八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月19日)は、日本の工学者(電気工学)、実業家、政治家。一般的に八木アンテナとして知られる八木・宇田アンテナの発明家として知られる。
東京工業大学学長、千葉工業大学顧問、内閣技術院総裁、大阪帝国大学総長、八木アンテナ株式会社社長[1]、参議院議員、武蔵工業大学学長などを歴任した。
陸軍における階級は工兵軍曹。日本学士院会員。栄典は従二位、勲一等瑞宝章受章、文化勲章受章[1]、贈勲一等旭日大綬章[1](没時陞勲)概要
電気工学を専門とする工学者であり、宇田新太郎と共に開発した「八木・宇田アンテナ」の共同発明者として知られている。この発明を基に八木アンテナ株式会社を創業し、その初代社長に就いた。東北帝国大学や大阪帝国大学では教鞭を執り、東京工業大学、武蔵工業大学などでは学長として奉職するなど、長年にわたり学術研究、教育分野で活躍したほか、1942年(昭和17年)には現在の千葉工業大学(旧制・興亜工業大学)の創設にあたり創設メンバーとして同大学の創立に尽力している。
太平洋戦争中は内閣技術院総裁[1]、戦後は右派社会党や日本社会党に所属し参議院議員を務め国政にも参画した。
来歴
大学卒業まで
大阪府大阪市東区北浜4丁目の八木忠兵衛、みちの三男として生まれる[2]。父は両替商であった。大阪市愛日尋常小学校、第四高等小学校、大阪府第一中学校(北野中学に改称)に入学。1903年同中学を首席で卒業。すでに父が亡くなっていたが、19歳上の長兄は株屋に就職し、八木は経済的援助を受けた。なお、当時の株屋は世間の評判が低く、分家して八木家を継承した。1903年第三高等学校理科に入学。中学、高校時代には俳句など文学にも興味があった。1906年東京帝国大学工科大学電気工学科に入学した。無線に興味をもった。卒業時の成績は33名中5番であった。
仙台高等工業学校、東北帝国大学時代
電気科教授の世話で直ちに仙台高等工業学校の講師となった。[3]八木は東北帝国大学理科大学の本多光太郎の知遇を得、のちに長岡半太郎に伝え、長岡の推薦で海外留学が八木に命じられた。1913年からドイツのドレスデン工科大学のバルクハウゼン教授の下で研究した。1914年は第一次大戦勃発でスイスにいたが、イギリスのフレミング教授の教室に移った。1915年は渡米しハーバード大学のピアス教授の下で研究した。八木の関心は次第に無線の方に移っていった。
当時の電気工学の主たる関心がいわゆる強電と言われる電力工学にあったところをいち早く弱電分野の研究に取り組み、八木・宇田アンテナ、分割陽極型マグネトロン等の成果を生み出す。
財団法人斎藤報恩会から「電気を利用する通信法の研究」(八木秀次、抜山平一、千葉茂太郎)で1934年(昭和9年)度までに合計22万5000円の補助金を受けた。
八木が物理学科、金研で行われていた論文の輪読会に出席しあまりに鋭い指摘をするために、会の開催日を八木の属する電気工学科のゼミのある日と同じにして出席できないようにしようとする動きが出るほどだったという逸話がある。
学内に電気通信研究所の設立を構想するが、実現は八木が大阪帝大に異動した後の1935年(昭和10年)になる。
大阪帝国大学理学部時代
大阪帝国大学の初代総長であった長岡半太郎の要請により大阪帝国大学に移籍。大阪帝国大学の理学部物理学科の初代主任教授となる。
菊池正士の原子核物理研究を主任教授として予算的にも人的にも支援した。 講師として在職していた湯川秀樹を叱咤激励し、それが後にノーベル物理学賞を受賞する中間子論に関する論文につながったといわれている。
大学教授時代
八木は講義の際、学生に「本質的な発明ができるようになるためには心眼(科学者としての勘)で電波が見えるようにならなければならない」と教えていた。
技術院総裁時代
八木はレーダー開発など立ち遅れていた日本の科学兵器開発を指導するため、海軍の永野修身軍令部総長の推薦を受けて技術院総裁に就任した。内閣技術院の総裁である八木自身も熱線誘導兵器の研究を推進していた。因みに同研究は技術者の井深大と海軍技術将校の盛田昭夫が出会い、戦後ソニーを創業するきっかけとなった。
敗色濃厚となった1945年(昭和20年)には衆議院予算委員会で質問に応え、「技術当局は『必死でない必中兵器』を生み出す責任があるが、その完成を待たずに『必死必中』の特攻隊の出動を必要とする戦局となり慙愧に耐えない」との大意の答弁を行っている。これを聞いて委員会出席者中には涙する者もあったとの当時の報道がある。精神主義、特攻隊賛美ばかりが横溢する戦時下にあって、科学技術者としての勇気を示した発言として名高い[4]。
戦後
大阪帝大総長を公職追放で追われてからしばらくは生活に困窮した時期があった。この時、大正末に取得された八木・宇田アンテナの特許はすでに期限が切れていた。かつての弟子達が電気工学関係の教科書を分担して執筆し、八木に印税を寄付して支援した。
八木はドイツ・イギリス留学時代から労働運動や社会主義に関心があり、日本フェビアン協会の会員でもあった。戦後も政治に関わり、ジョージ・バーナード・ショーなどを読んでいたという。
直接の弟子でなく面識もない江崎玲於奈、西澤潤一を学士院賞に推薦した。晩年に至るまで学術の情報収集を欠かさず、人材の発掘・育成に尽くした。
八木式アンテナの発明者 八木秀次小伝
今日の情報社会の中で、電気通信分野の果たす役割は非常に大きくなっています。この電気通信分野の重要性を予見し、その先見性に自信を持って研究と教育の先頭に立ってきた、「八木アンテナ」の発明者、八木秀次博士の足跡をたどってみましょう。
1. 大阪に生まれる
八木は明治19年1月28日に大阪で生まれました。北野中学時代は文学に魅せられていましたが、第三高等学校では理科を選ぶなど、この頃から科学者として生涯を貫く使命感を持っていました。しかし終生、読書人としての素養、文筆家としての才能はとどまることをなく、数々の随筆集、例えば「蟻の咳払い」などを残しています。
2. 留学と電気通信の研究
第三高等学校から東京帝国大学工科大学に進んだ八木は、大学卒業と同時に仙台高等工業学校に招かれ、教壇に立ちました。大正2年2月、文部省から3年間のイギリス、アメリカ、ドイツの海外留学を命ぜられます。この留学こそ、彼の電気通信研究の契機となったのです。
ドイツのドレスデン工科大学では、電気振動の世界的権威であるG・H・バルクハウゼン教授の研究室で、「連続した電波を空間に放射することが可能かどうか」を研究します。イギリスのロンドン大学では、フレミングの法則を考案したJ・A・フレミング教授に師事し、アメリカのハーバード大学では、数学者のピアス教授の研究室に移ります。当時アメリカでは真空管式通信の開発研究が注目されていました。
大正5年6月、八木は帰国しますが、助手の宇田新太郎氏の協力を得て「短波長ビーム」の研究を進めます。おりしも、大正8年5月22日、仙台高等工業学校は東北帝国大学に昇格し、八木の主張である、「基礎と独創の精神」を基調とする電気工学科をはじめ、化学工学科、機械工学科を設置します。他の大学の電気工学科では、産業界の要望もあって、強電の研究が主流でしたが、八木は電気通信・真空管など弱電の研究と指導に力を入れます。この八木の主張を応援するかのごとく、大正10年、バルクハウゼン教授が画期的なバルクハウゼン振動を発見し、八木はこれを契機として、将来無線通信は超短波から極超短波へと広がり、社会へ貢献することを予見します。
3. 八木アンテナの発明
大正12年、八木の研究室では、宇田新太郎氏の同級生である西村雄二氏が卒業論文のため超短波を用いた単巻線コイルの、固有波長を測定していたとき、振動体の導波現象を発見します。八木は半波長より短い空中線が導波現象を呈することを宇田新太郎氏に話し、その理論的・実験的裏付けの研究を行わせます。その事情について宇田新太郎氏は電気通信学会雑誌「アンテナ特集号によせて」(昭和40年4月号)に記しています。『私の組み立てた波長約4mの超短波発信機は共振回路としてプレートグリッドにそれぞれ1本の導線のループがあり、これが互いに接近して取り付けてあった。このループが予想外に強い指向性の電波を射していることに気が付き、かつ驚いた。今なら当たり前のことである。これが私に電波の指向性ということについて興味を覚えさせることになった。』間もなく反射器・導波器を組み合わすことを思いつき、八木・宇田アンテナが生まれました。つまり、超短波を空間に放射する放射器の前に、その半波長よりやや短い金属導体を置くと、電波はある方向に集中して出るということを発見し、理論づけたのです。その後、大正15年、八木は宇田新太郎氏との共著で「新電波投射器と無線燈台」「電波よる電力輸送の可能性について」と題する報告を第3回汎太平洋学術会議で行っています。これらの研究は外国において「超短波論文の古典」として高く評価されました。また、昭和3年のアメリカでの講演は、全米各地にセンセーションを巻き起こしました。
4. 水の都大阪へ
昭和6年末、八木は長岡半太郎大阪大学総長に請われて大阪帝国大学理学部創設委員となりました。八木は、大阪帝国大学物理学教室に原子核の講座を設け、この講座に京都大学から若手理論家の湯川秀樹氏を迎えました。これは八木の独創的研究の精神が実を結んだと言えます。八木の「技術人夜話」の一節に『そのころ日本の大学ではどこでも原子の問題といえば、原子の外部すなわちスペクトルの研究に限られていたのであるが、阪大のホープと目される湯川助教授の下には坂田昌一氏、武谷三男氏等の多数の精鋭が集まり、今日に見る素粒子研究陣の素地が培われたのである』と述べられています。八木の「将来、中性子工学たる新分野が大いに発展して、驚くべき社会変革が始まるだろう」と予見した先見性と独創性は、みごとに開花しました。やがて起こる日支事変・太平洋戦争は、一面において科学の飛躍的な発展を招来しました。しかし皮肉なことに、日本では軍事的には非常に有効な電波、特に短波の利用は重要視されませんでした。それを如実に示すのが、戦場で捕虜にしたレーダー手の所有するノートです。そのノートには「YAGI」という言葉が頻繁に出てきます。「八木の発明した理論」が電波兵器の至る所に応用されていたのです。これに比べ、わが国に八木式アンテナが定着したのはテレビ放送が開始された昭和28年のことでした。
5. 八木アンテナ株式会社の設立
昭和15年、八木が電気学会長であった時、日本工業会大会において「電気工学の躍進」というテーマで特別講演をしましたが、ここで二つの予言をしています。
その第1は『将来、中性子工学なる新分野(現在の原子力工学)が発展して、驚くべき社会的変革が始まるだろう』と述べ、原子力時代を予言しています。
第2は電子工学(中性子工学)の発展について述べ、『近年現れる電気の新奇応用は殆どみな電子管の応用に属すると言えよう。無線・電話・ラジオ・写真伝送・テレビジョンをはじめとして、自然科学研
究の諸方面工学と技術の諸部門における応用がそれである。さらに、日常
生活にまで侵入すると予期されるから、電子工学の領域はますます拡大分散する傾向をもっている』と、結論しています。その具体的なものとして、「テレビジョンと電子顕微鏡」をあげています。このおよそ80年前の予言、その先見性には驚くばかりであります。八木秀次は、発明以来30年余り、世界的にその優秀さを認められながら、日本ではいまだ日の目をみない八木アンテナの技術をこの時期に製品化し、きたるべきテレビ時代に長年の夢を果たしたいと考えました。こうして、昭和27年1月29日、アンテナの製造および販売を目的とした八木アンテナ株式会社を資本金250万円で設立し、取締役社長に就任しました。67歳でした。
一方、昭和28年、テレビ放送開始にあたって、テレビ事業は多くの政治的・技術的な問題を抱えていました。その技術的問題を打開すべく、標準方式をめぐるチャンネルの問題について、八木は次のように語っています。『最近、テレビジョンの標準方式というものが定まった。白黒式テレビで波帯幅6メガサイクルを使う。米国では白黒式も天然色も6メガサイクルであるのに、日本の技術者は天然色は7メガサイクルでないと出来ない。だから白黒式にも7メガサイクルを許して貰いたいと言った。天然色テレビは未だ5,6年先のことである。この間に6メガサイクルで立派に天然色テレビを実現すべく研究しようともせず、アメリカよりも広い波帯幅を許して貰いたいとはあまりにも自信のない話である』広い波帯性である7メガサイクルを採用することにより、他で利用する波帯が少なくなるとの発言です。ここにも鋭い先見性を窺うことができます。博士とその協力者の発明したアンテナは、今日、テレビ用として従来の狭帯域性から広帯域に改良されていますが、その本質は変わっていません。そしてさらに地域防災無線・船舶・航空機の安全航行など無線分野の多岐にわたって活用されています。
6. 晩年
その後、昭和30年、請われて武蔵工業大学学長に、また昭和31年11月3日には、八木の長年の功績が認められ文化勲章を受章します。当年71歳でありました。
その他、33年にはデンマーク工学アカデミーからプールゼン金牌が贈られ、
37年、スイスの第2回国際テレビ・シンポジウムにおいて表彰されています。昭和35年5月、八木アンテナ株式会社の社長を退任し、引退後も日本学士院会員として活躍するかたわら、外国の技術書やIEE誌などを読み続けながらの毎日を送られますが、昭和48年10月病に倒れ、2年3ヵ月にわたる闘病生活を続けましたが、昭和51年1月19日静かな眠りにつきました。89歳でした。
10)テレビ放送の始まりとテレビ技術発展の歴史
(第3回・テレビ界の2人の偉人/八木秀次さんの巻)
テレビの発明、実用化に2人の日本人科学者が大きな役割を果たす日本人のテレビ好きぶりは“一億白痴化”と揶揄されたほどだが、そのテレビの発明、実用化に2人の日本人科学者が大きな役割を果たしていたことは一般の人たちにはあまり知られていない。技術に詳しい人ならば、テレビを発明したのは“テレビの父”とも呼ばれている高柳健次郎博士であり、テレビアンテナを発明したのは八木秀次博士で一般に八木アンテナと呼ばれるものであることは、良く知られている。
ただし、八木アンテナに関しては、共同開発者である宇田新太郎博士の名も加え、最近では八木・宇田アンテナという名称が使われるようになってきている。高柳健次郎博士、八木秀次博士に関する記述は数多くあり、またこの連載やアイコムHP週刊BEACON「アマチュア無線人生いろいろ」(吉田正昭著)などでも紹介されているが、テレビの発展に果した2人の役割があまりにも大きいので、その功績をもう少し詳しく紹介しておきたい。
アンテナの基本原理を発見した八木さん
八木秀次さん |
この頃から電波の受信用アンテナの研究を始め、アンテナの基本原理を発見している。当時八木研究室にいたのが講師だった宇田新太郎さんで、八木さんは宇田さんに実用化のための研究をさせ、1928年に八木・宇田の連名で論文を発表している。しかし、特許が八木の単独名で国内外に出願されたため、外国の人たちがYagi antennaと呼んだことから一般に八木アンテナと呼ばれるようになった。
皮肉にも日本軍が八木アンテナの存在を知ったのは敵の捕虜から
しかし、八木アンテナは発表当時、日本の国内ではほとんど注目されなかった。むしろ欧米の学会や軍部が八木アンテナに注目したのだった。それは、当時、各国がレーダーの開発に力を入れており高性能なアンテナを必要としていた。そこで八木アンテナの性能が注目されたのである。第2次世界大戦において日本軍はレーダーの開発に遅れを取ったため苦戦することになるが、日本軍は八木アンテナの存在を知らなかった。
八木・宇田アンテナ(テレビ用) |
急遽八木アンテナを使ったレーダー開発に着手するも時すでに遅し
これに驚愕した日本軍部は、ことの重大さに気づき急遽、八木アンテナを使ったレーダーの開発に着手する。しかし時すでに遅く完成したのは昭和20年になってからで、戦争には何の役にも立たたず敗戦を迎えた。むろん開発者である八木さんは、軍部に出向き情報機器の重要さやアンテナのことについて進言している。だが、当時の軍部は情報機器の重要性をさほど認識していなかったようで、皮肉にも敵国からYagi antennaの存在を教えられる結果となってしまった。
日本軍の敗戦は「物量の差」であり、アメリカとの国力差が原因と分析されるが、たしかに第一の理由はそこにあるのは間違いない。しかし、情報の重要性において認識の差も大きかったといえる。「夜間、敵の飛行機や軍艦を見つけるのに夜暗くても良く目の見える兵に双眼鏡を持たせ見張らせ、ビタミンAの豊富な人参をたくさん食べさせる」といった具合。
また暗号解読にも遅れをとり、逆に暗号を解読されミッドウェイ海戦に敗れたり、山本五十六連合艦隊司令長官搭乗機を待ち伏せされ撃墜されてしまったりしている。技術や情報を軽視したことが敗戦につながり、多くの尊い人命を失うことになった。しかし、高い授業料ではあったが戦後、平和国家となった日本は技術立国として発展していくことになった。そして技術立国への源流となった一つが八木・宇田アンテナである。
戦後GHQから公職追放者指定を受けた八木さん
八木さんは、1942年に東京工業大学学長に就任し、1944年には内閣技術院総裁に就任している。さらに、1946年には大阪帝国大学総長に就任したがGHQの公職追放者指定を受けて辞職せざるを得なくなり辞職し、日本アマチュア無線連盟会長に就任したのだった。そして八木さんたちは日本のアマチュア無線再会に向けて努力していくことになる。八木さんが戦後GHQから公職追放者指定を受けることになってしまったのは、やはり八木アンテナの発明者であることや、内閣技術院総裁に就任していたことが理由だろう。
GHQは、兵器となるような技術開発を禁止しており、航空機の開発などを禁止していた。レーダーのアンテナともなる八木アンテナの発明者の八木さんが公職につきさらに研究することを阻止したいと考えたとしても不思議でない。また、内閣技術院はソニーの創業者である技術者の井深大さんと、海軍技術将校で後に井深さんと2人3脚でソニーを世界的な大企業に育て上げた盛田昭夫さんが出会った場所であることも何かの縁だろう。
八木さんの功績に対して文化勲章、勲一等旭日大授章が贈られる
内閣技術院総裁時代の八木さんは、熱線誘導兵器の研究に携わっていたが、「技術者として人命を損なわずにすむ熱線誘導兵器を開発する責任があり、その完成が遅れ特攻がなされているのは慙愧に耐えない」と議会で答弁し、人命を軽視した精神論や特攻隊賛美のなかで技術者としてのそれに反対する勇気ある意見を述べている。そして、戦後の1952年にテレビや無線のアンテナメーカーである八木アンテナ株式会社が設立された。
日立製作所、日本軽金属が出資し、八木さんも10%の株主となり、八木さんが社長に就任した。蛇足ではあるが、八木・宇田アンテナとは、テレビ放送、FM放送の受信用やアマチュア無線、業務無線などに利用されるアンテナで、前方に導波器を並べ、その次に輻射器があり、一番後に反射器という構造になっているものでテレビアンテナとして屋根に上がっているのがよく見られる。このアンテナは指向性が強く、受信する方向を選べるのが特長で微弱な電波でもキャッチすることが出来る。これがレーダーに適しているため使用された所以でもある。
国は八木さんの功績に対して1956年に文化勲章、1976年には勲一等旭日大授章を贈っている。歯に衣を着せることのない八木さんは、文化勲章が決まった時「かつては教職不適格者として追放しておきながら、今度は勲章をくれるという。国家とは不思議なことをするものだ」と批判したという。また、八木さんは、1953年(昭和30年)には参議院議員選挙に全国区で立候補し当選、また、1955年(昭和32年)には武蔵工業大学の学長を務めるなど、やはり単なる技術開発者ではなかった。なお、1976年(昭和51年)1月19日に永眠された。81歳だった。
『参考文献』 アイコムHP週刊BEACON「アマチュア無線人生いろいろ」(吉田正昭著)、Web:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、WEB「奇人発見伝」、WEB[Weblio]
第1回 八木アンテナの呼称の由来
現在、各家庭の屋根の上には、大きなトンボのような、テレビ受信用のアンテナが設置されている。
このアンテナは、大正の末期に東北帝国大学(現、東北大学)の八木秀次教授と宇田新太郎講師(当時の職名)によって発明された。
今日では、このアンテナは発明者の名をとって「八木・宇田アンテナ」あるいは「八木アンテナ」(以下、八木アンテナ)と称されている。
発明以来、八木アンテナが太平洋戦争(第二次世界大戦)以前に日本国内で実際に用いられたのは、山形県の酒田市とその沖合40kmにある飛島との間、および、新潟市とその沖合50kmにある佐渡島との間の無線回線に用いられただけであった。
このように、日本では注目を受けることが少なかった八木アンテナであったが、外国、とくに欧米諸国において、レーダーや航空機の盲目着陸などへの使用を目的として実用化が着々と進められていたのであった。
外国において八木アンテナが実用化されていたことを日本がはじめて知ったのは、昭和16年12月8日に太平洋戦争が起きてから2ヶ月余り後に、イギリス領であったシンガポールを攻略したときであった。驚いたことに、外国では、日本で発明された八木アンテナを新兵器として用いていたのであった。
昭和17年2月15日、旧日本陸軍がシンガポールを占領したとき、旧日本陸軍はイギリス軍のレーダーの残骸を見つけた。また、このとき、ニューマンというレーダー手の所有していた資料(ノート)が発見された。この資料には、至るところに”YAGI array”という文字が記されていた。旧日本陸軍では、このレーダーが相当優秀なものであることが分かったが、”YAGI array”の言葉はどうしても分からなかった。「ヤジ」と読むのか、それとも「ヤギ」と読むのか、その読み方すら分からなかった。そこで、レーダー手を捕虜収容所から連れ出してきて、YAGIの意味を問うたところ、レーダー手は青い目をパチクリとさせて「YAGIは貴国の人に名前でしょう」といったそうである。これより、このアンテナは「八木アンテナ」と呼ばれるようになったのである。
なお、この捕虜のレーダー手は、イギリス軍の下士官ニューマン(Newmann)であり、彼が記したノートであったことから、上記の資料は「ニューマン文書」と呼ばれることになった。
また、広島と長崎に投下された原子爆弾には八木アンテナが装着され、爆弾の爆発高度を決定するために用いられていた。
第2回 ニューマン文書の行方(1)
戦後、多くの人々、とくにアンテナに関係した技術者や学者、軍に関係のあった方々、防衛庁(現、防衛省)の方々にニューマン文書について尋ねたが、ニューマンについて知っている人は何人かいたが、誰一人としてそのノートを見た者はおらず、ニューマン文書は幻のノートであった。
昭和62年(1987年)は、ヘルツが電磁波を実証して100周年目にあたり、それを記念したアンテナ関係の学会がドイツのビュルツブルク、イギリスのヨークで開催された。
ヨークの学会会場では関係分野の図書が多数展示販売されていた。レーダーに関する図書である、S.S.Swords著”Technical history of the beginnings of RADAR”も販売されており、学会開催の前年の昭和61年(1986年)にPeter Peregrinus Ltd., Londonより発行されたものであった。この本には、イギリスはもちろんのこと、アメリカ、ドイツ、ロシアなどのレーダーの歴史が写真とともに記されていた。日本についても記載されており、第4章第6節に”Beginning of radar in Japan”と題して数頁が割かれていた。この本は全部で300頁もあるのに、日本に関する記述はすこぶる簡略なものである。
ただ、この本の参照文献中に「技術資料 昭和53年(1978年)第82号 第2次大戦下における日本陸軍のレーダー開発 対空電波標定機た号2号、た号改4型」防衛庁技術本部技術部調査課、があった。電波標定機とは旧日本陸軍の用語で、現在のレーダーのことである。この参考文献の40頁には「ニューマン」の文字が記してあった。
読み進めると、
その頃丁度シンガポールが陥落し、昭和17年7月頃に南方総軍兵器部から技術本部あてに、「こんな珍しいものが見つかったので何か参考になるだろう」と1冊の戦利品の「ノート」が送られてきた。これは陥落後のシンガポールの兵営の紙くずかごかの中から発見されたもので、題して「ニューマン文書」と記されていたものであった。
さらに、
これは英軍のニューマン伍長の所有物であった。奇しくも彼は捕虜の身となって、当時東京品川の捕虜収容所に収容されていたことが判明した。この文書に関連して種々詰問したが、技術的レベルのそんなに高い男ではなく、英本土でにわか教育を受け器材を携えてシンガポールに着任して来て、専ら取扱いに任ずる兵員であり、研究開発に関しては質問しても当を得た返答を得ることはできなかった。
とある。
そしてさらに、
そのノートには何やら兵器の回路図及び性能が「メモ」的に書き止められており、一つは音源標定機(野戦砲兵用)の回路図であり、もう一つがどうもラジオロケーターであるように見えた。よく解読してみたところ、機器の名称はS.L.C.(Search Light Controlの頭文字)と呼ばれ、従来の空中聴音器に代り、照空灯を敵機に指向する電波兵器であることが判明した。
と続いている。
この資料によって、ニューマンに関することがかなり明らかになってきた。これを手掛かりにしてニューマン文書について伝手をたどって尋ねてみたが、誰もそれを見たという人はいなかった。依然として、ニューマン文書は幻のものであった。
つづく
第3回 ニューマン文書の行方(2)
昭和61年、旧日本陸軍技術少佐であった山田愿蔵氏より頂いた手紙には、
「シンガポールでYAGIアンテナの資料を見付け出したのは、戦友の塩見少佐という方でした」
という記載があった。
幻のニューマン文書の一端が、ようやくぼんやりとその姿を現わしてきた。
ここで、塩見少佐の消息が問題となった。
前述の山田氏に問い合わせたところ、塩見氏は早稲田大学の出身であるため塩見氏と同年代の早稲田大学OBに尋ねたが、塩見氏はすでに亡くなられたとの噂を聞いている旨の返信を頂いた。
なお、この山田氏からの返信には、
ゴミ箱から塩見さんが見付け出した取扱い説明書はSLCという資料で(中略)、日本の陸海軍の電波兵器関係者がYAGIアンテナが英米で有効に使われていることを知ったのは、上記SLC資料が資料としては初めてであったと想像します。占領器材として知ったのは、マニラ占領(昭和17年1月2日)の方が先ではなかったかと想像します(これは英軍の器材ではなく、米軍の器材であった)。
という情報も記されていた。
月日は流れ、昭和63年、早稲田大学の同窓会名簿と電話番号案内とをもとに塩見氏の消息に関する噂の検証作業をしていたところ、噂に反して塩見氏が健在であることが判明した。
早速、塩見氏を訪問し、ニューマンのノートについて尋ねた。
塩見氏によれば、ニューマンのノートを発見したのは塩見氏ではなく、旧日本陸軍防空学校の秋本中佐とのことであった。なお、これは塩見氏の記憶違いであり、松元泰清中佐が正しいことが後になって判明した。
松元中佐は、シンガポール陥落直後の昭和17年春頃に同地を通過した際、イギリス軍の高射砲陣地のあったゴルフ場の塵芥焼却場において、投げ棄てられていたノートを発見した。このノートには図面や電気回路がたくさん記されており、当時、兵器としてイギリスやドイツなどで開発後にアメリカで高性能化され、日本の軍関係者が非常に注目している電波兵器、レーダーに関するものであることが分かった。このノートの重要性を認識した松元中佐は、電気工学を専門とする塩見少佐にその解読を依頼した。
塩見少佐による解読により、ノートには敵が最も秘密にしている電波兵器の一部が記載されており、参考資料としての価値が大きいことが判明した。
旧日本陸軍では、このノートを写真撮影し、また英文タイプに打って謄写印刷により何部かを作成した。これがニューマン文書と称されるものである、と塩見元少佐は語った。
このようにして制作された何冊かのニューマン文書は、その後どうなったのであろうか。私(佐藤源貞)はニューマン文書の配布先を塩見氏に聞いたが、分からないという答えが返ってくるばかりであった。
「忘れた」のではなく「分からない」のである。おそらく、塩見氏はニューマン文書の行方を知っているのに違いない。あるいは所持しているのかもしれない。そう思いつつ、私は何度もニューマン文書の配布先を聞いた。しかし、何度聞いても「分からない」の一点張りである。それに応じて私の口調は激しくなって行き、ついには尋問の様相を呈してきた。
塩見氏は、私の熱意に負けたのか、突然よろよろと立ちあがり、別室に退いた。待つこと暫し、何か古ぼけた書類のようなものを持って出てきた。この古ぼけた小冊子の表紙には「ニューマン文書」の文字が大きく印刷されていた。
つづく
参考資料:
里文出版『アンテナ物語 その歴史と学者たち』
第4回 ニューマン文書の行方(3)
表紙に「ニューマン文書」の文字が大きく印刷された冊子は数十頁の分量があり、表紙にはさらに「昭和17年6月22日 南方軍兵器技術指導班」の発行機関名および「部外秘」の記述がされていた。
開巻第1頁、少し黄ばんだ用紙に印刷された英文字が目に飛び込んできた。
S.L.C. THEORY
1. INTRODUCTION
1-1. Function of Equipment
続く文章は、
The S.L.C. Equipment is designed for detection of aircraft ---
上の記載から、この文書がS.L.C.(Search Light
Controlの略)、すなわち探照灯管制レーダーに関するものであることが分かる。ここで、探照灯管制レーダーは、敵機をレーダーで探知し、その探知結果を探照灯と連動させて探照灯の光を敵機に向けるために使用されるものである。
続けて、YAGIの活字を求めて文字を追った。しばらくすると、YAGIの文字が大きく目に飛び込んできた。
The transmitting aerial consists of a YAGI array mounted well above projector barrel on outriggers.
Arrayとは、元来「(軍隊を)整列させる、整列」などの意味であり、転じて「(アンテナの)多数の金属棒が排列されているもの」となった。
なお、アンテナは、日本では長く「空中線」の言葉も併せて使用されてきたが、現在の学術用語としては「アンテナ」に統一されている。戦後輸入されたイギリスの本にはaerialが多く用いられていたが、現在ではイギリスでもantennaが用いられるようになっている。
さらに読み進めていったところ、ニューマン文書には、送信用に1基、受信用に4基、計5基の八木アンテナを使用した機器が記されていた。各アンテナは、それぞれ5本の金属棒で構成された5素子八木アンテナであり、後方にそれぞれ円形の反射板が設置されていた。
なお、昭和17年10月に旧日本陸軍が開発した「た2号型電波標定機」は、「ニューマン・ノートのS.L.C.に高射に必要な測距回路を追加したものである」と前掲(本アンテナ物語第2回参照)の昭和53年第82号の防衛庁資料に記してある。その構造は、ニューマン文書に記載されたものと同様に送信用1基、受信用4基の八木アンテナから構成されている。このように、ニューマン文書は、我が国のレーダー開発に大いに役立ったのである。
さて、情景は塩見氏宅に戻る。
私(筆者)は「この文書を貸してください」と何度も頼んだのであるが、塩見氏は頑として承知してくれなかった。塩見氏にとっては、戦後40年以上が経過していてもなお、この文書は軍の機密書類なのであろう。仕方なく、私は文書にさっと目を通し、持参したノートにその要点を筆記し始めた。数時間が経過して日の傾く頃になり、私はこの文書の全容を筆記することができない旨を正座を崩さずまさに全面降伏の姿勢で申し述べた。その誠意と意気に感じてか、やっと借用の許可が下りた。
このように、八木・宇田アンテナは我が国で発明されたが、それを実用化して大いに利用したのは、イギリス、アメリカなどの外国であった。しかも、この高性能アンテナをYAGI arrayすなわち八木アンテナと名付けたのは外国なのであった。
最初は我が国において離島との間の試験無線通信に用いられ、戦時中には敵国のレーダーに使用されたこのアンテナが、現在ではテレビ受信に世界中で最も多く使用されている。もちろん、一般の無線通信、その他特殊用途にも広く使用されているのである。
ニューマン文書の行方 <完>
参考資料:
里文出版『アンテナ物語 その歴史と学者たち』
八木・宇田アンテナ
八木・宇田アンテナ( Yagi-Uda Antenna)は、アレイアンテナの一種。通常、ダイポールアンテナを素子としており、宇田新太郎の主導的研究によって、八木秀次との共同で発明された。別称として、指向性短波アンテナや八木アンテナという名称が流通している
主にテレビ放送、FM放送の受信用やアマチュア無線、業務無線の基地局用などに利用される。
概要
一番後に反射器(リフレクタ)、その前に輻射器(給電する部品。ラジエータ。別称:投射器)、その前に導波器(ディレクタ)の素子(エレメント)を並べた構造になっている(図を参照)。
原理上、アンテナの横幅が実用的な大きさを超えるために周波数が低いキロヘルツ帯の受信に使用されることは少ない。FMラジオ放送やテレビなどの電波で使われているメガヘルツ帯の電波に対して実用的だが、VHF帯域とUHF帯域でも最適なアンテナの横幅と間隔が異なり、さらに指向性の強さと併せて、受信感度が高い周波数帯も狭い性質がある。このため、テレビアンテナには二種類の八木アンテナが使用される事が多い。
導波器は棒状で輻射器よりも短く、反射器は同形状で輻射器よりも長い。このアンテナは指向性があり、その方向は反射器から導波器の方向になる。なお、導波器の横幅は受信する周波数によって決まるため、周波数が低いほど広く、高いほど短くなるので、素子の横幅を見ると、大まかな使用される周波数帯がわかり、テレビアンテナのVHF帯域とUHF帯域で、明らかにUHF帯域の方が横幅が狭いので識別できる。
八木・宇田アンテナと非常によく似た形の位相差給電アンテナや対数周期アンテナ(ログペリオディックアンテナ。通称 : ログペリ)があるが、これらは原理が異なる別のアンテナである。
今日の超短波 (VHF) 帯以上の実用的な構成としては反射器は通常1素子を、導波器は複数を用いて指向性を鋭くアンテナの利得を高くするようにしている。輻射器としては半波長ダイポールアンテナまたは折返しダイポールアンテナが用いられる。垂直偏波の場合は、スリーブアンテナやブラウンアンテナが用いられることもある。
反射器・輻射器・導波器を並べて指向性・利得を上げる設計は、本来のダイポールアンテナの他に、ループアンテナ、ヘンテナ等にも適用でき、特に反射器と導波器を持つループアンテナはループ八木アンテナもしくはリングアンテナと言う。いずれにおいても、導波器と輻射器の形状は大抵同じなのに対して、反射器の形状は通常左右上下対称にはなっているが、必ずしも輻射器の形状とは同じではなく、またそのサイズも必要な利得によって異なる。利得に余裕がある場合は台風などによる破損を嫌って反射器を取り外す事例もある。
アナログ放送時代のテレビ受信用八木・宇田アンテナ(上段がVHF帯域用、下段がUHF帯域用)
広帯域化の工夫がされた八木アンテナである。受信用では送信所が左側にあることになる一方、もし仮に送信用に用いられるとすると、電波は主に左側に飛ぶ。
上 : 5素子八木・宇田アンテナ
下 : スタックの種類
水平に並べるのは正しくは「パラレル」(パラ)である
テレビ受信用
電波を受信する際、素子数が少ないほど利得が小さく近距離受信に向いており逆に多いほど利得が大きく遠距離受信に向いている。一般的に放送区域内の極超短波(UHFテレビ)放送受信には中距離受信用(14 - 20素子程度が多い、電界強度が非常に強い場合はそれより少ない素子数のものを用いる)のアンテナをアナログ放送は地上3 - 10m程度の高さ、デジタル放送は地上10m程度の高さで受信、放送区域外の場合は遠距離受信用(20 - 30素子程度、場合によってはパラスタックアンテナ)のアンテナで受信する。
なお、素子を増やせば増やすほど素子1本追加する毎の利得の伸びは小さくなり、それに加えて、形状が非常に大きくなり設置が困難となるため一般に市販されているテレビ放送受信用の場合VHFで15素子、UHFで30素子(パラスタックアンテナの場合も表記上は最大30素子だが正確には導波器が四つ一組になっているので実質114素子相当になる)、FM放送受信用の場合10素子を越えるアンテナは一般的ではない(かつてはマスプロ電工で10素子用のFMアンテナ「FM10」を生産していた)。しかし、指向性は鋭くなるため混信防止などの目的でこれらの数を越える素子のアンテナが用いられることもある。反射器はFM受信用やアマチュア無線、防災無線用八木アンテナが大抵1素子であるのに対し、テレビ用においては3素子から10素子、くの字や円弧状に並んで立体構造になっている製品が多く、導波器の形状とは異なる、「目」や「曲」の字の形状の反射器2つを二枚貝のように繋いだ反射器も多く見られる。UHFアンテナを真横(垂直編波の場合。水平偏波なら真下や真上)から見ると、テレビの送信所と反対の方角を向いた矢印のように見える。
主に放送受信用として利用されている各周波数帯用のアンテナの種類は、FM放送用 (76 - 90MHz) ・VHFローチャンネル (1 - 3ch) 用・VHFハイチャンネル用 (4 - 12ch) ・VHFマルチチャンネル用(VHF全1 - 12ch)・UHFローチャンネル用(主に13 - 28ch)・UHFハイチャンネル用(主に25 - 62ch)・UHFマルチチャンネル用(UHF全13 - 62ch※現在は主に13 - 52ch)などがある。また、VHF・UHF共用のアンテナも存在する(主に関西地方や北海道渡島地方などVHFとUHFの送信所が同方向の地域で利用されるほか地上アナログ放送と地上デジタル放送の受信アンテナを一本化できるため、関東地方でも立てている世帯もわずかながらある)。なお、VHF用アンテナとVHF・UHF共用アンテナについては地上デジタル放送(UHFのみを使用)への移行に伴い2010年8月末までに国内メーカー全社が生産終了した。ただし、VHF帯FMラジオ受信用[2]の八木・宇田アンテナの生産は継続している(2020年6月現在)。
送信アンテナから近く十分に電界強度がある地域でも、素子数の多いアンテナを使う方がよいことがある。ビル街や地形などによりマルチパスが生じている場合である。素子数が多いアンテナは指向性が鋭いので、マルチパスの影響を受けにくくなるからである。指向性を鋭くするには素子数の多いアンテナを使う以外に、スタックを組む方法もある。水平面の指向性を鋭くするには水平スタック(パラレルとも言う)を組み、垂直面の指向性を鋭くするには垂直スタックを組む。水平スタックは例えば方角の異なる送信所との混信をより強力に抑制するのに役立ち、垂直スタックは高所の飛行機などからのノイズを抑制するのに役立つ。スタックはテレビ受信用よりも、防災無線やアマチュア無線などの素子数の少ない(パラスタックアンテナの開発がサイズや重量の制約や需要の少なさゆえ行われない)アンテナに多く用いられている。例えばテレビと違う波長のアンテナが小中学校の屋上や町内放送のスピーカーを支える鉄塔に設置されていて、しばしば水平スタックになっている。また、集合住宅などにおいて、一見すると垂直スタックだが、実際にはテレビや録画機の接続台数が多くて一つのアンテナでは出力が足りない、あるいは一時期地上デジタル放送とアナログ放送を併用した時の都合で垂直にアンテナを2個から3個並べて出力を合流させずに別々に配線している事例も見られる。
八木・宇田アンテナの発明者である八木秀次博士が設立したメーカー・八木アンテナ株式会社(現在の株式会社HYSエンジニアリングサービス)は、2013年11月末日をもってテレビ受信用アンテナと関連する大部分の製品について製造及び販売を終了している。その後も同社直営の通信販売部門で一部の製品を継続販売していたが、2014年12月にホームページにおいて、2015年2月27日をもって営業を終了することが掲載された。
宇田新太郎
歴史
発明
発明の発端は、当時八木と宇田が所属した東北帝国大学工学部電気工学科で行われていた実験にあった。1924年、八木教授指導の元、卒業研究中だった学生西村雄二氏により、種々のコイルを電磁波の中において、その近傍の電磁波強度を、今日でいう棒状アンテナに流れる高周波電流値を測定して、コイルの形状の変化に伴って測定値がいかに変わるかを調べる実験中に、条件によって電流計の針が異常な振れ方をする事が発見された。西村氏卒業後に八木と助手が原因を探求したところ、コイルを金属棒に置き換え電磁波の来る方向においてみると、異常な振れはその長さが関係していることが突き止められた。これらの結果とその原理を1925年9月、八木が、西村氏の論文の後につける形で発表した。ここからこのアンテナの基本となる原理が発見され、以後八木の原理的解明・発展の指導の下で、西村氏の同級生で大学院で研究を続けていた宇田の主導的な実験により詳細な解明が進められた。これらの原理を発展させてまとめたものを、同年12月八木が特許として出願した。これとは別に宇田も結果を発表し、また翌年1月に二氏連名の形で、学士院記事に英文で論文を発表した。1926年3月発表の第一報告から、電気学会誌で、結果を第十一報告まででまとめて発表した。また、八木単名でイギリスで特許を取得した後、その権利をマルコーニ社に譲渡した
宇田らの研究
宇田は八木・宇田アンテナの基本原理の発明後はその実用化を目指し、国内の近辺各地に自ら出向いて意欲的な実験を続けた。例えば、1929年には八木・宇田アンテナを使用したUHFの送受信機により、仙台-大鷹森(松島)間(約20km)での通信に成功。翌年にはベルギーのリエージュで開催された産業科学万国博覧会に出品された。1932年5月に、宇田は超短波長電波の研究が認められて、帝国学士院より昭和7年度(1932年度)の「大阪毎日新聞・東京日日新聞寄附 東宮御成婚記念賞」を受賞した。同年7月には酒田・飛島(約40kmの離島)間での超短波通信に成功し、1933年には逓信省が、日本国初の超短波公衆電話回線を酒田・飛島間に開設した。この業績に対し、飛島の関係者の推薦により、宇田は第1回河北文化賞を受賞した
通信だけでなく電磁エネルギーの無線伝送も試みられている。1926年2月に八木と宇田は、波投射器を配置した指向性アンテナ(英語: Wave Projector Directional Antenna)に関する最初の報告書を公表した。八木はなんとか概念の証拠を実証したが、技術的問題として従来の技術よりもよりわずらわしいことが判明した。その後、1954年にはこれまでの理論的な研究をまとめた英文共著書 YAGI-UDA ANTENNA[16][17]が出版され、設計理論を確立した。
軍事研究での八木・宇田アンテナ
欧米の学会や軍部では八木・宇田アンテナの指向性に注目し、これを使用してレーダーの性能を飛躍的に向上させ、陸上施設や艦船、さらには航空機にもレーダーと八木・宇田アンテナが装備された。例えば、アメリカ軍はレーダーと八木アンテナの技術を改良発展させながら戦争に活用して日本軍に大損害を与えた。さらに後には、アメリカ軍が広島市と長崎市に原子爆弾を日本に投下した際にも、最も爆発の領域の広がる場所・爆撃機から投下した原子爆弾の核爆発高度を特定するために、八木アンテナの技術を用いた受信・レーダー機能が使われた。現在も両原爆のレプリカの金属棒の突起などで、八木・宇田アンテナの利用を確認できる。
ところで、八木アンテナ開発当時の1920年代には、大日本帝国の学界[要出典]や日本軍では、敵を前にして電波を出すなど「暗闇にちょうちんを灯して、自分の位置を知らせるも同然」だと考えられ、重要な発明と見做されていなかった。このことをあらわす逸話として、1942年に日本軍がシンガポールの戦いでイギリスの植民地であったシンガポールを占領し、イギリス軍の対空射撃レーダーに関する書類を押収した際、日本軍の技術将校がニューマン(Newmann)というレーダー手の所持していた技術書の中に頻出する “YAGI” という単語の意味を解することができなかったというものがある。後に「ニューマン文書」(「ニューマン・ノート」)と称されるこの技術書には「送信アンテナは YAGI 空中線列よりなり、受信アンテナは4つのYAGIよりなる」と言った具合に “YAGI” という単語が用いられていたが、その意味はおろか読み方が「ヤギ」なのか「ヤジ」なのかさえわからなかった。ついには、捕虜となっていたイギリス軍のニューマン伍長に質問したところ「あなたは、本当にその言葉を知らないのか。YAGIとは、このアンテナを発明した日本人の名前だ」と教えられて驚嘆したと言われている。
なお、上記に書かれている日本軍での八木・宇田アンテナに対する認識や開発の遅れに関する「逸話」は、大日本帝国のレーダーの技術導入経路と、八木・宇田アンテナ自体の特性にも注視しなければより正確な認識が行えない事にも留意されたい。日本のレーダー開発は1930年代後半に入って大日本帝国陸軍が防空を最大の目的に開始しているが、シンガポール戦の前年の1941年に開発された哨戒パルスレーダーである「超短波警戒機 乙」は、ナチス・ドイツからの技術導入で開発されたものであり、アンテナには無指向性のテレフンケン型(箱型)と呼ばれるものや、ダイポールアンテナが利用されていた。
八木・宇田アンテナは強力な指向性を持つ半面、反射器の設計が未熟な場合アンテナの後方にも強力な電波が発射される問題(バックローブ)があり、万一バックローブ側の電波で航空機(友軍機も含まれる)を探知してしまうと、測定結果が180度入れ替わって表示されるので正確な捕捉が行えない。また、水平方向を監視する哨戒レーダー、とりわけ艦船に設置する場合など、指向性と同時に電波発射元の秘匿も重視しなければならない用途では、英米でも戦後にならなければ八木・宇田アンテナを用いる事が出来なかった。前述の英軍の対空射撃管制レーダー(GL Mk.IIレーダー)のような、攻撃を目的とした射撃管制装置の場合、地上設置ではアンテナに仰角を必ず取る事になり、大地がバックローブを吸収拡散する。また、航空機での固定航空機銃照準レーダーの場合は、バックローブでの誤探知の問題は、敵機に真後を取られた状況くらいでしか発生しない為、哨戒レーダーほど問題は大きくならない。この為八木・宇田アンテナを導入しやすかったのである。
日本軍での八木・宇田アンテナの導入の遅れで一番問題となったのは、反射器の設計技術であった。日本軍はシンガポール戦の後、直ちに八木アンテナの研究開発に取り組んだものの、ただ闇雲に素子を並べてもバックローブの問題が解決できないので、妥協案として八木・宇田アンテナの後方に金網を設置して反射器の代わりとした。しかし、これでも送受信機の利得や出力に見合った性能が得られなかったので、鹵獲した英米の対空射撃レーダーを模倣して対処したが、英米の製品と比べ相当な性能の低下が生じた。金網反射器は艦船に搭載するものの場合、風圧(艦砲射撃の爆圧も含まれる)で破損や変形をおこしやすい問題もあり、アンテナ自体の小型化が進まない要因ともなった
また、第二次世界大戦後期には連合国側、とりわけイギリスでは八木・宇田アンテナは万能ではなく、用途によっては軍事利用には不向きである事にも気付いていた。八木・宇田アンテナは航空機に搭載する場合、素子が突起物となって空気抵抗が増大し、機体性能の低下を招く欠点があり、機体の最高速度が増せば増すほどそれに見合った大型で頑丈な八木・宇田アンテナが必要になる矛盾が生じる為、イギリスではより小型のパラボラアンテナの開発に注力、大戦後期には空気抵抗の低下を最小限に抑えるレドームの技術開発にも成功し、重爆撃機による夜間の戦略爆撃に大きな成果を挙げている。一方、マグネトロンによるマイクロ波レーダーの技術が乏しかった枢軸国側の夜間戦闘機は、八木・宇田アンテナを機首に搭載して運動性能が低下した夜間戦闘機で、連合国機とは不利な戦闘を強いられる事となった。
科学技術史の事績として
この発明は、電気技術史に残るものとして、1995年にIEEEマイルストーンに認定された[26][27]。銘板のレプリカの一つが、東北大学片平キャンパス内に飾られている。「日本でのマイルストーン受賞リスト」によると、贈呈式年月と受賞テーマ(カッコ内は対象年・期間)および受賞者が、次のように示されている。
- 1995年6月 指向性短波アンテナ<八木・宇田アンテナ>(1924年)- 東北大学
ここで、(1924年)と記されているのは、宇田が講師に就任した年だけではなく、多数の導体棒配列で構成した短波長アンテナの放射指向性測定によって、新しい成果を得ることになる「短波長ビーム」を発生させる配列方法の研究へと発展する超短波の研究を開始した年でもある。
2016年9月13日に、国立科学博物館の重要科学技術史資料(通称:未来技術遺産)の第00210号として、世界最初の超短波アンテナであることを評価され、登録された
名称について
指向性短波アンテナの構成と動作原理が新たに考え出されたのは八木による特許で、これは八木の出願により1926年に特許権を得たとされている。
しかしながら、この八木特許の名称は「電波指向方式」であって、上述のような基本原理とは称し得ない内容の特許である。実は、1924年に講師に就任し、八木教授の研究班で研究補助員となった宇田新太郎が、多数の導体棒を配列して構成した短波長アンテナの放射指向性測定によって、「短波長ビーム」を発生させる配列方法を実験的に確かめ、八木教授と宇田講師は投射器の前後に導波器と反射器を配置したときの効果を明らかにした[38]。これらの研究成果を八木教授が英文でまとめて、1926年に八木・宇田の連名[38][41]の論文として発表した。この内容が八木特許「電波指向方式」となっているのである。しかも、1925年に出願されたこの特許は八木単独名により、発明者名から宇田を除外して、宇田の知らない間に行われたという事実が記録に残されている
また、八木・宇田連名の英文論文の前後に、日本語で発表された「短波長ビームに就て」の一連の論文(予稿を含めて合計12編)は、八木が電気学会には原稿を出すのを止めて、若手に発表の機会を与えていたため、全て宇田単独名であった。こうした状況にも拘わらず、国内外の特許出願が八木の単独名で出されたため[47]、日本国外の人々には “Yagi antenna” (八木アンテナ)として知られることとなる。後述するように日本では日本国外からの情報により八木・宇田アンテナが注目されるようになった経緯もあって、戦後日本国内でも、事情を知る人達が宇田の功績も称えるべきであり「八木・宇田アンテナ」と呼ぶべきと主張し、墓誌や最近の学術書では八木・宇田アンテナと記述されている。元来、発明者名から宇田を外して取得した八木特許は、現行法では取り扱いが異なるような特許であると批判されても止むを得ない。なお、八木・宇田両名が発明した「指向性短波アンテナ(八木・宇田アンテナ)」に関する情報は、外国では上述の宇田単独名の一連の論文と連名の英文論文(1926)に基づいているのに対し、日本国内では特許出願者として八木単独であった事が大きく、「八木アンテナ」という別称が流通する状況となっていた。また近年では八木の伝記として松尾博志の著書(1992)に八木主導の記述が見られるなどしたが、最近になってようやく宇田の貢献が正当に評価されるようになった。
日立国際電気 Hitachi Kokusai Electric Inc
株式会社日立国際電気( Hitachi Kokusai Electric Inc.)は、日本の大手電気機器メーカー。
同社は、
内にて無線通信機器や放送・映像機器の製造販売を手がけていた、国際電気・日立電子・八木アンテナの3社が、2000年10月1日付で、旧国際電気を存続会社として合併して誕生した(八木アンテナはその後同社の100%子会社として分社化)。旧国際電気は、国際無線電信・国際無線電話・国際海底線電話の設備建設保守を業務とする
旧八木アンテナ
の発明者である 博士が設立した。
- 八木アンテナ株式会社設立。
- 国産第1号8段スーパーターンスタイルアンテナ開発(北海道放送に納入)。
- 複合アンテナ開発(特許取得)。
- (現・ 大宮区)に大宮工場を新設。
- 東証2部上場。
旧国際電気
無線通信機器や情報処理装置、そして半導体製造システムを手がけていた。
- が に自家用通信機工場(狛江工場)を開設 。
- 国際電気通信の への業務移管に伴い、狛江工場を電元工業(現 )として分離。
- 電元工業から狛江工場が独立して国際電気株式会社を設立。
- 日本初の列車 装置を (株)に納入。
- に日本最初の誘導無線方式公衆用列車無線電話装置を納入。
旧日立電子
無線通信機器や放送・映像機器を手がけていた。
- 芝電気株式会社設立。(商標:シバデン)
- 昭和電子株式会社設立。
- テレビカメラの国産化に成功。
- アナログコンピュータがベルギー万博でグランプリを受賞。小金井工場を新設。
- 国産初の放送用VTRを完成。
- 芝電気、東証・ 2部上場。昭和電子株式会社が日立電子株式会社に社名変更。
- 東京オリンピックにVTR独占供給、カメラ、中継機も大活躍。
合併後
- 国際電気を存続会社として、日立電子・八木アンテナが合併し現社名に。
- アキタ電子(現・ )の持ち株全てを日立製作所に売却し、電子部品事業より撤退。同年、小淵沢事業所を閉鎖。仙台事業所を分社化し東北電子エンジニアリングを設立。
- 富士吉田事業所を閉鎖。
- 千歳事業所と、八木記念情報通信システム研究所(仙台市内に存在した)を閉鎖。
- 八木アンテナ事業部を分社化。
- 本社を秋葉原UDXビルに移転。富山工場に生産棟を新設。小金井工場に事務・設計棟を新設。
- 3月 日立製作所の株式公開買付けにより出資比率が約52%に達し、同社の子会社となる。
- 東北電子エンジニアリングを吸収合併し仙台分工場を設立。
- 4月 仙台分工場を子会社・五洋電子に移管。事業集約により八木アンテナなど一部子会社が消滅。
- 2013年10月 小金井工場の生産棟を改築。旧国際電気の主力工場であった羽村工場を閉鎖しその機能を小金井工場に集約。旧八木アンテナ大宮工場の機能も同工場に集約 。小金井工場を東京事業所へ改称。
- 10月 本社を東京都港区西新橋の日立愛宕別館に移転。
八木アンテナ誕生! 八木秀次先生の話
💖【太平洋戦争秘話!】八木アンテナ!
地デジ・TVのアンテナ(八木・宇田アンテナ)のしくみについて、超わかりやすく解説!
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八木アンテナ比較テスト 3エレと5エレで受信性能はどれくらい違うのか?
アマチュア無線にもデジタル簡易無線運用にも参考に! ナテックNY351X5の金具が改善されたよ
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【Inter BEE 2012】日立国際電気
YAGI (tipos de antenas)
「電子の技術ーテレビジョン」東京シネマ1961年製作
新しい暮らしを創るー松下電器 東京シネマ製作