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今日は何の日  11月14日
■1982年(昭和57年) ブルーインパルス墜落事故
11月14日に行われた浜松基地航空祭での展示飛行においてT-2が「下向き空中開花」という演技を行っていた時、4番機の引き起こしが間に合わず、会場近くの駐車場に墜落するという事故が発生した。これはブルーインパルス史上では初めてとなる展示飛行中の事故であり、墜落機のパイロットは殉職、地上の民間人にも負傷者が出た 上、航空祭には報道のカメラも入っていたことから、事故の一部始終を録画した映像が夕方以降のニュースで繰り返し流される事態になった。多くの報道では「危険な曲技飛行」として扱われ、ブルーインパルスは発足以来最大の危機を迎えた。
事故原因の究明が行なわれ、編隊長のブレイクコールは通常より約3秒遅れ、墜落か生還かの分岐点から0.9秒遅れだった この短い時間を過失に問えるかどうかが問題となった。当初は事故調査に対してどのパイロットも非協力的だった が、静岡地方検察庁の杉本一重が「0.9秒の遅れがどのようなものかが分からないと公訴事案とするかの判断ができない」と考え、実際にアクロバット飛行訓練に体験搭乗した後は、一転してブルーインパルスのパイロットは調査に協力的になったという。
また、この事故より前に、やはり「下向き空中開花」の訓練中に隊長機のブレイクコールの遅れが発生しており、この教訓からブルーインパルスのパイロットにおいては「リーダー機(編隊長機)の指示が遅れたと判断した場合、そのままリーダー機に追従するように」という申し合わせ事項が作成されていた が、事故機のパイロットはその申し合わせに「編隊長の命令である以上は従う」という理由で拒否しており、申し合わせ事項を明文化した「思想統一事項」が作成された際にも最後まで署名をしなかったという。ところが、事故調査報告書においては、最終的には編隊長のブレイクコールの遅れが原因と結論付けられた ものの、「危険を感じたのであればブレイクせずに編隊長についていくべきであった」として、事故機のパイロットの過失をも問うものになり、「思想統一事項」の存在が、事故機のパイロットの責任をも問うことになった。その一方、事故機のパイロットは本来の飛行予想ルートからは外れた場所に墜落しており、本来のルートの延長線上には住宅地や東名高速道路があったことから、事故機のパイロットは「墜落しても被害の少ない場所」を選んでいたのではないかと推測されている。なお、事故機にはフライトデータレコーダーやボイスレコーダーは搭載されていなかった[88] ため、真相は不明である
この事故の後、ブルーインパルスは徹底的に活動を自粛していた。松島基地のある周辺自治体でも「ブルーインパルスは出て行け」という雰囲気で、とても訓練が出来るような状況ではなかった しかし、航空自衛隊にとっても広報活動の大きな柱を失うわけにはいかなかった。実機の飛行とシミュレーターによる徹底的な検証が行われ、安全対策を検討した結果、1983年(昭和58年)10月25日の朝霞駐屯地における自衛隊観閲式での展示飛行から活動を再開することになった。しかし、この時点での活動は航過飛行のみで、アクロバット飛行についてはその後も慎重に検討された。最終的に、展示飛行の際の飛行高度引上げ「下向き空中開花」の課目からの除外などを条件にして、1984年(昭和59年)7月29日の松島基地航空祭からアクロバット飛行を含む展示飛行が再開された

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T-2ブルーインパルス事故を伝える報道各社のニュース.

     


T-2ブルーインパルス浜松基地航空祭(墜落事故).






ブルーインパルス


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ブルーインパルス( Blue Impulse )とは、航空自衛隊に所属する曲技飛行隊(アクロバット飛行チーム)の愛称

当初は部隊の中の1チームという位置づけで、1995年(平成7年)に正式に一部隊として独立した。正式部隊名は第4航空団飛行群第11飛行隊で、広報活動を主な任務とし、展示飛行を専門に行う部隊である 世界の曲技飛行隊の中でも、スモークを使って空中に描画する、いわゆる「描きもの」を得意とするチームである。少数機による密接した編隊での精密な演技を得意としている現在の本拠地は宮城県松島基地である。

本項では、旧日本陸海軍が行なっていた曲技飛行(アクロバット飛行)の歴史を踏まえたうえで第11飛行隊の体制についても解説する。また、第11飛行隊では、ブルーインパルスがイベント等で行う飛行のことを「展示飛行」、展示飛行の開催地に向かうことを「展開」と呼んでいる ため、本項の記述もこれに準ずる。

なお、航空交通管制における編隊のコールサインは、愛称がそのまま用いられている



沿革

本項では、自衛隊以前での階級については当時の階級で記述する。使用機材の変遷については歴代運用機節を参照

前史

源田サーカス

1916年(大正5年)に開隊された旧海軍横須賀海軍航空隊は、当初の任務は教育や飛行練成が主だった が、航空隊が各地に開隊される頃からは、戦技研究や航空機の実用試験を主な任務として行うようになっていた。海軍では、一般からの献金によって製造された戦闘機爆撃機を「報国号」と称しており、1932年(昭和7年)ごろから献納式典の際に、民衆の前で曲技飛行を行うようになった。これが日本におけるアクロバット飛行の始まりで、当時は「編隊特殊飛行」と称していた。この編隊特殊飛行を考えたのは、当時海軍の戦闘機分隊長だった小林淑人大尉で、小林が率いる編隊特殊飛行チームは「三羽烏」「空中サーカス」と新聞で持てはやされた。またこれに先駆ける1925年(大正14年)、旧陸軍所沢陸軍飛行学校で行われた航空兵科独立記念祝典にて、数万の観衆のもと空中分列式と並んで各種飛行曲技の供覧が実施されている

一方、1931年(昭和6年)に発生した柳条湖事件を機として満州(現在の中国東北部)を制圧した関東軍に当時の日本社会は高揚し、「報国号」の献納数も増えることになった。ちょうど1933年(昭和8年)に源田實が戦闘機分隊に配属され、編隊特殊飛行チームを受け継いだ時期と重なったため、曲技飛行の機会も増加し、使用する戦闘機の数も9機にまで増加した。これらの編隊特殊飛行は、専ら九〇式艦上戦闘機を使用して行なわれた。課目には「3機編隊で急降下し、引き起こし中に1機だけ背面飛行となり、そのまま急上昇」というものもあり、列機はほとんど姿勢を崩さなかったという。こうして、編隊特殊飛行チームは「源田サーカス」という通称が定着していった。しかし、戦争の激化と共に編隊特殊飛行は行なわれなくなった

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九〇式艦上戦闘機(きゅうまるしきかんじょうせんとうき)は1932年(昭和7年)に大日本帝国海軍で採用された艦上戦闘機である。略符号はA2N。製造は中島飛行機。機体、発動機ともに日本人が初めて設計、製造した戦闘機である。

自衛隊設立後


第二次世界大戦が終結した後しばらくは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の「301号訓令」によって、日本では航空機の製造や研究などが許されない時期が続いた。これが解除されたのはサンフランシスコ講和条約によって日本の主権が回復した1952年(昭和27年)で[、同年10月には保安隊が発足し、翌1953年(昭和28年)1月からは保安隊航空学校において操縦教育が開始された。さらに、1954年には自衛隊法が成立し、保安隊は自衛隊に改組されることになり、同年7月には航空自衛隊が発足した

1955年(昭和30年)にはMSA協定によって、航空自衛隊はアメリカからジェット戦闘機のF-86Fセイバーの供与を受けることになった[。これに対応し、パイロットの一部は教官課程に進むためにアメリカ留学することになった[。この時に日本のパイロットが留学していたのがアメリカ空軍ネリス空軍基地で、留学生のうちの1人のパイロットは、基地で見たサンダーバーズのアクロバット飛行演技に深く感銘を受けた また、アクロバット飛行チームのメンバーになることが、戦闘機パイロットにとっては大変な栄誉であることも目の当たりにした。

このパイロットは帰国後に浜松基地の第1航空団第1飛行隊の教官として着任し、当時浜松基地に主任教官として在日アメリカ軍事援助顧問団 (MAAGJ) から赴任していた ジョー・ライリー大尉の助言を受け同僚を誘い、1958年(昭和33年)ごろから飛行訓練の合間にアクロバット飛行の訓練を行うようになった。

これは極秘裏に行なった訓練で、やがて飛行隊長の知るところとなった。この飛行隊長は叱責するどころか訓練の趣旨に共感し、すぐに航空団の上層部にかけあって、正式に訓練できる環境を整えた。そのうえ、1958年秋に行われる浜松基地開庁記念式典のアトラクションとして、アクロバット飛行の公開を行うことが認められた。まもなく3番機が訓練に加わり、3機編隊での本格的な訓練が開始された。3人は教官として学生訓練を終えた後、午後4時ごろからアクロバット飛行の訓練を行なっており、1ヶ月で60時間ものフライトを行っていたという。この時期の第1飛行隊のコールサインは「チェッカー」で、編隊飛行の際にはこれに編隊名として色名をつけており、アクロバット飛行チームでは「チェッカー・ブルー」というコールサインを使用していた。

同1958年10月19日には、この3名によるチームにより、航空自衛隊によるアクロバット飛行が初めて一般に公開された。使用機材は通常装備のF-86Fであり、スモークも特別塗装もなかったものの、ジェット機のアクロバット飛行は映画の中でさえ珍しかった時代に、航空自衛隊関係者と観客に与えた衝撃はかなりのものだったといわれている。この後に4番機が加わり、翌1959年(昭和34年)3月15日には愛知県犬山市で行なわれた日本平和防衛博覧会の開会式、同年3月20日の防衛大学校卒業式、同年4月26日の名古屋空港祭において展示飛行が行われた

ここでチームはいったん解散という形態をとることになる者の、アクロバット飛行の訓練は継続された[29]。その後、同年8月にアクロバット飛行チームのリーダーは交代することになり、リーダ,ーの所属する第2飛行隊のコールサインが「インパルス」だったため、アクロバット飛行チームは「インパルス・ブルー」というコールサインを使用することになった

同年12月にアメリカ空軍のサンダーバーズが来日し、同月12日には埼玉県のジョンソン基地(当時)において超音速ジェット戦闘機のF-100Dスーパーセイバーを使用したアクロバット飛行を披露した。この時、航空自衛隊のアクロバット飛行チームもフライトを見学し、パイロットや地上要員のパフォーマンスを観察した ほか、整備員はサンダーバーズのメンバーからスモーク発生方法に関する情報を得ることが出来た

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1955年か1956年ごろのサンダーバーズ


F-86F時代(1961年→1981年)

正式発足へ

この間にアクロバット飛行チームはいったん活動休止状態になったものの、水面下では航空自衛隊アクロバットチーム設立に向けた準備が進められていた。とはいえ、自衛隊内部でも「基地上空での曲技飛行は規則違反」「国家公務員が曲芸ショーなどやる必要はない」 という反対意見も根強かった

しかし、1959年(昭和34年)7月に航空幕僚長が交代すると、航空幕僚長自身がアクロバットチーム設立に対して直接介入するようになった。この時の航空幕僚長は、戦前に「源田サーカス」と称してアクロバット飛行を披露していた経験がある源田實である。源田は過去の経験から、アクロバット飛行が一般人を引きつけることで、自衛隊が国民に親しまれる効果だけではなく、隊員の士気向上にも効果があることを知っていたと考えられている。また、非公認のままでは、訓練中に事故死しても殉職扱いにならない可能性があるため、源田は「万一の事故でも名誉ある措置が取れるように」と考えた

こうして、アクロバット飛行チームの制式化は航空幕僚長である源田の内諾を得られ、パイロットも7名に増員されて訓練が続けられた。1960年(昭和35年)3月4日には、浜松北基地で第1航空団司令と空幕防衛部長がアクロバット飛行の仕上がり具合をチェックすることになり、16課目のアクロバット飛行を披露した。なお、当初は展示飛行のことを「公開飛行」と称していた。まだアクロバット飛行チームは制式化されていなかったものの、これがブルーインパルスの第1回目の公式展示飛行とされている[30]。この検閲の結果、第1航空団司令と空幕防衛部長は「合格」という判断を下した。この報告を受けた源田は、同年4月12日の公式展示飛行を視察した上、同年4月16日にアクロバット飛行チームの編成を下命した

この下命を受けて、第2飛行隊内に「空中機動研究班」が制式発足した。空中機動研究班の目的は「戦闘機パイロットには不可欠の要素である操縦技術・チームワーク・信頼心・責任感・克己心を研究訓練し、技術と精神力の限りない練磨と向上」、展示飛行の目的も「チームの力を最大に発揮し、戦闘隊戦力の一端を多くの人に身近に観察する機会を与えるとともに、航空意欲の高揚を図る」と定められていた。なお、空中機動研究班は1個の独立した部隊ではなく、第1航空団の教官から選抜されたパイロットによるチームであり[29]、教官としての職務の傍らでアクロバット飛行訓練と展示飛行を行っていた。また、このときに考えられた課目は、ほぼすべてがサンダーバーズの課目構成に倣ったものだった


愛称決定と特別塗装の導入

同1960年(昭和35年)5月21日にはジョンソン基地において行われた「三軍統合記念日公開」において展示飛行が行われ、このときに初めてスモークが使用された。なお、機体にはまだ特別な塗装はされていなかった。同年8月1日には部隊名が「空中機動研究班」から「特別飛行研究班」に変更された。また、これとは別に親しみやすい愛称を設定することになり、自衛隊の部内で公募を行なった結果、浜松基地の近くを流れる天竜川にちなんで「天竜」という愛称が採用されることになった。ところが、航空交通管制のコールサインとして使用すると、アメリカ軍の航空管制官にとっては発音が難しい上、古臭いという意見もあった。そこで、これまで使用していた「インパルス・ブルー」を逆にした「ブルーインパルス」(青い衝撃)としたところ、語呂もよく一般にも分かりやすいという理由により、正式な愛称として決定した。編隊長であった稲田淳美3佐が愛称の命名を担当しており、「インパルス・ブルー」とするか「ブルーインパルス」に変更するかで迷っていたという。彼の妻が「衝撃という意味では、原爆の青い閃光ほど衝撃的なものはない」と言ったことから「ブルーインパルス」に決まったという

こうして、制式化された「ブルーインパルス」は、1960年には13回の公式展示飛行を行った。ところが、公式展示飛行が20回を超えた後の1961年7月21日、次期編隊長機として訓練を行なっていたF-86Fが伊良湖岬沖で墜落しパイロットは殉職。ブルーインパルスでは初の犠牲者となってしまった。このため、ブルーインパルスは約1ヶ月ほど飛行停止となり、事故調査の結果を受けて安全対策が整えられた。なお、この時期はブルーインパルスに限らず、各地の飛行隊で墜落事故が多発していた。防空上からもパイロット育成が急がれたため、事故から飛行再開までは短期間であった

この事故を契機として、それまで第1飛行隊と第2飛行隊から選抜されていたパイロットの所属をすべて第2飛行隊とすることによって、パイロットのスケジュール調整を容易にした

この時期まで、ブルーインパルスに使用されている機体はスモーク発生装置を装備していること以外は通常の塗装デザインであった。しかし、編隊飛行でのポジション取りのための目印が少ないうえ、派手さにも欠けていた。このため、隊員から塗装デザイン案を募集したうえで、初代となるブルーインパルス塗装が採用されることになった。これと並行して、カラースモークを発生させる研究も進められ、1961年(昭和36年)10月22日の展示飛行で初めて特別塗装機とカラースモークが披露された

1963年(昭和38年)9月には、東宝の映画『今日もわれ大空にあり』の撮影に第1航空団とブルーインパルスのパイロットが協力することになった。この撮影期間中に東宝からブルーインパルスの塗装デザイン案の提供の申し入れがあり、プロのデザイナーが新塗装のアイデアを提供した。これが正式に2代目となるブルーインパルス塗装として採用されることになった。この新デザインを施した機体は、1963年10月5日に美保基地で行われた航空祭において披露された

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特別塗装機とカラースモーク


東京五輪で五輪を描く

これより少し遡る1963年(昭和38年)1月、東京オリンピック組織委員会 (OOC) よりブルーインパルスに対して、1964年(昭和39年)10月10日の東京オリンピック(東京五輪)開会式における祝賀飛行の要請があった

ただし、当時航空幕僚長だった源田は1961年(昭和36年)から1962年(昭和37年)にかけて、自民党議員団や財界人、さらにはアマチュアレスリング協会の会長も浜松基地に呼んで展示飛行を行わせていた。また、東京五輪の準備に際しては防衛庁も「オリンピック準備委員会」を設けており、自衛隊も協力することになっていた。陸上自衛隊は祝砲を放ち、海上自衛隊は五輪旗を掲げて行進を行うことになっていたが、航空自衛隊の協力できる部分がなかった。源田は1962年の参議院選挙に出馬して政界入りしており、その直前に「開会式の上空に五輪を描く」ことを発案し、航空幕僚長から退官する際に業務引継ぎ事項の中に加えた。さらに、源田は政界入りした後も、オリンピック開催準備委員長でもあった参議院議員の津島壽一に対して、空に五輪を描くことを提案していた。こうした事情から、このOOCからの要請は源田の根回しの結果であるといわれている

この結果、当初は単なる航過飛行(フライバイ)の要請であったが、第1航空団の飛行群司令からブルーインパルスに対して「五輪を描け」というオーダーが入ることになった。同年5月23日にはOOCの事務局から数名のスタッフが浜松基地を訪れ、ブルーインパルスのアクロバット飛行を見学した後、スモークで五輪を描く任務が具体化することになった

この準備に際して、まずブルーインパルス側である程度の案を作成し、これを叩き台にしてOOCが開会式典の構成を策定した 結果、OOCから航空自衛隊への要望は「五輪マークを15時10分20秒から描き始め、位置は昭和天皇が座るロイヤルボックスの正面で、全景が見えること」という細かいものとなった。それに合わせて高度や円の大きさなどの方針を固めていった。しかし、何度訓練してもなかなか上手く描くことはできなかったという。また、カラースモークも、1番機が青、2番機が黄、3番機が黒、4番機が緑、5番機が赤の5色で五輪を描くように準備した。しかし、黒の発色がうまくいかず、ようやく完成したのは開会式の10日前である。

開会式前日の東京は土砂降りの雨で、もし開会式当日の10月10日も雨の場合は開会式は中止されることになっていた。このため、ブルーインパルスのパイロットらは「これは明日はない」と早合点し、深夜1時まで酒を多く飲んでそのまま新橋に宿泊してしまった。しかし、翌朝パイロットらが目を覚ますと東京の空は快晴であり、泡を食ったブルーインパルスのパイロットらは二日酔いのまま入間基地に駆け付け、本番に臨むことになった

ブルーインパルスは出発に際し、入間基地の航空管制官から "Any altitude OK."、つまり「どの高度で飛んでもよろしい」という離陸許可を得た。予定通り午後2時半に離陸したブルーインパルスは、神奈川県湘南海岸の上空で待機した。入場行進の遅れから秒単位で指定されていた式の進行が乱れ、隊長の松下治英は機転を利かせて航空無線機器でNHKラジオを受信しながら開会式の状況を確認してタイミングを見計らった。聖火ランナーが国立競技場に入場すると同時に、ブルーインパルスは江の島上空を通過し国立競技場へ向かった。会場でが放たれ君が代斉唱が終わった直後、赤坂見附の上空にたどり着いたブルーインパルスは松下の号令でスモークで五輪を描き始め、30秒後には東京の空に東西6キロメートル以上にわたる五輪が描かれた。練習でも経験したことのない会心の出来栄えであり、「成功」の無線を受けたパイロットらはコクピット内で歓喜の声を上げたという。展示飛行を終えたブルーインパルスは、銀座の上空を低空で通過したり、上野池袋新宿渋谷品川の上空をスモークを引きながら「凱旋飛行」し、入間基地に帰投したとされている[44]。当時は都内での飛行は厳しく制限されていなかった 上、前述の通り航空管制官からは「どの高度で飛んでもよい」という許可を受けていた

これはオリンピック史上でも前例のないアトラクションであり、開会式が全世界に衛星生中継されていたこともあって、ブルーインパルスは日本国民のみならず、世界的にも大々的に知られることになった。ブルーインパルスの隊員らはこの展示飛行の功績で防衛功労賞とOOCからの感謝状とトロフィーを10月20日に授与されている。なお、OOCからは開会式後に閉会式での実施も打診されたが、松下は「もう成功できるかどうか分からない」と辞退している

1960年代後半

当初は訓練空域が今ほど飛行場から遠くはなく、錬度の維持が行いやすかった。そのため演技の精度は高く、さらに規制も緩やかだったために展示飛行での高度が低かった。その高度の低さは、課目「ハイスピード・ローパス」を例にすると高度35フィート(約11メートル)というもので、「草をむしりとった」という逸話さえある。なお、1965年(昭和40年)から単独機のパイロットを務めた経験のある村田博生は「舞い上がった草の切れ端が翼についていただけ」としている

1965年1月に築城基地から第33飛行隊が浜松基地に移転の上第1航空団所属となり、さらに同年11月20日には第2飛行隊が解隊となったため、ブルーインパルスのパイロットは全員が第1飛行隊所属となった。また、チーム制式名も「特別飛行研究班」から「戦技研究班」に変更となった。この年はパイロットのメンバー交代や補充もあり、各ポジションに2名ずつパイロットを配置することが可能となった。なお、この時期に第1航空団戦技研究班のインシグニアが作成されているが、作成したのは当時ブルーインパルスのパイロットだった村田博生1尉である。同年7月25日には松島基地の航空祭において、ブルーインパルスとしては通算100回目の展示飛行が行われた。しかし、同年11月24日にはアクロバット飛行訓練中に1機が失速して墜落、パイロットが殉職するという、ブルーインパルスでは2度目の事故が発生した

その後も活動は続けられ、1969年(昭和44年)9月7日の丘珠航空祭において、通算200回の展示飛行を達成した。この頃になると航空自衛隊の航空祭以外にも、1966年(昭和41年)11月6日に入間基地で開催された「第1回航空宇宙ショー」において展示飛行を行う など、イベントにおいて展示飛行を要請されることが増え、自衛隊のイメージアップという当初の目的は実を結びつつあった。その一方、1967年(昭和42年)頃からは浜松基地周辺における宅地化の進展に伴い、騒音問題が発生していたため、訓練空域を海上に移さざるをえなくなった


大阪万博で文字を描く

1969年(昭和44年)12月、日本万国博覧会協会からブルーインパルスに対して、日本万国博覧会(大阪万博)の開会式上空における展示飛行の要請があった

当初、展示飛行の内容についてはブルーインパルス側に任されていた。この当時のブルーインパルスは飛行技術面や組織面でも安定した時期で、実力のあるパイロットも揃っており、自主的な研究によって "EXPO'70" という文字を描くことになった。早速訓練を行ない、万博協会の関係者が浜松基地を訪れた際に訓練中の文字を見せた結果、本格的にプロジェクトとして進められることになった。これは五輪を描くよりも困難であったが、1970年(昭和45年)1月12日には浜松基地上空で "EXPO'70" の文字を描くことに成功した

一方、万博の会場からわずか8マイルの地点に大阪国際空港があるため、大阪航空局からは「飛行の承認はできない」と通告を受けた。これに対し、万博協会からも陳情を行なった結果、1970年2月中旬には飛行許可を得ることができた

開会式当日の1970年3月14日、浜松基地を出発したブルーインパルスは、万博の会場で4課目のアクロバット飛行を行なった後、2分30秒かけて会場上空に "EXPO'70" の文字を描いた。その後、同年6月29日の「ジャパンデー」にも同様に文字を描いている。閉会式当日の同年9月13日に万博会場上空で、当初「サヨナラ」の文字も描く予定だったが当日は曇り空だったため「描けない」と判断し航過飛行のみを行う


1970年代

1971年(昭和46年)に入ってからも、ブルーインパルスは順調に展示飛行を重ねていた。しかし、同年7月30日に全日空機雫石衝突事故が発生したため、展示飛行を自粛する事態になった。この事故の影響で、1973年までの展示飛行の回数が減少した。また、この事故を契機として航空路と訓練空域の見直しが行なわれ、アクロバット飛行訓練にも大きな制約が加えられることとなった ため、ブルーインパルスのメンバー養成に要する期間が2倍になってしまった。展示飛行が再開されたのは、同年11月3日に名古屋空港(当時)で行なわれた「国際航空宇宙ショー」からで、この国際航空宇宙ショーにはアメリカ海軍のアクロバット飛行チームであるブルーエンジェルスも参加していた

1972年(昭和47年)11月4日には入間基地を離陸した直後に3番機がエンジンのフレームアウトにより墜落する事故が発生したが、この事故による活動への大きな影響はなかった。なお、3番機のパイロットはベイルアウトによって無事で、地上への被害もなかった。 ここまでのブルーインパルスの展示飛行は5機体制であったが、1976年(昭和51年)9月26日に行われた「第1航空団創立20周年記念式典」においては、6番機を加えた単独機2機による演技が公開され、以降地元浜松基地での展示飛行など特別な場合に6機での演技が披露されるようになる

しかし、実働部隊ではF-86Fどころか、その後継機であったF-104Jにも後継機としてF-4EJが導入されるようになり、高等練習機としてもT-2の導入が開始されていた先に述べたようにブルーインパルスのパイロットは教官が兼任しており、この時期のブルーインパルスは1年間に30回以上の展示飛行を行なっていたこれは、F-86Fを使用した飛行教育が減少していたため、その分展示飛行の機会が増えていたということである。こうした事情の中、1978年(昭和53年)3月には、航空幕僚長から松島基地の第4航空団に対して、T-2によるアクロバット飛行について研究するように指示が出され、同年からは松島基地でアクロバット飛行を行うT-2が目撃されるようになった。既に航空自衛隊では1980年度(昭和55年度)中にF-86Fを全て退役処分とする予定が決まっており、F-86Fを使用したブルーインパルスの展示飛行も1980年度で終了することが正式に決定した

なお、1979年(昭和54年)1月にF-86Fのパイロット養成が終了したことに伴って第1飛行隊が解隊された。そのため、ブルーインパルスは第35飛行隊所属の戦技研究班となった

1981年(昭和56年)2月8日に入間基地で実施された展示飛行が、F-86Fを使用したブルーインパルスとしては最後の展示飛行になった。この最後の展示飛行では、松島基地から通常塗装のT-2が飛来してアクロバット飛行を披露した。F-86Fを使用した展示飛行の実績は545回だった。その後、浜松北基地で3月3日に行われた飛行訓練が最後の訓練となり、同年3月31日限りで第35飛行隊の戦技研究班も解散となった


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横田基地でのブルーインパルス(1981年)



T-2時代(1982年→1995年)

国産練習機の導入

F-86Fの後継機については、日本で製造した「国産機」によってパフォーマンスを行うことが、自国の防衛力や航空産業のレベルを誇示する上で大きな意義があると考えられた。このため、前述したように後継機としてT-2によるアクロバット飛行について研究の指示が出されていた

T-2は超音速機であることから、飛行速度の高速化に伴いターン(旋回)やループ(宙返り)の半径が大きくなり、会場上空へ戻るのに時間がかかるため、課目の間の時間が長くなる。このため、「T-2では単独機を1機増加させた6機体制での展示飛行が効果的である」という研究報告がまとめられた。これに伴い、1979年(昭和54年)にはブルーインパルス用として6機のT-2が予算として計上された。つまり、編隊飛行による演技の間隙を単独機による演技で埋めるという工夫である

1980年(昭和55年)10月には次期ブルーインパルスの塗装デザインの一般公募が行なわれ、2,055作品が集まった。1981年(昭和56年)1月には、女子高校生4名による合作デザイン案が最優秀賞として採用された。1982年(昭和57年)1月12日には松島基地の第4航空団第21飛行隊内に戦技研究班が設置され、同年3月10日までに新造された6機のT-2がすべて引き渡された。機種の変更と同時に、パイロットと地上要員の制服についても新しいデザインとなり、さらに地上でのパフォーマンスも変更された

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T-2によるブルーインパルス



浜松基地航空祭での墜落事故

こうして、F-86Fブルーインパルスの最終展示飛行から約1年半が経過した1982年(昭和57年)7月25日、松島基地航空祭において、T-2を使用したブルーインパルスでは初の展示飛行が実施された。ただし、当日は天候不良のためアクロバット飛行は行われず、2機を使用した低空飛行(ローパス)と編隊飛行のみが披露された。同年8月8日に行われた千歳基地の航空祭からは本格的なアクロバット飛行による展示飛行が開始された

ところが、同年11月14日に行われた浜松基地航空祭での展示飛行において「下向き空中開花」という演技を行っていた時、4番機の引き起こしが間に合わず、会場近くの駐車場に墜落するという事故が発生した。これはブルーインパルス史上では初めてとなる展示飛行中の事故であり、墜落機のパイロットは殉職、地上の民間人にも負傷者が出た上、航空祭には報道のカメラも入っていたことから、事故の一部始終を録画した映像が夕方以降のニュースで繰り返し流される事態になった。多くの報道では「危険な曲技飛行」として扱われ[76]、ブルーインパルスは発足以来最大の危機を迎えた

事故原因の究明が行なわれ、編隊長のブレイクコールは通常より約3秒遅れ、墜落か生還かの分岐点から0.9秒遅れだった。この短い時間を過失に問えるかどうかが問題となった[76]。当初は事故調査に対してどのパイロットも非協力的だった が、静岡地方検察庁の杉本一重が「0.9秒の遅れがどのようなものかが分からないと公訴事案とするかの判断ができない」と考え、実際にアクロバット飛行訓練に体験搭乗した後は、一転してブルーインパルスのパイロットは調査に協力的になったという

また、この事故より前に、やはり「下向き空中開花」の訓練中に隊長機のブレイクコールの遅れが発生しており[80]、この教訓からブルーインパルスのパイロットにおいては「リーダー機(編隊長機)の指示が遅れたと判断した場合、そのままリーダー機に追従するように」という申し合わせ事項が作成されていたが、事故機のパイロットはその申し合わせに「編隊長の命令である以上は従う」という理由で拒否しており、申し合わせ事項を明文化した「思想統一事項」が作成された際にも最後まで署名をしなかったという。ところが、事故調査報告書においては、最終的には編隊長のブレイクコールの遅れが原因と結論付けられた ものの、「危険を感じたのであればブレイクせずに編隊長についていくべきであった」として、事故機のパイロットの過失をも問うものになり、「思想統一事項」の存在が、事故機のパイロットの責任をも問うことになった[84]。その一方、事故機のパイロットは本来の飛行予想ルートからは外れた場所に墜落しており、本来のルートの延長線上には住宅地や東名高速道路があったことから、事故機のパイロットは「墜落しても被害の少ない場所」を選んでいたのではないかと推測されている。なお、事故機にはフライトデータレコーダーやボイスレコーダーは搭載されていなかったため、真相は不明である

この事故の後、ブルーインパルスは徹底的に活動を自粛していた。松島基地のある周辺自治体でも「ブルーインパルスは出て行け」という雰囲気で、とても訓練が出来るような状況ではなかった。しかし、航空自衛隊にとっても広報活動の大きな柱を失うわけにはいかなかった。実機の飛行とシミュレーターによる徹底的な検証が行われ、安全対策を検討した結果、1983年(昭和58年)10月25日の朝霞駐屯地における自衛隊観閲式での展示飛行から活動を再開することになった。しかし、この時点での活動は航過飛行のみで、アクロバット飛行についてはその後も慎重に検討された。最終的に、展示飛行の際の飛行高度引上げ、「下向き空中開花」の課目からの除外 などを条件にして、1984年(昭和59年)7月29日の松島基地航空祭からアクロバット飛行を含む展示飛行が再開された

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任期の問題

展示飛行を再開した1984年(昭和59年)には8回、翌1985年(昭和60年)には年間18回の展示飛行を行うなど、事故後のブルーインパルスは順調に展示飛行を繰り返していた。1990年(平成2年)4月1日には国際花と緑の博覧会の開会式上空で会場の上空に全長20kmにも及ぶ巨大な花のマークを保有する9機すべてを使って描き、同年6月3日の岐阜基地航空祭ではT-2ブルーインパルスとしては100回目となる展示飛行を行い、表面的には順調だった。

一方、ブルーインパルスは広報活動の一環ではあったが、この頃までは隊員と一般市民が接する機会があまりなかった。これは「パイロットは映画スターでも何でもない」「いい気になっていたら事故を起こす」という考えがあったことによる。しかし、1986年(昭和61年)からは市民との交流に前向きな取り組みが開始され、航空祭ではパイロットのサイン会も行なわれるようになった

しかし、こうしてブルーインパルスとしての活動が活発になるにつれて、問題が発生していた

ブルーインパルスのパイロットは教官を兼務しており、これはF-86F時代と変わっていなかった。このため、アクロバット飛行訓練の時間が十分に確保できず、結果的にブルーインパルスへの在籍期間が長くなった。これは実働部隊(TAC部隊)から長期間離脱するということになり、戦闘機パイロットにとっては好ましい状況ではなかった。また、航空祭の時期ともなれば「木曜日か金曜日に展開のため他の基地に移動、土休日に航空祭の展示飛行をこなして松島基地に帰還」というスケジュールとなり、残る月曜から水曜の3日間でアクロバット飛行の訓練ともに教官としての業務もこなさなければならなかった

さらに、T-2ブルーインパルスが活動を開始する少し前の1981年(昭和56年)12月17日には、より実戦的な空中戦教育を行うための組織として、築城基地で飛行教導隊が発足していた。このような状況では、「戦技研究班」と称しつつアクロバット飛行専門であるブルーインパルスを希望するパイロットは少なくなってい

その一方で、1980年代後半には、自衛隊を中途退職して民間航空会社へ転職するパイロットが増え、あまりに退職者が多いためにスクランブル待機の勤務間隔が短くなるなど、実任務にも支障が出る状況になっていた[。ブルーインパルスでさえ、1990年3月にはパイロットの半数が転出や退職となり、9ヶ月ほどの間は6機体制での演技が不可能になっていた


T-4時代(1995年以降)

独立した飛行隊として発足

1989年(平成元年)ごろから進められていた新しいブルーインパルスの準備にあたって、関係者は「展示飛行を専門とする独立した飛行隊」を設けることを考えた

T-2の時代まで、ブルーインパルスのパイロットは教官と兼務する形態で、パイロットの負担が大きかった。独立した飛行隊とすることによって、航空祭などのイベントがある週末は忙しくなるものの、週明けには休暇が取得可能となる。また、ブルーインパルスのパイロットになることによって戦闘機パイロットとしての生涯飛行時間を削ることになるという問題についても、任期を3年と約束し、任期終了後はもとの部隊に戻る体制とすることによって、ブルーインパルスの任務に対して士気が保たれる。さらに、教官と兼務ではブルーインパルスのメンバー養成にも支障をきたすことがあり、これを解決するためにも独立した飛行隊にすることが必要と考えられた

展示飛行専門の飛行隊を新規に創設することは容易ではなかったが、折りしも1990年代は災害派遣や国際貢献などで自衛隊が活動する機会が増加しており自衛隊に対しても国民からの理解が深まっていた時期、自衛隊は広報活動に対して、より積極的になっていた

こうした背景から、前述の問題点を解決して安全で効率の良い運用を行うため、展示飛行専従の部隊として独立することが認められた。1992年(平成4年)11月6日にはブルーインパルスの塗装デザインの一般公募が行なわれ、2,135作品が集まった。その中から、精神科医で飛行機ファンでもある斎藤章二のデザイン案が採用された。また、展示飛行の課目についてもT-4の性能を生かした内容が検討された

1994年(平成6年)10月1日には松島基地第4航空団に「臨時第11飛行隊」が編成された。翌1995年(平成7年)7月30日には研究飛行と称するアクロバット飛行が松島基地航空祭において一般公開され、T-2のブルーインパルスと競演した。同年11月12日には百里基地で一般公開された航空訓練展示でもT-2のブルーインパルスと競演した。この時はブルーインパルス塗装のF-86Fも展示されたため、3世代のブルーインパルスが同時に展示されることになった。同年12月22日、第4航空団第21飛行隊内の戦技研究班が解散すると同時に、「臨時」のない第11飛行隊が制式飛行隊として発足した

こうして、1996年(平成8年)4月5日の防衛大学校入学式で航過飛行(フライバイ)による展示飛行、同年5月5日に岩国基地で開催された「日米親善デー」ではアクロバット飛行による展示飛行 を皮切りに、新しいブルーインパルスの活動が開始され、この年度は22回の公式展示飛行が行なわれた


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1995年11月12日に百里基地で並んだ3世代のブルーインパルス。手前からT-2×7機、F-86F、T-4×7機


40周年目の事故

ブルーインパルスが40周年、第11飛行隊も5周年となる2000年(平成12年)は、岩国基地で行われたフレンドシップデーなどで、「2000」という文字を描くなど、ブルーインパルスが得意とする「描きもの」が展示飛行に採りいれられた

ところが、同年7月4日、金華山沖での訓練を終えて帰投する途中、5番機と6番機が宮城県牡鹿郡牡鹿町(当時・2005年以降は石巻市)の光山山頂付近に墜落、3名が殉職するという事故が発生した。この事故直後からブルーインパルスは活動を停止、同年7月末に予定されていた松島基地航空祭も中止となった

事故原因は海霧の中で高度を下げすぎたのが原因とされた。1991年(平成3年)の同じ7月4日にも墜落事故が発生しており、その日がどんな日であるかはブルーインパルスのメンバー全員が分かっていたにもかかわらず発生してしまった事故だった。しかも、この事故では墜落地点が女川原子力発電所に近い地域で、女川原子力発電所の半径3.6kmに設定されていた飛行禁止区域をかすめて飛んでいたことが問題視され、周辺自治体の一斉反発を招いてしまった

このため、航空自衛隊では、訓練空域や松島基地への進入経路を一部見直した上で飛行最低高度を設定するなどの安全対策を実施し、自治体との話し合いを続けた結果、2001年(平成13年)2月9日から訓練飛行を再開した。単独機である5番機と6番機の要員を失ったブルーインパルスの建て直しのため[1]、第11飛行隊発足当時のメンバーだったパイロットが一時的にブルーインパルスに教官として復帰し[132]、パイロット育成を実施した。また、機体も2機が失われ、通常2機が川崎重工でIRAN(定期検査)に入っているため[130]、6機での展示飛行は出来なくなった

それでも、同年8月26日の松島基地航空祭から展示飛行が再開された。同年9月9日の三沢基地航空祭ではアクロバット飛行を含む展示飛行も行われた が、同年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の発生により、その後の展示飛行はすべて中止となった

2002年(平成14年)4月5日に行われた防衛大学校入校式から活動を再開した。これがT-4ブルーインパルスとしては通算100回目の展示飛行となった。また、6月4日に行なわれたFIFAワールドカップ会場の埼玉スタジアム2002上空でも航過飛行(フライバイ)を行なった。同年中には2001年度予算案で2機の調達が認められたことから、9月までに2機のT-4が引き渡され、再び6機での展示飛行が可能となったのは同年12月1日の岐阜基地航空祭からである。

この期間はパイロットのローテーションが変則的となり、3年という本来の任期を越えて在籍したパイロットもいた が、2003年にはほぼ以前と同様の状態に戻すことができた


50周年、通算展示飛行1,000回を達成

その後は新しい課目の研究や開発を行う余裕も生まれ、2004年(平成16年)には航空自衛隊発足50周年を記念した「サクラ」などの新課目も加わった

2006年(平成18年)には第11飛行隊が創設されて10周年になることを記念し、同年2月17日・18日に記念行事も行われた。この記念行事では、第11飛行隊で天候偵察用に使用されている通常仕様のT-4に対して特別塗装が施された ほか、2000年(平成12年)の事故で殉職したパイロットの慰霊行事も行なわれた[136]。翌2007年(平成19年)5月27日の美保基地航空祭で、T-4によるブルーインパルスとしては通算200回目となる展示飛行を達成した。2009年(平成21年)10月18日には三沢基地航空祭においてサンダーバーズとの競演が実現した

2010年(平成22年)はF-86Fでブルーインパルスが活動を開始してから50周年を迎え、パッチや帽子のデザインが変更されたほか、同年8月21日には松島基地で50周年記念式典が行われ、1982年(昭和57年)以降に事故で殉職したパイロットの慰霊祭が行なわれた。また、2011年(平成23年)1月23日に那覇基地で行なわれた「エアーフェスタ2010」では、F-86F・T-2時代を通算して1,000回目となる展示飛行が行われた

東日本大震災における被害

2011年(平成23年)3月、ブルーインパルスは同年3月12日九州新幹線全線開通を記念した展示飛行のため、同月10日に芦屋基地への展開を行なった。ところが、同月11日、九州新幹線全線開通記念の展示飛行予行を行なった直後に東北地方太平洋沖地震東日本大震災)が発生した。ブルーインパルスの母基地である松島基地は震源地に近かったため、巨大津波に直撃されて、主力戦闘機を含む航空機28機が水没するという甚大な被害を受けた。松島基地に配備されていた航空機で被害を免れたのは、留守にしていたブルーインパルスの機体のみという惨状であった。言い換えれば、基地に残してきた予備の1機が水没した[ものの、ブルーインパルス専用機は不幸中の幸いで被害を回避できた。しかし、基地に帰還することもできなくなってしまった。当然ながら、翌3月12日の九州新幹線全線開通記念の行事全てとともにブルーインパルスの展示飛行は中止されている

基地機能の復旧に時間がかるため、ブルーインパルスの隊員たちは、機体は九州に残したまま、同月14日に松島基地および周辺地域の復旧作業のために帰還した。その後も、基地機能の復旧や津波対策を行う関係から松島基地でのブルーインパルスの機体の受け入れ態勢が整わず、その都度松島からクルーが芦屋基地へ出向く「移動訓練」という形態を余儀なくされた[。訓練飛行が再開されたのは同年5月23日であった。展示飛行は同年8月7日に千歳基地で行なわれた航空祭から再開された。仮の母基地となった芦屋基地では第13飛行教育団の隊舎内にある会議室に間借りする運びとなった。芦屋基地では環境問題の関係からアクロバット飛行の訓練を行うことはできなかった ため、地元との調整の結果、同8月26日からは築城基地上空においてアクロバット飛行の訓練が再開された。離陸課目の訓練で築城基地に離着陸することもあった。整備員が移動しなくて済むように、芦屋基地から築城基地上空まで飛来して訓練を行う「リモート訓練」形式となり、地上統制要員は築城基地まで陸路を移動していた。このほか、日本海側にある見島分屯基地でも洋上訓練を行なっていた。

なお、松島基地が所在する東松島市では同年8月に避難者の応急仮設住宅入居が完了し、全避難所8月31日に閉鎖された。ちょうどこの時期(8月20日)に東松島市で行なわれた「ありがとう!東松島元気フェスタ」で展示飛行が行なわれた。この時は三沢基地からのリモートショー形式であった。

震災による訓練中断と、その後の不安定な天候により、この時期のブルーインパルスでは要員練成にも遅れが生じ、半年ほど第11飛行隊からの転出が遅れる事態になった。このような事情から、要員練成をメインとして、2012年の展示飛行は通常の年の半分以下である12回に減らされた



松島基地への帰還

その後、松島基地の復旧と津波対策が進んだことにより、ブルーインパルスは2012年度(平成24年度)内に松島基地へ帰還することになった。2013年(平成25年)3月15日には、移動訓練の記念として、築城基地に配置される第6飛行隊F-2第304飛行隊F-15との編隊飛行訓練が行なわれたが、ブルーインパルスがTAC部隊の戦闘機と編隊飛行を行なった事例はほとんど前例がないといわれている。同年3月25日には芦屋基地において移動訓練終了を記念して「ブルーインパルスお別れフライト」と称した展示飛行と帰還記念式典が行なわれた が、展示飛行は平日の午前中であるにもかかわらず3,500人の観客が訪れたという。この時の課目には、本来なら2011年(平成23年)3月12日に披露するはずであった「サクラ」も含まれていた

ブルーインパルスは同2013年3月28日に芦屋基地を出発、百里基地を経由しながら3月30日に松島基地に帰還し、3月31日には小野寺防衛大臣 や地元の自治体関係者も集まって 帰還行事が行なわれた[159]。また、同年4月6日には東松島市商工会によって帰還イベントが開催され、悪天候のため訓練飛行は行なわれなかったものの、タキシングやブルーインパルスジュニアの展示が行なわれ

帰還時点では、ブルーインパルスの格納庫はかさ上げ工事中のため、津波対策として新たに整備された退避用の格納庫とエプロンを使用する状態である が、同年4月4日からは再び金華山沖でアクロバット飛行の訓練が再開された。

同2013年6月1日、東日本大震災からの復興を後押しするために福島県福島市で開催された「東北六魂祭」で、パレード会場の国道4号線上をショーセンターとして、ブルーインパルスの編隊連携機動12課目が行われた。


エンジン不具合による飛行停止

2019年(平成31年)4月2日に三沢基地所属の通常仕様のT-4が訓練中のエンジンの不具合で緊急着陸した。

その後の原因調査の結果、エンジン内の振動でタービンブレードが破損していたことが判明し、エンジンの振動を抑える部品を改良したものに交換する必要が出てきたことから、部品交換のされていないT-4はそのまま飛行停止となった。同型機を使用するブルーインパルスも部品交換まで訓練ができず、4~6月に予定されていた鹿児島、山口、静岡、鳥取の各県での展示飛行を中止した。

その後、5月下旬に訓練を再開し、2019年(令和元年)7月21日に宮城県松島町で行われたイベントで飛行を再開したが、部品交換の進度の関係上2機での再開となった。 また同年8月25日に開催された松島基地航空祭においては午前中に1番機・5番機・6番機の3機で飛行し、午後には1番機・2番機・3番機の3機で飛行した。

その後、ブルーインパルス所属機の部品交換が進み、9月5日には6機での飛行訓練を再開した。その直後に行われた三沢基地航空祭では訓練の進捗状況により、1番機・4番機・5番機・6番機の4機で展示飛行を行ったが、9月16日の小松基地航空祭から6機での展示飛行が再開されている。

カラースモークの試験と再開

2019年(令和元年)8月29日には、使用を禁止していたカラースモークの実機試験を実施した。これは2020年(令和2年)の東京五輪関連行事での展示飛行に向けたものであり、まず8月29~31日に地上試験を行い、9月3、4日には空中での試験を実施した。この試験では、スモークの視認性や、空中で拡散するよう改良した染料の地上への影響を確認した。

2020年3月20日、松島基地で「聖火到着式」が開催された際、ブルーインパルスが「五輪」を描き、改良型のカラースモークが初使用された。

史上初の2チーム・12機体制の構築

2020年3月20日、松島基地での東京オリンピック・パラリンピック聖火到着式典においてブルーインパルス史上初となる2チーム・12機体制の飛行が行われた。A(アルファ)編隊が「五輪」を描き、B(ブラボー)編隊がリーダーズ・ベネフィットを披露した。

コロナ・パンデミックにおける医療従事者等への応援

2020年に入って新型コロナウイルスのパンデミックが発生したことで、患者が爆発的に増え、医療従事者等に過大な負担が生じるようになった。世界各地の曲技飛行隊が医療従事者らに向けた展示飛行を実施したことから、ブルーインパルスも医療従事者をはじめとする全国の皆様へ敬意と感謝を示すため、2020年5月29日の12時40分から13時に掛けて東京都心の病院の上空を中心に巡回する展示飛行を実施した[166]。人の集合を避けるため、飛行ルートは飛行開始の3時間前に公表された


2020年東京オリンピック・パラリンピック大会

2020年東京オリンピック開幕に合わせ、開幕式前日の7月23日、5色のカラースモークを出して東京上空に五輪マークを描いた。今回もトラブルに備えて2チーム・12機体制を構築し、通常仕様のT-4が1機、第11飛行隊に追加配備された。両チームとも2から6番機が戦技研究仕様機、1番機は通常仕様のT-4が用いられた。

同年8月24日の東京2020パラリンピック競技大会開会式当日昼にも3色のカラースモークを用いてパラリンピックマークを東京上空に描いたが、予備機3機が入間基地に着陸する直前、適正高度以下でカラースモーク噴射を実施。基地周辺の300台程度の車に水・洗剤で洗い落とせない粒子が付着する被害を与えた


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東京オリンピック聖火到着式にて

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東京オリンピック開会式前日の展示飛行

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体制

前述の通り、ブルーインパルスは当初「飛行隊の中で曲技飛行(アクロバット飛行)を担当する1セクション」という扱いで発足している。このことを踏まえ、本節では第11飛行隊として設立された1995年(平成7年)12月以降の体制について記述する

組織

第11飛行隊の内部組織は、飛行隊長を頂点とし、その下に飛行班・整備小隊・総括班という3つの部署が設置されているが、これは他の航空自衛隊の飛行隊と同様である。

第11飛行隊特有の特徴として、パイロットと整備員については任期が3年と定められている ことが挙げられる。これは、実戦部隊を離れたがらないパイロットが多い事に配慮し、3年間という条件をつけることによって第11飛行隊への選出を行いやすくするためである。また、飛行班・整備小隊においては階級が「空士」の隊員は存在しない。これは、空士は2等空士・1等空士・空士長とも任用期間が3年(2任期目以降は2年)に限られており、第11飛行隊の3年という限られた任期の中では、他の部隊で行われているような新人養成や空曹への昇進試験などに時間を割く余裕がないための配慮である。

通常の制服のほかに『展示服』と呼ばれる、展示飛行の際に着用するための専用の制服や飛行服が用意されていることや、整備員とパイロットの連帯感が強いことも特徴である。相互の理解を深めるため、訓練時にパイロットが他のポジションの後席に同乗する機会を設けている。

飛行班

飛行班長以下、1機あたり1〜3人のパイロットが在籍する。パイロットは「ドルフィン・ライダー」と呼ばれており、パイロットスーツの左腕に装着するパッチにも "DOLPHIN RIDER" と記されている。1番機については飛行隊長と飛行班長の両方が担当する期間もある が、2番機から6番機までは交代要員としてのパイロットは存在しない。第11飛行隊は展示飛行の任務しか行なわないため、日常のミッションはアクロバット飛行やウォークダウン・ウォークバックの訓練となる。

自衛隊では珍しく所属するパイロットの個人名が紹介されている。

前述のように3年間という任期が定められており、任期の業務内訳は以下の通りである。

1年目
TR(訓練待機、Training Readiness)として演技を修得する。展示飛行の際にはナレーションを担当したり、訓練のため後席に搭乗することがある。
2年目
OR(任務待機、Operation Readiness)として展示飛行を行う。
3年目
ORとして展示飛行を行いつつ、担当ポジションの教官としてTRのパイロットに演技を教育する。

限られた期間内で訓練と展示飛行をこなす必要があるため、途中での担当ポジションの変更は一切なく、また第11飛行隊に選出されたパイロット自身が担当ポジションを希望することもできない。左胸のネームタグもポジションナンバー入りとなっている。

パイロットの選出にあたっては、操縦技量が優れていることのほか、高度なチームワークが要求されるために協調性があることが求められている。また、広報活動が主な任務であり、航空自衛隊の代表として多くの観衆と接するため、社交性も要求される。なお、手当ては普通のパイロットと同様である。ブルーインパルスへの異動は「本人の希望による異動」と「命令による異動」があり、2003年(平成15年)時点ではどちらかといえば後者の方が多かったが、2010年(平成22年)時点では本人が希望することが多くなっている[178]

それまでのTAC部隊では全くやったことのない操縦技術を習得せねばならず、最初はどのパイロットも戸惑いがあるという。また、TAC部隊で戦闘機を自在に操っていたパイロットにとっても、訓練内容は高度で厳しい内容であるといわれる。一方、訓練の中で編隊飛行の操縦技量等が著しく向上し、3年の任期を終了してTAC部隊に戻ると、空中集合の早さに同僚のパイロットから驚かれたり、「どうしてこんなに編隊が上手いの?」と質問されたりするという。これについて第11飛行隊の初代飛行隊長は「高度な操縦技術を3年間みっちり行なえば、一般の部隊に戻った後にフィードバックできることも多いはず」と述べている。

なお、展示飛行は日中にしか行われないが、技量維持のため1ヶ月に数回ほど夜間飛行訓練を行なっている。

基本的に過去の在籍者の再在籍は行われないが、事故による要員不足時に教官要員としての再在籍があったほか、それ以外でも、要員の都合上異動から数年後に担当ポジションを変えて再在籍した例がわずかながらある。また、2020年3月20日に行われた東京オリンピック・パラリンピック聖火到着式典において、史上初の2チーム・12機体制とする為に、OBがTAC部隊から一時的に異動していた。その後、2021年の2020東京オリンピック・パラリンピック大会においても同様の措置が取られている


『ブルーインパルス』武田頼政

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