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2005年05月

真空管 産業技術史資料
 

小型マグネトロン SP-528


100

所在等国立大学法人 東京工業大学
所在地東京都目黒区
製作(製造)年1935~1940
種類その他
製作者(社)等川西製作所(のちに神戸工業・TEN真空管,その後富士通と合併)
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴・4分割陽極をもつ小型のマグネトロン ・陽極の引出構造に特徴(均圧環をもたず、分割陽極に別々の引出線がある) 岡部のB形振動を発振させるため、分割陽極間に外部共振回路を接続できる構造と推定 ・試作管に近い少量生産品か? ・東京工業大学での使用経歴は不詳(均圧環の考案と何らかの関係があった可能性もある) (全長15cm)
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X線管(ギバ・レントゲン管球)


101

所在等株式会社東芝 東芝科学館
所在地神奈川県川崎市幸区
製作(製造)年1915
種類試作品
製作者(社)等東京電気(株)~(株)東芝の前身
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴わが国初のX線管(ギバ・レントゲン管球) 、1915(大正4)年製 、 真空管製造の独自技術と設備を駆使して誕生。古代インドの尊者ギバの名を冠した国産初のガス入りX線管。
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三極真空管(オージオンバルブ)


102

所在等株式会社東芝 東芝科学館
所在地神奈川県川崎市幸区
製作(製造)年1916
種類
製作者(社)等東京電気(株)~(株)東芝の前身
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴わが国初の三極真空管 、1916(大正5)年製 、 白熱電球の国産化で習得した真空技術と設備を基に完成。オーヂオンバルブと名づけた。ソケットが電球と同じエジソンベースが特徴。
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受信管(電力増幅ビーム管) UY-807


103

所在等東芝電子管デバイス株式会社
所在地栃木県大田原市
製作(製造)年1951
種類量産品
製作者(社)等株式会社東芝~東芝電子管デバイス株式会社
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴アマチュア無線愛好家には短波帯で安定に動作する真空管として著名な名品であった。 発振及び電力増幅用 B級/C級。 ST管 B級増幅、600V、陽極損失25W。
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受信管 5642


104


所在等東芝電子管デバイス株式会社
所在地栃木県大田原市
製作(製造)年1960
種類量産品
製作者(社)等株式会社東芝~東芝電子管デバイス株式会社
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴TV高圧整流用/ 真空管製造会社太陽電子(アポロ)で開発
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三極送信管 2C39A


105

所在等東芝電子管デバイス株式会社
所在地栃木県大田原市
製作(製造)年1961
種類量産品
製作者(社)等株式会社東芝~東芝電子管デバイス株式会社
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴別名 灯台管とも呼ばれる極超短波用マイクロウェーブ専用管の代表的な空冷三極真空管で、広範囲な用途に活用された。 動作周波数2,500MHz、陽極損失100W、最大陽極電圧1,000V、125mA。
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プラチノトロン 1AM90


106

所在等東芝電子管デバイス株式会社
所在地栃木県大田原市
製作(製造)年1963
種類量産品
製作者(社)等株式会社東芝~東芝電子管デバイス株式会社
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴マグネトロン型のパルス高出力レーダ増幅用真空管/ 1250~1350MHz、出力 1MW、利得10dB、39.5kV、35A/ マグネトロン型のパルス増幅管。
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送信管 (空冷三極管) U242Tg

107

所在等日本無線株式会社 三鷹製作所
所在地東京都三鷹市
製作(製造)年1935
種類量産品
製作者(社)等日本無線電信電話株式会社(現 日本無線株式会社)
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴超短波真空管の研究を進めて行く中で、1935年、この3極真空管が開発された。波長は3.5mで出力は300Wである。これを用いて、超短波治療器"Aloka"が完成した。当時は超短波・高出力を発生する機器はなかったので、医学界に大きな反響を呼び、大きな売れ行きを見せた。製品カタログには、"超短波発振、及び増幅用三極真空管にして、陰極にタングステン繊條を用い、陽極及び格子は管腹に対して導出したものである。電極の加熱に対して安全なるよう特殊の構造を施したるを以て超短波治療機械は電気メスなどの如く出力回路の電気的状態が常に一定ならず刻々調整を要し為に電極に加熱される機会多きものに特に賞用される。”とある。陽極電圧4kV、許容陽極損失500W、相互コンダクタンス4.5mS
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送信管 (バルクハウゼン・クルツ振動管) US80B


108

所在等日本無線株式会社 三鷹製作所
所在地東京都三鷹市
製作(製造)年1935
種類量産品
製作者(社)等日本無線電信電話株式会社(現 日本無線株式会社)
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴1931年以来、マイクロ波真空管の研究を進め、1935年に完成したものがこの波長 65 cm、出力 8 Wの、いわゆるBK振動管である。当時としては、画期的なマイクロ波真空管であり、世界的な記録として、学会から賞賛された。東京工業大学が大岡山-筑波山間 80 kmの遠距離通信実験に成功した際の送信機にも使われた。格子電圧 400 V、格子電流 250 mA、格子入力 100 W
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送信管 (空冷五極管) P256


109
所在等日本無線株式会社 三鷹製作所
所在地東京都三鷹市
製作(製造)年1939
種類
製作者(社)等日本無線電信電話株式会社(現 日本無線株式会社)
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴ドイツ、テレフンケン社より導入を行って完成した空冷五極管である。制御格子が真空管の上部と下部に引き出され、小型化され、且つ、制御変調特性が良く、陽極から制御格子への反結合が極めて少なく、高い周波数帯域でも安定な動作が得られた。陽極、他には新材料のジルコニュームの粉末が塗布されており、超寿命化に貢献した。陽極失損420W、出力600W、最高周波数30MHz、陽極電流0.5A、相互コンダクタンス4.5mS
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受信管 (航空機用万能五極管) FM2A05A


110

所在等日本無線株式会社 三鷹製作所
所在地東京都三鷹市
製作(製造)年1941
種類量産品
製作者(社)等日本無線電信電話株式会社(現 日本無線株式会社)
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴第二次大戦中、海軍の航空機用無線機の万能五極管として量産されたボタンステム型のもので、独国テレフンケン社のNF-2に近い構造を持ち、機械的にも頑丈で、航空機用無線機に利用された優秀な性能を持った真空管であった。その製造には高度の生産技術を要し、そのため多数の技術者や工員が動員された。管は、ボタンステムとガスバルブを封着し、これにアルミニュームのシールド缶を被せたもので、ガラスバルブとシールド缶との間には緩衝用のゴム環をはめてある。また、シールド缶には再利用が効くよう本体にねじ止めがしてある。陽極電圧 250V,陽極電流3.3mA、カソード電流0.21A、相互コンダクタンス3mS,最高周波数50MHz
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マグネトロン (多重通信用パルスマグネトロン) M402


111

所在等日本無線株式会社 三鷹製作所
所在地東京都三鷹市
製作(製造)年1953
種類量産品
製作者(社)等日本無線株式会社
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴初めて製作された実用可能な周波数可変全金属型マグネトロンである。最初、大阪-姫路間の国鉄マイクロ波帯PPM方式多重無線通信装置に使用された。それまでの通信用マグネトロンはガラス球に封じ込んであったが、これはレーダー用マグネトロンと同様に全金属製とし、レーダー用真空管完成の技術をそのまま活かして作られたものである。波長調整用の空胴回路を内蔵している。また、マグネットを小さくするため、陽極金属管として設計されている。12分割橘型陽極を採用、周波数 6,575 - 6,875 MHz、尖頭出力 100 W、磁界2500G
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報時用標準時計装置 QC-76VTA


112

所在等セイコーミュージアム
所在地東京都墨田区
製作(製造)年1958
種類写真
製作者(社)等株式会社服部時計店 工場精工舎
調査機関団体青木主任調査員(時計)
特徴日本初の商業用水晶時計。放送局や工場など正確な時刻を多箇所で必要とされる用途に向けた親時計。正副発振器を備えた2系統で構成される。通常時は真空管方式の正発振器で運転するが、停電・真空管の故障などの場合は、瞬時に直流電池で駆動するトランジスタ方式の副発振器に切り替えることで、無休止体勢を実現。正発振器は300KHz水晶振動子、副発振器は150KHz水晶振動子を使用。精度は正発振器(真空管方式)日差±0.01秒以内、副発振器(トランジスタ方式)日差±0.1秒以内。1号機は1959年に中部日本放送に納入。
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電子管 TW-511-A


113

所在等逓信総合博物館
所在地東京都千代田区
製作(製造)年1931
種類量産品
製作者(社)等東京電気
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴空冷式三極真空管で、出力は5KWである。 なお、後継機種TW510-Aの出力は10KWであった。
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電子管 UX-109


114

所在等逓信総合博物館
所在地東京都千代田区
製作(製造)年1932
種類量産品
製作者(社)等東京電気
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴乾電池を使用する設計で消費電流が少なかったので、携帯用真空管として増幅、検波などを用いられた。
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電子管 Ut-6B7


115

所在等逓信総合博物館
所在地東京都千代田区
製作(製造)年1934
種類量産品
製作者(社)等東京電気
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴検波・増幅・周波数変換用真空管である。三極管・五極管を一つバルブに収めた複合管である。 三極管を局部発信用に用い、五極管を混合して用いれば、スーパーヘテロダイン受信機として用いられた。また、レーダー用にも使われた。
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電子管 UV-845


116

所在等逓信総合博物館
所在地東京都千代田区
製作(製造)年1934
種類量産品
製作者(社)等東京電気
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴空冷式三極管で、ファイラメントにトリウムタングステンを使用した送信用真空管である。
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電子管 CZ-501-D


117

所在等逓信総合博物館
所在地東京都千代田区
製作(製造)年1939
種類量産品
製作者(社)等東京電気
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴五極真空管で、品質向上のため材質に工夫が施されていて、実用寿命試験では13万時間という記録が残っている。搬送電話中継所の増幅用・発振用に用いられていた。
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電子管 8T20RA


118

所在等逓信総合博物館
所在地東京都千代田区
製作(製造)年1965
種類量産品
製作者(社)等東京電気
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴短波用の発振・増幅用などに用いられた強制空冷式三極真空管で、短波送信用として8KWの出力が得られる。フィラメントにトリウムタングステンを用い短波帯における特性を高めている。
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電子管 三極管(球形オーディオン)(UN100)


119

所在等電気通信大学歴史資料館
所在地東京都調布市
製作(製造)年1917
種類量産品
製作者(社)等東京電気(株)
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴1907年にドフォレスト(米)が三極管オーディオンを発明すると日本でも逓信省電気試験所や海軍、それに逓信官吏練習所などで真空管の試作・研究が始められた。この三極管UN100は、発明者が起業したドフォレスト社(米)が1909年に製作した球形オーディオン両翼型をモデルに、日本で初めて製造が開始された管である。
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電子管 三極管(オーディオン)(UV102)


120

所在等電気通信大学歴史資料館
所在地東京都調布市
製作(製造)年1920~1922
種類量産品
製作者(社)等東京電気(株)
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴欧米の製造技術に追いつくべく開発された国産最初期の三極管。先進の初期型真空管と電極の構造は類似しているが、完全な模造品ではない。この管は現品に名称の記載はないものの、円筒状のチューブラー管で、垂直の同軸型電極でベースなしの構造が、UV102の特徴を明確に表している。
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電子管 三極管 TV8


121

所在等電気通信大学歴史資料館
所在地東京都調布市
製作(製造)年1923~1925
種類量産品
製作者(社)等東京真空管(株)
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴ドフォレストが製作した最初期のオーディオンを基にフランス軍通信隊(TM)が1915年に開発した高真空で横向き同軸円筒形の電極構造管をもつ管。英/仏型4ピンのベースも初めて取付けられた。これらを雛形として、東京電気(株)のUF101や、東京真空管(株)のTV8などが日本で製造された。
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電子管 強制冷却四極送信管 8F75R


122

所在等電気通信大学歴史資料館
所在地東京都調布市
製作(製造)年1977
種類量産品
製作者(社)等日本無線(株)
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴1960年から開始された、一連の"メッシュ・カソードを採用した強制空冷四極送信管"開発の最後となった管。陽極損失:6kW、最高周波数:250MHz。前段に短波帯(4~30MHz)全域をカバーする半導体広帯域増幅器を用いて、"唯一の真空管(送信管)で電力増幅段を構成する送信機"に使用された。主にKDDの遠洋船舶向け無線電話など、短波SSB無線電話送信機の性能改善と小型化に役立った。
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TYK無線電話機


123

所在等郵政博物館資料センター
所在地千葉県市川市
製作(製造)年1913
種類量産品
製作者(社)等安中電気製作所
調査機関団体平成18年度森島主任調査員調査分
特徴逓信省電気試験所の技師であった鳥潟右一、横山英太郎、北村政治郎が1912年(明治45年)に発明した無線電話機で、3氏の頭文字を取って「TYK」と呼ばれた。この無線電話は、陰極にアルミニウム、陽極に真鍮を使った放電間隙と、陰極に銅を陽極に磁鉄鉱を使ったもう一つの放電間隙とを並列におけば、電話に必要な連続電波が得られるしくみになっている。しかし、大正6年に真空管の製作が可能となり使用中止となる。<仕様>幅:910mm。奥行き:605mm。高さ:1990mm。重量:約110kg。
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瞬滅火花式放電電極


124

所在等電気通信大学 歴史資料館
所在地東京都調布市
製作(製造)年1920
種類量産品
製作者(社)等安中電機製作所
調査機関団体平成18年度森島主任調査員調査分
特徴真空管以前の原始的な無線送信装置の一部。12組の電極(直径50ミリ、板厚5ミリ、銀製)で構成、それぞれが厚さ0.1ミリの雲母板で絶縁されている。感応コイルあるいは高周波発電機の出力電圧を印加して、強力な放電を起し、共振用のコイルならびにコンデンサを併用して希望の周波数の電波を送出させる。電気通信大学の前身校「電信協会管理無線電信講習所」で大正10年9月21日に開局した実験無線局(J2JQ)で使用された。
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テスラコイル


125

所在等電気通信大学 歴史資料館
所在地東京都調布市
製作(製造)年1920
種類量産品
製作者(社)等東京無線電信電話製作所
調査機関団体平成18年度森島主任調査員調査分
特徴瞬滅火花式放電電極とともに真空管以前の原始的な無線送信装置の一部。同時に展示している巨大なコンデンサと組み合わせて、その共振回路を構成するためのコイルである。幅1インチの銅帯を渦巻状に木枠に挟み込んで作られている。大理石製の前面パネルのハンドルを回転させ、コイル上の褶動子を移動させるとコイルのインダクタンスが変わる。パネル上で2周波数を選択できるが、実験局は1,775kHzのみを使用した。
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長中波無線電信送信機


126

所在等電気通信大学 歴史資料館
所在地東京都調布市
製作(製造)年1929
種類量産品
製作者(社)等安中電機製作所
調査機関団体平成18年度森島主任調査員調査分
特徴国産真空管による初期の無線送信機。使用真空管は正面左から、CYMOTORON KN-154、東京電気 KN-154(整流管)、TOYO UN-154(3極管)。3極管1本で自励発振と電力増幅を行う。送信出力は、137、150、430、500各kHz(A1)、200W。直熱管のフィラメント電圧を微調整する電源装置を備る。昭和5年「無線電信講習所」の新実験局(J2JD)の送信機。
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船舶用短波送信機 ART-922


127

所在等電気通信大学 歴史資料館
所在地東京都調布市
製作(製造)年1942
種類量産品
製作者(社)等安立電気株式会社
調査機関団体平成18年度森島主任調査員調査分
特徴戦時標準船用の短波送信機。終段電力増幅(P256)、前段増幅(3P50A)、逓倍・自励、水晶発振。短波:5,420、5,570、6,650、8,280、8,425、8,500各kHzを送信。送信出力C級500W。周波数切替は発振・逓倍・前段増幅各段の同調素子のドラムが回転し各真空管に接続。電源筐体(右)整流管はQC-717-C 2本、HX-966 2本で高圧・中圧電源供給。短波送信機ART-921と同型筐体で装備。
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九四式五号無線機の送信機


128

所在等陸上自衛隊久里浜駐屯地 歴史資料館
所在地神奈川県横須賀市
製作(製造)年1944
種類量産品
製作者(社)等不詳
調査機関団体平成18年度森島主任調査員調査分
特徴陸軍の地上部隊の無線機。九四式五号無線機の送信機であり、受信機を上に乗せて使用された。通信距離は10km、周波数は900-2000kHz、4000-5000kHz、送信出力は1.3W、水晶発信、真空管UZ12C、受信機はオートダイン方式、3本の真空管使用。電源はDC150VまたはDC6V、空中線は逆L型、重量は約40kg。
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九四式三号甲無線機


129

所在等陸上自衛隊久里浜駐屯地 歴史資料館
所在地神奈川県横須賀市
製作(製造)年1944
種類量産品
製作者(社)等東京第一陸軍造兵廠
調査機関団体平成18年度森島主任調査員調査分
特徴陸軍の地上部隊の騎兵用無線機。上部が送信部、下部が受信部である。通信距離は80km、送信周波数は400-5,700kHz、受信周波数は350-6,000kHz、送信出力は10W、水晶発信方式、真空管UY510B、受信部はスーパーヘテロダイン方式、真空管5本、電源は送信手回発電機(二人用)、受信は乾電池、空中線は逆L型(柱高7m)、全装備重量は約110kg、開設撤去時間は6人で10-20分。
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九二式特受信機改四


130

所在等陸上自衛隊久里浜駐屯地 歴史資料館
所在地神奈川県横須賀市
製作(製造)年1947
種類量産品
製作者(社)等日本無線電信電話株式会社
調査機関団体平成18年度森島主任調査員調査分
特徴長波・短波兼用の海軍で艦船用に広く使われた受信機。右は線輪(コイル)の箱。海軍における零式戦闘機とともに名機の一つである。真中にバーニヤ同調器、右端のボックス型A線輪(周波数切り替え)、周波数20kHz-20MHzカバー、スーパーヘトロダイン方式、電源電池:DC6V/100V/200V、真空管使用。出典:飛永「海軍少年電信兵」。
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UMD-2形移動用無線電話装置


131

所在等警察庁
所在地東京都
製作(製造)年1963
種類量産品
製作者(社)等松下通信工業
調査機関団体平成18年度森島主任調査員調査分
特徴300MHz帯の同時送受話ができる移動用無線機である。本装置は車輌等に積載、基地局を介して有線交換台に接続し、内線電話機と同時送受話方式で通話ができる。送信出力10Wの車載無線機で送受信部に真空管を使用。固定局用は出力20W。
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(サブブースター)Sバンド60kW・クライストロン K-S60K


132

所在等高エネルギー加速器研究機構
所在地茨城県つくば市
製作(製造)年1994~2004
種類量産品
製作者(社)等三菱重工(株)
調査機関団体平成18年度岡本主任調査員調査分
特徴KEKB入射器用ライナックRF源として使用されたSバンド50MWクライストロンの励振用として開発された。当時真空管メーカーに希望するものが無く、又メーカーが開発に乗り気でなかったので、KEK担当者により設計され、あえて真空管メーカではない三菱重工で製作された。この管で8本の大電力クライストロンをドライブする。
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熱陰極電離真空計 DVG-Ⅰ-1


133

所在等大亜真空株式会社
所在地千葉県八千代市
製作(製造)年1961
種類写真
製作者(社)等大亜真空株式会社
調査機関団体ナブテスコ株式会社調査
特徴電離真空計(大亜真空製)型番:DVG-Ⅰ-1  1961(昭和36)年に当社で最初に開発された熱陰極電離真空計。トランジスタなどの半導体部品は未だ一般的に普及しておらず、真空管と受動部品で回路構成されている。真空機器の測定に不可欠である真空計は、当時国産品がほとんどなかった。
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シャープダイン(ラッパ型スピーカー) 31型


134

所在等シャープミュージアム
所在地奈良県天理市
製作(製造)年1931
種類量産品
製作者(社)等シャープ株式会社
調査機関団体シャープ株式会社
特徴1930年の真空管ラジオ。電波の混信を防ぐ為、特別の回路設計がされ業界の注目の的となった。ラッパ型スピーカー採用により、ヘッドフォン無しで聞ける。当時の価格は外国製の1/10で65円。(当時の月給は50~60円)
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ポータブルラジオ PR-2


135

所在等シャープミュージアム
所在地奈良県天理市
製作(製造)年1949
種類量産品
製作者(社)等シャープ株式会社
調査機関団体シャープ株式会社
特徴トランジスタに移行する前の小型真空管を4本採用した当時としては最小のポータブルラジオ。
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放送用4ヘッド真空管式記録再生装置(製品1号機写真) SV-7600


136

所在等株式会社日立国際電気 映像システム事業部
所在地東京都小平市
製作(製造)年1959
種類写真
製作者(社)等株式会社日立国際電気(旧: 日立電子株式会社-旧: 芝電気株式会社)
調査機関団体VTR
特徴初の国産化VTR。映像ヘッドの加工技術高精度サーボ制御技術等を確立。また小型高精度シンクロナスモータの開発により国産化を実現。昭和34年7月に実用1号機を北海道放送に納入。これが磁気録画技術の発展の契機となり、以後放送用のVTRの普及に寄与した。
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放送用4ヘッドトランジスタ化記録再生装置(製品1号機写真) SV-7624


137
所在等株式会社日立国際電気 映像システム事業部
所在地東京都小平市
製作(製造)年1964
種類写真
製作者(社)等日本電子株式会社・芝電気株式会社(現 株式会社日立国際電気)
調査機関団体VTR
特徴放送用2インチ4ヘッドVTR初のトランジスタ化実用機。モータ駆動回路などの大電力トランジスタ回路技術の確立、低ノイズヘッド増幅回路の開発により真空管式を全面的にトランジスタ化する事で大幅な小型化(1/3)と低電力化(1/5)を実現。昭和39年8月に実用1号機をNHKに納入。以後、東京オリンピックの公認機として海外放送局の番組制作に使用。
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国内初の量産型カラーテレビ D-21WE


138


所在等株式会社東芝
所在地東京都港区
製作(製造)年1960
種類設計図・文献、写真
製作者(社)等株式会社東芝
調査機関団体平成15年度吉野主任調査員調査分
特徴カラー放送の開始に合わせて発売されたカラーテレビ。カラーブラウン管はRCA社の21CYP22を採用。ダイオードが2石使われている以外は28個の真空管が使用されていた。寸法:780W×705H×721D、消費電力:380W、質量:88kg。
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組立式真空管


139

所在等KDDI株式会社
所在地栃木県小山市
製作(製造)年1940
種類試作品
製作者(社)等国際電気通信株式会社と株式会社西川機械製作所の共同開発
調査機関団体平成18年度森島主任調査員調査分
特徴海外放送充実のため、放送用大出力送信機の真空管として1940年頃に開発された。真空ポンプで排気しながら使用する冷却式の真空管で、出力200kWという当時としては最大級のものであった。合計29本製作したが、実際に送信機に使用可能と認定された良品は8本のみ。1945年秋、100kWの送信機でテストを行ったが、実用化されなかった。重量:71.9kg、真空管部の高さ:1025mm、主要部品数:54種。尚、公開には予約が必要。
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送信用真空管試験機


140

所在等KDDI株式会社
所在地栃木県小山市
製作(製造)年1950
種類試作品
製作者(社)等国際電気通信株式会社(自社作成)
調査機関団体平成18年度森島主任調査員調査分
特徴太平洋戦争後、物資不足で品質が安定しなかった大型送信用真空管の寿命を測定するため、小山送信所のスタッフが自力で製作した。所内には工作室が設置され、こうした試験機や送信機の修理を行った。そのため1955年頃までには品質も大幅に改善された。尚、公開には予約が必要。
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わが国初の500W真空管式送信機


141

所在等日本無線株式会社
所在地東京都三鷹市
製作(製造)年1922
種類設計図・文献、写真
製作者(社)等日本無線電信電話株式会社(現 日本無線株式会社)
調査機関団体社団法人 海洋水産システム協会
特徴大正12年に完成した船舶用真空管式中波送信機は、空中線直接結合型の自励発振式によるもので、入力500Wまでの各種があった。瞬滅火花式無線電信機の滅衰電波に比べて、純粋な持続電波を発振するもので、混信も少なく通達距離も大いに改善された。わが国初となる第1号機(入力100W)は、翌年3月に東京高等商船学校の明治丸に装備された。
資料公開状況非公開


直流電源真空管増幅型撮影式心電計


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所在等フクダ電子株式会社
所在地東京都文京区
製作(製造)年1935
種類試作品
製作者(社)等福田電機製作所
調査機関団体一般社団法人電子情報技術産業協会
特徴現存する国産最古の心電計。
型式は設定されていない。一要素撮影式心電計。
直流電源(6V蓄電池と45V乾電池)を使用し、手巻のゼンマイモーターでオシロペーパーを搬送し記録する。
資料公開状況非公開


交互通話式ドアホン SB形


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イメージ 1


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無線遠隔起爆装置です


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PSC-5のサテライト通信です
胸からぶらさがったFILL Devがありました

もう1枚はM8A1
NBCのデテクターですサリンなどを検出してALMします





今日は何の日 モールス信号の生み親 サミュエル・モールス生誕日 1791年4月27日

アメリカ合衆国の発明家サミュエル・フィンレイ・ブリース・モールスは、1837年9月4日にニューヨーク大学で現在のものと全く異なった符号で電信実験を行い、ジョセフ・ヘンリー(プリンストン大学教授)の指導との協力の下、改良した符号と電信機との特許を1840年6月20日に取得した。さらに改良した符号により1844年5月24日に実際の送信実験に成功した 1849年にフリードリヒ・クレメンズ・ゲールケが改良した符号をもとに、DÖTV(Deutsch-Österreichischer Telegraphen-Verein)の1851年10月ウィーン会議において標準規格として条約が結ばれた。その後、1868年7月にウィーンで開催されたUTI(Union Télégraphique Internationale、万国電信連合、ITUの前身の一つ)において現在のものの原型が国際規格として承認された


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モールス符号



モールス符号(モールスふごう、英語Morse code)は、電信で用いられている可変長符号化された文字コードである。モールス符号を使った信号はモールス信号と呼ばれる。

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概要


国際電気通信連合(ITU)は、国際電気通信連合憲章に規定する無線通信規則(RR:Radio Regulations)に対する勧告(Recommendation)に欧文符号を定義している。

日本では、総務省令無線局運用規則別表第1号に和文と欧文の符号が定められ、総合無線通信士は、無線従事者国家試験において和文および欧文の送受信の、国内電信級陸上特殊無線技士は、国家試験および養成課程修了試験において、和文の送受信の電気通信術実技試験があり、また第一級・第二級・第三級アマチュア無線技士では、国家試験および修了試験の法規において、モールス符号に関する知識が問われる

日本語では、モールス符号の短点を「トン」(あるいは「ト」)、長点を「ツー」と表現することが多いため、俗に「トンツー」とも呼ばれる。短点と長点の組み合わせだけで構成されている単純な符号であることから、修得者は無線通信に限らず音響や発光信号でも会話や通信に活用している(投光・遮光が一挙動で自由に出来て信号を送れる、回光通信機を持つ大型船舶が存在する)


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ブルー・リッジの艦上で回光通信機を用いてモールス通信を行う乗組員

歴史


アメリカ合衆国の発明家サミュエル・フィンレイ・ブリース・モールスは、1837年9月4日ニューヨーク大学で現在のものと全く異なった符号で電信実験を行い、ジョセフ・ヘンリープリンストン大学教授)の指導との協力の下、改良した符号と電信機との特許1840年6月20日に取得した。さらに改良した符号により1844年5月24日に実際の送信実験に成功した 1849年フリードリヒ・クレメンズ・ゲールケが改良した符号をもとに、DÖTVDeutsch-Österreichischer Telegraphen-Verein)の1851年10月ウィーン会議において標準規格として条約が結ばれた。その後、1868年7月にウィーンで開催されたUTI(Union Télégraphique Internationale、万国電信連合、ITUの前身の一つ)において現在のものの原型が国際規格として承認された。

陸上同士の通信においては、電報などの文字通信で多く使われたが、1920年代からテレタイプ端末による電信・1930年代からテレックス1980年代からファクシミリ1990年代後半から電子メールなど他のデジタル通信方式の発達により、次第に使われなくなった。

一方、遠洋航海の船舶間、または船舶と陸上との通信においては、通常の通信から万一の際の遭難信号SOS)まで、長い間中波および短波を使ったモールス通信が行われ、映画などで船舶内の無線室でモールス通信を行うシーンも良く出ていた。しかし、通信衛星の登場によって短波によるモールス通信は縮小し、非常用の通信手段としても国際海事機関(IMO)の決定により、国際的な船舶安全通信がGMDSS1999年2月に完全に移行したため、モールス通信は基本的に使われなくなった。 日本では、1996年に海上保安庁がまた1999年までにNTTグループやKDD(現KDDI)もモールス符号を用いた通信業務を停止した。残るのは、一部の漁業無線(遠洋漁業)・自衛隊の一部の通信・アマチュア無線である。

以上のように双方向の通信に用いられることは稀になったが、同報通信における識別信号の送信にはいまだに利用される。 航空無線航行用のDMEILSVORNDB(無線局の種別は無線航行陸上局又は無線標識局)はモールス符号により標識符号を送信するものと、短波を用いて海洋観測をする海洋レーダー無線標定陸上局)はモールス符号により呼出符号を送信するものとされる。 JJY標準周波数局)も呼出符号の送信はモールス符号による。 実験試験局でも電気通信大学HFD観測用実験試験局JG2XAなどがある。

電気通信術の訓練は、陸上自衛隊通信学校海上自衛隊第1術科学校[3]水産高等学校で行われている。趣味などで簡易に習得をするには合調法語呂合わせ)がある。

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船舶の無線室に備えられていた時計。毎時0・15・30・45分から3分間の間に色が塗られているが、
これは聴守態勢をとらねばならない時間帯(沈黙時間)を表している。画像はアメリカ製の物。
日本製の物は緑の部分が青になっている



初期の送受信機

モールスの送信機は、機械式スイッチ(電鍵)の接点を手動で開閉するものであった。紙テープを事前に穿孔してそれにより接点を開閉する方式の自動送信機を1846年にベインが発明した。1866年からイギリスチャールズ・ホイートストンが製作した自動送信機が広く使われた。

受信機としては、1837年にトミーが発明した、紙テープに電磁石で動かした針の圧力で刻むエンボッシング方式が最初に使われたが、紙の巻き取りなどで鮮明でなくなり判読に苦労するものであった。1854年にトーマス・ジョンがインクで印を付ける方式を考案した。また1860年代には、紙テープを動かして固定したペンに接触させたり離したりする方式に改良された。

この印字機を用いてモールス符号を視覚化しそれを文字に直す方法は、通信量が多くなると対応が難しくなる。 機械式継電器(音響器)の音で符号を判別する音響受信は最初禁止されていたが、同時筆記が可能で高速通信が行えるので、後には広く行われるようになった。


有線と無線の通信方法

20世紀初頭に、電波を断続してモールス符号を送受する無線電信が実用化された。 有線電信と比較すると、送信のための電鍵操作は基本的に同一であるが、受信の方法は両者で異なる。

有線電信では、音響器を用いた聴覚による受信方法が基本である。 電流が流れ始めた時と断たれた時に衝撃音が発せられるので、これの音調と間隔により短点と長点を判別する。

無線電信においても(最初期以外は)聴覚受信が行われてきたが、短点と長点は持続音で表現され有線電信のカタカタ音とは異なる。 そのため有線と無線の通信士では訓練課程も異なることが多く、どちらか片方の操作だけに従事するのが普通だったが、有線モールスの後期においては電信信号でブザー(持続音)を鳴らすことにより、無線通信士も従事できるようになった。また有線通信士をこのブザー通信に習熟させ、無線通信士に転換することも行われた。軍事通信では有線と無線が混在する場合が多く、特に地上戦では通信兵はどちらも操作できる必要があった。

ブザーのほかに、低周波発振器を直流電信信号で制御する機器もある。実例 「日本陸軍 九五式電信機」

無線のモールス通信には混信や雑音もあり、信号だけが受信できる場合は稀であるが、SN比がマイナス、つまり信号強度のほうが小さい場合も、熟練者なら目的の信号音を聞き分けられる。無線電話やデータ通信は到底行えないような通信環境でも、最低限の情報交換が可能であり、モールス通信が21世紀の今日でも使われるのは、これが理由である。


符号化方式

国際モールス符号は短点(・)と長点(-)を組み合わせて、アルファベット数字記号を表現する。長点1つは短点3つ分の長さに相当し、各点の間は短点1つ分の間隔をあける。また、文字間隔は短点3つ分、語間隔は短点7つ分あけて区別する。

策定については、標準的な英文におけるアルファベットの出現頻度に応じて符号化されており、よく出現する文字ほど短い符号で表示される。例を挙げると、Eは(・)、Tは(-)とそれぞれ1符号と最短である。逆に使用頻度が少ないと思われるQは(--・-)、Jは(・---)と長い符号が制定されている。

これに対して、和文のモールス符号では出現頻度がまったく考慮されておらず、通信効率に劣ったものとなっている。和文モールス符号で(・)と(-)が意味するのはそれぞれ「ヘ」と「ム」である。国際モールス符号ではなく、DÖTVのモールス符号(1854年4月版)を基にイロハを当てはめている。

通信速度の表記には、字/分のほか、短点50個分(1ワード)の1分間当たりの出現回数WPM(words per minute)が用いられる。短点50個の基準として「PARIS」の符号を用いることからPARIS速度とも呼ばれる。例えば10WPMは50字/分に相当する。符号の速度が同じであっても、英語の平文では出現頻度の多い文字ほど符号が短いため、実際の文字数は多くなることがある。

欧文モールス符号



ダウンロード

和文モールス符号


和文モールス符号としては、現行のものの前に1855年(安政2年)にオランダ人が考案したものと、1869年(明治2年)に子安峻が考案したものがある。 現行の和文モールス符号は1873年(明治6年)に吉田正秀と寺崎遜らが考案したものが基になっている。吉田らは、当時最新の国際モールス符号(1868年7月21日制定)を入手しておらず、DÖTVのモールス符号の1854年4月1日版にイロハ・・・ケフコを割り当てている。 その後、1885年(明治18年)7月1日に濁点とルの符号の入れ換え及びヰオヱの追加、1893年(明治26年)7月15日に長音記号「ー」を追加し、ほぼ現在の符合体系が出来上がった

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吉田正秀(1850年生、旧幕臣)。日本最初期の電信技術者。逓信省電務局長


現行の和文モールス符号

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電信


電信 Electrical telegraph)とは、符号の送受信による電気通信である。有線と無線がある。

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印刷式電信受信機と電鍵(右下)

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電鍵と音響器

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日本陸軍九五式電信機

概要

電信とは、広義には電気による有線・無線を含めた通信全体を指すこともあるが、もっぱら、音声通信を指す語である「電話」に対してモールス符号などに代表される符号の通信ないしその通信システムを指すことが多い。モールス符号以外に、ティッカー・テープテレタイプといった印刷電信(printing telegraph)と呼ばれるものもある。

模写電信(文字・画像などを白黒の信号に変換するもの)、写真電送(白黒および中間調を含むもの)なども含めることもある。ファックス は模写電信および写真電信である。

現代では、音声信号などもいったんデータにして通信する(デジタル化された)データ通信に統合され、技術的には、必ずしも特に区別の必要がないことも多い。



歴史


初期の試み

高速に伝送されるという電気の現象が知られるようになって、通信手段にも電気を利用するための実験が数多く行われるようになった。火花、静電気、化学変化、電気ショック、電磁気効果など、当時知られていた電気の性質がさまざまな人によって電気伝送通信に応用されようとした。

1746年にはフランスの科学者ジャン・アントワン・ノレーが200人以上の修道士を集め円周約1マイル(1.6 km)の輪を作り、それぞれに鉄線で繋いだライデン瓶から放電させ、全員がほぼ同時に電気ショックを感じたのを観察し、電気の伝送速度が高速であるのを確認した。

1753年にはスコット誌(Scots Magazine)の投稿で、一文字ごとに割り当てられた電線でメッセージを送る静電気電信が提案され、相手側で針を偏向させる静電気電信機のアイデアが掲載された[7]。この案は欧州で実演されたが、実用的な通信機に開発されることはなかった。

アレッサンドロ・ボルタが1800年にボルタ電池を発明し、実験用の直流を生み出したことで、当時唯一の電気発生源として知られていた静電気発生器の一時的な放電に比べ、さまざまな効果を生み出す低電圧電流を発生させることが可能になった。

最初期の電気化学式電信機の実験としては、ドイツ人物理学者サミュエル・トマス・フォン・ソンメリングが1809年に行った例がある。これは、カタルーニャ出身の博学者で科学者のフランシスコ・サルヴァ・カンピーロ が1804年に設計したものを改良したものだった。どちらの設計も複数本の電線を使い(最大35本)、それぞれの電線がラテン文字や数字に対応している。電線は数キロの長さで、受信側では各電線の先端を酸を入れた別々の試験管に浸しておく。送信側ではメッセージの文字列に従って次々と対応する電線に電流を流す。すると受信側では電流の流れている試験管で電気分解が起きて水素の気泡が発生するので、それを順番に読み取ることでメッセージが得られる。メッセージの転送速度は非常に低い。この方式の根本的欠点は、文字の種類のぶんだけ電線が必要となるため、長距離伝送させようとすると非常にコストがかかる点である。後に実用化された電信では電線は1本で済んでいる。

1816年、フランシス・ロナルズが電信システムを構築。8マイル(13 km)の(ガラス管で被覆した)電線を使い、裏庭に建設した2つの木の格子の間にその電線をかけて伝送路を作った。これに高い電圧を印加することで電気信号の伝送に成功した。送受信機として数字と文字が並んだダイヤルを使った

デンマークハンス・クリスティアン・エルステッドは1820年に電流は方位磁針を動かす磁界を作り出すことを発見し、また同じ年に、ドイツのヨハン・シュヴァイガー(Johann Schweigger)は電磁石と磁針で出来た検流計を発明、電流を測定する感度のいい測定器として利用された。

1821年には、フランスのアンドレ=マリ・アンペールが、検流計を一文字あたり一つ備えたシステムで電信は可能と主張し、実際に組み立て実験して見せた。1824年、ピーター・バーローは上記のシステムでは200フィート(約61m)までの距離でしか電信が成立せず、非実用的だと主張。

イギリスのウィリアム・スタージャンは1825年に、ニスを塗った鉄片に絶縁した導線を巻いた電磁石を発明し、電流で磁力を強化することが出来るようになった。1828年、アメリカのジョセフ・ヘンリーは導線をさらに何重にも巻くことによりさらに強力な電磁石が出来、抵抗値の高い長い導線上でも電信が出来る様になった。

電磁石を利用した電信機は1832年、ロシアパヴェル・シリングによって完成。ガウスヴィルヘルム・ヴェーバーは1833年にドイツ・ゲッティンゲンでまた電信機を完成。

1835年にはジョセフ・ヘンリーリレーを発明し、長導線上の弱電流でも強力な電磁石を制御できるようになった

シリング式電信機

シリングが1832年に発明した電信機は、電流を制御する16個の黒鍵と白鍵のキーボードのある送信機であった。受信機は6個の検流計がついており、その磁針はで吊されていた。送信機と受信機は8本の導線で接続され、6本はそれぞれの検流計に、また残りの2本は回送電流と信号ベルに接続されていた。送信局でオペレーターがキーを押すと、受信局で対応するポインターが動くしくみであった。黒鍵と白鍵の組み合わせで、文字や数字を表していた。その後改良され、両局を繋ぐ導線は8本から2本に減った。

1832年の10月21日、シリングは自身のアパートの部屋間での短距離通信を成功させた。1836年にはイギリス政府からその設計を買い取りたいという申し出があったが、シリングはニコライ1世の申し入れを優先させた。サンクトペテルブルクの海軍省の本部ビル周辺で、地下や海底ケーブルを使用し5kmの伝送実験をし、クロンシュタットの海軍基地までの電信敷設を命じられた。ただし、シリングが1837年に亡くなったため、そのプロジェクトは中止された。シリングはまた信号伝送で二進法を実用に使った最初となった。

ウィリアム・クックは1834年から1836年までハイデルベルクで解剖学を学んでおり、1836年に物理学の先生からシリングの電信機を紹介されている。


ガウス・ヴェーバー式電信機


当時地磁気の新理論で影響力の大きかったガウスは、ゲッティンゲン大学物理学の教授をしていたヴェーバーと1833年に共同で電信機を開発した。この時代の最も重要な発明の一つは、一本巻きまたは二本巻きの磁力計で、磁針の小さな揺れでも測定できた。1833年5月6日に許可を得て1200mの導線を町の建物の屋根に設置した。ガウスはシュヴァイガーらの検流計と自身の磁力計を組み合わせて高感度な検流計を考案。電流の向きを変更するための整流子も独自に開発した。それらを組み合わせて、送信側で整流子の向きをセットすると遠隔地にある受信側で針がその向きに振れるようにできた。

最初は時刻合わせのために電信を使用したが、その後すぐ他の信号にも、さらにはアルファベットにも利用できるようにした。誘導コイルを永久磁石に対して上または下に動かすことで正および負の電圧パルスを発生させ、そのコイルを整流子を経由して伝送用の導線につないでいる。それによって2値の符号でアルファベットを表現した。ガウスの手稿として、その符号と最初に送ったメッセージが残っており、ゲッティンゲン大学物理学部にはヴェーバーが1850年代に設計した装置の複製がある。

ガウスはこの通信が町の発展に貢献すると考えた。

同年のその後、ガウスはボルタ電池ではなく電磁誘導起電力を利用し、一分間に7文字の信号を伝送することが出来るようにした。この二人と大学は自分たちのみで電信機を開発するには費用が不足するとして、アレクサンダー・フォン・フンボルトからも基金を得ていた。その後カール・アウグスト・フォン・シュタインハイルは1835年から1836年にかけて、ミュンヘンで電信機の設置を行い、1835年に開業された初めてのドイツでの鉄道沿いに電信用電線の敷設を行った。

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電磁式電信の概念図


オルターの電信機

1836年にアメリカの科学者デイビッド・オルターがペンシルベニア州エルダートンで電信機を発明した。モールスの電信機の1年前のことである。オルターは証人の前で実演したが、実用化には至らなかった。Biographical and Historical Cyclopedia of Indiana and Armstrong Counties という本にオルターのインタビューが掲載されており、その中でオルターは「モールスや他の人々の電信と私のそれには全く関係がないと言っていい。モールス教授は私の電信機について聞いたことがなかったに違いない」と述べている。


クックとホイートストンによる商業化

電信の最初の商業化はウィリアム・フォザーギル・クックだったとされる。クックは1837年5月にチャールズ・ホイートストンと共に警報機としての電信機の特許を取得。1837年7月25日にロンドンユーストン - カムデン・タウン間での実演を成功した[14]。そのシステムは1839年4月9日にパディントン駅からウェスト・ドレイトンまでの間、約21kmにわたってグレート・ウェスタン鉄道の線路を利用して敷設された。

1845年1月1日にスラウからパディントン駅に送られた下記のメッセージで、ジョン・タウェルが逮捕された。これが殺人犯逮捕で電信が役立った最初のケースといわれている。

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クックとホイートストンの5針電信機


モールス式電信

アメリカでサミュエル・モールスアルフレッド・ヴェイルが電信を発展させた。モールスは1836年に独自に電信を開発し、低品質な導線でも長距離を伝送可能な設計とした。彼の助手のヴェイルは、アルファベットを表すモールス符号の考案に関与した。

1838年1月6日、ニュージャージー州モリスタウン近郊の鉄工所で最初の実験に成功し、2月8日にはフィラデルフィアフランクリン協会英語版科学委員会の委員たちの前でデモンストレーションを披露した。

1843年、アメリカ議会はワシントンD.C.とボルチモア間の実験的電信線の敷設に3万ドルの予算を計上した。1844年5月1日までにワシントンD.C.からアナポリスまで開通。その日ボルチモアで開催されたホイッグ党の全国大会で、ヘンリー・クレイが大統領候補に選ばれた。このニュースは鉄道でアナポリスまで運ばれ、そこで待っていたヴェイルがワシントンD.C.にいるモールスに電信でそれを伝えた。1844年5月24日に全線が開通すると、モールスはワシントンD.C.の最高裁判所からボルチモアのボルチモア・アンド・オハイオ鉄道に向けて最初の公式の電報を送った。そのメッセージは What hath God wrought である。



モールスとヴェイルの電信システムはその後20年で素早く広まっていった。その電信機で使用している強力な電磁石はヴェイルが考案したものだが、モールスは彼の名を正しく出さなかった。モールスの当初の設計では継電器もヴェイルの考案した電磁石も使っておらず、わずか40フィート(約12メートル)しか届かなかった。

これは実用的な電信システムであり、オペレータ(通信士)が電鍵で電流をオン・オフさせ、それによって受信側の音響器英語版がヒトが聞き取れる音を発生し、その音をヒトが聴いて解釈し書き写した。モールスとヴェイルは当初モールス符号を紙とペンで書き記し、そのマーク列を見て解釈する方式を採用したが、間もなくオペレータたちは受信機の音を耳で聴いて直接文字列に変換することを習得した。この信号を読み取って自動的に文字列を印刷する装置は一般にテレプリンターと呼ばれる。初期の大西洋横断電信ケーブルでも、このモールスのシステムが採用された。

1947年、ペンシルベニア州エリザベスタウンにほど近い州道230号線にアメリカ初の商用電信線の記念銘板がある。それによると、1845年にランカスター-ハリスバーグ間を結ぶ商用電信線が敷設されたという。1846年1月8日に開通した際の最初のメッセージは "Why don't you write, you rascals?" だった。

1861年10月24日、初の大陸横断電信システムが開通した。北アメリカ大陸をまたいで、アメリカ東部のネットワークがカリフォルニアの小規模なネットワークと接続されたもので、オマハカーソンシティソルトレイクシティ経由で繋いだ。この線で最初に送られた電報は当時ユタ準州知事を務めていたブリガム・ヤングによるもので、ユタ準州はアメリカ合衆国から離脱しないと明言するものだった。その2日後、ポニー・エクスプレスが廃止された。

カーソンシティは、史上最も長い電報がそこから発信されたことでも名を残している。南北戦争中の1864年アメリカ合衆国大統領選挙エイブラハム・リンカーンの再選を確実にするため、共和党はネバダ準州をネバダ州に昇格させることを急いだ。そこでアメリカ議会の承認が必要な文書を電信で送り、すぐに議会で可決しリンカーン大統領が署名する手筈を整えた。東海岸へ向かう鉄道はネバダから2,000マイル(3,200キロメートル)も離れており、駅馬車で郵送した場合は予定通りでも3週間以上かかってしまい、遅すぎたのである。文書が送信されたのは1864年10月31日のことで、投票日である1864年11月7日の8日前のことだった。実際の選挙ではネバダの票がなくともリンカーンが快勝できるだけの票が集まった。対立候補であるジョージ・マクレランはわずか3州を獲得しただけだった。



大西洋横断


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大陸間を繋ぐ海底ケーブルは1857年と1858年にも敷設されたが、数日から数週間しか使えなかった。このため海底ケーブルの研究が活発になり、電磁気的伝送線路の数学的解析への関心が高まった。最初の成功した大西洋横断電信ケーブルが開通したのは1866年7月27日のことである。この際のケーブル敷設を行ったのがグレート・イースタンという船である。

1867年、発明家のデイヴィッド・ブルックス(当時、セントラル・パシフィック鉄道に勤務)が電信線用のがいしを改良した特許 アメリカ合衆国特許第63,206号 と アメリカ合衆国特許第69,622号 を得た。また、1864年に取得した特許を1867年に アメリカ合衆国特許第45,221号 として再発効している。これらの特許によりセントラル・パシフィック鉄道は、初のアメリカ大陸横断鉄道の建設作業員との通信が容易になった。大陸横断鉄道は1869年5月10日に開通し、開通式の模様が電信で実況中継された。電信士は式典でのゴールデン・スパイクを打つリズムに合わせて電鍵を打った。

電信技術のさらなる進歩としては、トーマス・エジソンが1892年8月9日に取得した双方向電信の特許(アメリカ合衆国特許第0,480,567号, "Duplex Telegraph")がある。


世界的発展

アメリカでの電信線の総マイル数は1846年には40だったが、1850年には12,000、1852年には23,000となっている。ヨーロッパでは1849年に2,000だったものが1869年には110,000となった。10語を送るコストは1850年には1.55ドルだったが、1870年には1ドル、1890年には40セントに低下している。ユーストン駅で最初に設置されてからわずか29年で、南極以外の全大陸に電信網が広がり、史上初めて高速な世界的通信網が誕生した。電信は情報の素早い伝達を可能にし、特に商取引で必要とされる最新データを古くならないうちに入手できる可能性が大きく向上した。遠隔地で重大な出来事が起きた際、電信はそれが過去のものとなる前に知らせることを可能にした。また、情報伝達を交通(輸送手段)から解放した。電信網の発達は戦争が大きな要因のひとつとなっている。

新聞に掲載されるニュースも電信の登場で発展した。電信は情報を伝達することはできるが、そのためには誰かがその情報を電信局に持っていって発信しなければならない。各新聞社は互いに競争しているため、他社の記者が情報発信することを妨害するおそれがあった。ニューヨークでは大手新聞社6社が共同でニュースを配信する組織、すなわち通信社を立ち上げた。この大手6社と他の新聞社が競争することで、報道がさらに発展することとなる。電信は単にニュースを伝達しただけでなく、ジャーナリズムが産業および職業として確立することにも寄与した。

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イギリスの古い看板。「電信に石を投げると罰せられます」とある


日本

現存する国産最古の電信機は長崎県諫早市が所蔵する佐賀藩精錬方において1864年(元治元年)頃に製作されたと思われる国重文指定の指字電信機(エーセルテレカラフ)があり、当時の国内技術水準を知る上で貴重な物である。日本初の公式な送受信記録は、1854年のペリーの2度目の来日の際に、米国大統領ミラード・フィルモアから江戸幕府へ1/4サイズの蒸気機関車と共に贈られた「エンボッシング・モールス電信機」によるものであった。エンボッシング・モールス電信機は受信側で信号が紙テープへ記録されるもので、この電信機のセットで約1マイル(1.6 km)の電線を用いて送信された。この時の電文は「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)であった

その後は幕末の混乱の中で電信の普及は無かったが、明治維新後の1869年(明治2年)に英国の通信技師を招き横浜燈台役所横浜裁判所の間に電信回線が敷設され、ブレゲ指字電信機(モールス信号ではなく針で文字を指す方式)による通信が始まり、1870年1月(明治2年12月)には、東京・横浜間で電信による電報の取り扱いが始まった[28]。明治政府は電信網の整備に力を入れており、東京・横浜間の電報の取り扱いが開始されてから、数年で電信網は全国に張り巡らされた。この電信網は、1877年(明治10年)の西南戦争においても大いに活用され、政府軍の勝利に貢献した。

1871年(明治4年)にはデンマーク大北電信会社によりロシアウラジオストクから長崎へ海底ケーブルが敷設され、シベリア経由でヨーロッパ、さらには大西洋横断電信ケーブルを経て米国とも通信が可能となった。1871年11月に欧州へと出発した岩倉使節団不平等条約の改正交渉の経過報告を、この出来たばかりの回線を使い行った。

1873年(明治6年)には東京と長崎間に回線がひかれ東京から海外との通信が可能になった。1872年から1916年まで、ウィリアム・ヘンリー・ストーン(William Henry Stone, 1837-1917)という勅任待遇のお雇い外国人が対外通信に貢献した。日清戦争日露戦争にも活躍した。肩書きはフリーメイソン会長、電信協会名誉会員、勲一等旭日大綬章所持。

その後電信網は全国に広がり、1880年(明治13年)頃には大都市間、1890年(明治23年)頃には全国の県庁所在地がつながった。1879年(明治12年)には官報、事務報、私報を合わせ165万通の電報が打たれた。


電報の終焉

電話やファクシミリ、メールやインスタントメッセージの普及により電報の使用は少なくなっていった。たとえば日本では、1976年(昭和51年)に電電公社(現・NTT)が至急電報の取扱いを終了させている。21世紀初頭現在、NTT自体も電報を祝電・弔電など文化的な使い方に特化した位置付けで宣伝しており、現代を舞台とする小説や漫画に連絡手段としての電信が登場することはほとんどない。

現在、テキスト(電報、メール、LINE等)以外も電話などの音声、ファクシミリなどの画像や動画はデジタル化され電信として通信されている。専用回線を使わないインターネットも同様である。

アメリカでは2006年1月27日、ウエスタンユニオンが全ての電報および商用メッセージングサービスを終了した。ただし、電子送金サービスは継続している

電波型式としての電信

モールス符号を用いた通信は現在では全無線局共通非常呼出(4630 kHz)、衛星非常用位置指示無線標識アマチュア無線標準電波(日本を除く)、電波伝搬試験用潮流情報新聞事業用無線防災行政用無線船舶無線漁業無線ラジオブイ気象放送気象庁気象短波帯固定回線海上無線標識局航空無線標識局無指向性無線標識施設コンパスロケータILS海上保安庁警察庁警察用短波帯固定回線、国際刑事警察機構自衛隊アメリカ海軍アメリカ沿岸警備隊などで使用されるだけとなった。

電波形式としての「電信(無線電信)」の種類は国際電気通信連合(ITU)に下記の種類で規定されている。

  • A1A : 電波(CW)を断続し、モールス符号を送信する通信。非常に低速度であるため占有周波数帯域幅が非常に狭く(帯域幅500Hz)、したがって雑音・雑音電圧の影響が少ない。従ってSN比が高く、僅かでも電波の存在が確認できれば通信可能なため、たとえば低出力空中線電力での長距離通信・高出力(1kW)の空中線電力を使用した月面反射通信も聴取可能である。受信は、近接する周波数の信号を混合してビートを発生させる(ヘテロダイン)などして可聴化しておこなう。
  • A2A : AM(DSB-WC)、トーン信号(可聴音)を使用してモールス符号を送信。
  • F2A : FM、トーン信号を使用してモールス符号を送信。
  • A1B、A2B : テレタイプ端末を用いた機械電信(印刷電信)。

なお、アマチュア無線技士のモールス通信能力を非義務化した、2003年世界無線通信会議の決定に伴い、資格審査の際に電信の送受信実技試験を廃止する動きが各国で出ている


サミュエル・モールス

サミュエル・フィンリー・ブリース・モールスSamuel Finley Breese Morse1791年4月27日 - 1872年4月2日)はアメリカの画家発明家。モールス電信機を発明し、モールス符号に名を残した。画家としても名を成している。サミュエル・モースとも。

また、アメリカ合衆国における奴隷制確立を支持し、反カトリックと反移民運動も支援した。

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電信

825年、ワシントンD.C.でラファイエット侯爵の肖像画を描いているとき、馬に乗ったメッセンジャーが父からの「妻危篤」のメッセージを携えて現れた。モールスはすぐさまニューヘイブンに向かったが、到着したときには既に埋葬が済んだ後だった。妻の最期を看取れなかったことに傷ついたモールスは、高速な長距離通信手段の研究を始めた。

1832年、大西洋横断中の船内で電磁気学に詳しいボストンチャールズ・トーマス・ジャクソンと出会う。ジャクソンの電磁石を使った様々な実験を見て、モールスは電磁石の導線を延伸させて一方の端で電流を断続させた場合、反対側の電磁石の磁気が変化する結果として信号を送ることができると考えた。モールスは描いていた The Gallery of the Louvre を脇に置き電信の着想を発展させ始めた。特許出願の際に提出されたモールスの最初の電信機はスミソニア協会国立アメリカ歴史博物館が所蔵してい。

そのころ、他の人々も電信のアイデアを生み出していた。1833年、ヴィルヘルム・ヴェーバーカール・フリードリヒ・ガウスが電磁石を使った電信装置を作り、それを参考にしてウィリアム・クックチャールズ・ホイートストンが電信を初めて商業化した。クックが電信を知るのは1836年で、モールスより4年遅いが、モールスよりも資金力があった。クックは元々は解剖学者だったが、電信を知るとそれに熱中し、3週間で電信機を製作した。ホイートストンもアメリカの科学者であるジョセフ・ヘンリーの業績に基づいて電信の実験を行っており、信号を長距離伝送するには、1つの電池を大型化するよりも小さい多数の電池を接続した方がよいという重要な発見をしている。1837年5月、クックとホイートストンは共同で電信の特許を取得し、すぐさまグレート・ウェスタン鉄道に21kmに渡る電信線を設置した。しかしクックとホイートストンの電信は複数の電信線を必要とするもので、後に1本の電信線で済むモールスの方式に取って代わられた。

1848年、モールスは友人への手紙で、電信の唯一の発明者と呼ばれるためにどれほど精力的に戦ったかを記している
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モールスの最初の電信機の図面

継電器


モールスは数百ヤード以上の電線では信号が減衰してしまい長距離伝送できないという問題に直面した。突破口となったのはニューヨーク大学の化学の教授レナード・ゲールの洞察である(ゲールはジョセフ・ヘンリーの友人だった)ゲールの助けを得て、モールスは電信線の途中に一定間隔で継電器を設置し16km以上の信号伝送に成功。間もなくモールスとゲールは、資金力と洞察力を持つ若者アルフレッド・ヴェイルと出会う。1838年1月11日、ニュージャージー州モリスタウンにあるヴェイルの父が経営する鉄工所で電信の公開デモンストレーションに成功した。継電器を使わない状態では伝送距離は2マイル (3km) が限界であり彼らは念入りに計画して2マイルの電信線を工場の建物内に敷設した。最初に送ったメッセージは "A patient waiter is no loser" であり多くの見物客がそれを目撃した

1838年、ワシントンD.C.に赴いたが、連邦政府から支援を引き出すことには失敗した。そこでモールスはスポンサー獲得と特許取得のためヨーロッパに行き、ロンドンでクックとホイートストンが既に電信を商業化していることを知る

連邦政府の支援

1842年12月再度ワシントンD.C.に赴き、議事堂の2つの会議室の間に電信線を張って相互にメッセージをやりとりする実験を行った1843年、議会はボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の線路に沿ってワシントンD.C.とボルチモア間61kmに電信線を敷設する予算3万ドルを承認。1844年5月1日ホイッグ党の大統領候補としてヘンリー・クレイが選ばれたというニュースがボルチモアからワシントンD.C.に試験的に電信で伝えられた

1844年5月24日ワシントン-ボルチモア間の電信が正式に開通し最初の電報としてモールスはワシントンからボルチモアに "What hath God wrought" という聖書の一節を送った。この言葉を選んだのは、米国特許商標庁長官 Henry Leavitt Ellsworth の娘である。Ellsworth はモールスの特許を擁護し、早くから出資者となった。このときの電信では、1分間に30文字を送信可能だった

1845年5月ニューヨークを拠点として電信網を敷設するため Magnetic Telegraph Company を創業

モールスは一時期、ホイートストンやカール・アウグスト・フォン・シュタインハイルの考え方を採用し、水や鉄道線路など何らかの導体を電信の伝送に使おうとしたことがある。「電信の発明者」と呼ばれる権利を保持するため、様々な訴訟で徹底的に戦った。ただし、モールス符号の発明ではアルフレッド・ヴェイルが重要な役割を果たしている。初期のモールス電信機は単語と数値の対照表を用いていた。要するにdot(トン),dash(ツー)の組み合わせで語(word)や句(phrase)に符号づけしていたものである。これを共同研究者でエンジニアであるヴェイルが文字(character)符号として改良。実用化に際して利用の簡便さを追求したヴェイルは文字の使用頻度と符号の組み合わせについて調べた上で決定した。その後、多くの改良・変更を経たものが現在のモールス符号である。ヴェイルの文字符号は、現在ではアメリカン・モールス符号と呼ばれる





























国際マルコーニデー

世界で初めて無線による通信を行ったマルコーニを記念する日。

世界で初めて無線による通信を行ったグリエルモ・マルコーニ(Guglielmo Marconi、1874~1937年)を記念する日。英語表記は「International Marconi Day」。マルコーニの誕生を賛えるために、彼の誕生日である4月25日に近い土曜日に24時間のアマチュア無線のイベントが開催され、世界中のアマチュア無線局が交信を行う。マルコーニはイタリアのボローニャに生まれた。1885年、自宅の窓からモールス信号で2.4kmの無線通信に成功した。これが世界初の無線通信だった。翌年アメリカに渡り、大西洋横断3600kmの通信に成功している。1909年にノーベル物理学賞を受賞し、1937年に63歳でこの世を去った。


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グリエルモ・マルコーニ


グリエルモ・マルコーニGuglielmo Marconi1874年4月25日 - 1937年7月20日)は、無線電信の開発で知られるイタリア発明家、起業家。

1909年、無線通信の発展に貢献したとして、ブラウンとともにノーベル物理学賞を受賞した。

1916年より短波開拓に着手し、日中でも遠距離通信が可能な「昼間波」を発見。1924年、英国郵政庁より短波公衆回線の建設を請負い、「昼間波」と「ビームアンテナ」の二刀流で短波黄金時代を切り拓いた。1933年には世界初のUHF実用回線を完成させたほか、UHF波が曲がることを発見している。実業家としても戦間期の国際政治を左右するほど成功した。

1897年にマルコーニ無線電信会社を創立した。イギリスのマルコーニ社は一世紀以上もの間ゼネラル・エレクトリック・カンパニーとして知られていたが、1968年にはイングリッシュ・エレクトリック他多数の電機会社と合併して、1999年に防衛機器部門をBAEシステムズに売却し、残った事業がマルコーニ株式会社という名前で存続している

1919年、アメリカン・マルコーニ社がゼネラル・エレクトリックAT&Tウェスティングハウスに買収されてRCA となった。

1928年3月16日、ジョン・ペンダーと政府受注を争った末に、帝国代表者会議の立会いで、ペンダー側イースタン電信会社とマルコーニ無線電信会社間で保有比率56.25対43.75とする持ち株会社をつくることで合意した。代表者会議による審議は続き、7月6日に勧告として報告書が出された。内容は、ペンダーとマルコーニの各事業だけでなく、郵政省の短波システムに太平洋/大西洋ケーブルを一挙に合併させる構想であった。8月に議会で承認されてから、構想は自治領で次々と追認された。1929年4月8日、合併会社はケーブル・アンド・ワイヤレス、通信会社は帝国国際通信Imperial and International Communications という名前で発足した。これらはグローバル通信網としてP&O や帝国航空会社などに利用された。

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生い立ち、幼少期、教育

生い立ち

ジュゼッペ・マルコーニ(Giuseppe Marconi)と、アニー・ジェームソン(Annie Jameson)の次男として、1874年4月25日にボローニャで誕生。フルネームはグリエルモ・ジョヴァンニ・マリア・マルコーニ(Guglielmo Giovanni Maria Marconi)。父ジュゼッペはイタリアのポッレッタ・テルメ出身のボローニャの裕福な地主。母アニーはアイルランド人で ジェムソン・アイリッシュ・ウイスキー (Jameson Whiskey distillery) の創業者の曾孫。

グリエルモにはアルフォンソ(Alfonso)という兄がいる。(なお、ジュゼッペにとってアニーは再婚相手で、グリエルモは、父親から見て3人の男の子の一番下の子で、母親から見ても末っ子である。グリエルモの立場からすると、ルイージ(Luigi)という母親違いの兄もいたようである。)

グリエルモが2歳から6歳の間は、兄アルフォンソや母アニーとともにイングランドのベッドフォードで暮らした。

教育

マルコーニはとても裕福な家庭の生まれであり、一般人のように学校にはほとんど通わなかったが、。両親が家庭教師を何人も雇ってくれたおかげで、数学や物理、化学などをマンツーマンで学ぶことができた。また、マルコーニ母子には、秋や冬に母アニーの姉妹の住むリヴォルノ(トスカーナの町)に毎年のように滞在していた時期があったが[12]、この地でアニーは、愛しい末っ子のグリエルモのために、ヴィンツェンツォ・ローザ(Vincenzo Rosa)という、現地のリセオ・ニッコリーニ(Liceo Niccolini。「ニッコリーニ高校」)で物理数学を教えている男性教師を雇うことを決めた[12]。マルコーニは後年、このローザとの出会いが重要だった、と振り返っている。ローザは、1848年にトリノで生まれ、トリノ王立大学で物理と数学の学位を得た後、イタリア各地の高校やフィレンツェの物理学校などで教えていたが、ヘルツ波に興味があり、科学論文を執筆し、実験装置を所持していた。マルコーニは、17歳の頃、1891年の秋からほぼ1年間、ローザから基本的な物理学や電気工学の理論と応用について個人授業を受けた。したがって、マルコーニは、電気に関する新しい理論をローザから教わり、さらに彼が自宅の研究室に招いてくれたおかげで、様々な実験を行うことができた。(なお、この指導期間の後、別々の道を進むことになった後も、マルコーニとローザの間に育まれた互いへの信頼感や尊敬の念は続いくこととなる。マルコーニはたびたび彼のもとを訪ね、人前でもことあるごとにローザの恩について語った。ローザは結婚し子供も3人得たが、惜しいことに弟子のマルコーニがノーベル賞を受賞するところは見ることができず、受賞の前年の1908年に亡くなった。マルコーニは受賞スピーチでも、独学であった自身の学びにローザが実際に直接的に貢献してくれたことを述べた。)

マルコーニは18歳でボローニャに戻ると、ボローニャ大学アウグスト・リーギ教授と交流を始めた。リーギも重要な役割を果たす人物で、ハインリッヒ・ヘルツについて研究をしていた。彼は自分の講座にマルコーニが参加することを許し、さらに大学の研究室や図書館を使用する許可まで与えた。

マルコーニは、その後フィレンツェの Istituto Cavalleroでも学んだ。

無線電信の開発

若いころからマルコーニは科学、特に電気に興味を持っていた。1888年、ハインリヒ・ヘルツ電磁波を発しかつ検出できることを示し、そこからこの時代の科学技術の発展が始まった。今では一般に「電波」と呼ぶが、当時は「ヘルツ波」や「エーテル波」という呼称が一般的だった。ヘルツが1894年に亡くなると、彼のそれまでの発見を再検討する書籍等が出版され、マルコーニの興味をかきたてた。ボローニャ大学の物理学者でマルコーニ家の隣人でもあったアウグスト・リーギはヘルツの成果に基づいた研究をしており、マルコーニは彼の下で学ぶことを許された。リーギは The Electrician 誌を購読しており、1894年の同誌にオリバー・ロッジが無線電信の公開実験に使った装置の詳細が掲載された

初期の実験(イタリア)

マルコーニは自宅の屋根裏で装置を自前で作り、実験を開始した。彼の目標は電波を使った「無線電信」の実用的システムを完成させることだった。すなわち電線を使わずに電信のメッセージを遠隔地に伝送することを目標とした。これは何も目新しいアイデアではない。多くの人々が無線電信技術を実現しようと探究してきたが、商業的成功に至った者は1人もいなかった。マルコーニは無線電信システムの開発において新しい革新的原理を発見したわけではなく、個々の部品を改良してそれらを組み合わせてシステムを構築しただけである。

マルコーニのシステムには次のような構成要素があった。

  • 比較的単純な発振器または火花送信機。リーギの設計したものを手本にしており、つまりはヘルツのものに似ている。
  • 地面に対して高いところに設置した電線(アンテナ)。
  • コヒーラ検波器エドアール・ブランリーの考案した本来のコヒーラを改良し、感度と信頼性を向上させたもの。
  • 電鍵。これを使って短いパルスと長いパルスを送信機が発信できるようにし、それによってモールス符号を構成する。
  • 電信自動記録器。コヒーラによって起動され、モールス符号をドットとダッシュでロール状の紙テープに記録する機械。

同じような火花送信機とコヒーラ検波器の組み合わせは他の者も試していたが、数百メートル以上の距離で伝送できた者はいなかった。

当初、マルコーニも限られた距離でしか信号を送れなかった。1895年夏、彼は実験の場を屋外に移した。送信機と受信機のアンテナを長くし、それらを垂直に配置して、一端を接地させると通信距離が大幅に延びた。間もなく彼は丘を越えての信号伝達に成功した。距離は約1.5kmになっていた。マルコーニの当時所有していた装置はタフツ大学の A. E. Dolbear が1882年に製作したものと酷似していた。Dolbear の装置は火花送信機と鉱石検波器を使ったものだった。この時点でマルコーニはさらに資金をかけて研究を続ければさらに距離を延ばすことができ、商業的にも軍事的にも価値のあるものになると判断した。

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  イタリア時代の送信機 (1895年)


初期の実験(イギリス)

イタリアでは彼の成果に興味を持つ者は少なかった。そこで1896年、21歳のマルコーニは母親と共にロンドンに赴き、支援者を探した。マルコーニはイタリア語だけでなく英語も流暢に話した。郵政庁GPOの主任電気技師 William Preece がマルコーニに興味を持ち支援を約束した。

渡英直後よりマルコーニはヘルツのように、非接地型のパラボラ反射鏡アンテナを試しはじめた。1896年7月27日、郵政庁GPOと貯蓄銀行の屋上間でデモンストレーションを行った。マルコーニ出版社の『無線電信電話年鑑(1922年版)』には7月27日のデモンストレーションがパラボラ反射鏡が付いた送信機と受信機で行われたことが記されている。デモンストレーションが行われた郵政庁GPO跡地には現在BTグループ本社ビル (en) が建っており、その外壁には、以下のようにマルコーニが初めて無線通信の公開実験を行った場所を示す記念銘板がある。

From this site GUGLIELMO MARCONI made the first public transmission of wireless signals on 27 July 1896

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渡英直後の頃の1GHz送信機とその受信機 (1896-97年


1896年9月2日にはソールズベリー平原でも、パラボラ反射鏡付き送・受信機のデモンストレーションを行ったが、英国協会(The British Association for the Advancement of Science)の9月22日のミーティングでWilliam Preeceがそれについて触れた。すると翌日のタイムス紙がパラボラ反射鏡を使う無線実験家マルコーニのことを記事にしたのである。ロシアのポポフはこの新聞を読んでマルコーニが自分と同じような実験をしていることを知ったという。また英国の雑誌The Electrician(9月25日号)やNature(10月8日号)もマルコーニのパラボラ反射鏡実験を掲載し、全英にマルコーニの名が知られるところとなった。

さらに10月にはアメリカの科学雑誌でもマルコーニを「パラボラ反射鏡の無線実験家」として伝えた。こうしてマルコーニの名がアメリカにまで知られるようになると、William Preece は1896年12月11日に Toynbee Hall で "Telegraphy without Wires" と題した講演をおこない、あらためて実験家マルコーニを紹介した。

この頃マルコーニが実験に使用していた電波は波長30cm(周波数1GHz)だったと、ロンドンのRoyal Institution of Great Britainで1932年12月2日に報告している。 しかし1897年になるとパラボラ反射鏡よりもイタリア時代の接地型垂直アンテナを主に使うようになり、次第に到達距離を伸ばしていった。1897年3月、ソールズベリー平野で約6kmの距離でモールス符号を伝送する実験に成功した。1897年5月13日、マルコーニは世界初の海を越えての無線通信に成功した。南ウェールズのラバーノック岬からブリストル海峡に浮かぶフラットホルム島までの約6kmである。受信設備はすぐさま海峡の南岸に突き出た岬にあるブリーンダウン要塞 (en) に移設され、距離は16kmに伸びた。このような公開実験に感銘を受けた William Preece は1897年6月4日に王立研究所で"Signaling through Space without Wires" と題した講演を行った。

その後も公開実験を繰り返したマルコーニは国際的にもさらに注目されるようになっていった。1897年7月、イタリアに帰国してラ・スペツィアでイタリア政府向けの公開実験を行った。1898年7月6日には、ロイズのために北アイルランドのバリーキャッスルとラスリン島の間で実験を行った。1899年3月27日にはフランスのウィムルーとイングランドのサウスフォアランド灯台 (en) を結び、イギリス海峡を横断する実験を行った。1899年秋には、アメリカ合衆国で最初の公開実験を行い、ニューヨークで国際ヨットレースであるアメリカスカップのレポートを無線で伝えるというデモンストレーションを行った。

アメリカ合衆国へはニューヨーク・ヘラルド紙に招待されて行き、アメリカスカップの模様を無線で伝えることを依頼された。送信機は Ponce という客船に設置された。アメリカからイングランドに戻るべく出発したのは1899年11月8日のことで、American Line の St. Paul という船に乗った。船上で助手と共に通信機を設置し、11月15日に船がイギリスの海岸から66海里まで近づいたとき、マルコーニが作っておいた無線局との間で無線電信のやりとりに成功した。

Proceedings of the United States Naval Institute によれば、アメリカ海軍はマルコーニのシステムを1899年ごろに調査し、「コヒーラ検波器の原理は約20年前に発見されているが、全く新しいといえる電気機器はそれしかなかった」と結論している。

海上公衆通信の商用化達成

陸上には既に網の目のように電信線が張り巡らされ、またドーバー海峡や大西洋にも海底ケーブルが敷設されていたため、無線による遠距離通信ビジネスを軌道に乗せるには相当時間が掛かるだろうと予感していた。公衆通信サービスへの参入には船舶相手が近道だとマルコーニは考えるようになった。そして商用の恒久施設として、ドイツで海岸局と船舶局の開設を準備していた。

1900年2月にオランダとの国境にあるボルクム島灯台海岸局、ボルクム・リフ灯台船無線局、それに北ドイツ・ロイド汽船会社が誇る大西洋航路の大型客船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号に船舶無線局を設置して無線電報の試験を始めた。

1900年4月25日にマルコーニは海上公衆通信の商用化を目的とする、マルコーニ国際海洋通信会社MIMCC(Marconi International Marine Communication Company)を分社させた。そしてこれらのテストを担当し、1900年5月15日より電報サービスの営業を開始した。5月15日から10月30日までの5箇月半で、565通の無線電報を取扱ったと、ロンドンのthe Society of Artsにおいてマルコーニが発表している。恒久施設による海上公衆通信のビジネス化はこうして19世紀最後の年に達成されたのである。

20世紀となり、1901年5月にビーバー・ライン社の客船レイク・チャンプレイン号、同年6月にキュナード・ライン社の大型客船ルカーニア号、9月にはその姉妹船カンパニア号にもマルコーニ局が置かれた。特にキュナード・ライン社は無線電信が乗客への電報サービスの提供だけでなく、船の安全航行や社内連絡にも大いに役立つことを知り、自社の船に続々とマルコーニ局を開設した。マルコーニ国際海洋通信会社MIMCCによって海上移動の公衆通信サービスは順調に発展していった。なお1924年にロンドンのRoyal Society of Artsで講演したマルコーニ氏は、1901年からのおよそ8年間、同社の海上公衆通信には波長120m(2.5MHz)を使っていたと語っているが、実際には1912年まで国際波長300m(1000kHz)の補助用として短波を使っていたようである。


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カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号などで恒久的施設による無線電報サービスの営業開始 (1900年)


大西洋横断無線通信

世紀の変わり目ごろ、大西洋横断電信ケーブルに対抗すべく、マルコーニは大西洋を横断して無線で信号を伝える手段を研究し始めた。1901年、アイルランドのウェックスフォード県ロスレアに無線局を作り、コーンウォールのポルドゥーとアイルランドのゴールウェイ県クリフデンの無線局を中継する実験を開始した。1901年12月12日、凧で吊り上げた高さ152.4mのアンテナを受信用に使うことで、コーンウォールのポルドゥーから発信した信号をニューファンドランド島セントジョンズのシグナルヒルで受信することに成功したと発表。2地点の距離は約3500kmである。科学技術の重大な進歩として報道されたが、受信できた信号が途切れ途切れだったこともあり、本当に成功と言えるのか疑問視する声もあった(今もある)。第三者が確認したわけではなく、単に S を表すモールス符号を繰り返し送ったということで、雑音と区別しにくかったのではないかとも言われている。ポルドゥーの送信設備は2段構成になっており、25kWの出力だった。1段目は低電圧で駆動して2段目にエネルギーを供給し、2段目で高電圧の火花を発生させていた。大西洋横断無線通信で競っていたニコラ・テスラは、マルコーニが成功したことを聞いて「マルコーニは私の特許を17個使っている」と述べたという。

懐疑主義者から疑問を呈されたと考えたマルコーニは、さらに体系的で文書も整えた実験を準備した。1902年2月、イギリスからアメリカに向かう Philadelphia という船に乗船したマルコーニは、ポルドゥーの無線局が発信する信号を毎日船上で受信して記録した。電信自動記録器では最大2496kmまで、信号を音として耳で聞く形では最大3378kmまで受信できた。受信は夜の方が容易だった。これは中波長波が昼より夜の方が遠くまで届くことを初めて示した実験だった。日中は最大でも1125kmまでしか受信できず、ニューファンドランドで受信したと主張した距離の半分にも満たなかった。ニューファンドランドでの受信は日中も可能だったと主張していた。以上により、電波は見通せる範囲にしか届かないという一部の科学者の主張は否定されたものの、ニューファンドランドで本当に受信に成功したのかについては完全に確認されたわけではない。

1902年12月17日、北米側からの初の大西洋横断無線通信に成功。発信地はカナダのノバスコシア州東端のグレスベイである。1903年1月18日、マサチューセッツ州サウス・ウェルフリート(ケープ・コッド)の無線局(1901年建設)にてセオドア・ルーズベルト大統領からイギリス国王エドワード7世へのメッセージを発信。これがアメリカ合衆国から発信した初の大西洋横断無線通信となった。しかし、安定した通信はまだ難しかった。なお、この無線局はタイタニック号の遭難信号をいち早く受信した無線局の1つでもある。

マルコーニは高出力の無線局を大西洋の両岸に建設し始めた。海上を航行する船舶との通信を可能にするためである。当時、他の発明家も同様の事業を始めようとして競っていた。1904年、夜間に船舶に向けてニュースを送信し、船上で発行する新聞にその情報を取り入れるという有料サービスを開始した。大西洋を横断する無線電信サービスが確立されたのは1907年10月17日のことで、アイルランドのクリフデンとカナダのグレスベイを結んだ。しかし、通信品質は安定せず、その後もマルコーニ社は改良に苦闘した。


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助手がアンテナ用の凧を揚げようとしているのを見守るマルコーニ(セントジョンズ、1901年12月)

無線電話の開発


無線電話ラジオ放送には連続波の発振が必要だが、三極管による増幅・発振作用が知られるようになったのは1912年だった。マルコーニ社でもH・J・ラウンド技師を中心に早くより研究していたが、三極管による連続波の発振と無線電話の研究に本格的に着手したのは1913年だった。

真空管式無線電話に着手

1914年3月にイタリア海軍の軍艦レジナ・エレナに真空管式無線電話装置を仮設し、受信機を置いた別の艦船で受信試験が行われた。最終的には軍艦レジナ・エレナとナポリの受信所間で最長距離45マイルを記録した。

1919年3月にはアイルランドバリーバニオン海岸局より長波の無線電話を送信し、それを大西洋越しにカナダのルイスバーグ(ノバスコシア州)で受信することができた。すでに1915年にはアメリカ電話電信会社AT&Tがアーリントンの海軍無線局を借りて、大西洋を東向き(アメリカ→フランス)に無線電話で横断していたが、大西洋を西向き(アイルランド→カナダ)に越えたのはこれが最初である

なおマルコーニ社では別のグループが短波帯まで使える真空管の開発に注力していた。こちらのグループは1919年に波長15m(20MHz)入力200Wの真空管式短波無線電話送信機を完成させ、カーナボンから送信し、北西へ32km離れたホーリーヘッドにおいて、その変調音を明瞭に受話することに成功している。


ラジオ放送の開始と中止

1920年1月15日、マルコーニ社は郵政庁GPOの許可を受けてチェルムスフォードで真空管式6kW送信機による英国初の娯楽ラジオ放送の試験を開始した。そして電力15kWの新型送信機が完成すると、2月22日から3月6日まで11:00-11:30と20:00-20:30の定時放送を行ったあと、不定期放送に戻った。

1920年6月15日は欧州大陸のリスナーに向けて三箇国語(英語・フランス語・イタリア語)で、オーストラリア出身のオペラ歌手ネリー・メルバ夫人の音楽番組が放送された。これは世界初の国際放送であり、また世界初の音楽ライブ放送だった。この英国チェルムスフォードからのラジオ放送は北欧諸国まで届いていたが、8月2日の番組は大西洋を越えてカナダでも受信されている。欧州では大変注目されたラジオ放送だったが、まもなく英国空軍の無線システムへ混信を与えることが問題となり、1920年秋に中止となった。

ラジオ放送ができなくなったチェルムスフォード研究所のラウンド技師ら無線電話の開発グループは、波長100m(3MHz)の2波を使う同時通話式の無線電話の研究をはじめた。そして1921年5月11日、英国のサウスウォールドとオランダのザンドヴォールト間の海上200kmを3MHzの短波で結ぶ北海横断試験を成功させている[54]。この短波帯同時送話テストの成功は日本の新聞も伝えた

なお前述した波長15m(20MHz)の別グループの無線電話は、1920年6月にカーナボンからアイリッシュ海を130km隔てたアイルランドのキングスタウン港で受信されている。これに自信を得て1921年8月、ロンドン郊外のヘンドンバーミンガムに20MHzのパラボラ・ビーム・アンテナ局をお互い向き合うように建設し、20MHzの2波を使った同時通話試験(距離156km)を開始した[56]

北海横断国際無線電話回線(3MHz)も、ヘンドン・バーミンガム無線電話回線(20MHz)も、同時通話方式だった。これはいまさら陸上の電信回線に新規参入しても勝ち目がないため、有線電話の公衆網へ接続する無線中継回線を目指していたからである。

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世界初の音楽ライブ国際放送 (メルバ夫人、1920年6月15日)



ラジオ放送の再開と移管

英国のラジオ放送中止と入れ替わるように、アメリカではウェスティングハウス電気製造会社フランク・コンラッドらが世界初となる商業ラジオ放送KDKAを開局したのは1920年11月2日である。1921年秋になると、アメリカでは商業ラジオ放送局が相次いで誕生し、その評判が英国にも届くと、ラジオ放送再開を求める声が高まった。再開陳情が何度も繰り返された結果、郵政庁GPOは軍用無線への混信を防ぐために電力を250Wに制限したうえで、マルコーニ科学機器社MSIC(Marconi Scientific Instrument Company, Ltd.)に放送許可を与えた。1922年2月14日より定期放送(毎週火曜日19:35-19:55)を始めた。その送信所はチェルムスフォード郊外のライトルにあり、波長700m(430kHz)で呼出符号は2MTである。

またマルコーニ科学機器社MSICは第二局を首都ロンドンのマルコーニ・ハウス7階に建設した。そして1922年5月11日より呼出符号2LOで毎週火曜日と木曜日に30分間の放送をはじめた。しかしロンドン2LOは郵政庁GPOが音頭を取り、マルコーニ社やメトロポリタン・ヴィッカーズ社など電気会社6社が共同出資して1922年10月18日に誕生させた英国放送会社BBCに移管され、同年11月14日よりBBC系の中央局として放送をはじめた。なお独立系としてマルコーニ科学機器社MSICに残ったライトル2MTは「英国のラジオ放送を再開させる」という役目を終えて、1923年1月17日をもって閉局した。この「英国放送会社」BBC(British Broadcasting Company)は、公共放送「英国放送協会」BBC(British Broadcasting Corporation)の前身となった会社である。

短波ラジオ放送の開発

英国の主要都市に次々と中波放送局を建設し、それを中継線で結んでいた英国放送会社だったが、1局の長波による全国放送の実用性を調査するために、マルコーニがチェルムスフォードより送信試験(呼出符号5XX)を開始したのは1924年7月21日である。そして1924年12月28日より英国放送会社の番組によって試験放送がはじまった。この長波用放送機は1925年7月27日にダベントリーへ移設され、ここが英国放送会社として最初の長波放送の施設5XX(187.5KHz, 25KW)となった

1927年、英国放送協会が創設され、正式に短波放送サービスを決定した。かつて長波放送機5XXが置かれていたマルコーニ社チェルムスフォード工場には、新たに20KW短波放送機が据え付けられた。これはマルコーニが郵政庁GPOから受注し、設計した短波ビームによる公衆通信用無線電信送信機に変調回路を追加したものだった。呼出符号は5SWで、英国放送協会への貸与という形をとり、1927年11月11日より周波数12.500MHzで試験放送をはじめている。

1929年2月11日、ローマ教皇ベニート・ムッソリーニ伊首相と和解し、バチカン市国の独立を認めるラテラノ条約が同年6月7日に双方で批准された。バチカン市国では全世界の信者にローマ教皇の声を直接届けるために短波放送を計画し、その建設をマルコーニ無線電信会社が請負った。

1931年2月11日の16時30分(バチカン時間)、バチカン放送HVJが開局。マルコーニがオープニングの簡単な挨拶をしたあと、教皇ピウス11世の声が、マルコーニの短波放送機(昼間波15.120MHz、夜間波5.970MHz、出力13-15KW)と平面型ビームアンテナで世界へ向けて送り出された


短波の開拓[編集]

1924年12月11日、ロンドンの王立技芸協会(Royal Society of Arts)で、マルコーニは1901年より8年間ほどの間、自社の船舶無線では波長120m(2.5MHz)を使っていたと語っている。その当時よりときおり超遠方まで短波が届くことに気付いていたが、それについては追求しないまま、第一回ベルリン国際無線電信会議で採択され、1908年7月1日に発効した船舶無線用の波長600m(500kHz)、300m(1MHz)に移ってしまった。こうして短波は一時期忘れられていったのである。

短波への回帰

1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発。母国イタリアが1915年春に参戦すると、マルコーニはイタリア軍に入隊し、軍の秘密通信の必要から"ビーム通信"の研究をはじめた。無線は四方に伝播するため、敵にも傍受されるという大きな欠点があるからである。マルコーニは1896年にロンドンやソールズベリー平原で使ったパラボラアンテナのことを頭に想い浮かべていた。1916年3月、イタリアのジェノバで最初の試験を行いイタリア海軍に報告書を提出した。そして英国よりフランクリン技師(C.S. Franklin)を呼び寄せて、イタリアのリヴォルノでパラボラビームの実験に本格着手したのが1916年8月だった。こうしてマルコーニの短波の開拓(回帰)がはじまった。

パラボラ反射器の研究

マルコーニとフランクリン技師はパラボラ反射器の研究に波長2m(150MHz)と3m(100MHz)の圧搾空気噴射式火花送信機を用いた。真空管の製造がスタートしたばかりで、まだ超短波まで動作する真空管は完成していなかったからである。この実験でパラボラ反射鏡のメッシュや開口長と、アンテナ利得の関係を繰返しテストし、メッシュ式のパラボラアンテナの基礎データを得た。ボートに積まれた波長2mと3mの受信機は鉱石式で、アンテナは無指向性の垂直型だったが、最終的に波長3mを使って、海上で10kmまで受信することができたという。この実験では空電ノイズはない代わりに、自動車やモーターボートのエンジンからの雑音妨害を強く受けることに気付いた。

さらに改良がすすめられ、1917年にカーナボンで行った波長3m(100MHz)のパラボラビームの試験では到達距離が32kmになった。この実験ではパラボラ送信機の設置場所を高くするほど到達距離が伸びることを認めた。

こうしてフランクリン技師が得たパラボラアンテナの知見は、1920年の電波灯台の実験や、1921年8月に完成した(前述の)波長15m(20MHz)のロンドン-バーミンガム回線(パラボラビームを互いに向け合った同時通話式の無線電話)の実用化試験に生かされた。

電波灯台の実験

マルコーニは1899年3月、英国の電気学会で電波灯台の考えを発表している。パラボラ反射器による受信機を搭載した船が、電波灯台のサービスエリア内を航行するときに、パラボラ反射器を電波灯台に向けたとき、電波をキャッチしベルが鳴るシステムである。それからおよそ20年が過ぎた1920年、マルコーニとC.S. フランクリン技師はスコットランドフォース湾にあるインチケイス島に電波灯台の実験施設を建設した。当初のアイデアとは違って、電波灯台側に回転するパラボラアンテナを置き、方位ごとに定められたモールス符号を送信する方式で、船の受信アンテナを無指向性の垂直ダイポールで済まそうとするものである。

1920年11月17日、汽船ファロス号を使って実用性を確認するための試験が行われた。電波灯台の回転パラボラビームが発する波長4m(周波数75MHz)の方位信号を受けながらフォース湾内を航行したところ、インチケイス島の近くでは電波が弱まることが分かり、回転パラボラビームの建設位置をもう少し低い場所に移す必要性を認めた。移設の際に二代目のビームアンテナに変えられたが、それはパラボラ反射器を背中合わせに2基配置した、まるでメリーゴーラウンドのような概観となり、物珍しさから無線雑誌などで注目を集めた[71]。そして1923年にはインチケイス島の対岸のエジンバラとロンドン間を運行していた汽船ロイヤル・スコット号により実用化試験がはじまり、およそ1年間にわたりテストされている。

短波研究を学会発表

マルコーニは前述したサウスウォールド(英国)とザンドヴォールト(オランダ)間の海上200kmを結ぶ北海横断回線(3MHz帯の2波を使う同時通話式無線電話)の無線施設をプレスや電波関係者に広く公開しており、逓信省工務課の佐伯美津留と穴沢忠平もパリ技術準備委員会(1921年6月21日~8月22日)の帰りにサウスウォールドでこれを見学し、日本の電信電話学会で報告している。 その後この北海横断回線は、ロンドンとサウスウォールド間およびザンドヴォールトとアムステルダム間の陸線と相互接続され、1921年12月18日にロンドン・アムステルダム間の有線・無線式国際電話の公開デモンストレーションで大成功を収めた

マルコーニが手掛けたこれ以外の短波開拓についてはそれまで非公開だったが、1922年5月3日にまずフランクリン技師がロンドンで開かれた英国電気学会英語版(IEE)において、1916年よりマルコーニとはじめたパラボラビーム実験の数々とその成果を発表した

英国電気学会でのフランクリンの発表 (1922年5月3日)

場所, 最大通信距離実験内容使用周波数, 方式
1916年夏リヴォルノ沿岸(イタリア), 10kmパラボラビームアンテナの試験150MHzと100MHz, 火花式
1917年カーナボン近郊(英国), 32kmパラボラビームアンテナの試験100MHz, 火花式
1919年カーナボン・ホーリーヘッド間(英国), 32km真空管式無線電話の試験20MHz, 真空管式
1920年6月アイリッシュ海横断試験(英国・アイルランド), 130km見通し外伝搬の試験20MHz, 真空管式
1920年フォース湾インチケイス島周辺海域(英国), 13km回転式パラボラビームによる電波灯台75MHz, 火花式
1921年2月ヘンドン近郊(英国), 106kmパラボラビーム局と自動車による陸上移動試験20MHz, 真空管式
1921年8月ヘンドン・バーミンガム間(英国), 156kmパラボラビーム局同士による同時通話式無線電話20MHz, 真空管式

なお無線学会(IRE)はフランクリン技師に対し、短波パラボラアンテナの使用周波数に対する開口長とビームパターンの関係などを明らかにした功績を称え、1922年度のモーリス・リーブマン記念賞Morris Liebmann Memorial Prize)を、『For his investigations of short wave directional transmission and reception.』として贈っている。

ついで1922年6月20日、渡米したマルコーニがニューヨーク[78]で開かれたアメリカ電気学会(AIEE)と無線学会(IRE)が共催する講演会において、短波のビーム式通信について発表した。1160名の聴衆を前にし、マルコーニは1896年9月、ソールズベリー平原でパラボラビームアンテナを使い2.8kmの通信に成功した話から、ヘンドン・バーミンガム間のビーム試験回線や、最近完成したばかりのインチケイス島のメリーゴーラウンドのような新型ツインビーム式電波灯台の仕組みを詳細に説明したのである

さらに大盛況の会場では電波サーチライト(Radio Searchlights)と称して、波長1m(300MHz)のパラボラビームシステムのデモンストレーションが行われた。回転台に載せられた300MHzパラボラ式送信機を、300MHz受信機が置かれたテーブルの前で受信アンテナを手にして立っているマルコーニに対して向けた時だけ受信機が反応すると会場からどよめきが起きた。

マルコーニは聴衆に短波の有効性と将来性について熱く語った。

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回転台に乗せられた300MHzパラボラ式送信機 (AIEE/IRE、1922年6月20日)


短波の研究は、これまでの無線の歴史のなかで不幸にして無視されてきたとはいえ、今後想像以上に多方面での発展と新分野の研究成果が期待できると、私は確信しています。故に、特にこの点にご注目いただきたいのです。

さらにレーダーの原理にも言及したのである

講演の終わりに電波のもう一つ別の利用の可能性 - 実現の暁には航海者にとって計り知れない価値を持つでしょう - を指摘しておきます。ヘルツが最初に証明したように、電波は導体によって完全に反射できます。私のいくつかの実験でも電波の反射効果および数マイルも離れた場所の金属物質によって電波が屈折することに注目しました。船にビームをどの方向にでも放射、あるいは照射できるような装置を船に作ることは、私は可能だと思っております。このビームが例えば船のような金属製の障害物に遭遇した場合、受信機にその障害物が投影されるでしょう。これにより、船にたとえ無線装置が配備されていない場合でも、霧や悪天候下で直ちに他船の存在、位置がわかるのです


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300MHzの受信アンテナを右手に持ち実演中のマルコーニ (AIEE/IRE、1922年6月20日)

講演会は大盛況で新聞各紙[や多くの無線雑誌がマルコーニのビーム通信を大きくとりあげた。日本では東京朝日新聞がこれを報じている。

しかし第一次世界大戦で海底ケーブルだと敵国に切断されることが実証されて以来、世界は有線から大電力長波無線へ舵を切ったばかりで、マルコーニが熱弁を振るった「短波」が研究機関、無線機メーカ、そして電波主管庁の関係者たちの心を動かすまでには至らなかった。同じく米国のアマチュア無線家も「短波」には反応しなかった。1922年2月27日から3月2日、フーバー商務長官が召集した第一回国内無線会議(First United States National Radio Conference)において、アマチュア用に1,091kHzから2,000kHzの周波数帯域を分配する勧告が採択された直後だったからだ。念願の低い周波数が手に入る可能性が出てきたため、アマチュアの関心事は1,500kHz未満の周波数に集っていたのである。

短波による放送中継業務を研究していたウェスティングハウス電気製造会社のラジオ局KDKAの技術者フランク・コンラッドをのぞき、長波全盛のこの時代にあって、マルコーニの言葉に注目するものは現れなかった。マルコーニは通信試験により短波の有効性を証明するしかないと考えた。そして1901年に中波で大西洋横断通信を成功させたポルドゥー海岸局(呼出符号MPD)を閉鎖し、ここに高さ325フィート(99m)もある4本の木柱マストより吊り下げられた巨大パラボラビーム(波長97m、周波数3.1MHz)を建設することを決めたのが1922年夏だった。

巨大パラボラビームで電離層反射

マルコーニはポルドゥーに3.1MHzの巨大パラボラビームを完成させて、短波実験局を開局した。送信機の入力電力は12KWで、郵政庁GPOから指定された呼出符号は2YTだった。1923年4月11日、自分が所有するエレットラ号で西アフリカのカーボベルデ(セント・ビンセント)に向け、ファルマス港を出帆した。その目的は昼夜における3MHz波の実用最大距離の測定、および巨大パラボラビームの性能評価である。

実験はまず2YTのパラボラ反射鏡をいったん降ろした状態ではじめられた(輻射器のみの無指向性)。最初の実験地はイベリア半島の北西端のフィニステレ岬で、ここを曲がるとポルドゥー2YTの方角が半島に遮られるため、2YTの短波信号が急激に減衰することが想定されたが、そうはならなかった。

次の実験地はイベリア半島の南端ジブラルタル海峡の近くのグアダルキビール川を80kmほどのぼったセヴィーリャで、2YTの方角はイベリア半島の山岳部に完全に遮蔽されていたにも拘わらず、夜間になると強力に受かった。そこでジブラルタルタンジェカサブランカで再試験したが、やはり遮蔽されるはずの2YTが強力に聞こえたため、短波が空から降ってくるとしか説明が付かなかった。

そしてカサブランカ停泊時、2YTへパラボラ反射器を取り付けるよう作業指示の電報を送り、次の目的地マデイラ諸島フンシャルへ向かった。ここはポルドゥーとカーボベルデ(セント・ビンセント)のほぼ中間点(2,200km)に位置するだけでなく、ちょうどビーム経路上にあり、試験地としては最適だった。1923年5月17日、2YTが巨大パラボラビームで3.1MHzの試験波の発射を開始した。フンシャル港の北側には標高1,861mのルイボ山がそびえたち、2YTの方角を遮蔽していたが、やはり夜になると非常に強力に受かることを確認した。もはや短波が空から降ってくることは確信となった。そして5月23日に最終目的地カーボベルデ(セント・ビンセント)を目指してフンシャル港を出た。

最終的に2YTからの3.1MHzの短波は、日中にはフンシャルのすぐ南の海上2,315km(1,250海里)まで、夜間になると4,130km(2,230海里) 離れたカーボベルデ(セント・ビンセント)にいたエレットラ号で傍受に成功し、ここに電離層反射に起因していると考えられるスキップ現象を発見した。エレットラ号はこれ以上、南下する計画はなかったため、どこまで届くかの測定を断念せざるを得なかった。そのかわりにマルコーニは2YTの送信機をアマチュアと同じ入力電力1KWまで減じるよう命じたが、それでもなお英国のカーナボン局やリーフィールド局、欧州や米国の長波局(200-300KW)よりも強力に聞こえたことに驚嘆した。

1901年、マルコーニの中波が大西洋を越えたが、その距離はおよそ3,500kmである。1923年5月末から6月初頭の実験で、マルコーニの短波はそれを遙かに凌ぐ4,130kmという大記録を打ち立て、短波がケネリー=ヘビサイド層(電離層)で反射され長距離伝送に適しているとの示唆を得ることができた。誰もが見向きもしなかった短波の威力をマルコーニは証明してみせたのである。すべての試験を終え、英国のサウサンプトンに帰港したのは1923年6月14日だった。英国とカーボベルデ(セント・ビンセント)間で驚くほどローコストで通信することに成功したとプレス発表したが、それが短波の威力であることはまだ伏せられ

1923年12月3日、マルコーニは自社の株主たちに対して、カーボベルデへの短波ビーム通信の成功および短波の有効性について以下4つの利点を挙げ、さらなる検証のために短波による大西洋横断試験の準備が整ったと報告した。また新聞もこのニュースを報じた。

  1. ビームアンテナにより送信機を省電力化(ローコスト化)
  2. ビームシステムにより秘密性の向上と混信の低減
  3. 短波による遠距離通信は電文送信速度をより高速化
  4. 長波に比べて空電妨害が少ない

大西洋横断試験のために2YTの送信機を入力20KWに増力し、波長を92m(3.26MHz)に短くした。そして1924年2月、英国からニューヨークへ向かうホワイト・スター・ラインセドリック号に短波受信機をセットし、昼夜の伝播状況を調査したところ、昼間の最大通信距離は2,593km(1,400海里)で、太陽の高度と信号強度が反比例した。そして夜間はニューヨークでも非常に強く受かった。さらに2YTに変調器を追加し無線電話の送信をはじめたところ、1924年4-5月、地球の裏側にあたるオーストラリアシドニーで無線電話メッセージが受信され、全世界を驚かせた。1924年7月12日、2YTの波長92m(3.26MHz)の無線電話が南米アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで受信されるなど、超長距離無線では長波より短波の方が鮮明に受信できることが証明された。マルコーニの反射鏡を利用したビームシステムは、この場合に経費が長波の5%で済んだ。距離あたりの速度においては海底ケーブルさえも超えた。短波を眉唾に見ていたイギリス海軍は、5月6日に自治領でなら経費節減策として採用の可能性ありと述べている。

1924年7月2日、マルコーニはロンドンの王立技芸協会(Royal Society of Arts)で、ポルドゥー2YTから発した3MHzの短波による、イベリア半島の遮蔽試験およびカーボベルデへの遠距離ビーム試験、セドリック号での大西洋横断試験、オーストラリアとアルゼンチンへの長距離通信の成功について講演した


昼間波の発見と平面型ビームアンテナ

1924年7月28日、マルコーニ無線電信会社は英国郵政庁GPOより4つの官営公衆回線の建設を受注することに成功した。

当時、夜間にのみ電波がケネリー=ヘビサイド層(電離層)に反射され遠距離にまで届くことは、中波ラジオ放送の普及により一般人さえもが経験している「常識」であり、これを疑うものは誰ひとりいなかった。しかしマルコーニは無線による遠距離通信が夜間に限られることを強く憂えていたのである。一般電報を取り扱う「公衆通信サービス」において、24時間通信が可能な海底ケーブルに対して、無線は夜になるまで遠距離電報の送受ができないからだ。

そこで1924年8月、マルコーニは昼間も遠距離通信が可能な「昼間波」を探すためにエレットラ号で航海に出た。母国イタリアのナポリを拠点とし、シチリア島のメッシーナギリシャクレタ島を経由して地中海の東端であるベイルートへ向かった。マルコーニはポルドゥー2YTの送信波長を92m(周波数3.26MHz)、60m(周波数5MHz)、47m(周波数6.4MHz)、32m(周波数9.4MHz)へと切り替えさせながら観測を繰り返していたが、ついに3,800km離れたベイルートにおいて波長32m(周波数9.4MHz)が24時間受信できた。「昼間波」を発見したかもしれない。マルコーニは英国に急いで戻り「昼間波」の存在を実証する大規模テストの準備をはじめた。

1924年10月、2YTから発射された波長32mの信号は北米のモントリオールとニューヨーク、南米のリオデジャネイロブエノスアイレス、南アフリカのケープタウン、インドのボンベイカラチ、オーストラリアのシドニーで昼間に受信された。1924年12月11日、マルコーニはロンドンの王立技芸協会(Royal Society of Arts)で、「昼間波」を求めてエレットラ号でベイルートまで航海し、それを発見したことや、10月に実施した世界的規模の検証実験の成果を発表した。特に地球の裏側のシドニーにて23.5時間/日も受信できたことは、全世界の公衆通信関係者に大きな衝撃を与えた。マルコーニは電波界の常識を覆し、日中でも遠距離通信が可能な「昼間波」を発見したのである。

マルコーニにはもう一つの課題があった。立体的な構造の巨大パラボラビームアンテナを簡素化したいと考えていた。そしてこれに応えたのがフランクリン技師だった。フランクリン技師は手はじめに多段コーリニアアレイアンテナに反射エレメントを追加してみたが、思うほどの鋭い指向性は得られなかった。そこでコーリニアアレイと反射エレメントの対をカーテン状に複数並べた平面型ビームアンテナの開発に成功した。そして1923年頃よりサウス・フォアランドに平面型ビームによる波長6.09m(49.3MHz)の電波灯台を建設し、ビームテストを重ねてきたのである。
マルコーニは自分が発見した「昼間波」と、フランクリン技師が開発した平面型ビームアンテナを、受注した官営無線局に採用することを決めた。難工事の末、まず1926年10月25日にカナダビームを開通させて郵政庁GPOへ引き渡し、1927年にオーストラリア回線、南アフリカ回線、インド回線を完成させた。英国側のビーム局は郵政庁直営だが、対手局側のビーム局は傘下企業に任された。周波数的にはカナダ回線とオーストラリア回線では昼間11MHzを、南アフリカ回線とインド回線では昼間18MHzとの夜間8MHzを併用した。

回線名開業日英国送信局(呼出符号,周波数)対手送信局(呼出符号,周波数,国名)
カナダ1926年10月25日ボトミン(GBK,11.500MHz)ドラモンドビル(CG,11.420MHz,カナダ)
オーストラリア1927年4月8日グリムズビー(GBH,11.580MHz)バラン(VIZ,11.660MHz,オーストラリア)
南アフリカ1927年7月5日ボトミン(GBJ,昼18.580/夜8.820MHz)クリフューヴァル(VNB,昼18.660/夜8.900MHz,南アフリカ)
インド1927年9月6日グリムズビー(GBI,昼18.500/夜8.780MHz)カーキ(VNW,昼18.420/夜8.700MHz,インド


こうして短波を用いた公衆通信に先鞭を付けるという偉業をマルコーニが成し遂げた。世界各国はマルコーニ社の特許に抵触しない独自方式[117]の平面型ビームアンテナを開発し、「昼間波」と「夜間波」を併用する遠距離短波通信の時代が地球規模で幕開けたのである。

その後の無線通信での功績

マルコーニの超短波の開拓は1931年にはじまった。1931年10月上旬、イタリア郵政省に対する波長50cm(600MHz)のビーム波のデモンストレーションがイタリアのサンタ・マルゲリータ・リーグレで行われ、南東へおよそ18Km離れたセストリ・レヴァンテで受信できた。600MHz受信機をさらに改良して行なった再試験(10月29日)では非常に良好に受けることができたため、11月19-20日に受信地点を35Km離れたレバントにしたところ、みごと受信に成功した。

1933年2月11日、バチカン宮殿ガンドルフォ城の教皇宮殿を結ぶUHF(500MHz帯)電話回線の公式運用を開始した。これは2波を使う同時通話式の無線電話で、UHF帯の実用局としてはこれが世界初だった。


賄賂事件

1910年代にマルコーニを中心に汚職疑惑が発覚し、自由党の政治家を中心に多数の政治家に収賄の嫌疑がかかった、そのなかには後の首相のデビッド・ロイド・ジョージウィンストン・チャーチルもいた。もし、彼らが起訴され有罪となっていたら、チャーチルが第二次世界大戦を指導することはなかっただろうし、第一次世界大戦の趨勢もどうなっていたかわからず、イギリスの20世紀はかなり違っていたであろうと指摘されている。

タイタニック

無線黎明期における船舶無線局のオーナーは海運会社ではなく、無線会社だった。1912年4月に沈没事故を起したホワイト・スター・ラインのタイタニック号の無線局(呼出符号MGY)の無線通信士2人はマルコーニ国際海洋通信会社の社員である。最初はマルコーニ社の社内規則による遭難信号CQDを使い、後になって世界共通のSOSを送信している。

タイタニック沈没後、生存者がキュナード・ラインカルパチア号に救助された。生存者名簿を無線で最初に受信したのはアメリカン・マルコーニ社の社員だったデイヴィッド・サーノフである。カルパチア号とサーノフは72時間に渡って通信したとされているが、近年の歴史家にはサーノフの関与を疑問視する向きもある。カルパチア号がニューヨークに入港すると、タイタニック号に乗船していて救助された無線技師と話をするため、マルコーニはニューヨーク・タイムズの記者に同行して乗船した。1912年6月18日、タイタニック沈没の件を調査する法廷で、マルコーニは船舶電信の機能と緊急時の規定についての証拠を提出した。イギリスの郵政公社総裁は「救助された人々はマルコーニ氏と氏の素晴らしい発明に救われた」と述べている。

特許紛争

マルコーニの業績は他の様々な科学者や発明家の成果の上に成り立っている。彼の火花送信機とコヒーラ検波器も先人が設計したものと似ており、特にオリバー・ロッジが行った一連の公開実験(1894年)の装置によく似ている。マルコーニはこの組み合わせで最も遠距離まで信号を届かせることができると主張していたが、ニコラ・テスラなどはその点についても異論を述べている。

1900年、アレクサンドル・ポポフはロシアの電気技術者会議で「マルコーニの行っている電気振動による信号の送受信は、まるで新規性がない。アメリカでは、1893年に有名な技術者ニコラ・テスラが同じ実験を実施している」と述べている。

イタリアのファシスト党は無線通信技術の創始者をマルコーニだとした。彼の貢献が特許に値するかどうかについては異論もあり、ヘルツ、ブランリー、テスラ、ロッジといった先人の発明に似すぎているという指摘もある。

マルコーニの装置は基本的に同調回路がなく、混信を防ぐため、ひとつの地域で運用可能な火花送信機の数が限定されることになった。マルコーニはこの欠点への対策としてより洗練された "four-circuit" 設計の特許を取得している。これは、送信側と受信側のアンテナに同調回路を装備したものである。この特許は1900年4月26日にイギリスで出願された(英国特許番号7777)。しかし、そのずっと以前にニコラ・テスラオリバー・ロッジが電気同調回路を考案している。1911年、マルコーニ社は防衛手段としてオリバー・ロッジの1897年の同調回路の特許を買い取っている。そのため、7777特許とそれに対応する各国で出願された特許は、国によって特許として認められた場合もあれば、全く無効とされた場合もある。

1943年、マルコーニの無線に関する複数の特許についてのアメリカでの訴訟が結審した。判決は、ニコラ・テスラ、オリバー・ロッジ、ジョン・ストーン・ストーンらの先例やマルコーニ自身の別の先例(例えば アメリカ合衆国特許第763,772号)に基づいて下された。 アメリカ最高裁判所は次のように決定した。

この裁判では、マルコーニのイギリスでの特許や無線通信の発明者としての名声を議論しなかった

この件では、マルコーニの特許のほとんどが(アメリカでは)無効とされた。当時、アメリカ陸軍がマルコーニ社から特許侵害で損害賠償を請求されていたため、特許を無効とすることで侵害もなかったとするという意図があったと言われている。もともと、テスラの特許が既に成立していたにも関わらず、マルコーニの特許が成立した背景にも、テスラがアメリカ政府を特許侵害で訴えていたからだとする説もある。それとは対照的にイギリスではマルコーニの特許7777号の有効性が法廷で認められた。一連の特許紛争は大企業間の覇権争いの一部に過ぎない。

1895年、コルカタではジャガディッシュ・チャンドラ・ボースがマルコーニのソールズベリー平野での実験(1897年5月)より前に無線通信の公開実験を行っている。1896年にはイギリスの新聞がボースの実験について「この発明者(ボース)は約1マイルの距離で無線を使って信号を送ることに世界で初めて成功した。これには様々な重要な応用が可能である」と記していた。マルコーニは明らかにこのことを知っていたが、独占的な特許権を主張した

私生活と、政治的・公的な生活

結婚

1905年3月16日、アイルランドの第14代インチカン男爵エドワード・オブライエン(en)の娘ベアトリス (1882?-1976) と結婚。(なおグリエルモは、以前、カトリック教会洗礼を受けていてカトリック信徒であった。が、この結婚に際して聖公会の信徒となり、カトリック教会の信徒名簿からは抹消された。)

ベアトリスとの間に、娘を3人と息子を1人もうけた。ただし三女は生後数週間で亡くなった。

イタリア軍の通信部門責任者への就任、政党活動

第一次世界大戦ではイタリアは連合国側となり、マルコーニはイタリア軍の無線通信部門の責任者となった。最終的にイタリア陸軍では中尉、海軍では司令官となった。1915年、イギリスの豪華客船ルシタニアがアイルランド沖で撃沈され、マルコーニの友人が亡くなった。マルコーニは2日後のニューヨーク・タイムズにその事実を書いている。

1923年にマルコーニはファシスト党に参加した。

離婚と再婚

1924年にベアトリス・オブライエンと離婚。1927年にオブライエンとの結婚が正式に無効と認定され、再婚が可能になった。 1927年6月15日、マルコーニは Maria Cristina Bezzi-Scali と再婚。再婚時、マルコーニ自身は53歳だったのに対し 妻マリアのほうは26歳だった。(マルコーニの半分以下の年齢だったということになる。)結婚式にはベニート・ムッソリーニも列席した。グリエルモとマリアの間には1930年に娘のMaria Elettra Elena Annaが誕生した(この二人の間の子はこの娘だけである)。

1933年11月16日、マルコーニ夫妻が日本郵船の秩父丸で来日した。これはシカゴ万国博覧会の無線イベントに出席したあと、急遽日本に立寄ることにしたものだった。東京、日光、鎌倉、京都、滋賀、奈良、大阪を観光し、11月24日に下関から船で釜山に渡った。そして京城(現在のソウル)、奉天(現在の瀋陽)、大連、旅順を観光後、中華民国の天津に向かったのが11月29日である。

晩年の政治信条

晩年のマルコーニはファシズムの熱心な信奉者となり、1935年に起きた第二次エチオピア戦争ではその正当化に一役買っている。

1937年、ローマで心筋梗塞により死去。イタリアで国葬が執り行われた。弔意を示すため、世界中にある英連邦の官設無線局が2分間沈黙した。遺体はエミリア=ロマーニャ州サッソ・マルコーニに埋葬された。なお、このコムーネは当時別な名前で呼ばれていたが、1938年にマルコーニにちなんで「サッソ・マルコーニ」に改称された。フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂にはマルコーニの葬儀を記念した像がある。


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デスプレイの違いなど細部に観察されてますね
コンピュータ部分をUYK-128といいまして
これにGPSのPLGRに制御無線機にEPLRSや
PRC-119Aを接続します



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FECB2です



MIT Science Reporter—"Computer for Apollo" (1965)









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