トランジスタラジオ
トランジスタラジオ(英: transistor radio)とは、増幅回路に半導体素子のトランジスタを用いたラジオ放送受信機の総称。
それまで主に使われていた真空管の代わりに、半導体素子のトランジスタを使うことで大幅な消費電力の低減がもたらされ、それによって小型化・軽量化・携帯化が可能になったもので、1950年中頃に量産が始まり、1950年代後半から1960年代にかけて普及、70年代までに従前の真空管をつかったラジオをほぼ駆逐するに至った。

トランジスタラジオ1号機・
TR-52(「国連ビルラジオ」)
東京通信工業(現・ソニー)製、5石トランジスタ、スーパーヘテロダイン方式受信機、1952年。その形状がこの年竣工したニューヨークの国連本部ビルを思わせるものだったことから、社内では専ら「国連ビルラジオ」と呼ばれていた。
Regency TR-1

Regency TR-1は、1954年11月1日にIndustrial Development Engineering Associates (I.D.E.A.)から発売された世界最初のトランジスタラジオ。
概要
テキサスインスツルメンツ(TI)が自社製の成長接合型トランジスタを民生用電子機器へ販売するために見本として製造した試作品のトランジスタラジオを基にIndustrial Development Engineering Associates (I.D.E.A.)が製品として開発して販売した。一般の消費者向けのトランジスタを利用した電子機器で大量に販売された最初の製品でもある。電源は22.5Vの積層電池を使用していた。4石式でスーパーヘテロダイン式だっ。大きさは3 x 5 x 1.25インチ・12オンス (積層電池込)だった。価格は$49.95(現在の価値で$400程度)だった。本革製ケース($3.95)と、耳掛けイヤフォン($7.95)がオプションとして用意された。およそ15万台が販売されたとされる。世界初のトランジスタラジオだったが、同時期の真空管式携帯ラジオと比較して電池は長持ちしたものの、音質は満足のできるものではなく、成長接合型トランジスタの歩留まりが低いため、高額で、すぐに販売が中止された。その後、東京通信工業はこの問題を解決して1955年7月にTR-55を発売した。

Regency TR-1の回路図

Regency TR-1の内部
概要
真空管を増幅回路として使用するラジオは、電源電圧が比較的高い(100 - 120Vの商用電源か、低電圧動作の電池管と呼ばれる素子を使ったもので45 - 90Vの高圧乾電池とヒーター加熱用に1.5 - 3Vの乾電池が必要)上に消費電力も大きく、また真空管自体の外形の大きさから筐体が大ぶりで、卓上などに設置して使用するのが普通であった。小型化されたトランジスタラジオは電源電圧が低く(4.5 - 9V)消費電力も小さいため、小型の乾電池で動作して片手で持ち運べる機器となり、野外でラジオを手軽に聞くことができるようになった。
車載用ラジオ(カーラジオ)では、米国で1927年頃から真空管式のものが発売されていたが、省部品・省電力の観点からトランジスタ化が進んだ。1950年代後半の真空管からトランジスタへの移行期(また、日本でも同時期に自動車の普及が進むモータリゼーションが始まった)にかけて、日本ではカーラジオ(オートラジオ)市場に参入する企業が相次いだ(東芝、TEN(神戸工業、現:デンソーテン)、クラリオン、三菱電機、松下電器産業(現:パナソニック)など)。
ビーチやキャンプ場など商用電源の取れない野外でラジオが聞けるようになることで、ラジオ放送自体にも野外聴取を前提とする番組構成が取られるようになった。またラジオ自体の小型化・省電力化が進んだ結果、それまで「一家に一台」だったラジオ受信機の所有形態が「一人一台」に急速に変化した。これに対応し、日本ではニッポン放送が先鞭をつけた「オーディエンス・セグメンテーション」編成が1960年代後半以降広く民放ラジオ局に普及するようになった。
日本における歴史
1948年にベル研究所は、トランジスタのデモ用として世界初のトランジスタラジオを発表した。その後1952年にRCA社、1954年にテキサス・インスツルメンツがトランジスタラジオのプロトタイプを相次いで発表した。東京通信工業(東通工、現:ソニー)の井深大は、1952年、アメリカ合衆国での技術研修に出かけた際、ベル研究所の3人のスタッフがトランジスタを開発・特許をとっており、親会社のウエスタン・エレクトリック社(WE社)が2万5000ドル(約900万円)で公開していることを知る。日本の通産省は「ちょっとやそっとのことで、トランジスタなんかできないよ」と否定的で、当初は東通工への外貨割り当てを拒否するほどだったが、1953年、盛田昭夫がアメリカに渡りWE社を訪問すると、東通工の技術力が高く評価され「ライセンス料の支払いは後でもいい」ということになったため、同社とライセンス契約を結んだ[1]。その際、WE社は盛田に対して何に使うのかを問うと「ラジオに使いたい」と応じたが、この時WE社はやめるようにと勧告を行った。
初期のトランジスタは温度特性が悪く、またラジオの放送周波数帯で増幅器に用いるには特性が不安定であったため、真空管を代替することはできないと見られていた。商業用の製品としては補聴器が実用化されていた程度であった。
しかし、同行した東通工技術スタッフの岩間和夫はトランジスタの技術開発を取材、「岩間レポートメモ」としてまとめ、それを基にトランジスタラジオの試作品を製作した。だが、この試作品について井深は「とても商品として使えるものではない」と回顧している。
その間、1954年にアメリカのライバル社・I.D.E.A.のリージェンシー部門がテキサス・インスツルメンツ製4石トランジスタを使った世界初のトランジスタラジオ TR-1を発表(10月18日)、クリスマス商戦にむけ発売($49.95これは2003年換算で$334)。世界初を目指した東通工は落胆したが、その後1955年に複合型トランジスタ5石を使ったTR-52を市販しようと試作した。しかしこの「国際連合ビル」を連想させるTR-52のキャビネット格子(プラスチック製)が夏季の気温上昇により、出荷寸前になって反り返るトラブルが発生したため発売中止となってしまった。その後8月に改めてTR-55を開発し、その年の8月に市販開始。これが日本初のトランジスタ携帯ラジオとなった。盛田がニューヨークでそのトランジスタラジオを扱ってくれる小売店を探していた時、10万個注文する代わりに同社の商標を付けることを条件としたブローバ社に対し、決して下請けメーカーにだけはなるまいと決心していた森田はその注文を断っており、その判断について、森田は自分が下した決断の中でベストの決断と振り返っている(ちなみに、当時相談を受けた東京側は注文を受けるよう返事をしていた)。
1955年にはさく良商事から鉱石検波で低周波増幅にトランジスタを使用したTHK TGR-21型が4300円で発売された
ゲルマニウムトランジスタには製造歩留まりが劣悪だけでなく特性のばらつきが大きく、温度特性も悪いなど問題があったのだが、TR-55ではゲルマニウムトランジスタを採用した[注釈 1]。低周波回路には比較的歩留まりが高いが高周波特性の悪い合金接合型トランジスタ、高周波回路には歩留まりが非常に低い[注釈 2]ものの高周波特性を改善しやすい成長接合型トランジスタを使用して製品化にこぎつけた[8]。しかし実際には成長接合型トランジスタの特性がバラバラで、結局ラジオ工場側ではトランジスタ個々の特性に合わせ回路の修正を行うことになり、量産とは程遠いほぼ手作りの状態で製造を進めることになった[9]。
その後東通工では成長接合型トランジスタの全製品に対する追跡調査を行った結果、トランジスタのN型層を成長させるためにドーパントとして使用していたアンチモンが、既に作られているP型層に侵食してトランジスタとしての特性を悪化させていることが判明。そこでアンチモンの代わりにリンを使用してみたところP型層の侵食がなくなる(またそれに伴い高周波特性が改善し、特性のばらつきも大きく減少する)ことが確認できたため、一気にトランジスタ製造ライン全てで製造工程の切り替えを行った
ところがリンへの切り替え直後に、製造したトランジスタ全てが不良品となる事態が発生した。駄目そうな点を調べると、投入量が多すぎたため、リンの濃度が濃すぎたためだった。そこで同社では大量にダイオードを試作してリンの適正投入量を割り出そうとした。この過程で、負性抵抗を示すというそれまでの理論で説明できない現象が発見された。それを江崎玲於奈がトンネル効果による現象だと見抜いた、という。結局、不良の原因は、トランジスタ内部のP型層が極めて薄くなった結果、トランジスタ内でトンネル現象が発生していたためだと判明する[11]。適正投入量が割り出され、他の製造工程にも改善を加えた結果、最終的に成長接合型トランジスタの歩留まりが90%以上に跳ね上がり、東通工は莫大な利益を得ることになった
この原理の利用であるトンネルダイオード(エサキダイオード)を発明(1957年8月とされている)した江崎玲於奈は、半導体内におけるトンネル効果の実験的発見の功績で、1973年のノーベル物理学賞を受賞する(共同で。同時受賞者はやはり確認者のブライアン・ジョセフソン)。しかし、当時東通工内部ではトランジスタの製造方法は最高機密とされていたため、この発見の顛末が明らかにされたのは30年以上後になってからのことであった(ただし江崎本人は、あるとき、リンの大量投入がトンネル効果発見のきっかけだったねと岩間が言ったのに対し、否定も肯定もしなかったという)
以後、各メーカーがこぞってトランジスタ携帯ラジオを開発。ポケットにすっぽり入る名刺サイズラジオや、ラジオカセットレコーダーなどに多用・応用されるようになった。
“身長は低いがグラマラスな女性”を表す「トランジスターグラマー」はこのトランジスタラジオからとられたともされている。
日本では1970年代にBCLブームが起き、短波を受信できる高性能な機種が多く発売され、トランジスタラジオの全盛期を迎えた。
8月に改めてTR-55を開発し、その年の8月7日に市販開始。これが日本初のトランジスタ携帯ラジオとなった。
第4章 初めての渡米<トランジスタの自社生産>
第1話 初めての渡米
渡米前の井深「これは、ものになるだろうか」
「いや、こんなものでいけるとは、とうてい思えませんね」
先ほどから井深と岩間(和夫)がアメリカの雑誌を見ては、何やら話し込んでいる。2人が見ていたのは、アメリカのベル研究所がトランジスタを発明したことを伝える記事だ。これには、ポイントコンタクト(点接触)型トランジスタの写真に加えて『ゲルマニウムの結晶片に2本のタングステンの針を立てて……』という説明が載っている。
「将来性はないな」。この記事を読んで、井深はすぐにそう思った。というのも、井深が無線を始めたばかりの頃使っていた、鉱石検波器のことが脳裏に浮かんだからだ。この鉱石検波器は、方亜鉛鉱という結晶に針を立てて無線電波を検波(放送電波から信号成分を取り出す)する装置で、これに受話器をつなげば無線を聴くことができるというもの。確かにトランジスタとよく似ている。しかしこちらは、そんなに高級な機械とは言い難い。クシャミをしたり、ちょっと体を動かしただけで針が動いてしまう。そうすると、また聴こえる所まで針を動かして探していくのだが、これがえらい苦労である。井深はそれを連想して、こんなものは大して役に立たないだろうと思ったのだ
渡米前の井深「これは、ものになるだろうか」
「いや、こんなものでいけるとは、とうてい思えませんね」
先ほどから井深と岩間(和夫)がアメリカの雑誌を見ては、何やら話し込んでいる。2人が見ていたのは、アメリカのベル研究所がトランジスタを発明したことを伝える記事だ。これには、ポイントコンタクト(点接触)型トランジスタの写真に加えて『ゲルマニウムの結晶片に2本のタングステンの針を立てて……』という説明が載っている。
「将来性はないな」。この記事を読んで、井深はすぐにそう思った。というのも、井深が無線を始めたばかりの頃使っていた、鉱石検波器のことが脳裏に浮かんだからだ。この鉱石検波器は、方亜鉛鉱という結晶に針を立てて無線電波を検波(放送電波から信号成分を取り出す)する装置で、これに受話器をつなげば無線を聴くことができるというもの。確かにトランジスタとよく似ている。しかしこちらは、そんなに高級な機械とは言い難い。クシャミをしたり、ちょっと体を動かしただけで針が動いてしまう。そうすると、また聴こえる所まで針を動かして探していくのだが、これがえらい苦労である。井深はそれを連想して、こんなものは大して役に立たないだろうと思ったのだ
1952年3月、井深は3カ月の予定で、海外視察調査のため渡米することになった。日本では、テープレコーダーの売れ先が学校を中心にした教育関係に集中しており、これ以外にもっと広い売れ口があるのではないだろうか。アメリカの人たちはテープレコーダーをどういうふうに使っているのだろう。できることなら、作っている所を見て製造過程も学んできたいというのが、井深の渡米の目的であった。
羽田で家族や会社の人たちに見送られて、ノースウエストの飛行機に乗り込んだ井深は、少なからず緊張していた。初めての海外旅行である。その上、井深は英語に自信がなかった。
それでも、アンカレッジからシアトルで乗り継ぎ、何とか無事ニューヨークに着いた。
やはり、アメリカはすごい。何しろ夜中までこうこうと電気がついている。街に出れば車があふれている。
「これは大変な国だ!」
見るもの聞くものすべてが驚くことばかりである。車好きの井深は、中古車販売店の店頭に並べられた車を見ては、ため息をついていた。500ドル、800ドルもするのではとても手が出ない。それでなくても、外貨の持ち出しが厳しく制限されていて、1日当たり10ドルか20ドルしか使えず、タクシーにも下手に乗れない状態なのだ。
第2話 眠れぬ夜の決断
アメリカでの水先案内人になって
くれた山田志道氏 ニューヨークに着いて、まず井深は、かつて貿易会社に勤務していた山田志道(やまだしどう)に会った。
山田は貿易会社をやめた後、戦前・戦中を通して株の仲買人をやっていて信望も厚く、英語はむろんのことアメリカの事情に詳しい。井深にとっては、打って付けの案内人であった。あちこちと引き回してもらって見物したり、「外貨持ち出しの制限があるので、ホテルに泊まるのがもったいない」と言えば、下宿のような所を紹介してくれたり、「あそこの工場が見たい」と言えば、その労をとってくれたりと、井深が滞在している間中、山田には世話になりっ放しだ。
そんなある日、井深にアメリカの友人が訪ねてきて、「今度、ウエスタン・エレクトリック社(以下、WE社)がトランジスタの特許を望む会社にその特許を公開しても良いと言っているが、興味はないか」という話をした。トランジスタは、1948年、ベル研究所の研究者のショックレー、バーディーン、ブラッテンの3人によって発明された。このトランジスタ製造特許を、ベル研究所の親会社であるWE社が持っている。特許使用料を支払えば、その特許を公開してくれるという情報だった。
アメリカでの水先案内人になってくれた山田志道氏
ニューヨークに着いて、まず井深は、かつて貿易会社に勤務していた山田志道(やまだしどう)に会った。
山田は貿易会社をやめた後、戦前・戦中を通して株の仲買人をやっていて信望も厚く、英語はむろんのことアメリカの事情に詳しい。井深にとっては、打って付けの案内人であった。あちこちと引き回してもらって見物したり、「外貨持ち出しの制限があるので、ホテルに泊まるのがもったいない」と言えば、下宿のような所を紹介してくれたり、「あそこの工場が見たい」と言えば、その労をとってくれたりと、井深が滞在している間中、山田には世話になりっ放しだ。
そんなある日、井深にアメリカの友人が訪ねてきて、「今度、ウエスタン・エレクトリック社(以下、WE社)がトランジスタの特許を望む会社にその特許を公開しても良いと言っているが、興味はないか」という話をした。トランジスタは、1948年、ベル研究所の研究者のショックレー、バーディーン、ブラッテンの3人によって発明された。このトランジスタ製造特許を、ベル研究所の親会社であるWE社が持っている。特許使用料を支払えば、その特許を公開してくれるという情報だった。
ところで、その頃井深は、アメリカに来て以来、忙しい毎日を過ごしているにもかかわらず眠れない夜が続いていた。そんな折、いつも井深が思うのは遠く日本にいる仲間たちや、会社の事であった。
東京通信工業(ソニーの前身、以下東通工)はその頃、テープの製造をするためにいろいろな分野から人を集めてきたため、社員数が急激に増えていた。テープの仕事に一応目鼻が立った今、何とかしてこれらの人たちを有効に生かすことはできないか、興味を持って活躍できる仕事はないものか……井深が考えるのは、いつもそのことだ。
突然ひらめきがあった。「トランジスタをやってみよう。これには、技術屋がたくさんいるに違いない。研究者も必要になるだろう。それに、あの連中も新しいことに首を突っ込むのが大好きだ。これは打って付けじゃないか」
トランジスタなどというものは、今回の渡米の目的には全然入っていなかった。井深も、会社のこのような事情でもなければ、WE社の話になど耳を貸さなかったかもしれない。それに、特許料が2万5000ドル(約900万円)というのも、東通工にとっては、大き過ぎる金額である。しかし、今や、やってみるだけのことはありそうだという気持ちのほうが強くなってきていた。トランジスタも発明されてから4年が経ち、当初、井深が考えていたような鉱石検波器とは違うということも分かっていたし、何よりもトランジスタ自体も初期の点接触型から接合型へと進歩を見せていた。
さっそく、山田に頼み込んだ。「トランジスタの話を、よく聞いて帰りたいんだ」。山田は、WE社の特許を担当しているマネージャーに会えるようにと、何度もコンタクトを取ってくれた。しかし、なかなか面会の約束が取れない。心残りではあったが、事後のことを山田に託し、井深は帰国の途に就いた。さて、この時の井深のアメリカ土産は、ゲルマニウム・ダイオードと、当時日本にはまだなかった、ビニールのテーブルクロスであった
第3話 町工場なんかでできるものか
帰国後すぐに井深は、この決断を盛田に伝え、東通工でやれるかどうか相談をした。「やるだけのことは、ありそうですね」と盛田も賛成してくれた。
次に社内のコンセンサスも得られると、井深はアクションを起こし、通産省にトランジスタ製造の許可を求めに行った。「ちょっとやそっとのことで、トランジスタなんかできないよ」と通産省の返事はつれなかった。町工場に毛のはえた程度の東通工なんかで、難しいトランジスタができるわけがない、そんなことで高額な特許料を支払い、貴重な日本の外貨を使われてはたまらないと、まったく問題にもされない。
その頃、日本でもトランジスタの開発を始める会社がいくつか現れていた。いずれも日本を代表する大会社である。これらの会社の方法は、アンブレラ契約といって、アメリカのRCA社からすべての技術を供与してもらう代わりに、すべての商品に対して特許権使用料を支払わなくてはいけないというものだ。これら日本を代表する会社でさえこうした契約でやろうとしているのに、東通工がWE社から特許権だけを買い取ろうというのは、いかにも無謀なことというのが、通産省の見解であった。
ところで、井深の渡米の目的であるテープレコーダーの市場調査のほうであるが、これに関しては、アメリカでも民生用としては日本ほどの普及を見せていないというのが結論であった。つまり、日本では裁判所から放送局といった業務目的から、学校の学習用に使われ、なおかつ一般家庭にも普及しようかという時期に来ているのに対して、アメリカではいまだ講演の速記とか報道機関のメモ用として使われている程度に過ぎなかったのである。
実際、日本ほど教育におけるテープレコーダー活用の浸透率が高い国は、世界中見回してもどこにもない。これは、学校に販路を開拓していった東通工の大きな功績であった。学校の授業での活用から始まって、各種のけいこ事に使われ、今日のようにテープレコーダーが普及していったことを考えれば、その市民生活に及ぼした影響の大きさは、計り知れないものがある。
第4話 届いた手紙
渡米出発時の盛田 トランジスタの特許取得のための努力は、井深から後のことを託された山田の骨折りによって、着々と進められていた。
山田は、井深がニューヨークを離れた後もたびたびとWE社に通い、行くたびに"東通工は、こういう会社である"と説明してくれた。また、ある時は、山田の得意のスケッチを生かしてオフィスで働く秘書の女性を描いてやったりして、すっかり先方の人たちと仲良くなっていた。そうしたWE社との交渉の詳細を、山田は詳しく報告してきてくれた。
山田自身とは、さほど関わりもない東通工のために、なぜこれほどまでに面倒を見てくれるのか……永くニューヨークで株の仲買人をやっていた山田の直観によほど東通工という会社は響くものがあったのか、山田は家庭にあっても夫人のまきゑに、「まきゑ、見ていてごらん。あの東通工という会社は、名もない小さな会社だが、きっと今に大きな会社になるよ」と言うのが口癖だった。
渡米出発時の盛田 トランジスタの特許取得のための努力は、井深から後のことを託された山田の骨折りによって、着々と進められていた。
山田は、井深がニューヨークを離れた後もたびたびとWE社に通い、行くたびに"東通工は、こういう会社である"と説明してくれた。また、ある時は、山田の得意のスケッチを生かしてオフィスで働く秘書の女性を描いてやったりして、すっかり先方の人たちと仲良くなっていた。そうしたWE社との交渉の詳細を、山田は詳しく報告してきてくれた。
山田自身とは、さほど関わりもない東通工のために、なぜこれほどまでに面倒を見てくれるのか……永くニューヨークで株の仲買人をやっていた山田の直観によほど東通工という会社は響くものがあったのか、山田は家庭にあっても夫人のまきゑに、「まきゑ、見ていてごらん。あの東通工という会社は、名もない小さな会社だが、きっと今に大きな会社になるよ」と言うのが口癖だった。
そうした山田の努力が実を結ぶ日が来た。その実は、アメリカから井深の所に届いた一通のエアメールが運んできた。『あなたの会社に特許の使用を認める用意がある。代表者が来てサインをしなさい』。WE社では、東通工がどこの会社とも技術提携をせず、またアドバイスも受けずに独力でテープをこしらえたことに非常に感心し、そういう会社であれば、トランジスタの特許を使わせても大丈夫であろうと判断したらしい。
1953年8月、3カ月の予定で欧米の業界を視察することになっていた盛田が、このWE社との契約を任されることになった。盛田にとっても、初めての海外である。今回も、英語をほとんど話せない盛田のために、ニューヨークに着いてから山田がずっと連れて歩いてくれている。「どうして、こんな国と戦争なんかしたんだろう」というのが、盛田の率直なアメリカの印象であった。日本と全然スケールが違う。何を見ても圧倒される。盛田は、少なからず自信を失いかけていた。
いよいよ明日、WE社に行くということになった。
盛田は、「東通工といっても、どこの馬の骨ともしれない日本人が来たと言って、WE社は相手にしてくれないんじゃないだろうか」と、いつになく弱気になっていた。WE社に行って、東通工が独力でテープやテープレコーダーを完成させたという事実を、データで示して説明する予定になっているのだ。しかも相手は、東通工とは比較のしようもないくらい大きなWE社である。盛田が不安になるのも仕方のないことであった。
それでも、山田が付いて行ってくれるという安心感で盛田は気を取り直し、WE社に行く決心がついた。
第5話 欧米視察旅行の成果
WE社との契約を無事終えた盛田 東通工に対するWE社の返事は、「OK」だった。しかし、日本では、まだ通産省の認可が下りていない。そこで取りあえず、許可が下り次第正式に契約することにして、仮調印を済ませた。その折、WE社の技術者たちは「トランジスタというものは、非常におもしろいものだ。しかし、今の段階では可聴周波数帯域(ラジオの放送電波は、これよりもずっと高い周波数)にしか使えない。それにはヒアリングエイド(補聴器)を作ったらよい。日本に帰ったら、ぜひとも補聴器を作れ」としきりに勧めてくれる。盛田は「どう考えても補聴器では大きなマーケットになりそうもないな」と思いつつ、「はあ、はあ」と聞いておいた。
東通工がWE社と結んだ契約は、ノウハウ契約とは違う。そのため、盛田は調印を済ませると日本に帰ってから役立つようにと、トランジスタに関わるいろいろな資料を集めて回った。とにかく、これで渡米の目的を無事果たした盛田は、次なる視察地ヨーロッパへ向けて旅立って行った。
WE社との契約を無事終えた盛田東通工に対するWE社の返事は、「OK」だった。しかし、日本では、まだ通産省の認可が下りていない。そこで取りあえず、許可が下り次第正式に契約することにして、仮調印を済ませた。その折、WE社の技術者たちは「トランジスタというものは、非常におもしろいものだ。しかし、今の段階では可聴周波数帯域(ラジオの放送電波は、これよりもずっと高い周波数)にしか使えない。それにはヒアリングエイド(補聴器)を作ったらよい。日本に帰ったら、ぜひとも補聴器を作れ」としきりに勧めてくれる。盛田は「どう考えても補聴器では大きなマーケットになりそうもないな」と思いつつ、「はあ、はあ」と聞いておいた。
東通工がWE社と結んだ契約は、ノウハウ契約とは違う。そのため、盛田は調印を済ませると日本に帰ってから役立つようにと、トランジスタに関わるいろいろな資料を集めて回った。とにかく、これで渡米の目的を無事果たした盛田は、次なる視察地ヨーロッパへ向けて旅立って行った。
最初に行ったのはドイツだ。ドイツは日本と同じく戦争には負けたけれど、素晴らしい技術力を持っているし、その技術力には長い伝統がある。盛田はアメリカで感じたような劣等感を、ここドイツでも感じていた。
「果たして、アメリカやドイツといった国と同じように、東通工が世界中にマーケットを広げていけるものだろうか」。あれほど、いつかは東通工製品を世界のマーケットに乗せるんだと考えていた盛田も、次第に悲観的になってしまっていた。
そんな気持ちを抱えたまま、ドイツから汽車に乗りオランダに向かった。ここには、世界的な大企業フィリップスの本拠地がある。この地を訪れて、盛田はひと息ついた気がした。ご存じのように、オランダは農業国だ。町へ入ると、皆自転車に乗っている。「何だか、日本に似た国だな」と、郷愁さえ覚えた。この国には、ほとんどと言ってよいくらい工業というものがない。何しろヨーロッパ中で食べる卵に、オランダという印が付いているくらいの農業立国である。盛田にしても、フィリップスがいかに世界中に大きな力を持っているか知らないわけではない。そのフィリップスが、この小さな国にあるのだ。
盛田は、ヨーロッパに来てからというもの、日本は何と広い国であろうかと思っていた。確かにアメリカに比べれば、日本は小国だ。しかし、ヨーロッパでは、ひとつの国の首府から、次の国の首府まで飛行機に乗れば、1時間で行ってしまう。オランダであれば、汽車で4時間走ると、国境から隣の国に突き抜けてしまうのだ。 それほど狭い国土のオランダの、しかも、農業国の片田舎にあるフィリップスという会社が、世界のエレクトロニクス産業において素晴しい力を発揮している。アイントホーヘンという町は、ドクター・フィリップスが出てくるまでは、本当に片田舎であった。何ら工業的なバックグラウンドのないこの土地で、ドクター・フィリップスはフィリップス王国を築き上げたのだ。
「ドクター・フィリップスにできたことが、我われにできないはずはない。自分たちにも、チャンスがあるはずだ」。盛田はここに来て急に勇気が湧いてきた。そして、オランダから井深に手紙を出した。
『オランダを見て非常に勇気が湧いた。私たちにも、我が社の製品を世界中に売り広めるチャンスがあるという決心、決意を持つに至った』。そう、書いて出した。
3カ月の旅行を終え、日本に帰った盛田は、さっそくWE社とのやり取りを井深に話した。
「トランジスタを使って何かやりましょう。トランジスタができれば、我が社のチャンスとなるはずです。WE社では、補聴器をやれと言っているけれど、どうでしょう……」
井深も補聴器には否定的であった。
第5章 「大丈夫、必ずできる」
第1話 「大丈夫、必ずできる」
トランジスタ開発に大きな
貢献をした岩間和夫「ラジオをやろう」。これが、社長の井深が出した答えであった。
「トランジスタを作るからには、広く誰もが買える大衆製品を狙わなくては意味がない。それは、ラジオだ。難しくても最初からラジオを狙おうじゃないか」
まだ、アメリカでも補聴器くらいにしか使えない、低い周波数のトランジスタしか作られていないのだ。これは、大胆な発想だった。しかし、井深は強気だ。
「大丈夫だ、必ずラジオ用のものができるよ」。この言葉で、東京通信工業(ソニーの前身、以下東通工)の技術者たちの挑戦が始まった。
トランジスタ開発に大きな貢献をした岩間和夫
「ラジオをやろう」。これが、社長の井深が出した答えであった。
「トランジスタを作るからには、広く誰もが買える大衆製品を狙わなくては意味がない。それは、ラジオだ。難しくても最初からラジオを狙おうじゃないか」
まだ、アメリカでも補聴器くらいにしか使えない、低い周波数のトランジスタしか作られていないのだ。これは、大胆な発想だった。しかし、井深は強気だ。
「大丈夫だ、必ずラジオ用のものができるよ」。この言葉で、東京通信工業(ソニーの前身、以下東通工)の技術者たちの挑戦が始まった。
技術者から見れば、挑戦する相手が難しければ難しいほど、張り合いがあるというものだ。しかし、東通工の中でも一部には、果たしてできるかどうか分からないようなトランジスタを、社運をかけてまでやる必要があるのかという先行きを危ぶむ声があった。それは、外部の人たちの大部分も、やはり同じように感じていたに違いない。東通工のような小さい会社が、いまだアメリカでもできないトランジスタラジオをやるなんてことは、無謀な冒険であるという意見が圧倒的に多かった。NHKの島も、そう思っていた一人だ。
「今度、うちでトランジスタをやるよ。それもラジオを作ることにした」。井深が少し誇らしげに言った。
「ラジオなんて大丈夫か?アメリカだって、お金に糸目をつけない国防用にしか使われていないじゃないか。トランジスタのような高価なものを使って民生用の機械を作ろうたって、誰も買いやしないよ」。古くからの友人への忠告のつもりで島は反論した。
「そうじゃないよ。確かにトランジスタの製造の歩留まりというのは、今のところは、アメリカでも、せいぜい5%あるかないかだ。だから、皆はトランジスタは商売にならないと言っている。僕は、歩留まりが悪いから面白いと思うんだ。歩留まりが悪いというのなら、良くすればいいんだろう」。井深はムキになって答えた。正論である。島は昔から、こうした井深の敢闘精神ともいえる積極的な姿勢を好ましく思っていた。
島は理解してくれた。しかし、どうしても理解してくれない相手もある。通産省だ。井深は再度、通産省に足を運んだ。「実は、当社ではWE(ウエスタンエレクトリック)社から製造特許使用者としての許可をもらいました。ついては、通産省のほうでも何とかこの件に関して認可をお願いいたします」と言う井深の言葉に、通産省は「勝手にサインしてくるなど、もってのほかだ。けしからん」と、カンカンである。
仕方がない。当面は通産省の出方を見ながら、自分たちでできることをやるしかないというので、社内ではすぐに精鋭たちが集められ、トランジスタ開発部隊が編成された。リーダーには、テープレコーダーの製造部長をやっていた岩間和夫が志願した。岩間は以前、井深からアメリカの『フォーチュン』誌に載ったトランジスタの記事を見せられた際、一晩読んで、「これなら、できないことはないな」と軽い気持ちでいた。それで、井深が「誰にやらせようか」と言った時にも、「私がやりたいです」と自ら買って出たのだ。そして、岩間と一緒にトランジスタに取り組むため、社内のいろいろな職場から腕に自信のある人間が集められた。
とにかく、ラジオをやろうという前に、トランジスタそのものを作ることが先決である。しかし、東通工には、その製造ノウハウどころか、ほとんど資料と言えるものがない。唯一の拠り所は、専務の盛田がアメリカから持ち帰ってきた、トランジスタのバイブルともいえる『トランジスタ・テクノロジー』という本だけであった。岩間たちは、この本を手がかりに勉強を始めていった。
そうして1953年も暮れかけようという頃、通産省の電子工業関係部門の大幅な人事異動が行われ、これが、東通工に幸いした。急転直下、トランジスタの認可が下りそうな気配となったため、1954年、年が明けるとすぐに、岩間はトランジスタ研究のためアメリカへと旅立って行った。遅れて1月末には、井深もWE社のトランジスタ工場を視察するため、再度アメリカに向かった。
これで、いよいよ本格的にトランジスタに取り組む態勢が整った。
第2話 岩間レポート
岩間がトランジスタの研究のためWE社へ行ったのは、35歳の時である。仕事に脂の乗り始めた頃だ。そういうことだけではないが、アメリカに渡ってからの岩間の働きぶりはすさまじかった。岩間が持っているトランジスタの知識は、わずかに『トランジスタ・テクノロジー』を読むことによって、製造にまつわる基礎的な部分を身に着けたという程度のものでしかない。
アメリカから送られてきた“岩間レポート”
岩間がトランジスタの研究のためWE社へ行ったのは、35歳の時である。仕事に脂の乗り始めた頃だ。そういうことだけではないが、アメリカに渡ってからの岩間の働きぶりはすさまじかった。岩間が持っているトランジスタの知識は、わずかに『トランジスタ・テクノロジー』を読むことによって、製造にまつわる基礎的な部分を身に着けたという程度のものでしかない。
アメリカから送られてきた“岩間レポート”とにもかくにも、ここアメリカで、できる限りの情報を集めて帰らなくてはいけない。WE社からは、製造装置の仕様書などの資料はもらえない。しかし、工場の中は割と自由に見せてくれた。岩間は、工場見学の際に、これはと思われる装置を前にしては、怪しげな英語を駆使して質問して回り、その印象なり答えてもらったことなどを報告書にまとめて、東京に書き送った。とはいっても、その場で装置の図面をノートに取ることはゆるされない。その分、全部が全部正確とは言えないが、ホテルに帰ってから、一所懸命見たこと聞いたことを思い出しながら、スケッチにしたり、レポートにして書きに書いた。最初がレポート用紙に9枚……2月19日が8枚、2月21日9枚……4月7日5枚、4月9日5枚、4月13日8枚と、毎日ではないが、それでも驚くほどの量だ。
東京では、定期便のように送られてくる岩間からの手紙と『トランジスタ・テクノロジー』を参考にして、岩間が帰って来るまでにトランジスタを作っておこうじゃないかと話がまとまった。
まず、やらなくてはならないのが、トランジスタ製造のための工作機械を作ることだ。その当時、半導体の製造設備といっても既製品などあるわけがない。しかも、いくら『トランジスタ・テクノロジー』を読んでも、製造装置の図面など載っていない。何もかも、自分たちで一つひとつ図面を引いて作り出していくほかはないのである。その上、東通工の機械作業場には小型の加工装置が数種類ある程度で、これではとても社内で作るのは無理である。そこで、社外の協力工場に加工を依頼し、それこそゼロから出発して、水素でゲルマニウムを還元する酸化ゲルマニウム還元装置、それの純度を上げるためのゾーン精製装置、切断機(スライシングマシン)と、一連の製造装置を作り上げていった。
初めて東通工のトランジスタが動作したのは、岩間がアメリカから帰って来る1週間前だった。ベル研究所のショックレー博士たち(ウィリアム・ショックレー、ジョン・バーディン、ウォルター・ブラッテンの3人が、1947年にトランジスタを発明)が最初に作ったのと同じ型の、ポイントコンタクト(点接触)型のトランジスタである。測定に使う装置は手製のものである。
電流計の針が振れた時の皆の喜びは、大変なものであった。しかし、「こんな早くにトランジスタができるとは……」。誰しもが持った感慨であった。続いて、すぐにジャンクション(接合)型ができたが、帰国した岩間も、初めは半信半疑であった。ゲルマニウム結晶を見ても、「これが、本当にゲルマニウムか?」と、どうもピンと来ないようだ。正直な話、発振器のメーターが振れるのを見て、「ああ、これならどうやらトランジスタらしいな」と、やっと認識できたようであった。
第3話 社運を賭けて
それにしても、大した決断であった。井深や盛田が「トランジスタをやろう」と決意した時には、東通工はテープレコーダーでは多少名前は知られていたが、会社設立から6年しか経っておらず、資本金も1億円に満たない小さな会社なのだ。果たして、ものになるかどうかも分からないトランジスタに、東通工は当時の会社規模としては、思いも及ばないほどのお金と人手をかけてスタートしたのだ。
とにかく、お金がかかった。経理の担当部長が研究・開発費を工面するため、銀行に説明に行くことになったが、トランジスタをどう説明して良いか分からない。盛田は、困ったようすの経理部長を見て、アメリカの雑誌など方々から集めてきた文献をドサッと持ってきてくれた。「これを先方に見せて、説明してこい」というわけだ。仕方なく、それを持って銀行に行ったが、これには先方の支店長も頭を抱えてしまった。支店長としては、貸さないで、東通工の新事業の機会をなくすようなことはしたくない。しかし、いくらアメリカの文献をたくさん持って来られても、トランジスタとはいかなるものか分からないうちは、貸してもよいという理由が見当たらないのだ。結局、銀行の本店の審査部へと、この件は回されることになった。
今度は、上司の太刀川が同行し、説明のため審査部まで出向いて行った。
「トランジスタというのは、真空管の代用品でしょう」。明らかに軽蔑したような口振りで審査部の担当者は言う。“代用品”というのは、戦後物資が不足していた折、本物に代わるものとして出てきた類似品のことを言う。太刀川たちは何度も「真空管とは違うものだ。代用品ではない」と説明した。それでも、分かってもらえない。とうとう、井深を引っ張ってきて説明させた。井深の説明は、大変オーソドックスなものだった。
「物が動くことを動作すると言う。動くということには摩擦が付きもの。摩擦が起こると物質は減る。この減るということが、故障の原因になる。トランジスタは、物が動いて動作するのではない。分子が変わることによって真空管と同じ働きをするものだ。そのため、トランジスタには故障がない。真空管に比べて数段も小さく、構造が簡単な上、頑丈である。しかるに、真空管とは全然別のものである」。そういったことを、延々3時間近く話した。こうして審査部の人たちを口説きに口説いて、やっと納得してもらうことができた。
岩間がアメリカから帰って来るのと前後して、ジャンクション・トランジスタができた。ここまでできれば、基礎研究の段階を抜け、いよいよラジオ用のトランジスタが目標となる。ラジオとなると、トランジスタは途端に難しくなる。もっと高い周波数を扱えるトランジスタ、つまりグロン(成長)型のものをめざさなくてはならないのだ。そのため、これまでは半自動であったり、人の勘に頼っていたゲルマニウム結晶の引き上げ、表面研摩といった操作を、より正確にするため、それぞれの装置の製造に取りかかっていった。
第4話 フェライトの特許契約
工場見学のお客様にゾーン精製機を説明する井深 話は少々前後するが、1950年に東通工が初めて発売したテープレコーダーG型は、消去ヘッドの効率が悪く、性能向上の障害となっていた。このため、井深たちは高周波特性の良い磁気材料であるフェライトをヘッド材料に応用することに着目、国内でいち早くフェライトの研究に専念していた東北大学の岡村研究室との共同研究を1951年から始めた。これにより、東通工では盛田正明(もりた まさあき)を岡村俊彦教授の元に派遣させるとともに、社内でも岩間を中心にテープレコーダー用のフェライトヘッドの開発を行っていた。
工場見学のお客様にゾーン精製機を説明する井深話は少々前後するが、1950年に東通工が初めて発売したテープレコーダーG型は、消去ヘッドの効率が悪く、性能向上の障害となっていた。このため、井深たちは高周波特性の良い磁気材料であるフェライトをヘッド材料に応用することに着目、国内でいち早くフェライトの研究に専念していた東北大学の岡村研究室との共同研究を1951年から始めた。これにより、東通工では盛田正明(もりた まさあき)を岡村俊彦教授の元に派遣させるとともに、社内でも岩間を中心にテープレコーダー用のフェライトヘッドの開発を行っていた。
東北大学の岡村研究室が行っていたフェライトの研究には、東通工ともう1社が資金援助していた。そして1953年になって、実用になりそうなフェライトを岡村教授が発見し、これが特許となった。ところが心臓病を患う岡村教授は、とても企業と特許契約の交渉などできそうにない。そこで、岡村教授の研究をサポートしていた高崎晃昇が企業との窓口になったのである。高崎はまず、東通工よりも資金を多く出してくれていた企業に行き、特許契約の話をしたがなかなか返事が来なかった。
そして、高崎は次に東通工を訪れた。井深と盛田(昭夫)から20〜30分、いろいろなことを質問された。「随分特許の料率というのは高いものですね」。最後に井深からそう言われて、高崎は、金属材料研究所の主だった特許の例をとって、材料というのはセットに比べ料率が高いことを説明した。「分かりました。それでは当社の研究部長たちに会ってください」。井深が言った研究部長たちというのは、実際にこの特許を使って仕事をする岩間たちであった。高崎は、今度はこれらの人たちから延々3時間にわたってあれこれと、しつこい質問攻めにあってしまった。「この会社は、すごくうるさい所だなあ」と、高崎もさすがに閉口してしまった。質問も出尽くした頃を見計らって、それまで席を外していた井深が入ってきて、「どうだった?」と岩間たちに聞いた。「すべて、分かりました」という返事だ。「それでは高崎さん、契約しましょう」。井深は、いとも簡単に原案に判を押して契約すると言う。高崎は初めに訪ねたメーカーの応対と全然違うのにびっくりしてしまった。
第5話 仙台工場の開設
高崎が東通工を訪れてから一ヶ月が経った7月の半ばに、盛田(昭夫)が仙台にやって来た。盛田は高崎に、「契約はしたが、作る人がいない。どうだろう、高崎さんやってくれませんか」と言う。「東通工の将来を考えると、どうしても材料工場を持っていたい。そこで、日本の中であればどこでもいいから工場を作ってくれませんか」という盛田の話に、高崎の心が動かされた。しかし、「自分のような者では期待はずれではなかろうか、そんなことで、あの会社の人たちに迷惑がかかってはいけない」。そんなことを考えて返事を保留したのだった。
畑の中の仙台工場
高崎が東通工を訪れてから一ヶ月が経った7月の半ばに、盛田(昭夫)が仙台にやって来た。盛田は高崎に、「契約はしたが、作る人がいない。どうだろう、高崎さんやってくれませんか」と言う。「東通工の将来を考えると、どうしても材料工場を持っていたい。そこで、日本の中であればどこでもいいから工場を作ってくれませんか」という盛田の話に、高崎の心が動かされた。しかし、「自分のような者では期待はずれではなかろうか、そんなことで、あの会社の人たちに迷惑がかかってはいけない」。そんなことを考えて返事を保留したのだった。
畑の中の仙台工場
月に入って、今度は井深から「ぜひ会いたい」と電話がかかってきた。以前から、「この会社は面白そうだ」と思っていたため、井深からの重ねての説得を受け、高崎は腹を決めて引き受けることにした。
当時宮城県では、戦災で焼け、しかも消費都市である仙台市と、漁港である塩釜市を結ぶ地域を工場地帯(仙塩工業地帯)にしようという一大構想を打ち出し、工場誘致を積極的に行っていた。これは東通工としても好都合であった。何といっても、フェライトやテープの共同研究で綿密な連携を保っていた東北大学と地理的にも近い。しかも、テープレコーダーの増産により本社工場のある品川・御殿山の敷地が手狭になったことなどもあって、仙台への進出を決めたのであった
高崎たちは、さっそく設立の準備に取りかかった。1954年2月に、当時東通工の販売会社であった仙台支店の一隅に仮の事務所が設けられた。女子社員1名を含み、工場長以下たった6名での出発であった。その間、宮城県工場誘致条例の第1号の適用を受け、多賀城市に1万7,000平方メートルの用地と、旧海軍工廠(こうしょう)跡の医務室を、5年間の無償貸与ということで借り受けることが決まり、改修工事を開始したのであった。
5月1日、バラックながら改修工事も完了し、工場としての第一歩を踏み出すことになった。総勢27名。出勤1日目は、まず草むしり、大掃除、ガラス拭き、荷物の荷ほどきと、全くゼロからのスタートである。次に全員がしなくてはならなかったのが、長靴(ゴム長)の調達。何しろこの工場、四方を田んぼと畑に囲まれている。道といってもあぜ道と変わりない。また夜は夜で、鼻をつままれても分からない暗闇である。足を一歩踏み外せば、田んぼや小川にドボンというわけだ。仙台工場が実際に稼働し始めた6月、工場に明るく蛍光灯が灯されたのを見て、土地の人々は“何と明るいのだろう”と目を見張ったくらいの田舎だったのである。
こうして、岩間たちがラジオ用トランジスタの完成に血道を上げている頃、遠く東北の地に、東通工の看板が掲げられたのだった
第6章 トランジスタに“石”を使う <トランジスタラジオ>
第1話 トランジスタに“石”を使う
さて、金食い虫のトランジスタであったが、東京通信工業(ソニーの前身、以下東通工)仙台工場が稼動し始めた1954年6月には、東京・品川の本社工場ではポイントコンタクト(点接触)型、ジャンクション(接合)型両トランジスタを使って、初めてトランジスタラジオの試作を始めるまでになっていた。
東通工で作られたトランジスタとダイオード
上:ポイントコンタクタ型Tr
中:ジャンクション型Tr
下:ダイオー
さて、金食い虫のトランジスタであったが、東京通信工業(ソニーの前身、以下東通工)仙台工場が稼動し始めた1954年6月には、東京・品川の本社工場ではポイントコンタクト(点接触)型、ジャンクション(接合)型両トランジスタを使って、初めてトランジスタラジオの試作を始めるまでになっていた。
東通工で作られたトランジスタとダイオード上:ポイントコンタクタ型Tr
中:ジャンクション型Tr
下:ダイオー
10月になると、日本で初めてのトランジスタ、ゲルマニウムダイオードの披露会を東京・千代田区の東京会館で開いた。当日、東京会館の片隅で、井深と笠原、そして三田無線の茨木悟氏が先ほどからコソコソと立ち話をしていた。笠原が井深から、トランジスタの呼称を何としようかと相談を受けていたのだ。笠原はしばらく考えて、「結晶の晶の字をとって“六晶”“七晶”と言ってはどうでしょう」と提案した。しかし茨木氏から「時計と同じように“石”(せき)を使ってはどうだろうか」という意見が出された。井深も即座に賛同して、以後トランジスタは“石”で、またダイオードは、将来物品税の対象にならないようにとの配慮から石数に入れないことになった。
続いて同じく10月の末に、東京・日本橋の三越本店でトランジスタとトランジスタ応用製品の展示即売会を開いた。この時には、応用製品としてゲルマニウム時計、試作第1号のゲルマニウムラジオ、補聴器などを展示した。またトランジスタの2T-14型を4,000円、ダイオード1T23型を320円で即売することにした。お客の中には4,000円もするトランジスタをポンと買って行く人もいて、実際のところ、売り手のほうが「こんな高価なトランジスタを買って何に使うのだろう」と驚いてしまった。
第2話 “東通工”から“SONY”のマークへ
ところで、一口にラジオといっても、真空管式のラジオは市場に出回っている。それと同じではトランジスタで作る意味がない。そこでポータブルタイプがいいということに当然なる。しかし、ポータブルにするためには、部品もいろいろと変えていかなくてはならないし、プリント配線板も使わなくてはならない。その開発が、井深たちの苦心のしどころであった。
真空管式にも、形はやや大きかったが、電池を使ったいわゆるポータブルタイプのラジオは、すでに世の中にあった。そこで井深たちは、それに使っている部品を「もっと小型にしてもらえないか」とあちこちのメーカーを説得して歩いたのだ。たとえば、真空管式ラジオ用の小型のバリコン(バリアブル・コンデンサー)を作っていた「三美電機」には井深と取締役の樋口が行って、「もっと小型で、性能の良いものにしてくれないか」と頼んだ。小型スピーカーについても同様だ。
そうこうしているうちに、東通工の社員を落胆させるニュースが、アメリカから届いた。“世界初のトランジスタラジオ発売”というニュースである。1954年の12月、米国リージェンシー社がトランジスタを4石使った出力10ミリワットの本格的なスーパーへテロダイン方式受信機TR-1型を発表、クリスマスシーズンを目指して発売を始めたのだ。
自分たちの会社こそ最初にと、これまで頑張ってきたのだ。「通産省がもう少し早く許可してくれたら……」という思いが井深の胸をよぎった。しかし東通工にとっては、これがひとつの転機となったことも確かだ。これまで以上に、トランジスタ自体の開発も回路に対しても力を入れて取り組んでいった。成果は、翌年1月に早くも現れた。東通工製のトランジスタを使ったラジオが鳴ったのだ。ジャンクション型のトランジスタ5石を用いた、スーパーヘテロダイン方式受信機TR-52型の試作の成功であった。
3月、市場調査と商談のためアメリカとカナダに向かう専務の盛田が、サンプルとしてこのラジオを持参することになった。盛田の2度目の渡米に先立ち、東通工の製品すべてに「SONY」のマークを入れることを決定した。井深や盛田、あるいは岩間、樋口と渡航する人間が増えるに従って、あることが話題になるようになった。それは、東京通信工業あるいは東通工といっても、アメリカの人たちは発音できないということだ。発音できないような名前で、物を持って行っても商売にならない。何とかしなくてはと、折々皆で考えていたのだ。
「どうせ変えるのなら、いい名前にしよう」。それが一致した意見であった。それには、いろいろ条件がある。覚えてもらいにくいのも困るし、言いづらいのもだめだ。なるべく簡単な名前で、どこの国の言葉でも大体同じように読めて、発音できるということが大事な要素になる。
一番簡単なのは、2字の名前だ。しかしローマ字で2字というのは、不可能に近い。すると3字だ。3字では米国のRCA、NBC、CBSあるいは日本のNHK(日本放送協会)といろいろあって、他社と間違われる可能性もある。東通工の頭文字をとってTKKというのも考えたが、これだと東京急行電鉄のTKKと混乱してしまう。結局4字しかない。これで、いろいろな組み合わせを考えることにした。
この時、盛田たちが一番苦心したのは発音だ。井深はアメリカに行くと“イビューカ”と呼ばれてしまう。それで、いろいろ考えた結果が「SONY(ソニー)」というわけだ。音「SOUND」や「SONIC」の語源となったラテン語の「SONUS(ソヌス)」と、小さいとか坊やという意味の「SONNY」——これは、自分たちの会社は非常に小さいが、それにも増して、はつらつとした若者の集まりであるということにも通じる——を掛け合わせて作った言葉である。これで決まった。 盛田は「SONY」の名前を付けた製品を持って、勇躍アメリカに渡って行った。
第3話 幻の“国連ビル”ラジオ
幻の国連ビルラジオ

幻の国連ビルラジオ「TR-52」
盛田は、2ヵ月の渡米中に、アメリカ向けマイクロホン1,000個、放送取材用テープレコーダー10台の輸出契約を完了した。さて、サンプルとして持って行ったTR-52であるが、こちらのほうは、アメリカの大きな時計会社「ブローバー社」から引き合いが来た。
「その値段で当方はOKだ。10万台のオーダーを出そう」。即座に商談は成立するかに見えた。ところが盛田は、相手の出した条件が気に入らない。「SONYでは売れない。当社の商標を付けさせてもらうよ。何しろアメリカでは、SONYといっても誰も知らないんだからね」。これが条件だった。「絶対に断るべきだ」。盛田の気持ちは決まっていたが、こんな大きな商売だ。盛田の一存で断るわけにはいかない。ホテルに帰って、すぐ日本に電報を打った。「10万台の注文を受けた。しかし、それには彼等のブランド名を付けなければならないという条件が付いているので、断るつもりだ」。
折り返しすぐに返信が来た。「10万台の注文を断るのは、もったいなさすぎる。名前なんかいいから契約を取ってこい」という内容だ。盛田にもこの気持ちは痛いくらい分かる。だからといって説を曲げることはできない。もう一度「断りたい」と打電した。それでも結論が出ない。ついに盛田は日本に電話をかけた。「絶対に向こうの商標を付けるべきではない。せっかくSONYという名を付けたんだ。われわれはこれでいこうじゃないか。第一、10万台の注文をもらったって、現在の東通工の態勢ではできやしないじゃないか」。手持ちの少ない米ドルを使って、電話までかけて説得したのだ。やはり、断ることにして、盛田は注文先の会社に行き、その旨伝えた。「誰がSONYなんか知っているんだ。自分の所は50年かかって、世界中で知られるようなブランドにしたんだ」。先方の社長は盛田のことを、いかにも「商売を知らないやつだ」というかのように笑って言った。「それでは、50年前、何人の人があなたの会社の名前を知っていたのでしょう?」。盛田は反論した。「わが社は、50年前のあなた方と同様に、今50年の第一歩を踏み出したところだ。50年経ったら、あなたの会社と同じくらいにSONYを有名にしてみせる。だから、この話はノーサンキューだ」。東通工の将来を考えると、目先の利益だけを考えていても仕方がないのだ。この話は、結局なかったことにして、盛田は帰路に就いた。1955年4月のことであった。
ところで、このTR-52、愛称を"国連ビル"と言った。キャビネット前面の白い格子状のプラスチックが、国連ビルをイメージさせるところから命名されたものだ。そして盛田が北米から帰国してすぐの5月、思わぬ事件が起きた。
5月といえば、初夏である。気温もだんだん上がってくる。その気温の上昇とともに大事件が勃発したのだ。キャビネット前面の格子(国連ビルの窓々)の部分、白いプラスチック全体が黒色の箱から次第に浮き上がってきた。1台だけではない。これまで作った100台のうちのほとんど全部が曲がり始めている。これには、井深たち全員が色を失ってしまった。これでは売り物にならない。無念ではあったが、この東通工製トランジスタラジオの1号機・TR-52は、正式発売を目の前にして断念せざるを得なくなったのである。
第4話 12種類の回路
TR-55が完成したのは、回路設計技術者たちの努力に負うところが大きかったと言える。
当時、トランジスタは依然として歩留まりが向上しない上、せっかくできたトランジスタに特性のバラつきがあった。良いトランジスタだけを選んで、基準外のものを捨てていたのでは、とても商売としてやっていけなかったのだ。
TR-55の回路はスーパーヘテロダインという方式で設計していたが、この局部発振用コイルを、何と12種類も作ったのである。特性のバラつきへの対応策だ。発振しにくいトランジスタには、無理やりにでも発振させるようなコイルを、反対に特性の良いトランジスタには、それ相応のコイルを組み合わせるのである。相性の良いトランジスタと発振回路を見合いさせて、ようやく1台、TR-55ができ上がるという具合だ。むろん、回路だけが改善されたのではない。このTR-55には、他社に先駆けてプリント配線板が使われている。今でこそ当たり前のプリント配線板も、当時は大変な研究と改良の積み重ねでできたのだ。
日本最初のトランジスタラジオ「TR-55」
この頃、ラジオの普及率は74%にまで達していた。そこで「東通工さんが今からラジオを始められても、もう無理ですよ」と忠告してくれる人もいたが、こう言われると、かえって奮起してしまうのが井深や盛田の性分だ。「74%というのは、世帯単位の数字だ。これを人間単位にしたら、もっとマーケットは大きくなるじゃないか」というのが、2人の考えだ。確かに市場には個人用ラジオとして、何社かが乾電池を電源とした真空管式ラジオを売り出していたが、普及率のほうはほとんどゼロに近いと言ってよいくらいだった。これならば、トランジスタラジオが入り込む余地は十分過ぎるほどある。
『ラジオはもはや、電源コード付きの時代ではありません。ご家庭のラジオもすべてTRとなるべきです。皆様のお好みの場所に、TRはお供することができます』。TR-55のカタログにも、こう明記されている。戦前のラジオは、そのほとんどが家庭にあって、小型のお仏壇といった感じの据え置き型である。個人ユースとなる前のテレビ同様に、家族皆がラジオの置いてある部屋に集まって、ニュースや歌番組を聴いたものだ。戦後、進駐軍が来て、ポータブルラジオを持ち込んできた。乾電池で動く真空管式のラジオである。これは、日本人にとって羨望の品となり、すぐにこれが真似られて、次第に日本のラジオも小型化の傾向を見せ始めたが、やはり真にポータブルと言えるのはTR-55をおいてほかにないのだ。
確かに、リージェンシー社には遅れをとった。しかし、リージェンシー社のものは、米・テキサスインスツルメント社のトランジスタを買って作ったものである。自社でトランジスタから製造し、その石を使ってラジオを作ったのは、東通工が世界最初だったと言える
第5話 親を見て決める
ラジオの販売を始めて、トランジスタビジネスに本腰を入れていくとなると、これまで以上に人手が必要になる。
「半導体の製造は、これから女子の2交替制でやる。すぐに人を集めて、その人たちの住む所も何とかしてほしい」。半導体部長の岩間から、突然にこう切り出されて、総務を預かる太刀川正三朗(たちかわ しょうざぶろう)は、はたと困ってしまった。もう1956年も終わりの、11月である。これから人を集めてくれと言われたところで、若い人たちのほとんどは紡績会社に就職が決まっているはずだ。事実、地方の職業安定所を訪ねたが、「何だ、今ごろ来ても駄目だよ」と馬鹿にされて帰って来た。会社もそう大きくはないし、知名度も低い東通工にあっては、戦前から実績のある紡績会社の相手になるはずがない。何としても、紡績会社と違う面でアピールする必要がある。そこで、一計を案じて、「当社では、紡績関係で使われているような“女工さん”といった言い方はやめよう。“トランジスタ娘”大募集でいこう」ということに決めた。
もともと井深たちは、自分の会社の従業員をホワイトカラー、ブルーカラーとはしていない。東通工で働いている人は、どんな仕事をしていようとも、同じ仲間であるという意識だ。そのため、井深や盛田は従業員の一人ひとりを「誰さん」、「何々くん」と親しく氏名で呼んでいた。
太刀川たちは、“トランジスタ娘”を求めて、仙台から東北、北海道まで出かけて行った。東北では、さほどの成果はなかった。しかし、太刀川の故郷・北海道では、良い子が大勢集まった。というのも、その年、北海道は冷害で、中学を卒業したら高校に行きたいが親のことを考えたら行けないと、進学を迷っている子がたくさんいたのだ。試験は、簡単な筆記と面接である。太刀川は、面接の際、変わった方法を採り入れてみた。採用に応募してきた子に親を同伴させ、親子同席の面接を行ったのである。親を見るとその子もよく分かるというわけだ。
人が集まったら、次は寮を心配しなくてはいけない。2交替を行うのだから工場に近い所がいい。運よく、東通工とは明治通りを隔てて、「日本気化器」の少し先に蛍光塗料を作っている会社があり、その建物を買い取って改造することになった。3月の卒業とともに、東通工の担当者たちは、北海道から東北を回って“トランジスタ娘”とともに帰って来た。夜行列車に乗り、朝、上野駅に着くと、取りあえず、無事に着いたことを知らせようと会社に電話を入れると、「まだ、寮が完成していない。何とか時間を潰して、昼頃こちらに着くようにしてくれ」と言う返事である。
何とかしろと無茶苦茶なことを言われても困る。仕方がないので遊覧バスに乗せて、東京見物をさせることにした。皆は大喜びだが、担当者たちは「まだ寮はできないのか」と気が気ではなかった。
翌年からは、正規に新卒者を募った。当時、採用試験を行うには労働省の適性検査というのがあり、東京で試験をする時には、すべて労働省で面倒を見てくれた。地方で試験を行う時は、その土地の職業安定所の人たちが担当することになり、採用になった人たちは、その県や地域の人がまとめて東京に連れてきてくれるのが慣例であった。
しかし、東通工では会社から人を派遣し、採用者を東京まで引率してくる。それも、女性には女性のほうが良かろうと、わざわざ女子社員や看護婦さんを連れて迎えに行かせた。何といっても、紡績会社と同じことをしていても人は来ない時代だ。迎えに行く時も、採用者の親御さんにも車代を出して集合地まで来てもらい、昼食をともにして汽車に乗るまで一緒にいてもらう。「お預かりしていきます」と挨拶した後、汽車に乗せる。これなら、娘を見送る親も安心である。こんな心配りが評判を呼び、次第に東通工の採用に人気が出てきた。
第7章 “ポケッタブル”は和製英語?
第1話 “ポケッタブル”は和製英語?
“ポケッタブルラジオ”
TR-63 さて、東京通信工業(ソニーの前身、以下東通工)のトランジスタラジオも、いろいろなモデルが出てきた。たとえば1956年の暮れにできたTR-81は、 NHKから辺地(へんち)の学校用ラジオとしての指定を受け、全国200ヵ所分の注文をもらった。このラジオは、一般の販売店では売られなかったが、民生用として画期的な商品の企画が、その前の月にたてられていた。その商品こそ、当時世界で一番小さいトランジスタラジオとなった“ポケッタブルラジオ” 「TR-63」である。発売予定は、翌年の3月と決まった。
TR- 63型は、これまで世界最小のトランジスタラジオと言われ、東通工が世界初という栄誉を譲ってしまった米リージェンシー社のTR-1型ラジオ(4石で、 127×76×33mm)に対し、112×71×32mmと小さく、6石のため感度、出力とも優れており、消費電力も半分以下ということで、発売早々から評判になった。 価格は、1万3800円で、これはちょうど、その当時のサラリーマンの1ヵ月の平均給与に相当する額であった。
TR-63が世に出た当時、小さくて、ポケットに入るようなラジオは、アメリカではポケットラジオという名称で呼ばれていた。「ポケッタブル(ラジオ)」というと、今では耳慣れた言葉だが、実はこの言葉をキャッチフレーズに使ったのはソニーが初めてだった。ポータブルより一段と小さくなったことを強調するために「ポケッタブルラジオ」というキャッチフレーズを考え出したのである。ところがこのTR-63、当時の既製のワイシャツのポケットに入れようとしても入らない。残念なことに、若干ラジオのほうが大きかったのだ。これでは、せっかくのキャッチフレーズが泣いてしまう。それならと、専務の盛田がちょっとした細工を考え出した。ワイシャツのポケットを少しばかり大きくすれば、何の問題もない。そこで、普通のワイシャツのポケットより、やや大きめのポケットを付けた特製のワイシャツを用意して、セールスマンに着用させ、売り歩かせることにしたのだ。
初めてのポケッタブルラジオに対する人々の期待の強さは、このTR-63の1号機と称するものが、50台も世に出たことで分かる。1号機というのは文字どおり1台だが、何としても1号機を手に入れたいという、熱心な東通工ファンの願いをかなえるために、1号機と称されるものが50台も作られるという結果になってしまったのだ。
TR-63で忘れてはならないことが、もうひとつある。それは、この機種がトランジスタラジオの、本格的輸出1号機の任を担っていたことである。輸出価格は、39.95ドル。これは大成功で、この年の暮れには輸出が間に合わなくなり、日航機をチャーターしてアメリカに大量空輸するほどであった。このように、東通工製のトランジスタラジオを順調に輸出できるようになったのは、この年の8月に盛田が渡米して、米国で1、2位に数えられる電気機器販売会社のアグロッド社とソニーラジオ、ベビーコーダー、補聴器などの東通工製品の長期取扱契約を結んだことが大きく貢献している。
“ポケッタブルラジオ”TR-63
さて、東京通信工業(ソニーの前身、以下東通工)のトランジスタラジオも、いろいろなモデルが出てきた。たとえば1956年の暮れにできたTR-81は、 NHKから辺地(へんち)の学校用ラジオとしての指定を受け、全国200ヵ所分の注文をもらった。このラジオは、一般の販売店では売られなかったが、民生用として画期的な商品の企画が、その前の月にたてられていた。その商品こそ、当時世界で一番小さいトランジスタラジオとなった“ポケッタブルラジオ” 「TR-63」である。発売予定は、翌年の3月と決まった。
TR- 63型は、これまで世界最小のトランジスタラジオと言われ、東通工が世界初という栄誉を譲ってしまった米リージェンシー社のTR-1型ラジオ(4石で、 127×76×33mm)に対し、112×71×32mmと小さく、6石のため感度、出力とも優れており、消費電力も半分以下ということで、発売早々から評判になった。 価格は、1万3800円で、これはちょうど、その当時のサラリーマンの1ヵ月の平均給与に相当する額であった。
TR-63が世に出た当時、小さくて、ポケットに入るようなラジオは、アメリカではポケットラジオという名称で呼ばれていた。「ポケッタブル(ラジオ)」というと、今では耳慣れた言葉だが、実はこの言葉をキャッチフレーズに使ったのはソニーが初めてだった。ポータブルより一段と小さくなったことを強調するために「ポケッタブルラジオ」というキャッチフレーズを考え出したのである。ところがこのTR-63、当時の既製のワイシャツのポケットに入れようとしても入らない。残念なことに、若干ラジオのほうが大きかったのだ。これでは、せっかくのキャッチフレーズが泣いてしまう。それならと、専務の盛田がちょっとした細工を考え出した。ワイシャツのポケットを少しばかり大きくすれば、何の問題もない。そこで、普通のワイシャツのポケットより、やや大きめのポケットを付けた特製のワイシャツを用意して、セールスマンに着用させ、売り歩かせることにしたのだ。
初めてのポケッタブルラジオに対する人々の期待の強さは、このTR-63の1号機と称するものが、50台も世に出たことで分かる。1号機というのは文字どおり1台だが、何としても1号機を手に入れたいという、熱心な東通工ファンの願いをかなえるために、1号機と称されるものが50台も作られるという結果になってしまったのだ。
TR-63で忘れてはならないことが、もうひとつある。それは、この機種がトランジスタラジオの、本格的輸出1号機の任を担っていたことである。輸出価格は、39.95ドル。これは大成功で、この年の暮れには輸出が間に合わなくなり、日航機をチャーターしてアメリカに大量空輸するほどであった。このように、東通工製のトランジスタラジオを順調に輸出できるようになったのは、この年の8月に盛田が渡米して、米国で1、2位に数えられる電気機器販売会社のアグロッド社とソニーラジオ、ベビーコーダー、補聴器などの東通工製品の長期取扱契約を結んだことが大きく貢献している。
当時世界で一番小さいトランジスタラジオとなった“ポケッタブルラジオ” 「TR-63」
第2話 数寄屋橋のネオン
点滅されるネオンは縦に100段の超大型。
下段には新製品ニュース、天気予報など
が流され、銀座を行く人たちの目を引いた アグロッド社とは、むろん『SONY』の商標を使うことを前提に契約をした。これは、以前から盛田が固守したことであり、また、たいへん意義の深いことだったのだ。日本のほとんどのラジオメーカーは、その製品を輸出する際、アメリカのメーカー名を付けて売っているというのが実情であった。それは、当時日本製品の中で一流品としてアメリカでそのまま通用しているのは、カメラのNikonとCanonだけという状態で、それ以外の日本製品は、安かろう悪かろうの代名詞のように言われていたからだ。そんなアメリカの風潮を逆手に取って、堂々と自社のブランド名で勝負を賭けたのは、何としても『SONY』の愛称で、世界的な商品としての評価を得たい、得ることができるに違いないという、東通工の自信の表れにほかならなかった。
ブランド名といえば、この年(1957年)の暮れに、もうひとつめでたいニュースがあった。東京は銀座の数寄屋橋にソニーの広告ネオンを出したことだ。
1955年に、東通工製品に『SONY』のブランド名を付けるようになってから、次第にソニーの名も世の中に浸透していってはいたが、社長の井深たちは「もっと、名を知らしめたい。広告したい」という気持ちを常に持っていた。そこで「ネオンを作ろうじゃないか」という話が出てきた。どうせ作るなら目立つ所がいい。あちこちに声をかけて探しているうちに、数寄屋橋の角地(現在のソニービルの建っている所)が借りられるという耳寄りな情報が入った。ビルは古かったが、何よりも場所がいい。連続ラジオドラマ『君の名は』(1952年にNHKが放送)で一躍有名になった数寄屋橋も、まだこの頃には残っていた。それだけに、当時日本人が一番よく知っている場所である。
場所が決まれば、次はどんなネオンにするかだ。まず、盛田が8ミリフィルムで撮影してきたニューヨークのブロードウエイにあるネオンサインを、いろいろと見て検討した。実際に煙を出して煙草をふかす有名なキャメル(タバコのメーカー)の広告や、何10万個というサイン球をつけた豪華なペプシコーラのネオン等々、どれも目を見張るものばかりである。これらに負けないものをと、日本でも一流といわれるネオンの製作会社4社にデザインを依頼した。持ち込まれたデザイン画19枚を4日がかりで審査し、決定したのが10月の20日。
これでホッとしたのも束の間、12月10日までには完成させよとの厳命だ。ところが、予定地となった数寄屋橋のビルは、戦争で傷んでおり、大規模な補強が必要である。その上、これまでこのビルの壁面を使っていた会社のネオンが付いたままで、なかなかどけてくれない。それやこれやで、話がずるずると延び延びになって、結局工期は20日しか取れないという事態になり、全くの突貫工事になってしまった。
点灯式は12月19日。この日は特に寒い日で、全員が毛布にくるまってネオンに明かりが灯されるのを待っていた。そして、午後5時1分、井深がスイッチを入れて、夜空に明るくSONYのネオンが輝いた。大きさは、9.75×10.9m。総重量2250kg、SONYの各1文字が262.5kgもあるという大規模なものだ。費用は、鉄骨の補強代と借り賃で、約2千万円かかったが、それだけのお金をかけた効果がすぐに表れた。
この年の大晦日、NHKのテレビ電波に乗って、SONYの大ネオンが日本中に映し出されるという幸運に恵まれたのだ。これは、たいへんな宣伝である。「紅白歌合戦」が終わり、その後の「行く年、来る年」という番組の中で、東京の夜景としてこのネオンがパーッと出てきた。これを見ていた井深は、「これで、元が取れた」と大喜びであった。
点滅されるネオンは縦に100段の超大型。下段には新製品ニュース、天気予報など
が流され、銀座を行く人たちの目を引いた
アグロッド社とは、むろん『SONY』の商標を使うことを前提に契約をした。これは、以前から盛田が固守したことであり、また、たいへん意義の深いことだったのだ。日本のほとんどのラジオメーカーは、その製品を輸出する際、アメリカのメーカー名を付けて売っているというのが実情であった。それは、当時日本製品の中で一流品としてアメリカでそのまま通用しているのは、カメラのNikonとCanonだけという状態で、それ以外の日本製品は、安かろう悪かろうの代名詞のように言われていたからだ。そんなアメリカの風潮を逆手に取って、堂々と自社のブランド名で勝負を賭けたのは、何としても『SONY』の愛称で、世界的な商品としての評価を得たい、得ることができるに違いないという、東通工の自信の表れにほかならなかった。
ブランド名といえば、この年(1957年)の暮れに、もうひとつめでたいニュースがあった。東京は銀座の数寄屋橋にソニーの広告ネオンを出したことだ。
1955年に、東通工製品に『SONY』のブランド名を付けるようになってから、次第にソニーの名も世の中に浸透していってはいたが、社長の井深たちは「もっと、名を知らしめたい。広告したい」という気持ちを常に持っていた。そこで「ネオンを作ろうじゃないか」という話が出てきた。どうせ作るなら目立つ所がいい。あちこちに声をかけて探しているうちに、数寄屋橋の角地(現在のソニービルの建っている所)が借りられるという耳寄りな情報が入った。ビルは古かったが、何よりも場所がいい。連続ラジオドラマ『君の名は』(1952年にNHKが放送)で一躍有名になった数寄屋橋も、まだこの頃には残っていた。それだけに、当時日本人が一番よく知っている場所である。
場所が決まれば、次はどんなネオンにするかだ。まず、盛田が8ミリフィルムで撮影してきたニューヨークのブロードウエイにあるネオンサインを、いろいろと見て検討した。実際に煙を出して煙草をふかす有名なキャメル(タバコのメーカー)の広告や、何10万個というサイン球をつけた豪華なペプシコーラのネオン等々、どれも目を見張るものばかりである。これらに負けないものをと、日本でも一流といわれるネオンの製作会社4社にデザインを依頼した。持ち込まれたデザイン画19枚を4日がかりで審査し、決定したのが10月の20日。
これでホッとしたのも束の間、12月10日までには完成させよとの厳命だ。ところが、予定地となった数寄屋橋のビルは、戦争で傷んでおり、大規模な補強が必要である。その上、これまでこのビルの壁面を使っていた会社のネオンが付いたままで、なかなかどけてくれない。それやこれやで、話がずるずると延び延びになって、結局工期は20日しか取れないという事態になり、全くの突貫工事になってしまった。
点灯式は12月19日。この日は特に寒い日で、全員が毛布にくるまってネオンに明かりが灯されるのを待っていた。そして、午後5時1分、井深がスイッチを入れて、夜空に明るくSONYのネオンが輝いた。大きさは、9.75×10.9m。総重量2250kg、SONYの各1文字が262.5kgもあるという大規模なものだ。費用は、鉄骨の補強代と借り賃で、約2千万円かかったが、それだけのお金をかけた効果がすぐに表れた。
この年の大晦日、NHKのテレビ電波に乗って、SONYの大ネオンが日本中に映し出されるという幸運に恵まれたのだ。これは、たいへんな宣伝である。「紅白歌合戦」が終わり、その後の「行く年、来る年」という番組の中で、東京の夜景としてこのネオンがパーッと出てきた。これを見ていた井深は、「これで、元が取れた」と大喜びであった。
第3話 悲報
TR-6の製造ライン トランジスタラジオの輸出が好調であったり、銀座にSONYのネオンがついたりと、東通工にとっては良いことずくめの1957年であったが、悲しいニュースもあった。
東通工の米ニューヨーク事務所代表者の山田志道(やまだ しどう)を狭心症で亡くしたのだ。山田は東通工発展の基盤をつくってくれた恩人である。井深たちは、そのあまりに早い訃報にがく然としてしまっていた。戦前から35年間もアメリカに住み、ウォール街を第二の故郷のように思っていた山田であったが、それ以上に東通工のことを愛し、積極的な協力を続けてくれていた。そんな山田に対し、恩返しのひとつもしていない。井深や盛田は胸の内で大きな後悔を感じていた。
そうはいっても、井深や盛田にその意思がなかったわけではない。米ウエスタン・エレクトリック社とトランジスタの特許契約が締結された後、山田の功績に報いたいと、夫人ともども日本へ招待することを計画し、「東京の帝国ホテルに宿を用意しました。ぜひとも日本に来て、わが社を見てください」と言って山田夫妻の来訪を待っていたのだ。しかし、この時は山田から丁重な断りがあって実現しなかった。
山田も山田の妻も、永く日本には帰っていない。井深たちからの申し出は、涙が出るほど嬉しかったに違いない。ところが、山田は東通工の内情をよく知っている。「こんな小さい会社にお金を使わせてはいけない。もっともっと尽くしてから呼んでいただこう」。そう、2人で話し合って、断ることにしたのだった
TR-6の製造ライントランジスタラジオの輸出が好調であったり、銀座にSONYのネオンがついたりと、東通工にとっては良いことずくめの1957年であったが、悲しいニュースもあった。
東通工の米ニューヨーク事務所代表者の山田志道(やまだ しどう)を狭心症で亡くしたのだ。山田は東通工発展の基盤をつくってくれた恩人である。井深たちは、そのあまりに早い訃報にがく然としてしまっていた。戦前から35年間もアメリカに住み、ウォール街を第二の故郷のように思っていた山田であったが、それ以上に東通工のことを愛し、積極的な協力を続けてくれていた。そんな山田に対し、恩返しのひとつもしていない。井深や盛田は胸の内で大きな後悔を感じていた。
そうはいっても、井深や盛田にその意思がなかったわけではない。米ウエスタン・エレクトリック社とトランジスタの特許契約が締結された後、山田の功績に報いたいと、夫人ともども日本へ招待することを計画し、「東京の帝国ホテルに宿を用意しました。ぜひとも日本に来て、わが社を見てください」と言って山田夫妻の来訪を待っていたのだ。しかし、この時は山田から丁重な断りがあって実現しなかった。
山田も山田の妻も、永く日本には帰っていない。井深たちからの申し出は、涙が出るほど嬉しかったに違いない。ところが、山田は東通工の内情をよく知っている。「こんな小さい会社にお金を使わせてはいけない。もっともっと尽くしてから呼んでいただこう」。そう、2人で話し合って、断ることにしたのだった
その言葉のとおりに、山田はその後も東通工製品のアメリカでの市場開拓のために努力を重ねてくれた。米国大手のアグロッド社と販売契約を結べたのも、山田の努力のお陰であった。この契約のために渡米していた盛田に、山田は「今年こそ、ビルのできあがった東通工を見に行きますよ」、そう言って笑っていたのはほんの 2ヵ月前のことだ。
「あの時、日本に呼んでいれば……」。急逝した山田の遺族への弔問と、代表者を亡くしたニューヨーク事務所の今後の打ち合わせのため10月末に渡米した盛田は、飛行機の中で何度となく、このことを思っていた。
ニューヨークに着いて諸事を済ませた盛田は、ぶらりと街に出た。するとどうだ。東通工のトランジスタラジオが、堂々とSONYの名前を付け、それこそ一流といわれる販売店の店頭に置かれているではないか。ついこの間、売り出されたばかりというのに、この人気だ。ニューヨークの銀座ともいうべきマジソン街の「リバティ」にも置いてある。「リバティ」は、第一級のラジオ・レコード店で最高級の品しか置かない格調高い店として有名だ。むろん、これまで日本製品を扱ったことなどない。その店先で、道行く人が立ち止まっては、じっと東通工のトランジスタラジオに注目していく。あるいは「クリスマスには……」と話し合っている。こんな街の様子を見るにつけ、盛田は何とも言えない喜びを感じていた。同時にこの盛況を山田に見せてやることができないのが残念でならなかった。「TR-63が輸入されてきた時、『こんなものができる東通工は、やっぱりすごい会社だ。自分の目に狂いはなかった』と大喜びしていた」と、山田未亡人から聞かされた後だけに、一層無念さが込み上げてくるのだった。
山田と出会わなかったら、トランジスタラジオはできなかったかもしれない。それを思うと、盛田は感慨無量であった
第4話 ソニー株式会社として
悲喜こもごもの1957年が終わって、新しい年を迎えた東通工では、新年早々、社名を「ソニー株式会社」と変え、新たな出発を図った。
商標と社名を一致させるかどうかは、長い間の懸案であった。1955年に、東通工製品に「SONY」のブランド名を付けてからこの日まで、すでに3年の月日が経っている。それだけ社名変更に際し、苦慮したとも言える。「創業以来10年間もかかって、業界に立派に知られるまでになった『東京通信工業』という社名を、今さらそんなわけの分からない名前に変えるとは、何事だ」と、主力銀行である三井銀行から、さっそく叱られた。社内でさえも、今回の社名変更に納得しかね、こうした意見を持っている社員が大勢いた。
1955年頃に使用していた商標
悲喜こもごもの1957年が終わって、新しい年を迎えた東通工では、新年早々、社名を「ソニー株式会社」と変え、新たな出発を図った。
商標と社名を一致させるかどうかは、長い間の懸案であった。1955年に、東通工製品に「SONY」のブランド名を付けてからこの日まで、すでに3年の月日が経っている。それだけ社名変更に際し、苦慮したとも言える。「創業以来10年間もかかって、業界に立派に知られるまでになった『東京通信工業』という社名を、今さらそんなわけの分からない名前に変えるとは、何事だ」と、主力銀行である三井銀行から、さっそく叱られた。社内でさえも、今回の社名変更に納得しかね、こうした意見を持っている社員が大勢いた。
1955年頃に使用していた商標 この点は、井深や盛田が一番苦慮したところでもあった。「東京通信工業」では海外では通用しにくい。これまでも、東通工を英語読みにして『TOKYO TELE-TECH』あるいは『TOKYO TELE-COMMUNICATION』と訳されて、発音も意味も分からないというので、いろいろ不便を感じることもあった。しかし、日本では立派に通用する名前である。しかも今やテープレコーダーの生産額においては、日本の総生産額の91%を誇っている新進気鋭の会社として、名を広めている。「SONY」という商標名が誕生してからも、常に「SONYの東通工」と言われており、ここまで営々として築いてきた名前には、それなりの誇りと郷愁を誰しもが感じている。「われわれが世界に伸びるためだ」。社の内外から「社名変更の狙いは」と聞かれて、盛田が一番先に口に出す言葉である。「そのために、わざわざソニー株式会社にしたのだ」というのが、盛田の言いたいことの核心だ。「ソニー電子工業とか、何とか電気というものを付けてみたらどうだろう」という意見もあった。しかし「断固、ソニー株式会社でいくべきだ」と盛田は、これら社名に電気に関する言葉を入れるのには猛反対であった。会長の万代順四郎(ばんだい じゅんしろう)も、社長の井深も、盛田の主張に「それで良い。それでいこう」と言ってくれた。
今日では会社名よりも商標の「SONY」のほうが人に知られるようになっているのが現状だ。「当初は、多少の混乱もあるだろう。しかし、変える前と変えた当座が問題になるのであって、しばらくすれば、そんなに問題になることもなかろう」。盛田はなりゆきを見守っていた。
東通工は、自ら10年間必死になって、しかも立派に得意先に売り込んだ社名を将来のためにかなぐり捨てた。それは、単に知名度を上げるためのみならず、盛田たちにとっては、それだけの仕事をしてみせるぞという並々ならぬ覚悟を秘めた悲願のようなものでもあったのだ。そんな盛田の思惑どおりに、「SONY」の評判は、世界中で日増しに高まっていた。
第5話 うまく盗まれる秘訣?
ラジオのデザインを決める ところで、何といってもソニーのトランジスタラジオの名を高めたのが、ニューヨークで起きた盗難事件である。
米国オーディオ業界の大立物であったアグロッド社を、ソニーラジオの米国総代理店に据えて、販売網を確立したのが1957年9月。それ以後、アグロッド社は、ニューヨーク近郊のロングアイランド市に本社を置くデルモニコ・インターナショナル社の販売網を活用して、米国全土にラジオを送り込み、ソニーの名は最高級トランジスタラジオの代名詞のごとく言われ、親しまれるようになっていた。
翌年の1958年1月13日、ソニーのニューヨーク事務所開設の準備のためニューヨークに滞在していた担当者が、家に帰りラジオのスイッチを入れると、ソニーのラジオがデルモニコ社から4千個盗まれたというニュースが流れてきた。半信半疑ながら、すぐに山田志道未亡人に電話をかけて、「今ラジオで、こんなニュースが入ったが……」と言うと、山田未亡人も「確かに聞いた」と言う
その翌日の『ニューヨークタイムズ』を見ると『日本のトランジスタラジオが4千個、デルモニコの倉庫から盗まれた』と大きな見出しで報道されている。その記事によれば、デルモニコの事務所や倉庫のある場所は、ショッピングヤードといわれる繁華街で、結構人通りの多い場所にある。その人の多い街で最も人の出盛る夕方の6時に、2階の窓を破って中へ押し入り、下のドアを開けて、堂々とトラックを横付けして4、5人の人数で盗んだということだ。しかも、その倉庫にはソニーのラジオだけでなく、ほかの会社のラジオもたくさん置いてあったのに、それには目もくれず、1梱包10個入りのソニーTR-63型400梱包だけを盗んだのである。被害総額は10万ドルであった。
スピーカー付きで当時世界最小
AMポケッタブルラジオTR-610 とにかく、このニュースのお陰で、ソニーは一躍有名になった。これは、アメリカの業界はじまって以来の大泥棒だといって、その大胆な手口といい、ソニー製だけを持って行く利口さといい、新年早々からニューヨークっ子の格好の話題をさらってしまったのだ。それからしばらくの間、どこに行ってもこの話でもちきりである。「ソニーは濡れ手に粟で1銭も宣伝費をかけずに、宣伝100%の効果を挙げた」とか、「お前の所は、どうしてそんなにうまい具合に盗まれたのか、秘訣を教えろ」と、いろいろな人からからかい半分の問い合わせが相次ぎ、ニューヨーク事務所開設準備の担当者を困らせた。
泥棒に入られて喜ぶというのも、おかしな話ではあるが、この時のソニーはまさにそんな状態だ。反面、4千個の追加オーダーをこなすのに工場では非常に苦労をしたし、盗まれたラジオの製造番号を知らせたりと、東京サイドも、この盗難のため大騷ぎであった。
こうして、すっかり話題をさらったTR-63型であるが、この年の6月には、TR-63よりも一回り小型軽量になったTR-610型が発売され、輸出の決定版となった。TR-610型は、国内よりも欧米への輸出のほうが先で、斬新なデザインと性能の優秀さで大評判となり、1960年までの2年間で、日本を含む全世界に50万台が売られていったほどである。また海外の一流デパートや高級専門店では競ってTR-610を展示し、一時はプレミアム付きで取り引きされたり、アメリカから逆輸入して模造品を作るメーカーまで現れるという人気機種となり、ソニーの名を決定的に諸外国に知らしめる役割を果たしたのである
ラジオのデザインを決めるところで、何といってもソニーのトランジスタラジオの名を高めたのが、ニューヨークで起きた盗難事件である。
米国オーディオ業界の大立物であったアグロッド社を、ソニーラジオの米国総代理店に据えて、販売網を確立したのが1957年9月。それ以後、アグロッド社は、ニューヨーク近郊のロングアイランド市に本社を置くデルモニコ・インターナショナル社の販売網を活用して、米国全土にラジオを送り込み、ソニーの名は最高級トランジスタラジオの代名詞のごとく言われ、親しまれるようになっていた。
翌年の1958年1月13日、ソニーのニューヨーク事務所開設の準備のためニューヨークに滞在していた担当者が、家に帰りラジオのスイッチを入れると、ソニーのラジオがデルモニコ社から4千個盗まれたというニュースが流れてきた。半信半疑ながら、すぐに山田志道未亡人に電話をかけて、「今ラジオで、こんなニュースが入ったが……」と言うと、山田未亡人も「確かに聞いた」と言う
その翌日の『ニューヨークタイムズ』を見ると『日本のトランジスタラジオが4千個、デルモニコの倉庫から盗まれた』と大きな見出しで報道されている。その記事によれば、デルモニコの事務所や倉庫のある場所は、ショッピングヤードといわれる繁華街で、結構人通りの多い場所にある。その人の多い街で最も人の出盛る夕方の6時に、2階の窓を破って中へ押し入り、下のドアを開けて、堂々とトラックを横付けして4、5人の人数で盗んだということだ。しかも、その倉庫にはソニーのラジオだけでなく、ほかの会社のラジオもたくさん置いてあったのに、それには目もくれず、1梱包10個入りのソニーTR-63型400梱包だけを盗んだのである。被害総額は10万ドルであった。
スピーカー付きで当時世界最小AMポケッタブルラジオTR-610
とにかく、このニュースのお陰で、ソニーは一躍有名になった。これは、アメリカの業界はじまって以来の大泥棒だといって、その大胆な手口といい、ソニー製だけを持って行く利口さといい、新年早々からニューヨークっ子の格好の話題をさらってしまったのだ。それからしばらくの間、どこに行ってもこの話でもちきりである。「ソニーは濡れ手に粟で1銭も宣伝費をかけずに、宣伝100%の効果を挙げた」とか、「お前の所は、どうしてそんなにうまい具合に盗まれたのか、秘訣を教えろ」と、いろいろな人からからかい半分の問い合わせが相次ぎ、ニューヨーク事務所開設準備の担当者を困らせた。
泥棒に入られて喜ぶというのも、おかしな話ではあるが、この時のソニーはまさにそんな状態だ。反面、4千個の追加オーダーをこなすのに工場では非常に苦労をしたし、盗まれたラジオの製造番号を知らせたりと、東京サイドも、この盗難のため大騷ぎであった。
こうして、すっかり話題をさらったTR-63型であるが、この年の6月には、TR-63よりも一回り小型軽量になったTR-610型が発売され、輸出の決定版となった。TR-610型は、国内よりも欧米への輸出のほうが先で、斬新なデザインと性能の優秀さで大評判となり、1960年までの2年間で、日本を含む全世界に50万台が売られていったほどである。また海外の一流デパートや高級専門店では競ってTR-610を展示し、一時はプレミアム付きで取り引きされたり、アメリカから逆輸入して模造品を作るメーカーまで現れるという人気機種となり、ソニーの名を決定的に諸外国に知らしめる役割を果たしたのである












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