800MHz帯の自動車電話への妨害波被害の話
・昔昔まだ日本に自動車電話がなかつた時代に東京・大阪でサービス開始して名古屋にも導入され立ち上げに参加したときの話ですがいまは小学生でももっている携帯電話ですが当時は政治家か医者か893親分しか持てない時代でして故障受付もやつてましたが893親分からよく苦情があがりあの場所にいくと必ず切れると・・最初は電波伝搬で波長の関係でウンヌンといつてましたが・・毎日苦情あり電測もつてその地点にいきましたが電波は正常に受かりましたが・よくよく聞くとある日のある時間になるとか必ず切れるとのこと・1ケ月ほど探索してたらやはりある時間に妨害波が出ているの確認して・探索したらあるキャラメル工場から妨害波が・工場に訪ねたらなんと800MHzの高周波ウエルダーでキャラメルのインゴトを溶かしていて稼動日と時間は決まるているとのこと800MHzの高周波ウエルダーはこの時点では法律で禁止になつている件を説明して工場は検討するとの回答であつたが・すこしたつて妨害波がなくなつた・機械を変えたかなと理解してましたが私が行きつけの無線機ジャンク屋の親父へ800MHzでこんな妨害があつた話をしたところ・ジャンク屋の親父がえええ~それおれが治したとのこと・・どうしたんだと聞くと800MHz帯以外の高周波ウルダーで試験したがキャラメルのインゴットが溶けないでしうがないので800MHzの周波数をNTTの使つてない周波数に動かしたんだとのこと・・チャンチャン
・・・昔昔のお話でした
1954年に日本電信電話公社電気通信研究所によってアナログ携帯電話の系譜につながる移動電話システムの研究が開始された[1]。研究所無線課の岩井文彦、森永隆廣が中心となってシステムの開発が行われた。1961年には手動交換式の自動電話システムが誕生した[1]。1966年には全自動交換方式、ハンドオーバー可能な本格的な自動車電話方式の開発に着手。1967年には全自動交換方式に改良した、16無線チャネルを使ってのハンドオーバーを可能とした世界初の本格的な民間用自動車電話として開発を完了した[1]。しかし、当時使用可能であった400MHz帯では帯域が狭く加入者容量が十分でないとの判断で、民間用としてはサービスが見送られ、1970年に都市災害対策用の持ち運び式の電話システムとして東京23区に導入された[1]。その後、より広い帯域を確保するために800MHz帯が開発され、民間用としては世界で初めて1979年12月3日に本格的な自動車電話サービスが開始された[1]。
収容可能移動局を増やすため、一つの基地局あたりのカバー範囲を半径数km程度にする電波の利用効率の良い小ゾーン方式とし、帯域の広い800MHz帯を使用し、ハンドオーバーを可能にしたものである。
当時機器類はすべて電電公社からのレンタル品であり、保証金20万円のほか、月額基本料3万円、通話料が6秒で10円と、非常に高額であった。このため、当初は大手企業の社長など経営幹部の社用車に設置され、後部座席に座る幹部と本社の緊急ビジネス連絡用に使用された。
60MHz帯の妨害の話
昔昔・・日本にまだ自動車電話や携帯電話のない時代に災害時に市町村が孤立したときに通信を確保するために60MHz帯で孤立防止用無線を構築したときのお話ですこのシステムは山上のマイクロ無線中継所より僻地の市町村を60MHzで結び交換台で手動接続し救援要請に備える回線でしたが開通してすぐ交換台のおばさんから苦情が多発頻繁に交換台のランプが付くがだれも出ないとのことで私に話しがきた・・私はアマチュア無線をやつているのですぎピントきました・・そうですEスポですね・・その話を交換台のおばちゃんに・・・ロシアのテレビ電波が混信するんですよ・・といつてもホラ扱いする始末でしたが・・・ある日にロシア語が聞こえたとのことで納得していただけましたが・・その孤立防止用無線も自動車電話や携帯電話が出来たため廃止されましたが・・その後に3.11などで携帯基地の【脆弱性】が暴露され通信孤立が多発したしだいです・・この孤立防止用無線がまだ生きていればと悔まれます・・・昔昔のお話です
昔昔にわが社で使っていた
市町村孤立防止用無線電話 TZ-60
まだ日本に自動車電話も携帯電話もない時代に
山間僻地で電話が不通になり通信孤立を防止するため山上無線中継所より
僻地の警察や役場に配備した無線機でした
僻地の警察や役場に配備した無線機でした
60MHz帯で1Wでポータブルタイプでした自動車電話や携帯電話の
普及でサービスは廃止されましたが・・これが残っていたら3.11も活躍したでしょう
松下製と東洋通信機製
5GHzマイクロ回線の妨害電波の話
・昔昔のお話しです・・昔NTTのマイクロ回線は2GHz・4GHz・6GHz・11GHz・21GHzなどをつかいTV伝送や公衆回線を中継してましたが新たに5GHzを導入しようと東名阪ルートに回線を構築しましたがいざ開通となつて電源をいれたら妨害波で使えない状況でしたその発生元はなんと防衛庁の航空自衛隊のASRレーダーでしたASRレーダー周波数は2610MHz付近だとおもつていましたがその2倍高調波がNTTの5GHz回線に妨害をあたえていたんですね・・さっそく航空自衛隊にスプリアスがあるから調整せよと談判したところ自衛隊いわくスプリアスは電波法の基準以内で問題ないとのこと・でもNTT側では強力に受かっていると抗議したが自衛隊いわく基本波の60db以下だから問題ないとのこと・では基本波の電力は?100KWだと~~だめだコリャ!!・・らちあかなのでフィルターを自衛隊レーダーにつけてくれと談判したところNTTが作って無償供与ならいいとのこと早速に島田理化に作らせ納入して試験したら問題は解決とおもったら2~3日したら自衛隊からフィルターが焼け落ちたとのこと!!えええ~~島田理化はフィルターを導波管内にクサビ状に作りフランジは半田付けで作ってましてこのフランジが高温になり半田が溶けてフィルターごと導波管から落ちたとのこと・・恐ろしい!!・・島田理化に今度は半田付けでなく溶接で作らせ一件落着でした・・・昔昔のお話しでした
電電公社では,年々増大・高度化する通信需要に対応するため,15GHz帯に次いで新しく20GHz帯を用いた長距離大容量ディジタル通信方式の開発を行い,51,52年度に東京―横浜,大阪―神戸の2区間において商用試験を行い良好な結果を得た。20GHz帯は,降雨による減衰が大きいため長距離回線には不適当と考えられてきたが,この方式は超高速PCM技術及び固体電子化技術の活用並びにPCMの性質と中継所構成の大幅な簡略化により約3kmごとに中継を繰り返し,長距離幹線系にも使用可能としたものである。1システム当たり400Mb/s(電話換算5,760回線)の伝送容量を有し,1ルート当たり現用8システムを用いて最大電話換算4万6,080回線を収容できる長距離大容量方式であるさらに,公社ではデータ,ファクシミリ,画像通信等の新サービスの進展に伴い増大することが予想される広帯域ディジタル加入者線の需要に対処するため,準ミリ波帯(26GHz帯)を用いて電話局と加入者を結ぶ加入者無線方式の開発を行っている。
加入者無線方式は,電話局を基地局とし四つの扇形ビームを用いて,半形約7km内の事業所加入者等に広帯域ディジタル加入者線を提供するものである。
静岡県も東西155キロメートルを3Kmごとに50局の中継所を建設して
開通したが結局は雨による瞬断が多発し
400MHz帯 都市災害用無線への妨害電波の話
40.68MHzの高周波ウエルダー機器の被害体験
昔昔まだ自動車電話や携帯電話の無い時代に将来の自動車電話にしよと開発した400MHz帯で開局しよとしたが郵政の許可がでずそのシィステムは都市災害用無線として大臣や官僚や市町村の機関(警察・消防)に配布され運用されました当時私が勤務していた静岡県東部地区にも100台ほど配備され工事すすめましたが基地局の受信機が各チャンネルがスキャンスするごとく妨害をうけていまして私の相談がありました私すぐ思いあたりましたそうです軍用無線をやつている人なら40MHz帯でブーン・ブーンとゆう妨害波をしかも周波数が変動してるやつです・・たぶんこの10倍波と気ずき電測を車に積み探索に赴きました・・妨害電波のその町は漁師町でしたたぶん干物を高周波ウエルダーで乾燥しててるかなと思い査察しましたが該当なかつたんですが我々が狭い漁師町で探索しているの噂になり・・とうとう犯人らしき人から連絡が・・なんとサンダル業者でした・・高周波ウエルダーで接着に使ってたんですね無免許でしかも電磁シイールドなしで妨害波でぱなしでした・・・昔昔のお話でした
災害時応急復旧用無線電話機 TZ-41
まだ日本に自動車電話や携帯電話が存在しない時代に
NTTの前進の電電公社で開発したポータブル自動車電話でしたが
郵政省の許可がでず都市災害用として官公庁に配備した無線機です
一応ポータブル型で無線機本体と電源の2トランクタイプでした
400MHz帯で5Wでサービスしてましたが そのご800MHz帯
の自動車電話が開発されこの小型が携帯電話になりこのTZ-41は
廃止されました
150MHzの船舶電話のお話
昔昔・・自動車電話や携帯電話も無い時代もちろん衛星電話もありません時代に船舶との通信は短波をもちいての電報が主であつたが電話をするサービスを1959年(昭和34年)3月1日サービス開始しましたNTTの関連会社だった日本船舶通信が無線機を取り付けサービスイン時に開通試験でNTTの職員が船に赴き試験開通してまして私も漁船や商船に赴きました当時は150MHz帯で運用して日本沿岸から約50Kmをカバーして基地局は2B94で40Wだしてまして交換台接続で国内に同時通話可能でしたA圏とB圏の繰り返しゾーンが日本に決められ船の方でいまどの圏内にいるか選択して使うようになつてましたそのごフェリーなどに自動公衆電話をつけるようになり私もその開通に立会いました 私が夜勤のときにNTTの窓口(夜間受付の電報)に無線機を抱えた漁船の船長がきていまから駿河湾から相模湾をこえ東京湾までいきたいが無線がこの内航船舶電話しかなく不安で航海できないので修理してくれとのこと・・無線機は日本船舶通信がやつているがもう夜なので人いないと帰ってもらったが・・いまでも無事に東京湾まで着いたかと心配でした・・あと下田で新たに基地局が開局して開通試験時に圏内で切れるとゆうことで海上保安庁の巡視艇に協力をえて石廊崎おきを航行して調査しましたがやはり圏内で切れました・・後日検討したら確認試験に時報117を接続して確認してましてこの時報117は10分たつと自動に切れることがわかり・・一同大笑いでした・・チャンチャン
内航船舶電話はそのご150MHzから250MHzになり現在は衛星通信に変わりました
昔昔のお話しでした
船舶電話(せんぱくでんわ)とは、船舶に搭載の電話機により海上からの電話を行う移動体通信である。陸上の海岸局(基地局)を使用した公衆交換電話網と接続されたものである。
日本では、衛星電話に移行したり、海上での携帯電話・第三者無線の使用が解禁されたため、2003年(平成15年)以降専用のシステムが存在しない。なお、船舶電話から110番通報した場合は、海上保安庁に接続されていた。
日本国内であると、衛星電話の1つである、ワイドスターなどが、現在主流で利用されている。
手動交換方式船舶電話
日本電信電話公社の関連会社だった日本船舶通信(のちのドコモ・センツウ。現在はドコモ・モバイルに合併)によって1959年(昭和34年)3月1日サービス開始、1986年(昭和61年)3月サービス停止。手動交換方式であり、周波数変調で150MHz帯を使用していた。150MHz帯以外にも140MHz帯や250MHz帯(東京港湾内のみ)使用されていた時期がある。
手動交換式船舶電話のトラフィック(トラヒック)の増大により、自動方式に使用予定の250MHz帯を利用した。暫定手動方式と呼ばれる方式が一時期利用され、1986年(昭和61年)3月にすべて自動交換方式船舶電話に置き換えられた。
自動交換方式船舶電話
通信中に海岸局を切り替えるハンドオーバー可能な、自動交換方式のものである。音声通信は周波数変調、制御は帯域内トーン信号で行われていた。
船舶は自動車と比べ移動速度が遅いためハンドオーバーは自動化されていなかった。
音声通信は秘話回路で処理した後に周波数変調を行い、ダイヤルは特殊送出タイミングのDTMF制御で行う。
着信や発信時、回線切断などの回線制御は低周波信号で行われていた(帯域内トーン信号)。
まれに口笛やバックノイズで誤動作(回線誤切断)する事もあり、FAXを利用するには船側、着信側に特殊な変換装置が必要であった。
船舶の電話番号の前に、海域ごとの海域番号を付け課金制御を行っていた。
周波数は、海岸局 253.0375 - 273.7875MHz・船舶局(移動局)268.0375 - 268.7875MHzを25kHz間隔で使用していた。
1979年(昭和54年)3月27日サービス開始、1993年(平成5年)9月30日サービス停止。
防衛省ではほぼ同様の自営システムを現在も使用している。
新方式船舶電話
自動車電話と中継網を統合し、通信制御方式を統一したもの。音声通信は周波数変調、制御はモデムによるデジタル信号で行われていた(帯域外デジタル制御)。
その頃の自動車電話と同じく、距離によって030と040の市外局番を付け課金制御を行っていた。
周波数は、基地局側 271.175 - 274.975MHz・移動機側 262.175 - 265.975MHzを12.5kHz間隔で使用していた。現在この周波数は公共デジタル通信用(消防・救急用)として使われている
内航船舶電話
日本沿岸を航行する船舶が公衆通信を行うため、陸上に設置した海岸局と船舶に設置した移動機との間で行う内航船舶電話(沿岸無線電話)は、昭和28年に導入されましたが、平成8年には船舶地球局とN-STAR衛星との間で行われる衛星通信システムサービスの開始により終了しました。
昭和28年(1953) NTTが150MHzによる、50海里内の沿岸を航行する船舶に対して公衆通信のサービスを開始
昭和54年(1979) 周波数を250MHzに変更
平成 8年(1996) N-STAR衛星のSバンド(2.6/2.5GHz) を利用し日本国内を含む、ほぼ200海里経済水域内の船舶、自動車等の移動体サービスを実施した。250MHz帯を用いた沿岸無線電話サ-ビスは終了。
N-STARシステムによる電話サービスは、沿岸無線電話に代わって平成8年3月から、日本の沿岸約200海里の海域で実施されています。
周波数はSバンド2.5/2.6GHz帯を使用しています。
N-STARによるサービスは、船舶電話、陸上移動電話のほか、今後は航空機電話サービスが予定されています。
N-STARの概要
姿勢安定方式 三軸制御方式
軌道位置 a号機132°E、b号機136°E
打ち上げ年月 a号機1995年8月、b号機1996年2月
客船等に取り付けられた船舶公衆電話には、このシステムが使用されています。N-STARアンテナは自動追尾方式です。
短波国際船舶電話(JBO)
昭和39年に短波を利用した国際無線電話サービス(JBO)が始まりましたが、平成15年3月31日でサービスを終了しました。
JBOが廃止された以降の海上における公衆通信は、国内通信はN-STARにより、国際通信はインマルサット衛星によりサービスが行われています
山原無線中継所
静岡市清水区にある山原無線中継所ですみかん畑とお茶畑の頂上にありますかつては内航船舶電話メッカで活躍した60m鉄塔と45m鉄塔が目立つていますかつては4GHzのTVマイクロルートの東ー名の幹線中継所で有人保守のときはロープウェイが設置されていた静岡県にTVを中継していて有人で手動切り替えしていた時代NHK総合に民法のCMを誤放送してしまつたのは私か!!いまD4局舎はDOCOMOに譲渡
150MHz帯のポケベルのお話
昔昔・・・まだ日本に自動車電話や携帯電話が無い時代に通信手段の方法として無線呼び出し通称(ポケットベル)が開発され日本では1968年7月1日にサービスを開始しました150MHz帯で出力250Wでビル内や地下まで届くよう町の真ん中で高出力で出したため150MHz帯での他の業務無線(警察・消防・救急など)やテレビに妨害を与えましてその対策に悩まれるまして特にテレビの混信苦情にはトラップを作り各家庭のテレビに付け回り作業におわれましたまたポッケトベルは1ヶ月の販売をメーカーは発注してその納品検査にNTTの職員がメーカーに赴き(NEC川崎工場)で検査し振動試験や感度試験を終えたポケベルを受け入りして開通としてマトリックス基盤にダイオードピンを刺し開通しましたまた料金滞納などの通話停止(通亭)はこのダイオードピンを抜く作業などがありました当時のポケベルはまさしくベルが鳴るだけですその後に数字メッセージが送れるようになり4649とか5963とか送りましたね!その後に数字いがいに文字やメッセージが送れるようになりまた また150MHz帯の混信妨害で250MHz帯になりました そんなポケベルですが自動車電話や携帯電話が出来て2017年3月に消滅しました
昔昔のお話しでした
無線呼び出し
無線呼び出し(むせんよびだし)とは、特定の手順によって、電波で小型受信機(通信機器)に合図を送るシステムである。主に連絡を取りたい相手が持っている通信機器に情報を知らせるために用いる。
日本ではポケットベル、または略してポケベルとも呼ばれる。個人需要が高く最盛期を迎えた1990年代(平成)の流行期には若者ユーザーからは更に省略され、ベルの愛称で呼ばれた。英語ではpager(ページャー)またはbeeper(ビーパー)という。台湾ではBBCALLという。
電気通信事業者による電気通信サービス(公衆呼出し)(日本ではNTTドコモグループ及びテレメッセージ各社が提供していた。)と、特定の工場やビル内などを対象に設置されたもの(構内呼出し)がある。
警察無線や消防無線の受令機も広義の無線呼出しである。こちらは無線電話の音声を受信でき、全対象者に命令の一斉伝達が、また聴いているであろう特定の相手を名指しすることで簡単な伝言が出来る。
2017年3月以降、日本では電気通信事業者による無線呼出しサービスを、2008年10月にYOZANから会社分割した「2代目」東京テレメッセージが既存の顧客へのみ提供している。
1968年 - 1985年頃まで (黎明期)
電波法令上は、信号報知業務と呼ばれ、「信号受信設備(陸上を移動中又はその特定しない地点に停止中に使用する無線設備であつて、もつぱらその携帯者に対する単なる合図としての信号を行なうためのものをいう。)と信号報知局との間の無線通信業務」とされ、単に音響を発する為の信号を送出するだけのものだった。また、送信局は信号報知局と呼ばれた。
1978年には、加入者の増加とともにより250MHz帯のFSK変調200b/sのNTT方式のサービスが開始された。
初期の利用者の多くは、業務上で外出の多い営業職・管理職・経営者であり、電子音による呼出音が鳴るだけのため、呼び出されたら出先の公衆電話から事務所へ確認の電話を入れるという使用法だった。1978年には自動車電話がサービス開始されたが、料金が非常に高額で、ポケットベルが唯一の個人向けの移動体通信だった。
1985年頃 - 1991年頃まで(発展)
通信自由化
1985年の通信自由化により、電波法令上では、無線呼出業務と改称され、
高速化と低料金化
1986年には150MHz帯の割当ては全廃され、250MHz帯のみとなった。更に1987年に400b/s、1989年に1200b/sへと高速化が行われた。
また、電電公社のポケットベル事業は1985年成立のNTTを経て1991年にNTTドコモグループに移管された。
2007年には姿を消したポケベル 送信装置が「未来技術遺産」に登録
モバイル時代の先陣を切ったポケットベル。その送信装置が未来に残すべき製品として、国立科学技術館の重要科学技術史資料(未来技術遺産)に登録された。
登録された送信装置は、NTTが運営するNTT技術史料館が所蔵する3機種(TC-11形送信装置、TC-15形送信装置、CE-15形A符号化装置)だ。「どこでもつながる『ポケベル』を支えたインフラ」という点が評価された
ポケベル150MHz帯送信機TC-11
5F60R PowerAmplifier
お宝画像ありました
ポケベル、半世紀のサービスに幕…9月30日にサービスを終了
2019/09/29(日)
3470(さよなら)ポケベル―。「ポケットベル」の愛称で親しまれ、1990年代にブームとなった無線呼び出しサービスを、全国で唯一展開していた東京テレメッセージ(東京)が9月30日にサービスを終了する。半世紀にわたり続いたが、携帯電話に取って代わられ、通信手段としての役目を終えた東京テレメッセージは9月30日深夜から10月1日にかけてポケベル用の電波を順次止めるポケベルのサービスは、固定電話から特定の番号に電話すると、小型受信機の呼び出し音が鳴る仕組み。日本電信電話公社(現NTT)が1968年にサービスを開始した
【ポケットベル】遺影に「1141064」 あす終了、秋葉原駅そばでポケベル葬
2019/09/29(日)
「個人向け通信呼び出し」のポケットベルが今月30日でサービスを終える終了を前に、「みんなのポケベル葬」が29日、JR秋葉原駅そばであった。主催は東京都葬祭業協同組合仕事柄、急な連絡が頻繁な葬祭業者にとってポケベルは必携だったといい、お葬式は「感謝の気持ちを込めた」としている2時間半の催しには買い物客などを含め約300人が参加「1141064」(愛してるよ)と表示された「ポケベル」のパネルを遺影に見立て、訪れた人が次々と白いカーネーションを献花し、頭を下げた主催者の一人、協同組合青年部の前部長、渡辺幸次さん(31)によると、自らはスマホ世代そこで遺影のポケベルにどんな数字がふさわしいか、先輩らに尋ねてみると、「49106(至急テル=電話をして)」や「0840(オハヨー)」などが挙がり、最も多かったのが「愛してるよ」だったという。
チップ専用船 東北丸 Tohoku Maru 34843総トン・呼出符号JGRB
東北丸の無線電報取扱所(無線室)である。これまでの船舶局と違っているのは、右端にあるSSB送信機(2kW)が装備されていることである。これは遠洋船舶電話と言い、KDDのJBO(送信所:栃木県小山国際通信センター、受信所:茨城県北浦受信所)と通信する無線電話装置である。 制御卓(Control Desk)の左端は補助送信機(50W)で非常用に設置してある。その右隣2台が短波通信用全波受信機である。右端は、500kHz専用受信機(JRC NRC-104F)で中波帯の通信を傍受する。右手前のFAXは短波帯での天気図(JMH)や共同通信社(JJC)の共同通信ニュースを受信するためのものである。左手前はオートアラーム(500kHz)で遭難用の警急信号を受信する。 通常のモールス符号による通信は、制御卓中央に組み込まれている中波・短波専用電信送信機(500W)を使用する。この設備で銚子無線(JCS)や長崎無線(JOS)とよく通信したものである。今となっては、もう見ることが無い昔懐かしい無線設備ではある。現在では海事衛星(インマルサット)による通信が主力となってしまった。(山口海岸地球局経由)
降雨時におけるアンテナの電波減衰について昔昔・・・日本にまだ衛星通信も無い時代に電電公社においてのマイクロ多重回線の周波数は2GHz帯・4GHz帯・6GHz帯を用いて通信していたが回線需要の逼迫で新しい周波数を使う必要に迫り昭和40年代(1965年)に郵政省に11GHz帯の周波数申請し11GHz方式のT2-1やT2-2方式など導入した私が始めて入社し勤務した伊豆の伊東無線中継所にも初めて導入されたこのルートは熱海~丹那~伊東~天城山~下田の伊豆半島を中継する多重電話回線でした当時11GHzは反射型クライストロン11V-651/652のリぺラー直接周波数変調で500mWで4mのパラボラアンテナで約20Km中継で多重回線電話480回線を3システム合計1500回線を伝送するものでしたがいざ運用を始めると集中豪雨が降ると回線が途切れて伊豆半島が通信孤立状態が多発しました・・いまでは子供でも衛星放送(11GHz)で集中豪雨で映像が切れることは知ってますが当時はある程度は雨による電波減衰は想定してましたが降雨量がどのくらいのときに回線が切れるかと研究して回線が切れたときの降雨量を気象台にそのつど問い合わせた結果10分間降雨量が10mmをこすと回線が切れるこ事を発見して報告した記憶がありますそのことと送信出力が500mWで小電力も問題ではと提言しのも記憶してます この送信クライストロン11V651/652で受信用局発クライストロン11V54は当時は非常に高価(私の初任給の半年分)で寿命も約1年(送信出力半減で取替え)でしてしかもクライストロンの自励発信器であり空洞共振器を調整して周波数を合わす必要がありまた480回線も変調かけるため帯域内の特性(微分)を6MHzP-Pでフラットに調整する必要があり調整を山上の中継所ではなく有人局(伊東・下田)で調整してこの無線機を取替えるのですが特に天城山中継所は有名な伊豆の踊り子の天城山トンネルの上あり道が険しいので地元の強力に他のみ無線機を担ぎ上げていました・・その天城トンネルの前には移動の茶店がありここで弁当や飲み物を買って天城無線中継所に登りました・・何十年か前にこの天城トンネルを訪れたら伊豆の踊り子像の横に茶屋の叔父さん(伊藤さん)の銅像がありました・・・おもわず涙が出てきました・・もう天城無線中継所はありません・・そのごNTTは15GHz帯 22GHz帯 26GHz帯と開発していきましたが降雨減衰で悩されスモッグでも切れることがありました昔昔のお話でした
降雨時におけるアンテナの電波減衰について
昔昔・・・日本にまだ衛星通信も無い時代に電電公社においてのマイクロ多重回線の周波数は2GHz帯・4GHz帯・6GHz帯を用いて通信していたが回線需要の逼迫で新しい周波数を使う必要に迫り昭和40年代(1965年)に郵政省に11GHz帯の周波数申請し11GHz方式のT2-1やT2-2方式など導入した私が始めて入社し勤務した伊豆の伊東無線中継所にも初めて導入されたこのルートは熱海~丹那~伊東~天城山~下田の伊豆半島を中継する多重電話回線でした当時11GHzは反射型クライストロン11V-651/652のリぺラー直接周波数変調で500mWで4mのパラボラアンテナで約20Km中継で多重回線電話480回線を3システム合計1500回線を伝送するものでしたがいざ運用を始めると集中豪雨が降ると回線が途切れて伊豆半島が通信孤立状態が多発しました・・いまでは子供でも衛星放送(11GHz)で集中豪雨で映像が切れることは知ってますが当時はある程度は雨による電波減衰は想定してましたが降雨量がどのくらいのときに回線が切れるかと研究して回線が切れたときの降雨量を気象台にそのつど問い合わせた結果10分間降雨量が10mmをこすと回線が切れるこ事を発見して報告した記憶がありますそのことと送信出力が500mWで小電力も問題ではと提言しのも記憶してます この送信クライストロン11V651/652で受信用局発クライストロン11V54は当時は非常に高価(私の初任給の半年分)で寿命も約1年(送信出力半減で取替え)でしてしかもクライストロンの自励発信器であり空洞共振器を調整して周波数を合わす必要がありまた480回線も変調かけるため帯域内の特性(微分)を6MHzP-Pでフラットに調整する必要があり調整を山上の中継所ではなく有人局(伊東・下田)で調整してこの無線機を取替えるのですが特に天城山中継所は有名な伊豆の踊り子の天城山トンネルの上あり道が険しいので地元の強力に他のみ無線機を担ぎ上げていました・・その天城トンネルの前には移動の茶店がありここで弁当や飲み物を買って天城無線中継所に登りました・・何十年か前にこの天城トンネルを訪れたら伊豆の踊り子像の横に茶屋の叔父さん(伊藤さん)の銅像がありました・・・おもわず涙が出てきました・・もう天城無線中継所はありません・・そのごNTTは15GHz帯 22GHz帯 26GHz帯と開発していきましたが降雨減衰で悩されスモッグでも切れることがありました
昔昔のお話でした
部屋の整理してたら
昔の写真が出てきた昭和45年(1970年)頃の
天城無線中継所にて(当時下田無線中継所勤務)
11GhzT2-1方式500mWクライトロン11V651/652(伊東~天城~下田)中継函
天城トンネル上の無線局いまは廃局した
天城トンネル上の無線局いまは廃局した
天城峠前の茶屋の親父にはお世話なつた思いでがある
昔天城トンネルを訪れたら踊り子像の横に銅像になつていて涙が流れた
昔天城トンネルを訪れたら踊り子像の横に銅像になつていて涙が流れた
準ミリ波帯通信方式の末路
電電公社では,年々増大・高度化する通信需要に対応するため,15GHz帯に次いで新しく20GHz帯を用いた長距離大容量ディジタル通信方式の開発を行い,51,52年度に東京―横浜,大阪―神戸の2区間において商用試験を行い良好な結果を得た。20GHz帯は,降雨による減衰が大きいため長距離回線には不適当と考えられてきたが,この方式は超高速PCM技術及び固体電子化技術の活用並びにPCMの性質と中継所構成の大幅な簡略化により約3kmごとに中継を繰り返し,長距離幹線系にも使用可能としたものである。1システム当たり400Mb/s(電話換算5,760回線)の伝送容量を有し,1ルート当たり現用8システムを用いて最大電話換算4万6,080回線を収容できる長距離大容量方式であるさらに,公社ではデータ,ファクシミリ,画像通信等の新サービスの進展に伴い増大することが予想される広帯域ディジタル加入者線の需要に対処するため,準ミリ波帯(26GHz帯)を用いて電話局と加入者を結ぶ加入者無線方式の開発を行っている。
加入者無線方式は,電話局を基地局とし四つの扇形ビームを用いて,半形約7km内の事業所加入者等に広帯域ディジタル加入者線を提供するものである。
静岡県も東西155キロメートルを3Kmごとに50局の中継所を建設して
開通したが結局は雨による瞬断が多発し
専用線のサービスで苦情多発で1回線も使われずに廃止された
また26GHzの加入者無線も同様に降雨障害やスモッグでも切れる始末で廃止
このころから高速大容量の光ケーブルが普及しで無線伝送は太刀打ちできず
また26GHzの加入者無線も同様に降雨障害やスモッグでも切れる始末で廃止
このころから高速大容量の光ケーブルが普及しで無線伝送は太刀打ちできず
離島や非常通信以外は無線伝送路は撤退し鉄塔からパラボラANTが消え去り
無線屋はDOCOMOに移籍したりしNTTから無線屋が消え去った
無線屋はDOCOMOに移籍したりしNTTから無線屋が消え去った
南大東島 対流圏散乱通信
沖縄から350Km そう沖縄が日本に復帰したとき電話を開通させるため
南大東島にいきました 当時は衛星通信はまだ発達しておらず
沖縄本島から南大東島まで350Kmを無線で結ぶ通信回線を建設にいきました
350Kmは見透視外のため電波を対流圏に飛ばして対流圏のチリに反射した
電波を捉えるとゆう対流圏散乱通信方式とゆう回線です
この散乱した電波は非常に微弱のため大きなアンテナと
大出力の送信電波が必要でした
アンテナは野球で使うバックネットぐらい大きな横20m縦10mの
まさしくバックネットアンテナとゆうものでした
送信機は2500MHz 2Kwでした
こんな大掛かりな設備でも多重電話をして12チャンネル程度でした
その建設工事で導波菅にフランジ付をした際に半田が管内はみでたまま
送信試験したところ導波菅が熱くなりフランジから焼き落ちたアクシデントが
12km離れている南大東島~北大東島間は60MHz帯のTZ-63で1回線を開通させました
それまで南大東島からの外地への通信は短波によるリンコペックス回線で
申し込んでから1時間のかかるため非常に不便で短波通信であつたので
混信もあり不安定だつたのが即時ダイヤル通話になつたので島民が大喜びでした
回線開通前に南大東島に唯一いたアマチュア無線局がたずねてきて
その大きいバックネットANTを使わしてほしいと懇願されフードホーンに
144MHzのANTを縛りつけ電波出したところ350Km離れた沖縄の
アマチュア無線局が59で受かりパイルアップした裏話がある
南大東島は1面さとうびき畑で製糖所から甘い黒さとうの匂いが
いまでも思いだされる
海を越えて沖縄と結んだ
その建設工事で導波菅にフランジ付をした際に半田が管内はみでたまま
送信試験したところ導波菅が熱くなりフランジから焼き落ちたアクシデントが
12km離れている南大東島~北大東島間は60MHz帯のTZ-63で1回線を開通させました
それまで南大東島からの外地への通信は短波によるリンコペックス回線で
申し込んでから1時間のかかるため非常に不便で短波通信であつたので
混信もあり不安定だつたのが即時ダイヤル通話になつたので島民が大喜びでした
回線開通前に南大東島に唯一いたアマチュア無線局がたずねてきて
その大きいバックネットANTを使わしてほしいと懇願されフードホーンに
144MHzのANTを縛りつけ電波出したところ350Km離れた沖縄の
アマチュア無線局が59で受かりパイルアップした裏話がある
南大東島は1面さとうびき畑で製糖所から甘い黒さとうの匂いが
いまでも思いだされる
海を越えて沖縄と結んだ
LS(Long Span)ルート
1961年、鹿児島-奄美大島-沖縄間に山岳回折を利用してテレビ用の800MHz、電話用の2GHz を伝送する見通し外伝搬方式を導入した。1975年には、2GHz 帯で対流圏散乱を利用したテレビ用見通し外通信方式を宮古島-沖縄間に導入。更に、沖縄の復帰にともなって1972年には、4/6GHz 帯を利用し、見通し内伝搬で散乱する島伝いに鹿児島-名瀬-首里を結ぶルート(第1LSルート)が開通した。その後、鹿児島─沖縄間のトラヒックの増大に伴い、市外伝送路の即時維持及び伝送路の安定化のため、第2LSルートが必要となり、1980年から建設工事を進め1982年に開通した。 第2LSルートの実現にあたっては、第1LSルートの伝搬調査結果を反映させると共に、固体電子回路素子技術及び 伝搬補償技術を用いて高品質化、高信頼化並びに低消費電力化を達成した。更に第2LSルートをディジタル化するため、マルチキャリア伝送を用いた16QAM無線方式の開発を開始し、1985年にLS-200M方式を導入した
TS-102形非常災害用短波無線機
電電公社時代の非常用短波無線昔昔・・衛星通信も無い時代に電電公社は地方通信局と本社などを結ぶ非常用の無線電話(TS-301)や地方局同士の非常用短波無線(TS-102)が配備され通信孤立時に備えていた地方通信局(TS-301)は300Wでアンテナは短波アドコックアンテナで即ざに使えるようになつていたが地方局同士の短波通信機(TS-102)50Wは常時は倉庫に保管され非常にアンテナ(ロングワイヤー)やダブレットアンテナをそのつで設営して運用していた当時はマイクロ無線中継所に配備された私が勤務した下田のこのTS-102の真空管の無線機があり月1回の定時通信時はそのつどアンテナを屋上に設営して訓練してましたとのきの思い出で・・尾鷲無線中継に新しくTS-102が配備されるので電波検査時の実通試験に尾鷲と通信せよとの命令でした周波数は3MHz~6MHzに5チャンネルありCH1-3180KHzCH2-3687.5KHz,CH3-3757.5KHzCH4-4905KHz,CH5-5345.0KHzでしたがその電波検査時間がお昼ごろだつたと思います当時私は新入社員でしたがアマチュア無線をやつていたのでまかされましたが指定された周波数が3MHz帯であつたのでアマチュア無線の体験より昼間の3MHz帯での尾鷲との通信は困難ですと進言したが3MHz帯で試験が始まったがS1ぐらいでやつと通信できたが電波管理局から注意を受けた記憶があります このTS-102はその真空管からトランジスターのTS-102Trに更新されたがアンテアカプターだけはかわらなかつたこのカプラーは手動でしたが3Aの高周波電流計がありこれを最大調整し使ってましたが衛星通信や自動車電話や携帯電話が出来て廃止された昔昔のお話しでした
電電公社時代の非常用短波無線
昔昔・・衛星通信も無い時代に電電公社は地方通信局と本社などを結ぶ非常用の無線電話(TS-301)や地方局同士の非常用短波無線(TS-102)が配備され通信孤立時に備えていた地方通信局(TS-301)は300Wでアンテナは短波アドコックアンテナで即ざに使えるようになつていたが地方局同士の短波通信機(TS-102)50Wは常時は倉庫に保管され非常にアンテナ(ロングワイヤー)やダブレットアンテナをそのつで設営して運用していた当時はマイクロ無線中継所に配備された私が勤務した下田のこのTS-102の真空管の無線機があり月1回の定時通信時はそのつどアンテナを屋上に設営して訓練してましたとのきの思い出で・・尾鷲無線中継に新しくTS-102が配備されるので電波検査時の実通試験に尾鷲と通信せよとの命令でした周波数は3MHz~6MHzに5チャンネルありCH1-3180KHzCH2-3687.5KHz,CH3-3757.5KHz
CH4-4905KHz,CH5-5345.0KHzでしたがその電波検査時間がお昼ごろだつたと思います当時私は新入社員でしたがアマチュア無線をやつていたのでまかされましたが指定された周波数が3MHz帯であつたのでアマチュア無線の体験より昼間の3MHz帯での尾鷲との通信は困難ですと進言したが3MHz帯で試験が始まったがS1ぐらいでやつと通信できたが電波管理局から注意を受けた記憶があります このTS-102はその真空管からトランジスターのTS-102Trに更新されたが
アンテアカプターだけはかわらなかつたこのカプラーは手動でしたが3Aの高周波電流計がありこれを最大調整し使ってましたが衛星通信や自動車電話や携帯電話が出来て廃止された
昔昔のお話しでした
TZ-151連絡用(工事車両)無線
電電公社で無線連絡用に 150.25MHz 152.25MHzの2波
で使ってました車載機とポータブル無線機がJRC製で1Wで重宝しましたが
アンテナが金属での巻き尺のリボンアンテナで折れやすかつたんです
あるとき先輩が山上の無線中継所の地局選定に行き行方不明となり
何度無線で読んでも応答なし
だいぶたってから救助依頼の無線連絡が聞いたところアンテナが折れ連絡
できななかつたとのことだがANT端子に水筒(アルミ製)を接触させ
いま通信しているとのこと・・・水筒は金属製にかぎる(笑い)
昔・昔そう昭和28年にテレビ放送が開始して全国各地にも放送局が開局し
それらの局に映像・音声を伝送するため電電公社が一手に請け負い日本全国
にテレビ中継網を4GHzで構築して全国に無線中継所からTV局までSTLで
配送していたそのTV中継回線は6回線+予備回線の最大7回線しかなく
NHKを含め民放5社(TBS・NTV・ANB・TX・CX)の東京キー局が電電公社の
TV下り回線6回線を独占占有しておりこの回線を地方局が電電の無線中継所から
分岐しSTLで地方局に配信していており地方局のニュース事件などを東京キー局に
送る場合は電電公社の上り回線(7回線)で東京キー局に送り東京キー局が編集して
また全国の地方局に電電公社の下り回線(7回線)で配信しており
この回線は上下7回線の合計14回線しかなくこれをNHk+民放5社が取り合いになり
事件など発生すると争奪戦がくりひろがられ大混乱にいつもなっていたその中継の
挿入・分岐(インサート・ドロップ)を電電公社の無線中継所で手動で切り替えていた
その時私は名古屋の東山無線中継所に勤務し名古屋の地方局に配信している仕事をしていた
最大の混乱は浅間山荘事件だつたあの銃撃戦が始まると真っ先にNHKが中継をはじめた
すると即に名古屋の民放(CBCなど)のマスターから直通電話でいまNHKで映るてる映像を
送るてほしいと・・ええ民放さんにはNHKの映像はドロップできませんと・・NHKには
事後処理で連絡するから早く映像よこせと押し問答をくりかえすうち民放(TBS)も映像配信
できたためNHKはいいから民放5社の共同映像を流してほしいと緊急ドロップして対処したが
あのときはNHK以外の民放5社は同一映像で壮観であり忘れない一夜であつた
さて話は長くなつたがようするにTV中継回線が7回線しかなくこれを手動で切り替え
いて切り替え合図は時計(めざまし時計の高級のやつ)で30分ごとにプリセットして
申し込み時間30秒まえから番組スタートまでの30秒間で切り替えしなけてばならいが
NHkはじめ民放5社は当時は朝5時がスターの放送開始であつたが夜勤明けで寝坊して
切り替えを失念して朝にニュースなどによく穴をあけた私も前科3犯ぐらいかな
NHK教育に民放のCMを流してしまつたことも・・・
中継線の申し込みはそんな事情もあり30分の単位しか受け付けてなかつたが
TBS系列で全国地方局(30社)の天気を生放送したいが30分単位だと
全国の天気が放送できないので3分単位で申し込みできないかと・・・3分
電電公社も一大事で検討した結果OKをだしてしまつた・・・どうするの
全国の無線中継所マンが3分単位で切り替えしなけては・・放送事故はおこるな
ます時計の改修からは始まっていざ本番だが
配信キー局はなんと名古屋のCBCとのこと・・・ええ私の名古屋地方局発だと大変
そうしてそうして始またのが
こちら名古屋は全国地方局からの映像を3分単位で切り替えしなく大変であり
朝がくるのが怖かった・・放送事故は毎日発生した記憶がある
そのつど森ミドリさんが・・あらまた電電公社のかた寝坊したのね!!と
その間エレトローン演奏して場を綱いでもらっていたが3分間の間には映像こず
森ニドリさんが・・きょうは札幌の空はお休みでつぎは秋田の空とホローしていた
あの1972-1976年は地獄であつた(いまではいい思い出かな)
そのご手動切り替えはコンピーターに置き換えられたそしてテレビのデジタル化に伴い
4GHzマイクロ回線は廃止され光ファイバー網に置き換えられまた無線マイクロ伝送路は
離島通信や非常回線を除き光ファイバーに置き換えられNTTから無線屋はDOCOMOに
移ったりしてNTTから無線屋はほとんどが消え去った
短波無線からテレビ中継から船舶無線からポケットベルから自動車電話や携帯電話と
時代に翻弄された無線屋の一生だった・・・つわもの共の夢のあと・・・
『8時の空』(はちじのそら)は、1972年4月3日から1980年9月26日までTBS系列局で放送されていたTBS制作の朝の情報番組である。放送時間は毎週月曜 - 金曜 8:00 - 8:10 (JST) 。
で使ってました車載機とポータブル無線機がJRC製で1Wで重宝しましたが
アンテナが金属での巻き尺のリボンアンテナで折れやすかつたんです
あるとき先輩が山上の無線中継所の地局選定に行き行方不明となり
何度無線で読んでも応答なし
だいぶたってから救助依頼の無線連絡が聞いたところアンテナが折れ連絡
できななかつたとのことだがANT端子に水筒(アルミ製)を接触させ
いま通信しているとのこと・・・水筒は金属製にかぎる(笑い)
富士山頂臨時無線公衆電話
7月1日は富士山の登山開山日ですが今年は残雪が多いので1週間ほど遅れそうですがこの富士山山頂や5合目から9合目までかく室(山小屋)に臨時無線電話を開通させなければならない富士山頂には我社の富士山頂無線局舎があるが去年に廃止したいまは御殿場と富士宮から2.5GHzの無線でかく室(山小屋)にデジタル無線で結んでいるが毎年7月の初めに室(山小屋)の開設と同時にANTを設営して無線電話を開通させて
8月の下旬にまたANTを撤去する仕事がある7月の開設時はまだ梅雨明けまえであるので風雨にて設営が非常に困難で高所で酸素不足で作業員は過酷な仕事である最近はこのデジタル回線で富士山頂のDOCOMOとAUの携帯電話基地局もでき富士山頂で7月~8月には携帯電話がつかえます作業員は富士山頂まで行きはブルトーザーで乗っていきかく室(山小屋)の無線電話を開通させ徒歩で下山していきます富士山頂までブルで行ける知ってましたか!!昔は強力が活躍してましたがこの強力組合が富士山特注のブルトーザーを導入したんですあの富士山レーダー建設のときからです富士山頂に電話が開設されたのは明治40年からだそうで富士山頂に無線局舎ができたのは昭和19年に富士山ー八丈島回線(B29防空警報用)ができてから現在にいたりますが戦後は60MHz帯の多重回線でやってましたがそのご450MHz帯の多重回線になりまして富士山頂局舎に泊り込み無線機を保守しました特に雷の雷害が激しく無線機が半導体化したたときは無線機が全滅して真空管の無線機に戻した歴史もありました保守員は高山病で1度も起き上がれず下山した者も多かったです今年の夏はこんなことを頭にいれて富士登山しませんか
森ミドリさんの思い出
昔・昔そう昭和28年にテレビ放送が開始して全国各地にも放送局が開局し
それらの局に映像・音声を伝送するため電電公社が一手に請け負い日本全国
にテレビ中継網を4GHzで構築して全国に無線中継所からTV局までSTLで
配送していたそのTV中継回線は6回線+予備回線の最大7回線しかなく
NHKを含め民放5社(TBS・NTV・ANB・TX・CX)の東京キー局が電電公社の
TV下り回線6回線を独占占有しておりこの回線を地方局が電電の無線中継所から
分岐しSTLで地方局に配信していており地方局のニュース事件などを東京キー局に
送る場合は電電公社の上り回線(7回線)で東京キー局に送り東京キー局が編集して
また全国の地方局に電電公社の下り回線(7回線)で配信しており
この回線は上下7回線の合計14回線しかなくこれをNHk+民放5社が取り合いになり
事件など発生すると争奪戦がくりひろがられ大混乱にいつもなっていたその中継の
挿入・分岐(インサート・ドロップ)を電電公社の無線中継所で手動で切り替えていた
その時私は名古屋の東山無線中継所に勤務し名古屋の地方局に配信している仕事をしていた
最大の混乱は浅間山荘事件だつたあの銃撃戦が始まると真っ先にNHKが中継をはじめた
すると即に名古屋の民放(CBCなど)のマスターから直通電話でいまNHKで映るてる映像を
送るてほしいと・・ええ民放さんにはNHKの映像はドロップできませんと・・NHKには
事後処理で連絡するから早く映像よこせと押し問答をくりかえすうち民放(TBS)も映像配信
できたためNHKはいいから民放5社の共同映像を流してほしいと緊急ドロップして対処したが
あのときはNHK以外の民放5社は同一映像で壮観であり忘れない一夜であつた
さて話は長くなつたがようするにTV中継回線が7回線しかなくこれを手動で切り替え
いて切り替え合図は時計(めざまし時計の高級のやつ)で30分ごとにプリセットして
申し込み時間30秒まえから番組スタートまでの30秒間で切り替えしなけてばならいが
NHkはじめ民放5社は当時は朝5時がスターの放送開始であつたが夜勤明けで寝坊して
切り替えを失念して朝にニュースなどによく穴をあけた私も前科3犯ぐらいかな
NHK教育に民放のCMを流してしまつたことも・・・
中継線の申し込みはそんな事情もあり30分の単位しか受け付けてなかつたが
TBS系列で全国地方局(30社)の天気を生放送したいが30分単位だと
全国の天気が放送できないので3分単位で申し込みできないかと・・・3分
電電公社も一大事で検討した結果OKをだしてしまつた・・・どうするの
全国の無線中継所マンが3分単位で切り替えしなけては・・放送事故はおこるな
ます時計の改修からは始まっていざ本番だが
配信キー局はなんと名古屋のCBCとのこと・・・ええ私の名古屋地方局発だと大変
そうしてそうして始またのが
こちら名古屋は全国地方局からの映像を3分単位で切り替えしなく大変であり
朝がくるのが怖かった・・放送事故は毎日発生した記憶がある
そのつど森ミドリさんが・・あらまた電電公社のかた寝坊したのね!!と
その間エレトローン演奏して場を綱いでもらっていたが3分間の間には映像こず
森ニドリさんが・・きょうは札幌の空はお休みでつぎは秋田の空とホローしていた
あの1972-1976年は地獄であつた(いまではいい思い出かな)
そのご手動切り替えはコンピーターに置き換えられたそしてテレビのデジタル化に伴い
4GHzマイクロ回線は廃止され光ファイバー網に置き換えられまた無線マイクロ伝送路は
離島通信や非常回線を除き光ファイバーに置き換えられNTTから無線屋はDOCOMOに
移ったりしてNTTから無線屋はほとんどが消え去った
短波無線からテレビ中継から船舶無線からポケットベルから自動車電話や携帯電話と
時代に翻弄された無線屋の一生だった・・・つわもの共の夢のあと・・・
8時の空
『8時の空』(はちじのそら)は、1972年4月3日から1980年9月26日までTBS系列局で放送されていたTBS制作の朝の情報番組である。放送時間は毎週月曜 - 金曜 8:00 - 8:10 (JST) 。
放送開始までのいきさつ
TBSは1971年4月5日、朝の時間帯に大型ワイド番組『モーニングジャンボ』をスタートさせたが、視聴率の不振から1972年4月3日放送分からは7時台の『モーニングジャンボJNNニュースショー』と、8時30分からの『モーニングジャンボ奥さま8時半です』に分割。さらに、12時台に放送されていた『ポーラテレビ小説』を両番組の間の時間帯である8時から再放送することで対処したが、午前8時20分からの10分間が空白となってしまった。
その空白を埋めるべく制作されたのがこの番組である。当初、TBSはオーソドックスな天気予報番組を考えていたが、ビルの屋上に無人のリモートコントロールカメラを設置し、全国各地の生の映像を中継しようという考えが系列局との間で持ち上がり、これによって主要都市に本社を構えるJNN加盟局が著名なポイントにカメラを設置するようになった。その結果、日本各地をお天気カメラを使って伝えるというシンプルな内容でスタートした。
出演者
わが社で使っていたアンリツの WK-213形直線検波器を入手いたしました
この測定器は電波検査などで標準レベルの周波数変移や最大周波数変調度を検査するとき活躍いたしましたがアマチュアではあまり使われないようで格安で入手できました
またこの測定器は直線検波器いがいにも低周波発信機およびレベル計そしてCM電力計などくみこまれて50MHz~900MHZまでつかえるすぐれものです
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