USS Theodore Roosevelt (CVN 71)
原子力空母テオドアルーズベルト号 です
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自衛隊イラク派遣(じえいたいイラクはけん)は、イラク戦争初期の2003年(平成15年)12月から2009年(平成21年)2月まで行なわれていた、日本の自衛隊のイラクへの派遣行為の総称である。その目的は、イラクの国家再建を支援するためである。
「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」(イラク特措法)に基づくもので、活動の柱は人道復興支援活動と安全確保支援活動である。活動は「非戦闘地域」に限定されていたが、自衛隊創設以来初めて、戦闘地域ではないかとの論議のある地区に陸上部隊を派遣した。
陸上自衛隊は「人道復興支援」のため、比較的治安が安定しているとされたイラク南部の都市サマーワの宿営地を中心に活動し、2006年(平成18年)7月に撤収した。航空自衛隊は陸自の撤収後も輸送活動を継続していたが、2008年(平成20年)12月に輸送活動を終了した。
陸自によるサマーワでの活動の3本柱は「給水」「医療支援」「学校・道路の補修」の人道復興支援活動であった。
陸上自衛隊の派遣時に、車両約70両などの部隊輸送を艦艇で行った。(平成16年2月20日〜4月8日)
空自は主にC-130輸送機による輸送活動が任務。拠点はクウェートのアリ・アルサレム空軍基地に置かれ、イラク南部ナシリヤ近郊のタリル飛行場との間を往復していたが、陸上自衛隊のイラク撤収に伴い多国籍軍・国連のための輸送活動が強化され、危険性が高く避けられてきたバグダッド国際空港やイラク北部のアルビルへも活動を広げている。国連の人員・物資輸送は平成18年(2006年)6月20日の計画変更により任務となった。
兵員輸送と武器・弾薬の取り扱い
輸送活動の実績(平成16年3月3日〜平成20年12月12日)
隊長 | 職種 | 派遣主力方面隊 | ||
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1 | 2004年1月9日〜2004年8月1日 | 佐藤正久 | 化学科 | 北部方面隊・約100名 |
2 | 2004年8月2日〜2005年1月23日 | 田浦正人 | 機甲科 | 東北方面隊・約90名 |
3 | 2005年1月24日〜2005年7月18日 | 岩村公史 | 普通科 | 中部方面隊・約110名 |
4 | 2005年7月19日〜2006年1月22日 | 斎藤剛 | 航空科 | 西部方面隊・約100名 |
5 | 2006年1月23日〜2006年7月29日 | 小瀬幹雄 | 施設科 | 東部方面隊・約100名 |
期 | 派遣期間 | 群長 | 前職 | 派遣主力部隊 |
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1 | 2004年1月26日〜2004年6月10日 | 番匠幸一郎 | 第3普通科連隊長 | 北部方面隊第2師団 |
2 | 2004年4月27日〜2004年9月15日 | 今浦勇紀 | 第11後方支援連隊長 | 北部方面隊第11師団 |
3 | 2004年7月28日〜2004年12月18日 | 松村五郎 | 第21普通科連隊長 | 東北方面隊第9師団 |
4 | 2004年11月5日〜2005年3月11日 | 福田築 | 第20普通科連隊長 | 東北方面隊第6師団 |
5 | 2005年1月28日〜2005年6月10日 | 太田清彦 | 第35普通科連隊長 | 中部方面隊第10師団 |
6 | 2005年4月26日〜2005年9月3日 | 鈴木純治 | 第36普通科連隊長 | 中部方面隊第3師団 |
7 | 2005年7月19日〜2005年11月26日 | 岡崎勝司 | 第16普通科連隊長 | 西部方面隊第4師団 |
8 | 2005年10月11日〜2006年3月4日 | 立花尊顯 | 第43普通科連隊長 | 西部方面隊第8師団 |
9 | 2006年1月20日〜2006年6月10日 | 小野寺靖 | 第34普通科連隊長 | 東部方面隊第1師団 |
10 | 2006年4月28日〜2006年7月29日 | 山中敏弘 | 第30普通科連隊長 | 東部方面隊第12旅団 |
期 | 派遣期間 | 司令 | 期 | 派遣期間 | 司令 |
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1 | 2004年1月〜2004年4月 | 新田明之 | 9 | 2006年3月〜2006年7月 | 西野厚 |
2 | 2004年4月〜2004年7月 | 日暮正博 | 10 | 2006年7月〜2006年11月 | 田中久一朗 |
3 | 2004年7月〜2004年10月 | 寒河江勇美 | 11 | 2006年11月〜2007年3月 | 岩本真一 |
4 | 2004年10月〜2005年1月 | 永井昭雄 | 12 | 2007年3月〜2007年7月 | 渡邊弘 |
5 | 2005年1月〜2005年4月 | 野中成竜 | 13 | 2007年7月〜2007年11月 | 新井正弘 |
6 | 2005年4月〜2005年7月 | 金子康輔 | 14 | 2007年11月〜2008年3月 | 赤峯千代裕 |
7 | 2005年7月〜2005年11月 | 池田吉夫 | 15 | 2008年3月〜2008年7月 | 関俊彦 |
8 | 2005年11月〜2006年3月 | 中島聡明 | 16 | 2008年7月〜2008年12月23日 | 北村靖二 |
派遣された陸上自衛隊の部隊は次のような編成である。
2006年(平成18年)11月27日に、イラク復興支援群の編成を担任した部隊等22個部隊等に対して、陸上幕僚長から第2級賞状、第3級賞状が授与された。第2級賞状を授与されたのは、第1師団、第2師団、第3師団、第6師団、第8師団、第9師団、第10師団、第11師団、第12旅団、警務隊、第1空挺団、中央輸送業務隊、特殊作戦群である。また、第3級賞状を授与されたのは、陸上自衛隊研究本部、陸上自衛隊補給統制本部、自衛隊中央病院、通信団、情報保全隊、北海道補給処、第1施設団、関東補給処、部隊訓練評価隊である。また、本任務に参加した隊員総員に対し第17号及び第35号(当時)防衛記念章が授与された。
また、同年12月14日には、テロ対策特措法及びイラク人道復興支援特措法に基づき派遣された自衛隊員(イラク派遣隊員・インド洋派遣隊員で、幹部自衛官から下は2等陸曹まで)並びに在サマーワ外務省連絡事務所職員等約180名を天皇・皇后が皇居宮殿で接見。
2007年(平成19年)2月8日には、第10期イラク復興支援派遣輸送航空隊(2006年8月25日から同年12月24日までの間任務に当った。司令は田中久一朗1等空佐)及びその支援部隊に、久間章生防衛大臣から第1級賞状が授与された(省移行後初の第1級賞状授与)。また、同日、齋藤隆統合幕僚長から、田中久一朗1等空佐及び井筒俊司1等空佐に対して、第2級賞詞がそれぞれ授与された。
2007年(平成19年)3月13日に、訪日していたジョン・ハワード豪州首相は、小野寺靖1佐(元第9次イラク復興支援群長)以下12名の元日本部隊隊員と面会し、感謝の言葉を述べた。
イラク南部サマワから撤退した陸上自衛隊の第10次人道復興支援群の山中敏弘群長(45)ら277人が25日午前7時半ごろ、民間のチャーター機で羽田空港に到着した。派遣された計約600人全員の帰国が終了、2年半に及んだイラク派遣は終わった。今後は航空自衛隊が活動地域を広げて輸送業務にあたる。
イラク サマーワ自衛隊宿営地(衛星画像)です
いまはつわものどもの夢のあとでしょうか
後半の画像はサマーワ市内です
陸自部隊の宿営地には、二重のフェンスを張り巡らし、堀や壕(ごう)も設けます。入り口には、車両が突入できないように障害物を設けてジグザグの通路をつくります。そこに、(1)警備員による検問ゲート(2)金属探知機などによる車両・人員の点検ゲート(3)前方の合図で開閉する後方ゲート-の三重の開閉式ゲートを設置。それぞれのゲートで、武装した自衛隊員が警備にあたります。監視カメラも取り付けます。
宿営地外で移動する場合は、襲撃に備え、車列の前方と後方に高機動車などを配置し、警戒にあたります。
政府はすでに、陸自部隊に無反動砲や対戦車弾、装輪装甲車など、かつてない強力な武装をさせることも明らかにしています。
防衛庁は、陸自部隊の武器使用について定める「部隊行動基準」(ROE=交戦規則)を作成。同規則について「(隊員が)ちゅうちょすることなく適切に武器を使用する」(関係者)よう定める考えです。
陸自部隊は、宿営地を活動拠点にして給水支援を行うとしています。
しかし、攻撃を避けるため、基本的には、地元自治体が保有・契約している水タンク車に、自衛隊の宿営地までわざわざきてもらい、給水する形をとります。自治体の水タンク車は、三重のゲートを通り、宿営地の中まで入らなければなりません。イラク国民に直接給水するのは「現地の状況に応じて行う」(関係者)というだけです。
宿営地などの警備にあたる兵員は百三十人にのぼり、給水などの活動に携わる兵員百二十人を上回るとも報じられています。
政府内からもすでに「NGO(非政府組織)にお願いして、ミネラルウオーターを送った方が安いという話にもなる」(高官)との声が上がっています。
陸自部隊は給水支援のほか、建設・修理や医療分野での支援も行うとしています。しかし、建設・修理は、(1)学校の建具などの軽易な補修やグラウンドの整備(2)交通量が少ない道路を選んでの補修や側溝づくり-と極めて限定的なもの。医療も、診療・看護・検査などの技術指導・助言が中心です。
警備にあたる要員は550人中約130人で、給水、医療、施設といった「人道復興支援活動」に直接従事する要員に匹敵する。
陸上幕僚監部は、給水や医療などの部隊が少人数で移動し、宿営地外で活動している時が最も危険と判断。機関銃などを載せられる装甲車や軽装甲機動車に分乗した専門の警備要員による護衛をつけることにしている。
この護衛にあたるのが警備中隊。約130人(3個小隊)は、機関銃や対戦車火器の射撃技術を持った隊員や、装甲車両の操縦ができる隊員などが中心となっている。
一方、基本計画で「人道復興支援」と規定された活動に直接従事するのは計約120人。内訳は浄水・給水活動にあたる給水隊が約30人、派遣隊員の治療と同時に現地での医療支援にもあたる衛生隊が約40人、宿営地の設営後に公共施設の復旧活動にもあたる施設隊は約50人となっている。
残る約300人は司令部にあたる部署のほか、通信、整備、補給、輸送など部隊全体の後方支援にあたる要員が占めている。
これまでのPKOでも警備要員が派遣されたが、ごく少人数で、100人を超す中隊規模の警備部隊の設置は初めて。
陸自部隊の宿営地はサマワ市街地から南十数キロの見通しが良い砂漠地帯に設営する。自爆テロのトラックなどが突っ込んできても早く気づくことができ、無反動砲や個人携帯対戦車弾による阻止が可能になるからだ。
約800メートル四方の土地を鉄条網で二重に囲み、堀や壕を掘る。施設内や周辺には赤外線センサーや監視カメラを設置。進入路には互い違いに防護壁を築き、車が一直線に突っ込んで来られないようにする。ゲートも数カ所築き、警備員による検問、金属探知器による点検を重ねる。
陸自が担う代表的な支援活動は浄水と給水だ。提供する飲料水は1日に約2万人分にあたる70~80トンに及ぶ。
宿営地内は一定の安全が確保されても、「宿営地の外は危険」(陸自幹部)。このため、浄水・給水活動も基本的に宿営地のなかで行う。宿営地に隣接する水路から水を引き、二重の鉄条網の内側に設置した浄水車で濾過(ろか)。鉄条網と鉄条網の間にサマワ市などが所有する給水車に来てもらい、水を補給する。市民に水を配るのは主にこの給水車の役割になる。
とはいえ、宿営地内に閉じこもりきりというわけにはいかない。状況が許せば陸自の給水車での配水も行うほか、医療、建設などの支援も予定しており、これらは宿営地の外での活動が中心になる。医療支援ではサマワ周辺の二つの病院に医官を派遣。診察や医師への技術指導にあたる。建設支援では学校や道路の補修を予定している。
移動の際には車列の前後を走る車が狙われ、車列が動けなくなったところで襲撃されることが多い。このため、先頭と最後尾には装輪装甲車や軽装甲機動車を配置する。 (12/20 06:07)
第1次イラク復興業務支援隊の佐藤正久1佐は、到着直後から積極的に地元首長など有力者と接見し、自衛隊の活動への理解を求め、住民側はこれを快く受け入れた。これは当初、サマーワの住民が、自衛隊が派遣されることにより雇用問題などが劇的に解決されると過剰に期待していたことから[8]、これを訂正する目的もあった。佐藤1佐が帰還する際、有力者に率いられた住民が、宿営地前でデモ活動をして、これが当初、自衛隊に反対するデモと見られたが、実際は日章旗を振りながら佐藤1佐に感謝するデモ活動であった。
自衛隊では地元住民と融和する為、文房具を配ったり[9]、各部族長に羊肉を贈答したり[10]、子供達の前で演奏会を行い[11]、スーパーうぐいす嬢作戦を行うなど、様々な対策を行った。「スーパーうぐいす嬢作戦」とは、日本の選挙活動での街宣車うぐいす嬢を捩ったもので、車両で移動する際に市民を見かけたら、自衛隊員から手を振るようにしたものである。この作戦の成果は絶大で、自衛隊の車両が通るときには子供達が自分から手を振るようになった。車列を組む為に車道に進入する際は、地元の車両に対して機銃等ではなく、手を使って合図を送った。また日本の風習を紹介しようとこいのぼりを記事にしたところ、「鯉が竜神になる」点が唯一神教のイスラーム教のタブーにふれる事を指摘され修正するなど、地元住民の宗教に対しても気をつかった[12]。佐藤は地元住民との友好関係を「信頼と安全の海」と述べている[13]。
しかし、自衛隊の主要任務は水道・病院施設などのインフラストラクチャー整備による復興計画であり、直接的な雇用の回復などを期待していたサマーワの住民の思惑とは違っていた[8]。自衛隊との思惑の齟齬でサマーワ市内で自衛隊撤収を求めるデモが起こるが、その数日後には、治安の悪化や劇的ではないにしろ助けにはなっていると、自衛隊の活動を支持するデモも行われる。また、迫撃砲・ロケット弾による宿営地攻撃が13回計22発にわたって発生したが、奇跡的に死傷者は出なかった。地元警察、オランダ軍、友好的住民がすぐかけつけるため、照準修正ができなかった事が原因とされる[14]。さらにサマーワは地方都市であるため首長間や住民同士の付き合いが濃密で、市外からのテロリスト・武装勢力が侵入しにくい点が、専守防衛に徹しなければならない為にテロを阻止することができない自衛隊の救いになっている。首長の1人は「日本の自衛隊を攻撃したものは一族郎党皆殺しにする」と公言し、自衛隊の安全確保に一役買った[15]。
2005年(平成17年)1月19日に陸上自衛隊をイラクのサマーワに派遣してちょうど1年を迎えるにあたって、同年1月上旬に地元紙アッサマワが現地のムサンナ州の住民1000人を対象アンケート調査が行われた。その調査によると、日本国政府の陸上自衛隊派遣延長についての支持が78%、不支持は13%であることが明らかになった。また、自衛隊の活動に対して不満と答えた人は約3割おり、その主な理由を「事業が小規模」とあげた人が半数近く上るなど、大規模な都市整備などの活動が望まれている。自衛隊の望ましい駐留期間も、「1年」と「1年以上」で約70%以上を占め、2004年の調査の結果とほぼ変化はなかった。
オランダ国軍が2005年(平成17年)3月でイラク派遣(ムサンナ州の警備)を終了する旨を表明。当初、撤収の後には米軍か英軍が進駐すると思われ、その際にはこれらを狙う武装勢力も侵入する恐れがあり、自衛隊の安全が保たれるか不安の声が上がった。また武装勢力によってサマーワの治安が悪化することも考えられたが、オランダを引き継いでムサンナ州入りしたのは、米軍よりは評判のよいオーストラリア軍と英軍であり、混乱は起こらなかった。
しかし、2005年(平成17年)5月末から6月にかけて、自衛隊への投石、日章旗落書き、手製爆弾攻撃(負傷者なし)が一時的に発生した。このため急遽、任務が終わった給水要員の一部を転用して警備要員を増やし、宿営地外での活動を3時間から1時間に削減するなどの対応をとった。用件を1時間以内で終わらせて宿営地へ帰還する自衛隊に対し、市民からは「自衛隊は市民を怖がっている」「自衛隊は隠れているだけ」といった批判も聞こえるようになった。
これらの事件の背景には、自衛隊の活動内容と一部の地元首長や住民の要望に乖離があったためと見られるが、日本はサマーワに対して資金的な援助(道路・橋梁・学校・病院の建設や修繕にかかわる援助と円借款)も行っており、この資金の分配(主に地域別の建設や修繕の優先順位)を巡って首長間の意見対立が起こり、一連の事件の要因になっているとも言われる。事件後に陸上自衛隊がサマーワ市長に苦言を告げたところ、このような行動は一切無くなった。また自衛隊では、これらの事件のたびに各首長と面談し、自衛隊の活動に理解を求めると共に、自衛隊の活動停止をカードとして、首長や住民代表と慎重な調整を行っており、サマーワの平穏をもたらしてきた。
日本政府は2006年(平成18年)6月に自衛隊の撤収を命令した。これを受け、共同通信社がサマーワ市民に、自衛隊の活動に対する評価アンケートを行ったところ、78.7パーセントが復興支援に「満足している」と答えた。一方、「自衛隊は占領軍である」と答えた住民は12.4パーセントで、過去4回の調査で初めて1割を超えた。朝日新聞が8月31日に発表した調査では、自衛隊駐留に対し肯定的評価が71パーセント。自衛隊の活動について、「人々に大いに役立った」が28パーセント、「ある程度役立った」が39パーセントという評価となった[16]。自衛隊は給水水量5万3500トン、医療技術指導277回、新生児死亡率1/3、総雇用人員48万8000人の数字を残して撤収した[17]。
撤収発表と前後して、サマーワ市内や郊外で爆発や市幹部の暗殺が発生した。イラクの他の地域より安定しているとされてきたサマーワも、治安の悪化が問題となっている。
自衛隊のサマーワ撤収より6年後、2013年3月20日、朝日新聞の元現地助手が報告したところによると、自衛隊による道路の整備については質が悪く、多くをやり直す必要があったとして「失敗」としている。ただ、サマーワの人々の批判は、自衛隊ではなく、武装勢力の妨害や州政府の腐敗に向かっており、自衛隊には感謝しているとされる。また、サマーワの病院への支援や、火力発電所の建設は高く評価されている。サマーワの病院では難しい手術を実施できるようになり、イラクの南部地域でも最高のレベルの医療技術を持つようになったという。他、復興支援活動で、莫大な資金が投入された結果、人々の経済格差が開いたともされる[18]。
陸上自衛隊活動期間中のサマーワを中心としたムサンナー県の治安に関わる主な攻撃・事件。