Signal Corps 通信隊です
米通信隊 Signal Corps
Signal Corps 通信隊です
軍用無線機 船舶無線機 短波受信機 米軍最新兵器情報 アマチュア無線など
U-2(Lockheed U-2 "Dragon Lady" )は、アメリカ合衆国のロッキード社が開発し、アメリカ空軍で運用されている偵察機。
非公式の愛称である「ドラゴンレディ (Dragon Lady)」は烈女の意。その塗装から日本では「黒いジェット機」の異名もある。F-104スターファイター戦闘機をベースに開発された高高度偵察機。当初、U-2はCIAと台湾空軍でも運用されていたが、1970年代にCIAと台湾空軍ではU-2が退役したため、現在ではアメリカ空軍のみで運用されている。
CIAの資金により開発されたU-2は、1955年(昭和30年)8月4日に1号機が進空して以来、冷戦時代から現代に至るまで、アメリカの国防施策にとって貴重な情報源となった。
当初、空軍は高高度偵察機を各メーカに競争発注する予定だった。これを察知したロッキード社の開発チームであるスカンクワークス主任のクラレンス・ケリー・ジョンソンが秘密裏に空軍へF-104を改造した偵察機型を提案し、結果として空軍はこの提案に合致するような要求を各メーカに提示した。当然ながらこうした状況ではロッキード社の案が採用となり、これがU-2となった。当時は、ベル社などがX-16などを作成していたが、こうした他社の案は全て不採用となった。
U-2は細長い直線翼を備え、高度21,212m(70,000ft)以上[2]もの高高度を飛行し、偵察用の特殊なカメラを積み、冷戦時代はソ連など共産圏の軍備配備状況をはじめとする機密情報を撮影した。その並外れた高高度性能は、要撃戦闘機による撃墜を避けるため、敵機が上昇し得ない高高度を飛行するためのものだが、後に地対空ミサイルの発達により撃墜が可能となった(後述)。また、操縦の難しさから事故による損耗も多かった。機密任務のためパイロットには自殺用の青酸カリの錠剤が配布されていたが、これをキャンディと間違えて誤飲して墜落した事故も発生している。1960年代半ばの時点で既に初期型のかなりの数が失われており、機体を大型化して搭載量と航続距離を増し空力的な欠点を解消したU-2Rに取って代わられた。U-2Rは1967年から1年間製造されたが、1979年に生産が再開され、量産最終号機は1989年10月に引き渡されている。
戦闘機や地対空ミサイルの能力が向上した現在、撃墜される危険のある地域を強行偵察することは困難であるが、電子/光学センサー(搭載量約1.36t)の進歩は著しいものがあり、直接敵国上空を飛行しなくとも、かなりの情報収集が可能になっている(敵国の付近を飛ぶだけでも、通常高度500~600kmの低軌道に位置する偵察衛星に比べれば遥かに近い距離からの偵察であり、より精度の高い情報収集が可能である)。そのため後継機であるSR-71が退役した現在も、偵察装備のアップデートにより湾岸諸国やボスニアに対しては有力な情報収集手段として用いられている。
アメリカ空軍は1990年代に、コクピット等のアビオニクスの機能を向上させ、エンジンをF118-GE-101(推力8,390kg)に換装した性能向上型U-2Sへの改修を行った。2018年時点での保有数はU-2Sが27機、TU-2Sが5機で、第9偵察航空団(9RW)に配備されている。
後継とされていたRQ-4はペイロードが小さくU-2ほど多様な偵察装備を搭載できないことに加え、開発遅延と運用コストが高騰したことから当初より配備数を縮小し、U-2を完全に代替するには至っていない。ロッキード・マーティンは、後継機となる無人機「TR-X」を発表する一方、U-2Sの運用寿命を2050年まで延長する計画を提示している
U-2のUは汎用機を表す任務記号で、本来偵察機ならばRが使用されるのだが、これはスパイ機という特性上本来の任務を秘匿するためにあえて付けられたものである。1979年から生産されたTR-1は、戦術航空軍団で運用し、戦術偵察を目的としたため、戦術偵察を意味するTRという名称を用いた[1]。U-2RとTR-1は偵察装備が異なるだけで、基本的には同じ機体である[1]。その後1991年10月にはTR-1の形式を使わないことになり再びU-2に統一された。
機体そのものは高高度の大気観測など、その高空性能を活かして偵察以外の任務にも幅広く使われており、NASAでは研究機ER-2として、オゾン層の測定などに使用している。
U-2は高度21,212m(70,000ft)以上の成層圏を飛行することができる。旅客機は通常12,497m(約41,000ft)程度なので、その約2倍ということになる。外観は誘導抵抗を減らすためのグライダーのようなアスペクト比の大きな主翼形状が特徴で、揚抗比(揚力と抗力の比率)は20以上であり、軽量化と非常に小さな空気抵抗により大型機ながら離陸後は急角度で上昇することが可能で、エンジン出力により低空ではそれなりの機動性を発揮する。
ジェット燃料は超高高度でも高い安定性を実現するため『JPTS』と呼ばれるU-2専用規格品が使われる。
U-2は軽量化を徹底した結果、降着装置が胴体前部と後部の2箇所にしかないタンデム式となった。離陸時には翼の両端に地上から離れるときに外れる補助輪をつけ滑走する。着陸時には支援車両がU-2と並走して翼が地面につかないよう指示を出しつつ十分に低速になったところで翼端を地面にすりつけ着陸、その後補助輪を装着され滑走路から移動を行う。
10,000m以下であれば旅客機並の飛行が可能であるが、高高度を飛行中の最大速度と当該高度における失速速度の差はわずか時速18km(約10kt)[注 2][注 3]であり、着陸時はタンデム式の降着装置と高い垂直尾翼により風に弱く、主翼の翼面荷重の低さやエンジンのアイドル速度の高さのため地面効果で浮き上がりやすいなど、前述した離陸方式と相まってもっとも操縦の難しい軍用機と呼ばれる。
徹底した軽量化は、同時にU-2の弱点も生み出している。後述のU-2撃墜事件では、ソ連軍の放ったS-75 地対空ミサイルが付近で爆発した際の爆風で機体が破壊されて墜落した。これは地対空ミサイルの威力によるものではなく機体外壁が薄いために、衝撃波に耐えられなかったためである。また、軽量で大柄な機体のために空気抵抗が大きくなり、落下速度があまり速くならなかったため高高度から墜落したにも関わらず、機体は大破と言うよりは潰されたような形で発見された。
パイロットは高高度を飛行するため、常時冷却される機能がついた特殊な与圧スーツを着用する[4]。これは高高度で脱出する際に必要不可欠な装備でもある。このスーツは宇宙服とほぼ同様で、違いは色と生命維持装置が付いているかいないか、及び宇宙空間での推進装置が無いだけであるという(『週刊ワールドエアクラフト』より)。このスーツのヘルメットには数個の穴があり、ヘルメットを脱がずにチューブ入りの食料を摂取できる。また、呼吸と排泄のためのチューブが、外付けの機械と繋がっている。狭いコックピットに与圧スーツを着て乗り込むためスペースに余裕は無く、航空図をキャノピー上部に貼り付けるなどの工夫が行われている[注 4]。
2009年にアポロ11号の月面着陸40周年を記念したBBCの番組「James May at the Edge of Space」で、イギリス人のジャーナリストジェームズ・メイがアメリカ空軍のU-2に同乗し、高度21,000m(約70,000ft)に到達した際は、コクピット内の計器類や、チューブを使った食事など、飛行中の機内の様子が放送されている。
各種カメラやレーダーなどの偵察装備は、機首とQベイと呼ばれるコックピット後方のスペースに搭載される。コックピットからは下が見えにくく与圧スーツで体を動かせないことや、偵察高度では大きく機体を傾けられないため、計器板の中央には目標を撮影するカメラと同じ視界を映す円形のモニタがあり、シャッターを切るタイミングを決める他、航空写真などと照らし合わせることで航路修正にも利用できた。後に主翼に装備するポッドによってシギントにも対応した。一部の機体は背部にシニア・スパンと呼ばれる衛星通信用ポッドを装備し、得た情報を衛星データリンクでリアルタイムに送信することができる。
航空計器は当初はアナログ計器が並ぶ当時主流の設計だったが、近代改修によりグラスコックピット化され詳細な航路や機体情報の表示が可能となった。
自衛装置は無いが偵察高度を維持すれば攻撃は常に下から来ることや、そもそも戦闘機やミサイルが到達できなかったため、偵察用の円形モニタで下方を目視警戒し敵機が現れた時刻や方角を記録すれば十分であった。
U-2は台湾や日本国内の基地から、中華人民共和国や北朝鮮等への領空侵犯も含めた偵察飛行を行ったが、数回にわたり撃墜された。1959年(昭和34年)9月24日には、日本国内に配備されていたU-2が藤沢飛行場へ不時着し、「黒いジェット機事件」として問題化した
1956年6月からソ連領空を飛んで偵察を行うようになったU-2は、ソ連防空軍のMiG-19Pなどの迎撃戦闘機による迎撃をたびたび受けていたが、1950年代末にSu-9迎撃戦闘機が配備されるまでは、ソ連にはU-2に有効な攻撃を与え得る高度に達することのできる戦闘機は存在しなかった。その一方、ソ連ではU-2を撃墜するために新型の地対空ミサイルも開発していた。
1960年5月1日にはソ連領空内にCIA所属のU-2偵察機が領空侵犯をし偵察飛行をしていたところ、S-75地対空ミサイルによる迎撃を受け、U-2はついに撃墜された。撃墜されたU-2は、前年「黒いジェット機事件」を起こした機と同一であることが後に判明している[6]。
パイロットのフランシス・ゲーリー・パワーズは脱出し無事であったがソ連に捕虜として捕らえられ公開裁判にかけられた。パワーズはスパイ飛行を認め有罪となるが、その後アメリカで逮捕されたKGBのルドルフ・アベル大佐との身柄交換により釈放された。
撃墜されたU-2は半径数100kmの範囲に散乱しており、それらの破片は数千人のソビエト軍によって拾い集められ、技術情報が収集された。フルシチョフはベリエフに対しU-2のコピー機を開発するように命令し、1961年には試作機S-13が完成した。しかし重量が重く高高度を飛ぶことができず1962年5月に開発が中止された[
冷戦下においてU-2偵察機はソ連や中華人民共和国、キューバなどの東側諸国への偵察飛行を行った。1962年10月14日にはキューバに偵察飛行を行いソ連軍のミサイル発射基地の建設を発見したが、27日にはソ連軍の地対空ミサイルで撃墜され、パイロットは死亡した。
1961年には、CIAの支援の下で中華民国空軍内にU-2を運用する第25中隊、通称「黒猫中隊」が創設された。黒猫中隊は、1959年からアメリカ国内で訓練を受けていた中華民国空軍のパイロットで編成され、2機のU-2での中華人民共和国奥地への偵察に従事した。当然、この任務も中国政府が支配している地域への領空侵犯をしながらの危険な任務であり、中国空軍による迎撃で5機を失い3名のパイロットが戦死、任務中や訓練中の事故で6名のパイロットが殉職した。U-2のほかにRB-57とRF-84Fも供与された。
黒猫中隊のもたらした情報は、中ソ国境での軍事的緊張を示しており、中ソ対立が深刻化していることを明らかにした。また中国の核開発の情報をもたらした。1972年にニクソン大統領の中国訪問で米中両国間の国交が樹立され、米中両国間の緊張関係が緩和されると中国への偵察任務は停められ、1974年に黒猫中隊は解散となった。
U-2はアメリカ海軍でも洋上哨戒機としての使用が検討されていたことがあり、空母運用試験用に改造されたU-2Gが1964年に空母「レンジャー」からの発着艦実験に成功し、同年フランスがムルロア環礁で行った核実験の情報収集に活用された。U-2Rにも空母運用のために改造された機体が存在し、1969年に空母「アメリカ」で試験された。しかし航続距離の長さ故に空母に搭載する必要性がないことなどから、結局海軍は偵察衛星や他の艦上機を使うことに決めたため、採用されなかった。
2010年代後半には、ISIL掃討作戦に出動。無人偵察機とともに幹部や隠れ家、戦闘拠点などの偵察にも活用されている
激化していた米ソ冷戦が、ソ連のニキータ・フルシチョフ首相の訪米などで一時期緩和されていた時期、アメリカ合衆国連邦政府はソ連に「技術格差をつけられた(ミサイル・ギャップ論争)」という認識が高まり、ソ連の戦略ミサイルを徹底的に監視することで、国家安全保障を確保する方針を固め、当時、ロッキードで開発されたU-2偵察機による高高度偵察飛行により、ソ連領内の弾道ミサイル配備状況などの動向を探っていた。
撃墜された機は、トルコ南部アダナのインジルリク空軍基地に展開していた臨時気象偵察飛行隊第2分遣隊[1](WRS(D)-2:CIAでの呼称は「分遣隊B」)所属のアーティクル360(56-6693)であったことが後に判明している[2]。
同機は事件が起こる前年、厚木基地配置のWRS(D)-3(分遣隊C)に所属していたが、燃料切れにより藤沢飛行場へ緊急着陸するという事件を起こしていた[2]。事件当日は飛行場でグライダー大会が行われており、多数の親子連れがU-2を目撃する事態となってしまった。U-2撃墜事件が起こる前の当時、同機は完全に秘密扱いされていたので、厚木からアメリカ軍がU-2を回収しにやって来るまでにU-2を目撃した民間人は、日本領土内に住む日本人であるにも拘らず、アメリカ軍の守秘義務誓約書に署名させられた[3]。
事故後回収された同機は、本国で修理された後、WRS(D)-2(分遣隊B)へ送られた
定期的に成層圏(高度2万5,000メートル)飛行で領空侵犯してくるU-2に対し、ソ連防空軍はMiG-19P迎撃戦闘機などで幾度となく迎撃を行っていたが、当時のソ連の戦闘機での迎撃は高度が足らず実質的に不可能であった。
ソ連は、新型のSu-9迎撃戦闘機の完成を急ぐと共に新型の地対空ミサイルの開発も進めており、これらは共に実戦配備に就いた。撃墜されず偵察任務を成功させた飛行士の中には、キューバ危機の発端となるキューバミサイル基地を撮影したエリクソン飛行士もおり、彼がパワーズ飛行士を指導した。
そして、パリで米ソ首脳会談が開催される2週間前の1960年5月1日、パキスタン・ペシャーワルの空軍基地を離陸し、ソ連領内で偵察飛行中のU-2に対し、ソ連側がS-75地対空ミサイル(ЗРК С-75)をスヴェルドロフスク州の第1ミサイル部隊からボルノフ少佐命令で発射しこれを撃墜することに成功した。なお、この際1機のSu-9迎撃戦闘機も迎撃に上がり、アラル海上空で目視したが、相手が高高度で迎撃に失敗した。
アメリカ軍機の自国領空侵犯の報を受けやきもきしていたフルシチョフ首相は、撃墜成功の報告をモスクワ赤の広場でのメーデーパレードの開始直後に知らされた。
パイロットのフランシス・ゲーリー・パワーズは、パラシュートで脱出し、スヴェルドロフスク州コスリノに着地し一命を取り留めた(自殺用の硬貨内蔵の毒薬を所持していたが、これを使用しなかった)が、村民に捕えられ、公開裁判にかけられ、スパイ行為を行っていたことを自白し、アメリカ側のスパイ行為の実態が明るみに出た。
当初アメリカ合衆国連邦政府は、「高高度での気象データ収集を行っていた民間機が、与圧設備の故障で操縦不能に陥った」という嘘の声明を発表したものの、ソ連からパワーズの自白と生存という「決定的証拠」を突き付けられると態度を一変し、当時のアメリカ合衆国大統領のドワイト・D・アイゼンハワーは、「ソ連に先制・奇襲攻撃されないために、偵察を行うのはアメリカの安全保障にとって当然のことだ。パールハーバーは二度とご免だ」と発言し、スパイ飛行の事実を認めた。
パワーズは8月19日にスパイ活動で有罪と判決され、禁錮10年シベリア送りを宣告された。しかし、ソ連とアメリカは、ソ連側がシスキンKGB西欧本部書記官、アメリカ側が元OSS顧問弁護士のドノバンを通じ、東ベルリンのソ連大使館でスパイを交換釈放することで合意した。
1年9ヶ月後の1962年2月10日、自首し亡命を申し出た別のスパイの供述を元にFBIが逮捕したソ連のスパイ、“マーク”ルドルフ・アベル大佐(中空の硬貨事件)とベルリンのグリーニッケ橋で交換された。なお、この橋は東西ドイツの国境であり、度々スパイ交換が行われた場所である。
この出来事を元に制作されたノンフィクション映画『ブリッジ・オブ・スパイ』が2016年、公開された。
この事件の際有名になったソ連の迎撃ミサイル(S-75)はNATOコードネーム「SA-2 ガイドライン」として西側に認知され、ベトナム戦争でも多くのアメリカ軍機を撃墜することとなった。
ソ連のニキータ・フルシチョフ首相は、アメリカ合衆国連邦政府に対し事件に関する謝罪を要求し、アメリカはこれを拒否したためパリ・サミットは崩壊し、フルシチョフは5月16日に会談を一方的に打ち切った(再開されたのは翌1961年6月、ウィーンで)。また、この事件はソ連によってアメリカによる犯罪行為として宣伝された。
この事件以後、アメリカの弾道ミサイル技術も格段に向上し、ミサイルギャップも影を潜めたため、U-2によるソ連領空内の高高度偵察飛行が行われることは無くなったが、アメリカと対立する国々へのU-2による高高度偵察飛行は、キューバ危機の際、再びU-2が対空ミサイルで撃墜されるまで頻繁に続けられたほか、中華人民共和国や北朝鮮に対する、領空侵犯のスパイ飛行が行われた。これをきっかけに、アメリカ軍での偵察衛星開発が始まる。
中華人民共和国に対してのスパイ飛行は、アメリカより中華民国空軍に供与された機体で行われていた。アメリカや中華民国側はこの件に関して、当然のことながら沈黙を保ったが、中華人民共和国側はソ連より供与されたSA-2により数機を撃墜し、残骸を北京の軍事博物館に並べて一般公開している
黒猫中隊(くろねこちゅうたい、こくびょうちゅうたい、繁体字: 黑貓中隊、簡体字: 黑猫中队、拼音: Hēi māo zhōngduì)は、台湾空軍に1961年から1974年まで存在した第8航空大隊第35中隊の通称である。通常は、空軍気象偵察研究班(空軍氣象偵查研究組 / 空军气象侦查研究组)の名で任務を行なった。
桃園機場(空軍桃園基地、2007~13年は海軍管轄で13年廃止)を拠点に、26名の台湾空軍パイロットがアメリカ合衆国でU-2偵察機の訓練を受け、102回(122回説もある)の中華人民共和国領空での監視飛行を含む、約220回の任務に従事した。
名称は、隊員の1人であった陳懐生少校(zh、本名:懐生、戦死後上校に昇進)が、同じく台湾を基地に活動していたCIAのU-2飛行隊「黒蝙蝠中隊」(en)のエンブレムを基に、U-2偵察機の機体と偵察という任務特性から描いた、金色の目をした黒猫をあしらったエンブレムに因む。
1950年代、朝鮮戦争休戦後も、中華人民共和国指導者の毛沢東が「ズボンを穿かなくても核兵器を持つ」と宣言するなど、東アジアでの冷戦は熾烈なものとなりつつあった。アメリカ政府は、フィリピンや米国統治下の沖縄、同盟国となった日本、韓国にアメリカ軍の基地を設置し、中国を初めとするソ連、北朝鮮といった東側諸国の動向に備えた。一方で、国共内戦に敗れて台湾に依拠した蔣介石率いる台湾国民政府とも米華相互防衛条約(1954年)を結んで経済的・軍事的供与を与え、アメリカの同盟国とした上で、中国に対する情報収集の拠点とすることを画策した。当時、偵察衛星による偵察技術は未熟で、中国奥地の明確な情報を得るためには、U-2などの高高度偵察機による偵察飛行以外の方法は無かった。
1952年、アメリカ中央情報局(CIA)は活動拠点として、台湾に西方公司というダミー企業を設置。台湾国民党政府との交渉を開始した。
黒猫中隊は1958年1月、CIAの支援の下、低高度での偵察任務を行なう第34中隊「黒蝙蝠中隊」と共に創設された。隊員は中華民国(台湾)空軍内から国共内戦以来の歴戦のパイロットが選抜された。同年、黒猫中隊はRB-57Dでの高高度偵察任務を開始した。しかし、大陸奥地の新疆ウイグル自治区ロプノール付近にあるとされていた中国の核実験場(実際の第1回核実験は1964年10月16日)には、桃園飛行場から片道約2,700kmもあり、中距離偵察機であるRB-57Dでは能力不足であり[1]、アメリカ政府は早々にU-2の導入をCIAに指示した。1959年、国民政府は飛行時間1,000時間以上の中校・少校12名を選抜し、沖縄の嘉手納飛行場で心理・身体テストに合格した5名が渡米した。5名は米本土テキサス州ラフリン空軍基地の第4028戦略偵察航空団で、基地外への外出も禁じられる苛酷な訓練に従事した。
1960年5月、U-2撃墜事件に伴う指示で、海外展開中の全てのU-2がアメリカ本国のエドワーズ空軍基地に呼び戻される中、7月に2機のU-2が国民政府に売却され、桃園飛行場に進駐した。1962年1月13日、1番機がロプ・ノール付近の核実験場や甘粛省双城付近の弾道ミサイル実験場への偵察飛行に向かい、第35中隊は任務を開始した。
部隊は台湾国内からのみならず、韓国やフィリピンの基地からも偵察任務に向かい、1965年までに約30回に及ぶ中国大陸奥地への偵察任務に従事した。1966年になると大陸内部への偵察任務は減少し、沿岸工業地帯での飛行任務が増加した。それでも、中国が1967年から1969年にかけて実施された大気圏内水爆実験に際しては、水爆の死の灰を収集するために、集塵器を装備したU-2Rが2機投入された[1]。このほか、蔣介石は黒猫中隊の偵察機に、帰投時に浙江省寧波市郊外の渓口鎮上空を飛行させ、自分の母親である王采玉の墓所を撮影するよう命じていた。墓所が荒らされていないかを危惧しての行動であったが、整備されているのを確認した蔣介石は安堵したという[1]。
黒猫中隊は、1回の偵察飛行で数千枚の写真を撮影し、その写真は特別機でアメリカに送られ、CIA写真解析センターで分析された。黒猫中隊によって収集された写真は、中国の核兵器開発の状況を正確に把握した。また、中ソ国境付近での軍事力増大から中ソ対立の拡大を明らかにしたことで、リチャード・ニクソン政権下での米中国交樹立に貢献したと考えられている。1972年、ニクソン大統領の中国訪問から間もなく、中国大陸への偵察飛行は全面中止となった。1974年10月に黒猫中隊は解隊され、アメリカ側の隊員と6機のU-2Rは帰国した。
偵察飛行には毎回、アメリカ合衆国大統領と蔣介石の承認が必要であった。撮影された写真は主に在日米軍基地で現像された。米中国交樹立に伴う部隊解散に際して、米国は台湾国民政府に偵察衛星が撮影した中国の画像を提供すると約束したが、提供された画像の解像度は低いものであった
部隊は、アメリカがU-2C(G及びFタイプの場合もある)或いはU-2R(1968年以降)偵察機を供与し、整備などを支援する一方で、台湾は基地と隊員を提供することで構成された。黒猫中隊には最低でも2機のU-2が配備され、1機のU-2が任務を行なっている間は他のU-2は待機するというローテーションを取っていた。撃墜や事故による喪失があった際は補充され、14年間の間に合計で19機のU-2が黒猫中隊に供与された。黒猫中隊のU-2は、基本的にアメリカが運用していたU-2と同じ全面ダークブルー(U-2C)或いは黒色(U-2R)であったが、胴体の左右に青天白日の国籍マークを施しているのが最大の特徴であった。
隊員は、台湾空軍の中から選抜され、毎年1〜5名のパイロットが渡米して約1年間の飛行訓練に従事した。1971年に訓練計画が中止されるまでに30名中27名が修了し、3名が訓練の途中であった。
もとより国民政府は「大陸反攻」を呼号し、中国本土も本来は国民政府の統治すべき地域で、そこを台湾空軍の航空機が飛行することを何ら問題にしていなかった。また、当時の中国空軍の地対空ミサイル大隊は、わずかに北京軍区と南京軍区にそれぞれ一個大隊しかなく、しかも大隊が保有するのは命中率2%というS-25 ベールクト(SA-1 ギルド)の発射機5基のみであった。しかし、人民解放軍空軍の遠距離警戒網が優れており、U-2の離陸から着陸までをほぼ100%探知していた上に、レーダーと地対空ミサイル部隊の連絡が充実していた。しかも、国民政府は飛行コースを安易に選んでおり、1962年7月までの11回の偵察飛行の内、8回が江西省南昌市上空を飛行していた[1]。このことを知った中国人民解放軍は、地質掘削調査隊を装って地対空ミサイル大隊を南昌に移動させ、U-2を待った。これが、同年9月9日の最初の撃墜に繋がった。
結果として、中隊が存続した14年間の間に、5機のU-2が中国人民解放軍空軍の地対空ミサイルで撃墜され、3名のパイロットが戦死し、2名のパイロットが捕虜となった[7][8]。中国がU-2を撃墜できるようになったのは、後述するように、ソ連でのU-2撃墜事件(1960年)でも使われた「SA-2」など、ソ連から導入した高高度地対空ミサイルを配備したためである[5]。
このほか、1名のパイロットが任務中の墜落事故で行方不明となり、訓練飛行中に8機のU-2が墜落し、6名のパイロットが殉職している
一度は解隊した第35中隊であったが、その後1977年に第427連隊の麾下に、T-33練習機を配備した混成部隊(3個分隊は夜間攻撃任務、1個分隊は電子戦任務)として再編成され、「神鴎演習」と称する電子戦部隊となった。1989年には、AT-3に装備を改変し、事実上の独立中隊である第35戦闘隊、通称「羚羊中隊」として再々編成された。1992年、第35飛行隊は岡山基地で第499連隊に編入されて解散。装備していたAT-3は通常の練習機に戻されて、空軍軍官学校で運用中である。
初代隊長であった盧錫良は、退役後の1986年に家族とともにアメリカに移住。中国国内の台湾軍捕虜の人権、特に台湾への帰還の権利を訴える活動家として活躍し、2008年12月15日に死去した。
隊員の1人であった王錫爵は、1965年に退役後、中華航空のパイロットとなったが、父親に会いたい一心で1986年5月3日に貨物機で中国に亡命。中国民航のパイロットを経て、60歳で定年退職後は民航総局華北分局副局長を歴任した。
2010年3月26日、行方不明となった張燮と訓練中事故死した郄耀華、黄七賢が、国民革命忠烈祠に入祀されることが決まった
2018年には、ドキュメンタリー映画『疾風魅影 黒猫中隊』(Lost Black Cats 35th Sq