訪ねると、アメリカから輸入された鉱石ラジオ2台が届いたところで、そのうち1台を7円50銭で購入。持ち帰ったラジオを従業員と分解(リバースエンジニアリング)して研究を始めた。当時の日本ではラジオ放送が始まっていなかったので、モールス符号の手動電鍵を設置して実験を行った。

    ラジオや電気に関する知識を誰も持ち合わせていなかったが、部品を忠実に模倣して再現することに成功。1925年(大正14年)4月に国産第1号機の鉱石ラジオ受信機の開発に成功する。同年6月1日に始まった社団法人大阪放送局(JOBK:現在のNHK大阪放送局)の仮放送では明瞭な音声が聞こえ、全員で抱き合って喜んだという。このラジオ放送開始を機に鉱石ラジオの市販を開始。外国製品の半額以下の3円50銭で販売した商品は、爆発的に売れ、ラジオにまもなく“シャープ”というブランド名を付ける。1929年昭和4年)には遠距離でも受信可能な交流式真空管ラジオを発売した。

    その後、ラジオの普及と共に業績は拡大、1935年(昭和10年)5月1日、新大阪ホテル(現・リーガロイヤルホテル)で「株式会社早川金属工業研究所」の創立集会を開き、資本金30万円で法人化、徳次は取締役社長に就任する。当時は工場の敷地面積3,042坪(約10,056m2)、建物面積962坪(約3,181m2)、従業員数564人の陣容だった。同月中に20万円増資して資本金は50万円となった。

    1936年(昭和11年)6月、ラジオ事業の確立を機に社名を「早川金属工業株式会社」に改称。1938年(昭和13年)9月には満洲国満洲電信電話から2万台のラジオを大量受注すると、間歇(かんけつ)式コンベア装置を開発して対応し、生産の効率化と大幅なコストダウンを実現した。

    1942年(昭和17年)5月には「早川電機工業株式会社」に再度社名を変更し、短波超短波研究のための研究所を設立。また、同年7月に帝国海軍から高度な技術が必要な航空無線機30台の試作を依頼され、翌1943年(昭和18年)1月10日までに完納した。


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    第二次世界大戦後[編集]

    太平洋戦争終結後は、物不足とドッジ・ラインから経営は困難が続いた。1949年(昭和24年)に大阪証券取引所株式上場を果たすが、1950年(昭和25年)には大きな赤字を出し、倒産の危機に追い込まれた。銀行から追加融資の条件として人員の削減が提示されたため、徳次は「人員を解雇するくらいなら会社を解散するほうがいい」と考えて全従業員に伝えたが、社員から「会社を倒すな!」の声が上がり、労働組合も自主的に希望退職者を募って対応した。これによって銀行からの融資が実現し、倒産の危機を免れて経営再建を果たした。

    同年6月25日に発生した朝鮮戦争に伴う朝鮮特需で経営は持ち直したが、多角的な商品が必要と判断。ラジオだけでなくテレビ電卓など、総合家電メーカーへの道へと進む。

    1951年(昭和26年)にテレビの国産第1号の試作に成功。1952年(昭和27年)、徳次は研究部長を伴ってアメリカのRCA社を訪問し、同年6月19日に技術援助契約を締結。帰国後直ちに12、14、17型の試作機の製作を開始した。1953年(昭和27年)2月のテレビ放送開始を前に、国産第1号テレビTV3-14T(販売価格17万5000円)を発売した。このテレビは第2回(2009年重要科学技術史資料(未来技術遺産)第00031号に指定されている[6]

    1962年(昭和37年)には国産第1号電子レンジを発売。1964年(昭和39年)には世界初のオールトランジスタ方式の電子式卓上計算機「コンペット(CS-10A)」を開発し、こちらは第1回(2008年)重要科学技術史資料(未来技術遺産)第00017号に指定されている[7]

    1970年(昭和45年)1月1日、早川電機工業株式会社から「シャープ株式会社」へ社名を変更。同年9月15日に会長に退き、後任に佐伯旭専務(当時)が就任する。

    1980年(昭和55年)6月24日逝去。享年86。同年7月12日に東本願寺難波別院(南御堂)に於いて社葬が執り行われた。1981年(昭和56年)11月に、徳次の遺徳を偲んで奈良県天理市の総合開発センター内に「歴史ホール」と「展示ホール」が完成。歴史ホールには徳次が発明考案した徳尾錠やシャープペンシルを始め、鉱石ラジオやテレビ、電卓などのシャープを代表する製品が保存・展示されている。


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    シャープ sharp 夏普 早川電機工業 1912年創業 100年企業 写真集




    早川徳次






    シャープの歴史





    1977-1991 シャープCM集






    '78-91 家電CM集 vol.6 小型コンピュータ




    真空管ラジオ  シャープ  早川電機工業  UC-228 「西郷 輝彦 江戸を斬るⅢ」を聴いてみました

    昭和34年発売、使用真空管は、(12BE6-12BA6-12AV6-35C5-35W4)です




    真空管ラジオ シャープ 早川電機工業 5X-76 「ペギー葉山 学生時代」を聴いてみました
    使用真空管はmT管(12BE6-12BD6-12AV6-35C5-35W4)、





    シャープ “白物家電”の国内生産から撤退へ(18/08/03)












               パナソニックミュージアム

パナソニック創業者・松下幸之助は、「企業は社会の公器」という経営理念を確立し、
「事業を通じて社会に貢献する」ことを実践するとともに、企業人としての枠を超え、
広く人類の繁栄と幸福を願い、その実現に情熱を傾けてきました。

1918年の創業以来、100年。
そこには、より良いくらし、より良い社会を追い求め続けた
松下幸之助の高い志、「行き方・考え方」を数多の後進が受け継ぎ、
数々の製品や技術を生み出してきたパナソニックならではの企業文化があります。

「パナソニックミュージアム」は、皆様へ創業100周年の感謝とともに、
松下幸之助の言葉や、歴代の製品に触れて頂きながら、その熱き思い、
パナソニックの“心”を未来に伝承したいという思いから、開設致しました。
広く皆様に開かれた豊かな学びの場として、皆様の「行き方・考え方」のヒントを
見つけて頂ければ幸いです。

社会、経済、産業・・・あらゆる面で大きな転換期にある今日、
パナソニックは、“社会の発展にお役に立つ企業”であり続けたいと願っております。

皆様、お誘いあわせの上、お気軽に足をお運びください。
ご来場を、心よりお待ちいたしております。
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          「経営の神様」松下幸之助という人間





            teテレビジョン 日映科学映画製作所製作



            昭和15年のテレビジョン実験放送風景




              Seiko 日本初のテレビCM



            '77-80 家電CM集 vol.5 テレビ1



    


            1960年代ナショナル松下電工CM4種



          


         「電子の技術ーテレビジョン」東京シネマ1961年製作



          新しい暮らしを創るー松下電器 東京シネマ製作




           [力の技術ーモートル」東京シネマ1953年製作




       【CM 1996年】Panasonic パナソニック アルカリ乾電池 30秒





          【電池】エボルタチャレンジ 2008-2017【パナソニック公式】




      




Meet the Navy EOD





EOD at Work3.mov





Initial Success or Total Failure





EOD Technicians Conduct EODEX 2019





EOD Lateral Move Screener





Keeping Our Honor Clean: EOD Technicians





EOD Technicians





US Army in Intense Training Exercise - Combined Arms Live-Fire Exercise (CALFEX)








二度と見られないめちゃくちゃ素晴らしい発明

 Insanely Great Inventions You Won’t See Again













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