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2020年07月


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今日は何の日 6月25日  朝鮮戦争勃発 ソウル陥落
1950年(昭和25年)
北朝鮮軍が38度線を越えて南に進攻し、朝鮮戦争が勃発。3日後に韓国全土をほぼ制圧  2022年現在も戦時中
朝鮮戦争は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で生じた、朝鮮半島の主権を巡る国際紛争ソ連崩壊を受けて公開された機密文書によると、1950年6月25日にソ連のヨシフ・スターリン書記長の同意と支援を取り付けた金日成首相率いる北朝鮮が事実上の国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略戦争を仕掛け(国際政治史を専門とする五百旗頭真も奇襲と呼ぶ)勃発した。分断国家朝鮮の両当事国、北朝鮮と韓国のみならず、東西冷戦の文脈の中で西側自由主義陣営諸国を中心とした国連軍と東側社会主義陣営諸国の支援を受ける中国人民志願軍が交戦勢力として参戦し、3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化して荒廃させた。1953年7月27日に国連軍と中朝連合軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、南北二国の分断状態が続くこととなった。
終戦ではなく休戦状態であるため、名目上は2022年現在も戦時中であり、南北朝鮮の両国間、及び北朝鮮とアメリカ合衆国との間に平和条約は締結されていない。2018年4月27日、板門店で第3回南北首脳会談が開かれ、2018年中の終戦を目指す板門店宣言が発表されたが、実現には至らなかった。

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7月11日小倉黒人米兵集団脱走事件 朝鮮戦争ソウル陥落

朝鮮戦争に送られる予定の米兵250人が集団で脱走し、略奪・傷害などを行う。鎮圧のため米陸軍2個中隊が投入され、15日に鎮圧 - 小倉黒人米兵集団脱走事件 小倉黒人米兵集団脱走事件は1950年7月11日、小倉市(現北九州市)で、基地から多数の在日米軍のアフリカ系アメリカ人(黒人)兵が集団脱走し、周辺地区の住民に暴行を行なった騒擾事件。概要 連合国軍占領下の1950年7月11日に、アメリカ軍の駐屯する小倉市・城野補給基地から武装した黒人兵士約75~250名が脱走、数名ずつに分かれて繁華街や周辺民家に侵入し、破壊、略奪、傷害、強姦など犯罪行為を繰り返した。脱走兵らはカービン銃やライフル銃を手にし、手榴弾をぶら下げている者もおり、少人数のアメリカ軍憲兵と小倉警察では対応できず、アメリカ陸軍二個中隊が鎮圧のために出動する翌日12日には収束に向かうが、市街戦の末15日に鎮圧したともいう彼らは前日10日に岐阜から城野補給基地第24連隊に移送され、近いうちに朝鮮戦争の前線に送られる予定であった。事件当時は国連軍が連戦連敗の劣勢の時期で、危険な戦場に送られる恐怖と自暴自棄が脱走につながったともいう。生き残った逮捕者は朝鮮半島の激戦地に送られ、ほとんどが戦死したともいう大事件ではあったが、当時の日本が連合国軍の占領下であったことから、GHQによる情報規制のためほとんど報道されず、被害の詳細もわかっていない。警察に届けられた被害は70数件に過ぎないが、被害者や周囲がひた隠しにして表ざたにならない性暴行事件も多数あったと伝えられる●1950年(昭和25年)6月28日ソウル陥落●『黒地の絵』 松本清張著-この事件を題材にした小説

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黒地の絵 傑作短編集〔二〕

松本清張/著

現代小説の第2集。朝鮮戦争のさなか、米軍黒人兵の集団脱走事件の起った基地小倉を舞台に、妻を犯された男のすさまじいまでの復讐を描く「黒地の絵」。美術界における計画的な贋作事件をスリリングに描きながら、形骸化したアカデミズム、閉鎖的な学界を糾弾した「真贋の森」。他に、一画家のなにげない評伝から恐るべき真実を探り当てる「装飾評伝」など7編を収める。
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朝鮮戦争

朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族分断国家である大韓民国(南朝鮮、韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で生じた朝鮮半島主権を巡る国際紛争[11][12][13][14][15]1950年6月25日金日成率いる北朝鮮が事実上の国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けたことによって勃発した[16][17]

分断国家朝鮮の両当事国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のみならず、東西冷戦の文脈の中で西側自由主義陣営諸国を中心とした国連軍東側社会主義陣営諸国の支援を受ける中国人民志願軍が交戦勢力として参戦し、3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化して荒廃させた。1953年7月27日に国連軍と中朝連合軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断された。

終戦ではなく休戦状態であるため、名目上は現在も戦時中であり、南北朝鮮の両国間、及び北朝鮮とアメリカ合衆国との間に平和条約は締結されていない。2018年4月27日板門店第3回南北首脳会談が開かれ、2018年中の終戦を目指す板門店宣言が発表されたが、実現には至らなかった。


朝鮮戦争ソウル陥落

戦闘に到る経緯

1950年6月25日早朝、北朝鮮軍は韓国との国境線北緯38度線)の全線に渡って越境し、攻撃を開始した。北朝鮮の作戦構想は、ソウルの陥落によって韓国軍は崩壊し、事実上勝敗を決するであろうという前提に基づいていた[1]。この前提のもと、北朝鮮軍は部隊を2つの軍団に編成し、第1軍団を主攻としてソウルに対して求心的な攻撃を実施し、第2軍団は助攻としてこれを援護するように指導した。韓国はこの攻勢を予期しておらず、一部の部隊が独自の判断で警戒態勢を取っていたのみであったため、北朝鮮は、ほぼ完全な奇襲を達成した[2]

北朝鮮軍は兵力・装備・錬度のいずれにおいても、韓国軍と比して相当に優越していた。特に戦車については、韓国軍に有効な対戦車火器が欠けていたこともあり、韓国兵に根強い恐怖心を抱かせるまでに至り、このため、戦線の全域で、北朝鮮軍優位に戦況は推移した。しかし、北朝鮮の予期とは異なり、韓国兵の戦意は極めて旺盛で[1]、肉薄攻撃によって戦車が撃破される例も多々見られた[2]。また、前方防御部隊の多くは、河川障害や錯雑地形を活用して巧みな防御戦を展開しており、これらの障害に欠けていた議政府正面を除いて、韓国軍の防御線は決定的な破綻を来たすには到らなかった。しかし議政府正面においては、機甲部隊の衝撃力を利用した北朝鮮軍の攻勢により、議政府市の防御は危険な状態に陥りつつあった。


朝鮮戦争の1950年、韓国軍はソウル市民を見捨て、橋を爆破して逃げた

6月28日は、朝鮮戦争初期、韓国軍が首都ソウルの漢江に架かる鉄橋を爆破し、多数の犠牲者が出た日だ。大勢の避難民が橋の上にいるにもかかわらず爆破作戦が実行され、500人とも1500人とも言われる人々が死亡した。

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漢江大橋の爆破場面。アメリカ・NBCの従軍記者が撮影したとされる

大統領が逃げ、国民を欺き続ける中で、北朝鮮の南進を少しでも遅らせるため、韓国軍はソウルを東西に流れる漢江の人道橋(人間、車用)を爆破した。

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漢江大橋の爆破後、浮き橋で川を渡る人々。韓国国防部「朝鮮戦争60周年事業団」のブログから

韓国の聖公会大学教授、韓洪九氏は以下のように当時の状況を説明している。

6月28日午前2時30分頃、総参謀長チェ・ビョンドク一行が漢江歩道橋を通過した直後、陸軍工兵監大佐チェ・チャンシクは漢江橋の爆破を命令した。

市民に安心して生業に従事しろと言っておきながら、自分たちだけが抜け出た後に橋を落としてしまったことも真に問題だが、本当に許されないことは、爆破当時に漢江橋には避難民が多数いたという点だ。 阿鼻叫喚、橋の上に何人いたかは分からず、死体を収容したわけでもないので、いったい何人が無念の死に至ったのかは分からないが、関係者たちは少なくて500人、多くて1500人が命を失ったと推定している。

(ハンギョレ「[歴史と責任①] セウォル号の悪魔、大韓民国の悪魔…」より 2014/06/09 12:13)

多数の民間人を犠牲にした作戦だったが、離れた場所に架かっている鉄道用の鉄橋は爆破に失敗し、北朝鮮軍の南進を防ぐ効果はなかった



9月15日、国連軍が仁川上陸作戦を成功させ、韓国軍と国連軍の反攻が始まった。橋を爆破した現場責任者の工兵は、失敗した作戦の責任を取らされて処刑された。

李承晩政権は犠牲の羊を探した。橋爆破の現場責任者であった29才の若き大佐チェ・チャンシクだった。 仁川上陸作戦が敢行されたまさにその日、臨時首都であった釜山(プサン)で開かれた戒厳高等軍法会議は、チェ・チャンシクに国防警備法27条の‘敵前非行罪’を適用し死刑を宣告した。 チェ・チャンシクは、自身は命令に従っただけだと抗弁したが効果がなかった。

当時判決文は、チェ・チャンシクの漢江橋爆破で莫大な車両と軍人が墜落し、無事な車両装備および軍需物資が敵に捕獲され、数万の兵力が渡江できない混乱が発生したとし、すべての責任をチェ・チャンシクに押しつけた。 9月21日チェ・チャンシクは釜山郊外で処刑された。

(ハンギョレ「[歴史と責任①] セウォル号の悪魔、大韓民国の悪魔…」より 2014/06/09 12:13)

韓国国防部の朝鮮戦争60年事業団のブログは「為政者による無責任の極致だった」と批判している


ソウル陥落

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1950年6月25日早朝、北緯38度線で、突如、轟音がとどろいた。
北朝鮮軍が韓国に向けて砲撃を開始したのである。砲撃が終わると、
300両の最新鋭のソ連製戦車部隊を先頭に、10万人を超える
勇猛果敢な金日成の北朝鮮軍が北緯38度線を突破して韓国に雪崩れ込んだ。

北朝鮮のピョンヤン放送は、「我々は、アメリカ帝国主義の傀儡、
李承晩政権から、韓国人民を解放する」と、世界中に、高らかに告げた。

原因・理由は何であるにせよ、平和に暮らしている国に、一方的な奇襲攻撃で
戦争を仕掛けるということは、最高に極悪非道な犯罪行為である。

平和であった韓国に、突如、奇襲攻撃で侵略戦争を仕掛けた金日成は、
一点の疑いもなく、極悪非道な戦争犯罪者である。

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この電光石火の北朝鮮の奇襲攻撃に対し、李承晩の韓国はなすすべがなかった。

対日憎悪感の権化・李承晩は、いかに日本に報復するかに没頭しており、
北朝鮮が侵攻するなどとは、まったく考えていなかった。

勘違い、誤報、意図的な偽情報が韓国中を飛びかった。

何が事実なのか誰も分からなかった。さらに、驚くべきことに、この北朝鮮
奇襲攻撃の事実が、大統領の李承晩に知らされたのは、砲撃開始・戦車隊の
北緯38度線突破から数時間たった後であった。

対日報復の鬼・李承晩の韓国は、金日成の北朝鮮に対する警戒心は
まったくなかった。それほど、金日成を信用していたのである。

2.北朝鮮軍の快進撃

無知・無能・無策・無責任な李承晩を筆頭に、当時の韓国政府が、うろたえて、
右往左往している間に、北朝鮮軍は恐ろしいスピードで南下してきた。

開城(ケソン)はたった数時間で陥落。その60km南の首都ソウルの
防衛ラインは、次々と、楽々に突破され、韓国軍はひたすら敗走を続けた。

このようなワンサイドな戦いとなったのは、奇襲にもよるが、軍事力でも、
北朝鮮軍と韓国軍とでは、圧倒的な差があったからである。

韓国軍は、総兵力10万人。戦車はゼロ。大砲もわずか91門。

これに対して、北朝鮮軍は、総兵力20万人、ソ連製最新鋭T-34戦車など300両、
大砲も最新鋭のSU-76M自走砲など552門と、圧倒的に優勢な戦力であった。

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北朝鮮の主力戦車は第2次世界大戦のソ連の傑作、最新鋭のT-34戦車である。
韓国軍の火砲は、T-34戦車の分厚い装甲を撃ち抜くことができなかった。
陸上の戦闘を制するのは、火力と機動力である。つまり、重火器と戦車である。

この2つにおいて、北朝鮮軍は韓国軍を圧倒した。加えて、北朝鮮軍は、
この日に備えて、猛訓練を重ねていた。一方の李承晩の韓国軍は、
戦争が起こるなど夢にも思っていなかった。
つまり、練度と戦意においても、北朝鮮と韓国では天地の差があった。

1950年6月27日、トルーマン米国大統領が主導し、国連安保理が開催され、
北朝鮮非難決議が採択された。

しかし、その間にも、北朝鮮軍の侵攻はつづいた。北朝鮮軍のT-34戦車が
戦場に現れると、韓国軍は、一戦も交わさず、ひたすら逃げた。

戦況は絶望的だった。重戦車と軽歩兵の戦いは、針でバターを刺すようなもの。
李承晩の韓国政府はいち早くソウルを捨て、33km南方の水原に首都を移した。

3.米国の朝鮮戦争参戦

トルーマン大統領は、矢継ぎ早に命令を発した。在日米軍を釜山(プサン)
派遣し、海軍を韓国海域に出動させた。さらに、台湾を中国から守るため、
第7艦隊を極東に派遣した。そして、この作戦のすべての指揮権を、東京にいた
マッカーサー元帥に与えた。トルーマン大統領は、前任のルーズベルト大統領とは
違って、反共意識が強く、決断も行動も迅速だった。

マッカーサー元帥は、最年少で少将に昇進、50才で米国陸軍参謀総長になる。
太平洋戦争では日本軍と戦い勝利した。日本敗戦後は、SCAP/GHQの
最高司令官として日本占領業務にあたっていた。

極東で突然勃発した事件の解決は、この70歳の老将軍に委ねられた。

1950年6月28日、韓国軍の将兵とソウル市民が、首都ソウルを脱出し、
漢江の橋に殺到した。このとき、韓国軍は北朝鮮軍の追撃を防ぐため橋を爆破した。

ところが、ソウル市民の渡橋は、まだ終わっておらず、数百人が犠牲になった。
さらに、漢江の橋が爆破されたため、多くの市民がソウルに取り残された。この日の
夕方、北朝鮮軍はソウルを完全制圧した。


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徴兵された韓国の一般市民は、まともな武器は持たされず、「弾丸避け(タマヨケ))」に使われた。

4.韓国政府降伏で戦争終了の事態に

6月29日、マッカーサー元帥は東京から朝鮮半島に飛んだ。自分の目で、
状況を確認するためである。前線を視察したマッカーサー元帥は、

韓国軍主導では、勝ち目は100%ないと判断した。

そして、直ちに、トルーマン大統領に米国地上軍の派遣を要請した。ところが、
スターリンのソ連が、「朝鮮の内政問題に外国が介入すべきではない」と
主張したため、トルーマン大統領は米地上軍の派遣を躊躇した。

いずれ、国連軍は出動するだろうが、それまで韓国はもたない。
マッカーサー元帥はそう確信した。

すでに、首都ソウルが占領されている。マッカーサー元帥は、トルーマン大統領に
爆撃の許可を申請し、回答を待たず爆撃を敢行した。

もし、当時、米軍の最高司令官がマッカーサー元帥でなかったら、1950年8月末に
北朝鮮軍が朝鮮全土を制圧し、韓国政府が降伏して、朝鮮戦争が終わっていた
可能性が高い。

6月30日、北朝鮮軍は、漢江を渡河し、南進を再開した。朝鮮半島最南端の
釜山(プサン)までわずか330km。「東京~大阪」の距離である。

釜山が陥落すれば、戦争は終わる。北朝鮮軍は、韓国の臨時首都、水原に
猛攻撃を加えた。韓国軍の指揮系統・連絡網はズタズタになり、水原の陥落は
時間の問題だった。マッカーサー元帥は、再びトルーマン大統領に米地上軍
投入を迫り、ついに認めさせた。

7月1日、臨時首都の水原は陥落。李承晩は釜山に逃げ込んだ。

このとき、敗走する李承晩は、自国を守れず遁走しながら、武器を持たない
一般市民を、共産党関係者だと決めつけ、20万人以上の一般市民を
虐殺した。武器を持った北朝鮮軍の前では、味方を見捨てて、ひたすら
逃げ隠れした李承晩は、武器を持たない自国の一般市民を、平気で虐殺
したのである。李承晩は本当に悪い奴であった。
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朝鮮戦争以前においても、反共の闘士と自称する李承晩は、赤狩りと称して、済州島等の
自分に反対する南朝鮮労働党と人民委員会を徹底的に弾圧した。軍隊を投入して、反対する
一般市民6万人以上を虐殺した。済州島の村々の70%を焼き尽くした。


同日、7月1日、在日米軍が釜山に上陸した。同時に、沖縄基地から爆撃機B29が発進、
北朝鮮軍を爆撃した。

7月2日、在日米軍は北上して大田(テジョン)に到着した。大田は、ソウルと
釜山をむすぶ要衝である。在日米軍はここに強固な防衛線を築き、北朝鮮軍を
食い止める作戦だった。

7月3日、漢江の橋の修復が終わると、北朝鮮軍の戦車が漢江南岸に殺到した。
韓国の防衛線は一瞬にして崩壊した。小火器で重戦車に挑むのは、どだい、
ムリな話なのである。

ところで、なぜ韓国軍は戦車を持っていなかったのか? じつは、1年後に、
米国からM26戦車を受領する予定だった。 北朝鮮の奇襲が1年後であった
ならば、状況は変わっていたかもしれない。

7月7日、米国を中心に、16ヵ国が参加して国連軍が編成された。しかし、
こうしている間にも、北朝鮮軍の南進は続いていた。在日米軍は、大田から
北上を試みたが失敗、逆に押し返されてしまう。その後、国連軍も合流したが、
7月中頃までに、兵数は半減、大田の維持すら困難になった。そこで、
韓国政府は大邱に逃げ込んだ。

7月20日、北朝鮮軍の猛攻で大田が陥落した。

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さらに、8月末までに、国連軍は、大邱と釜山、朝鮮半島南部に押し込まれた。
このままでは、全軍が日本海に追い落とされる。

しかし、背水の陣となった国連軍は必死だった。米軍の将軍たちはこう宣言した。
「朝鮮半島からの撤退はありえない。我々は最後まで戦う」
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5.マッカーサー元帥の反撃

一方、北朝鮮軍にもアキレス腱があった。快進撃の結果、兵站線が伸びきっていた。
ピョンヤンから大邱まで、直線距離にして400km。

兵站とは、戦闘部隊の後方支援で、燃料・弾薬・食料の補給、兵員や兵器の
補充を行う。兵站線が長いほど補給は難しくなり、兵站線を途中で絶たれる可能性もある。
当然、兵站線を絶たれた先には補給は届かない。兵站線は軍隊の血管なのだ。

北朝鮮軍は優勢だったが、国連軍に対する最後の一撃が打ち込めなかった。

一方、国連軍は、防戦一方で、反撃する余力はなかった。

そこで、マッカーサー元帥は、戦況を一転させる奇襲を断行する。

兵站線の真ん中、仁川に強襲上陸し、北朝鮮軍を南北から挟撃するのである。
単純明快、鮮やかな作戦だが、包囲殲滅される可能性もある。奇策、どちらかと
いうとバクチに近い。これが歴史に残る「仁川上陸作戦(クロマイト作戦)」である。

9月15日、国連・韓国軍は仁川に奇襲上陸した。危険な敵前上陸を任務とする
米海兵隊を先頭に、7万人が上陸に成功した。このとき、M26重戦車をはじめ、
重火器も大量に送り込まれた。

北朝鮮軍は、国連・韓国軍に挟撃され、算を乱して逃走し始めた。戦局は一変した。

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6.中国軍参戦を招いた李承晩の北進決定

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9月28日、国連・韓国軍はソウルを奪還した。翌日、韓国政府もソウルに戻った。
かねてより、南北統一をもくろんでいた李承晩にとって、棚からぼた餅のいチャンス
だった。

無知・無能・無策・無責任な、対日憎悪感の権化・対日報復の鬼・李承晩は、
はやる気持ちを抑えきれず、韓国軍単独で北緯38度線を突破させた。
韓国軍は北進した。続いて、国連軍も北進した。

危機感をつのらせた毛沢東の中国は、ここで朝鮮戦争参戦を決定する。
志願兵による義勇軍との名目で、100万人もの正規軍兵力を投入した。

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10月20日、中国軍100万人参戦について何も知らない国連・韓国軍は、
北朝鮮の平壌を占領した。さらに、逃げる北朝鮮軍を追った。

先鋒の韓国軍は、中国との国境、鴨緑江に達した。ここで、中国軍の猛反撃が
始まった。100万人による圧倒的な人海戦術、加えるに、名将・彭徳懐将軍が指揮し、
ゲリラ戦に熟達した中国正規軍が国連・韓国軍に襲いかかった。

中国軍は、国連・韓国軍が、まったく思いもつかなかった、冬山を夜間に踏破して、
国連・韓国軍の背後の高地に陣取り、突然、背後から国連・韓国軍に襲いかかった。
中国軍の夜間山地移動を米軍の偵察機は発見することができなかった。

突然、大地からわき出るような無数の中国兵に襲われて、米国軍の兵士は
パニックに陥った。凄まじい恐怖に駆られた。

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国連・韓国軍は北朝鮮各地で大敗北を喫し、敗走に次ぐ敗走で、北緯38度線の
南へ逃げ帰った。これがトラウマになり、以後、米国軍の現地指揮官たちは、
中国軍とは戦いたくないと考えるようになった。

中国軍は、津波のように国連・韓国軍を呑み込んだ。

12月5日には、中国軍は平壌を奪回した。さらに、ソウルも再占領した。

あまりにもの大敗北に怒り狂ったマッカーサー元帥は、中国に原爆を投下せよと
トルーマン大統領に迫ったが、あっさり、国連軍最高司令官と日本占領軍
最高司令官を解任されてしまう。

6.北朝鮮軍、韓国軍、中国軍と国連軍の人的損害

北朝鮮軍の、戦死者数、約52万人、負傷者数、約41万人といわれる。

韓国軍の、戦死者数・負傷者数は、合わせて約99万人といわれる。

中国軍の、戦死者数は18万4,000人、負傷者数は71万5,900人、
捕虜になった者は2万5,600人といわれている。

国連軍の、戦死者数は3万6,813名、負傷者数は11万4,816名、
行方不明者は6,198名、捕虜になった者は4,439名といわれている。

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7.一般市民、約400万人が死亡
     -金日成と李承晩の戦争犯罪


朝鮮戦争の死亡者の数は、韓国約150万人、北朝鮮約250万人、南北朝鮮合わせて
約400万人といわれている。、総人口の20%にあたる。
つまり、国民の5人に1人が死亡したことになる。

第2次世界大戦の日本の死亡者は約300万人である。総人口の4%である。
朝鮮戦争は、南北殺し合いの、凄まじい戦争であった。

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マリリンモンロー朝鮮戦争慰問


1951年にエージェントのジョニー・ハイドの尽力で『アスファルト・ジャングル』、『イヴの総て』に出演、注目される。以後、数本の映画に脇役で出、1952年の『ノックは無用』で準主役。1953年ナイアガラ』では不倫相手と夫の殺害を計画する悪女を主演し、腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性の注目を集める。続く『紳士は金髪がお好き』、『百万長者と結婚する方法』や『七年目の浮気』が大ヒットして一躍トップスターとなった。

1954年1月14日、かつてメジャーリーグベースボールニューヨーク・ヤンキースに所属し、最も知名度の高いプロ野球選手だったジョー・ディマジオサンフランシスコ市庁舎で結婚。

同年2月1日、読売ジャイアンツの招きもあり、新婚旅行を兼ねてパンアメリカン航空ボーイング377日本を訪れ、東京国際空港で大歓迎を受けた。夫妻は3週間日本に滞在[東京静岡福岡広島大阪とまわり、ディマジオが福岡で松竹国鉄の選抜選手、広島で広島カープ、大阪で阪神タイガースの野球指導を行った福岡までは二人は仲睦まじかったが、広島県総合球場でディマジオがカープ選手に打撃指導を行った際、球場には絶対に来てはいけないと念を押していたモンローが同球場を訪れ、ディマジオそっちのけでファンが殺到した。ディマジオがモンローを叱責したことが離婚の原因ともいわれる

東京の帝国ホテル滞在中、2月5日に米軍高官から兵士慰問の依頼があり、帰国日の2月25日までの間、モンローは日本国内の米軍基地や負傷兵の収容施設・病院などを折に触れて訪問した。また、滞在中の2月16日からの3日間は、朝鮮戦争の休戦協定後も駐留する国連軍兵士の慰問として訪韓している。モンローは米軍関係者とともにヘリコプターやジープなどを乗り継いで、韓国内の国連軍駐屯地の慰問を行った

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【朝鮮戦争】史上最悪の泥沼戦争!元東大生が分かりやすく解説!なぜこうなった?黒幕は誰か?




【ゆっくり歴史解説】朝鮮戦争 ゆっくりで学ぶ冷戦史 第2回


【軍事】 朝鮮戦争の記録 前編



【軍事】 朝鮮戦争の記録 後編


 



Rare Footage Of Marilyn Monroe Entertaining The Troops On Stage In Korea 1954


Footage Of Marilyn Monroe In Korea 1954 - Rare 1960 Interview

 


Footage Of Marilyn Monroe In Korea - "Do It Again" And Newsreel 1954


 

ITT Defense - Sincgars

A Motion Picture History of the Korean War - Restored, 1955



M★A★S★H マッシュop和訳

M★A★S★H マッシュ』(マッシュ、M*A*S*H)は、1970年アメリカ映画朝鮮戦争を舞台に、3人の軍医を描くブラックコメディ映画[2]

リチャード・フッカー原作の小説をロバート・アルトマンが映画化。カンヌ国際映画祭パルム・ドールアカデミー脚色賞を受賞した。

タイトルのMASHとは陸軍移動外科病院(Mobile Army Surgical Hospital)のことを指す


 


M★A★S★H マッシュ 予告編



Johnny Mandel 映画「MASH(マッシュ)」 Sucide is painless


 

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Johnny Mandel 映画「MASH(マッシュ)」 The MASH march



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OCCUPATION OF JAPAN BY U.S. ARMY BIG PICTURE TV SHOW 58124






北朝鮮キム委員長 朝鮮戦争「戦勝記念日」で名前入り拳銃授与
2020年7月27日 15時32分
北朝鮮のキム・ジョンウン(金正恩)朝鮮労働党委員長は、朝鮮戦争でアメリカに勝利した、「戦勝記念日」と位置づける27日に合わせて、軍の指揮官たちにみずからの名前が刻まれた拳銃を授与して忠誠を求めました北朝鮮では朝鮮戦争の休戦から67年となる7月27日を、アメリカに勝利した「戦勝記念日」と位置づけていて祝日にしています北朝鮮国営の朝鮮中央テレビは、キム・ジョンウン委員長が軍の指揮官たちに、みずからの名前が刻まれた拳銃を授与したと伝えましたキム委員長は一人一人に拳銃を手渡したあと、指揮官たちが右手に持った拳銃を頭の上に高く突き上げると、満足そうに拍手しながら笑顔を浮かべていました放送では「最後の血の1滴が残っているときまで、キム委員長からもらった拳銃を心臓に抱き、どのような天変地異が起ころうとも従うことを誓った」と伝えています一方、27日付けの朝鮮労働党の機関紙「労働新聞」は、アメリカとの関係や核・ミサイル開発については触れておらず、ことし11月のアメリカ大統領選挙の情勢を注視しながら、トランプ政権との駆け引きを続けるものとみられます
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おindex
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Kim Jong-un adopts 'maximum emergency system' after defector returns with COVID-19 symptoms



Camp Fujiに訓練遠征している沖縄海兵隊の部隊が富士登山しました

1962年 7月9日 アメリカが高高度核爆発実験「スターフィッシュ・プライム」を実施


スターフィッシュ・プライム Starfish Prime

1962年7月9日 09時00分 ジョンストン島  1.4メガトン
フィッシュボール作戦での実験。高度400kmの外気圏で実施され、通信衛星テルスターNASAの人工衛星トランシット4A、イギリス初の人工衛星アリエル1号[など、当時低軌道を飛んでいた人工衛星の3分の1が破壊された。
また、核爆発によって発生した電磁パルスの影響は予想外の広範囲に及び、人工のオーロラを発生させると共に、爆発した上空から約1,400km離れたハワイでも数百の街灯故障を引き起こしたほか、ハワイの電話システムをダウンさせた


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キングフィッシュ Kingfish

1962年11月1日 12時10分 ジョンストン島 410キロトン
フィッシュボール作戦での実験。PGM-17型ソー・ミサイルと、W-50型核弾頭を組み合わせて高度97kmで行われた。
爆発の影響で美しいオーロラが発生したが、同時に広い範囲の電離層が崩壊したため、太平洋中部の無線通信が3時間以上に渡って混乱した

ドミニク作戦

ドミニク作戦は、1962年にアメリカ合衆国が行った105回にも及ぶ核実験である。実施された作戦のうち、太平洋核実験場で行われたものをドミニク作戦Iネバダ核実験場で行われたものをドミニク作戦IIと呼ぶことがある

本作戦は、ソビエト連邦が1958年から1961年にかけて行っていた核実験の一時停止を放棄したことに対して、アドバンテージを取るために迅速に実施された。核実験の多くは、B-52爆撃機からの空中投下により行われた。実験のうち20回では、新型兵器のテストが行われた(6回は兵器の威力のテスト、そして数回は現存兵器の信頼性確認テストが実施された)。また宇宙空間に近い高高度核爆発のテストでは、核弾頭を打ち上げるために“PGM-17型ソー”ミサイルが使用された(これらの実験は、まとめてフィッシュボール作戦と呼ばれた)

ドミニク作戦は、キューバで起きたピッグス湾事件から間もない、米ソ冷戦の緊張が最も高い時期に実施された。1961年8月30日に当時のソ連共産党書記長ニキータ・フルシチョフは、ソ連が3年間続けていた核実験の一時停止を終了し、9月1日から実験を再開すると宣言した。この再開後の実験の中には、人類史上最大の核実験であるツァーリ・ボンバも含まれていた。当時の米国大統領ジョン・F・ケネディは、これにドミニク作戦の実施を承認することで応えた。なお実験の翌年である1963年には、モスクワで米国、ソ連、及びイギリスの間で部分的核実験禁止条約が調印され、以降の大気中での核実験が禁止された(本条約の調印以降は、地下核実験が主体となって行った)。



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「電磁パルス攻撃」の脅威 上空の核爆発で日本全土が機能不全に

北朝鮮が核兵器や弾道ミサイルで挑発を続けるなか、もう一つの深刻な脅威として「電磁パルス攻撃」の可能性が指摘されている。上空で核爆発を起こし、広範囲で都市機能を破壊するものだ。北朝鮮は既に攻撃能力を持つとみられるが、日本の対策はほぼ手つかずで、専門家からは懸念の声が上がる。(小野晋史)

大規模停電の恐れ

 電磁パルス攻撃は、高度30~400キロの上空で核爆発を起こして行う。その際に生じたガンマ線が大気を構成する窒素や酸素などの分子に衝突。分子に含まれる電子がはじき飛ばされて雷のような巨大な電流が発生するなどした結果、強力な電波の一撃である電磁パルスが地上に襲いかかる。

 電磁パルスは送電線を伝ってコンピューターなどの電子機器に侵入。その電圧は5万ボルトに達するため、機器はIC(集積回路)の機能停止で損壊し、同時に大規模な停電も発生すると予測されている。核爆発に伴う熱線や衝撃波は、地上には届かない。

 影響範囲は爆発の高度や規模によるが、高度100キロで広島型原爆の3分の2に相当する10キロトン(TNT火薬換算)の場合、日本全土をほぼ覆う半径約1100キロにも達する。

 1962年に米国が北太平洋上空で行った高高度核実験「スターフィッシュ・プライム」では、高度400キロの宇宙空間での核爆発で電磁パルスが発生。爆心から1400キロも離れた米ハワイ・ホノルルなどで停電が引き起こされ、その威力が実証された

空から襲う“津波”

 現代社会は電気なしでは成り立たない。電磁パルス攻撃によって大規模な停電が発生し、公共インフラを支える電子機器が損壊すれば、都市機能はまひする。

 電話やインターネットなどの通信やガス、水道の供給が停止。飛行中の航空機が操縦不能になったり、電力を絶たれた原子力発電所が制御不能に陥ったりする恐れも指摘されている。

 米国の専門家チームが今世紀に入ってまとめたシナリオでは、10キロトンの核爆弾がニューヨーク付近の上空135キロで爆発した場合、被害は首都ワシントンを含む米国東部の全域に及ぶ。

 損壊した機器を修理する人員や物資が大幅に不足し復旧には数年を要し、経済被害は最悪で数百兆円に達する。電磁パルスは健康に直接影響しないとされるが、食糧不足や病気などで死傷者は数百万人に上ると推定している。

 元陸上自衛隊化学学校長の鬼塚隆志氏は「電磁パルス攻撃は宇宙から襲う津波のようなものだ。被害を完全に防ぐことは難しくても、備えを固めるなどして減災に取り組む必要がある」と強調する

「日本は無防備」

 電磁パルス攻撃は地上への核攻撃と違い、ミサイルの弾頭部分を大気圏再突入時の高熱から守る技術は必要ない。小型の核弾頭を搭載したミサイルを発射し、目標上空で起爆するだけだ。

 米国防総省の内部では、北朝鮮が既に核弾頭の小型化に成功したとの見方もある。成功が事実なら、弾道ミサイルや人工衛星を搭載したロケットが上空を通過するとみせかけ、日本の真上の宇宙空間で核爆発を起こすことも可能だ。日本の領土や領海に着弾する恐れがない場合、迎撃ミサイル発射のタイミングを逃す可能性は十分にある。

 電磁パルス攻撃は米国やロシア、中国も能力を保有しているとされる。核爆発以外の方法でも可能だ。米露中のほか、北朝鮮や中国の脅威にさらされる韓国や台湾でも、インフラや軍などの防護対策が進んでいる。

 これに対し日本は取り組みが遅れている。電子戦に関わる研究開発を担う防衛省の電子装備研究所は、電磁パルス攻撃を受けた場合に「(自衛隊の)指揮・統制機能が無力化される恐れ」があるとして、今秋にも防護技術の動向調査を始める。

 だがその内容は攻撃の脅威に関する調査や、防護技術の実現に向けた課題の明確化など基礎的な検討にとどまる。

 電磁パルスが防衛装備品に与える影響に詳しい企業関係者は「日本には、電磁パルス攻撃への備えがまともに存在しない。社会全体が無防備な現状は非常に危険だ」と警鐘を鳴らす。



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フィッシュボール作戦
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「核のフットボール」

【広島訪問】原爆慰霊碑前でも機密装置「核のフットボール」
2016年5月28日


来日したオバマ米大統領が帯同した軍人が、ずっと持ち歩いていた黒い革かばんがある。
 オバマ氏が27日に訪れた広島の原爆死没者慰霊碑前でも、軍人の足元に置かれていた。かばんは、
「核のフットボール」と呼ばれる機密装置。大統領が米軍最高司令官として核攻撃をいつでもどこでも承認できる
ようになっている。
 「スミソニアン・マガジン」(電子版)によると、機密装置は、アルミニウムのフレームと黒い革でできており、
重さは約45ポンド(約20キロ)。一般に信じられているような大きな赤いボタンはない。軍事顧問が寄り添い、
大統領が持つ認証コードで身元を確認する。国防総省の軍事指揮センターと連絡が取れ、「一撃で米国の全ての
敵を破壊する」「特定の都市を消失させる」といった攻撃手法を選べる。

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核のフットボール
核のフットボールとは、司令部を離れたときでもアメリカ合衆国大統領が核攻撃に許可を出せる道具が入った黒いブリーフケースである。このブリーフケースは、アメリカ軍の戦略的防衛システムにおいて、ホワイトハウス地下のシチュエーションルームなど、固定された司令部に対する、移動可能な拠点として機能する。2016年5月27日、オバマ大統領の広島訪問に伴い、71年前の世界初の原爆投下地点の真下に持ち込まれた
ワシントン・ポストの報道によれば、米大統領には核兵器の発射コードとフットボールを携帯した軍事顧問1名(military aide)が常に随伴している[2]。このフットボールとは、ゼロハリバートン社の金属製のブリーフケース(アタッシェケース)であり、黒い革のカバーで覆われている[3]。鞄の重さはおよそ20キログラムで、持ち手のところには、小さなアンテナが伸びている[4]。
ホワイトハウス警護室(英語版)のトップであったビル・ガリー(Bill Gulley)は、著書である「ブレイキング・カヴァー」のなかで、こう書いている[4]。
フットボールには4つのものが入っている。報復措置を記した黒い手帳(The Black Book)、“極秘の場所”を一覧化した本、緊急警報システムの手続きをまとめた、8ページから10ページほどの紙をはさんだマニラフォルダー[5]、認証コードが書かれた3×5インチサイズのカードの4つだ。黒い手帳は9×12インチの大きさで、黒と赤で印刷された75枚のルーズリーフがはいっている。機密扱いの場所が載った本は黒い手帳と同じぐらいの大きさで、やはり黒い装丁である。アメリカ国内で緊急時に大統領を受け入れ可能な場所が載っている。
— ビル・ガリー『ブレイキング・カヴァー』より
最高指揮官である大統領が核兵器の使用を決断した場合、フットボールの「運び人」がそばに呼ばれ、鞄が開けられる。すると統合参謀本部に指令信号、あるいは「警告」のアラームが送られる。大統領は顧問と攻撃についてとりうる選択肢を協議し、単発の巡航ミサイル射撃から大陸間弾道ミサイルの連射まで幅広い手段のなかから攻撃案を決定する。これらはOPLAN 8010(以前の単一統合作戦計画)のもとで予め決められた戦争計画の一部である。そして鞄の中にある何らかの通信技術を用いて、顧問は国家軍事指揮センターと連絡をとる。あるいは報復攻撃の場合であれば、複数の空挺部隊の司令部(おそらくボーイングE-4Bを出動させる)または、あるいは同時に核武装した潜水艦とも交信を行う。
命令が軍によって実行されるためには、プラスチック製のカードの形で発行された特別なコードを使って大統領が本人と認識される必要がある。このコードは「ビスケット」というニックネームがつけられておりゴールド・コード(英語版)とも呼ばれる[6]。アメリカはツーマンルールを実施しており、大統領だけが核兵器の発射を命ずることができるのだが、その命令は国防長官の確認を受けなければならない(大統領が攻撃によって殺害された場合は権限の継承順位に従う)[6]。コードが全て認証されると、軍はしかるべき部隊へ攻撃命令を出す。これらの命令は下されてからもその真偽の再確認が続く。
フットボールは大統領の軍事顧問が交代制で運搬につとめる。そのスケジュールはトップシークレット扱いである(派生組織である5つの組織から1人ずつ)。顧問は手首に特殊なケーブルを巻いて物理的にブリーフケースを身につけることもある。アメリカ軍の士官にあたり、給与等級はO-4かそれ以上、任命にあたってはきわめて厳しい身元調査が行われ、いわゆるヤンキー・ホワイト(英語版)に該当するかが調べられる[7]。彼らにはいかなる時でも大統領が容易にフットボールを使用可能な状態にしておくことが求められる。
フットボールの歴史はドワイト・D・アイゼンハワーまで遡ることができるが、現在の使われ方になったのは、ソ連軍将校がモスクワの許可を得ずにキューバでミサイルを発射することを懸念していたジョン・F・ケネディ以降のことである[7]。
AP通信の記事によれば、この「フットボール」という通称は、ある攻撃計画につけられた「ドロップキック」というコードネームに由来するものである[4]。フットボールという名前は、実際の鞄の性質や形状に誤解を生じることがある。実際、ケースのカバーは本物のフットボールを包めるぐらい大きいからである。グラフィック・ノベルのウォッチメンには、1985年にまだ大統領であったという設定でリチャード・ニクソンが登場するが、彼の腕には危機にそなえて文字通り「核のフットボール」(フットボールの形をした金属製の機器)が繋がれている。作中でそうだと明示されることはないのだが、この機器には現実のフットボールと同じかあるいは核攻撃の電子起動装置が内蔵されていることがほのめかされる。
ジミー・カーターもロナルド・レーガンも、大統領在職中は背広のポケットに発射コードをいれたままにしていたと語っている。下院議員のジョン・クラインは海兵隊の元大佐であり、カーターとレーガンの時代にフットボールを運んでいる。
運びまわるのはそう難しいことじゃない。下に置くこともできるし、私はしょっちゅうそうしていた
1981年の暗殺未遂事件直後、ロナルド・レーガンとフットボールは別々の場所にあった[9]。レーガンは、前任者であるカーター同様、カードをポケットに入れて歩くことを好んでいたのだが、ERの外科治療の際に衣服が切り取られたときに、レーガンはカードをなくしてしまった。後にそのERの床にあったレーガンの靴から無造作にしまわれたカードが発見されたため、レーガンはカードを靴下にいれて持ち歩いているという都市伝説がうまれた。このときはカード以外の中身もレーガンと離ればなれになった。運び役の士官が、怪我を負った大統領を運び去る車の行列に置いて行かれたためだった。このように大統領がフットボールを運ぶ人間と離ればなれになることが時にはある。1973年のニクソンにもこれが起こった。ニクソンはキャンプ・デービッドでソ連の指導者ブレジネフにリンカーン・コンチネンタルを贈ったのだが、そのリンカーンにニクソンを乗せたブレジネフは不意に高速を逆戻りしたのである。ニクソンのシークレットサービスは置き去りにされ、フットボール(と彼の警備部隊)は30分近くもばらばらになったままだっ。フォード、カーター、ブッシュ、時代が下ってクリントンにもフットボールと離れた時間帯がある。こうした事件において、フットボールの完全性が損なわれた例はなかった。
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民間防衛準備庁のステーションWGU-20

アメリカはWGU-20で大きな波に陥った
知っている人は少ないが、米国は大きな波ですべての州を覆うための広大なプロジェクトを開発した。 それはCONELRADに起こったはずだ。
そういえば、179kHzで「こんばんは」という有名なメッセージが聞こえてきましたね。中央に緊急情報提供する民間防衛準備庁のステーションWGU-20です。 東部標準時間20分20秒 "!
それは、極端な状況に備えて、連邦、民間、軍当局から緊急メッセージを人口に届けることを目的とした新しい意思決定情報発信システム(DIDS)の最初のリンクでした。
アメリカ48州すべてをカバーするためにさらに9つの駅が建設され、ハワイに1つ、アラスカに1つが計画された。 すべての局は167 170と191 kHzで放送する予定だった。
1台は1973年に200万米ドルで建てられた:10の「流通ステーション」のDIDSネットワークの原型だった
最初の駅は、北東ボルチモアのチェイスに位置し、39°21'02.7""N 76°20'41.6""Wで、シングルマストアンテナを使用し、高さ219.45メートル(720フィート)で、National Warning Center at Olney dan In the State of Mar イランド
駅には55 kWのウェスティングハウスの送信機と半径400マイルを覆う700フィートのアンテナが備わっていた。
広範なプロジェクト:配給ステーションは、カンザス州アルト、コロラド州、ケンブリッジにある61.15 kHzの「コントロールステーション」の2つで発電されます。 2つの駅は1260フィートのタワーから200 kWで走る。 連邦当局は電子レンジと固定電話でチェックステーションを「移動」するだろう。 10の配布局はその後、記録されたメッセージを国民に接続し放送する。
地上信号は広範囲で、核爆発の影響に対する比較的免疫があるはずだったため、長波の選択。
レセプションは、ラジオ、テレビ、煙探知器まで含む多くの国内機器に頼っていて、長波受信機を内蔵するべきだったが、攻撃メッセージを確実に伝える
決して始まったことのない大きなプロジェクト、部分的には高価すぎるから。
既存の施設は時間を放送するために使用され、その後軍の緊急システムとして:地上波緊急ネットワーク(GWEN)
最終的に、放送者は90年代に完全に無関心で逮捕された。 この施設は2011年に解体された
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【物理学】ヤバい実験史 第2回 スターフィッシュ・プライム【ゆっくり解説】






Operation Dominic — Starfish Prime




世界を終わらせていたかもしれない10の科学実験





A Brief History of: The Starfish Prime Nuclear Test (Short documentary)







Starfish Prime Test Interim Report

Operation Dominic (1962)



Starfish Prime Interim Report By Commander JTF-8 (1962)




































Why Did We Test Nukes in Space?




實拍~ 中印部隊在中國班公湖對峙畫面 China- india border tensions LIVE





US Sends 108 Abrams Tanks and 250 Stinger Surface-to-air Missiles to Taiwan in Tension With China




最新バージニア級原子力潜水艦の内部 - USSコロラド(SSN-788)












America's Backpack Nuke - The Littlest Boy



















Two No.4 Squadron Combat Controllers communicate coordinates for an incoming aircraft.
Combat Control Teams (CCT) from No. 4 Squadron participated in Exercise Havoc Strike from 25 May – 12 June 2020 near Buladelah, New South Wales.
Havoc Strike is a tactical level exercise in support of No. 4 Squadron combat control Mission Specific Training objectives. The training concentrates on preparing Combat Control Teams for the application of Close Air Support, Rules of Engagement and Laws of Armed Conflict.
The exercise has two phases; a theory phase, conducted at RAAF Williamtown, NSW, followed by a practical close air support phase in a training area near the town of Bulahdelah, NSW.

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[JDEF in english] Special Forces : doing it differently with 3rd dimension





Royal Australian Air Force 2020 | World Affairs




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アイコムIC-70「基本操作」と「専用マルチバッグLC-192のご紹介」

<Masaco(JH1CBX)が解説>アイコム、IC-705の動画「基本操作」と「専用マルチバッグLC-192のご紹介」を公開
アイコム株式会社から発売された話題のHF~430MHz帯オールモード・ポータブル機「IC-705」。昨年「ハムフェア2019」会場で初公開され、満を持して2020年6月19日(金)に全国の販売店に向けて工場出荷が始まった(2020年6月19日記事)。手にした無線家からの声が届くなか、同社は「アイコムIC-705の基本操作(5分35秒)」と「IC-705専用マルチバッグLC-192のご紹介(3分25秒)」と題した2本の動画をYouTubeのアイコム公式チャンネルで公開した。ナビゲーターは第三級アマチュア無線技士の資格を持ち「JH1CBX」のコールサインで活躍中のシンガーソングライター・Masacoが務めている

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上が「アイコムIC-705の基本操作(5分35秒)」、下が「IC-705専用マルチバッグLC-192のご紹介(3分25秒)」。2本の動画を公開

IC-705の本体サイズ(突起物を除く)は200W×83.5H×82Dmm、本体重量(付属バッテリー含む)は約1.1kg。移動運用をコンセプトに開発されたモデルとして、発売前から注目されていた1台だった。

 

 今回、コンパクトなのに固定機にも負けない機能や操作性を有するIC-705の「基本操作編」と、リュックサックタイプの「IC-705専用マルチバッグLC-192のご紹介編」の動画をアイコムが制作。自身も「JH1CBX」のコールサインを持つアマチュア無線家のシンガーソングライター・Masacoが、ナビゲーターを務め、動画でさまざまなシーンを解説している。

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専用マルチバッグLC-192のご紹介



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AH-705が正式発表!!
今年のアマチュア無線界で衝撃の大ヒット商品IC-705の純正オートアンテナチューナーAH-705が正式に発売されます価格のメーカー希望小売価格31,800円(税別)単三アルカリ乾電池で運用可能です


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アイコムIC-705の基本操作




IC-705専用マルチバッグLC-192のご紹介





遂にIC-705出荷開始へ。 アマチュア無線 新製品 ICOM アイコム IC-705 移動運用 技適番号 オートアンテナチューナー



アイコムIC-705 ファーストインプレッション前編 アマチュア無線ポータブルトランシーバーの基本動作をチェック ICOM IC-705 HAM RADIO




アイコムIC-705 ファーストインプレッション後編 アマチュア無線ポータブルトランシーバーの基本動作をチェック ICOM IC-705 HAM RADIO





最新アマチュア無線ポータブル機 ICOM IC-705 屋外で受信を試しながら基本操作をチェック




ICOM IC-705 開封! アイコムの最新アマチュア無線ポータブルトランシーバーを購入




アマチュア無線機 ICOM IC-705測定




【IC-705を分解してみた】店長の異常な愛情!大阪日本橋のアマチュア無線販売店の店長がYouTubeに登場!




アマチュア無線機 ICOM IC-705 インプレ ライブ






History of Icom's Innovative Amateur Radio Technology




Icom Inc. Corporate Video




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