軍用無線のブログ JA2GZU suzuki shinichi

軍用無線機 船舶無線機 短波受信機 米軍最新兵器情報 アマチュア無線など

2020年02月

How to Disable a Japanese Tank | Type 95 Ha-Go Light Tank | US Army Training Film |













THE JAPANESE ARMY AND NAVY WWII RESTRICTED U.S. ARMY MOVIE 23514



1941 U.S. ARMY SIGNAL CORPS " BASIC SIGNAL COMMUNICATION " FIELD TELEPHONE SYSTEM SETUP 17134



 

WWII U.S. NAVY RADIO OPERATOR TRAINING FILM "THE RADIOMAN FIGHTS" 52364




AN-VRC12 radio operation (1963)




RADIO TELETYPEWRITER AN/GRC-46




u.S. Marines - HF Radio Communications




 During WWII, millions of women took





 US Army training film about the pathfinder teams, 1959



















登戸研究所(のぼりとけんきゅうじょ)は、現在の神奈川県川崎市多摩区生田にかつて所在した、大日本帝国陸軍の研究所。

設立

1939年(昭和14年)1月、「謀略の岩畔」との異名をとった陸軍省軍務局軍事課長・岩畔豪雄大佐(正確には軍事課長就任は同年2月、大佐昇進は同年3月)によって、特殊電波・特殊科学材料など秘密戦の研究部門として、通称「登戸研究所」が「陸軍科学研究所」の下に設立された。

登戸研究所の前身は1919年(大正8年)4月に「陸軍火薬研究所」が改編して発足した「陸軍科学研究所」のため、当初の正式名称は「陸軍科学研究所登戸出張所」であった。

運用中

所長には篠田鐐大佐が就き、1939年(昭和14年)9月に正式発足した。

1941年(昭和16年)6月に「陸軍科学研究所」が廃止され、「陸軍科学研究所登戸出張所」は「陸軍技術本部第9研究所」に改編。1942年(昭和17年)10月、陸軍兵器行政本部が設けられ、その下の「第九陸軍技術研究所[1]」に改編。1943年(昭和18年)6月、電波兵器部門を多摩陸軍技術研究所へ移管。

1945年1月、「帝国陸海軍作戦計画大綱」が発表され、本土決戦準備のため、登戸研究所は長野県各地、福井県武生兵庫県丹波に分散移転した[2]

同年8月15日、敗戦が決定すると、陸軍省軍務課は「特殊研究処理要綱」を通達し、すべての研究資料の破棄を命令した[3]。それらの資料の殆どが処分され、また、ほとんどの関係者が戦後沈黙したため、長らくその研究内容は不明だった。


組織

1944年時。

所長
篠田鐐少将
庶務課
第一科
電波兵器、気球爆弾、無線機、風船爆弾、細菌兵器、牛疫ウイルスの研究開発
第二科
謀略戦用兵器の研究開発
第三科
経済謀略戦用兵器の研究開発:法幣偽札製造を実行していた。
第四科
機械や爆弾の組み立て

研究・開発された兵器

原子爆弾生物兵器化学兵器特攻兵器、 謀略兵器、 風船爆弾缶詰爆弾怪力光線殺人光線電気投擲砲

上記の通り、怪力光線などのようにいささか空想じみた研究をしており、実態が不明な点が多いこともあって、各種創作物の中ではオカルトめいた怪しい研究所として描かれることが多い。しかし実際には、どちらかといえば謀略やBC兵器特攻兵器のような、地味かつあまりイメージの良くない研究が主だった。

中華民国の経済を乱すため、当時として45億円もの中華民国向けの偽札がこの研究所で作られ、30億円もの偽札が中華民国で使用された「杉作戦」が有名である



『陸軍登戸研究所』予告編



  


殺人光線

殺人光線(さつじんこうせん)とは、電磁波、電光などによって、対象を破壊する光線兵器のことである。ニコラ・テスラや、ハリー・グリンデル・マシューズ(Harry Grindell Matthews, 1880 - 1941)らによって研究された。大日本帝国海軍B-29型超重爆を撃墜するために、Z兵器の名称で開発を進めた


概要

殺人光線は、有害な光線の照射によって照射対象(人体航空機車両)にダメージを与え、それによって機能停止に至らしめるという物である。

一般に考えられている殺人光線は、人体の主要構成要素であるタンパク質を分解し得る程に、非常に強いエネルギーを持っており、また衣服等の日常的な遮蔽物を容易く透過するか、それごと破壊してしまうとされる。これらは光線の性質上、発射から到達まで一瞬である事や弾道が重力によるズレが発生しにくい事から、古くから軍事方面における利用が期待されてきた。

また、古いSF特撮作品に光線銃などとしてしばしば登場した。「怪力線」とも云い、今日のレーザー兵器や荷電粒子砲などにも通ずる


Z兵器

太平洋戦争当時の大日本帝国海軍は、電波を利用したエネルギー兵器の実用化を試みていた[2]。この「Z兵器」は、通信や探知(レーダー)など間接兵器として使用されている電波を直接攻撃兵器として運用できないか……という発想からスタートした[3]。パラボラミラーによって電波を照射し、飛行機や自動車を焼損破壊しようという企図であった[3]B-29型超重爆による日本本土空襲が始まると、従来の高射砲や防空戦闘機(局地戦闘機)を凌駕する対空兵器として「Z兵器」の開発を急いだ[1]静岡県島田に大型パラボラミラーや反射鏡が設置され、基礎実験をおこなう段階になっていたという[4]

島田理化工業島田工場島田製作所)(旧島田分室、島田実験所、島田実験会)において、同所長水間正一郎海軍技術大尉伊藤庸二の下、旧東北帝国大学教授渡辺寧らによって真空管マグネトロンを用いた57種類の高出力殺人光線「Z」が計画・開発実験され、戦後GHQ科学情報調査団(コンプトン調査団)デイビット・T・クリッグス博士によって査察を受け接収された事が、島田製作所元職員八木春尚、牛込恵子(水間正一郎の娘)と水間の遺された日誌、島田実験所元海軍技術大尉矢波雅夫の証言、アメリカ国立公文書館に保管されたアメリカ陸軍諜報部門が作成した文書簡(1945年10月23日)およびワシントンポスト(1946年4月22日付)、米海軍訪日技術使節団(1945-1946年にグライムス海軍大尉作成)文書簡への取材を元に解明され、このことが2014年7月26日にTBS報道特集において放映された(TBS報道特集「殺人光線「Z」 秘密実験所の深層 (2014/7/26 放送)」

104


111


112

113



103

263283573_10158378276260857_5073596427833068438_n



殺人光線

殺人光線(さつじんこうせん)とは、電磁波、電光などによって、対象を破壊する光線兵器のことである。欧米ではニコラ・テスラや、ハリー・グリンデル・マシューズらによって研究された。また、大日本帝国海軍B-29型超重爆を撃墜するために、「Z兵器」の名称で開発が進められた

Z兵器

太平洋戦争当時の大日本帝国海軍は、電波を利用したエネルギー兵器の実用化を試みていた[2]。この「Z兵器」は、通信や探知(レーダー)など間接兵器として使用されている電波を直接攻撃兵器として運用できないか……という発想からスタートした[3]。パラボラミラーによって電波を照射し、飛行機や自動車を焼損破壊しようという企図であった[3]B-29型超重爆による日本本土空襲が始まると、従来の高射砲や防空戦闘機(局地戦闘機)を凌駕する対空兵器としてZ兵器の開発を急いだ[1]静岡県島田に大型パラボラミラーや反射鏡が設置され、基礎実験をおこなう段階になっていたという[4]

島田理化工業島田工場島田製作所)(旧島田分室、島田実験所、島田実験会)において、同所長水間正一郎、海軍技術大尉伊藤庸二の下、旧東北帝国大学教授渡辺寧らによって真空管マグネトロンを用いた57種類の高出力殺人光線「Z」が計画・開発実験され、戦後GHQ科学情報調査団(コンプトン調査団)デイビット・T・クリッグス博士によって査察を受け接収された事が、島田製作所元職員八木春尚、牛込恵子(水間正一郎の娘)と水間の遺された日誌、島田実験所元海軍技術大尉矢波雅夫の証言、アメリカ国立公文書館に保管されたアメリカ陸軍諜報部門が作成した文書簡(1945年10月23日)およびワシントンポスト(1946年4月22日付)、米海軍訪日技術使節団(1945-1946年にグライムス海軍大尉作成)文書簡への取材を元に解明され、このことが2014年7月26日にTBS報道特集において放映された(TBS報道特集「殺人光線「Z」 秘密実験所の深層 (2014/7/26 放送)」)。この分室では渡辺寧、宮島龍興、菊池正士小谷正雄渡瀬譲小田稔などが研究していた[5]。島田実験所は1943年「強力極超短波」の兵器利用の研究のために設立されたものである。真空管とマグネトロンについてここで工学者と物理学者の間で研究が行われた

311
312

【海軍技術廠の殺人光線】

 海軍の研究所は、静岡県島田市にあった「第二海軍技術廠(しょう)牛尾実験所」です。
 本体である島田実験所では、電子レンジに応用されている「マグネトロン」で強力な電磁波を発生させる研究が進んでいました。この電磁波をパラボラアンテナから発信、1万メートル上空のB29に当てて、エンジンをスパークさせるものです。陸軍の研究と似ていますが、海軍は「Z研究」「Z装置」と呼び、朝永振一郎や湯川秀樹など後のノーベル賞学者も参加する中で開発が進みました。
313
島田実験所のスケッチ(『静岡県の昭和史』下巻)
その分室である牛尾実験所では、「A装置」の研究が行われました。これは、電波によって起爆する砲弾だと推測されています。

《高射砲によって発射される砲弾には、マイクロ波を受信するアンテナと起爆回路が組み込まれている。上空を飛ぶ航空機に向けて、パラボラ反射鏡からビーム状のマイクロ波を持続的に照射する一方、航空機に向けて打ち出された砲弾は、ビーム状のマイクロ波の照射されている領域に入ると、起爆する。こうして、航空機に接近した場所において砲弾を爆発させることができる。これが、「極超短波近距離起爆装置」ということになろう》(『第二海軍技術廠牛尾実験所跡遺跡』)

 戦後の1945年9月から10月にかけて、アメリカから来日した科学情報調査団が日本の科学開発の状況を徹底的に調査し、コンプトン報告書を出しました。報告書には、「殺人光線」の開発に関与した八木秀次博士の聞き取りが記録されています。
 報告書には陸軍において「3〜4キロワットの光線(極超短波)で30メートル先のウサギを殺す実験に成功したが、人体実験はしていない」と述べてありました

『第二海軍技術廠牛尾実験所』静岡県島田市
315
316
317
318
319
320
321
322
323
324
325
326
327
328

戦後 かれらはこの島田市にマイクロ波関連の会社を設立
それが島田理化SPCです
329
330
331

戦後に山梨に方向探知機の会社を設立それが光電KODENです
332
333

海軍技術研究の中枢にいた元海軍技術大佐伊藤庸二工学博士と技術者たちは、1947年(昭和22年)に光電製作所を創立しました。折しも食料不足の時代、コーデンの無線方位測定機「方探」は航海の安全と漁獲の増大を実現し、画期的な近代装備として急速に普及しました。このことも契機となって、わが国の漁業は近代漁業へ躍進していったといわれています。自由な研究開発と技術活用の場を求め集まった人々はいくつもの独創的な製品を生み出して、今日の基礎を築きました。



『陸軍登戸研究所』予告編






島田理化工業島田工場島田製作所)(旧島田分室、島田実験所、島田実験会)

  秘密実験所の深層




殺人光線 




171203旧海軍 島田・牛尾実験所を語る パネルディスカッション






2014牛尾実験所





「電波兵器」実験所跡、調査へ





旧海軍が開発していた「強力電波兵器」の実験所跡について、初の発掘調査が行われる見通しとなった。8月14日の報道でわかったもの。この実験所は、静岡県島田市内の牛尾山に残る「第二海軍技術廠牛尾実験所」。大きなパラボラアンテナで強力な電波を照射して、敵の飛行機を故障させる実験などを行っていた。電波兵器は実用化されることなく終戦を迎えたが、研究成果は戦後、電子レンジなどに応用されている。牛尾山は付近を流れる大井川の改修工事のため削られることになっており、「戦争遺跡として非常に重要」という声もあることから、写真や図面を残す記録保存を前提に発掘調査が進められるのでは、とみられている。ただ、地元からは実物の保存を求める声も上がっているとのこと。


25--GHQ軍事科学調査--Ngo未来大学院=NFS=NGO FUTURE SCHOOL





旧日本軍、最終兵器の都市伝説【都市伝説】





【都市伝説】知られざる旧日本軍の最終兵器 太平洋戦争末期のころ、静岡県島田市に爆弾が投下され多くの犠牲者が出た その爆弾は2週間後 長崎に投下された原子力爆弾とほぼ同じ形、同じ重さの模擬爆弾だった なぜ静岡県島田市がターゲットとなったのか?



マグネトロン





【高出力エネルギー兵器】米空軍がドローン群を瞬時に壊滅するマイクロ波兵器「フェイザー」を配備へ





暴動鎮圧用の電磁波兵器をアメリカ軍が公表





B-29 AIR RAID BOMBING IN TOKYO FILM NARRATED BY
RONALD REAGAN "TARGET TOKYO" 74382
























レーション


レーションField Ration)とは、広義には食料などの配給品(特に期間を区切って支給されるもの)を指すが、狭義には、軍隊において行動中、各兵員に配給されるコンバット・レーション( combat ration)を指すことが多い。本項ではこれについて記述する。

日本語では野戦食戦闘食戦闘糧食)、野戦糧食戦用糧食携帯口糧などと呼ばれる。また、正式な用語ではないが、払い下げなどで一般に出回ったコンバットレーションを、近年ではミリメシと通称することもある。

215


フランス陸軍のレーション。左から缶詰(鶏肉の春野菜添え)、ココア、ガム、キャラメル、角砂糖、プリン、シリアルバー、フルーツゼリー、ポケットティッシュ、ビーフブイヨン、クラッカー、チョコレートなどが見える


概要

これらの食料の多くは、劣悪な環境における輸送にも堪え得る保存性と、摂取カロリー量の確保を至上目的としたものである。古くから軍隊では、軍事行動中の食料兵站の量的な問題に頭を悩ませており、また、劣悪な環境により伝染病が発生しやすいこともあり、最も基本的な食料を衛生的かつ大量に輸送するため、保存性に優れ、また、余計な手間の要らないものが求められてきた。その一方で、平時よりもはるかにストレスの溜まりやすい戦場では、食事は栄養補給のみならず、重要な娯楽でもあり、兵士士気にも関わるため、味の改良も進められている

今日の「コンバット・レーション」と呼ばれる食品は、皿も食卓もない屋外でも食べやすいよう配慮がなされている。缶詰レトルト食品、ビニール袋に密封包装されたクラッカーパンなど主食おかずとなる副食が、一食分として一つのパッケージに収められたものが主流。スプーンなどの簡単なカトラリーが付くものもある。兵員の興味を惹き、ストレスを和らげ、兵士の士気向上や気力の維持に効果のあるとされるチョコレートガムなどの菓子類が付属することもある。食品を温めるためのヒーターと呼ばれる固形燃料コンロ生石灰と水の反応熱を利用したものが付属されており、温かい食事を摂れるように配慮されたものもある。

なお、これらは今日の軍隊が災害救援に動員されることも多いため、軍組織が一般人保護活動の一環として、被災した民間の人々にも配布することがある。日本赤十字社では、お見舞い品セットという段ボール箱入りの保存食(内容は缶詰、缶入りドロップなど)を緊急時に被災者へ配布することもあるが、この内容も(市販のカラフルなパッケージのものであることを除けば)レーションの発想に近い。なお、日本赤十字社のお見舞い品セットは1998年平成10年)まで、生気付けのウイスキーのポケット瓶が同梱されていたが、特定非営利活動法人「アルコール薬物全国市民協会」(→アルコールハラスメント参照)の抗議により外された[1]。これは後述するように、一律に配布される性質のため、それを受け取る側の一部に、その内容物が適さない者も含まれることへの配慮を必要とする部分も絡む

かつては気付けや気晴らしとして少量のが配布されていたが、現代では作戦の妨げになるとして廃止したか、ノンアルコール飲料清涼飲料水)で代用されている。

海軍においては、樽に入れた水は藻が生えて飲めなくなるため、第二次世界大戦ごろまでは長期保存できる酒を配給していた。初期にはラム酒が多かったことからラム・レーションとも呼ばれる。イギリス海軍ではグロッグアメリカ海軍ではライ・ウイスキー水割り日本海軍ではウィスキーもしくは清酒が支給されていた

形態

レーションには大きく、個々の兵士に配分されるものと、部隊(小隊分隊単位)で配分されるものに分けることができる。前者には1回分の食事セットとなっているものや、1日分がセットになっているものがあり、いくつかメニューのバリエーションがあり、食事に飽きさせない工夫がなされている。部隊単位で配分されるものには食材として提供されるものが主で、調理して食べることができるため、現地で入手可能な食材を利用して工夫を凝らした料理に仕上げることも可能である

また、一部にはタバコ類などの嗜好品が同梱されているものや、ベジタリアンであることや宗教的な食のタブーに配慮して、特定の食材を含まないレーションも存在している。古くは「配給品」であることから、蝋燭石鹸歯磨剤などの消耗品を含むものも多かったが、現在ではこれらは食料とは別に配給されるため、今日のレーション中には含まれないことが多い

個人向けレーションには、現地の飲用に適さない水を濾過・沸騰させて飲む場合も多いことから、湯や湯冷ましに入れて飲用するティーバッグ粉末ジュースインスタントコーヒーココア粉末スープ類が付属し、食事に彩りを添えたり、食後の娯楽に供するための配慮がなされている

しかし、食事という個人の好みによる部分が非常に大きく、また、国家によっても、食文化や食のタブーに対する考えが全く異なってくるため、一概に「レーションとはこういうものである」と言い切ることはできない

長時間の任務を行う哨戒機輸送機などは、基地で調理した弁当を冷凍して積み、食事の時間に解凍して食べる。メニューは基地の食堂と同じであることが多い。戦闘機などの機内が狭い機種では食事は想定されておらず、非常食を積むだけである。艦船や航空母艦ではスペースに余裕があるため、食材を積み厨房で調理して提供する

駐屯地や基地での通常の食事は、特にギャリソン・レーション(garrison=守備隊・駐屯地)や兵食(へいしょく)と呼ぶ


ナポレオンの要請

この問題に際して、「軍隊は袋で動く」と言葉を残し、早くから軍隊における食糧の供給問題に目を付けていたナポレオン・ボナパルトは、常温で長期間保存ができる食品を求めて、懸賞金をかけて保存食の開発を民間に広く要請した

これに応えて、1804年フランスニコラ・アペールが加熱殺菌済みの瓶詰を開発したが、ガラスは割れ易く、輸送面で難があった。1810年には、当時フランスと戦争状態にあったイギリスピーター・デュランドが、現在の缶詰の原型となる金属製密閉容器に食料を封入する方法を考案した。

当初は、寸胴に金属製の蓋をはんだ付けしたような容器であったが、缶切りはまだ発明されておらず、(のみ)と金鎚を使って開けていたが、場合によっては斧で切ったり小銃で缶を撃って穴を開けるなどして、食していたという

その後、缶詰は改良され、缶切りも登場したことによって簡単に開けられるようになり、長らく兵員の食料として提供されていたが、どうしても「食べた後の空き缶が発見されやすい」「メニューが単調で食事に飽き、士気の低下にもつながる」として容器やメニューの改良が続けられた

レーションの近代化

今日見られるコンバットレーションのように、1つのパッケージで1食分とするような形態の総合的なレーションが開発されたのは第二次世界大戦前のアメリカ合衆国で、1936年から1941年にかけてCレーションDレーションと呼ばれる2種類のレーションが開発されている。これらは1920年代に前後して試作された保存用のレーションを原型としており、この原型となったリザーブレーションは、2つの缶に複数の缶詰・干し肉コーヒー角砂糖などが封入されたものだったが、保存性よりもむしろ運搬の簡便性を重視したものだった

これらのレーションは、今日見られるレーションにより近く、長期間の劣悪な輸送環境に堪え得るように配慮されたものであった。それぞれの食品を缶詰にした上で箱詰めされたり密閉された缶容器に封入されたCレーションと、ブロック状に圧縮・固形化された食品をビニールなどの包装フィルムで密封したDレーション(現在市販されているスナックバーなどに近いもの)は、第二次大戦から朝鮮戦争を経て、ベトナム戦争の時代に到るまで改良されながら生産され続け、年間数百万食という単位で生産・消費された。また、これらの時代を経て、CやD以外の各種レーションが多数開発・利用されている

現代

2000年代以降は、より携帯性に優れ、消費後はゴミが少なく、移動後に痕跡を発見されにくいレトルト食品化や、軽量にすることを目的としたり耐寒性を重視したフリーズドライ化が標準となった。メニューも多様化することで娯楽性を向上させたものが登場している。食品加工技術の向上もあり、保存期間の延長も進んでいる



各国のコンバットレーション

世界的にも同種レーションの開発は進んでいる

メニューの豊富なカナダや、味に特化したフランス(市販品や民族料理を多用しており、非常に多彩な内容である)、ティータイムに大きな優位を持たせているイギリス米飯副食漬物を組み合わせた日本、温かい食事ができるよう工夫された中国ロシア、エネルギー補給に重点をおいたノルウェー熱量は最大で7,500kcalに達する)などの北欧諸国、過酷な保管環境でも内容物に影響が出ないよう厳重に真空パックされ、ワインデザートも用意されたイタリア、密閉容器を破壊しかねない発酵ガスを防ぐように処理された白菜キムチをメニューに加えた韓国と、各国の食文化を反映したものが開発されており、食文化だけでなく気候や軍の抱える事情も、そのままパックされていると言ってもよい


216
日米合同演習で行なわれたレーション交換会。

217
米軍のMREパッケージ内容物

一覧

  • オーストラリア国防軍
  • カナダ軍
    • Individual Meal Pack
  • フランス軍
    • Ration de combat individuelle rechauffable
  • ドイツ連邦軍
    • Einmannpackung - 略称 EPA主菜および副菜、缶詰パンやハードビスケット、スプレッドやマーマレードなど塗り物、インスタント飲料、ビターチョコレートやチューインガムなどがセットになった一日分(温食二回・間食一回)の個人レーション。アクセサリーとして浄水剤・紙ナプキン・マッチも同封される。主菜・副菜の包装には、1970年代までは缶詰が用いられ、1980年代以降にはアルミ成形容器に変更された。それでもなお一日分のEPAをまとめて収納する厚紙製の箱は重くかさばるため、1999年に下記の軽量版EPAが追加採用された
    • Einmannpackung leicht - 主菜がフリーズドライ処理された軽量レーションで、一日分(温食二回)がビニール袋に収納されている。パンやビスケット・スプレッド類・インスタント飲料・カロリーバーなどが同封される
    • Tagespaket EPA - 主菜とミューズリーを主体にした一食分の軽量レーション。ビスケット・インスタント飲料・チョコレートなどが同封される。Einmannpackung leicht とともに、従来のEPAと並行して使用されている
    • Notration Verpflegung - 高カロリー食・インスタント紅茶・浄水剤がセットになった非常食
    • Überlebensration - 高カロリー食だけのサバイバル食
  • 東ドイツ国家人民軍
    • E-Portion(Eiserne Portion) - 圧搾ハードビスケットがブリキ容器に入った携行非常食。ビスケット三個を密封した個包装六包がブリキ容器に収納され、さらに容器全体がポリエチレンフィルムで密封されていた。容器二個(ビスケット計36個)が一人分の定数とされ、総熱量は約2000キロカロリーであった。平時・演習時には中隊以上の指揮官、戦時には小隊指揮官の命令によって開封、喫食するよう定められていた
      Eiserne Portion(直訳すると「鉄の一人前」ないし「鉄の献立」)は第一次世界大戦期以来使われている呼称 Eiserne Ration(「鉄の給食」)を踏まえたもので、缶詰などの金属容器に入った非常糧食を指す。冷戦期の東ドイツ軍では、もし核戦争が起きたら唯一の拠り所になるという意味を込めて、Atomkekse(原子クッキー)とも呼ばれた
    • K-Portion (Komplekte) - 数個の缶詰を主体に構成された一日分の個人レーション。内容物は500gの全粒粉パン1、各200gの野菜料理2、各90gの肉料理4、板チョコレート1、紅茶4、食塩2。またアクセサリーとして、固形燃料、マッチ、浄水剤が付属する
  • イタリア軍
    • Forze armate / Razione viveri speciale da combattimento
  • 自衛隊
    • 戦闘糧食I型 - 缶詰による保存。2016年限りで発注終了
    • 戦闘糧食II型 - レトルトパウチによる保存2017年から活用されている現行品
    • 救命糧食 - 航空機・艦艇などが遭難した場合のための救命キットに含まれる高カロリー栄養食。
  • アメリカ軍

以下は歴代の物で、制式を解かれた




コンバットレーションにまつわる関連現象

非常食(災害備蓄食料)

現在、宇宙食と並んで最も保存性の高い食料品が、これらレーションやそれから派生した災害備蓄食料である。災害備蓄食料は、レーション開発において発展した技術を取り入れることで、被災者の心理的なダメージを軽減させるべく、温かくて味も良い保存食への改良が進められている。また、保存性においても、全く空調管理されていない環境でも5年や10年の単位で保存・備蓄が可能なものが開発されている。軍用レーションと全く同等であることを謳うものもある。

市場への流通

アウトドア愛好者や軍事関連に興味を持つミリタリーマニアなどが、軍の払い下げ用品として市場に流通した軍用レーションを売買する市場も形成されており、各国の軍用レーションがインターネットオークション上や、専門店での販売が見受けられる。なお、自衛隊のもののように公式に払い下げられていないものには、横領などの犯罪行為による入手の可能性が非常に高く(特に複数個以上の大量販売など)、購入を行うと共犯行為に該当する場合もあるため、購入には細心の注意、または入手元の確認が必須とされる。たとえ米軍その他各国軍のもののように正規に入手できるものでも、払い下げである以上それは保存期間を経過してもなお消費されることなく流れてきたものであり、また、一般企業の商品のように何らかの安全保証があるというものでもないため、万が一破損していたりした場合食中毒を起こす可能性もある。ミリタリーショップやインターネットオークションで販売している場合でも、多くの場合は「観賞用として」と言う建前で売っており、どうしても食べる場合には自己責任の上で、と謳っているケースが大半である。ただし、メーカーが自衛隊向けに市販品を流用した特別仕様の商品や、自衛隊向け商品と同一仕様で作られた一般向け製品もあり、ベビースターラーメン自衛隊仕様「隊員さんのスタミナラーメン」、萬有栄養の「イーアール」などのように、一部地域での販売や通販・インターネットオークションなどを介して、一般で同等品の購入も可能なものもみられる。

スパム

第二次世界大戦やそれ以降、主にアメリカ軍兵士の食料として、スパムは多く利用されるようになった。このため沖縄など米国外の米軍駐留基地のある地域では、同製品を含むランチョンミートを消費する食文化が発展している。なお「しつこい/飽き飽きする」という隠語での「スパム」はモンティ・パイソンに由来するとの説が有力である。

アメリカ軍用チョコレート/ハーシーズ・トロピカル・バー

軍隊における食事は一般市民の1.5倍程度の栄養価で提供され、ことレーションではカロリー面を補うためチョコレートが多用される。殊にハーシーズ・トロピカル・バー(Harshey's Tropical Bar)は、第二次世界大戦当時に熱帯で持ち歩いても溶けたり腐ったりする事の無いように開発された耐熱性のあるチョコレートであるが、特に携帯非常食としてのものでは「茹でたジャガイモよりややましな程度」という味の条件が課せられた。これは、「美味であると非常時に必要になる前につい食べてしまい、本当に必要な時には食べてしまった後である」という事態を防ぐ為であった湾岸戦争の折には更に耐熱性を高めたデザート・バー「砂漠仕様チョコバー」も試作された

日本でも航空自衛隊井村屋と共同で、チョコレート味ながらも耐熱性をクリアするため羊羹をベースとしたJASDF羊羹を開発している

アーミーナイフ

兵士に支給されるアーミーナイフには、レーションを開封するのに役立つ缶切り・栓抜きが必ず付いている。近年ではプルトップ缶やレトルトパウチが大半を占めるが、軍用缶詰では空中投下に耐えられるよう、敢えてパウチやプルトップとせず缶切りを要するものもあり、依然として標準装備として支給されている。ガリルアサルトライフルのように、兵隊が支給された食料を食べるために缶を小銃で撃って開けたり、銃剣で開けたりといった事態を防ぐために、栓抜きを付け足したケースもあり、こういったアーミーナイフの支給も銃剣を壊させないための予防策といえる


MRE


MRE(エムアールイー)は、アメリカ軍が採用している個包装されたレーション。MREはMeal, Ready-to-Eatの略。1980年代頃からMCIレーション(Cレーション)に取って替わった。


004



Cレーションが缶詰中心で重量や空き缶の処理の問題があったのに対し、MREはフリーズドライ食品(後にフリーズドライではない、煮込み等の食品)と簡易包装を利用することで、大幅な軽量化・合理化を目的として開発が始められた

アメリカ国防省は、1975年にMREをレーションとして正式採用することを決定し、開発を進めることとなった。1978年から製造テストが始まり、1981年から製造が始まった。1981年に製造されたMRE Iが初めて製造日を刻印されたものである

1983年に34日間かけて、第25歩兵師団でMREの有効性を確認するフィールドテストが行われた。兵士たちは3食全てをMREのみで過ごした(通常は2週間以上食べ続けるのは控えるべきとされる)。MREにレーションとして総合的に可という評価が下されたものの、残飯が多く、後の開発に課題を残した。1個当たりカロリー換算で60%が食べられたが、残りの40%は破棄されたのである。1986年に同じ師団で調査が行われ、評価の向上と残飯の減少が見られた

調査やフィードバックを反映し、1988年に製造が行われたMRE XVIIIから様々な変更がなされた。12食中9食の主食が変更され、主食の量が5オンス(約142グラム)から8オンス(約227グラム)に増やされた。市販品のチョコレートバー、あるいはキャンディーバーが4つのメニューに追加され、タバスコソースも4つのメニューに足された。12のメニュー全てにインスタントジュースの粉が増やされた

湾岸戦争の初期のフィードバックに基づきMRE Xからさらに多くの変更がなされた。乾燥コーヒー粉末が市販品のフリーズドライコーヒーに交換され、タバスコソースが全てのメニューに追加されたドライフルーツは半生の加工品と交換され、市販品のキャンディーバーがさらに4つのメニューに追加された

湾岸戦争の際にMREは、想定された10日間を超えて長期間使用された。多くの部隊では60日以上もMREのみで過ごしたのである。この時のフィードバックを反映して、MREに3つの大きな変更がなされた。保存性を高めたパンが開発され、クラッカーに加えて添付されることになった。初期の試作品がワックスのような味がするとして採用が見送りになった、砂漠の高い気温でも溶けないように加工されたチョコレートバーが採用された。また、FRHという化学薬品の反応を利用したヒーターが添付され、お湯を沸かせなくても温かい食事が取れるようになった。ヒーターはビニール類の袋に収められている薄型のものであり、使い捨て。使用の際にはその袋にレトルトとヒーターを共に入れ、少量の水を注ぐ。すると蒸気が出るほど発熱してレトルトが温まる

その後数年間にわたって様々な変更がなされた。空軍共同の調査委員会が、マンネリ化を防ぐため少なくとも毎年2つのメニューを変更することを提案した。またいくつかの副食が変更され、デザートやコーヒー、紅茶にも変更が加えられた

1994年の第1四半期に3つの大きな変更点がフィールドテストされた。1つ目は無味乾燥な包装を市販品に似た包装に変えることである。すでにいくつかの調査で新しい包装のほうが消費意欲と評価を向上させることが発見されていた。2つ目はMREの包装をより簡単に開封できるようにできるようにしたことである。3つ目は、以前より長く作られた、生分解性プラスチック製(澱粉由来の)スプーンである。MRE XVIIからこれらの変更は施行された

1994年の後半からメニューの数を12種類から段階的に18種類、24種類と増やしていく改善案が研究され始めた。メニューの種類を増やすことで、単調になりがちなMRE中心の食事をより長い期間、使用できるようにするのが目的である。1996年からメニューの数は16種類に増やされた。1997年から20種類に増やされた。1998年から24種類に増やされ、2005年現在も同じ数のメニューが用意されている。

1993年製造のMRE XIIIが配布されて以来、70個の改善処置が取られた。最も評価が低かった14個の品目は変更され、メニューは12種類から24種類に増やされた。24種類の中に2010年から2016年まで4種類の菜食主義者用のメニューがあったが、2017年以降はメニューから全て消滅している。

2000年代にはピーナッツとチーズのピザのMREが開発されており2018年にはリリースされる予定であったが、100 °F (37.8 °C)の箱に6ヶ月入れ続ける試験において、安全に問題はないものの、茶色くなりすぎてしまったため2019年に延期されている[2][3]。Armytimesでは来年末までにはほとんどの兵士が利用できるようになるだろうとしている。同報道によればペッパーピーナのピザが含まれるが、トッピングのバリエーションについては、新製品についての軍のフィードバックを聞いた後、将来的に導入される可能性があるとしている



メニュー

2018年現在、24種類のメニューがある(2010年にあった4種類の菜食主義者用のメニューは2016年を境に消えている)

2011年からの変更点として、主食パッケージの簡素化、湯沸かし兼計量用のパックの追加がある。

2013年からの変更点にトルティーヤ、デザートの多様化(チョコレートプディングなど)、タバスコソースのパック化、ビーフジャーキー、フルーツソース(アップル、ピーチ、マンゴー)添付

2016年からの変更点として、ビバレッジパウダーの小型化、ハラペーニョ味のカシューナッツ、チーズスプレッドの復活、バーベキューソース・ケチャップ・マスタード添付、ビーフジャーキーの小型化がある。パンを2枚で挟んでハンバーガーのようにして食べるメニューもある

2017年の変更点として、粉末ミルク入りグラノーラがある

12個で1セットになっており、Case-A(Menu.01~12)とCase-B(Menu.13~24)の構成である。個々のメニューは約1200キロカロリーを提供するようになっている。Case-Bのメニューは変更が激しく、新メニューの割合が高くなっている

メニューは次の通りである




211
パッケージから取り出したところ

212
Menu.22 ジャンバラヤの中身。


解説

野戦食であるMREには数々の包装基準があり、次の条件を全て満たす必要がある。

  • 高度380mからのパラシュート投下、高度30mからの単体梱包投下でも破損しない事
  • 外気温摂氏27度で最低3年間、38度でも最低6ヶ月保管出来る事
  • 摂氏マイナス51度からプラス49度までの気温(変動100度)に短期間耐える事

流通

糧食とはいえ、MREは軍用品であるので一般には出回っていない筈であるが、日本でも在日米軍基地があるので、比較的容易に実物が手に入るその多くは「コレクション用」などの備考が付してあり、実際どのような経路を辿って販売されているのか不明な場合がほとんどな為、このようにして販売されている MRE を食べるのは避けるのが賢明であるといえるが、マニアによるレポートのサイトなども多い。

韓国国内では、在韓米軍の備蓄品だった MRE の横流しに関与していたグループが、当局に摘発され逮捕されるという事件が発生した

現在、オークションなどで流通している MRE は、アメリカ軍の放出品を扱っている物であり違法性はないが、一次賞味期限の切れた放出品である為、一般的な感覚では「廃棄物」であり、防水加工されているとはいえ、外袋の劣化により、インスタントコーヒーが湿気っている事などが多々ある。


MREのバリエーション・類似のレーション

RCW (Ration, Cold Weather)
寒冷地仕様のレーション。新型のMCWに移行した。
MCW (Meal, Cold Weather)
寒冷地仕様のレーション。RCWから改良され、メニューが増えた。
HDR (Humanitarian Daily Ration)
人道支援用レーション。紛争地帯等で現地住民に配布される。食のタブーに配慮し、肉やアルコールは使用していない。
LRP (Long Range Patrol)
特殊部隊用レーション。フリーズドライを採用しているため、小型・軽量。
TOTM (Tailored Operational Training Meal)
訓練用のレーション。MREから幾つか内容物が省かれている。



戦闘糧食I型

戦闘糧食I型は、自衛隊で使用されているレーション。通称カンメシ



221
ご飯缶(奥の4点)と主菜または漬物缶(手前の4点)。右奥は袋詰めの乾パン。


概要

自衛隊が創設された1954年昭和29年)から採用された缶詰タイプの糧食で、レトルトパウチ包装タイプの戦闘糧食II型が出た現在でも耐久性や保存性の面で優れているとされ、陸海空三自衛隊で使用され続けている。メニューは大きなご飯缶(およそ二合入っている)一つと、おかずたくあんそれぞれ一つで構成されるのが一般的である

なお、陸上自衛隊納入分に関しては、2016年平成28年)度限りで終了している

支給

自衛隊での予算会計では、「非常用糧食」として要求され購入されている。そして賞味期限である3年間のうち、業者から納入されてからの1年は各方面隊補給処、2年目は駐屯地業務隊補給科糧食班倉庫でそれぞれ備蓄糧食として保管され、3年目に各部隊へ計画に基づき配分され演習などで隊員達に食事に供給される際、便宜的に「戦闘糧食I型」と呼ばれることとなる(本来は防衛出動治安出動災害派遣の際に、出動先で食べるものなので、正確に言えば戦闘糧食I型と言う物品は自衛隊には存在しない)。

官給品であるため、部隊外への持ち出し(自宅への持ち帰りなど)は禁止されていた。しかし、近年になって協力本部・部隊より稀に配布される他、陸上自衛隊朝霞駐屯地陸上自衛隊広報センター「りっくんランド」の売店でも、デザインや量は異なるが、ほぼ同等品を購入することができる。

糧食として

通常、缶全体が暗緑色(オリーブドラブ)に塗られており、内容が側面に黒字で書いてある。しかし、缶切りを使った際に、剥げた塗料が食品に混じらないための配慮から、缶上部の縁は無塗装となっている。1990年代初頭までは無塗装のまま支給されていたが、隠掩蔽の不都合(光を反射するので備蓄点が知られてしまう)などの理由で順次OD塗装された物が支給された。ごく一部であるが、貯蔵用のもので全体が無塗装のものもある。特に災害救助派遣では、無塗装の物が支給される場合もある。これらの缶は大きさが工夫され、一番大きなご飯の空き缶の中に小さなおかずの缶の空き缶を重ね、入れ子にすることで、ゴミの減量化に伴う隠蔽性の向上が期待されている

21世紀初頭現在、一般に出回っている缶詰プルトップなどの簡単に開けられる物が多いが、このI型では航空機から投下する際の衝撃に耐えられるよう、あえてプルトップを採用しないようになっており、このため開缶には別途缶切りが必要である。航空機投下ではもちろんパラシュートを用いるものの、着地の衝撃は大きく、汁物の入ったレトルトパウチでは耐えることができない点も、II型にI型が取って代わられることのない理由となっている。2005年にはJIS改正に伴い缶詰サイズも変更になったほか、従来型の上面と底面にあったリムが、底面のプレス加工板金への変更に伴い、より接合部の少ない(強度の増した)缶詰へと変更された。

また、銃剣など他の装備を缶切りに使うと、それらが本来の使い方ができなくなる損傷・破損を起こす可能性がある。それを回避するためと、個別に缶切りなどの道具を持ち運ぶ必要をなくすために、小さな缶切りが缶の縁もしくは段ボールの箱にビニールに包まれた形で付属している(乾パンに付属するウインナー缶のみすべての缶に付いており、それ以外は箱に同封)この缶切りは、ご飯缶24個1ケースに付き4個ずつ・おかず缶48個1ケースにも4個ずつ、プレス加工の簡単な缶切りが付属しているという。写真では、左の列の手前から2番目の缶に、缶切りが装着されている缶切りには「10円玉で外して下さい」と打刻してある。この簡易缶切りは一つで25個以上の缶が開けられる耐久性がある。ただ、数が少ないため取り合いになりやすく、自前の缶切りを携行する隊員もいる

パック型

2013年度より試験的に部隊運用開始、2015年度調達分より正式採用となっている。内容物は戦闘糧食II型とほぼ同一の主食2パックとおかず1もしくは2種類であるが、耐久性向上の為に主食パックの封を厚手のビニール素材からアルミ素材に変更し耐久性と賞味期限3年間を確保している。また、2型と違いプラスチック製のトレイを同封し、主食とおかずを盛りつける事でワンプレート方式で食事が出来るようになっている

内容物

ご飯缶は、冷えた状態ではβ化しており、固いだけでなく栄養として消化吸収できない。湯煎してα化する必要があるため、通常配給前に一度湯煎する一度湯煎すればβ化するまで夏場は3日間・冬期間は保温処置をしない場合は数時間の間、そのまま食べることができる。ご飯缶は五目飯赤飯鳥飯しいたけ飯などのバリエーションがあり、日本人には相性の良いメニューといえる。また、主食に関してはもち米が高比率で配合されているため、非常に腹持ちが良い。また、白飯以外は基本的にそのまま食せるよう味付けがなされている

おかず缶も主に醤油風味の味付けで、和食が充実したメニューである。ウインナーなどの洋食もある[注 3]。また、たくあんの缶詰は隊員達には好評で、演習終了後、酒の肴としても食せるためカンメシの傑作との評もある。 オカズ缶ではこの他、コンビーフ牛肉大和煮などというバリエーションがあり、この辺りは「メニューを充実させることで兵員の士気維持を図る」という他国レーションと同種の工夫が見られるが、特に米飯に特化したメニュー構成というのは珍しい。この他、乾パンなどのような別メニューも存在する。

おかず缶の栄養比率は比較的塩分が高く少ないおかずでご飯を大量に食せる内容量となっている。任務中の隊員には塩分比率が合っていても、災害派遣などで被災者などに配られる場合、高血圧症などに気をつける必要がある

戦闘糧食I型には、乾パンと金平糖・ウインナー缶のセットがある。乾パンは透明色の袋に黒字で「乾パン」と書かれており、米飯と違い寒冷地で冷たくなっても食感が変わらないため、冬季演習中には好んで乾パンを食べる隊員もいる

処分方法

陸上自衛隊マニュアルなどでは、食べ終わった後は原則として潰してから埋める事になっている。これは、空き缶の数から部隊の規模を推測されるのを防ぐためである。ただし、このような廃棄方法は有事における扱いで、演習場においては各部隊で空缶を回収、廃棄される。部隊に配分された缶飯は多くが食されずに一定期間の保管後は廃棄処分となる(現在はコンビニによる演習前および演習終了後の食事の調達が容易なため)演習で使用されたレーションの容器は、その使用による損傷が腐敗の原因となるおそれがあるため、回収および再使用されることはない。

災害派遣

自衛隊の災害派遣への増加に伴い、被災者への食料として使われることが多い。しかし、「苦しい状況下で赤飯を配るとは何事だ」といった苦情が出るなどの問題がある。そのため、災害派遣にはなるべく使わないよう配慮がなされている。ただ、実際は、米食の中でも特に「もち米」が高比率で配合されているため腹持ちが良いという実用的な面と、単純に配布する食料のバリエーションをふやす目的で赤飯が選ばれたと推測される。その後、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の災害派遣を機に、陸上自衛隊航空自衛隊は赤飯の調達を中止することを決定した。これにより、1957年の調達開始以来54年目に、赤飯が陸・空自衛隊の戦闘糧食のメニューから外れた

阪神淡路大震災の際は、緊急食料として缶詰食が供給されたが、大量の缶詰を湯煎する設備が無かったため、神戸港接岸中の護衛艦の浴槽で代用した。北海道南西沖地震の際にも、奥尻島の住民に対して航空自衛隊奥尻分屯基地に保管されていた緊急用の缶詰食が配布され、やはり分屯基地の浴槽に熱湯を入れて缶詰の湯煎が行われた。



戦闘糧食II型


概要

1990年平成2年)に自衛隊が採用した新しい戦闘糧食で、従来の戦闘糧食I型缶詰であるのに対して、II型は全てレトルトパウチ包装である。ゆえにI型に比べて持ち運びと調理が容易になっている。I型では25分であったご飯の湯煎時間が、II型では10分になっている。レトルトパウチは金属缶に比べて強度の面で劣り、保存期間も短いため、今後もI型と併用される。 しかし2016年(平成28年)2月、陸自はI型の新規購入を停止し来年度以降はすべてレトルトパウチ型のレーションに一本化することを決定した。


222



223
戦闘糧食II型(改





Testing 2019 US Canadian Russian Military MRE (Meal Ready to Eat)






Tasting Japanese MRE (Meal Ready to Eat)













Testing Italian Military MRE (Meal Ready to Eat)





Testing New Russian Mountain Military MRE (Meal Ready to Eat)





Off Road MRE (Meal Ready To Eat)




1980 us military Pilot Survival Kit




Testing Russian Emergency SOS MRE (Meal Ready to Eat)





Tasting Chilean MRE (Meal Ready to Eat)




50 year old us military pilot survival kit





Testing Polish MRE (Meal Ready to Eat)





1969 C Ration B-1A Unit US MRE (Meal Ready to Eat)


































The Avenger Air Defense System, designated AN/TWQ-1 under the Joint Electronics Type Designation System, is an American self-propelled surface-to-air missile system which provides mobile, short-range air defense protection for ground units against cruise missiles, unmanned aerial vehicles, low-flying fixed-wing aircraft, and helicopters. The Avenger was originally developed for the United States Armed Forces and is currently used by the U.S. Army. The Avenger system was also used by the U.S. Marine Corps.
The Avenger comes mainly in three configurations, the Basic, Slew-to-Cue, and the Up-Gun. The Basic configuration consists of a gyro-stabilized air defense turret mounted on a modified heavy Humvee. The turret has two Stinger missile launcher pods, each capable of firing up to 4 fire-and-forget infrared/ultraviolet guided missiles in rapid succession. The Avenger can be linked to the Forward Area Air Defense Command, Control, Communications and Intelligence (FAAD C3I) system, which permits external radar tracks and messages to be passed to the fire unit to alert and cue the gunner.

共同電子機器型指定システムの下でAN / TWQ-1と指定されたアベンジャー防空システムは、巡航ミサイルに対する地上ユニットの移動可能な短距離防空保護を提供するアメリカの自走式地対空ミサイルシステムです。無人航空機、低空飛行の固定翼航空機、およびヘリコプター。アベンジャーはもともと米軍のために開発され、現在は米軍によって使用されています。アベンジャーシステムは、米国海兵隊でも使用されていました
















連合軍通信

GHQは昭和21年10月29日の覚書を発し当時の逓信省に対してそれまでの電話サービスに加え

通信サービス、施設、機器、資材ならびに人員を提供するように指令しその一環として

無線通信サービスについても人員を提供するように命じてきた

311

0c5b43d3-s


名古屋特別無線中継所

GHQの覚書により大和ビルにあった第5空軍司令部第一通信隊に所属する短波、極超短波無線送受信機の

保全サービス業務に当たった

保守業務概要は

①無線送信所 短波送信装置(2.5KW、1kW、500W)の点検・修理

②VHF・FM無線端局(AN/TRC-1)の保守  第5空軍~守山基地~小牧基地

③無線テレタイプ(RTTY)短波テレタイプ受信装置の点検・修理 守山受信所~大府受信所

④DC,AC,RFの測定器の修理更正並びに作成、通信隊用教材の作成

⑤名古屋と小牧のVHFk地局(50W)の移動局の保守 名古屋憲兵隊本部~小牧基地

⑥各務原那珂基地の短波送信機(500w)、VHF,FM基地局(50W)と車載移動機の保守

⑦CAX電話テレタイプ回線用搬送端局の保守運用

その他もろもろ


白羽(大井)、大山、青山特別無線中継所

戦後わが国に進駐した連合軍はAN/TRC-1と呼ばれるFM方式の可搬形極超短波無線機を

もち込んで主要の駐留基地を結ぶこととした

昭和23年6月に東京から札幌までに開通させ更に東京~大阪~福岡まで日本縦断回線の構築

した東海管内では既設(60MHzAM)の無線中継所に駐留軍が白羽、大山、青山に併設して

その開通後の保守を24時間にわたり中継所の職員があたり第5空軍の米兵4~5名が常駐した

同方式は70MHz~100MHz帯の周波数で送信出力は40Wで電話回線3CH多重で音声内合わせ

1CHであつた電源は115Vの交流でよかつたが商用電源が不安定の時代であつたが保守が容易であり

当時の日本の60MHzAMと比べると何十年もの開きあつたまたアンテナは八木博士の逆輸入とうべき

3素子の八木アンテナでアンテナから50Ωの同軸ケーブルをつていたが経年劣化で絶縁不良などおこした


富士特別分室

昭和26年、御殿場の米軍キャンプ富士と横浜根岸を結ぶ90MHz帯FM回線(AN/TRC-1)

3回線の保守サービスのため4名が派遣され当時は御殿場電報電話局の所属となつた

昭和28年10月には清水無線中継所富士特別分室となつたその後回線は

キャンプ富士~座間間の400MHz帯FM回線(AN/TRC-12送受信装置)4回線に変更され

職員も5名から6名となつた同分室はキャンプ富士の移管にともない昭和32年11月に廃止された


後日談

終戦を迎え思いがけないくも米軍通信隊の中枢に派遣され勤務することになり

初めてお目にかかる通信機材はそれまで見慣れた日本製とはずいぶん違っていた一言でいえば

コンパクトでスマートであり技術水準の差は明らかであつた構成部品でいえば真空管はほとんど

メタル管またがGT管であり移動無線機はミニチュア管が使われ当時の日本では無った

抵抗器がソリッド型でその抵抗値がRMAやAWS式のカラーコードが表示されとおりこの

カラーコードを覚えるのが最初であつたまた周波数変調方式に接したのも最初でそのFM理論を

米軍の取使説明書をたどって勉強した

米軍通信隊にはRCAやフィルコム等のメーカーから派遣された少数の米軍技術技師が通信隊の

技術指導にあたつて我われ派遣要員は当初は言葉の不自由さ、不慣れ、そして差別待遇など

困難もあつたが次第に機器、装置を習得しお互いの気心も知るところになり共に専門知識が

評価され信頼されるようなつた米語の会話もある程度理解できるようにらなければならず

技術用語は分かりやすかつたが一般会話は苦労したがなお公社の英会話能力検定の合格者には

語学手当てが支給された

4544c5a5

b20a443b-s
222
223
224
225
226


連合軍のマイクロ回線

本社  林 義昭





 連合軍の日本占領後の通信ネットワークがどうであったかは、文献も少なく、まして浅学非才の私が知る由もないが、マイクロ波通信50年の寄稿や資料の中にいくつか記されているので、先輩から伺った話も含めてその断片的な印象を記して見たい。
 90MHz帯を用いたAN/TRC-1、及び4(4CH多重)は、戦後早くから逓信省のVHF局をも活用して、北は北海道から南は九州迄全国的に展開された。記録によると90MHzのAMによって、昭和20年初夏に開通した東京(双子)-三宅島-八丈島回線は、AN/TRCのために90MHzから60MHzに周波数変更を行ったが、これは全国すべての局で実施された。その建設工事の早さと無線機器の動作の安定性で遥かに優れており、これでは負けても仕方がないとの印象をもたれた諸先輩が多いと聞く。
 昭和23年2月から連合軍(主として米軍)から、AN/TRC回線の保守を逓信省で行なうこととなった。これは、日米間の行政協定により日本側が保守を受託したもので、黎明編のVHFの記述の中にもその様子が散見される。昭和25年6月25日に発生した朝鮮動乱のためか、回線の増設と保守の強化が行われたが、次に述べる2GHz方式の展開により連合軍のAN/TRC施設は一時併用されていたが、昭和32年春頃には撤去された模様である。AN/TRCの真空管は、オクタルベースのメタルチューブで、及びGT管等色々な球種の混在であったが、ナス型のST管は使用されていなかったと言う。又、最終段は、空冷ビーム管の829B(2B29相当)であった。又、キャノンコネクターで機器が接続されており、空中線も八木アンテナと同軸給電線のために、風雨など天候の変化でも特性も変らず機械的にも丈夫であったと言う。いづれにせよ調整箇所が少ないのが特色であった。運用中は強制空冷の換気扇のうなりが室内に充満していたとの事である。
 ついでて昭和28年頃からGE社製の2GHz,PTM24CHのシステムが電々のマイクロ波中継所を利用して、東京-大阪-福岡間に設置された模様である。東海の牧野豊太郎氏の「粟ケ岳の中継所」でのエピソードにも記載されている。又、双子山の写真にも巨大なパスレングスと一緒にAN/TRCが設置され、次にPTM 2GHzが併設され、そして、AN/TRCの八木アンテナがなくなっているのが年代順に並べて見ると明らかである。

316

317

318

319



我が故郷
-みちのく電電無線(昭和23~32年)-
の思い出

東北  稲葉 龍夫





 昭和24年、逓信省が電気通信省と郵政省に分割され、そうして、昭和27年には電気通信省は日本電信電話公社となり郵政省の管轄下に入った。電気通信省の時代は極めて短いが、私は昭和25年4月に電気通信省に入省しました。ところで、私の故郷は東北(宮城県、主として仙台市)であり、社会に出るまで故郷で学び、また育ちました。それで、人一倍、みちのく東北には愛着が強く思い出も尽きません。昭和27年より31年までの間、東北管内の大森無線中継所(秋田県)、霊山(りょうぜん)無線中継所(福島県)、国見無線中継所(後に仙台統制無線中継所と名称変更、宮城県)の3中継所と仙台無線通信部に勤務しましたが、みちのく無線とは、それ以前から関係がありました。以下、東北での電電公社時代の思い出を振り返って、記述させて頂きます。
 みちのく無線との関係は、昭和23年、国見無線中継所における学生実習に始まります。終戦間もない時期でもあり、中継所には満州、台湾など外地から引き揚げて来られた方も多く居られました。その中には同郷の方も居られ、今でも懐かしい友として脳裏に刻まれております。昭和24年、当時大学の3年生、東北大学永井研究室5号室(室長は佐藤利三郎先生)に所属していましたが、東北電気通信局施設部調査課(課長大森忠夫氏:元満州電電)への協力で、国見無線中継所における長距離給電線の実験に参加しております。当時の無線回線は60MHz帯、AM、6CH多重方式のものであり、無線中継所はすべて山上にあり有人中継所、中継所員の苦労は大変なものでした。その軽減のために試みられた実験でしたが、山麓の民家に設置された送信機から全長500mの給電線(平行二本線路)で山上の空中線に電力を供給しようとするもので、伝送効率50%の成果が得られました。しかしこの給電線の欠点は、平行二本線路の支持碍子の取り付け工法がデリケートで実用化上問題があり、また同軸ケーブルの出現により採用には到りませんでした。

昭和26年7月、今までの60MHz帯6CH多重AM方式(AR-6)無線に代わって、200MHz帯12CH多重PM方式(VF-12)無線が新潟-温海-秋田回線として全国に先駆けて開通しました。私は、そのとき秋田側の端局である大森無線中継所の一員でした。60MHz方式は、あとでいろいろと述べますが、全くでたらめな不安定回線で、「無線は無銭に通ず」と言われたほど無線屋の肩身は狭かったのです。200MHzになり、少しは一人前になったのか、あとで民放ラジオの音声なども乗るようにもなりました。しかし、完全に一人前になったのは、東北管内で言えば、昭和31年3月、東京-仙台-札幌の4GHz回線開通以降でしょう。温海無線中継所(所長は長井淳一郎氏)は、温海温泉近傍の山の上にあり、海抜800m、それも海面近くの標高から登るので、中継所員の勤務は大変なものでした。温海温泉にあるホテル万国屋は、中継所員ならびに出張者は、いつでも自由に入浴できたことを覚えています。私の勤務した大森無線中継所(河辺郡浜田村)は秋田市からバスで行く秋田市の近郊にあり、浜田海水浴場で知られる砂浜より、砂地を登った小高い山の上にありました。今は大森山公園となっており動物園もあるようですが、9月末になると海の水も冷たく海岸は寂れ、海から吹き上げる西風に日本海の荒波を感じさせられました。
 私はその後、昭和27年4月から2年半、福島県の霊山無線中継所に勤務しました。その中継所は海抜800mの霊山山頂にありました。霊山は北畠親房の居城跡と言われ、峨々たる岩山でした。米軍の無線中継所も隣接してあり、その方の回線保守にも従事しました。米軍の無線機はANTRC-1、90MHz帯の3CH多重FM  
域、そのチャネルは中継所間の連絡用チャネルでもありました。当時のリンガーは帯域内信号方式であり、中間中継所は笛を吹いて端末の交換手または保守者を呼び出すものでした。それは帯域内信号ですから笛を使用せず端末を呼び出すことも可能、米軍兵士はもっぱら口笛によっていました。真空管の時代で、米軍は無線機にすべて金属真空管を使用しておりまし公社の回線は60MHz帯、6CH多重AM方式の無線方式、それは大変なものでした。実は、昭和25年から26年にかけて私は、当時神奈川県の橋本にあった施設局調査課無線係の調査課分室で、昼夜を問わず、60MHzの送信機の製作に従事した経験があります。
 当時、全国の無線中継所で使用中だった無線機は戦前の設計で、使用していた真空管は受信機に特徴的なものとしてエーコン管UN954を、その他全てがST管(硝子チューブ)であったが、どの社(国際電気、東芝、日電)製の無線機も共通的に問題だらけで、新しく作り直したものでした。送信機について新規製作の要点は、逓倍数を12逓倍から6逓倍に変更すること、超パス、チタコンVなどを使用、また筐体のシールドを改善し、スプリアス放射を減らすことでありました。霊山で勤務中は、また受信機の改造を現地でやることになりました。使用中の受信機をすっかりばらし、ストーブの煙で煤けたシャーシーをたわしで水洗い、それから抵抗、コンデンサ、真空管ソケットなど、半田付けして改造を行いました。現役の皆様には驚かれることと思います。60MHz方式が、どれほどでたらめであったかは、国見無線中継所の所でまた述べたいと思います。中継所勤務は、夏季は4日間勤務して4日間休み、冬季は6日間勤務して6日間休みというものでした。同僚のKさんの話では、かって1ヶ月勤務して1ヶ月休みということもあったそうで、新潟より通っていたとのことでした。4日間、6日間の休みをどう過ごすかが問題でした。私は仙台の自宅から通うことにしていました。通勤は、国鉄伊達駅下車、福島電鉄の電車で掛田駅下車、そこからバスで霊山村の社宅へ、勤務の際は更に米軍払い下げのスリークォータ(3/4トン)と呼んでいたダッジの中型トラックで山麓へ、そこから徒歩で山を登り、中継所へ。とても不便な所でした。米軍は、ジープを持っており、我々が徒歩で登る所をジープに乗ったまま上がって行きました。スターリンが亡くなった日、米軍が大勢登って来て、カーキ色の缶詰をお祝いの意味で大量に置いて行ってくれたこともありました。人ツ気のない山に2人ずれの妙齢の女性が現れ、泊めてくれということがありました。ここは男性ばかりでとお断りしたのでしたが、若い連中は何故追い返したのかと、呼び戻しに行き泊めてあげたことがありました。その夜、珍しい客のお泊まりで、山男それは親切なものでした。その頃は、美空ひばりの歌の数々、春日八郎のお富さん、神楽坂はん子の芸者ワルツなどの歌が流れており、当時の新製品であった真空管式のポータブルラジオで聞きながら、山の上り下りをしたものです。

311

312
313

314


比叡特別無線中継所長とマイクロ工事監督との兼務米軍からクレーム(昭和28年11月)

 昭和28年6月1日付で比叡局工事監督を本社建設部長から被命。比叡特別無線中継所(略称・比特)長と兼務となったので、比特から尾根伝いにジャンパー線約100Mをマイクロ波工事現場に引き込み、磁石式の携帯電話機に接続、用事のある時は2分後には帰局出来るからと比特の係長に申し置き、新しい任務に精励した。米軍に提出すべきレポートは、回線に対してDaily、Weekly、Semimonthly、Monthlyと沢山あり、その他、飲料水の塩素滅菌・防火訓練(消防ホースを使っての放水試験)等があり、担当官が随時インスペクションに来所する。レポートは所長のサインを要するが、時々は不在中にインスペクションがあり、係長は平然と「所長不在でも報告は済ませておきました」と言う。「私はまだサインしていないが」と言うと「代わりに書体を真似てやって置きました」と涼しい顔。成る程、私の、K.Yamamotoは崩しようのない書体だと情けなく感心。
 ところが昭和28年秋頃、遂にインスペクターの将校からクレームあり、「おまえは何時来てもルス(留守)が多い。米軍が給料分は払っておるのにサボルとは何事だ。ミスター永田に言い付けるゾ」と言う。私は「サボっているのではない。永田通信局長にどうぞ申告して呉れ。私は1局分の給料で2局分働かされているのだ。マイクロウェーブは新技術で建設中だから必然そちらに居る事が多いが、必要があれば元局(比特)に駆け戻る手段は講じてある。Mr.永田は私の昔の上司で知っている人だ」と答えた。
  やがて28年末か29年初頭に明石受信所から後輩の黒杭瀧夫君が比特所長心得に着任してくれて、私は比特の兼務を解かれて大阪無線通信部からの宿泊出張旅費にありつき、昭和29年2月15日の比叡無線中継所開局まで約1ヶ月の出張旅費で初めて他の出張職員並みに懐が潤った。
なお、私は米軍から怒鳴られて口答えしたが、後任の黒杭君は米軍から表彰されて悦々であった。

321




霊山米軍中継所(公社の中継所に隣接)
322
323


324




316
326


318
328




MAJOR COMPONENTS

  • T-14(A,B,C,D,E)/TRC-1 Transmitter
  • CY-29/TRC-1 Case for the antenna (2 sets)
  • CY-30/TRC-1 Case for the mast and utensils (2 sets)
  • CY-17/TRC-1 Case for the T-14 (*)/TRC-1
  • CY-18/TRC-1 Case for the R-19/TRC-1
  • CY-67/TRC-1 Case for Crystal Units

Reference files

  • TM 11-2601 dec.1943
  • Adobe PDF icon.png

https://radionerds.com/images/7/73/TM_11-2601_AN.TRC_1%2C_3_AND_4_DEC._1951.pdf


100
101
102
103
104
105
106
107
110
111
112
113
115
116
118
119
120
121
122
123
124
125
127
128
129
130
131
132
133
134
135
136
137
138
139
140
141
142
143
144
145
146
147
148
149
150
160
161
162
163
164
165
166
167
168
170
171
172
173
174
175
176
177
178
179
180
181
182
183
184
185
186
187
188
189
190
191
200
201
202
203
204
205
206
207
208
209
210
211
212
213
214
215
216
217
218
219
220
221
222
223
224
225
226
227
229
230
231
232
233
234
235
236
237
238
239
240
241
242
250
251
252
253
254
255
256
257
258
259
260
261
262
263
264
265
266
267
268
270
271
272
273
274
275
276
277
278
279
280
281
282
283
284



0c5b43d3-s
260718a5-s
b20a443b-s
4544c5a5
1740a52d



VHFの歌 マイクロ波無線通信





AN/TRC-1 Receiver-Transmitter Set




AN/TRC-24







SCR-694  BC-1306




CrosleyBC-654ラジオの紹介-SCR-284パート1




US Army soldier technician, of 124th Signal Battalion,works on a radio set durin...HD Stock Footage





Square antennas, MRC 85 signal van, and AN / TRC 90 antennas at a STRATCOM site i...HD Stock Footage




A Coast Watcher sends weather reports by radio set at a hut, at the Bougainville ...HD Stock Footage




Radio antennas and towers at US 4th Infantry Division headquarters in Vietnam dur...HD Stock Footage





Causes of indicator jamming in military radio sets. HD Stock Footage





Japanese I-400 class submarine I-400 (boat 5231), surrendered to US military boa...HD Stock Footage




Japanese Navy students undergo training in model submarine. HD Stock Footage





Incomplete submarines at assembly plant in Sasebo, Japan. HD Stock Footage




Music played during a radio broadcast in AFN (Armed Forces Network) studio in Fra...HD Stock Footage




Various parts of Japanese bomber, Japan. HD Stock Footage




Japanese soldiers carry small field pieces and inspect Japanese bomber in steel s...HD Stock Footage





Onboard a Japanese Submarine in WWII






戸栗郁子(戸栗郁子)がラジオ東京からプロパガンダを読んで話す... HD映像素材




1940s WWII Tokyo Rose Broadcast




Japanese Naval personnel undergo training. HD Stock Footage





Hideki Tojo in hospital after attempting suicide and Japanese people reads bulle...HD Stock Footage




Manila And Rangoon - Japanese Surrender (1945)





Footage of the Moment the Japanese Surrendered




YAMASHITA'S TRIAL - SOUND (OUT OF SYNC)





Seishiro Itagaki surrenders Japanese forces in Southeast Asia to British General ...HD Stock Footage





Tojo And Aides Sentenced For War (1948)




Commissioning ceremony on Japanese navy aircraft carrier Hiryu, near Yokosuka, Ja...HD Stock Footage





Japanese cadets see portraits of Japanese Naval officers and read proverbs on th...HD Stock Footage
























Reinventing Japan (entire)















↑このページのトップヘ