8月23日ー24日に東京ビックサイトでの
ハムフェアー2008に行ってきました
夜は横田基地のフレンドシップデイに行ってきました
今回の戦利品は
ガイガーカウンターpdr-63
インカム同時通話
です
さつそく本日試験したところ
ガイガーカウウンターは動作正常でした
我が家の無線機から放射能がでてないか調査したら
でましたガーガーガリガリとrt-68の無線機のツマミから高い放射能検出
おそろしい私の寝ている頭の上でした
インカムは50mhzで同時通話でき充電式でした
2008年08月
米軍深谷通信所 & 府中米軍基地跡 & 上瀬谷通信施設
在日米海軍深谷通信所 送信アンテナ30基撤去へ/横浜市歓迎「早期返還に弾
み」
在日米軍・防衛 2008/07/09
日米両政府間で「返還の方針」が合意されている横浜市内の米軍施設のうち、深谷通信所(泉区、約七十七ヘクタール)の送信アンテナ二十八基が七月下旬以降、順次撤去されることが八日、分かった。同通信所は消防隊が撤退した〇一年七月以降、事実上遊休化しており、今回のアンテナ撤去でさらに遊休化が加速する。日米合意に基づく早期返還を求める市は「返還実現に向けたプロセスの一つ」と歓迎している。
横浜市や南関東防衛局によると、撤去されるのは、フェンスで囲まれた囲障区域と呼ばれる地域の外側に点在するアンテナ二十八基。在日米海軍の直轄工事として、七月から三、四カ月かけて工事が行われる。完工後は同通信所の囲障区域内にある鉄塔以外のアンテナはすべてなくなる見通し。
同防衛局によると、在日米海軍側は今回のアンテナ撤去について「築四十年が経過して老朽化が著しく、付近の住民の安全確保を考えた」と説明。「アンテナを建て替える計画自体もない」(同防衛局)ことから、撤去後は遊休化する同通信所の実態が一層際立つことになる。
八日に開かれた市会基地対策特別委員会で、源波正保氏(公明党、泉区)の質問に対し、市側が明らかにした。
米軍深谷通信所/アンテナ撤去工事始まる
在日米軍・防衛 2008/07/22
横浜市泉区の米軍施設「深谷通信所」(約七十七ヘクタール)の老朽化した送信アンテナを撤去する工事が二十二日、現地で始まった。フェンスで囲まれた囲障地域と呼ばれる地域の外側に点在する二十八基が順次、取り除かれる。工期は十月六日まで。
南関東防衛局によると、工事は在日米海軍厚木航空施設の発注で、横浜市内の業者が受注。アンテナとその基礎部分に加え、屋外電力線路も合わせて撤去される。
深谷通信所をめぐっては、二〇〇四年十月の日米合同委員会で「返還の方針」が合意されている。同施設の早期返還を求める横浜市は今回のアンテナ撤去工事について「返還実現のプロセスの一つ」と受け止めている。
深谷通信所(ふかやつうしんじょ)は神奈川県横浜市泉区に所在していた在日アメリカ海軍基地(面積:773,747m2)。旧日本海軍の基地を第二次世界大戦後に接収し、運用していたもので、2014年6月30日に施設を含めた土地全体が日本へ返還された
- 1945年9月2日:終戦により旧日本海軍の通信施設であった当所を米海軍が接収する。
- 1970年12月1日:施設内の一部が耕作地として使用許可される。
- 2004年10月18日:日米合同委員会で日本への返還の方針が合意された[5]。
- 2014年6月30日:当施設を含めた土地全体が日本へ全部返還された
横浜市泉区の和泉町および中田町に位置。全域が国有地であり、アメリカ海軍厚木航空施設司令部が管理を行っていた。日米合同委員会における施設名としては深谷通信所だが、現地においては戸塚無線送信所とも呼称されていた(接収当時の所在行政区が戸塚区だったため)。
旧日本海軍の通信基地として使用されていたものが、太平洋戦争の終戦により米海軍に接収され、在日米海軍厚木航空施設司令部の管理下で送信施設として使用されていた(受信は横浜市旭区・瀬谷区の上瀬谷通信施設)。
旧日本海軍時代に電波干渉を防ぐため円形状に用地買収され[4]、米海軍がその形状のまま接収した。接収後、米海軍は施設中心部に事務所等やアンテナ部分の囲障区域(フェンス等で囲まれた内側)を設け、関係者以外立入禁止としていたが、囲障区域外は野球場、ゲートボール場、菜園耕作等の使用が認められ、さらに神奈川県道402号阿久和鎌倉線が通過し一般の通行が認められていた他、バス停も設置された。
衛星通信が発達し送信機能が他施設に集約されたことで部隊は撤退し遊休地化していたが、2014年6月末を目処として囲障区域も含めた土地全体を米側から日本へ返還することが決定し[5]、予定通り手続きが完了したことから同年6月30日に返還が行われた[1]。
沿革
返還後の土地利用
跡地利用の方向性としては「自然・スポーツ・文化の円形緑陰空間」が有力候補となっている。円形の敷地を有効活用したデザイン性の高い公園や外周道路の整備が検討されており、さらに周辺道路への接続強化や防災拠点機能の形成なども視野に入っている。ただし、これらの計画案は決定でなく検討中の段階で、横浜市では2015年3月末までに「跡地利用基本計画」の策定を行う方針である施設には、建物等が所在するフェンスで囲まれた区域とフェンス外の区域とに区分され、フェンス外側の区域の一部は野球場、ゲートボール場、市民菜園として周辺住民に利用されていました。また、施設を縦断する県道阿久和鎌倉が通過しており、返還前から通行が認められていました。
米海軍深谷通信施設 空中線の分析 NRTF(Naval Radio Transmitting Facility) TOTSUKA aerial
深谷通信所跡地① Navy Radio Transmitting Facility Totsuka ①
深谷通信所跡地② Navy Radio Transmitting Facility Totsuka ②
深谷通信所跡地③ Navy Radio Transmitting Facility Totsuka ③
霧の朝 深谷通信所跡地
師走の満月入り残る朝 深谷通信所跡地
米海軍深谷通信施設 空中線の分析
NRTF(Naval Radio Transmitting Facility) TOTSUKA aerial analysis NDT
NRTF(Naval Radio Transmitting Facility) TOTSUKA aerial analysis NDT
廃墟 府中米軍基地跡
·東京都府中市、米軍基地跡廃墟
2012年02月06日
東京都府中市浅間町にある米軍基地跡廃墟。かつてここは大日本帝国陸軍の燃料備蓄基地として使用されていた。終戦後は米軍の管理下に置かれ、アメリカ第5空軍の通信施設として使用され、軍人の住宅なども併設された1973年、通信施設を除く基地全体が米軍より返還され、府中の森公園や生涯学習センター等の各種施設が建設された。だがまた府中の森公園の北側には、撤去されていない米軍住宅跡と通信施設がフェンスに囲まれたうっそうとした雑木林の中に廃墟状態のまま放置されている敷地内には、十数棟の施設が点在し、低層の集合住宅跡が数棟残っている。この廃墟のシンボルとも言える巨大なパラボラアンテンナが敷地の中央に北側を向いた状態で鎮座している。
廃墟 府中米軍基地跡
不法侵入したら射殺?現在米軍管理下【廃墟・アメリカ軍基地(太平洋第5空軍司令部)】静止画&動画、Bgm太平洋艦隊&連合艦隊 直径約14m対流圏散乱波通信用の大型パラボラアンテナや通信
【廃墟】府中トロポサイト(元米軍基地・パラボラアンテナ)_190127
上瀬谷通信施設
上瀬谷通信施設(かみせやつうしんしせつ)は神奈川県横浜市旭区上川井町と瀬谷区北町・瀬谷町に所在していた在日アメリカ海軍基地(面積:2,422,396m2)。旧日本海軍の基地を第二次世界大戦後に接収し、運用していたもので、2015年6月30日に施設を含めた土地全体が日本へ返還された
接収と囲障区域外の利用許可
旧日本海軍の倉庫施設として使用されていたものが、太平洋戦争の終戦により米軍に接収され通信基地となった。いったん接収解除されるも1951年に再接収された。返還時には部隊は常駐しておらず、在日米海軍厚木航空施設司令部の管理下となっていた。
事務所等の囲障区域(フェンス等で囲まれた内側)は立入禁止区域となっていたが、囲障区域外は農耕や野球場等の使用が認められているほか環状4号線(通称「海軍道路」)が通過しており一般の通行が認められていた。また、海軍道路沿いに桜が多く植えられていることからお花見スポットとしても知られており、毎年4月の第1週目の土曜日には施設内の海軍広場で「日米親善桜祭り」が開催されていた。
瀬谷区の15%近くの面積を占めており、また瀬谷区の北半分は1995年3月まで米軍により「電波障害防止地域」に指定されていたため、瀬谷区の開発は遅れることとなった基地概要
- 市町村別面積比率:国有地 45.2%、市有地9.4%、民有地45.4%
- 管理部隊:厚木航空施設司令部
- 施設番号:FAC 3096
当施設は、アメリカ国家安全保障局(NSA)の電波受信の施設であったが、返還時は電波受信施設として使用されていなかった[注 1]。周辺に設定されていた「電波障害防止地域」も1995年4月1日に解除されている。なお電波送信は横浜市泉区の深谷通信所で行われていた。
かつては海軍保安群司令部(NSGC)隷下の海軍保安群上瀬谷(NSGA Kamiseya)が中心となり、NSAの指揮下で電波傍受・暗号解読・分析・通信保全などが行われていたが、1973年(昭和48年)に大部分が三沢飛行場(青森県)の姉沼通信所(通称・セキュリティ・ヒル)に移駐した(海軍保安群三沢/NSGA Misawaとして活動)。残った部隊は海軍保安群上瀬谷分遣隊(NSG Det. Kamiseya)となり、那覇海軍航空施設(NAF Naha、沖縄県)から移駐してきた第7艦隊(7FLT)隷下の第72、第57タスクフォース(CTF72, CTF57)や第1哨戒偵察航空団司令部(CPRW-1)とともに引き続き施設を運用。1980年代にはさらに艦隊海洋監視情報施設(FOSIF)や統合情報司令部太平洋分遣隊(JICPACDET)といった重要組織も配置されていたが、冷戦終結で大部分が他の施設へ移駐し、1995年(平成7年)には海軍通信施設(NAVCOMMFAC)に所属する「海軍無線受信施設上瀬谷(NRRF Kamiseya)」としての運用から、厚木航空施設司令部の管理する「海軍支援施設上瀬谷(NSF Kamiseya)」へと変わった。2003年(平成15年)には第1哨戒偵察航空団司令部の三沢飛行場移駐が発表され、施設警備を担当していた海兵隊(Marine Barracks Det. Kamiseya)も撤退。2015年6月の返還時には無人となっていた[4]。
なお、米軍に接収されたあと、当時相模鉄道瀬谷駅から当施設への引込線(現在の海軍道路)脇には平和への祈りを込めてソメイヨシノが植えられた。また、海軍道路には昭和40年代くらいまで北門、南門と呼ばれる門柱が残されていた。
沿革
- 1945年8月:終戦により旧日本海軍横須賀海軍資材集結所であった当所を米軍が接収する。
- 1947年10月16日:接収解除
- 1951年3月15日:米海軍により再接収。
- 1965年9月24日:基地内で火災事故発生。12人が死亡[5]。
- 1977年3月20日:施設内の国有農地が一部耕作者へ売り渡される。
- 1977年4月1日:海軍道路(横浜市主要地方道18号環状4号線)用地が横浜市と米軍による共同使用となる。
- 2003年10月:当施設にあった「司令部」が青森県の三沢飛行場へ移転。
- 2004年10月18日:日米合同委員会で日本への返還の方針が合意された[6]。
- 2015年6月30日:当施設を含めた土地全体が日本へ返還された[1]。
火災事故
1965年9月24日、オペレーションビルの一棟で火災が発生し、12人の米軍人が死亡した。死者が出た直接の原因は施錠された出口から脱出することが困難だったためで、ほとんどの者は煙に巻かれて死亡した。公式な調査で火災の原因は漏電であったことが判明している。しかし数人の目撃者の証言では、当時設置されたばかりの焼却炉の通気壁が不適切だったことが火災の原因になったと指摘されている。
なお、火災発生時には日本の消防も駆けつけたが、火災が発生したのが米軍基地内のため消火作業を行うことができなかった。
アメリカ国家安全保障局との関係
上瀬谷通信施設は、アメリカ国家安全保障局(NSA)の歴史を語るうえで欠かせない場所となっている。それは、以下の事件の舞台となったためである。
1960年代前半に、上瀬谷通信施設に勤務していた二人のNSA職員が同性愛の関係となった。当時のアメリカでは同性愛は社会的に認められていなかったため、迫害を恐れた二人はそろってソ連に亡命をした。その際、二人がNSAについてソ連当局に告白したため、アメリカ政府はそれまで公式には認めていなかったNSAの存在を公式に認めざるを得なくなった。この事件以降、同様の事件を防ぐためにNSA内部では、アメリカの社会に先駆けていくつかの条件の下に同性愛者を許容することとなった[7]。
跡地における計画
横浜市では跡地において農地利用の他、2026年の国際園芸博覧会(花博)の誘致やそれに向けた交通インフラの整備などが検討されている[8][9][10]。2020年1月10日付の朝日新聞の報道によれば、2015年に米軍から返還された上瀬谷通信施設跡地の再開発に伴うアクセス鉄道として、横浜市が相鉄本線・瀬谷駅との間、およそ2〜3kmに新交通システム (AGT) を敷設し、運行主体を横浜シーサイドラインに行わせる構想を報じた[11]。このアクセス鉄道は横浜環状鉄道(シティループ)の一部ではなく、1993年(平成5年)に横浜市が策定した総合計画「ゆめはま2010プラン」の交通政策の中で郊外部連絡線(シャトルライン)として構想されたものを踏襲している。同月中に環境アセスメントに入るという[11]。横浜市は2026年に開催される「国際園芸博覧会(花博)」を同跡地に招致し、その後テーマパーク等集客施設の開発を行う方針としていて、そのアクセス手段としてAGTの建設を検討している[11]。さらに、横浜市議会議員・佐藤茂の政策報告によれば、将来的には上瀬谷から北に延伸し、若葉台を経由しJR・東急長津田駅もしくは、JR十日市場駅に至るルートも構想しているという[12]。これらにより、横浜市西部開発地区の交通網の整備を推進するという[12]。
横浜市は同年1月24日に環境影響評価条例に基づく計画段階配慮書の縦覧を開始した。同配慮書によると新設される公共交通機関は中量軌道輸送システムのうち、新交通システム (AGT) や都市モノレール、LRT(次世代型路面電車)などを比較検討して今後決定、また瀬谷駅から上瀬谷、その先の車両基地(約5ha)まで約2.8kmに2駅(仮称:瀬谷駅および上瀬谷駅)の設置を検討しており、2022年度の事業着手(完成まで5年ほどを見込む)を目指すとしている[13][14]。
上瀬谷通信施設周辺の空中写真。画像上方に東名高速道路の横浜町田インターチェンジ、左上から右側中央にかけて斜めに走る道路は国道16号・保土ヶ谷バイパス、通信施設敷地中央を南北に走る直線道路が通称「海軍道路」である。
1983年撮影の6枚を合成作成。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。
上瀬谷通信施設
上瀬谷通信施設は、三保の水道橋の西側にあります。今は米海軍の通信基地ですが、嘗ては旧日本海軍の倉庫施設でした。これも終戦により米軍に接収され通信基地となりました。今は通信部隊はいないようで、米海軍厚木航空施設司令部の管理となっています。
ここも深谷通信隊と同様に、囲障区域は立入禁止です。すぐ横に海軍道路が通っておりますが、何だか外国の雰囲気がします。
海軍道路は春には桜並木で有名な所です。
在日米海軍深谷通信所
在日米海軍深谷通信所
米軍厚木基地と在日米海軍深谷通信所
米軍厚木基地
上瀬谷通信基地
米軍厚木基地
米海軍横須賀基地
米海軍横須賀基地
米空軍横田基地
『上瀬谷通信施設』に行ってみた
米軍跡地『上瀬谷通信施設』ディズニー級のテーマパーク予定地!
巨大テーマパーク予定地? 上瀬谷通信基地跡
横浜市瀬谷区海軍道路の桜並木 Sakura (Cherry Blossom)
Cherry blossom, Kaigun road, Yokohama /
桜並木 海軍道路 上瀬谷 横浜市 20140404 車載カメラ / drive
桜並木 海軍道路 上瀬谷 横浜市 20140404 車載カメラ / drive
ディズニー級? あの映画の? 横浜に新テーマパーク構想
上瀬谷巨大テーマパーク構想の問題 前半
上瀬谷巨大テーマパーク構想の問題 後半
(仮称)旧上瀬谷通信施設地区土地区画整理事業・(仮称)
都市高速鉄道上瀬谷ライン整備事業 方法書説明会
都市高速鉄道上瀬谷ライン整備事業 方法書説明会
上瀬谷通信施設①瀬谷駅から NSGDet/NSGA Kami Seya①
上瀬谷通信施設② NSGDet/NSGA Kami Seya②
上瀬谷通信施設③ NSGDet/NSGA Kami Seya③