B-1B Lancer Loads With GBU-31 JDAMs For Combat Mission
B-1B Lancer Loads With GBU-31 JDAMs For Combat Mission & F/A-18 Prepare & Launch For Strike Mission…
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朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(南朝鮮、韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で生じた朝鮮半島の主権を巡る国際紛争[11][12][13][14][15]。1950年6月25日に金日成率いる北朝鮮が事実上の国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けたことによって勃発した[16][17]。
分断国家朝鮮の両当事国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のみならず、東西冷戦の文脈の中で西側自由主義陣営諸国を中心とした国連軍と東側社会主義陣営諸国の支援を受ける中国人民志願軍が交戦勢力として参戦し、3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化して荒廃させた。1953年7月27日に国連軍と中朝連合軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断された。
終戦ではなく休戦状態であるため、名目上は現在も戦時中であり、南北朝鮮の両国間、及び北朝鮮とアメリカ合衆国との間に平和条約は締結されていない。2018年4月27日、板門店で第3回南北首脳会談が開かれ、2018年中の終戦を目指す板門店宣言が発表されたが、実現には至らなかった。
1950年6月25日早朝、北朝鮮軍は韓国との国境線(北緯38度線)の全線に渡って越境し、攻撃を開始した。北朝鮮の作戦構想は、ソウルの陥落によって韓国軍は崩壊し、事実上勝敗を決するであろうという前提に基づいていた[1]。この前提のもと、北朝鮮軍は部隊を2つの軍団に編成し、第1軍団を主攻としてソウルに対して求心的な攻撃を実施し、第2軍団は助攻としてこれを援護するように指導した。韓国はこの攻勢を予期しておらず、一部の部隊が独自の判断で警戒態勢を取っていたのみであったため、北朝鮮は、ほぼ完全な奇襲を達成した[2]。
北朝鮮軍は兵力・装備・錬度のいずれにおいても、韓国軍と比して相当に優越していた。特に戦車については、韓国軍に有効な対戦車火器が欠けていたこともあり、韓国兵に根強い恐怖心を抱かせるまでに至り、このため、戦線の全域で、北朝鮮軍優位に戦況は推移した。しかし、北朝鮮の予期とは異なり、韓国兵の戦意は極めて旺盛で[1]、肉薄攻撃によって戦車が撃破される例も多々見られた[2]。また、前方防御部隊の多くは、河川障害や錯雑地形を活用して巧みな防御戦を展開しており、これらの障害に欠けていた議政府正面を除いて、韓国軍の防御線は決定的な破綻を来たすには到らなかった。しかし議政府正面においては、機甲部隊の衝撃力を利用した北朝鮮軍の攻勢により、議政府市の防御は危険な状態に陥りつつあった。
漢江大橋の爆破場面。アメリカ・NBCの従軍記者が撮影したとされる
大統領が逃げ、国民を欺き続ける中で、北朝鮮の南進を少しでも遅らせるため、韓国軍はソウルを東西に流れる漢江の人道橋(人間、車用)を爆破した。
漢江大橋の爆破後、浮き橋で川を渡る人々。韓国国防部「朝鮮戦争60周年事業団」のブログから
韓国の聖公会大学教授、韓洪九氏は以下のように当時の状況を説明している。
6月28日午前2時30分頃、総参謀長チェ・ビョンドク一行が漢江歩道橋を通過した直後、陸軍工兵監大佐チェ・チャンシクは漢江橋の爆破を命令した。
市民に安心して生業に従事しろと言っておきながら、自分たちだけが抜け出た後に橋を落としてしまったことも真に問題だが、本当に許されないことは、爆破当時に漢江橋には避難民が多数いたという点だ。 阿鼻叫喚、橋の上に何人いたかは分からず、死体を収容したわけでもないので、いったい何人が無念の死に至ったのかは分からないが、関係者たちは少なくて500人、多くて1500人が命を失ったと推定している。
(ハンギョレ「[歴史と責任①] セウォル号の悪魔、大韓民国の悪魔…」より 2014/06/09 12:13)
多数の民間人を犠牲にした作戦だったが、離れた場所に架かっている鉄道用の鉄橋は爆破に失敗し、北朝鮮軍の南進を防ぐ効果はなかった。
9月15日、国連軍が仁川上陸作戦を成功させ、韓国軍と国連軍の反攻が始まった。橋を爆破した現場責任者の工兵は、失敗した作戦の責任を取らされて処刑された。
李承晩政権は犠牲の羊を探した。橋爆破の現場責任者であった29才の若き大佐チェ・チャンシクだった。 仁川上陸作戦が敢行されたまさにその日、臨時首都であった釜山(プサン)で開かれた戒厳高等軍法会議は、チェ・チャンシクに国防警備法27条の‘敵前非行罪’を適用し死刑を宣告した。 チェ・チャンシクは、自身は命令に従っただけだと抗弁したが効果がなかった。
当時判決文は、チェ・チャンシクの漢江橋爆破で莫大な車両と軍人が墜落し、無事な車両装備および軍需物資が敵に捕獲され、数万の兵力が渡江できない混乱が発生したとし、すべての責任をチェ・チャンシクに押しつけた。 9月21日チェ・チャンシクは釜山郊外で処刑された。
(ハンギョレ「[歴史と責任①] セウォル号の悪魔、大韓民国の悪魔…」より 2014/06/09 12:13)
韓国国防部の朝鮮戦争60年事業団のブログは「為政者による無責任の極致だった」と批判している。
1950年6月25日早朝、北緯38度線で、突如、轟音がとどろいた。
北朝鮮軍が韓国に向けて砲撃を開始したのである。砲撃が終わると、
300両の最新鋭のソ連製戦車部隊を先頭に、10万人を超える
勇猛果敢な金日成の北朝鮮軍が北緯38度線を突破して韓国に雪崩れ込んだ。
北朝鮮のピョンヤン放送は、「我々は、アメリカ帝国主義の傀儡、
李承晩政権から、韓国人民を解放する」と、世界中に、高らかに告げた。
原因・理由は何であるにせよ、平和に暮らしている国に、一方的な奇襲攻撃で
戦争を仕掛けるということは、最高に極悪非道な犯罪行為である。
平和であった韓国に、突如、奇襲攻撃で侵略戦争を仕掛けた金日成は、
一点の疑いもなく、極悪非道な戦争犯罪者である。
この電光石火の北朝鮮の奇襲攻撃に対し、李承晩の韓国はなすすべがなかった。
対日憎悪感の権化・李承晩は、いかに日本に報復するかに没頭しており、
北朝鮮が侵攻するなどとは、まったく考えていなかった。
勘違い、誤報、意図的な偽情報が韓国中を飛びかった。
何が事実なのか誰も分からなかった。さらに、驚くべきことに、この北朝鮮
奇襲攻撃の事実が、大統領の李承晩に知らされたのは、砲撃開始・戦車隊の
北緯38度線突破から数時間たった後であった。
対日報復の鬼・李承晩の韓国は、金日成の北朝鮮に対する警戒心は
まったくなかった。それほど、金日成を信用していたのである。
2.北朝鮮軍の快進撃
無知・無能・無策・無責任な李承晩を筆頭に、当時の韓国政府が、うろたえて、
右往左往している間に、北朝鮮軍は恐ろしいスピードで南下してきた。
開城(ケソン)はたった数時間で陥落。その60km南の首都ソウルの
防衛ラインは、次々と、楽々に突破され、韓国軍はひたすら敗走を続けた。
このようなワンサイドな戦いとなったのは、奇襲にもよるが、軍事力でも、
北朝鮮軍と韓国軍とでは、圧倒的な差があったからである。
韓国軍は、総兵力10万人。戦車はゼロ。大砲もわずか91門。
これに対して、北朝鮮軍は、総兵力20万人、ソ連製最新鋭T-34戦車など300両、
大砲も最新鋭のSU-76M自走砲など552門と、圧倒的に優勢な戦力であった。
北朝鮮の主力戦車は第2次世界大戦のソ連の傑作、最新鋭のT-34戦車である。
韓国軍の火砲は、T-34戦車の分厚い装甲を撃ち抜くことができなかった。
陸上の戦闘を制するのは、火力と機動力である。つまり、重火器と戦車である。
この2つにおいて、北朝鮮軍は韓国軍を圧倒した。加えて、北朝鮮軍は、
この日に備えて、猛訓練を重ねていた。一方の李承晩の韓国軍は、
戦争が起こるなど夢にも思っていなかった。
つまり、練度と戦意においても、北朝鮮と韓国では天地の差があった。
1950年6月27日、トルーマン米国大統領が主導し、国連安保理が開催され、
北朝鮮非難決議が採択された。
しかし、その間にも、北朝鮮軍の侵攻はつづいた。北朝鮮軍のT-34戦車が
戦場に現れると、韓国軍は、一戦も交わさず、ひたすら逃げた。
戦況は絶望的だった。重戦車と軽歩兵の戦いは、針でバターを刺すようなもの。
李承晩の韓国政府はいち早くソウルを捨て、33km南方の水原に首都を移した。
3.米国の朝鮮戦争参戦
トルーマン大統領は、矢継ぎ早に命令を発した。在日米軍を釜山(プサン)に
派遣し、海軍を韓国海域に出動させた。さらに、台湾を中国から守るため、
第7艦隊を極東に派遣した。そして、この作戦のすべての指揮権を、東京にいた
マッカーサー元帥に与えた。トルーマン大統領は、前任のルーズベルト大統領とは
違って、反共意識が強く、決断も行動も迅速だった。
マッカーサー元帥は、最年少で少将に昇進、50才で米国陸軍参謀総長になる。
太平洋戦争では日本軍と戦い勝利した。日本敗戦後は、SCAP/GHQの
最高司令官として日本占領業務にあたっていた。
極東で突然勃発した事件の解決は、この70歳の老将軍に委ねられた。
1950年6月28日、韓国軍の将兵とソウル市民が、首都ソウルを脱出し、
漢江の橋に殺到した。このとき、韓国軍は北朝鮮軍の追撃を防ぐため橋を爆破した。
ところが、ソウル市民の渡橋は、まだ終わっておらず、数百人が犠牲になった。
さらに、漢江の橋が爆破されたため、多くの市民がソウルに取り残された。この日の
夕方、北朝鮮軍はソウルを完全制圧した。
徴兵された韓国の一般市民は、まともな武器は持たされず、「弾丸避け(タマヨケ))」に使われた。
4.韓国政府降伏で戦争終了の事態に
6月29日、マッカーサー元帥は東京から朝鮮半島に飛んだ。自分の目で、
状況を確認するためである。前線を視察したマッカーサー元帥は、
韓国軍主導では、勝ち目は100%ないと判断した。
そして、直ちに、トルーマン大統領に米国地上軍の派遣を要請した。ところが、
スターリンのソ連が、「朝鮮の内政問題に外国が介入すべきではない」と
主張したため、トルーマン大統領は米地上軍の派遣を躊躇した。
いずれ、国連軍は出動するだろうが、それまで韓国はもたない。
マッカーサー元帥はそう確信した。
すでに、首都ソウルが占領されている。マッカーサー元帥は、トルーマン大統領に
爆撃の許可を申請し、回答を待たず爆撃を敢行した。
もし、当時、米軍の最高司令官がマッカーサー元帥でなかったら、1950年8月末に
北朝鮮軍が朝鮮全土を制圧し、韓国政府が降伏して、朝鮮戦争が終わっていた
可能性が高い。
6月30日、北朝鮮軍は、漢江を渡河し、南進を再開した。朝鮮半島最南端の
釜山(プサン)までわずか330km。「東京~大阪」の距離である。
釜山が陥落すれば、戦争は終わる。北朝鮮軍は、韓国の臨時首都、水原に
猛攻撃を加えた。韓国軍の指揮系統・連絡網はズタズタになり、水原の陥落は
時間の問題だった。マッカーサー元帥は、再びトルーマン大統領に米地上軍
投入を迫り、ついに認めさせた。
7月1日、臨時首都の水原は陥落。李承晩は釜山に逃げ込んだ。
このとき、敗走する李承晩は、自国を守れず遁走しながら、武器を持たない
一般市民を、共産党関係者だと決めつけ、20万人以上の一般市民を
虐殺した。武器を持った北朝鮮軍の前では、味方を見捨てて、ひたすら
逃げ隠れした李承晩は、武器を持たない自国の一般市民を、平気で虐殺
したのである。李承晩は本当に悪い奴であった。
朝鮮戦争以前においても、反共の闘士と自称する李承晩は、赤狩りと称して、済州島等の
自分に反対する南朝鮮労働党と人民委員会を徹底的に弾圧した。軍隊を投入して、反対する
一般市民6万人以上を虐殺した。済州島の村々の70%を焼き尽くした。
同日、7月1日、在日米軍が釜山に上陸した。同時に、沖縄基地から爆撃機B29が発進、
北朝鮮軍を爆撃した。
7月2日、在日米軍は北上して大田(テジョン)に到着した。大田は、ソウルと
釜山をむすぶ要衝である。在日米軍はここに強固な防衛線を築き、北朝鮮軍を
食い止める作戦だった。
7月3日、漢江の橋の修復が終わると、北朝鮮軍の戦車が漢江南岸に殺到した。
韓国の防衛線は一瞬にして崩壊した。小火器で重戦車に挑むのは、どだい、
ムリな話なのである。
ところで、なぜ韓国軍は戦車を持っていなかったのか? じつは、1年後に、
米国からM26戦車を受領する予定だった。 北朝鮮の奇襲が1年後であった
ならば、状況は変わっていたかもしれない。
7月7日、米国を中心に、16ヵ国が参加して国連軍が編成された。しかし、
こうしている間にも、北朝鮮軍の南進は続いていた。在日米軍は、大田から
北上を試みたが失敗、逆に押し返されてしまう。その後、国連軍も合流したが、
7月中頃までに、兵数は半減、大田の維持すら困難になった。そこで、
韓国政府は大邱に逃げ込んだ。
7月20日、北朝鮮軍の猛攻で大田が陥落した。
さらに、8月末までに、国連軍は、大邱と釜山、朝鮮半島南部に押し込まれた。
このままでは、全軍が日本海に追い落とされる。
しかし、背水の陣となった国連軍は必死だった。米軍の将軍たちはこう宣言した。
「朝鮮半島からの撤退はありえない。我々は最後まで戦う」
5.マッカーサー元帥の反撃
一方、北朝鮮軍にもアキレス腱があった。快進撃の結果、兵站線が伸びきっていた。
ピョンヤンから大邱まで、直線距離にして400km。
兵站とは、戦闘部隊の後方支援で、燃料・弾薬・食料の補給、兵員や兵器の
補充を行う。兵站線が長いほど補給は難しくなり、兵站線を途中で絶たれる可能性もある。
当然、兵站線を絶たれた先には補給は届かない。兵站線は軍隊の血管なのだ。
北朝鮮軍は優勢だったが、国連軍に対する最後の一撃が打ち込めなかった。
一方、国連軍は、防戦一方で、反撃する余力はなかった。
そこで、マッカーサー元帥は、戦況を一転させる奇襲を断行する。
兵站線の真ん中、仁川に強襲上陸し、北朝鮮軍を南北から挟撃するのである。
単純明快、鮮やかな作戦だが、包囲殲滅される可能性もある。奇策、どちらかと
いうとバクチに近い。これが歴史に残る「仁川上陸作戦(クロマイト作戦)」である。
9月15日、国連・韓国軍は仁川に奇襲上陸した。危険な敵前上陸を任務とする
米海兵隊を先頭に、7万人が上陸に成功した。このとき、M26重戦車をはじめ、
重火器も大量に送り込まれた。
北朝鮮軍は、国連・韓国軍に挟撃され、算を乱して逃走し始めた。戦局は一変した。
9月28日、国連・韓国軍はソウルを奪還した。翌日、韓国政府もソウルに戻った。
かねてより、南北統一をもくろんでいた李承晩にとって、棚からぼた餅のいチャンス
だった。
無知・無能・無策・無責任な、対日憎悪感の権化・対日報復の鬼・李承晩は、
はやる気持ちを抑えきれず、韓国軍単独で北緯38度線を突破させた。
韓国軍は北進した。続いて、国連軍も北進した。
危機感をつのらせた毛沢東の中国は、ここで朝鮮戦争参戦を決定する。
志願兵による義勇軍との名目で、100万人もの正規軍兵力を投入した。
10月20日、中国軍100万人参戦について何も知らない国連・韓国軍は、
北朝鮮の平壌を占領した。さらに、逃げる北朝鮮軍を追った。
先鋒の韓国軍は、中国との国境、鴨緑江に達した。ここで、中国軍の猛反撃が
始まった。100万人による圧倒的な人海戦術、加えるに、名将・彭徳懐将軍が指揮し、
ゲリラ戦に熟達した中国正規軍が国連・韓国軍に襲いかかった。
中国軍は、国連・韓国軍が、まったく思いもつかなかった、冬山を夜間に踏破して、
国連・韓国軍の背後の高地に陣取り、突然、背後から国連・韓国軍に襲いかかった。
中国軍の夜間山地移動を米軍の偵察機は発見することができなかった。
突然、大地からわき出るような無数の中国兵に襲われて、米国軍の兵士は
パニックに陥った。凄まじい恐怖に駆られた。
国連・韓国軍は北朝鮮各地で大敗北を喫し、敗走に次ぐ敗走で、北緯38度線の
南へ逃げ帰った。これがトラウマになり、以後、米国軍の現地指揮官たちは、
中国軍とは戦いたくないと考えるようになった。
中国軍は、津波のように国連・韓国軍を呑み込んだ。
12月5日には、中国軍は平壌を奪回した。さらに、ソウルも再占領した。
あまりにもの大敗北に怒り狂ったマッカーサー元帥は、中国に原爆を投下せよと
トルーマン大統領に迫ったが、あっさり、国連軍最高司令官と日本占領軍
最高司令官を解任されてしまう。
6.北朝鮮軍、韓国軍、中国軍と国連軍の人的損害
北朝鮮軍の、戦死者数、約52万人、負傷者数、約41万人といわれる。
韓国軍の、戦死者数・負傷者数は、合わせて約99万人といわれる。
中国軍の、戦死者数は18万4,000人、負傷者数は71万5,900人、
捕虜になった者は2万5,600人といわれている。
国連軍の、戦死者数は3万6,813名、負傷者数は11万4,816名、
行方不明者は6,198名、捕虜になった者は4,439名といわれている。
7.一般市民、約400万人が死亡
-金日成と李承晩の戦争犯罪
朝鮮戦争の死亡者の数は、韓国約150万人、北朝鮮約250万人、南北朝鮮合わせて
約400万人といわれている。、総人口の20%にあたる。
つまり、国民の5人に1人が死亡したことになる。
第2次世界大戦の日本の死亡者は約300万人である。総人口の4%である。
朝鮮戦争は、南北殺し合いの、凄まじい戦争であった。
1951年にエージェントのジョニー・ハイドの尽力で『アスファルト・ジャングル』、『イヴの総て』に出演、注目される。以後、数本の映画に脇役で出、1952年の『ノックは無用』で準主役。1953年『ナイアガラ』では不倫相手と夫の殺害を計画する悪女を主演し、腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性の注目を集める。続く『紳士は金髪がお好き』、『百万長者と結婚する方法』や『七年目の浮気』が大ヒットして一躍トップスターとなった。
1954年1月14日、かつてメジャーリーグベースボールのニューヨーク・ヤンキースに所属し、最も知名度の高いプロ野球選手だったジョー・ディマジオとサンフランシスコ市庁舎で結婚。
同年2月1日、読売ジャイアンツの招きもあり、新婚旅行を兼ねてパンアメリカン航空のボーイング377で日本を訪れ、東京国際空港で大歓迎を受けた。夫妻は3週間日本に滞在[。東京、静岡、福岡、広島、大阪とまわり、ディマジオが福岡で松竹と国鉄の選抜選手、広島で広島カープ、大阪で阪神タイガースの野球指導を行った福岡までは二人は仲睦まじかったが、広島県総合球場でディマジオがカープ選手に打撃指導を行った際、球場には絶対に来てはいけないと念を押していたモンローが同球場を訪れ、ディマジオそっちのけでファンが殺到した。ディマジオがモンローを叱責したことが離婚の原因ともいわれる
東京の帝国ホテル滞在中、2月5日に米軍高官から兵士慰問の依頼があり、帰国日の2月25日までの間、モンローは日本国内の米軍基地や負傷兵の収容施設・病院などを折に触れて訪問した。また、滞在中の2月16日からの3日間は、朝鮮戦争の休戦協定後も駐留する国連軍兵士の慰問として訪韓している。モンローは米軍関係者とともにヘリコプターやジープなどを乗り継いで、韓国内の国連軍駐屯地の慰問を行った
『M★A★S★H マッシュ』(マッシュ、M*A*S*H)は、1970年のアメリカ映画。朝鮮戦争を舞台に、3人の軍医を描くブラックコメディ映画[2]。
リチャード・フッカー原作の小説をロバート・アルトマンが映画化。カンヌ国際映画祭パルム・ドールやアカデミー脚色賞を受賞した。
タイトルのMASHとは陸軍移動外科病院(Mobile Army Surgical Hospital)のことを指す
本作戦は、ソビエト連邦が1958年から1961年にかけて行っていた核実験の一時停止を放棄したことに対して、アドバンテージを取るために迅速に実施された。核実験の多くは、B-52爆撃機からの空中投下により行われた。実験のうち20回では、新型兵器のテストが行われた(6回は兵器の威力のテスト、そして数回は現存兵器の信頼性確認テストが実施された)。また宇宙空間に近い高高度核爆発のテストでは、核弾頭を打ち上げるために“PGM-17型ソー”ミサイルが使用された(これらの実験は、まとめてフィッシュボール作戦と呼ばれた)
ドミニク作戦は、キューバで起きたピッグス湾事件から間もない、米ソ冷戦の緊張が最も高い時期に実施された。1961年8月30日に当時のソ連共産党書記長ニキータ・フルシチョフは、ソ連が3年間続けていた核実験の一時停止を終了し、9月1日から実験を再開すると宣言した。この再開後の実験の中には、人類史上最大の核実験であるツァーリ・ボンバも含まれていた。当時の米国大統領ジョン・F・ケネディは、これにドミニク作戦の実施を承認することで応えた。なお実験の翌年である1963年には、モスクワで米国、ソ連、及びイギリスの間で部分的核実験禁止条約が調印され、以降の大気中での核実験が禁止された(本条約の調印以降は、地下核実験が主体となって行った)。
大規模停電の恐れ
電磁パルス攻撃は、高度30~400キロの上空で核爆発を起こして行う。その際に生じたガンマ線が大気を構成する窒素や酸素などの分子に衝突。分子に含まれる電子がはじき飛ばされて雷のような巨大な電流が発生するなどした結果、強力な電波の一撃である電磁パルスが地上に襲いかかる。
電磁パルスは送電線を伝ってコンピューターなどの電子機器に侵入。その電圧は5万ボルトに達するため、機器はIC(集積回路)の機能停止で損壊し、同時に大規模な停電も発生すると予測されている。核爆発に伴う熱線や衝撃波は、地上には届かない。
影響範囲は爆発の高度や規模によるが、高度100キロで広島型原爆の3分の2に相当する10キロトン(TNT火薬換算)の場合、日本全土をほぼ覆う半径約1100キロにも達する。
1962年に米国が北太平洋上空で行った高高度核実験「スターフィッシュ・プライム」では、高度400キロの宇宙空間での核爆発で電磁パルスが発生。爆心から1400キロも離れた米ハワイ・ホノルルなどで停電が引き起こされ、その威力が実証された空から襲う“津波”
現代社会は電気なしでは成り立たない。電磁パルス攻撃によって大規模な停電が発生し、公共インフラを支える電子機器が損壊すれば、都市機能はまひする。
電話やインターネットなどの通信やガス、水道の供給が停止。飛行中の航空機が操縦不能になったり、電力を絶たれた原子力発電所が制御不能に陥ったりする恐れも指摘されている。
米国の専門家チームが今世紀に入ってまとめたシナリオでは、10キロトンの核爆弾がニューヨーク付近の上空135キロで爆発した場合、被害は首都ワシントンを含む米国東部の全域に及ぶ。
損壊した機器を修理する人員や物資が大幅に不足し復旧には数年を要し、経済被害は最悪で数百兆円に達する。電磁パルスは健康に直接影響しないとされるが、食糧不足や病気などで死傷者は数百万人に上ると推定している。
元陸上自衛隊化学学校長の鬼塚隆志氏は「電磁パルス攻撃は宇宙から襲う津波のようなものだ。被害を完全に防ぐことは難しくても、備えを固めるなどして減災に取り組む必要がある」と強調する「日本は無防備」
電磁パルス攻撃は地上への核攻撃と違い、ミサイルの弾頭部分を大気圏再突入時の高熱から守る技術は必要ない。小型の核弾頭を搭載したミサイルを発射し、目標上空で起爆するだけだ。
米国防総省の内部では、北朝鮮が既に核弾頭の小型化に成功したとの見方もある。成功が事実なら、弾道ミサイルや人工衛星を搭載したロケットが上空を通過するとみせかけ、日本の真上の宇宙空間で核爆発を起こすことも可能だ。日本の領土や領海に着弾する恐れがない場合、迎撃ミサイル発射のタイミングを逃す可能性は十分にある。
電磁パルス攻撃は米国やロシア、中国も能力を保有しているとされる。核爆発以外の方法でも可能だ。米露中のほか、北朝鮮や中国の脅威にさらされる韓国や台湾でも、インフラや軍などの防護対策が進んでいる。
これに対し日本は取り組みが遅れている。電子戦に関わる研究開発を担う防衛省の電子装備研究所は、電磁パルス攻撃を受けた場合に「(自衛隊の)指揮・統制機能が無力化される恐れ」があるとして、今秋にも防護技術の動向調査を始める。
だがその内容は攻撃の脅威に関する調査や、防護技術の実現に向けた課題の明確化など基礎的な検討にとどまる。
電磁パルスが防衛装備品に与える影響に詳しい企業関係者は「日本には、電磁パルス攻撃への備えがまともに存在しない。社会全体が無防備な現状は非常に危険だ」と警鐘を鳴らす。
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今回、コンパクトなのに固定機にも負けない機能や操作性を有するIC-705の「基本操作編」と、リュックサックタイプの「IC-705専用マルチバッグLC-192のご紹介編」の動画をアイコムが制作。自身も「JH1CBX」のコールサインを持つアマチュア無線家のシンガーソングライター・Masacoが、ナビゲーターを務め、動画でさまざまなシーンを解説している。