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2020年01月

八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年明治19年)1月28日 - 1976年昭和51年)1月19日)は、日本工学者電気工学)、実業家政治家。一般的に八木アンテナとして知られる八木・宇田アンテナの発明家として知られる。

東京工業大学学長、千葉工業大学顧問、内閣技術院総裁、大阪帝国大学総長、八木アンテナ株式会社社長[1]参議院議員武蔵工業大学学長などを歴任した。

陸軍における階級工兵軍曹日本学士院会員。栄典従二位勲一等瑞宝章受章、文化勲章受章[1]、贈勲一等旭日大綬章[1](没時陞勲)
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概要

電気工学を専門とする工学者であり、宇田新太郎と共に開発した「八木・宇田アンテナ」の共同発明者として知られている。この発明を基に八木アンテナ株式会社を創業し、その初代社長に就いた。東北帝国大学や大阪帝国大学では教鞭を執り、東京工業大学、武蔵工業大学などでは学長として奉職するなど、長年にわたり学術研究、教育分野で活躍したほか、1942年(昭和17年)には現在の千葉工業大学(旧制・興亜工業大学)の創設にあたり創設メンバーとして同大学の創立に尽力している。

太平洋戦争中は内閣技術院総裁[1]、戦後は右派社会党日本社会党に所属し参議院議員を務め国政にも参画した。

来歴

大学卒業まで

大阪府大阪市東区北浜4丁目の八木忠兵衛、みちの三男として生まれる[2]。父は両替商であった。大阪市愛日尋常小学校、第四高等小学校、大阪府第一中学校(北野中学に改称)に入学。1903年同中学を首席で卒業。すでに父が亡くなっていたが、19歳上の長兄は株屋に就職し、八木は経済的援助を受けた。なお、当時の株屋は世間の評判が低く、分家して八木家を継承した。1903年第三高等学校理科に入学。中学、高校時代には俳句など文学にも興味があった。1906年東京帝国大学工科大学電気工学科に入学した。無線に興味をもった。卒業時の成績は33名中5番であった。

仙台高等工業学校、東北帝国大学時代

電気科教授の世話で直ちに仙台高等工業学校の講師となった。[3]八木は東北帝国大学理科大学の本多光太郎の知遇を得、のちに長岡半太郎に伝え、長岡の推薦で海外留学が八木に命じられた。1913年からドイツのドレスデン工科大学バルクハウゼン教授の下で研究した。1914年は第一次大戦勃発でスイスにいたが、イギリスのフレミング教授の教室に移った。1915年は渡米しハーバード大学ピアス英語版教授の下で研究した。八木の関心は次第に無線の方に移っていった。

当時の電気工学の主たる関心がいわゆる強電と言われる電力工学にあったところをいち早く弱電分野の研究に取り組み、八木・宇田アンテナ、分割陽極型マグネトロン等の成果を生み出す。

財団法人斎藤報恩会から「電気を利用する通信法の研究」(八木秀次、抜山平一、千葉茂太郎)で1934年(昭和9年)度までに合計22万5000円の補助金を受けた。

八木が物理学科、金研で行われていた論文の輪読会に出席しあまりに鋭い指摘をするために、会の開催日を八木の属する電気工学科のゼミのある日と同じにして出席できないようにしようとする動きが出るほどだったという逸話がある。

学内に電気通信研究所の設立を構想するが、実現は八木が大阪帝大に異動した後の1935年(昭和10年)になる。

大阪帝国大学理学部時代

大阪帝国大学の初代総長であった長岡半太郎の要請により大阪帝国大学に移籍。大阪帝国大学の理学部物理学科の初代主任教授となる。

菊池正士原子核物理研究を主任教授として予算的にも人的にも支援した。 講師として在職していた湯川秀樹を叱咤激励し、それが後にノーベル物理学賞を受賞する中間子論に関する論文につながったといわれている。

大学教授時代

八木は講義の際、学生に「本質的な発明ができるようになるためには心眼(科学者としての勘)で電波が見えるようにならなければならない」と教えていた。

技術院総裁時代

八木はレーダー開発など立ち遅れていた日本の科学兵器開発を指導するため、海軍の永野修身軍令部総長の推薦を受けて技術院総裁に就任した。内閣技術院の総裁である八木自身も熱線誘導兵器の研究を推進していた。因みに同研究は技術者の井深大と海軍技術将校の盛田昭夫が出会い、戦後ソニーを創業するきっかけとなった。

敗色濃厚となった1945年(昭和20年)には衆議院予算委員会で質問に応え、「技術当局は『必死でない必中兵器』を生み出す責任があるが、その完成を待たずに『必死必中』の特攻隊の出動を必要とする戦局となり慙愧に耐えない」との大意の答弁を行っている。これを聞いて委員会出席者中には涙する者もあったとの当時の報道がある。精神主義、特攻隊賛美ばかりが横溢する戦時下にあって、科学技術者としての勇気を示した発言として名高い[4]

戦後

1956年、文化勲章受章

大阪帝大総長を公職追放で追われてからしばらくは生活に困窮した時期があった。この時、大正末に取得された八木・宇田アンテナの特許はすでに期限が切れていた。かつての弟子達が電気工学関係の教科書を分担して執筆し、八木に印税を寄付して支援した。

八木はドイツ・イギリス留学時代から労働運動社会主義に関心があり、日本フェビアン協会の会員でもあった。戦後も政治に関わり、ジョージ・バーナード・ショーなどを読んでいたという。

直接の弟子でなく面識もない江崎玲於奈西澤潤一を学士院賞に推薦した。晩年に至るまで学術の情報収集を欠かさず、人材の発掘・育成に尽くした。

八木式アンテナの発明者 八木秀次小伝

今日の情報社会の中で、電気通信分野の果たす役割は非常に大きくなっています。 この電気通信分野の重要性を予見し、その先見性に自信を持って研究と教育の先頭に立ってきた、「八木アンテナ」の発明者、八木秀次博士の足跡をたどってみましょう。

八木式アンテナの発明者 八木秀次小伝

1. 大阪に生まれる

八木は明治19年1月28日に大阪で生まれました。北野中学時代は文学に魅せられていましたが、第三高等学校では理科を選ぶなど、この頃から科学者として生涯を貫く使命感を持っていました。 しかし終生、読書人としての素養、文筆家としての才能はとどまることをなく、数々の随筆集、例えば「蟻の咳払い」などを残しています。

2. 留学と電気通信の研究

第三高等学校から東京帝国大学工科大学に進んだ八木は、大学卒業と同時に仙台高等工業学校に招かれ、教壇に立ちました。 大正2年2月、文部省から3年間のイギリス、アメリカ、ドイツの海外留学を命ぜられます。 この留学こそ、彼の電気通信研究の契機となったのです。
ドイツのドレスデン工科大学では、電気振動の世界的権威であるG・H・バルクハウゼン教授の研究室で、「連続した電波を空間に放射することが可能かどうか」を研究します。 イギリスのロンドン大学では、フレミングの法則を考案したJ・A・フレミング教授に師事し、アメリカのハーバード大学では、数学者のピアス教授の研究室に移ります。当時アメリカでは真空管式通信の開発研究が注目されていました。
大正5年6月、八木は帰国しますが、助手の宇田新太郎氏の協力を得て「短波長ビーム」の研究を進めます。 おりしも、大正8年5月22日、仙台高等工業学校は東北帝国大学に昇格し、八木の主張である、「基礎と独創の精神」を基調とする電気工学科をはじめ、化学工学科、機械工学科を設置します。 他の大学の電気工学科では、産業界の要望もあって、強電の研究が主流でしたが、八木は電気通信・真空管など弱電の研究と指導に力を入れます。この八木の主張を応援するかのごとく、大正10年、バルクハウゼン教授が画期的なバルクハウゼン振動を発見し、八木はこれを契機として、将来無線通信は超短波から極超短波へと広がり、社会へ貢献することを予見します。

3. 八木アンテナの発明

八木アンテナの発明

大正12年、八木の研究室では、宇田新太郎氏の同級生である西村雄二氏が卒業論文のため超短波を用いた単巻線コイルの、固有波長を測定していたとき、振動体の導波現象を発見します。 八木は半波長より短い空中線が導波現象を呈することを宇田新太郎氏に話し、その理論的・実験的裏付けの研究を行わせます。 その事情について宇田新太郎氏は電気通信学会雑誌「アンテナ特集号によせて」(昭和40年4月号)に記しています。『私の組み立てた波長約4mの超短波発信機は共振回路としてプレートグリッドにそれぞれ1本の導線のループがあり、これが互いに接近して取り付けてあった。このループが予想外に強い指向性の電波を射していることに気が付き、かつ驚いた。今なら当たり前のことである。これが私に電波の指向性ということについて興味を覚えさせることになった。』 間もなく反射器・導波器を組み合わすことを思いつき、八木・宇田アンテナが生まれました。 つまり、超短波を空間に放射する放射器の前に、その半波長よりやや短い金属導体を置くと、電波はある方向に集中して出るということを発見し、理論づけたのです。 その後、大正15年、八木は宇田新太郎氏との共著で「新電波投射器と無線燈台」「電波よる電力輸送の可能性について」と題する報告を第3回汎太平洋学術会議で行っています。これらの研究は外国において「超短波論文の古典」として高く評価されました。また、昭和3年のアメリカでの講演は、全米各地にセンセーションを巻き起こしました。

4. 水の都大阪へ

昭和6年末、八木は長岡半太郎大阪大学総長に請われて大阪帝国大学理学部創設委員となりました。八木は、大阪帝国大学物理学教室に原子核の講座を設け、この講座に京都大学から若手理論家の湯川秀樹氏を迎えました。これは八木の独創的研究の精神が実を結んだと言えます。 八木の「技術人夜話」の一節に 『そのころ日本の大学ではどこでも原子の問題といえば、原子の外部すなわちスペクトルの研究に限られていたのであるが、阪大のホープと目される湯川助教授の下には坂田昌一氏、武谷三男氏等の多数の精鋭が集まり、今日に見る素粒子研究陣の素地が培われたのである』 と述べられています。 八木の「将来、中性子工学たる新分野が大いに発展して、驚くべき社会変革が始まるだろう」と予見した先見性と独創性は、みごとに開花しました。 やがて起こる日支事変・太平洋戦争は、一面において科学の飛躍的な発展を招来しました。 しかし皮肉なことに、日本では軍事的には非常に有効な電波、特に短波の利用は重要視されませんでした。 それを如実に示すのが、戦場で捕虜にしたレーダー手の所有するノートです。そのノートには「YAGI」という言葉が頻繁に出てきます。「八木の発明した理論」が電波兵器の至る所に応用されていたのです。 これに比べ、わが国に八木式アンテナが定着したのはテレビ放送が開始された昭和28年のことでした。

5. 八木アンテナ株式会社の設立

八木アンテナ株式会社ポスターの画像

昭和15年、八木が電気学会長であった時、日本工業会大会において「電気工学の躍進」というテーマで特別講演をしましたが、ここで二つの予言をしています。
その第1は 『将来、中性子工学なる新分野(現在の原子力工学)が発展して、驚くべき社会的変革が始まるだろう』 と述べ、原子力時代を予言しています。
第2は電子工学(中性子工学)の発展について述べ、 『近年現れる電気の新奇応用は殆どみな電子管の応用に属すると言えよう。無線・電話・ラジオ・写真伝送・テレビジョンをはじめとして、自然科学研 究の諸方面工学と技術の諸部門における応用がそれである。さらに、日常 生活にまで侵入すると予期されるから、電子工学の領域はますます拡大分散する傾向をもっている』 と、結論しています。その具体的なものとして、「テレビジョンと電子顕微鏡」をあげています。 このおよそ80年前の予言、その先見性には驚くばかりであります。 八木秀次は、発明以来30年余り、世界的にその優秀さを認められながら、日本ではいまだ日の目をみない八木アンテナの技術をこの時期に製品化し、きたるべきテレビ時代に長年の夢を果たしたいと考えました。こうして、昭和27年1月29日、アンテナの製造および販売を目的とした八木アンテナ株式会社を資本金250万円で設立し、取締役社長に就任しました。67歳でした。
一方、昭和28年、テレビ放送開始にあたって、テレビ事業は多くの政治的・技術的な問題を抱えていました。その技術的問題を打開すべく、標準方式をめぐるチャンネルの問題について、八木は次のように語っています。 『最近、テレビジョンの標準方式というものが定まった。白黒式テレビで波帯幅6メガサイクルを使う。米国では白黒式も天然色も6メガサイクルであるのに、日本の技術者は天然色は7メガサイクルでないと出来ない。だから白黒式にも7メガサイクルを許して貰いたいと言った。 天然色テレビは未だ5,6年先のことである。この間に6メガサイクルで立派に天然色テレビを実現すべく研究しようともせず、アメリカよりも広い波帯幅を許して貰いたいとはあまりにも自信のない話である』 広い波帯性である7メガサイクルを採用することにより、他で利用する波帯が少なくなるとの発言です。ここにも鋭い先見性を窺うことができます。 博士とその協力者の発明したアンテナは、今日、テレビ用として従来の狭帯域性から広帯域に改良されていますが、その本質は変わっていません。そしてさらに地域防災無線・船舶・航空機の安全航行など無線分野の多岐にわたって活用されています。

6. 晩年

八木 文化勲章受賞の画像

その後、昭和30年、請われて武蔵工業大学学長に、また昭和31年11月3日には、八木の長年の功績が認められ文化勲章を受章します。当年71歳でありました。
その他、33年にはデンマーク工学アカデミーからプールゼン金牌が贈られ、 37年、スイスの第2回国際テレビ・シンポジウムにおいて表彰されています。 昭和35年5月、八木アンテナ株式会社の社長を退任し、引退後も日本学士院会員として活躍するかたわら、外国の技術書やIEE誌などを読み続けながらの毎日を送られますが、昭和48年10月病に倒れ、2年3ヵ月にわたる闘病生活を続けましたが、昭和51年1月19日静かな眠りにつきました。89歳でした。



10)テレビ放送の始まりとテレビ技術発展の歴史
  (第3回・テレビ界の2人の偉人/八木秀次さんの巻)

テレビの発明、実用化に2人の日本人科学者が大きな役割を果たす
日本人のテレビ好きぶりは“一億白痴化”と揶揄されたほどだが、そのテレビの発明、実用化に2人の日本人科学者が大きな役割を果たしていたことは一般の人たちにはあまり知られていない。技術に詳しい人ならば、テレビを発明したのは“テレビの父”とも呼ばれている高柳健次郎博士であり、テレビアンテナを発明したのは八木秀次博士で一般に八木アンテナと呼ばれるものであることは、良く知られている。

ただし、八木アンテナに関しては、共同開発者である宇田新太郎博士の名も加え、最近では八木・宇田アンテナという名称が使われるようになってきている。高柳健次郎博士、八木秀次博士に関する記述は数多くあり、またこの連載やアイコムHP週刊BEACON「アマチュア無線人生いろいろ」(吉田正昭著)などでも紹介されているが、テレビの発展に果した2人の役割があまりにも大きいので、その功績をもう少し詳しく紹介しておきたい。

アンテナの基本原理を発見した八木さん
写真2
八木秀次さん

高柳健次郎博士、八木秀次博士ともほぼ同世代の生まれといえる。八木秀次博士は、1886年(明治19年)1月28日、大阪府に生まれている。また、高柳健次郎博士は、1899年(明治32年)1月20日、静岡県浜松市に生まれている。そこで1周りほど誕生が早い八木秀次博士に敬意をはらいまず取り上げてみたい。八木秀次博士は、1909年に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業、1913年に欧米に留学後、1919年に東北帝国大学工学部教授となり工学博士の学位を取得している。

この頃から電波の受信用アンテナの研究を始め、アンテナの基本原理を発見している。当時八木研究室にいたのが講師だった宇田新太郎さんで、八木さんは宇田さんに実用化のための研究をさせ、1928年に八木・宇田の連名で論文を発表している。しかし、特許が八木の単独名で国内外に出願されたため、外国の人たちがYagi antennaと呼んだことから一般に八木アンテナと呼ばれるようになった。

皮肉にも日本軍が八木アンテナの存在を知ったのは敵の捕虜から
しかし、八木アンテナは発表当時、日本の国内ではほとんど注目されなかった。むしろ欧米の学会や軍部が八木アンテナに注目したのだった。それは、当時、各国がレーダーの開発に力を入れており高性能なアンテナを必要としていた。そこで八木アンテナの性能が注目されたのである。第2次世界大戦において日本軍はレーダーの開発に遅れを取ったため苦戦することになるが、日本軍は八木アンテナの存在を知らなかった。

写真1
八木・宇田アンテナ(テレビ用)

皮肉にも日本軍が八木アンテナの存在を知ったのはイギリスが植民地としていたシンガポールを陥落させた1942年で、見たこともないアンテナがあり、焼却炉に残っていたレーダーの技術資料らしいノートを押収した。そのノートは日本国内に送られ、兵器本部で調べられた。しかし、文中に出てくる「Yagi」の意味がわからない。どうやらアンテナの種類らしいが専門家でも知っている者がいない。ノートの製作者は捕虜としてシンガポールの収容所にいた。尋問すると、書いた本人は驚き「本当にYagiを知らないのか。Yagiは日本人であり、アンテナの発明者ではないか」とあきれたという。

急遽八木アンテナを使ったレーダー開発に着手するも時すでに遅し
これに驚愕した日本軍部は、ことの重大さに気づき急遽、八木アンテナを使ったレーダーの開発に着手する。しかし時すでに遅く完成したのは昭和20年になってからで、戦争には何の役にも立たたず敗戦を迎えた。むろん開発者である八木さんは、軍部に出向き情報機器の重要さやアンテナのことについて進言している。だが、当時の軍部は情報機器の重要性をさほど認識していなかったようで、皮肉にも敵国からYagi antennaの存在を教えられる結果となってしまった。

日本軍の敗戦は「物量の差」であり、アメリカとの国力差が原因と分析されるが、たしかに第一の理由はそこにあるのは間違いない。しかし、情報の重要性において認識の差も大きかったといえる。「夜間、敵の飛行機や軍艦を見つけるのに夜暗くても良く目の見える兵に双眼鏡を持たせ見張らせ、ビタミンAの豊富な人参をたくさん食べさせる」といった具合。

また暗号解読にも遅れをとり、逆に暗号を解読されミッドウェイ海戦に敗れたり、山本五十六連合艦隊司令長官搭乗機を待ち伏せされ撃墜されてしまったりしている。技術や情報を軽視したことが敗戦につながり、多くの尊い人命を失うことになった。しかし、高い授業料ではあったが戦後、平和国家となった日本は技術立国として発展していくことになった。そして技術立国への源流となった一つが八木・宇田アンテナである。

戦後GHQから公職追放者指定を受けた八木さん
八木さんは、1942年に東京工業大学学長に就任し、1944年には内閣技術院総裁に就任している。さらに、1946年には大阪帝国大学総長に就任したがGHQの公職追放者指定を受けて辞職せざるを得なくなり辞職し、日本アマチュア無線連盟会長に就任したのだった。そして八木さんたちは日本のアマチュア無線再会に向けて努力していくことになる。八木さんが戦後GHQから公職追放者指定を受けることになってしまったのは、やはり八木アンテナの発明者であることや、内閣技術院総裁に就任していたことが理由だろう。

GHQは、兵器となるような技術開発を禁止しており、航空機の開発などを禁止していた。レーダーのアンテナともなる八木アンテナの発明者の八木さんが公職につきさらに研究することを阻止したいと考えたとしても不思議でない。また、内閣技術院はソニーの創業者である技術者の井深大さんと、海軍技術将校で後に井深さんと2人3脚でソニーを世界的な大企業に育て上げた盛田昭夫さんが出会った場所であることも何かの縁だろう。

八木さんの功績に対して文化勲章、勲一等旭日大授章が贈られる
内閣技術院総裁時代の八木さんは、熱線誘導兵器の研究に携わっていたが、「技術者として人命を損なわずにすむ熱線誘導兵器を開発する責任があり、その完成が遅れ特攻がなされているのは慙愧に耐えない」と議会で答弁し、人命を軽視した精神論や特攻隊賛美のなかで技術者としてのそれに反対する勇気ある意見を述べている。そして、戦後の1952年にテレビや無線のアンテナメーカーである八木アンテナ株式会社が設立された。

日立製作所、日本軽金属が出資し、八木さんも10%の株主となり、八木さんが社長に就任した。蛇足ではあるが、八木・宇田アンテナとは、テレビ放送、FM放送の受信用やアマチュア無線、業務無線などに利用されるアンテナで、前方に導波器を並べ、その次に輻射器があり、一番後に反射器という構造になっているものでテレビアンテナとして屋根に上がっているのがよく見られる。このアンテナは指向性が強く、受信する方向を選べるのが特長で微弱な電波でもキャッチすることが出来る。これがレーダーに適しているため使用された所以でもある。

国は八木さんの功績に対して1956年に文化勲章、1976年には勲一等旭日大授章を贈っている。歯に衣を着せることのない八木さんは、文化勲章が決まった時「かつては教職不適格者として追放しておきながら、今度は勲章をくれるという。国家とは不思議なことをするものだ」と批判したという。また、八木さんは、1953年(昭和30年)には参議院議員選挙に全国区で立候補し当選、また、1955年(昭和32年)には武蔵工業大学の学長を務めるなど、やはり単なる技術開発者ではなかった。なお、1976年(昭和51年)1月19日に永眠された。81歳だった。

『参考文献』 アイコムHP週刊BEACON「アマチュア無線人生いろいろ」(吉田正昭著)、Web:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、WEB「奇人発見伝」、WEB[Weblio]

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第1回 八木アンテナの呼称の由来

現在、各家庭の屋根の上には、大きなトンボのような、テレビ受信用のアンテナが設置されている。
このアンテナは、大正の末期に東北帝国大学(現、東北大学)の八木秀次教授と宇田新太郎講師(当時の職名)によって発明された。
今日では、このアンテナは発明者の名をとって「八木・宇田アンテナ」あるいは「八木アンテナ」(以下、八木アンテナ)と称されている。

発明以来、八木アンテナが太平洋戦争(第二次世界大戦)以前に日本国内で実際に用いられたのは、山形県の酒田市とその沖合40kmにある飛島との間、および、新潟市とその沖合50kmにある佐渡島との間の無線回線に用いられただけであった。

このように、日本では注目を受けることが少なかった八木アンテナであったが、外国、とくに欧米諸国において、レーダーや航空機の盲目着陸などへの使用を目的として実用化が着々と進められていたのであった。

外国において八木アンテナが実用化されていたことを日本がはじめて知ったのは、昭和16年12月8日に太平洋戦争が起きてから2ヶ月余り後に、イギリス領であったシンガポールを攻略したときであった。驚いたことに、外国では、日本で発明された八木アンテナを新兵器として用いていたのであった。

昭和17年2月15日、旧日本陸軍がシンガポールを占領したとき、旧日本陸軍はイギリス軍のレーダーの残骸を見つけた。また、このとき、ニューマンというレーダー手の所有していた資料(ノート)が発見された。この資料には、至るところに”YAGI array”という文字が記されていた。旧日本陸軍では、このレーダーが相当優秀なものであることが分かったが、”YAGI array”の言葉はどうしても分からなかった。「ヤジ」と読むのか、それとも「ヤギ」と読むのか、その読み方すら分からなかった。そこで、レーダー手を捕虜収容所から連れ出してきて、YAGIの意味を問うたところ、レーダー手は青い目をパチクリとさせて「YAGIは貴国の人に名前でしょう」といったそうである。これより、このアンテナは「八木アンテナ」と呼ばれるようになったのである。

なお、この捕虜のレーダー手は、イギリス軍の下士官ニューマン(Newmann)であり、彼が記したノートであったことから、上記の資料は「ニューマン文書」と呼ばれることになった。

また、広島と長崎に投下された原子爆弾には八木アンテナが装着され、爆弾の爆発高度を決定するために用いられていた。

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第2回 ニューマン文書の行方(1)

戦後、多くの人々、とくにアンテナに関係した技術者や学者、軍に関係のあった方々、防衛庁(現、防衛省)の方々にニューマン文書について尋ねたが、ニューマンについて知っている人は何人かいたが、誰一人としてそのノートを見た者はおらず、ニューマン文書は幻のノートであった。

昭和62年(1987年)は、ヘルツが電磁波を実証して100周年目にあたり、それを記念したアンテナ関係の学会がドイツのビュルツブルク、イギリスのヨークで開催された。

ヨークの学会会場では関係分野の図書が多数展示販売されていた。レーダーに関する図書である、S.S.Swords著”Technical history of the beginnings of RADAR”も販売されており、学会開催の前年の昭和61年(1986年)にPeter Peregrinus Ltd., Londonより発行されたものであった。この本には、イギリスはもちろんのこと、アメリカ、ドイツ、ロシアなどのレーダーの歴史が写真とともに記されていた。日本についても記載されており、第4章第6節に”Beginning of radar in Japan”と題して数頁が割かれていた。この本は全部で300頁もあるのに、日本に関する記述はすこぶる簡略なものである。

ただ、この本の参照文献中に「技術資料 昭和53年(1978年)第82号 第2次大戦下における日本陸軍のレーダー開発 対空電波標定機た号2号、た号改4型」防衛庁技術本部技術部調査課、があった。電波標定機とは旧日本陸軍の用語で、現在のレーダーのことである。この参考文献の40頁には「ニューマン」の文字が記してあった。

読み進めると、

その頃丁度シンガポールが陥落し、昭和17年7月頃に南方総軍兵器部から技術本部あてに、「こんな珍しいものが見つかったので何か参考になるだろう」と1冊の戦利品の「ノート」が送られてきた。これは陥落後のシンガポールの兵営の紙くずかごかの中から発見されたもので、題して「ニューマン文書」と記されていたものであった。

さらに、

これは英軍のニューマン伍長の所有物であった。奇しくも彼は捕虜の身となって、当時東京品川の捕虜収容所に収容されていたことが判明した。この文書に関連して種々詰問したが、技術的レベルのそんなに高い男ではなく、英本土でにわか教育を受け器材を携えてシンガポールに着任して来て、専ら取扱いに任ずる兵員であり、研究開発に関しては質問しても当を得た返答を得ることはできなかった。

とある。

そしてさらに、

そのノートには何やら兵器の回路図及び性能が「メモ」的に書き止められており、一つは音源標定機(野戦砲兵用)の回路図であり、もう一つがどうもラジオロケーターであるように見えた。よく解読してみたところ、機器の名称はS.L.C.(Search Light Controlの頭文字)と呼ばれ、従来の空中聴音器に代り、照空灯を敵機に指向する電波兵器であることが判明した。

と続いている。

この資料によって、ニューマンに関することがかなり明らかになってきた。これを手掛かりにしてニューマン文書について伝手をたどって尋ねてみたが、誰もそれを見たという人はいなかった。依然として、ニューマン文書は幻のものであった。

つづく



第3回 ニューマン文書の行方(2)

昭和61年、旧日本陸軍技術少佐であった山田愿蔵氏より頂いた手紙には、

「シンガポールでYAGIアンテナの資料を見付け出したのは、戦友の塩見少佐という方でした」

という記載があった。

幻のニューマン文書の一端が、ようやくぼんやりとその姿を現わしてきた。
ここで、塩見少佐の消息が問題となった。

前述の山田氏に問い合わせたところ、塩見氏は早稲田大学の出身であるため塩見氏と同年代の早稲田大学OBに尋ねたが、塩見氏はすでに亡くなられたとの噂を聞いている旨の返信を頂いた。

なお、この山田氏からの返信には、

ゴミ箱から塩見さんが見付け出した取扱い説明書はSLCという資料で(中略)、日本の陸海軍の電波兵器関係者がYAGIアンテナが英米で有効に使われていることを知ったのは、上記SLC資料が資料としては初めてであったと想像します。占領器材として知ったのは、マニラ占領(昭和17年1月2日)の方が先ではなかったかと想像します(これは英軍の器材ではなく、米軍の器材であった)。

という情報も記されていた。

月日は流れ、昭和63年、早稲田大学の同窓会名簿と電話番号案内とをもとに塩見氏の消息に関する噂の検証作業をしていたところ、噂に反して塩見氏が健在であることが判明した。
早速、塩見氏を訪問し、ニューマンのノートについて尋ねた。

塩見氏によれば、ニューマンのノートを発見したのは塩見氏ではなく、旧日本陸軍防空学校の秋本中佐とのことであった。なお、これは塩見氏の記憶違いであり、松元泰清中佐が正しいことが後になって判明した。

松元中佐は、シンガポール陥落直後の昭和17年春頃に同地を通過した際、イギリス軍の高射砲陣地のあったゴルフ場の塵芥焼却場において、投げ棄てられていたノートを発見した。このノートには図面や電気回路がたくさん記されており、当時、兵器としてイギリスやドイツなどで開発後にアメリカで高性能化され、日本の軍関係者が非常に注目している電波兵器、レーダーに関するものであることが分かった。このノートの重要性を認識した松元中佐は、電気工学を専門とする塩見少佐にその解読を依頼した。

塩見少佐による解読により、ノートには敵が最も秘密にしている電波兵器の一部が記載されており、参考資料としての価値が大きいことが判明した。

旧日本陸軍では、このノートを写真撮影し、また英文タイプに打って謄写印刷により何部かを作成した。これがニューマン文書と称されるものである、と塩見元少佐は語った。

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このようにして制作された何冊かのニューマン文書は、その後どうなったのであろうか。私(佐藤源貞)はニューマン文書の配布先を塩見氏に聞いたが、分からないという答えが返ってくるばかりであった。

「忘れた」のではなく「分からない」のである。おそらく、塩見氏はニューマン文書の行方を知っているのに違いない。あるいは所持しているのかもしれない。そう思いつつ、私は何度もニューマン文書の配布先を聞いた。しかし、何度聞いても「分からない」の一点張りである。それに応じて私の口調は激しくなって行き、ついには尋問の様相を呈してきた。

塩見氏は、私の熱意に負けたのか、突然よろよろと立ちあがり、別室に退いた。待つこと暫し、何か古ぼけた書類のようなものを持って出てきた。この古ぼけた小冊子の表紙には「ニューマン文書」の文字が大きく印刷されていた。

つづく

参考資料:
里文出版『アンテナ物語 その歴史と学者たち』

第4回 ニューマン文書の行方(3)

表紙に「ニューマン文書」の文字が大きく印刷された冊子は数十頁の分量があり、表紙にはさらに「昭和17年6月22日 南方軍兵器技術指導班」の発行機関名および「部外秘」の記述がされていた。

開巻第1頁、少し黄ばんだ用紙に印刷された英文字が目に飛び込んできた。

S.L.C. THEORY
1. INTRODUCTION
1-1. Function of Equipment

続く文章は、

The S.L.C. Equipment is designed for detection of aircraft ---

上の記載から、この文書がS.L.C.(Search Light Controlの略)、すなわち探照灯管制レーダーに関するものであることが分かる。ここで、探照灯管制レーダーは、敵機をレーダーで探知し、その探知結果を探照灯と連動させて探照灯の光を敵機に向けるために使用されるものである。
続けて、YAGIの活字を求めて文字を追った。しばらくすると、YAGIの文字が大きく目に飛び込んできた。

The transmitting aerial consists of a YAGI array mounted well above projector barrel on outriggers.

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ニューマン文書中の"YAGI"表記
(文中の"YAGI"表記箇所とは異なります)

Arrayとは、元来「(軍隊を)整列させる、整列」などの意味であり、転じて「(アンテナの)多数の金属棒が排列されているもの」となった。
なお、アンテナは、日本では長く「空中線」の言葉も併せて使用されてきたが、現在の学術用語としては「アンテナ」に統一されている。戦後輸入されたイギリスの本にはaerialが多く用いられていたが、現在ではイギリスでもantennaが用いられるようになっている。

さらに読み進めていったところ、ニューマン文書には、送信用に1基、受信用に4基、計5基の八木アンテナを使用した機器が記されていた。各アンテナは、それぞれ5本の金属棒で構成された5素子八木アンテナであり、後方にそれぞれ円形の反射板が設置されていた。
なお、昭和17年10月に旧日本陸軍が開発した「た2号型電波標定機」は、「ニューマン・ノートのS.L.C.に高射に必要な測距回路を追加したものである」と前掲(本アンテナ物語第2回参照)の昭和53年第82号の防衛庁資料に記してある。その構造は、ニューマン文書に記載されたものと同様に送信用1基、受信用4基の八木アンテナから構成されている。このように、ニューマン文書は、我が国のレーダー開発に大いに役立ったのである。

さて、情景は塩見氏宅に戻る。
私(筆者)は「この文書を貸してください」と何度も頼んだのであるが、塩見氏は頑として承知してくれなかった。塩見氏にとっては、戦後40年以上が経過していてもなお、この文書は軍の機密書類なのであろう。仕方なく、私は文書にさっと目を通し、持参したノートにその要点を筆記し始めた。数時間が経過して日の傾く頃になり、私はこの文書の全容を筆記することができない旨を正座を崩さずまさに全面降伏の姿勢で申し述べた。その誠意と意気に感じてか、やっと借用の許可が下りた。

このように、八木・宇田アンテナは我が国で発明されたが、それを実用化して大いに利用したのは、イギリス、アメリカなどの外国であった。しかも、この高性能アンテナをYAGI arrayすなわち八木アンテナと名付けたのは外国なのであった。
最初は我が国において離島との間の試験無線通信に用いられ、戦時中には敵国のレーダーに使用されたこのアンテナが、現在ではテレビ受信に世界中で最も多く使用されている。もちろん、一般の無線通信、その他特殊用途にも広く使用されているのである。

ニューマン文書の行方 <完>

参考資料:
里文出版『アンテナ物語 その歴史と学者たち』



     


八木・宇田アンテナ


八木・宇田アンテナ( Yagi-Uda Antenna)は、アレイアンテナの一種。通常、ダイポールアンテナ素子としており、宇田新太郎の主導的研究によって、八木秀次との共同で発明された。別称として、指向性短波アンテナ八木アンテナという名称が流通している

主にテレビ放送FM放送の受信用やアマチュア無線業務無線基地局用などに利用される。


概要

一番後に反射器(リフレクタ)、その前に輻射器(給電する部品。ラジエータ。別称:投射器)、その前に導波器(ディレクタ)の素子(エレメント)を並べた構造になっている(図を参照)。

原理上、アンテナの横幅が実用的な大きさを超えるために周波数が低いキロヘルツ帯の受信に使用されることは少ない。FMラジオ放送やテレビなどの電波で使われているメガヘルツ帯の電波に対して実用的だが、VHF帯域とUHF帯域でも最適なアンテナの横幅と間隔が異なり、さらに指向性の強さと併せて、受信感度が高い周波数帯も狭い性質がある。このため、テレビアンテナには二種類の八木アンテナが使用される事が多い。

導波器は棒状で輻射器よりも短く、反射器は同形状で輻射器よりも長い。このアンテナは指向性があり、その方向は反射器から導波器の方向になる。なお、導波器の横幅は受信する周波数によって決まるため、周波数が低いほど広く、高いほど短くなるので、素子の横幅を見ると、大まかな使用される周波数帯がわかり、テレビアンテナのVHF帯域とUHF帯域で、明らかにUHF帯域の方が横幅が狭いので識別できる。

八木・宇田アンテナと非常によく似た形の位相差給電アンテナ対数周期アンテナ(ログペリオディックアンテナ。通称 : ログペリ)があるが、これらは原理が異なる別のアンテナである。

今日の超短波 (VHF) 帯以上の実用的な構成としては反射器は通常1素子を、導波器は複数を用いて指向性を鋭くアンテナの利得を高くするようにしている。輻射器としては半波長ダイポールアンテナまたは折返しダイポールアンテナが用いられる。垂直偏波の場合は、スリーブアンテナブラウンアンテナが用いられることもある。

反射器・輻射器・導波器を並べて指向性・利得を上げる設計は、本来のダイポールアンテナの他に、ループアンテナヘンテナ等にも適用でき、特に反射器と導波器を持つループアンテナはループ八木アンテナもしくはリングアンテナと言う。いずれにおいても、導波器と輻射器の形状は大抵同じなのに対して、反射器の形状は通常左右上下対称にはなっているが、必ずしも輻射器の形状とは同じではなく、またそのサイズも必要な利得によって異なる。利得に余裕がある場合は台風などによる破損を嫌って反射器を取り外す事例もある。

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アナログ放送時代のテレビ受信用八木・宇田アンテナ(上段がVHF帯域用、下段がUHF帯域用)

広帯域化の工夫がされた八木アンテナである。受信用では送信所が左側にあることになる一方、もし仮に送信用に用いられるとすると、電波は主に左側に飛ぶ。


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上 : 5素子八木・宇田アンテナ
下 : スタックの種類
水平に並べるのは正しくは「パラレル」(パラ)である


テレビ受信用

電波を受信する際、素子数が少ないほど利得が小さく近距離受信に向いており逆に多いほど利得が大きく遠距離受信に向いている。一般的に放送区域内の極超短波(UHFテレビ)放送受信には中距離受信用(14 - 20素子程度が多い、電界強度が非常に強い場合はそれより少ない素子数のものを用いる)のアンテナをアナログ放送は地上3 - 10m程度の高さ、デジタル放送は地上10m程度の高さで受信、放送区域外の場合は遠距離受信用(20 - 30素子程度、場合によってはパラスタックアンテナ)のアンテナで受信する。

なお、素子を増やせば増やすほど素子1本追加する毎の利得の伸びは小さくなり、それに加えて、形状が非常に大きくなり設置が困難となるため一般に市販されているテレビ放送受信用の場合VHFで15素子、UHFで30素子(パラスタックアンテナの場合も表記上は最大30素子だが正確には導波器が四つ一組になっているので実質114素子相当になる)、FM放送受信用の場合10素子を越えるアンテナは一般的ではない(かつてはマスプロ電工で10素子用のFMアンテナ「FM10」を生産していた)。しかし、指向性は鋭くなるため混信防止などの目的でこれらの数を越える素子のアンテナが用いられることもある。反射器はFM受信用やアマチュア無線、防災無線用八木アンテナが大抵1素子であるのに対し、テレビ用においては3素子から10素子、くの字や円弧状に並んで立体構造になっている製品が多く、導波器の形状とは異なる、「目」や「曲」の字の形状の反射器2つを二枚貝のように繋いだ反射器も多く見られる。UHFアンテナを真横(垂直編波の場合。水平偏波なら真下や真上)から見ると、テレビの送信所と反対の方角を向いた矢印のように見える。

主に放送受信用として利用されている各周波数帯用のアンテナの種類は、FM放送用 (76 - 90MHz) ・VHFローチャンネル (1 - 3ch) 用・VHFハイチャンネル用 (4 - 12ch) ・VHFマルチチャンネル用(VHF全1 - 12ch)・UHFローチャンネル用(主に13 - 28ch)・UHFハイチャンネル用(主に25 - 62ch)・UHFマルチチャンネル用(UHF全13 - 62ch※現在は主に13 - 52ch)などがある。また、VHF・UHF共用のアンテナも存在する(主に関西地方や北海道渡島地方などVHFとUHFの送信所が同方向の地域で利用されるほか地上アナログ放送地上デジタル放送の受信アンテナを一本化できるため、関東地方でも立てている世帯もわずかながらある)。なお、VHF用アンテナとVHF・UHF共用アンテナについては地上デジタル放送(UHFのみを使用)への移行に伴い2010年8月末までに国内メーカー全社が生産終了した。ただし、VHF帯FMラジオ受信用[2]の八木・宇田アンテナの生産は継続している(2020年6月現在)。

送信アンテナから近く十分に電界強度がある地域でも、素子数の多いアンテナを使う方がよいことがある。ビル街や地形などによりマルチパスが生じている場合である。素子数が多いアンテナは指向性が鋭いので、マルチパスの影響を受けにくくなるからである。指向性を鋭くするには素子数の多いアンテナを使う以外に、スタックを組む方法もある。水平面の指向性を鋭くするには水平スタック(パラレルとも言う)を組み、垂直面の指向性を鋭くするには垂直スタックを組む。水平スタックは例えば方角の異なる送信所との混信をより強力に抑制するのに役立ち、垂直スタックは高所の飛行機などからのノイズを抑制するのに役立つ。スタックはテレビ受信用よりも、防災無線やアマチュア無線などの素子数の少ない(パラスタックアンテナの開発がサイズや重量の制約や需要の少なさゆえ行われない)アンテナに多く用いられている。例えばテレビと違う波長のアンテナが小中学校の屋上や町内放送のスピーカーを支える鉄塔に設置されていて、しばしば水平スタックになっている。また、集合住宅などにおいて、一見すると垂直スタックだが、実際にはテレビや録画機の接続台数が多くて一つのアンテナでは出力が足りない、あるいは一時期地上デジタル放送とアナログ放送を併用した時の都合で垂直にアンテナを2個から3個並べて出力を合流させずに別々に配線している事例も見られる。

八木・宇田アンテナの発明者である八木秀次博士が設立したメーカー・八木アンテナ株式会社(現在の株式会社HYSエンジニアリングサービス)は、2013年11月末日をもってテレビ受信用アンテナと関連する大部分の製品について製造及び販売を終了している。その後も同社直営の通信販売部門で一部の製品を継続販売していたが、2014年12月にホームページにおいて、2015年2月27日をもって営業を終了することが掲載された。

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      宇田新太郎


歴史

発明

発明の発端は、当時八木と宇田が所属した東北帝国大学工学部電気工学科で行われていた実験にあった。1924年、八木教授指導の元、卒業研究中だった学生西村雄二氏により、種々のコイル電磁波の中において、その近傍の電磁波強度を、今日でいう棒状アンテナに流れる高周波電流値を測定して、コイルの形状の変化に伴って測定値がいかに変わるかを調べる実験中に、条件によって電流計の針が異常な振れ方をする事が発見された。西村氏卒業後に八木と助手が原因を探求したところ、コイルを金属棒に置き換え電磁波の来る方向においてみると、異常な振れはその長さが関係していることが突き止められた。これらの結果とその原理を1925年9月、八木が、西村氏の論文の後につける形で発表した。ここからこのアンテナの基本となる原理が発見され、以後八木の原理的解明・発展の指導の下で、西村氏の同級生で大学院で研究を続けていた宇田の主導的な実験により詳細な解明が進められた。これらの原理を発展させてまとめたものを、同年12月八木が特許として出願した。これとは別に宇田も結果を発表し、また翌年1月に二氏連名の形で、学士院記事に英文で論文を発表した。1926年3月発表の第一報告から、電気学会誌で、結果を第十一報告まででまとめて発表した。また、八木単名でイギリスで特許を取得した後、その権利をマルコーニ社英語版に譲渡した


宇田らの研究

宇田は八木・宇田アンテナの基本原理の発明後はその実用化を目指し、国内の近辺各地に自ら出向いて意欲的な実験を続けた。例えば、1929年には八木・宇田アンテナを使用したUHFの送受信機により、仙台-大鷹森(松島)間(約20km)での通信に成功。翌年にはベルギーリエージュで開催された産業科学万国博覧会英語版に出品された。1932年5月に、宇田は超短波長電波の研究が認められて、帝国学士院より昭和7年度(1932年度)の「大阪毎日新聞東京日日新聞寄附 東宮御成婚記念賞」を受賞した。同年7月には酒田飛島(約40kmの離島)間での超短波通信に成功し、1933年には逓信省が、日本国初の超短波公衆電話回線を酒田・飛島間に開設した。この業績に対し、飛島の関係者の推薦により、宇田は第1回河北文化賞を受賞した

通信だけでなく電磁エネルギーの無線伝送も試みられている。1926年2月に八木と宇田は、波投射器を配置した指向性アンテナ(英語Wave Projector Directional Antenna)に関する最初の報告書を公表した。八木はなんとか概念の証拠を実証したが、技術的問題として従来の技術よりもよりわずらわしいことが判明した。その後、1954年にはこれまでの理論的な研究をまとめた英文共著書 YAGI-UDA ANTENNA[16][17]が出版され、設計理論を確立した。

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軍事研究での八木・宇田アンテナ

欧米の学会や軍部では八木・宇田アンテナの指向性に注目し、これを使用してレーダーの性能を飛躍的に向上させ、陸上施設や艦船、さらには航空機にもレーダーと八木・宇田アンテナが装備された。例えば、アメリカ軍はレーダーと八木アンテナの技術を改良発展させながら戦争に活用して日本軍に大損害を与えた。さらに後には、アメリカ軍が広島市長崎市原子爆弾日本に投下した際にも、最も爆発の領域の広がる場所・爆撃機から投下した原子爆弾の核爆発高度を特定するために、八木アンテナの技術を用いた受信・レーダー機能が使われた。現在も両原爆のレプリカの金属棒の突起などで、八木・宇田アンテナの利用を確認できる。

ところで、八木アンテナ開発当時の1920年代には、大日本帝国の学界[要出典]や日本軍では、敵を前にして電波を出すなど「暗闇にちょうちんを灯して、自分の位置を知らせるも同然」だと考えられ、重要な発明と見做されていなかった。このことをあらわす逸話として、1942年に日本軍がシンガポールの戦いイギリス植民地であったシンガポールを占領し、イギリス軍の対空射撃レーダーに関する書類を押収した際、日本軍の技術将校がニューマン(Newmann)というレーダー手の所持していた技術書の中に頻出する “YAGI” という単語の意味を解することができなかったというものがある。後に「ニューマン文書」(「ニューマン・ノート」)と称されるこの技術書には「送信アンテナは YAGI 空中線列よりなり、受信アンテナは4つのYAGIよりなる」と言った具合に “YAGI” という単語が用いられていたが、その意味はおろか読み方が「ヤギ」なのか「ヤジ」なのかさえわからなかった。ついには、捕虜となっていたイギリス軍のニューマン伍長に質問したところ「あなたは、本当にその言葉を知らないのか。YAGIとは、このアンテナを発明した日本人の名前だ」と教えられて驚嘆したと言われている。

なお、上記に書かれている日本軍での八木・宇田アンテナに対する認識や開発の遅れに関する「逸話」は、大日本帝国のレーダーの技術導入経路と、八木・宇田アンテナ自体の特性にも注視しなければより正確な認識が行えない事にも留意されたい。日本のレーダー開発は1930年代後半に入って大日本帝国陸軍防空を最大の目的に開始しているが、シンガポール戦の前年の1941年に開発された哨戒パルスレーダーである「超短波警戒機 乙」は、ナチス・ドイツからの技術導入で開発されたものであり、アンテナには無指向性のテレフンケン型(箱型)と呼ばれるものや、ダイポールアンテナが利用されていた。

八木・宇田アンテナは強力な指向性を持つ半面、反射器の設計が未熟な場合アンテナの後方にも強力な電波が発射される問題(バックローブ)があり、万一バックローブ側の電波で航空機(友軍機も含まれる)を探知してしまうと、測定結果が180度入れ替わって表示されるので正確な捕捉が行えない。また、水平方向を監視する哨戒レーダー、とりわけ艦船に設置する場合など、指向性と同時に電波発射元の秘匿も重視しなければならない用途では、英米でも戦後にならなければ八木・宇田アンテナを用いる事が出来なかった。前述の英軍の対空射撃管制レーダー(GL Mk.IIレーダー英語版)のような、攻撃を目的とした射撃管制装置の場合、地上設置ではアンテナに仰角を必ず取る事になり、大地がバックローブを吸収拡散する。また、航空機での固定航空機銃照準レーダーの場合は、バックローブでの誤探知の問題は、敵機に真後を取られた状況くらいでしか発生しない為、哨戒レーダーほど問題は大きくならない。この為八木・宇田アンテナを導入しやすかったのである。

日本軍での八木・宇田アンテナの導入の遅れで一番問題となったのは、反射器の設計技術であった。日本軍はシンガポール戦の後、直ちに八木アンテナの研究開発に取り組んだものの、ただ闇雲に素子を並べてもバックローブの問題が解決できないので、妥協案として八木・宇田アンテナの後方に金網を設置して反射器の代わりとした。しかし、これでも送受信機の利得や出力に見合った性能が得られなかったので、鹵獲した英米の対空射撃レーダーを模倣して対処したが、英米の製品と比べ相当な性能の低下が生じた。金網反射器は艦船に搭載するものの場合、風圧(艦砲射撃の爆圧も含まれる)で破損や変形をおこしやすい問題もあり、アンテナ自体の小型化が進まない要因ともなった

また、第二次世界大戦後期には連合国側、とりわけイギリスでは八木・宇田アンテナは万能ではなく、用途によっては軍事利用には不向きである事にも気付いていた。八木・宇田アンテナは航空機に搭載する場合、素子が突起物となって空気抵抗が増大し、機体性能の低下を招く欠点があり、機体の最高速度が増せば増すほどそれに見合った大型で頑丈な八木・宇田アンテナが必要になる矛盾が生じる為、イギリスではより小型のパラボラアンテナの開発に注力、大戦後期には空気抵抗の低下を最小限に抑えるレドームの技術開発にも成功し、重爆撃機による夜間の戦略爆撃に大きな成果を挙げている。一方、マグネトロンによるマイクロ波レーダーの技術が乏しかった枢軸国側の夜間戦闘機は、八木・宇田アンテナを機首に搭載して運動性能が低下した夜間戦闘機で、連合国機とは不利な戦闘を強いられる事となった。

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科学技術史の事績として

この発明は、電気技術史に残るものとして、1995年IEEEマイルストーンに認定された[26][27]銘板レプリカの一つが、東北大学片平キャンパス内に飾られている。「日本でのマイルストーン受賞リスト」によると、贈呈式年月と受賞テーマ(カッコ内は対象年・期間)および受賞者が、次のように示されている。

  • 1995年6月 指向性短波アンテナ<八木・宇田アンテナ>(1924年)- 東北大学

ここで、(1924年)と記されているのは、宇田が講師に就任した年だけではなく、多数の導体棒配列で構成した短波長アンテナの放射指向性測定によって、新しい成果を得ることになる「短波長ビーム」を発生させる配列方法の研究へと発展する超短波の研究を開始した年でもある。

2016年9月13日に、国立科学博物館重要科学技術史資料(通称:未来技術遺産)の第00210号として、世界最初の超短波アンテナであることを評価され、登録された


名称について

指向性短波アンテナの構成と動作原理が新たに考え出されたのは八木による特許で、これは八木の出願により1926年に特許権を得たとされている。

しかしながら、この八木特許の名称は「電波指向方式」であって、上述のような基本原理とは称し得ない内容の特許である。実は、1924年に講師に就任し、八木教授の研究班で研究補助員となった宇田新太郎が、多数の導体棒を配列して構成した短波長アンテナの放射指向性測定によって、「短波長ビーム」を発生させる配列方法を実験的に確かめ、八木教授と宇田講師は投射器の前後に導波器と反射器を配置したときの効果を明らかにした[38]。これらの研究成果を八木教授が英文でまとめて、1926年に八木・宇田の連名[38][41]論文として発表した。この内容が八木特許「電波指向方式」となっているのである。しかも、1925年に出願されたこの特許は八木単独名により、発明者名から宇田を除外して、宇田の知らない間に行われたという事実が記録に残されている

また、八木・宇田連名の英文論文の前後に、日本語で発表された「短波長ビームに就て」の一連の論文(予稿を含めて合計12編)は、八木が電気学会には原稿を出すのを止めて、若手に発表の機会を与えていたため、全て宇田単独名であった。こうした状況にも拘わらず、国内外の特許出願が八木の単独名で出されたため[47]日本国外の人々には “Yagi antenna” (八木アンテナ)として知られることとなる。後述するように日本では日本国外からの情報により八木・宇田アンテナが注目されるようになった経緯もあって、戦後日本国内でも、事情を知る人達が宇田の功績も称えるべきであり「八木・宇田アンテナ」と呼ぶべきと主張し、墓誌や最近の学術書では八木・宇田アンテナと記述されている。元来、発明者名から宇田を外して取得した八木特許は、現行法では取り扱いが異なるような特許であると批判されても止むを得ない。なお、八木・宇田両名が発明した「指向性短波アンテナ(八木・宇田アンテナ)」に関する情報は、外国では上述の宇田単独名の一連の論文と連名の英文論文(1926)に基づいているのに対し、日本国内では特許出願者として八木単独であった事が大きく、「八木アンテナ」という別称が流通する状況となっていた。また近年では八木の伝記として松尾博志の著書(1992)に八木主導の記述が見られるなどしたが、最近になってようやく宇田の貢献が正当に評価されるようになった。

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 株式会社日立国際電気 Hitachi Kokusai Electric Inc.)は、日本の大手電気機器メーカー。

同社は、日立グループ内にて無線通信機器や放送・映像機器の製造販売を手がけていた、国際電気・日立電子・八木アンテナの3社が、2000年10月1日付で、旧国際電気を存続会社として合併して誕生した(八木アンテナはその後同社の100%子会社として分社化)。

旧国際電気は、国際無線電信・国際無線電話・国際海底線電話の設備建設保守を業務とする特殊会社として国策により設立された、国際電気通信(株)の狛江工場を源流とする。

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旧八木アンテナ

八木式アンテナの発明者である八木秀次博士が設立した。


旧国際電気

無線通信機器や情報処理装置、そして半導体製造システムを手がけていた。

旧日立電子

無線通信機器や放送・映像機器を手がけていた。

  • 1948年 芝電気株式会社設立。(商標:シバデン)
  • 1955年 昭和電子株式会社設立。
  • 1956年 テレビカメラの国産化に成功。
  • 1958年 アナログコンピュータがベルギー万博でグランプリを受賞。小金井工場を新設。
  • 1958年 国産初の放送用VTRを完成。
  • 1961年 芝電気、東証・大証2部上場。昭和電子株式会社が日立電子株式会社に社名変更。
  • 1964年 東京オリンピックにVTR独占供給、カメラ、中継機も大活躍。


合併後

  • 2000年10月1日 国際電気を存続会社として、日立電子・八木アンテナが合併し現社名に。
  • 2001年 アキタ電子(現・アキタ電子システムズ)の持ち株全てを日立製作所に売却し、電子部品事業より撤退。同年、小淵沢事業所を閉鎖。仙台事業所を分社化し東北電子エンジニアリングを設立。
  • 2002年 富士吉田事業所を閉鎖。
  • 2003年 千歳事業所と、八木記念情報通信システム研究所(仙台市内に存在した)を閉鎖。
  • 2004年 八木アンテナ事業部を分社化。
  • 2006年 本社を秋葉原UDXビルに移転。富山工場に生産棟を新設。小金井工場に事務・設計棟を新設。
  • 2009年3月 日立製作所の株式公開買付けにより出資比率が約52%に達し、同社の子会社となる。
  • 2010年 東北電子エンジニアリングを吸収合併し仙台分工場を設立。
  • 2013年4月 仙台分工場を子会社・五洋電子に移管。事業集約により八木アンテナなど一部子会社が消滅。
  • 2013年10月 小金井工場の生産棟を改築。旧国際電気の主力工場であった羽村工場を閉鎖しその機能を小金井工場に集約。旧八木アンテナ大宮工場の機能も同工場に集約[5]。小金井工場を東京事業所へ改称。
  • 2016年10月 本社を東京都港区西新橋の日立愛宕別館に移転。




八木アンテナ誕生! 八木秀次先生の話




 

💖【太平洋戦争秘話!】八木アンテナ!



地デジ・TVのアンテナ(八木・宇田アンテナ)のしくみについて、超わかりやすく解説!




【衝撃】八木秀次が開発した「最強アンテナ」が画期的すぎる!



八木アンテナ比較テスト 3エレと5エレで受信性能はどれくらい違うのか?
アマチュア無線にもデジタル簡易無線運用にも参考に! ナテックNY351X5の金具が改善されたよ






【Inter BEE 2012】日立国際電気




YAGI (tipos de antenas)







「電子の技術ーテレビジョン」東京シネマ1961年製作



新しい暮らしを創るー松下電器 東京シネマ製作




太陽と電波 東京シネマ製作



神戸工業株式会社 会社案内(富士通テンの前身)1/3 [1957年]


神戸工業株式会社 会社案内(富士通テンの前身)2/3 [1957年]




神戸工業株式会社 会社案内(富士通テンの前身)3/3 [1957年]



伸びゆく「テン」の電子工業(神戸工業)




富士通テン40年のあゆみ紹介ビデオ(History of FUJITSU TEN 40 Years











































アマチュア無線の普及に貢献した大OM達ーケンウッド、ヤエス、アイコムの生い立ち

ケンウッド
3社のなかで一番古く1946年長野県駒ヶ根市に有限会社春日無線電機商会として設立。当初は高周波コイル(ラジオ受信機の部品)製造からスタートした。ノイズの少ない電波環境である伊那谷で培った高周波技術がFMチューナー、無線機器の礎となっている。春日無線時代のコイル、IFTはスター、QQQと共に自作派にとってはありがたい存在で随分お世話になりました。特にコイルパックは群を抜いていました。1947年に商標をTRIOとし、1960年には社名もトリオに変更。オーディオブーム全盛の頃には山水電気(破産済み)、パイオニアと並びオーディオ御三家とされ「サン・トリ・パイ」と通称された。1972年に創立者の春日兄弟が社内クーデターで社を追われ、アキュフェーズを設立している。同年に9R59を開発した技術者の高田さんがミズホ通信 (1972年1月 高田継男JA1AMH )を設立されていますが、社内クーデターに関係していたと推察されます。アキュフェーズは家庭用の高級オーディオ(各種アンプ・プレーヤー・イコライザ)と業務用オーディオ機器を製造販売しており、高価格帯のピュアオーディオに特化している。同社製品はアンプ類で5年間、ディスク・プレーヤーは3年間のメーカー保証がある。
また生産終了品のパーツ類も全て可能な限りストックしているため、かなり前のモデルでもオリジナルパーツでの補修が可能な場合がある。
また、長年アマチュア無線や受信機を手がけてきた技術を評価され「チューナーのトリオ」とも呼ばれていた


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ヤエス
八重洲無線 1956年2月 長谷川佐幸JA1MP ゼネラルテレビサ-ビス → 八重洲無線(1964) →バ-テックス スンダ-ド(2000) → 八重洲無線(2012)AM全盛時代にすでに SSBジェネレーターを昭和35年から販売していました。業務機の通信機メーカーとして産声を上げ,まだ『ゼネラルテレビサービス』という社名だった八重洲無線は,1960年のはじめに初のアマチュア無線用機器としてA型SSBジェネレータ・キットを発売しました.クリスタル・フィルタ式の製品で4,400円.このキットは同社初のアマチュア無線家向け製品となります.興味はありましたが、難しそうで手に負えないと決めつけておりました。1962年には初のSSB送信機,FL-20を発売しました.これは3.5MHz~28MHz帯をすべてカバーする送信機で,SSB/CWは10W,AMは2.5Wの出力,価格は49,800円でしたが,局発水晶は未実装でバンド水晶は一つしか入っていませんので,実際にオン・エアする場合はさらに追加投資が必要でした。1967年になるとFL-50,FR-50の送受信機が発表されます.このリグは,送信は5MHzのクリスタル・フィルタを用いたシングル・コンバージョン,受信は455kHzのメカニカル・フィルタを用いたダブル・コンバージョンです.思い切った回路構成を取ったことから安価でSSBが出せるという点は良かったのですが,VFOの安定度には少々難がありました.これはコストパフォーマンスが良く,マイナー・チェンジしたFL-50B,FR-50Bはベストセラーとなります

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アイコム
1954年 - 井上徳造が京都府相楽郡山城町に「井上電機製作所」を創業井上電機製作所 1954年4月 井上徳造JA3FA アイコム(1978)私は開局当時は今でこそオールラウンドですが、VHFメーカーと認識しておりました。日本初の可搬型機を開発し、携帯用無線機メーカーの草分け的存在である。昭和39年(1964) FDAM-1(井上電機製作所=現アイコム)オール・トランジスタを使用した50Mc AMトランシーバーが25,000円で発売されました。25,000円は1月の月給以上でしたので、手が出ずはじめて手にしたのはFDAM-3でした。以後UHFにおいてメーカーとしてははじめてのPLLによる1200MHz帯のFMトランシーバーIC-120を発売しております。
私はまだ時々ですがレピーターで使用しています

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その他のメーカー
昭和25年8月(1950) コイルの富士製作所、スイッチとバリコンの片岡電気(アルプス=現アルパイン)、ダイアルの東洋電気の3社合同でRF1段、IF2段、GT管9球通信型受信機キットS-50Aが発売されました。昭和28年(1953) 測定器メーカーの菊水電波(現=菊水電子工業)から受信機のキット、スカイシスターS-53 RF1段IF2段11球4バンドスーパーと、その下位機種として6球スーパー、スカイベビー S-38を発売。昭和31年(1956) 807という名前の送信機、変調器、電源がセパレート式になったものが、デリカ(三田無線)から発売になりました。3.5Mc帯と7Mc帯の2バンドで、終段が807、1本の電力増幅器に、変調器807ハイシングの10W機でした。終段に832Aを使った50Mc帯と144Mc帯2バンドの送信機キットがVHFという名前でデリカ(三田無線)から5,900円で発売されました。当時、VHFの送信機を製作するには、高度な知識と技術が必要とされていましたから、
大変話題になったものでした。電源、変調部は、自分で持っているHFの送信機と共用するようになっていました。他にも山七商店、三和無線測器、西村通信機、太陽無線技術研究所、トヨムラ、三協電機等いろいろなメーカーがいろいろな機種を発売しておりました。家電メーカーの松下電器、、新日本電気等の参入もありました。1970年代になると
エ-オ-ア-ル 1978年7月10日 高野 茂JA1AOR
三協特殊無線 1971年 小川恭平JA1JF
湘南高周波研究所   稲葉全彦JA1AI
太陽無線技術研究所   日村一義JA1NT
東京ハイパワ-研究所 1975年1月 若林伸樹JA1DJW 東京ハイパワ-(1977)
フロンティア・エレクトリック   平川定広JA1FSL 廃業
ミズホ通信 1972年1月 高田継男JA1AMH
等のOM達が無線機等の製造と販売に参入。
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アマチュア無線の再開と現状
昭和25年6月1日(1950)に電波法が施行され以後この日を記念して「電波の日」が設けられた。昭和26年6月(1951) 第1回の国家試験が実施され、1級47名、2級59名合格しました。昭和27年7月(1952) 30局に予備免許が発給され、ハムが再開しました。この時がアマチュア無線の再開の日です。1950年代にOM達が無線機の製造と販売に乗り出しました。ケンウッドの全身の春日無線電機商会 はもう少し早く1946年 春日二郎JA1KJ 春日無線工業(1950) →トリオ(1960)→ケンウッド(1986) → JVCケンウッド(2011)井上電機製作所 1954年4月 井上徳造JA3FA アイコム(1978)八重洲無線 1956年2月 長谷川佐幸JA1MP ゼネラルテレビサ-ビス → 八重洲無線(1964) →バ-テックス スンダ-ド(2000) → 八重洲無線(2012)昭和34年(1959) 初めての電信級、電話級のアマチュア無線技士国家試験が実施され、倍々ゲームのごとく飛躍的にハムが増加することになりました。1995年3月末に過去最高の136万4,316局となったピーク後、徐々に減少。2016年9月末で43万5,565局で1/3以下になっています減少の原因は少子高齢化による自然減。携帯電話の登場と普及によって、携帯電話の登場以前にアマチュア無線を簡単な電話代わりで使っていたアマチュア無線家が廃局した。無線通信にはそれなりの設備が必要で手軽に多目的に使えるインターネット普及によって、見知らぬ相手や外国人と交流したい人は、その掲示板やチャット機能などを利用するようになった。
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「アイコムの50年」その1~FDAM-1編



 

「アイコムの50年」その2~FDFM-1とFDFM-25編



 

「アイコムの50年」その3~TRS-80とIC-700R/T編



 

「アイコムの50年」その4~IC-71とIC-200編



 

「アイコムの50年」その5~IC-21編



 

「アイコムの50年」その6~PLL特許編




 

「アイコムの50年」その7~続PLL特許編



 

「アイコムの50年」その8~IC-2N編



 

「アイコムの50年」その9~IC-275編




 

「アイコムの50年」その10~IC-900編




 

「アイコムの50年」その11~IC-7800編



アイコム本社アマチュア無線フェスティバルでIC-7610試作機公開!!


 



AMラジオ組み立て教室を開催 日本無線





アイコムIC-705の基本操作





アイコム、有田工場に産ロボ導入




アイコム IC-DRC1 MKⅡ 開封動画 ラジオライフ 2020年 3月号





IC-705専用マルチバッグLC-192のご紹介




TS-990ができるまで ~山形ケンウッドにて~  | JVCKENWOOD






【ハムフェア2016・Ham fair Tokyo 2016】八重洲無線(YAESU)の新製品、
「FT-991A」と「M-1」の特徴を同社スタッフが説明!!





【CQオーム】FTDX10 基本操作説明




TX-310 / JR-310 重整備完了【2019/06/11】




History of Icom's Innovative Amateur Radio Technology




Icom Inc. Corporate Video










ラジオ少年の思い出、秋葉原の東京ラジオデパート




アマチュア無線の聖地、秋葉原は今・・・




【秋葉原】ロケット アマチュア無線 本館





アキバの街と無線機屋さんと。 アマチュア無線 ライセンスフリーラジオデジタル簡易無線 特定小電力トランシーバー 山本無線 ロケットアマチュア無線本館 富士無線電機





アキバにおいでよ!無線ショップ巡り。 山本無線 ロケットアマチュア無線本館 富士無線電機 アマチュア無線 秋葉原 デジタル簡易無線 デジタル小電力コミュニティ無線 特定小電力トランシーバー





#アマチュア無線 #富士無線佐倉店 #雑談




Akizuki Denshi Tsusho Akihabara/Japan|秋月電子通商 秋葉原店





Welocome to Akihabara Denkigai ~田中無線電機~





















































MOS 25U Signal Support Systems Specialist

 



MOS 25C Radio Operator-Maintainer



25N Nodal Network Systems Operator-Maintainer



 

MOS 25Q Multi-Channel Transmission Systems Operator-Maintainer



 

MOS 25S Satellite Communications Systems Operator-Maintainer



 

Army MOS 25E Electromagnetic Spectrum Manag



 

25R Visual Information Equipment Operator-Maintainer



MOS 25F - Network Switching Systems Operator / Maintainer


 



MOS 25P - Microwave Systems Operator / Maintainer




MOS 25V - Combat Documentation / Production Specialist



 

MOS 25L Cable Systems Installer-Maintainer



25B Information Technology Specialist

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94H Test, Measurement and Diagnostic Equipment (TMDE) Maintenence Support Specialist


94F Computer/Detection Systems Repairer


94E Radio and Communications Security (COMSEC) Repairer

AIT orientation At Ft Gordon


 


MOS 94A Land Combat Electronic Missile System Repairer

 


MOS 94S Patriot System Repairer




MOS 94T Short Range Air Defense System Repairer


91D Power Generation Equipment Repairer


 

昭和レトロ
白黒テレビ時代に14インチテレビの前に取り付けました

ブラウン管テレビ用ワイドレンズ/画面前に置く拡大レンズ白黒テレビに青い板つけて見てました

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昭和レトロ
白黒テレビをカラーにするフィルター  偽装派

カラーテレビが高かったころ、白黒テレビがカラーになるというふれこみで売れていた
青、赤、緑のフィルター、白黒テレビの上にステイをつけて画面の前にかぶせます
上部が青で空になり中部が赤で人顔になり下部が緑で大地で
なんとかカラーに見えるとゆう代物

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昭和レトロ
白黒テレビをカラーテレビにする本格的もの

3つの白黒テレビ(赤・緑・青)を鏡で合成する 

「トリネスコープカラー受像機6CT-333型」というカラーテレビです。日本でカラーテレビ放送が開始されたのは1960(昭和35)年のことでしたが、当初はカラー放送の時間が短く、カラーテレビも大変高価だったのであまり普及しませんでした。しかし、1964(昭和39)年の東京オリンピックを前に家電メーカーは安価なカラーテレビの開発に取り組み、オリンピックの前年に三菱電機が開発したのがこの「トリネスコープ」でした。このテレビは横幅よりも奥行の方が長いというちょっと変わった形をしているのですが、これには理由があります。この中には奥から緑・青・赤のブラウン管が3本も入っているのです。そして、この3本のブラウン管に映った緑・青・赤の単色映像を、ミラーによって光学的に重ね合わせてカラー映像とし、それが6インチの画面に映し出されるという仕組みになっています。白黒テレビのブラウン管を転用できたので価格を抑制することができました


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昭和レトロ
白黒テレビをカラーテレビにする本格派 その1

イトー式カラーアダプター
白黒テレビの前面で、B/R/G/B/R/Gのフィルターを放射線状に直径650mmの円盤にしたものを同期信号に合わせてモーターで回転させるものです。
これは完全にカラーになりました私し動かしました


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昭和レトロ
白黒テレビをカラーテレビにする本格派 その2

国際TVカラーアダプター
これは眼鏡状のファインダーを目の前にかけて、カラーを見ようというものです、

目の前で円盤が回るので、テレビの方はたとえ19インチでも21インチでもかまわないのです


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1960年代〜1980年代のテレビの広告


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【イギリス】テレビ中継の視聴や録画には許可証が必要な英国で7000世帯超が白黒テレビを視聴

2018/11/09(金)
ロンドン(CNN) 英国の団体「TVライセンシング」は9日までに、国内の7000世帯以上が今でも白黒テレビを利用しているとの調査結果を発表した。英国でカラーテレビの放送が始まったのは50年以上前白黒テレビの受信許可証が最も多く交付されている場所は首都ロンドンで、1768枚に上る。これに続きウエストミッドランズで431枚、北部のグレーター・マンチェスターで390枚となっている白黒テレビの受信許可証は近年、発行数が落ちている。2000年は21万2000枚だったが、15年には1万枚を割ったTVライセンシングの広報担当者は声明で、英国内のテレビの半数以上は現在インターネットに接続されていると指摘。これを踏まえると、「白黒テレビでお気に入りの番組を視聴する世帯が7000以上も残っているのは興味深い」と述べた英国では、テレビ中継の視聴や録画には許可証が必要となる。カラーテレビの許可証は150.50ポンド(約2万2400円)と、白黒テレビの3倍の額になっている。
・7,000 UK households still watching TV in black and white


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テレビのリモコンの昔昔のお話 その1

ズバコン

リモコン付きテレビの先駆けが、 昭和46年発売のサンヨーカラーテレビ・ズバコン(149.000円)懐中電灯みたいなリモコンで、チャンネルがガチャガチャと回ってたっけな ただし、このリモコン難点があって、大きな生活音に誤作動を起こすこと特に鍵のカチャカチャ音で誤動作する二個のボタンがあり、それぞれボタンを押すと(かなり重い)キンコンおおきな音が出ますTV側にマイクがあり、音叉の音に反応して電源ON/OFFチャンネル回転(ゴトン ゴトン)と回ります音量UP/DOWNは出来なかったと思います初期型の音叉式リモコンは欠陥商品といえるもので、バラエティ番組で会場の人が笑ったり音楽の音でその周波数帯域の音が出ると勝手に電源が切れちゃったり、勝手にチャンネルが回り出したりします日本での家庭用のリモコンとしては、昭和30年代にテレビ用に有線式のものが実用化された。1970年代初めには、サンヨーのズバコンをはじめとする超音波を用いた無線式リモコンが実用化されたが、身近な音(鍵のガシャという音)などに反応して誤作動を起こしやすかった。そのため、赤外線式リモコンが開発され、現在ではこの方式が広く一般的に使われている。
初期のテレビのリモコンは、テレビ本体の回転式チャンネルと同様のインターフェースを有していた。その後、ボタン式が採用されたが、そもそも当時のテレビが複雑な操作を必要としなかったため、チャンネル切り替え用のアップ・ダウンボタン(ダイレクト選局ではなかった)と音量調節用のボタンを備える程度の単純なものであった


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テレビのリモコンの昔昔のお話 その2

【魔法のピストル】

リモコンですテレビに向けてスイッチを押すと、先端がピカッと光りまなんと、テレビチャンネルが変わりました

。話には聞いたことがありましたが、映像に残っているのは初めて見ました。なんと貴重な!

すると……、 回転式チャンネルが自動的に回り……まあ光線銃ですね


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テレビのリモコンの昔昔のお話 その3

新ズバコン

FM変調の超音波操作方式・・・これで誤作動が少なくなつた


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テレビのリモコンの昔昔のお話 その4 原始的方法

テレビのチャンネルを回す棒

たいがいは自作していた
まあ1mぐらいの棒の先にチャンネルを掴むU字金具がついていたな


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テレビのリモコンの昔昔のお話 その5

有線リモコン


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テレビのリモコンの昔昔のお話 その6

有線リモコン


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超音波リモコンはなぜ消えたか?

超音波リモコンを最初に作ったのは、1956年米国ゼニスエレクトリック社のロバート・アドラーでしたSpacecommand 彼のリモコンは、4本のアルミの棒を叩いて超音波を発生させるものです。アルミの棒の長さを微妙に変えて周波数の違いを出しているとのことです。「Zenith Space Command」というネーミングで売り出されています1960年代には、日本にも棒を叩く方式のリモコンがあったようです電波によるリモコンも開発されましたが、電波では隣の家のテレビを操作してしまう可能性があり、普及しませんでした空気中を飛ぶ超音波は、壁を越えて隣に伝わることはまずありません音響インピーダンスの差が大きいからです指向性も直進性もあります。リモート信号の媒体としては、有望なものでしたF363qpit 日本では、サンヨーが1971年超音波を使ったテレビリモコンを発売しました懐中電灯のような形をしていますこれがいつまで売られていたのかはわかりません誤作動が多かったことが、その後の経過から推測できます。根拠はないのですが、20kHz前後の超音波を使っていたのではないかと推測していますSanyorimocon2_1 1975年サンヨーは「新ズバコン」と名をつけて、超音波式のリモコンで操作するテレビを発売しました。売れっ子のキャンディーズをCM使って大々的に売り出していますその年、このリモコンを製造して販売する会社(日本セラミック株式会社)が創立(1975年6月)されています。(日本セラミック株のHPによれば、「三洋電機㈱と共同開発したテレビ遠隔操作器具の量産開始」が同年11月)これから見ても「新ズバコン」は並々ならぬ自信と展望をもって発売されたことが読み取れます1971年に発売された超音波リモコン「ズバコン」とは、大幅に違うものができたということでしょう。では、何が画期的だったのでしょうか可能性のひとつは圧電材料の採用です。40kHzの超音波を発することができますもうひとつの可能性は、信号のデジタル化。圧電材料を使うと高周波の超音波を発することができますが、周波数はひとつに決まってしまいます。そうすると音が出ている(ON)出ていない(OFF)で0と1を組み合わせて信号を作るという発想につながりそうです。多分1971年のものに比べると、誤動作はずいぶん少なくなったのだろうと思います。(1971年のものは、特定の周波数の音を受信したらそれに対応する動作をした?)

その当時(1975年)のキャンディーズのヒット曲は「年下の男の子」、「LOVE 投げキッス~♪」と軽快に歌われています。座ったままでテレビに触れずにチャンネルが変えられる。まぁ、投げキッスですね。売れたようです。キャンディーズもこれ以降超売れっ子になっていきます。
それでも、誤動作がなくなったわけではなかった
特に、金属がぶつかる音、ピアノの高い音などに超音波領域の周波数が含まれていたのでしょう。勝手にチャンネルが回る、ということがあったようです。

少なくともミリ秒のオーダーではインターバルを取っていたでしょうが、速いピアノの演奏では倍数で同期したなんてことがありそうです。

1977subacon デハボ1000さんの証言によれば、クレームに対してメーカーは新しいテレビと長い棒を送ってきたといいます。超音波の棒ではなく、木か金属の棒で操作して・・・ということです。多分これは1977年。サンヨーのカタログには、1977年にそれまでのダイヤルを回す式のチャンネルからタッチスイッチ式のチャンネルを装備したテレビが登場します。

ダイヤルを回す機構の破損回避(リモコンによってチャンネル切り替え頻度は高まったと思われる)、ON・OFFを繰り返すリモコン信号への対応からアナログ操作の象徴ともいえる、ダイヤルがテレビの前面から消えたのでしょう。

おそらくこの2年間に、超音波による信号の送受信で、周囲の超音波を拾って誤作動しない信号処理の方法が研究されたことでしょう。私は、圧電素子を使った超音波リモコンを市場にだすことによって、デジタル通信によるリモコンが始まり、誤動作への対応に追われながら進化をしていった、と見るのです。

そうこうしているうちに、この件でのその年、1978年を迎えるのです。

そう、1978年4月4日後楽園ホール、キャンディーズの解散コンサート、ではなくて、赤外線リモコンの開発です。赤外線リモコンの光源は発光ダイオード(LED)を使っています。リモコンにLEDが使われるようになって、LEDの価格が大幅に下がったといわれています。LEDと比べれば、超音波は立ち上がり特性も立ち下がり特性も格段に劣ります。デジタル信号の送信媒体としては、かないそうにもありません。リモコンのデジタル信号化を先駆けながら、颯爽と現れた赤外線LEDに主役の座を奪われた、ということでしょう。

キャンディーズが解散直前の1977年12月に発売したシングル「わな」では、2年前には「LOVE 投げキッス」と微笑んでくれていたのに「あいつは しくじった~♪」と何度も繰り返されます。そこまでいうか、という感じがします。

女心の変遷は男にはかりし知れないものがあります。美しき女性のココロを遠隔操作しようなどということはゆめゆめ考えてはいけません、ねぇご同輩。おあとがよろしいようで・・・。

注:よく読んでいただければわかりますが、一応の調査に基づく記述と、想像・推測の部分があります。実はこうだった、ということをご存知の方、ぜひ情報をお寄せください。

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赤外線リモコン

日本での家庭用のリモコンとしては、昭和30年代にテレビ用に有線式のものが実用化された1970年代初めには、サンヨーのズバコンをはじめとする超音波を用いた無線式リモコンが実用化されたが身近な音(鍵のガシャという音)などに反応して誤作動を起こしやすかった。そのため、赤外線式リモコンが開発され1970年代末頃から普及し始め、現在ではこの方式が広く一般的に使われている赤外線リモコンのデータフォーマット(信号の様式)は、コードと呼ばれる一連の符号になっており、その多くでは制御される側の機器を区別するカスタムコードないしデバイスコード(固有の識別子)と、各々の動作を指定するためのデータコード(例えばテレビなら「電源を入り切りする」や「チャンネルを切り替える」など)の組み合わせから成る。そしてリモコン側のボタンを操作すると、カスタムコードとデータコードが一連の信号となって発信されるよう設計されている赤外線リモコンのデータフォーマットに統一的な規格は存在しないしたがってメーカーごとにデータフォーマットの様式は異なる。ただし、実際には信号を制御する集積回路メーカーやリモコンそのものをOEM生産するメーカーが限られており、一定のデータフォーマットの集約がみられる。なお、データコード部には制御される側の機器メーカー(ベンダ)独自の拡張仕様をもつものもある代表的なデータフォーマットには次のようなものがある。
NECフォーマット
ソニー以外のほとんどの映像音響機器に使用されているデータフォーマット[4]。送信データは16ビットのカスタムコードと、それら機器の動作を決める16ビットのデータコード(実際には8ビットのデータコードと、その反転コードの組み合わせ)から構成される。カスタムコードのベンダーへの割り当ては、ルネサスエレクトロニクスが管理している。

家製協フォーマット
生活家電機器に多く使用されているデータフォーマット[4]エアコン・照明器具・温水便座・一部メーカーの映像音響機器などである。送信データは制御側機器を区別する20ビットのカスタムコードと、任意長のデータコードから構成される。カスタムコードのベンダーへの割り当ては、財団法人家電製品協会が管理している

SONYフォーマット

もっぱらソニー製品に使用されるデータフォーマット[4]。7ビットのデータコードと、5から13ビットのデバイスコードにより構成されている。

赤外線リモコンはデータフォーマットごとに信号の構成こそ異なるが、いずれも38~40kHzの搬送波出力のONとOFFを変調し、これを1または0のビットとして伝送する仕組みを用いている物理的にはピーク値が950nm程度の赤外線を使用し、38 - 40kHz(約25μs)の明滅パルスを搬送波(キャリア)として、それをさらにミリ秒(1/1000秒)という周期で点滅し、この点滅する間隔や長さを変化させることで二進符号化を行っている点で共通している。いわゆる学習リモコンが、多種類のリモコンのシグナルに対応できるのは、このような基本部分でのフォーマットが共通しているからである。

日本国内では上記のフォーマットやベンダーコードが重複しないよう配慮され、信号内容の違いにより混信や誤動作を防いでいるが、日本製品以外の家電製品では、このフォーマットに配慮しないで製造されたものもある。このため、輸入された家電品が日本製の別の機器に付属するリモコンの信号で誤動作するものがあることが知られている


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第82回 三菱トリネスコープ初期の超貴重カラーテレビ6CT-333の巻 白黒原理でカラーテレビに!超お宝カラーテレビのご紹介 [1ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】









第135回 水テレビワイドフィルターの巻 [1ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】





第209回 フジテレビ池上彰×サザエさんスペシャルで使用。カラースコープを使ってみるの巻 [1ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】



第4回 珍品テレビ。幻のライトガンの巻 日本初のワイヤレスリモコン 光リモコンのご紹介 (ビクター 14T-390) [1ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】







第272回 音波リモコンサンヨーズバコン1号機の巻 サンヨー 20-CTR910R [1ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】




第6回 超デラックスな仕様の時計付きテレビの巻 ワイヤードリモコンもデラックス (シャープ TB-80) [1ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】





第0回 ザ・昭和レトロチャンネル始まるよ~ 【ザ・昭和レトロチャンネル】〔倉庫よりチャンネルスタートのご案内〕[0ch]




49回 日立製 カラーテレビの1号機の巻 ブラウン管はアメリカ製でした。映画『今夜、ロマンス劇場で』の撮影で使用 [1ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】





第76回 歴史的超貴重テレビTVK-Ⅱ型テレビジョンの巻 テレビジョン部品研究会商品化1号の受像機 [1ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】





第91回 TVK-5型テレビの謎の巻 テレビ部品研究会 TVK-5 どこで作られたテレビなのか もしかして超お宝!?歴史的受像機 [1ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】協力:真空管テレビ工房





第130回 まぼろし級の珍品テレビ 光リモコンテレビの巻 ビクター 14T-390 [1ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】





第339回 世界初!押しボタン式テレビ!プロシオンの巻 シャープ TB-50 [1ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】




第337回 初期のシャープの貴重なテレビの巻 早川電機 TV7-17T [1ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】





第306回 [修正版] 珍品!廻さないチャンネルのテレビの巻 ナショナル F14-A7 [1ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】





第331回 テレビ放送開始当時のチャンネル数の事実の巻 国産一号機などのチャンネル数 [1ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】




第306回 [修正版] 珍品!廻さないチャンネルのテレビの巻 ナショナル F14-A7 [1ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】





[再]第58回 デジタル数字の元祖 ニキシー管の巻 昔の機械を使ってニキシー管を見ていきます。[1ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】




電子の技術ーテレビジョン 東京シネマ1961年製作




新しい暮らしを創るー松下電器 東京シネマ製作




'77-80 家電CM集 vol.5 テレビ1




78-85 家電CM集vol.10 テレビ3




【キャンディーズ】【CM】 1976 三洋電機 サンヨーブラックシャーシ




懐かしCM集1950年代~60年代


 

映像へのこだわり50年 「テレビを変えた日立の技術」 - 日立


 

テレビの生みの親 高柳健次郎



 

俺はアイコノスコープだ I am a Iconoscope (english subtitles)




神戸工業 富士通テン その1





神戸工業 富士通テン その2






神戸工業 富士通テン その3


 



伸びゆき富士通テンの電子工業(神戸工業)





第155回 藤枝市郷土博物館昭和レトロ家電展ありがとうございましたの巻 藤枝市郷土博物館・文学





第121回 放送局や編集用の機材引取りの巻 中川電氣 映像・同期信号分配増幅器など [9ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】





第120回 歴史的資料放送局のテレシネなど機材引取りの巻 北辰電気 TV用間欠式16mm映写機 TC-600 [9ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】




第276回 鳥取の電気店より貴重なラジオ大量の巻 [1ch] 【ザ・昭和レトロチャンネル】







VHFの歌 マイクロ波無線通信





Tomorrow Television, 1945




カラーテレビ

カラーテレビ( Colour television)とは映像が付いているテレビジョン放送、またはこれに対応したテレビ受像機である。

日本で登場したばかりの頃は「総天然色テレビジョン」と呼ばれていた。

三原色の分解変換方法

モノクロ画像をカラーにするため三原色に分解変換する必要があるが、現在のNTSCPALSECAMといった方式が出来上がるまでに模索期があり、大別すると「フィールド順次方式(逐次方式)」と「同時方式(並列方式)」、並びに後者に準じた「点順次方式」となる

フィールド順次方式(逐次方式)

テレビ画面を1コマ(フィールド)ごとに赤・緑・青と切り替え、これを高速化することで残像現象で自然な色彩像になるというもの
CBS方式(Columbia Broadcasting System)
撮影時に赤・緑・青の色を放射状に配置したフィルター円盤を撮像管の前に置き、これをフィールドと同期するように回転させ、飛び越し走査時に6フィールドで完全なカラー画像ができるようにして、受像機側でも同じように同期したフィルター円盤を置いて回せば天然色に見えるという仕組み。名前の通り、CBSが開発したもの。
長所は機構が単純で、当初は同時方式に比べ価格が安かったこと。画像の重ね合わせが不要で既存の白黒テレビを改造してカラーにすることもできた(1966年当時で2、3万円ほどのコスト。)ので、後述の短所が問題でない工業用テレビには比較的盛んに利用された
短所は白黒テレビより毎秒フィールド数を増やさないとちらつきが生じ、アメリカでは毎秒144フィールド(通常の白黒テレビは60フィールド)が必要だったため、番組が白黒テレビと互換性がなく、映像周波数帯が多く必要だったので放送用には適さなかった。また、構造上フィルターをモーターで回すので騒音が発生し、受像機大型化につながったため昭和44年時点ですでにほとんど使用されなくなった

同時方式・点順次方式

赤・緑・青の信号を同時に送りだすというもの。NTSC方式はこれの代表例。白黒放送の映像も見ることができ、上位互換性を保っている。また白黒テレビの受像器でも色は付かないものの映像を見ることができ、下位互換性を保っていることが強み(両立性)となり、こちらが主流になった。
三撮像管式(RCA式)
撮影時にダイクロイックミラー(特定の色のみを反射・透過する鏡)で3つに分けた光をそれぞれフィルターで三原色の画像にし、これを1つの電波で送り出す。そのまま送りだすと3倍の周波数帯が必要になるが、現実にはごく小さい面積では人間が色を見分けられないので小面積は輝度信号だけ送るようにして白黒テレビと同じ周波数帯で送れる。その後受像機側で三本のビームを重ね合わせる。RCAの手になる。
長所は三色の映像信号を合成すれば輝度信号になるので白黒テレビでも受像できること
短所は3つのカメラで同時撮影するので、わずかな像のひずみも色ずれや色むらになるので調整が難しいこと、受像機も同じ問題があるので設置後移動すると問題が出る場合があった
点順次方式
カラー信号に精細度が不要であることを積極的に利用し、撮像管の前に赤・緑・青の細かい縦縞のフィルターを置き、出力信号を一連の三原色繰り返し信号(緑→青→赤…など)にして、各原色ごとに分離後低域フィルター(比較的低い周波数しか通らない回路)に入れれば平均化して連続的な原色信号が得られる。
長所は撮像管の数を減らせる事、色ずれが起きない事
短所は回路が複雑になる事
分離輝度方式
点順次方式では三原色信号を重ね合わせても先鋭な輝度信号を得られないので、もう1つ輝度信号用の撮像管(白黒用と全く同じ)を用意したものでハーフミラーで輝度とカラーの信号に分離後、カラー側のみ点順次方式の手順を踏む(二管式)なお三撮像管式にも分離輝度方式は応用でき、この場合撮像管が4本必要になる(四管式)
長短は点順次方式に準じるが、輝度信号がより先鋭になる長所と撮像管がもう1本増えて複雑化する短所がある

歴史


カラーで画像を送る発想は1928年、イギリスのJ・L・ベアードが、三重スパイラルニポー円盤を使用して行った試みが最初で、翌年アメリカのベル研究所で飛点走査方式による実験が行われた

ブラウン管を使った実用的カラーテレビ方式の実験は、1940年のアメリカ・コロンビア放送による初期CBS方式の実験が最初だが、戦争のため中断され、戦後これが再開されて、1950年に一度CBS方式がアメリカのカラーテレビ放送の標準方式としてFCC(連邦通信委員会)に採用されたが、RCAを中心とするアメリカ電子工業会では従来の白黒テレビではCBS方式が全く受像できないことを理由に反対し、全米テレビジョン方式委員会(NTSC:National Television System Committee)を組織して全電子方式を開発し1953年に公表、同年FCCはNTSC方式を標準方式として採用し、日本でも1960年にこの方式の採用が決定された。
(これ以外の放送方式には、ヨーロッパで使われるPAL方式やフランスロシアで使われるSECAM方式がある。)

世界初のカラーの本放送は1954年1月23日、米NBCのニューヨーク局であるWNBC局が最初である。日本では1960年9月10日に本放送開始

ただし、この後すぐにカラーテレビが広まったわけではなく、アメリカでも1965年4月時点で白黒テレビ5260万台に対し、カラー330万台(推定)と白黒テレビの1割ほどでこの年の後半になってから普及が活発化して三大ネットワークの1つであったNBCがゴールデンアワーの95%をカラー放送し、残りのCBS・ABCもこれに刺激されて50%をカラー化した

日本ではさらに遅く、1965年時点でも受像機の全国台数は5万台以下で、カラー番組の週間合計時間も東京の4社(NHK・日本テレビ・TBSテレビ・フジテレビ)が30時間程度という状況で、かつ民放のカラー番組もカラーテレビの普及促進上、家電メーカー一社提供がほとんどという有様だったが、1964年東京オリンピックを契機に電電公社の国内中継路線のカラー規格化がなされ、撮影方法・受像機共に画質の改善も行われたりした結果、受像機の生産台数もこの時期に急激に伸び始めた

1968年4月からNHKがラジオ契約を廃止してカラー契約を創設することにより、カラー放送を大幅に増やしたことなどから普及が促進され1968年頃から1970年代にかけて「ユニカラー」(東京芝浦電気(現・東芝))、「パナカラー」(松下電器産業(現・パナソニック))、「キドカラー」(日立製作所)、「トリニトロンカラー」(ソニー)、「サンカラー」(三洋電機)、「純白カラー」(日本ビクター(現・JVCケンウッド))、「ロングランカラー」(シャープ)、「ダイヤトロン」(三菱電機)など各社から高性能カラーテレビが出揃った。それと同時に大量生産で値段が下がったことによって爆発的に普及し、1973年にはカラーテレビの普及率が白黒テレビを上回った

1969年には日本が世界で生産第1位国になるものの、1970年に日本国外において国内よりも廉価で販売していたため、アメリカ政府からダンピング認定を受け、同年日本国内で消費者団体によりカラーテレビ買い控え運動を推奨され、各メーカーは国内価格値下げを余儀なくされた

その後は日本国外への工場移転が進み、日本国内生産は薄型テレビへとシフトしていった。

カラーテレビの普及促進などの目的から、カラーテレビ時代を意識した番組やプロスポーツチーム(読売ジャイアンツオークランド・アスレチックスなど)も存在した

カラーテレビ普及初期の番組表には、カラー放送の番組には「カラー」の表記あるいはそれを表す記号がされ、テレビ放送でも番組開始の冒頭でカラー放送を示すマーク「【カラー】等、局によって異なる」を数秒間表示していた。逆にカラー放送が急速に普及し、相対的に白黒番組の減少が著しくなった1971年頃より、白黒放送の番組に「モノクロ」と表記あるいはそれを表す記号がされるケースも見られた。

カラー放送であることを示す「INCOLOR」アイキャッチが海外のアニメでは冒頭に入っている場合があるが、日本での放映時では省略されることが多い

日本で、再放送等を除いて完全にカラー放送となったのは1977年10月1日であった(NHK教育の完全カラー化によるもの)。新聞表記の「モノクロ」表記およびそれを表す記号もこの時期までに消滅した。

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      テレビの世帯普及率の推移

カラー契約

日本放送協会(NHK)はかつて日本放送協会放送受信規約に於いて、カラー契約、普通契約、衛星カラー契約及び衛星普通契約の4つを設け、カラーとモノクロを区別していた。

2007年10月1日に施行した現行の日本放送協会放送受信規約では、カラー契約及び普通契約は地上契約に、衛星カラー契約及び衛星普通契約は衛星契約にそれぞれ統合されている。



テレビの歴史

1940年代以前
  • 1926年 - 12月25日、浜松高等工業学校高柳健次郎が浜松高工式電子式テレビ受像機(ブラウン管テレビ)を開発発表した。撮像に機械式のニプコー円板を、受像に電子式のブラウン管を用いた。「イ」の字を表示させたことで知られる。この功績により高柳は「日本のテレビの父」と呼ばれた
  • 1930年3月17日 - 1925年から早稲田大学の山本忠興川原田政太郎はテレビジョンの研究に着手し、30年に早大式テレビ(機械式テレビ)を完成し公開した。同30年に山本はこの発明により十大発明家の一人として宮中賜餐の栄に浴した
  • 1931年7月 - 川原田らは早稲田大学戸塚球場にて行われた同学野球部の試合を、理工学部実験室まで送信することに成功した。これが世界初の屋外実況中継となる
  • 1931年 - 日本放送協会(省略NHK)放送技術研究所でテレビの研究開始。
  • 1932年 - 早大式は有線から無線電波式に改良された
  • 1933年 - 早大式に日本放送協会から多額の研究資金が提供され、同年秋に日本最初のテレビジョン研究室が同大学構内に建設された
  • 1934年 - この年の1月12日付の新聞で山本は「将来的に映画に匹敵する画質」「生中継ではなく、撮影を行い、適宜に編集を行った上で放送するようになる」と発言している
  • 1935年3月 - 5月まで横浜で開催された関東大震災復興記念横浜大博覧会にて、逓信省電気試験所の曽根有(山本忠興門下)らが開発したテレビジョン電話試作機が展示された。テレビ電話の先駆けとなるこの機械は、双方の視線をちゃんと合わせる改良が施された後、1937年以降は大阪市立電気科学館に設置された
  • 1937年 - この頃から高柳がNHKに出向し、1940年に予定されていた東京オリンピックを見据えてのブラウン管式テレビジョン研究に参加する
  • 1939年 - 3月に日本でNHK放送技術研究所によるテレビ実験放送開始。5月13日には公開実験
  • 1940年 - 4月13日、日本初のテレビドラマ夕餉前」の実験放送。東京オリンピックは日中戦争激化の影響などを受けて中止となり、テレビジョン研究は中止され、技術者は無線通信やレーダーの開発を求められた
  • 1945年 - 敗戦直後、日本のテレビ研究がGHQにより禁止される
  • 1946年 - 高柳は弟子らと共に日本ビクターに入社しテレビジョンの研究を続けた。7月、テレビ研究禁止令が解除され、11月よりNHKが研究を再開した
  • 高柳が中心となりNHK、シャープ、東芝と共同でテレビジョン放送技術とテレビジョン受像機を開発した


1950年代
  • 1950年 - 5月、電波法放送法電波監理委員会設置法の「電波3法」施行。
  • 1951年 - GHQの要請により電波監理委員会メンバーが視察のため渡米その後その後、アメリカから3人のコンサルタントが来日。軍事戦略のひとつとして占領国でのテレビ放送利用を重要視していたアメリカの圧力によりアメリカ式(NTSC方式)の技術標準が日本で採用される
  • 1952年 - 松下電器産業(パナソニックの前身)が日本初の民生用テレビを発売
  • 1953年
    • 1月 - シャープが国産第1号のテレビ「TV3-14T」を発売。価格は175,000円。
    • 2月1日 - NHK東京テレビジョン(コールサインJOAK-TV)のテレビ放送開始(日本初の地上波テレビ放送の開始)。
    • 8月28日 - 日本テレビ(NTV、コールサインJOAX-TV)、テレビ放送開始(民間放送初のテレビ放送の開始)。またこの日、日本初のテレビCMを放送する際、画面が裏返しに映る放送事故が発生した
    当時の主な番組は大相撲プロレスプロ野球などのスポーツ中継や、記録映画など
  • 1954年 - 4月、電電公社の整備による放送用無線中継回線が開通。
  • 1955年 - 4月1日、ラジオ東京テレビ(コールサインJOKR-TV)がテレビ放送開始。ラジオ局として発足した放送局による初のテレビ放送開始。TBSテレビの前身。
    • 以降の民間放送開局年月日は民間放送#沿革参照。
    • 当時、白米10キログラムが約680円、銭湯の入浴料が約15円であったのに対し、テレビ受像機の価格は約20万〜30万円であり、一般人にとっては非常に高価であったため、多くの大衆は繁華街や主要駅などに設置された街頭テレビ、土地の名士などの一部の富裕世帯宅、客寄せにテレビを設置した飲食店などで番組を見ていた。
    • 7月 - NHK放送技術研究所、イメージオルシコンの国産化に成功
  • 1956年 - 12月、NHKのカラーテレビ実験放送開始(UHF帯を使用)
  • 1957年 - 12月28日、NHK東京・日本テレビがカラー試験放送開始(VHF帯を使用)
  • 1958年
    • 1月23日 - 日本民間放送連盟(民放連)が「放送基準」を制定
    • 9月1日 - 映画会社主要6社が、この日よりテレビ局への作品販売や所属俳優の派遣を完全に停止(六社協定[14]。この前後、各局では代替としてアメリカ製のテレビ映画を大量に輸入し、主力番組として放送した。この状況は1961年10月クールの週53作を最盛期に、1970年頃まで続き、高い人気を得た作品も少なくない。
    • 12月23日 - 東京タワーからテレビ電波の送信開始
    • この年、大阪テレビ放送が、世界ではじめて飛行中のヘリコプターからの生放送に成功
  • 1959年
    • 1月10日 - NHK教育テレビジョン開局
      • この時期、教育放送局、準教育放送局として開設される民間放送局が相次いだが、いずれものちに総合放送局に改組している。
    • 前年1958年からこの年にかけて多くのテレビ局が開設され、4月10日の皇太子明仁親王御成婚の中継特別番組をきっかけにテレビ受像機が一般家庭に普及し始める。
    • 8月1日 - 上記の特別番組制作をきっかけにKRTなど16局がJapan News Network(JNN)を形成。日本初のニュースネットワーク(これ以外のネットワーク成立史についてはニュース系列#歴史参照)。
1960年代

1970年代から1990年代

2000年代以降

テレビの技術

媒体


伝送方式
アナログ放送:カラー方式やパラメータに違いはあるが、衛星放送以外は基本的にどれも、アナログコンポジット映像信号をアナログ変調(振幅変調#残留側波帯、VSB)で、アナログ音声信号をアナログの周波数変調(FMラジオ放送と基本的に同様の方式)で伝送する放送方式(衛星放送は映像はFM、音声はデジタル)。
世界の放送方式
NTSC
PAL
SECAM
MUSE:アナログハイビジョンのディジタル圧縮アナログ伝送方式。
デジタル放送:すべての映像・音声・付加情報をデジタル変調方式(OFDM、QPSK、QAMなど)で伝送する放送方式。日本ではISDB(統合デジタル放送)とも呼ばれる

放送機器

テレビ受信機

TVチューナーのようなコンポーネント型の機器もあるが、基本的に複合型の機器が多い。

送信所設備

演奏所設備

演奏所設備をスタジオ機器と言うこともある。この場合撮影スタジオに置かれる機器だけを指すのではなく局舎内の放送関連機器全般を指す。主な物を以下に示す。







 テレビ技術史と関連資料


世界で最初にブラウン管による受像を成功させたのは日本人技術者の高柳健次郎であるという。高柳によれば、それは大正天皇崩御の日であったという。世界初ということについては諸説あって、必ずしも世界的に一致して認められているわけではないが、日本が初期のテレビ開発において世界の最先端にあったことは事実である。幻に終わった1940年のオリンピック東京大会に向けてかなりのものが開発されていた。
 その後戦争による空白期があったものの、1953年にテレビ放送が開始されるや、多くの国内メーカーがテレビ開発にしのぎを削り、世界に覇を唱えるに到った。このような中から名機トリニトロン等、多くの技術開発がなされた。

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第1章 マイクロ波方式の夜明け前



1.1 無線による多重電話伝送実験

 超短波電波による無線多重電話方式が米澤滋技師(後の電電公社総裁)により始めて提唱されたのは昭和10年半ばのことであった。昭和11年初頭の津軽海峡における予備実験を経て、昭和15年2月、石崎(青森側)と当別(北海道側)間61kmを結ぶ電話6チャネルの超短波多重電話回線(75MHz)が開通した。
 本方式の研究開発は昭和11年以降、米澤技師と日電田中技師との協力により進められた。昭和13年からは新進の黒川廣二技師(後の電電公社技師長)も加わり、幾多の技術的困難を乗り越え完成を見たものであるが、その間の経緯は黒川廣二博士論文集(電気通信協会)に詳しい。

超短波伝送実験記念碑
 昭和46年2月、尊敬する黒川廣二博士が現役の技師長でお亡くなりになるという悲劇が起きた。当時、私は東北通信局の施設部長であったが、副局長の千野孝さんから超短波伝送実験記念碑の建立を検討するよう命じられた。
 石崎無線中継所の跡に行ってみたが、津軽半島先端の竜飛岬に近く、訪れる人はほとんどいない僻地である。建築部長の栃本邦夫氏とも相談し、青森電話局の敷地内に建てる案でお認め頂いた。昭和46年11月6日に行われた除幕式には米澤総裁にもご臨席を得た。
 電電公社からNTTに変わって後、記念碑は電話局の敷地内から撤去されたが、碑文のパネルは武蔵野の電気通信資料館内に展示されている。
― 桑原 記 ―

第1.1図 青森電話局に設置された超短波伝送実験記念碑


黒川氏を偲ぶ
渋谷茂一氏の寄稿(第3部に全文掲載)より抜粋

在りし日の黒川廣二博士
在りし日の黒川廣二博士
 黒川廣二氏について一般に伝えられているのは「東大卒の俊才で米沢滋総裁の第一の後継者であった」ということであろう。次いで、生前を知る人たちは、それに「容姿端正、誠実温厚な貴公子」を加えるはずである。
 しかし、同氏が「最も無線を愛し、無線の未来を予見し、無線のために戦った情熱の人、無欲の人、下町の人情に厚い江戸っ子」だったと語る人は、今やごく少数になった。
 戦前戦後の逓信省~電々公社を通じて、私的に後輩をたしなめることはあっても、職場で黒川氏の叱声や不機嫌な顔に接したことはないと古老がいうし、私の実感でもある。
 黒川氏の対人姿勢は、地位(給仕、事務員、公務員、技手、技師)に関係なく常に平等で、だれの意見にも耳を傾け、権威で押さえつける事はなかった。
 逓信省出身者で、戦後復員したが戦争の惨禍を受け怪我や病気で復職できない者も少なくなかった。彼らに対する公的制度は冷淡で、一時金による雇用切捨てが横行した。
 黒川氏は、無線の古参者を通じて無線現場の末端まで雇用切捨てをせず、支援に尽くすうよう内密に指示した。本省の無線課にも該当者が数人いたが、給与賞与の差別なく自由出欠勤を許したので治療に専念でき、やがて本務に復したもの、半ば在宅勤務のまま15年生き延びて余生を全うした者もいた。それを知る人々は往時の恩情の深さを思い起こして、黒川氏の早逝に涙を絞ったのである。



1.2 VHF方式

(1)60MHzから200MHzへ
 電電公社が発足した昭和27年は、全国に施設された60MHz、AM方式のVHF回線がその前年実用化された200MHz帯のFM方式に切替えられ始めた時期である。当時作成されていたVHF回線は5,766システムkmで、そのうち60MHzの回線が4,405kmを占めていた。60MHz方式は、昭和19年以降、逐年拡充されてきたが、その後のマイクロ波方式からみると、回線の品質、安定度に問題が多く、その保守に払われた苦労はなみたいていなものでなかった。
 AM方式は、電波伝搬路の状態、送信機出力の変動、空中線系の特性の変動がそのまま通話路のレベル変動となって現われるほか、混信や外部雑音に弱い。有線による回線と同等の品質を保持するためには、保守に細心の注意が必要であった。
 機器の整備、調整の作業が多く、わずか1システムか2システム(通話路数にして6~12チャネル)のVHF回線を保守するのにも、端局では20~30名、中間中継所でも20名内外の保守員が配置され、日夜作業に追われる実情であった。当時の保守は、常時保守員が受信機のメータを監視し、受信機の検波電流が変われば、手動で出力が一定になるようコントロールする方法がとられた。
 端局では、頻繁に各チャンネルをモニターして、もし雑音や混信があれば各中継所と連絡して不良区間を切り分け、不良機を予備機と切替えて調整を行なうのであるが、これらの操作は通話中の回線を瞬断させて行なうほかなかった。
 新潟・秋田間に初めて施設された当時の新技術、FM方式は、AM方式で体験した保守の難点を解消することを目標に設計が行なわれたので、保守は格段に楽となり、安定した良質の回線が維持できるようになった。
 また、FM方式の導入は200MHz帯の周波数で行なわれたので、周波数帯域が広くとれ、収容チャンネル数は一挙に倍の12チャネルになった。
第1.2図 江古田超短波中継所
第1.2図 江古田超短波中継所

第1.3図 公社発足当時のVHF無線回線
第1.3図 公社発足当時のVHF無線回線

 一方、局当りの所要要員数を減少することができたので、保守能率は倍以上に向上された。この成果にもとづいて、60MHz回線の取替えが計画され、順次200MHz回線への切替えが行なわれた。200MHz回線は昭和30年にその最大に達している。
第1.1表 超短波通話路延距離
周波数帯システム延距離(km)電話回線延距離(km)
60MHz1,4718,969
200MHz7,82480,064

(2)VHF施設の保守
 200MHz方式の導入以来、VHF回線は品質、安定度とも向上し、電電公社発足当時、1日1回線当りの障害件数が0.12(60MHz回線)程度であったものが、200MHz方式の最盛期の30~32年度頃には1桁下った0.018件にまで低下している。
 このように安定化はしたけれども、VHFの中継所はその大半が山上僻地に置局されているため、保守要員は日々麓から山道を徒歩で登はんするか、または登山に数時間を要するような局では、交替で山の局に宿泊して保守に当らなければならなかった。当時は、山上まで車道を作って、自動車で通勤するようなことはとうてい望めず、毎日けわしい山道を登る苦労がつきまとった。
 通勤が困難であっただけでなく、社宅も僻地村落に置かざるを得なかったので、子弟の教育、傷病のおりの医療機関の不備など従事員の生活条件は恵まれず、保全部門は中継所の無駐在化を強く要望していた。
 この要求を実現するため、VHF中継所の無人化が研究され、山麓の監視所からの遠隔監視方式(昭和29年に開通した帯広―釧路回線の上厚内局にて試行)が実用化された。
 この方式は、山上局の機器が故障すると、監視所に警報が送られ、停電時には監視所に設置した予備エンジンにより電力ケーブルを用いて山上に給電する保守方法であり、監視所には3名程度の保守員が配置された。
 この回線は、今のマイクロ施設と同じように予備システムをもち、機器故障が修復するまでの間、収容回線は両端局において予備システムに切替えることができた。
 このような山上局の無駐在化のための遠隔監視制御方式は、200MHzのFM方式の実用化と併行して公社発足の頃から研究されていたが、マイクロ方式の導入後VHFルートは逐次マイクロ回線に吸収される方針が定められたので、VHF局の無駐在化工事は見合せられることとなった。
第1.2表 200MHz回線障害状況
周波数帯28年度(km)29年度30年度
1日1回線当り障害件数0.0490.0270.022
同障害時分0.48分0,43分0.30分
1件当り障害時分18分17分17分


1.3 諸外国におけるマイクロ波方式の実用化

 マイクロ波多重通信方式の最初は、電波兵器用真空管技術がそのまま役立つものとして、英国で波長6~7cmの8回線の時分割パルス変調方式の多重電話ができあがった。この技術が米国に渡って改良され、軍用あるいは公衆通信用として昭和21年にその内容が公表された。
 ベル研究所では4GHz帯96回線の時分割方式多重電話の実験を行ない、さらに同じ周波数帯で周波数変調方式により昭和22年ニューヨーク─ボストン間7中継300kmの試験回線(TD-X方式)が作られた。種々の現場試験の結果、昭和23年5月に電話480回線およびテレビジョン中継業務を開始した。
 AT&Tではこれをベースに開発したTD-2方式で昭和25年にニューヨーク─シカゴ間、昭和26年8月にはニューヨーク─サンフランシスコ間4800kmの米大陸横断マイクロ波中継回線を107局の中継で完成し、たまたま当時開催されていた対日講和会議の実況がこれによって全米国にテレビジョン中継された。
 このTD-2方式は、マイクロ波増巾管として3極板極管(モルトン管)を使用し、空中線はレンズアンテナで、また電源としては直流方式を採用しており、無線1ルート当り電話600回線または走査線525本のテレビジョン信号を伝送しうるものであった。
 英国においては昭和27年3月に4GHz帯を用いて、マンチェスタ-カークオショット間420kmを7中継で結んでBBC放送のテレビジョン中継を行ない、さらに昭和29年には北部スコットランドに同様な4回線を建設した。英国郵政省(BPO)のマイクロ波回線はSTC社の製品で、空中線はパラボラ形空中線を使用し、マイクロ波増巾管には進行波管を、局部発振にはクライストロンを使用した。
 フランスでは、昭和26年2月パリ─リール間203kmに1GHz帯2中継でテレビジョン中継回線を作り、さらにその後、同区間に別ルートで4GHz帯、4中継でテレビジョン回線ならびに市外電話回線を作成した。

レンズアンテナ
レンズアンテナ
 屈折率が1より大きい誘電体内では、電波の伝搬速度は真空(あるいは空気)中より遅くなる。図に見るように屈折率が1より大きい誘電体をレンズ状に作ると、中央部を通る電波は周辺部を通る電波より遅くなり波面が平面となる。これがレンズアンテナである。
― 桑原 記 ―



1.4 わが国におけるマイクロ波方式の開発

 日本においても日本電信電話公社(以下、電電公社)がマイクロ波方式の実用化を10大目標のひとつにかかげ、市外線の建設保守の劃期的な経済性と尨大なトラフィック消化能力を狙って実現に邁進した。
 電電公社以外でも国鉄、電力会社、放送会社、その他銀行商社においてもマイクロ波方式の利用に向けて検討が進められた。特に民間の関心は注目に価する。それは長距離電信電話回線の創設費がそれ程の大資本でなく、民間資本の及び得る範囲内で出来ることを意味するものであった。
 また、本方式の実現を促進したものは、日本におけるテレビジョン放送実施の気運であった。テレビ放送が開始された暁には、主要都市を連結するテレビ中継リンクが必要となってくると考えられたからである。
 マイクロ波方式では各種の変調方式が可能であるが、当時の日本においては次の2つの方式が開発された。

(1)PTM(パルス時分割変調)方式
 この方式はPPM(パルス位置変調)方式とも呼ばれる。
 電気通信研究所では昭和24年、箱根の双子山と調布市神代の研究所間で2.6GHz、10チャネルPTM方式の試験を行ない、その結果に基づいて昭和26年4GHz23チャネルPTM方式を試作し、東京中央電話局─横須賀(大楠山)間の50km区間において7月から12月に亘って実験を行った。本方式は次のFM広帯域中継方式への一段階としての役割を果たした。
 PTM方式は、その後日本国有鉄道において青函間で実用化された。また、電力会社も発電所と本社支社を結ぶ専用線としてPTM方式を採用した。

(2)FM(周波数変調)方式
 PTM方式により伝送しうる情報容量には限界があり、テレビジョンプログラムあるいは超多重電話の伝送にはFM方式が採用された。
 当時、同方式の特長として挙げられたのは、
長距離幹線の迅速な拡充に適する
創設費が低廉である
テレビあるいは電話の伝送が可能である
FDM(周波数分割)方式であり、ケーブル搬送方式に分岐接続が容易である
ヘテロダイン中継であるから、長距離回線においてもレベル変動や周波数特性の変動がない
高度の指向性を有する空中線を使用し、2つの周波数で上下1チャンネルの無線回線を作成しうる
 等である。また、本方式を実現する課題として挙げられたのは、
無線技術の粋を結集した諸装置の設計
回線設計を考慮した中継点を選定するための電波伝搬の測定と理論的考察
クライストロンや進行波管の製作技術と寿命、周波数安定度
搬送端局装置の実用化
 等である。

(本節までの参考文献 雑誌施設 昭和31年9月「保全特集」および同 昭和34年10月「マイクロ波方式の発展を顧みて」鈴木清高 臨時極超短波部長)


1.5 NHKの東名阪マイクロ波方式

(1) NHKのテレビ中継
 戦後、NHK技術研究所でもマイクロ波によるテレビ中継の研究が進められた。昭和25年11月には、周波数4GHz、出力0.5Wで東京-名古屋-大阪間全長464kmの中継ルートが第1.2図のように決定された。
 同時に、昭和27年7月から進行波管を使用した長距離用のテレビ中継装置の研究を開始した。使用機器の国産化を計り、それぞれ優秀な結果を得て、昭和27年10月、各中継所に設置された。越えて昭和28年1月わが国初の長距離中継回線として東京―名古屋―大阪を結ぶに到った。
 昭和28年1月中継回線の開通以来4月までは経済的な見地から東京―双子間は東京テレビ放送電波を利用し双子中継所からマイクロ波で中継していた。しかしVHFの東京テレビ放送電波を利用することはマイクロ波に比して解像度が甚だしく劣化するので5月以降は東京―双子山間もマイクロ波中継に変更し使用した。
 さらに、同年8月以降は双子中継所に全進行波管式テレビジョン中継機を使用し、各中継所導波管切換器により上下両回線用になった。

(2) NHK東名阪テレビ中継回線用中継機
 中継機の設計上問題となったのはSHF用増幅管である。当時モルトン管や2空洞クライストロンは製作が困難であり、且つ帯域特性も狭く、将来期待し得ないと見込んで、日本で最初に進行波管増幅器を使用することにした。尚設計当時進行波管を中継回線に実用に供した例はなくこの点大きな飛躍であった。
 他方アンテナ利得の増大については、経済性並びに鉄塔への取り付けを考慮し、口径4mのパラボラを設計した。この2つの考え方は、その後に海外事情が明らかになるにおよび、イギリスSTC中継機と同一傾向にあることが明らかにされた。
 中継方式についてはFM中継によるヘテロダイン中継方式を採用し、送受周波数を4000MHzと4045MHz、4045MHzと4000MHzを交互に用いた。中継機の受、送両周波数の偏位方式については種々の方式について検討されたが、結論として二重スーパーヘテロダイン方式中継機と全進行波管中継を考慮した。

第1.4図 NHK東京~名古屋~大阪テレビ中継回線
第1.4図 NHK東京~名古屋~大阪テレビ中継回線

TV中継用東名阪マイクロ回線の回想(抜粋)
― 元NHK放送技術研究所テレビ研究部 吉田 順作氏より ―

 昭和23年12月、NHKでもマイクロ波の研究を始めようという当時の溝上技研所長の発想で、極超短波研究室が新職制として発足しました。室長が原源之介・主任が鈴木桂二で、受信研究の2部から私も転属命令を受けて参加いたしました。これが私とマイクロ波との出会いでありました。戦後の混乱も収まりかけた頃で、禁止されていたTVの研究が再開されて半年ほど後と覚えています。(中略)
 長距離中継の実験としてNTT双子中継所・NHK技研間の70km送受信試験を行ったのが昭和25年秋でした。双子側アンテナには3m角の電波レンズを使い、これを試作してくれた機構係の方々にも一緒に出張してもらい実験に協力して頂いたものでした。
 TV放送の免許が下りるのも近いということで、TV研究部ができたのが昭和26年でした。そして私はTV中継研究室に移りました。TV研究部長野村達治、中継担当副部長鈴木桂二、中継研究室主任駒井又二で、私ほか若手4名が研究室員でした。TV放送開始に備えて東名阪マイクロ中継回線(自営)の企画を考え出したのがこのメンバーでした。東京-双子―牧ノ原-大山-名古屋-霊山-生駒という中継局置局構想ができたのはこの年度中で、確認のための伝播試験を始めていたと覚えています。
(寄稿文全文は第3部エピソード編に収録)


(3) 送信端局
 送信端局の構成は第1.3図に示す如くである。クライストロンのリペラー電圧に映像信号を重畳して直接変調し、その出力を進行波管2段増幅して出力3Wを得るようにした。尚この場合、映像信号による周波数変調は同期信号の頭の周波数を一定におさめるように工夫し、マイクロ波出力の1部をAFC用副導波管に取り出して定在波型周波数弁別器に加え、その途中にTR管を利用したスイッチ回路を挿入し、これに外部より同期パルスの瞬間だけ弁別器の方にマイクロ波信号を通すようにした。

第1.5図 送信端局の構成
第1.5図 送信端局の構成

NHK東名阪マイクロ回線の思い出(抜粋)
― 元NHK施設局送信設備部テレビ係 金田 實氏より ―

 GHQにより禁止されていたテレビ研究が解禁になるや、NHKはテレビの実用化に向けて急速に動き出した。テレビ技術要員養成のため急遽全国から砧のNHK放送技術研究所に集められ、浜松放送局に勤務していた私にもお呼びがかかった。(中略)
 最初の仕事は東芝小向工場で製作されていた、通り中継装置の調整。当時、東芝はマツダ研究所を中心に澤崎さん、蠣崎さんなどがNHKとプロジェクトを組み、名阪マイクロ回線の建設に全面的に協力しており、送信装置には3W進行波管を用いるなど大きな成果を上げていた。
 私は葉山にあったNHKの寮から毎日東芝の小向工場に通勤した。調整も終わりホッとしていたとき突如、青天の霹靂とも言うべき大難題が起こった。マイクロ回線のルート確認のための伝搬試験を実施していたグループから「大山-霊山間のルートは、途中の山が障害となり通らない」との報告があがったのだ。対策として名古屋を、通り中継所として、大山-名古屋-霊山という迂回路を造ることになったが、このため通り中継機用の受信装置が1式不足し、何とこれを約1ヶ月で製作せよとの厳命が若輩の私に降った。
(寄稿文全文は第3部エピソード編に収録)


(4) 通り中継機
 通り中継機は二重スーパーヘテロダインである。この方法は第1,第3混合用の局部発信器をクライストロン1本で共用でき、第2局部発信器周波数を第1,第2中間周波数の差周波数とし、且つ水晶制御にすれば、第1局部発信器の周波数変動が送信周波数の変動にならない利点がある。
 このため周波数の選定は次のようにした。

 入力周波数     4000MHz
 第1、3局発周波数 3930MHz
 第1中間周波数     70MHz
 第2局発周波数     45MHz
 第2中間周波数    115MHz
 出力周波数     4045MHz

 又SHF増幅器としては進行波管3段増幅器を使用し、出力3Wを得た。尚、通り中継機の理想型式は全進行波管式テレビジョン中継機と考えて、別に東芝との間に共同研究をすすめていた中継機が昭和28年6月に完成していたので、8月の上下回線に変更する際、双子中継所に設置し実用化を計った。
 全進行波管式中継機は進行波管7本を使用し、初段に低雑音型を、終段に出力管を使用している。尚、途中の周波数変換器には鉱石混合器を使用し、AGC方式には機械的に抵抗減衰器を動かす方法を使用した。総合ノイズフィギアは13dB、周波数特性は20MHzの帯域にわたって利得変化2dB以内、送信出力3Wである。

第1.6図 マイクロテレビ中継装置-1 第1.6図 マイクロテレビ中継装置-2
第1.6図 マイクロテレビ中継装置

霊山中継所の思い出(抜粋)
― 元 NHK施設局送信設備部テレビ係 宮城 崇氏より ―

 関西本線の新堂駅で下車すると、真東の方角に霊山が大きく見える。鈴鹿山脈の一角、標高766mの山頂に、東名阪回線の霊山中継所(名古屋と生駒を結ぶ中継所)が昭和27年の秋建設されることになり、要員の1人に加えて頂きました。人里離れた生活環境の中で、諸先輩や関係者の皆さんに支えていただき、与えられた役割に専念できた青春の一時でした。
(中略)
 中継所は約20坪の木造の平屋が機械室と宿直室兼休憩室、別棟が発電機小屋である。機械室にはテレビ中継装置がラック2つとVHFの局間連絡無線機がラック1つ、発電機小屋には小型のディーゼルエンジン発電機(単気筒の手動起動式)現用・予備各1台、屋外には、名古屋向けと生駒向けそれぞれ直径4mのパラボラアンテナが各1基とドラム缶を利用したディーゼルエンジンの冷却水タンクが据え付けられた。
(中略)
 中継所に配属されて、ご指導頂きながら受信装置の調整を始めました。マジックT、クライストロン局部発振器、中間周波増幅器を1段ずつ調整する。やっとできたと思うと利得不足でやり直し、各段間の回り込みを減らす工夫をして、又やり直す。真空管を一斉に交換して帯域特性の変化を確認したり、最初の1台の受信装置を調整するのに1ヵ月以上もかかったことが思い出されます。
(寄稿文全文は第3部エピソード編に収録)


第1.7図 双子中継所
第1.7図 双子中継所

(5) 送受信用パラボラアンテナ
 アンテナはパラボラアンテナであり、励振用ホーン用の導波管開口はポリフォームを糊付けして防水装置にしてある。利得は約40dB以上で、半値幅は水平1.34度、垂直1.44度である。

(6) テレビジョン中継の問題意識
 昭和28年の時点で、わが国のテレビジョン中継技術は大体諸外国の水準にまで立ち到ったので、その後は更に全進行波管中継機の簡易化、中継機操作の無人化に一層の努力を払う必要性が認識された。
 またFM中継の場合には多段に中継するほど雑音電力が累加され、最終端局のS/Nが距離と共に著しく低下するから、これを避けるためにPCM,デルタ変調によるテレビジョン中継方式が望ましく、更にテレビジョン中継方式に「情報理論」を応用し、撮像管に可変速度走査を使用して帯域幅を低減する方式などがその後の研究課題とされた。
 テレビジョンの中継はテレビジョンプログラムを豊富に提供出来る点や、プログラムの経済面からもテレビジョン放送実施上主要な問題である。わが国技術の粋により諸問題が解決され、全国主要都市がテレビの恩恵に浴し、国際間中継の開始されることを期待している。

全進行波管式テレビジョン中継装置(抜粋)
― 元NHK放送技術研究所テレビ研究部 桑田 徳治氏より ―

 NHK東名阪テレビジョン中継回線の中継装置として、反射型クライストロンをマイクロ波の発振、変調に、電力増幅器に進行波管を使用したことは、当時としては、諸外国の例をみても最も進んだものであった。
 通り中継装置としては、中間周波増幅器を使用した二重スーパーヘテロダイン方式を採用したが、進行波管の多段増幅器の安定性が確かめられ、広帯域特性と相まって進行波管の有用性が注目された。特に低雑音進行波管が開発されて、通り中継装置としては、ヘテロダイン方式でなく、全進行波管式が最も適当と考えられるに到った。
 昭和27年6月以降、NHK技術研究所と東芝マツダ研究所との間で共同研究を開始し、翌28年4月に試作装置が完成した。室内試験を経て、NHK東名阪テレビジョン中継回線の上下運用開始にあわせて同年8月箱根双子中継所に装置し、東名阪テレビジョン中継が日本電信電話公杜回線に移行された昭和29年5月10日まで運用され予期通りの成果を得た。
(中略)
 成果の一つとして進行波管増幅器の広帯域特性を利用し、一度入力信号を増幅した後、周波数帯を移行し同一進行波増幅器に加えてレフレックス形の増幅を行う方法で、同じ増幅利得をとるのに直接増幅器に比較して進行波管の数を数分の1にすることができる。この方法により、3本の進行波管を用いて4GHz帯の総合利得100dB以上、周波数帯域幅20MHz、雑音指数15dB以下のテレビジョン中継機が試作され、昭和29年6月にNHK技術研究所で公開実験された。
(寄稿文全文はエピソード編に収録)


本節はテレビジョン学会月報1953年8月
「マイクロ波によるテレビジョン中継」
鈴木桂二、沢村吉克 より抜粋・編集


1.6 国鉄におけるマイクロ波方式

 鉄道における通信は、明治5年10月14日の新橋-横浜間に鉄道が開通した時から始まる。明治、大正、昭和、平成の時代を通じて鉄道の発展に合わせ顧客サービスの向上、業務の能率化、鉄道の近代化に大きく貢献してきた。鉄道通信の最初は,3条の裸線で単信電信機による通信により閉塞を行ったのが始まりである。
 鉄道通信は鉄道輸送の安全のための閉塞と輸送の情報伝送を行う。この通信網の整備を鉄道沿線に敷設する必要があり、線的な通信網が必要であった。事故時の迅速な回線構成,経費の節減が可能であることなどから自営網を持つこととなった。

(1) 国鉄の無線設備
 国鉄無線設備は大正9年に津軽海峡連絡通信の目的で青森―函館間に500W瞬滅火花式無線電信を設備したのが始めである。装置は瞬滅火花式送信方式で出力500W、高さ30mの木柱にT型空中線を使用、受信装置は鉱石検波器と真空管検波器を持ち、当時の鉄道電報疎通に大きく貢献した。昭和22年に至りUHF多重無線通信装置が開発され、さらに昭和27年10月にSHF多重無線通信装置が使用開始になり、中短波による海峡無線はその役目を終えた。

昭和30年代初期の電波事情
― 元新幹線総局次長 当時電気局通信課補佐 石原 嘉夫氏より ―

 当時、電電公社もマイクロ波中継網の建設期に当たっており、国鉄業務専用回線への全国的規模での電波の割り当ては電波行政の立場から容易ならぬ問題であった。これに加えて、読売新聞社の正力マイクロという爆弾的計画などが飛び出し、混迷を極めた。この時期にあって郵政省、電電公社に国鉄通信を理解していただくため、電波監理局濱田成徳局長、電信電話公社梶井総裁、黒川廣二氏などに対し国鉄十河総裁、通信関係者が友好裡に面談を行い、国鉄への理解が得られ、7500MHz帯の4波の認可が得られた。
第1.8図 無線通信所位置図
第1.8図 無線通信所位置図


(2)マイクロ波通信の実用化
昭和25年の国鉄の機構改革による鉄道管理局の増設により、本土・北海道間に安定な長距離通信回線の増加が要求され、有線による海底ケーブルの布設という方法もあるが建設には8億円近くの予算が必要とされ、無線による多重化が注目されることとなった。
 初期の極超短波多重無線の技術としては,送信管としてのクライストロンや進行波管が未だ研究段階であり、マグネトロンは発信周波数の安定度がよく、出力も大きいので最も有望であった。通信機メーカーでは第2次世界大戦中に海軍で使用していた電探用マグネトロンの製作技術を温存していて、通信管としてのマグネトロンを開発し、PTM-AM多重無線通信装置の試作に成功していた。
 昭和26年5月、蟹田―函館山間77km海上伝播試験を行い、1か月間の実測によりフェージングマージンも実用に耐え得るとの見通しもついて、同年秋から着工した。置局の選定には既設UHF用無線局は3局であったが、冬季の保守上問題の解消と通話路の増大を考慮して青森、蟹田、函館山、桔梗の4局に決まった。
 当時導波管の長さが4000MHz帯で15m以上になるとLong Line Effectで通信不能になる現象が重要視され、長さは極力短くすることが第1と考えられた。また青森―蟹田間の見通しは海面すれすれなので、フレンネルゾーンを支障させないため、青森には6階建て、蟹田には5階建ての細長い塔状の局舎を建て、その屋上にパラボラアンテナを設置、最上階を無線送受信機室として導波管を極力短くするよう配置された。
第1.9図 蟹田中継所
第1.9図 蟹田中継所
6階建ての塔の屋上にパラボラアンテを設置した局舎は全国的にも珍しく、当時、高層建築物の少ない青森市内では目立つ存在であった。
 昭和26年度末の無線送受信機据付,現地調整、引き続きPTM端局を含めた総合試験の結果は予想以上の好成績を収め、最も懸念された長距離海上伝播によるフェージングにも十分耐えることが実証されたので、27年10月わが国最初の4000MHz帯通信回線が実用化された。伝送品質もS/N50dB前後を確保でき、従来国鉄で使用されていた裸線搬送回線に比して数段改善され、青森―函館間の連絡通信を確保できたので国鉄通信網構成上画期的な役割を果たした。


青函マイクロ波の建設から保全に携わって
― 元国鉄電気局調査役 赤川 馨氏より ―
 昭和27年当時は停電が多く、3エンジンが実用化されていないので、ガソリン発動機と発電機からなる2エンジンの停電時電源を使用していた。停電してから自動起動する電源であり、停電即しばらく通信不能になった。
 函館山に30メートルのハイトパターン測定用鉄塔を建て昇降式電界強度測定機を取り付けて、フェージング時および定時に電界強度の高さによる変化を測定した。また端局装置も無線機も全て真空管を使用しておりその真空管の性能の試験を月一度行うなどの保全が欠かせなかった。
 これらの苦労はその後の無停電電源装置の開発に結びつき、また電界強度の高さによる変化のデータはダイバーシティ受信の方式に役立った。


第1.3表 無線送受信機装置概要
項 目内    容(km)記 事
送信周波数3950MHz青森、函館山
4100MHz蟹田、桔梗
出力60W(平均値6W) 
変調方式PTM-AM 
送信管マグネトロン M-750 
受信局発管クライストロンJP-703 
導波管短形58x29mm 
空中線銅製2m パラボラ送受共用

マイクロ波建設への情熱
― 元国鉄 鉄道技術研究所無線研究室長 丸浜 徹郎氏より ―

 昭和27年、大阪-姫時間のケーブルの電蝕による取替需要として6000MHz帯のマイクロ波中継の採用が検討されることとなった。大阪-姫路間は直接見通しが利かない。当時、見通しがない2点間を結ぶ方法として、中間中継所を設置しないで金属反射板等を用いて電波の方向を変化させることにより目的を達成する、所謂「無き電中継」の研究を手がけておられた東京工業大学の森田清教授にご指導をお願いした。この指導のもとで六甲山―姫時間の伝播試験を実施した。無き電中継用の反射板は、姫路の西方4Kmにあって六甲山および姫路の両方から見透しのある苫編山という小山に設けられ,その面積は25平方メートルの大きさであった。
この試験結果から反射板の利得、指向性、鏡面精度などの数値が回線設計の中でパラメータとして定量的に計算できるようになり、その後の幹線系SHF網への足がかりを作った。


 前述したように導波管製作技術は未熟であったので、定在波比をよくするため、接続部はチョークフランジを使用してインピーダンス不整合度を軽減するように配慮した。パラボラアンテナも、銅板を鈍しながら手作業で叩き出し、2枚張り合わせて放物面を作った。
 これらの機器の保守検査には、予備機がないため土・日曜日のトラフィックの閑散時に回線を停止して行われた。本装置により完全に青函間の回線が確保されたかに思えたが、技術進歩の速い情勢変化により、昭和35年幹線系マイクロ波網に吸収されることになった。

(2) 全国SHF網へ
 国鉄通信の長距離回線は、SHF回線がその中核となりルート予備方式の7500MHz帯により全国の各支社/鉄道管理局を結んでいた。幹線系のSHFは昭和33年から順次工事が進められ、国鉄のSHF回線網が誕生した。
 その特徴としては次の各点が挙げられる。

無線ルートは予備ルート方式を採用し、信頼度を向上した。
反射板を有効に使用し,無線局はできるだけ主要駅の近くに置き、保守を容易にする。
置局の選定は出来るだけ経済的な回線を構成するよう、可能な限り長大スパンとする。
中長距離回線は中間のヘテロダイン局でリーク中継方式を採用、分岐挿入することにより出来るだけビデオ局を少なくして、長距離回線のS/N劣化を救済する。
電源装置はスリーエンジン方式の無停電電源装置を使用した。

 昭和34年の東京―大阪間、東京-仙台間の開通に引き続いて姫路-門司間、仙台-青森間…全国の工事が進められ、北海道から九州まで本土を縦貫したSHF回線網が昭和35年9月1日に完成した。また同年12月にはクロスバー交換機の導入により全国即時通話が可能となり、全国27鉄道管理局中23局が即時通話可能となった。
 第1.10図に昭和44年当時の全国SHF網を示す。

第1.10図 昭和44年当時 国鉄のマイクロ波ルート図
第1.10図 昭和44年当時 国鉄のマイクロ波ルート図

本節は、元国鉄電気局長 吉田一哉氏が鉄道通信発達史(社団法人鉄道通信協会―現鉄道電気技術協会刊)より抜粋し編集した。


1.7 東京電力におけるマイクロ波無線の導入

 東京電力が発足した昭和26年頃、水力発電所と給電指令所などの連絡用電話には、主として電力線搬送を用いていた。
 昭和20年代終わり頃、電力需要の増大に伴う発電所などの新設に合わせ、電力用通信回線の増強が必要になったが、従来の電力線搬送では周波数割当が困難となり、回線の増加に対応しきれなくなってきた。
このため東京電力では、昭和30年にマイクロ波無線を本店(東京)-赤城(群馬赤城山)-金井発電所(群馬)間にはじめて導入した。
以降、発電所や主要変電所などの電気所、本店・支店などの事業所を結び、各種情報を迅速・確実に伝送する信頼度の高い通信手段として、電力用通信の主役となっている。

(1) マイクロ波無線導入
 昭和27年頃に水力発電所の建設を進めていた奥利根の電源地帯と本店間の連絡用回線として、本店-赤城-金井間にマイクロ波無線を施設することを計画した。
本店から金井は直接見通しが得られないため、赤城山山頂に中継所を設置することとした。当時、マイクロ波無線については2GHz帯で局間スパンは50km程度が常識と考えられており、本店-赤城間110kmのロングスパンの陸上伝搬は国内外でも例がなく、実証試験を行う必要があった。
第1.11図 赤城山中継所マイクロ波無線鉄塔
第1.11図 赤城山中継所
マイクロ波無線鉄塔
 昭和28年10月から約1ヵ月間、東京大学生産技術研究所と郵政省電波監理局の指導のもとで2GHz、7GHz帯について長距離伝搬試験を行った。試験時は東京本店屋上が使用できなかったため、試験区間を日吉-赤城間(120km)に選定した。結果、フェージングの影響、スペース・ダイバシティの効果など有用なデータを得るとともに、実用化への見通しもついた。試験結果を踏まえて、周波数帯については、パラボラアンテナ口径を小さくでき、鉄塔強度が抑えられる7GHz帯を選定し、本店-赤城間についてはスペース・ダイバシティの採用により110kmを無中継の計画とした。
 昭和30年1月に東京本店社屋の完成に合わせ、本店-赤城-金井間にマイクロ波無線回線を新設した。

(2) 初期導入以降の展開
 マイクロ波無線回線は昭和30年の導入以降、電力系統の拡大と共に、電話回線の他、テレメータ、保護制御などへの活用がなされ通信量が増大したことから、順次、発電所および各事業所に導入していった。この間、変調方式は23ch、PTM-AM方式から60ch、SSB-FM方式へと移り、また12GHz帯についても伝搬試験が行われ、昭和36年に実運用した。さらに高周波トランジスタなどの採用により、装置の小型化・大容量化を図った。
 昭和43年には、マイクロ波無線を利用した電力系統保護リレーシステムを導入し、信頼度向上のためマイクロ波無線回線の2ルート化を進め、電力用通信におけるマイクロ波無線の重要性はますます高まった。
 昭和54年7月には、それまで利用していた400MHz帯などの固定無線の周波数帯が逼迫してきたことから、2GHz帯を利用したPCM方式小容量無線を開発した。最初の導入は本店-大井火力発電所間、本店-新東京火力発電所間に適用し、主として保安電話、制御情報やテレメータなどに使用した。
第1.12図 昭和40年頃の東電マイクロ波系統図
第1.12図
昭和40年頃の東電マイクロ波系統図
 その後、さらなる信頼性の向上とコスト低減のため、昭和60年に6.5GHz帯ディジタル無線機を導入した。
現在では、雷雲の位置を正確に捉える雷レーダー観測システム(5GHz帯)、機動的情報収集や連絡回線の確保のため車載型衛星移動局(14GHz帯)の利用など、マイクロ波無線を広く活用している。
 電気事業は、電力の安定供給のために、お客さまごとの電力の使用状況を的確に把握し、時々刻々と変化する電力需要に対応すると同時に、巨大かつ複雑化する電力系統の中で、確実な電力設備の保護・制御運転・保守・管理を実施する必要がある。
 このため、電力系統の保護用回線や電力設備の監視・制御回線などの高信頼度が要求される重要回線には、光ファイバ等の有線通信より耐災害性に優れていること、送電線や電柱等の電力設備との同時災害を防げることから、マイクロ波無線の利用が不可欠となっている。

参考文献
最近の電力用通信(1)、(15)~(19)、OHM、西山正五郎、舟山清親、大石宏、昭和30年3月、昭和31年5月~9月
東京電力・東京-金井間マイクロ波通信回線、OHM、西山正五郎、舟山清親、大石宏、功力悌三、昭和30年4月
最近の電力用通信、電気評論、高橋瑛、昭和47年3月
無線LANの技術動向と展望について、ARIB機関紙 No.33、板橋敏雄、平成15年4月

本節は元東京電力通信部長、加藤利雄氏の紹介により、築山宗之常務、並びに電子通信部通信業務グループ石田晴彦氏から寄せられた資料により編集した。


1.8 東北電力におけるマイクロ波方式の導入

(1) 仙台~会津マイクロ波回線
 電力用として初めて導入された東北電力仙台~会津若松間のマイクロ波回線(4中継5区間、亘長143km)は、
第1.13図 仙台本店端末局(昭和28年)
第1.13図
仙台本店端末局(昭和28年)
第1.14図 霊山中継所(昭和30年代)
第1.14図
霊山中継所(昭和30年代)
昭和27年7月に着工し、昭和28年3月に実用運転を開始した。只見川水系の電源開発に伴う給電指令や工事連絡用として通信回線の増強が求められたもので、当時の架空通信線の脆弱性や電力線搬送の周波数不足の対策としてマイクロ波方式の導入に至ったものである。
 使用した無線機は、米国ITT社の開発した無線方式を逸早く国産化した日本電気㈱が製造した。無線周波数は2000MHz帯、23通話路のPTM方式である。発振器には3極板極管(2C43)を採用した。4個所の中継所の内、3個所(霊山、五万堂、羽山)は積雪地に建設された山頂無人中継所で、次の工夫により運用に万全を期した。

無線送受信装置には全て予備機を備え、故障時に自動切換えとした。
電話のダイヤルインパルス信号を利用した遠隔監視制御装置を備え、両端末局(仙台、会津若松)で日常運転状況、事故状況を監視制御した。
電源は、2ルートの配電線と、ディーゼルエンジン発電装置の3段階自動切換え方式とした。
温湿度自動調整装置(エアコン)を設置した。

 ただし当初は無線機や電源装置の故障、真空管の点検などで頻繁に人が入所し、道路のない山頂無人中継所は有人中継所の様な状況であったとの記述も残っている。

マイクロ波無線導入記念行事に携わって
― 元東北電力工務部調査役
現東北電力通信親睦会会長 山内 博氏より ―

 只見川水系の電源開発の槌音高らかに鳴り響いている昭和26年、東北電力会津通信所に勤務していた当時は、本店(仙台)と会津間の通信手段としては通信線搬送による6チャンネルしかなかった。
 昭和27年「東北電力電源開発5ヵ年計画」が樹てられ、この一環として「通信網5ヵ年計画」の実施も決まり、当時の山内俶給電部長から、東北電力管内をトールダイヤル化し全管内どこでも3分以内に電話が通じるよう、「オール東北スリーミニッツ」の大号令が下された。
その第一弾として、昭和28年3月7日仙台~会津間マイクロ波無線回線(23ch)が運用開始し、電源開発と給電連絡等の業務の円滑かつ迅速化に寄与することが出来,私も会津側で運用保守に携わることが出来た。
 昭和39年本店工務部へ異動となり、本店在任中仙台~会津マイクロ運開25周年(昭和53年)と30周年(昭和58年)の夫々の記念行事に係る機会を得たが、特に思い出に残るのは、30周年記念行事の際、講演に来仙されたNEC会長小林宏治氏(故人)から、東北電力へ2000MHzマイクロ波無線の1号機を納入するに至った経緯の中で「仙台~会津間マイクロは2000MHz帯を使用し、遠方監視制御による山頂無人中継局による、わが国最初の実用施設であったということを忘れてはいけないだろうと思っております」との御忠言を頂いたことである。
 今年(平成15年)仙台~会津マイクロが運開50周年を迎えるに当たり、縁あって「マイクロ波無線記念碑」建立に係ることになり、東北電力と電力通信OBが協力して、昭和28年当時最初にマイクロ波無線鉄塔が施設された電力ビル敷地(仙台)に記念碑を設置すると共に記念誌を刊行することが出来た。
 現今、情報通信業務に携わる現役後輩から、記念碑の建立が東北電力の通信技術者としての誇りと新技術への飽くなき挑戦への励みとして受け止めているとの言葉を貰い、一連の行事に携わってきた関係者の一人として、将来に心強さを感じている。


(2) 集中的マイクロ波回線の建設と反射板の導入
マイクロ波回線の建設は建設所体制を敷いて次々と行われ、2GHz帯PTM方式により昭和28年12月に仙台~盛岡間(3中継4区間)、昭和29年2月に仙台~東京(6中継7区間)、昭和29年12月には盛岡~青森間(5中継6区間)を開設し、仙台本店から東京、青森へと東日本を縦断する基幹系統が完成した。
 一方で、山頂中継所は障害復旧と定期保守の苦労が多いことから、高山には金属反射板のみを設置し、中継用無線機を平地の事業所に設置する事業所中継方式を指向し、東京工業大学の森田・関口教授にマイクロ波反射板の研究を委託した。
 2GHzでは大きさの問題から実用は困難とされたが、昭和29年12月に会津~本名・只見間7GHzPTMマイクロ波方式で反射 板を初めて実用化した。山岳地帯の多い東北地域における経済的な中継方式として、その後各地で採用することになった。
 昭和31年8月には会津~山郷間に7GHzFDM方式(クライストロン使用、反射板中継)を導入し、これ以降は、PTM方式に代わって、回線容量や安定度、保守性などに優れたFDM方式を採用することとした。そして、昭和33年8月には東北6県と新潟県の各県庁所在地を結ぶ東北電力マイクロ波通信網の骨組みが完成した。
 仙台~会津マイクロに始まった東北電力のマイクロ波無線通信は、経路のループ化、装置の固体化、無線のディジタル化などを経て、今日もなお雷害時の電力系統保護用など電力用保安通信の中核システムとして活躍している。

第1.15図 東北電力マイクロ波回線系統図(昭和33年8月)
第1.15図 東北電力マイクロ波回線系統図(昭和33年8月)

樹氷に悩まされた反射板
― 元東北電力通信課勤務 現帝京平成大学長 竹下 信也氏より ―

 昭和31年、本店~山形支店~秋田支店間の7GHz帯マイクロ波回線の新設に際し、本店~山形支店間の見通しの関係から、樹氷の名所である蔵王連峰の北端に近い海抜1337mのカケスガ峯に、面積48㎡(6m×8m)の反射板2基を設置しなければならないことになった。   
 当然、反射板への樹氷の付着が予想され、着氷防止の検討を開始した。ジュラルミン製の試験用反射板面に、当時開発されたばかりのテフロン系塗料やメラミン樹脂などを塗布し、付着防止効果を調査した。しかし、期待された効果は得られなかった。
 一方、着氷による反射板特性への影響について北海道大学に研究を依頼した。樹氷の代わりに雪を利用して、実験的に研究した結果、約30cmの着雪では20dB以上の減衰を生ずると報告された。
 このような状態では問題解決を先送りせざるを得ず、送信出力5Wの進行波管増幅器を取り付けるなど事前の信頼度向上策をとって、実用回線を構成し、運用結果で対策を検討することにした。
 回線開通後、初冬の樹氷発生シーズンを迎えた。予想にたがわず、北西風をまともに受ける山形側に海老の尻尾が集合した形で樹氷が付着し、付着厚さが最大で30cm程度になると、40dB以上の減衰が発生し回線が途絶した。
 再三、山形通信所員に登山して除氷してもらうことになるが、その出張報告や写真などを見ると、樹氷の反射板への付着力は弱く、除氷のために板面に垂らしたままにしたロープ付近には、樹氷がこすられて脱落した痕があった。
 あっ!これだと思った。ロープを板面にたらせば、遮蔽影響により反射能率を低下させる。しかし、ナイロンのような絶縁体であれば、「縄のれん」のように、1m間隔で8本下げたとしても、計算結果では低下量が1~2dBであることが判明した。
 樹氷は強風の下で付着するので、ロープが強風に板面を摺り動けば着氷を妨げ、また付着した樹氷をこすり落とすに違いないと確信し、対策が実現した。「縄のれん」を下げて以後、予想通りの効果が得られ、着氷による回線途絶は殆ど発生しなくなった。
 水分を殆ど含まない氷で、
樹氷に覆われたカケスガ峯反射板
樹氷に覆われたカケスガ峯反射板
大きなマイクロ波の減衰が生ずるのは、何故か?
 持ち前の好奇心が頭を持ち上げた。結論として、氷の中を通過した電波は板面で反射され、再び氷を通過して大気中に出るので、氷を通過する長さに応じ位相差が生じ、これらの相互干渉により減衰することを突き止めた。このメカニズムを東北大学の虫明教授からのご指導を受け、論文にまとめることが出来た。


本節は東北電力㈱情報通信部情報通信監理グループの小鹿哲氏が下記資料より抜粋し、編集した。

① 「仙台―会津間極超短波無線電話施設について」
電気学会雑誌、木村幸雄、植田瑞穗、昭和28年7月
②「東北電力マイクロ波無線通信50周年記念誌」
東北電力㈱情報通信部、平成15年5月



VHFの歌 マイクロ波無線通信


電電公社の無線技術担当の方々は戦後にGHQのVHF回線を保守運用しました。その後 に電電のVHF回線を設営保守。この無線担当分野で その後、昭和27年のテレビ開局にむけ全国に4GHzのマイクロウエーブ回線を設営、 保守。その後50年間、NTTになった後も、全国テレビ網を保守運用してきました。し かし、ハイビジョンとデジタルに代わる時代となり、5年前に光ファーバー網に切り替わ り、マイクロ無線網は廃止となりまた。全国に張り巡らしていたマイクロ電話回線も伝送 容量が光ファイバーに劣るため、非常回線や離島通信をのこしNTTからマイクロ無線が 撤退してマイクロ無線担当も大きく縮小されました。「VHFの歌」こんな曲もあったので す。つわもの共の苦労を偲んで、パソコンによる疑似歌声で歌わせてみました。これらの画像は書 籍『私たちのマイクロ波通信50年」より勝手ながら、無断で使わせて頂きましたが、謝意を表し、多くの方々が、この歌詞のような 心意気で働いてこられたことに敬意を表します。




津軽の塔~石崎無線中継所~

津軽の塔~石崎無線中継所~建設記録映画(1978年) 日本電信電話公社




新興国でのネットインフラを支える超小型マイクロ波通信システム



 

マイクロ波アンテナ 設置工事 愛知県自治センター(Aichi Prefectural Office Local Autonomy)



 

放送現場での運用を狙った120GHz帯無線システム





60GHz帯超高速ワイヤレスシステム




移動式ICTユニット(8分版)


裏山原へ行こう!


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