1933年(昭和8年)6月19日東海道線丹那トンネル貫通 
1934年(昭和9年)12月1日東海道線丹那トンネル開通
工事に伴う水枯れ 
「覆水盆に返らず」

 丹那トンネル(たんなトンネル)は、東海道本線熱海駅 - 函南駅間にある複線規格の鉄道トンネルである。総延長7,804メートル、1934年(昭和9年)12月1日開通。

完成当時は清水トンネルに次ぐ日本第2位の長さで、鉄道用複線トンネルとしては日本最長だった。現在、東日本旅客鉄道(JR東日本)と東海旅客鉄道(JR東海)との会社境界はトンネル東口付近(来宮駅電留線の上り場内信号機)で、丹那トンネル自体はすべてJR東海の資産となっている

なお、本稿では東海道新幹線の熱海駅 - 三島駅間にある新丹那トンネル(しんたんなトンネル)についても記述する


函南町誌や鉄道省(現在の国土交通省やJR)の資料によると、トンネル真上の丹那盆地(函南町)はワサビを栽培できるほど水が豊富だったが、工事の進行とともに地下水脈が変化し、盆地内に水枯れが広がった。

 

飲料水に支障が生じるほどで、住民は鉄道省にたびたび救済を訴えたが、同省は当初、関東大震災の地下変動や降雨量減少のせいだとして本格調査に応じなかった。約10年で多額の補償を得たが、配分を巡って集落間で対立し、住民の襲撃事件にも発展した。同町の資料には「覆水盆に返らず」と記されている。


技術と水 戦いの100年 丹那由来「水抜き」鉄則
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1933年
6月19日御殿場まわりだった東海道本線を短絡する丹那トンネルが貫通。全長7804m


1933年(昭和8年)6月17日午前7時、三島口より探り鑿が入れられ水抜坑の両坑口切端間が5.2メートルと確認されると、6月19日午前11時半に貫通式が開催されることとなった。三土忠造鉄道大臣が大臣室で最後の発破合図のボタンを押すと、坑道内にその信号が伝えられ発破が実行され丹那トンネルが貫通した。その後本線導坑工事を推進、8月25日午前11時32分に貫通、内装工事を完成させ1934年(昭和9年)3月10日に鉄道省は工事完成を発表した。その後レール敷設工事及び電化工事が行われ、12月1日に開業することが決定された。

丹那トンネルを最初に通過する列車には11月30日午後10時東京発神戸行き二・三等急行、第19列車と決定した。乗車希望者が多いために臨時に車両を増結し当時としては異例の15両編成での運行が決定され、また機関手には東京機関庫運転手指導員の殿岡豊寿、助手に中山貞雄が指名された。また日本放送協会では、通過第1号列車の丹那トンネル通過を実況中継放送すべく熱海口、三島口出口付近に受信所を設置し、放送自動車を貨物車に積載することも決定した。

第19列車は提灯で開通を祝う沿線駅を通過し、12月1日午前0時3分30秒に来宮信号所を通過、午前0時40分に熱海口に入り、9分2秒で丹那トンネルを通過し沼津駅に到着した。

教訓

丹那トンネルの難工事は、地質が分かっていない所へ遮二無二トンネルを掘ろうとした結果だった。その後のトンネル工事は事前にできるだけの調査を実施し、難工事が予想される箇所を避け、地質に合った掘削方法を準備するようになった。次の長大トンネル関門トンネルは事前調査の結果、地盤の軟弱な九州側の主要工法としてシールド工法が採用され、工事推進の原動力となった。

北伊豆地震の震源となった丹那断層は、その後の調査で活動周期が約700年と判明し、当分の間地震は無いと判定され、東海道新幹線新丹那トンネルも丹那断層を横切って建設された。

慰霊碑

丹那トンネル工事の犠牲者全67名の殉職碑が、鉄道省によって熱海側の坑門の真上に建立されている。付近にある、工事の際に労務者の信仰の篤かった山神社なども含めて、地元有志の手で丹那神社として整備されている。

工事は熱海口を鉄道工業、函南口を鹿島組が請負った。函南口の犠牲者36名に関してはもう1つの慰霊碑が鹿島組によって函南側の坑口近くに建立されている。この碑は当初は東海道本線の線路の北側にあったが、現在は南側に移転している。現在JR東海が樹木伐採等の周辺整備を行い、地元有志により定期的に清掃奉仕をされている。

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1918年に始まった丹那トンネルの工事は16年間に及び、67人もの作業員が犠牲になった。旧鉄道省熱海建設事務所が33年に発行した「丹那トンネルの話」に苦難の状況が記されている。「地中の工事で相手は何だと一口に言えば、水と土の連合軍」。掘削は水との戦いの連続だった。
 暗中模索しながら、セメントを注入して地盤を固めたり、トンネル先端の気圧を高めたりしてさまざまな方法を試みたトンネル技術者。その一つとして編み出されたのが「水抜き坑」だった。本来のトンネルと並行する方向に別のトンネルを掘って地中の水を出し切る。これにより高い水圧の水が出なくなり、本坑を掘り進められる。丹那方式とも呼ばれ、以降、ほかのトンネルでも多用された。
 「丹那トンネルの話」では、セメント注入と比べ「水を絞れるだけ絞って枯らす第二の方法を取るのが一番確かな方法」と水抜きの有効性を強調した。丹那トンネルの水抜き坑の総延長は、本坑の倍近い14キロに達し、芦ノ湖3杯分の大量の水を丹那の山から抜いたと伝わる。
 1世紀を経て掘削技術は進歩したが、技術の歴史に詳しい専門家の1人は「今でもトンネル工事は水を抜くのが鉄則だ」と明かす。
 JR東海は大井川の水源を貫くリニアの南アルプストンネル工事でも「水抜き」の必要があると説明している。これに対し、県有識者会議の塩坂邦雄委員は「地下にある天然のダムが破壊されるようなもの」と指摘。水を抑えて地盤を固める薬液注入という工法があるが、浅岡顕名古屋大名誉教授(地盤工学)は地下深くに掘るトンネルに適用するのは難しく「大井川水系の水資源を維持しながらトンネルを掘削する自信は全くない」と技術的な限界を吐露する。
 「丹那トンネルの話」は95年に復刻され、JR東海の須田寛会長(当時)は歴史的な意味と先人の労苦を振り返ることは意義深いと寄稿した。復刻を主導した元国鉄総裁の仁杉巌氏が工事を述懐したくだりは、南アルプストンネルを建設する技術者に向けられているかのようだ。
 「現代の新しいトンネル技術、環境問題、断層とトンネル等、現存する問題にも通ずるものがある」

 ■丹那盆地 重い教訓 豊富な湧水、奪った工事
 東海道線丹那トンネルの真上に広がる丹那盆地(函南町)。その入り口に立つ「渇水記念碑」には、こんな記述がある。「水利灌漑(かんがい)ノ天恵ヲ享(う)クルコト厚ク四隣ノ羨望(せんぼう)スル所」。かつての盆地には至る所から水が湧き、周囲がうらやむほど田畑を潤していた。
 「あの辺りに水車があって、ワサビ田もあった。生活に必要な水は全て小川の水で賄えた。だが、次第に枯れてしまった」。この地に生まれ育った山田幸雄さん(91)は、幼い頃の記憶を呼び起こしながらつぶやいた。

伊豆半島ジオパーク推進協議会によると、丹那盆地は溶岩でできた水のしみこみやすい山に囲まれている。その山の地下水が盆地のへりに湧き出て、いくつもの沢をつくっていた。盆地の土壌は泥や粘土で水を涵養(かんよう)し、地下水位が非常に高かったという。
 そんな盆地に異変が表れたのは、トンネル工事が始まってから6年後の1924年ごろ。盆地の奥の沢から順に枯れ、田畑は干上がり、飲料水にも事欠くようになった。一方でトンネル内では、盆地に注がれるはずの大量の水が湧水として噴き出し、排出されていた。同協議会の朝日克彦専任研究員は「トンネル工事により、盆地の地下にたまっていた水の抜け道ができてしまったと考えられる」と指摘する。
 当時の住民は渇水の原因がトンネル工事にあると訴え、旧鉄道省に再三対策を求めた。山田さんの祖父、惣吉さんは住民の中心的な立場で交渉に当たっていた。「役人の反感を買ったのか、1週間ほど監獄に入れられたらしい。国に逆らえない時代だったが、必死だったと思う」と語る。
 鉄道省は当初、住民の訴えに半信半疑だったが、徐々に拡大する渇水被害を無視できなくなり、工事との因果関係を認めた。稲作を営んでいた多くの盆地の農家は、国からの補償金を原資に当時地域に根付き始めていた酪農に転換していった。国は水道、貯水施設の建設費なども支払ったが、盆地を潤した豊富な湧水が戻ることはなかった。
 丹那トンネル開通から87年余り。その間、地域の変化を目の当たりにしてきた山田さんは「水がどれだけ大切なものか。失ってからでは取り返しが付かないことを忘れないでほしい」と訴える。

 <メモ>東海道線丹那トンネル 長さ7.8キロ。世界的難工事として知られ、作業員67人の犠牲は崩落や湧水による水没などが原因。新たな工法も試みられた。坑内には今も大量の水が湧き、熱海の水道や函南の農業用水として使われている。一方、トンネルの上に位置する丹那盆地の水枯れ被害は回復していない。

丹那トンネル


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丹那トンネル(たんなトンネル)は、東海道本線熱海駅函南駅間にある複線規格のトンネル。総延長7,804メートル、1934年(昭和9年)開通。

完成当時は清水トンネルに次ぐ日本第2位の長さで、鉄道用複線トンネルとしては日本最長だった。現在、東日本旅客鉄道(JR東日本)と東海旅客鉄道(JR東海)との会社境界はトンネル東口付近(来宮駅電留線の上り場内信号機)で、丹那トンネル自体はすべてJR東海の資産となっている[注釈 1]

なお、本稿では東海道新幹線の熱海駅 - 三島駅間にある新丹那トンネル(しんたんなトンネル)についても記述する。

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函南駅より丹那トンネル坑口をのぞむ、2011年


トンネル開通の効果

1934年(昭和9年)に丹那トンネルが開通するまで東海道本線は、現在の御殿場線を経由していた。この区間は急な勾配が続くため、下り列車は国府津駅、上り列車は沼津駅において全列車に登坂専用の補助機関車を連結していた。それでも登攀勾配による速度低下は避けられず、補助機関車を増解結するための停車時間とともに、御殿場線の区間は東海道本線の輸送上のボトルネックとなっていた。詳細は、御殿場線#沿線風景を参照。

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丹那トンネルが開通すると、東海道本線のルートはただちに同トンネル経由に変更され、線路延長が11.81キロメートル短縮されたばかりか、上述のボトルネックが解消された。その結果、東海道本線の速達性は改善され、運行経費も大幅に削減された。なお、丹那トンネルは完成当初から直流電化されていた。長大トンネルであることから蒸気機関車の煙をトンネル外へ排出することが困難と考えられたためである。


トンネル付近の地質

この付近は活火山箱根山から続く火山地帯で、トンネル自体は活動を止めた熱海火山(多賀火山とも呼ばれる)の山体を貫いている。通常、火山の山体には緻密な溶岩流層と十分固結していないでできた層が存在する。そのため大量の水を溜めたり湧き水として湧出させたりするが、丹那トンネルの上部にある丹那盆地も地下に大量の地下水を溜めていた。またトンネルは活発な活断層である丹那断層を横切っており、トンネル掘削中の1930年にこの断層を震源とする北伊豆地震が発生した。この断層以外にもトンネルは4か所の大きな断層帯を横断しており、大湧水を伴う1か所の火山荒砂帯とともに、工事進捗の阻害要因となった

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トンネルの真上にあたる丹那盆地。盆地の左右に断層が走る


計画

開通直後の東海道本線国府津駅より酒匂川沿いに箱根外輪山の外側を通る箱根線ルートだった。そのため25/1000の急勾配が19キロメートルを占め、補助機関車の連結や食堂車の切り離し作業などが必要であり、また豪雨による土砂崩れによる不通もしばしば発生していた。1910年代にはマレー式機関車を導入したが、期待どおりの輸送量増大には至らなかった

鉄道院では箱根線を経由しない新路線を建設し東海道線の輸送力の増強を求める意見が高まり、国府津駅から小田原駅湯河原駅熱海駅から三島駅沼津駅を結ぶルートが検討されたが、箱根から天城にかけての丹那盆地を貫通するトンネル建設が課題となった。

当時の鉄道院総裁後藤新平は新路線建設可否を管理局に命令、1909年(明治42年)に鉄道員技師の辻太郎が復命書を提出、輸送力強化のために新線建設は必要であると説き、また湯河原や熱海等の温泉地への旅行者の利用が見込め鉄道院の収入増加となり、丹那盆地のトンネルも技術の進展と共に可能であると結論付けた。この復命書に基づき山口準之助が工事費見積書を作成、尾崎錦太郎による実地調査が行われた。1911年(明治44年)、佐藤古三郎技師を隊長とする測量隊を派遣、1913年(大正2年)に熱海を経由する熱海線の建設予定地が決定された。同年6月に小田原から熱海までの熱海線建設および丹那盆地のトンネル工事を指揮するため熱海線建設事務所(後に熱海建設事務所と改称)が新橋駅内に設置され、富田保一郎技師が所長に就任した。

しかし政府内部では多額の建設費に反対する意見も強く、また後藤総裁に対し熱海に別荘を所有しているために工事推進しているという誹謗中傷が行われ、床次竹二郎が鉄道院総裁に就任すると工事中止となったが、仙石貢が総裁に就任すると再び工事計画が推進されることとなった。

1918年(大正7年)、熱海線建設が総予算2,400万円(当時)で決定された。当初は丹那山トンネルと称されたが、丹那山という山は存在しないために丹那トンネルに名称が修正された。トンネル工事費には770万円(当時)が計上され7年後の1925年(大正14年)の完成予定で着工され、鉄道院は設計、監督にあたり、工事作業は民間企業に委託されることが決定し、鹿島組鉄道工業会社がそれぞれ三島口、熱海口から掘削を開始した。


難工事

丹那トンネルの工事は、1918年(大正7年)に予算770万円(当時)で着手され7年後の1925年(大正14年)に完成する予定だったが、約16年後の1934年(昭和9年)に総工費2,600万円(当時)で完成した。この工事期間の長さと膨れ上がった工費、事故による犠牲者67名(うち熱海口31名、函南口36名)が難工事を象徴している。

着工

1918年(大正7年)3月21日熱海町の梅園付近の坑口予定地で起工式が行われた。丹那トンネルは排煙効果の高い、また脱線事故等に際しての復旧作業を考慮し複線型をオーストリア式で掘削するという当時の日本鉄道技術では画期的な工事だった。当初は国府津から熱海までの東海道本線支線の熱海線の起工式であるため小規模なものだった。

掘削では削岩機を利用し、また坑道照明用の電力が富士水電株式会社より供給される予定だった。しかし第一次世界大戦による好景気により電力価格が高騰したことで電力供給の合意に至らず、工事はカンテラ照明にツルハシを使用した原始的な手掘りで開始された。その後蒸気機関を利用した空気圧削機が採用され作業効率が飛躍的に向上した。

建設現場に電力供給が行われるようになったのは1921年(大正10年)の三島口への火力発電所建設による。照明が電灯に切り替えられたほか、牛馬に頼っていた余土輸送にも電気機関車が利用されることになった。大戦景気の反動で大不況となり電力需要が減少した富士水電からの電力販売の申し出もあり、火力発電所は停電対策用とし通常の電力は価格面で有利な富士水電からの供給を受けるようになった。

大量湧水

丹那盆地の地質構造から、トンネル掘削は大量の湧水との戦いだった。トンネルの先端が断層や荒砂層に達した際には、トンネル全体が水であふれるような大量の湧水事故も発生した。湧水対策としては、多数の水抜き坑を掘って地下水を抜いてしまう方法がとられた。水抜き坑の全長は本トンネルの2倍の15キロメートルに達し、排水量は6億立方メートル(箱根芦ノ湖の貯水量の3倍とされる)に達した。

トンネルの真上に当たる丹那盆地は、工事の進捗につれて地下水が抜け水不足となり、灌漑用水が確保できず深刻な飢饉になった[2]。丹那盆地では元来、稲作を主な産業とし、清水を利用したワサビ栽培もおこない、副業として酪農を行っていた。しかし水源不足により農作物が枯れ農地が荒れる被害が出て、鉄道省では対策として水道の敷設や貯水池の新設などを実施した。それでも十分な効果が上がらなかったため、1932年(昭和7年)になり農民らは県知事に訴え、知事の指示で耕地課農林主事であった柏木八郎左衛門が対策に乗り出して鉄道当局と交渉し、1933年(昭和8年)8月に見舞金117万5,000円が交付されることになった[3]

現在でも、完成した丹那トンネルからは大量の地下水が抜け続けており、かつて存在した豊富な湧水は丹那盆地から失われた。例えば、湿田が乾田となり、底なし田の跡が宅地となり、7か所あったワサビ沢が消失している[2]。こうした関係で、被害対策に尽力した柏木の提唱もあり、トンネル工事以前には副業に過ぎなかった酪農が、丹那盆地における主要な産業となることになった。

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丹那トンネル湧水状況
   『鉄道80年のあゆみ 1872-1952』(p25)


トンネル崩壊事故

1921年(大正10年)4月1日4時20分、270メートルの熱海口工事現場で崩落事故が発生し、33名が崩落に巻き込まれた。4月8日に坑道奥で作業していた17名が救出されている。また1924年(大正13年)2月10日には三島口で崩落事故が発生し16名が巻き込まれ全員が死亡している。

この他1930年(昭和5年)11月26日に発生した北伊豆地震でも崩壊事故があり5名が遭難、3名が犠牲になった。なお、1923年には関東大震災が発生して、熱海線や東海道本線(現御殿場線)に甚大な被害を与えているが、工事中の丹那トンネルそのものにはほとんど被害がなかった。

北伊豆地震

1930年(昭和5年)に、西から掘り進んでいたトンネルが、明瞭な断層に到達した。断層を突破するため、数本の水抜き坑が掘削されていたまさにその時、その断層を震源とする地震(北伊豆地震)が発生した。ある水抜き坑では、切羽全体が横にずれて、坑道一杯にきれいな断層鏡面が現れた。地震で断層が動いた影響で、熱海側(東側)の地面が函南側(西側)に対して北へ2メートルほど移動した。このずれのため、本来直線で設置する予定だったルートが、S字型にわずかに修正されている。

温泉余土

工事関係者が「温泉余土」と名付けた、安山岩質溶岩と集塊岩が熱水で変成し粘土化した緑色の地層にも悩まされた。この地質はトンネルを掘っていく時には堅く何の問題もないのだが、掘った後で空気中の水分を吸うと軟らかくなり、きわめて激しく膨張する。膨張力はいろいろと工夫した鉄製の支保工でさえ曲がるほどだった。また、温泉余土はもともと水を通さないが、湧水と出会うと溶けてしまう。トンネルが崩壊する危険があるほか、溶けた粘土で排水ポンプが詰まるのにも困らされた。


新工法の検討

難工事の対策として様々な工法が検討された。「水抜き坑」は多用されたうえ湧水対策として有効だったため、以後「丹那方式」と呼ばれて各地のトンネル工事で採用された。軟弱地盤や湧水帯を掘削する際に使用される「セメント注入法」と、高圧空気で湧水を押さえる「圧搾空気掘削工法」が、日本では丹那トンネルの工事で初めて実用化された。圧搾空気掘削工法は、水頭の低い湧水箇所、つまり河底トンネルなどに利用されるべきであるが、トンネルに用いられた。まず坑内に空気閘を作り、0.35 - 2.5 kgf/cm²の圧力の空気を坑奥の掘削面に送り、湧水を抑圧して掘進させた。地質不良で土圧の大きいときは支保工代用としてシールドを使用し、これが掘進にしたがって鉄製セグメントで畳築しながら進行した。この圧搾空気掘削工法に従事する者はすべて厳しい身体検査ののち入坑させ、彼らの空気病の治療のため坑門付近に治療用空気閘を用意し、医員が配置された。羽越本線折渡トンネル(現在の下り線トンネル)に続き日本で2例目の「シールド工法」も試みられたが地盤がこの工法に適しておらず成功しなかった。地質を調べたり湧水を抜くためにトンネル先端で行う「水平ボーリング」も日本で初めてと推測される。


開通

1933年(昭和8年)6月17日午前7時、三島口より探り鑿が入れられ水抜坑の両坑口切端間が5.2メートルと確認されると、6月19日午前11時半に貫通式が開催されることとなった。三土忠造鉄道大臣が大臣室で最後の発破合図のボタンを押すと、坑道内にその信号が伝えられ発破が実行され丹那トンネルが貫通した。その後本線導坑工事を推進、8月25日午前11時32分に貫通、内装工事を完成させ1934年(昭和9年)3月10日に鉄道省は工事完成を発表した。その後レール敷設工事及び電化工事が行われ、12月1日に開業することが決定された。

丹那トンネルを最初に通過する列車には11月30日午後10時東京発神戸行き二・三等急行、第19列車と決定した。乗車希望者が多いために臨時に車両を増結し当時としては異例の15両編成での運行が決定され、また機関手には東京機関庫運転手指導員の殿岡豊寿、助手に中山貞雄が指名された。また日本放送協会では、通過第1号列車の丹那トンネル通過を実況中継放送すべく熱海口、三島口出口付近に受信所を設置し、放送自動車を貨物車に積載することも決定した。

第19列車は提灯で開通を祝う沿線駅を通過し、12月1日午前0時3分30秒に来宮信号所を通過、午前0時40分に熱海口に入り、9分2秒で丹那トンネルを通過し沼津駅に到着した。


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丹那トンネル 熱海口坑門
『鉄道80年のあゆみ 1872-1952』(p25)、
1950年登場の
国鉄80系電車が写り込んでいるため1950〜1952年の撮影と思われる

教訓[編集]

丹那トンネルの難工事は、地質が分かっていない所へ遮二無二トンネルを掘ろうとした結果だった。その後のトンネル工事は事前にできるだけの調査を実施し、難工事が予想される箇所を避け、地質に合った掘削方法を準備するようになった。次の長大トンネル関門トンネルは事前調査の結果、地盤の軟弱な九州側の主要工法としてシールド工法が採用され、工事推進の原動力となった。

北伊豆地震の震源となった丹那断層は、その後の調査で活動周期が約700年と判明し、当分の間地震は無いと判定され、東海道新幹線新丹那トンネルも丹那断層を横切って建設された。

慰霊碑

丹那トンネル工事の犠牲者全67名の殉職碑が、鉄道省によって熱海側の坑門の真上に建立されている。付近にある、工事の際に労務者の信仰の篤かった山神社なども含めて、地元有志の手で丹那神社として整備されている。

工事は熱海口を鉄道工業、函南口を鹿島組が請負った。函南口の犠牲者36名に関してはもう1つの慰霊碑が鹿島組によって函南側の坑口近くに建立されている。この碑は当初は東海道本線の線路の北側にあったが、現在は南側に移転している。現在JR東海が樹木伐採等の周辺整備を行い、地元有志により定期的に清掃奉仕をされている。

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丹那トンネル工事殉職者慰霊碑(函南側)




扁額

熱海側の坑門上部には、開通時の鉄道大臣内田信也揮毫の銅製「丹那隧道」扁額が中央にあり、左に2578、右に2594という数字も掲げられている。2つの数字は着工と開通の年の皇紀を表す。


新丹那トンネル

新丹那トンネル(しんたんなトンネル)は、丹那トンネルの約50メートル北側に並行して延びる長さが7,959メートルの東海道新幹線(三島熱海間)のトンネルである。


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新丹那トンネルのトンネル工事が開始されたのは、1941年(昭和16年)8月にさかのぼる。新丹那トンネルは、もともとは戦前の高速鉄道計画である弾丸列車計画に基づくもので、他に、日本坂トンネル東山トンネルが同時期に着工されている。しかし、1943年(昭和18年)には第二次世界大戦の戦況悪化にともない中止されてしまった。中止の時点において、熱海口(東口)は647メートル、函南口(西口)は1,433メートルの先進導坑がすでに掘削され、両坑口ともに200 - 300メートル程度の覆工を完成させていた[4]。なお、戦時中の約1年半の期間でスムーズに工事が進行したのは、掘削に数々の新手法を投入したためでもあった。新オーストリア式逆巻方式と呼ばれる導坑の掘り方や、4 - 5台のドリフター型削岩機を装備した自走・自碇する削岩車が活用され、人力に依存して掘削を行なった丹那トンネルの工事よりも安全面において有利だった[4]

戦後、東海道新幹線のために弾丸列車計画のルートが採用されたため、新丹那トンネルは今度は新幹線用のトンネルとして利用されることになった。新丹那トンネルは、1959年(昭和34年)に工事が再開され1964年(昭和39年)に完成した。丹那トンネルの難工事とは異なり、新丹那トンネルの工事は順調に進んだ。地質構造がよく分かっていたことと、既設の丹那トンネルを水抜き坑代わりに利用できたことを差し引いても、工事再開から4年4か月という工期の短さはトンネル掘削技術の進歩を物語っている。新丹那トンネルの工事は、熱海口は間組、函南口は鹿島建設(鹿島組)が請負った。なお、工事での犠牲者は熱海口10名、函南口11名だった。ただし、丹那トンネルの工事とは異なり大きな崩壊事故は1件も発生していない。

ちなみに、東海道新幹線の全体の起工式が行われたのは、新丹那トンネルの熱海側坑口前である。新丹那トンネルこそが全体の工期を律する最重要工区とみなされていたためである。


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静岡県田方郡函南町には「新幹線」という地名が存在する。これは戦後の新幹線計画からの地名でなく、戦前の弾丸列車計画時代に新丹那トンネルの工事を行うための従業員宿舎が置かれた場所である。工事終了後、従業員宿舎は撤去されたが、のちに同地に住宅団地が作られ「新幹線」という地区が生まれた。その後の同地区の住居表示実施によって「函南町上沢字新幹線」となっている。現在も同地区には新幹線公民館や「幹線上」、「幹線下」という名称のバス停が存在している。

> 幹寿会の記録によると、当初は住所はなく、郵便物は「国有鉄道官有無番地」で届いていた。しかし役場から行政区名を決めるよう求められ、48年に函南工事区長が「将来ここを通るはずだから」と「新幹線」を提案したという。寺戸さんは「『新幹線』を名乗ったのは、列車よりうちの方が先だよ」と胸を張る。
> 寺戸さんによると、かつての集落は西側に管理職が住む一軒家、東側に作業員の長屋が段々畑のように並んでいた。「国鉄関係者しかいなかったから、まるで一つの大きな家族のようだった」という。しかし新幹線が開業すると職員は次第に新しい職場へ移り、70年代には官舎は全て払い下げられ姿を消した今や当時を知る住人は少ないが、寺戸さんは「生まれ育った地で、愛着のある名前。ずっと残ってほしい」と話している。




新東名で水枯れの教訓

2019.8.31


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リニア中央新幹線建設に伴う大井川の流量減少問題では、流域の水資源に影響が出た場合の補償の在り方も焦点になっている。20年前、その教訓になりそうな事態が掛川市で起きていた。


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新東名高速道建設中の1999年、掛川市の粟ケ岳トンネル工事中に出水が発生した。間もなく周辺の倉真地区で農業用水を採る沢が枯れ、東山地区では地下水を源とする簡易水道が断水した。
  「切れたことのない沢が突然、2キロくらいの範囲で干上がった。驚いたし困ったよ」
  粟ケ岳北麓で沢の水を使って茶園を営んでいた60代の男性は、当時のショックを振り返る。
  着工前、日本道路公団(現中日本高速道路)の説明会が開かれたが「水枯れの可能性の話はなかった」と男性。断水後、地区の要望を受けた公団は、トンネル内の止水工事に加えて別の川から茶園へ約2キロの引水管路と中継ポンプを設ける補償的措置で応じた。
  ただ、完成した管路は水が出ず、男性は不具合を訴えたが結局1度も使えなかったという。止水の効果も限定的で、男性は水を確保する負担と茶価安から生産を断念。金銭補償を求めて5年ほどたった昨年、中日本高速道路とようやく補償が成立した。
  男性は「条件が提示され、交渉の余地はなかった。事前に補償のルールを決めていれば対応が違っていたはずだ」と悔やむ。
  倉真地区では観光名所「松葉の滝」も一時水が絶えた。止水などで水量は3割ほど戻ったが、市や地区区長会は当初から完全回復を求めて要望を続けている。中日本高速道路は「経済的損害がないため対策はできない」との立場で、協議は長年、平行線のままだ。
  地区役員の横地静雄さんは「滝はハイキングコースの目玉。何とか水量を戻したい。このまま協議打ち切りでは困る」と語気を強める。リニア中央新幹線の工事に対しても「補償の決めごとなしに工事をすべきでない」と粟ケ岳の苦い教訓が生かされるよう願う。
  大井川水系の利水自治体は10市町。地中の水脈は複雑、広域に入り組んでいる。特に扇状地が広がる左岸は多くの工場や家庭が伏流水に依存しているだけに、南アルプストンネル工事に伴う水脈の変化がどのような影響を及ぼすか、影響と工事との因果関係は立証できるのか、有識者の間に懸念の声が目立つ。
  松井三郎掛川市長は「水量、水質に影響が出た場合の補償の確約がなければ工事は認められない」と、地元の立場を強く訴えた。

 ■「丹那」も対応に苦慮
  トンネル工事を巡る補償問題は全国各地で発生し、被害を受けた住民が対応に苦慮した事例は多い。県内では約100年前の東海道線丹那トンネル工事に伴う水枯れが有名だ。
  函南町誌や鉄道省(現在の国土交通省やJR)の資料によると、トンネル真上の丹那盆地(函南町)はワサビを栽培できるほど水が豊富だったが、工事の進行とともに地下水脈が変化し、盆地内に水枯れが広がった。
  飲料水に支障が生じるほどで、住民は鉄道省にたびたび救済を訴えたが、同省は当初、関東大震災の地下変動や降雨量減少のせいだとして本格調査に応じなかった。約10年で多額の補償を得たが、配分を巡って集落間で対立し、住民の襲撃事件にも発展した。同町の資料には「覆水盆に返らず」と記されている。(静岡新聞2019年8月31日朝刊)

新東名の教訓生かして 掛川市倉真地区まちづくり協議会会長・横地静雄氏【大井川とリニア 私の視点】

2021.2.17

 掛川市の新東名高速道粟ケ岳トンネル。1999年の掘削工事中、周辺では農業や生活に使う水が枯れた。粟ケ岳西側の倉真地区は観光名所「松葉の滝」の水が途絶え、対策後も元の量に回復していない。同地区まちづくり協議会会長の横地静雄さん(70)は、リニア中央新幹線工事による大井川の流量減少問題に粟ケ岳の教訓を生かしてほしいと願う。

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横地静雄氏

 -地元にとっての松葉の滝とは。
 「倉真川の源流に位置し、倉真や西郷地区では一部を農業用水として使っている。地区で整備した粟ケ岳までのハイキングコースでは目玉の一つになっている。過疎化が進む中、滝をはじめとする観光資源を活用してにぎわいをつくりたい」

 -工事でどのような影響が生じたか。
 「工事が始まってしばらくして、滝の水の流れが止まった。かつては滝つぼがあり、冬の渇水の時期でも水が絶えることはなかった。滝の上流部にある茶畑でも水路の水が枯れた。トンネル掘削で毎分400リットルの水が常時湧き出て、うち毎分200リットルが島田市大代側に流出している」

 -中日本高速道路(粟ケ岳トンネル建設当時は日本道路公団)の対応は。
 「当初は工事との因果関係を認めようとしなかった。その後、因果関係を認めて止水対策や、大代側に流れ出ているトンネル湧水をポンプアップして戻すなど対策を講じたが、現在でも滝の水は工事前の水準まで回復していない。中日本高速道路は経済的な損失があれば補償するという立場を取っている。水量減少や景観悪化という理由だけでは対象外だが、経済損失の算出は難しく、協議が続いている」

 -リニア問題に生かせる教訓は。
 「影響が出た場合の対策や補償の問題は住民の納得が大事。粟ケ岳の場合は水枯れの説明や補償の事前協議が十分にないまま工事が進み、苦労した。工事前の水量がどれほどだったのかが分かっていなかった。流量減少が工事によるのか、気候変動など別の要因によるのかを示すのも難しい。大井川の流量減少は影響を受ける規模が、粟ケ岳とは桁違い。掛川市も水道水のほぼ100%を大井川に頼っている。住民が納得する対策を示してほしい」

 <取材後記>世界農業遺産で注目が集まっている粟ケ岳。そのハイキングコースの途中にある松葉の滝も訪れる人が増えているが「来てもらったのに水が少ないのは寂しい」と横地静雄さんは肩を落とす。
 十分な事前協議がないまま工事が進み、約20年たった今なお、滝の水量回復を求める住民らの切実な訴えが続いている。経済的損失に換算できない難しさがあるが、地元住民が譲れない問題だ。
 リニア工事ではJR東海が、不十分と指摘されている調査に基づく流量予測にもかかわらず、中下流域での流量が維持される、との説明を繰り返している。大井川流域住民の納得を得るまでの道のりは遠そうだ。

 よこち・しずお 掛川市倉真地区まちづくり委員会のメンバーとして長年、地域活性化に携わる。2016年から現職。ハイキングコース整備や空き家を活用した地域の交流の場所づくりに取り組む。70歳。






200828アーカイブス「丹那トンネル貫通・開通」鉄路の昭和史より






【TBSスパークル】1934年12月1日 丹那トンネル開通(昭和9年)





丹那トンネルの話






190425新丹那トンネル工事・起工式・貫通カラー合作版








弾丸鉄道 新丹那トンネル 二部 英映画社制作

 


【16年の難工事】高速化の恩恵!丹那トンネルの解説





【前面展望】東海道線で1番長いトンネル(丹那トンネル)




1930年北伊豆地震の元凶・丹那断層【じおじぃ・もじおの番外編】





北伊豆地震(直下型)による断層ずれの痕跡!「丹那断層」0:00「火雷神社」2:22





丹那断層を飛ぶ(ドローン空撮)Tanna Fault, Izu Peninsula Geopark, Japan






丹那断層 tanna fault




約30年前の「水返せ運動」時代に翻弄される大井川






大井川から離れた掛川市も市民の健康を支える「命の水」として恩恵を受けています。
過去には大きなトンネル工事のあと、水枯れを経験していました。





リニア水問題 水の恩恵を受ける牧之原台地





丹那湧水、水抜きトンネル視察




丹那断層巡検 丹那盆地~田代盆地(雷神社)




【オラッチェ】丹那盆地まつり【11月9日】




丹那盆地メガソーラー発電所予定地を、上空から調査





粟ヶ岳 かっぽしテラス(粟ヶ岳世界農業遺産茶草場テラス)