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デスプレイの違いなど細部に観察されてますね
コンピュータ部分をUYK-128といいまして
これにGPSのPLGRに制御無線機にEPLRSや
PRC-119Aを接続します



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FECB2です



MIT Science Reporter—"Computer for Apollo" (1965)









今日は何の日 11月26日 北伊豆地震 三島市で震度6の烈震 マグニチュード7.3

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北伊豆地震(きたいずじしん)は、1930年昭和5年)11月26日早朝に発生した、直下型の地震。地元では伊豆大震災(いずだいしんさい)とも呼ばれる。震源地は静岡県伊豆半島北部・函南町丹那盆地付近。地震の規模はMj7.3 (Mw6.9)。北伊豆地震地震断層系の丹那断層などの活動により生じた。

震源に近い静岡県三島市で震度6の烈震を観測したほか、有感地域は広く、北は福島県・新潟県、西は大分県まで揺れを感じた。地震発生が早朝だったため、火災は少なかったが、死者・行方不明者272名など大きな被害を出した。

        本震

発生日1930年昭和5年)11月26日
発生時刻4時2分46.9秒 (JST)
震央日本の旗 日本 静岡県伊豆地方
北緯35度2.3分
東経138度58.6分(地図
震源の深さ1 km
規模   マグニチュード (M)7.3
最大震度   震度6:静岡県 三島市
津波なし
地震の種類大陸プレート内地震
左横ずれ及び右横ずれ断層

        余震

回数前震を含め2595回。最大でM5程度の余震が数年間続く。
最大余震

(直後)1930年 11月26日 13時52分8.1秒 (JST)、M4.6、震度3

(最大規模)1934年3月21日 12時39分51.6秒 (JST)、M5.5、震度3


        被害

死傷者数死者・行方不明者272名、負傷者572名
被害総額不明
被害地域静岡県伊豆地方、神奈川県西部など
出典:特に注記がない場合は気象庁による。


震源付近は震度6 - 7相当
 東京都心など関東各地も震度4 - 5を観測した。

震度4以上が観測された気象庁の発表地点

震度都道府県観測点名
6静岡県三島市東本町(旧)
5静岡県沼津測候所
神奈川県横浜中区山手町・横須賀観測所
4栃木県足尾測候所
群馬県前橋市昭和町(旧)
埼玉県熊谷市桜町
東京都東京千代田区大手町
山梨県甲府市飯田
愛知県名古屋千種区日和町
  • 気象庁の震度データベース検索を元に作成[1]


被害

伊豆半島のちょうど付け根にあたる静岡県東部から神奈川県にかけての限られた地域に集中した。伊豆半島北部の山間部では、山崩れや崖崩れが多発。中狩野村(現・伊豆市)の佐野と梶山の集落では奥野山地図が大規模な崩壊を起こし、農家3戸を埋没、15名が死亡。崩壊土砂は40万立方メートルと推定され、一時的に狩野川を堰き止め、600メートル (m) ほど上流にある宮田橋付近までおよぶ堰止湖ができた[2][3]中大見村城(現・伊豆市城)では山上の畑1ヘクタールほどが陥没した[4]修善寺町(現・伊豆市修善寺)では貯水場の築堤が決壊、神戸川に約20,000トンの濁流が流れだし10軒が流失、水死者22名を出した[5]

人的被害が目立ったのは狩野川に沿った地域で倒壊家屋が多く、人口7400人あまりの韮山村(現・伊豆の国市)では家屋の全壊率が40パーセント (%) に達し、気象庁の統計によると全壊463戸、半壊420戸、死者76名、負傷者152名を記録した。

総被害は死者・行方不明者272名、負傷者572名、全壊2165戸、半壊5516戸、焼失75戸であった。死亡者の多くは圧死とされている


前兆

非常に顕著だったのは前震であった。ふたつの活動期を持った伊東群発地震の第1期は、1930年(昭和5年)2月13日から4月10日頃まで東伊豆・伊東沖で群発し、一時的に沈静化したが5月8日から再び活発化し伊東を中心とした地域で1368回もの有感地震が起き8月には群発地震は終息した。第2期は11月7日から始まり三島で無感地震を2回観測したのをかわきりに新たな群発地震が伊豆半島の西側(網代の西方10 km付近)で発生した、前震は数を増し、本震前日の25日までに2,200回を超える地震を記録した。そして25日16時5分にM5.1(最大震度4)の前震があり、26日未明に本震が発生した。

前兆は前震だけではなく、各地で発光現象や地鳴りといった宏観異常現象があったとの記録が残されている。本震前日の25日午後5時ごろから本震発生後の26日午前5時ごろまでに、静岡県南部を中心に現れたのは発光現象で、調査によれば光の形はオーロラ状、色は青という報告が多かったという。また遠く離れた北関東や近畿地方では、地鳴りのような音が聞こえたという証言もあった


断層

この地震の後、修善寺の東側の山間部から北側へ延びる多くの断層が見つかった。主なものは丹那断層浮橋中央断層浮橋西方断層箱根町断層(以上、左横ずれ断層)、修善寺断層田原野断層姫之湯断層加殿断層大野断層(以上、右横ずれ断層)である。中でも最も大きい丹那断層は長さ約35キロメートル (km)。上下に2.4メートル (m) ずれ、北へ2.7 m移動した。丹那断層は国の天然記念物に指定され(1935年〈昭和10年〉6月7日)、現在も2か所で保存されており、観察することができる。

この断層運動が注目されたのは、東海道本線(現・御殿場線)の新線(現・東海道本線)用に建設中の丹那トンネルを直撃したからである。丹那トンネル函南口では、トンネル先端がまさに丹那断層付近に到達したところで、大量の出水に工事は困難を極めていた。大量の出水に対処するため、本坑とは別に排水用の坑道が掘られていたが、これが丹那断層によって切断された。西側から掘られた坑道の先端部が北へ2.1 m移動したのである。これにより崩壊事故が発生し、工事関係者3名が死亡した。トンネルは当初直線で設計されていたが、この地殻変動で直線ではつながらないことになり、トンネルの中央部でS字にカーブするように設計し直された


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断層が通る丹那盆地
断層は写真の右奥から左下へ伸びる


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北伊豆地震によってずれた円弧状の石組み


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時事新報 1930.11.28 (昭和5)


丹那トンネル上層四里余に亘る大亀裂

二千五百町歩の農作物全滅


丹那を通り同村から黒岳山麓畑村に通ずる丹那川の長さ四間、幅二間の大川橋は三間位左右に辷り橋の両端の道路は十数間も掘りかえしたように土が盛りあがり沿岸一里に亘る地辷りが川幅をせばめ中川橋を始め二十数ヶ所の同川橋梁は墜落し丹那地内の東電々柱は傾斜或は倒壊し電線は切断して垂下っていた、畑村に入れば丹那トンネルの真上に当る根上向、石原田の一部の如きは二三段歩位の陥没箇所数十ヶ所に上りトンネル上層の被害甚大を極め西方滝沢、茗荷、長者原、浮橋、丹那、軽井沢、田代の各部落に亘る亀裂が四里余の広範囲の大断層で黒岳の丹那に面した高所は約十町歩、峰続きの鯉ノ淵窪は約五町歩松の下二町歩、地獄沢、棚沢、大久保、三島山一体は約一町歩位の土地辷りの跡が点々と黒い地膚を現わし激震の跡を物語っている裏山の多賀方面状況は不明だが被害甚大の見込みで黒岳多賀山一体は今回の震源地と推定される断層被害により麦、蕪、油菜、大根など丹那、畑両村のみで二千五百町歩の農作物は殆ど全滅の状態である、尚お踏査した




狩野川の堤防崩壊 十五名溺死を遂ぐ 温泉客は右往左往


全滅した長岡と古奈両温泉は殆ど満足に立って居る家はなく多数の温泉客は右往左往し宛らこの世の生地獄を現出して居る何しろ家は倒れ地は割れ到る所から熱湯が噴出し物凄い光景を呈し死者や負傷者を取巻いて女子供は声を嗄らして泣き喚いて居る温泉の噴出というものは実に物凄いもので大音響を立てて一分間八斗も流出し町には湯の川が流れて居る最も悲惨なのは狩野川の堤防が崩壊し中狩野村三十余戸が押流され十五名溺死したが、村内はまるで沼のようになり避難民は岡に上って慄え上っている、中央気象台三島支台の発表によると震源地は修善寺東南三千メートルの下田街道側に面した箱根山続きの名称不明の地点で山が割れて大きな口を開いている、この山は地震の大きなのが引続いてあり震源地であろうと云われて居る、午前四時という夜中とて温泉場にいた避寒客は何れも寝巻一枚の着のみ着のままで飛出して丸焼になったものもあり東京へ帰ろうにも交通機関杜絶でウロウロしているのは見るも気の毒である、奥伊豆天城山頂から湯ヶ島に通ずる道路約三里の間数十ヶ所に大亀裂を生じ天城山から猿橋与市坂までの間二十数間が崩壊し名物の炭焼小屋は皆倒れてしまった、空には飛行機、地上には三島連隊の砲兵が警戒し、赤十字その他の救護班等まるで戦場のようであるが田舎だけにまだ食糧は困っていない、伊東韮山等火事を起した所には衣類がなくて困っている、韮山は死者六十名という多数で関東大震災そのままである家の潰れたのは三島が最も多く全壊百六十戸、半壊二千戸というのだからどの家もどの家も皆ゆがんでいる
 (大阪経由静岡電話)


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丹那断層


丹那断層(たんな だんそう)は、日本の東海地方静岡県伊豆半島北東部にある断層箱根山南麓から函南町丹那盆地を通り、南の伊豆市内旧修善寺町域へ伸びる30kmほどの北伊豆断層帯を代表するものである。1980年代前半の発掘調査により、過去6000年から7000年の間に小さな活動も含めて9回の断層活動のあったことが確認されており[1]、およそ700年から1000年の周期で巨大地震を起こすと考えられている。

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伊豆半島北部の地形図/右の南北に走る谷が丹那断層および北伊豆断層帯の断層群である。

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丹那盆地/画像の右奥から左下へ断層が走る。


北伊豆地震

1930年(昭和5年)11月26日、丹那断層は北伊豆地震を引き起こした。この時、断層は横ずれを起こしている。

北伊豆地震発生の際の横ずれ断層の様子が明瞭に現れた2つの区域(畑字上乙越の断層遺跡、および、火雷神社の断層遺跡)と、“天然の地震計”と化した1つの物品(地震動の擦痕)は、地質学的等における保存価値の高さが認められ、丹那断層公園として整備された。



火雷神社の断層遺跡[編集]

丹那盆地の北に位置する田代盆地の中に所在する火雷神社からいじんじゃ(所在地:静岡県田方郡函南町田代57)では、石造りの鳥居とその先の石段がちょうど断層の境目に位置していたため、断層が横ずれしたことで鳥居と石段の乗った地面が計ったように横に1.4メートルほどスライドし、(柱のみを残した)鳥居の向かって左側のおよそ3分の1だけが石段に繋がっているという状態になってしまった。

当区域は、1981年(昭和56年)7月25日、函南町の天然記念物に指定された。

地震動の擦痕
北伊豆地震の激しい揺れは、旧江間尋常小学校校庭に展示されていた魚雷とその台石を揺さぶった。その結果、魚雷の側面には台座の粗い造りになっている角に引っかかれてできた全長725mmの傷がくっきりと残された。奇しくも天然の地震計のように貴重な記録を留める形となったこの魚雷は、人工物でありながら、天然の現象を記録したという事由で、1934年(昭和9年)1月22日付で国の天然記念物に指定された。その名義は「地震動の擦痕(じしんどうのさっこん)」である。その後、同校は江間尋常小学校跡地となり、現在は丹那断層公園の一区域として整備されている。

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地震動の擦痕/丹那断層公園の一物件として保存展示されている

地震動の擦痕


地震動の擦痕(じしんどうのさっこん)は、静岡県伊豆の国市南江間にある魚雷に付いた摩擦痕。国指定の天然記念物

1930年(昭和5年)3月10日、旧・田方郡江間村江間尋常小学校の校庭に忠魂碑が建立された際、海軍省より譲り受けた魚雷(長さ約5メートル)が忠魂碑の付属物として展示された。

同年の11月26日に発生したマグニチュード7の北伊豆地震により、魚雷を載せていた台座の突起物により魚雷腹部に曲線状の傷がついた。魚雷自体は重量が大きかったため地震による動きは乏しかったが、台座のほうは軽く不安定であったため、地震による激しい揺れによって、台座から突き出ていた突起物が地震計の針の役割をした結果、天然の地震グラフ曲線ができた[1]。傷の長さは全長725mmに及ぶ[2]

4年後の1934年(昭和9年)1月22日、この傷のついた魚雷そのものが国の天然記念物に指定された[3]。2013年(平成25年)に、神奈川県茅ヶ崎市にある旧相模川橋脚が指定される(液状化現象を対象とした指定)まで、日本に数ある国指定の天然記念物の中で、自然物でないのはこれだけであった[1]。伊豆の国市南江間の旧江間小学校跡地の一角に展示されている。
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旧江間小学校北東の角に展示されている。


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    地震動の擦痕の位置

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箱根町断層[編集]

直接繋がってはいないものの、北の延長線上には、芦ノ湖東岸を通って箱根山外輪山の北東側に到る箱根町断層がある[2]。この断層は、北伊豆地震の発生に伴って顕在化した地震断層の一つであり[2]、歴史的に見れば、江戸時代箱根関もそれとは知らぬままに箱根町断層の断層崖を利用した施設であった。




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断層谷(中央右)を北の箱根火山の外輪山から望む


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畑字上乙越の断層遺跡の一角である、
北伊豆地震によってずれた円弧状の石組み/丹那断層公園として整備されている。




天然記念物(国指定)  函南町


丹那断層

箱根芦ノ湖から伊豆市修善寺まで続く長さ約30キロメートルの丹那断層帯の代表的な断層で、周辺には近接して7つの断層が知られています。
東京大学地震研究所の発掘調査によって、過去6000年から7000年の間に小さな活動も含めて9回の断層活動があり、その中には『続日本後紀しょくにほんこうき』に記録が残る、承和じょうわ八年(西暦841年)の伊豆国大地震の震源が丹那断層であることもわかってきました。
断層は約700年から1000年の周期で定期的に活動する活断層かつだんそうで、昭和5年の活動により北伊豆地震が発生しました。指定地には、石組のゴミ捨場・水路・石垣があり、これらのほぼ真ん中を断層が通っているため、地上の目印となり水平の横ズレ(約2.6メートル)が良くわかります。
トイレを併設した休息所には丹那断層の解説や図解板、北伊豆地震の被害状況などの写真パネルなども展示しています。

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指定地周辺一帯を整備し断層公園として公開している丹那断層


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    トイレを併設した休息所





丹那トンネル


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丹那トンネル
(たんなトンネル)は、東海道本線熱海駅函南駅間にある複線規格のトンネル。総延長7,804メートル、1934年(昭和9年)開通。

完成当時は清水トンネルに次ぐ日本第2位の長さで、鉄道用複線トンネルとしては日本最長だった。現在、東日本旅客鉄道(JR東日本)と東海旅客鉄道(JR東海)との会社境界はトンネル東口付近(来宮駅電留線の上り場内信号機)で、丹那トンネル自体はすべてJR東海の資産となっている[注釈 1]

なお、本稿では東海道新幹線の熱海駅 - 三島駅間にある新丹那トンネル(しんたんなトンネル)についても記述する。


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   函南駅より丹那トンネル坑口をのぞむ、2011年


トンネル開通の効果

1934年(昭和9年)に丹那トンネルが開通するまで東海道本線は、現在の御殿場線を経由していた。この区間は急な勾配が続くため、下り列車は国府津駅、上り列車は沼津駅において全列車に登坂専用の補助機関車を連結していた。それでも登攀勾配による速度低下は避けられず、補助機関車を増解結するための停車時間とともに、御殿場線の区間は東海道本線の輸送上のボトルネックとなっていた。詳細は、御殿場線#沿線風景を参照。

丹那トンネルが開通すると、東海道本線のルートはただちに同トンネル経由に変更され、線路延長が11.81キロメートル短縮されたばかりか、上述のボトルネックが解消された。その結果、東海道本線の速達性は改善され、運行経費も大幅に削減された。なお、丹那トンネルは完成当初から直流電化されていた。長大トンネルであることから蒸気機関車の煙をトンネル外へ排出することが困難と考えられたためである。


トンネル付近の地質

この付近は活火山箱根山から続く火山地帯で、トンネル自体は活動を止めた熱海火山(多賀火山とも呼ばれる)の山体を貫いている。通常、火山の山体には緻密な溶岩流層と十分固結していないでできた層が存在する。そのため大量の水を溜めたり湧き水として湧出させたりするが、丹那トンネルの上部にある丹那盆地も地下に大量の地下水を溜めていた。またトンネルは活発な活断層である丹那断層を横切っており、トンネル掘削中の1930年にこの断層を震源とする北伊豆地震が発生した。この断層以外にもトンネルは4か所の大きな断層帯を横断しており、大湧水を伴う1か所の火山荒砂帯とともに、工事進捗の阻害要因となった
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トンネルの真上にあたる丹那盆地。盆地の左右に断層が走る。


計画

開通直後の東海道本線国府津駅より酒匂川沿いに箱根外輪山の外側を通る箱根線ルートだった。そのため25/1000の急勾配が19キロメートルを占め、補助機関車の連結や食堂車の切り離し作業などが必要であり、また豪雨による土砂崩れによる不通もしばしば発生していた。1910年代にはマレー式機関車を導入したが、期待どおりの輸送量増大には至らなかった

鉄道院では箱根線を経由しない新路線を建設し東海道線の輸送力の増強を求める意見が高まり、国府津駅から小田原駅湯河原駅熱海駅から三島駅沼津駅を結ぶルートが検討されたが、箱根から天城にかけての丹那盆地を貫通するトンネル建設が課題となった。

当時の鉄道院総裁後藤新平は新路線建設可否を管理局に命令、1909年(明治42年)に鉄道員技師の辻太郎が復命書を提出、輸送力強化のために新線建設は必要であると説き、また湯河原や熱海等の温泉地への旅行者の利用が見込め鉄道院の収入増加となり、丹那盆地のトンネルも技術の進展と共に可能であると結論付けた。この復命書に基づき山口準之助が工事費見積書を作成、尾崎錦太郎による実地調査が行われた。1911年(明治44年)、佐藤古三郎技師を隊長とする測量隊を派遣、1913年(大正2年)に熱海を経由する熱海線の建設予定地が決定された。同年6月に小田原から熱海までの熱海線建設および丹那盆地のトンネル工事を指揮するため熱海線建設事務所(後に熱海建設事務所と改称)が新橋駅内に設置され、富田保一郎技師が所長に就任した。

しかし政府内部では多額の建設費に反対する意見も強く、また後藤総裁に対し熱海に別荘を所有しているために工事推進しているという誹謗中傷が行われ、床次竹二郎が鉄道院総裁に就任すると工事中止となったが、仙石貢が総裁に就任すると再び工事計画が推進されることとなった。

1918年(大正7年)、熱海線建設が総予算2,400万円(当時)で決定された。当初は丹那山トンネルと称されたが、丹那山という山は存在しないために丹那トンネルに名称が修正された。トンネル工事費には770万円(当時)が計上され7年後の1925年(大正14年)の完成予定で着工され、鉄道院は設計、監督にあたり、工事作業は民間企業に委託されることが決定し、鹿島組鉄道工業会社がそれぞれ三島口、熱海口から掘削を開始した。


難工事

丹那トンネルの工事は、1918年(大正7年)に予算770万円(当時)で着手され7年後の1925年(大正14年)に完成する予定だったが、約16年後の1934年(昭和9年)に総工費2,600万円(当時)で完成した。この工事期間の長さと膨れ上がった工費、事故による犠牲者67名(うち熱海口31名、函南口36名)が難工事を象徴している。

着工

1918年(大正7年)3月21日熱海町の梅園付近の坑口予定地で起工式が行われた。丹那トンネルは排煙効果の高い、また脱線事故等に際しての復旧作業を考慮し複線型をオーストリア式で掘削するという当時の日本鉄道技術では画期的な工事だった。当初は国府津から熱海までの東海道本線支線の熱海線の起工式であるため小規模なものだった。

掘削では削岩機を利用し、また坑道照明用の電力が富士水電株式会社より供給される予定だった。しかし第一次世界大戦による好景気により電力価格が高騰したことで電力供給の合意に至らず、工事はカンテラ照明にツルハシを使用した原始的な手掘りで開始された。その後蒸気機関を利用した空気圧削機が採用され作業効率が飛躍的に向上した。

建設現場に電力供給が行われるようになったのは1921年(大正10年)の三島口への火力発電所建設による。照明が電灯に切り替えられたほか、牛馬に頼っていた余土輸送にも電気機関車が利用されることになった。大戦景気の反動で大不況となり電力需要が減少した富士水電からの電力販売の申し出もあり、火力発電所は停電対策用とし通常の電力は価格面で有利な富士水電からの供給を受けるようになった。

大量湧水

丹那盆地の地質構造から、トンネル掘削は大量の湧水との戦いだった。トンネルの先端が断層や荒砂層に達した際には、トンネル全体が水であふれるような大量の湧水事故も発生した。湧水対策としては、多数の水抜き坑を掘って地下水を抜いてしまう方法がとられた。水抜き坑の全長は本トンネルの2倍の15キロメートルに達し、排水量は6億立方メートル(箱根芦ノ湖の貯水量の3倍とされる)に達した。

トンネルの真上に当たる丹那盆地は、工事の進捗につれて地下水が抜け水不足となり、灌漑用水が確保できず深刻な飢饉になった[2]。丹那盆地では元来、稲作を主な産業とし、清水を利用したワサビ栽培もおこない、副業として酪農を行っていた。しかし水源不足により農作物が枯れ農地が荒れる被害が出て、鉄道省では対策として水道の敷設や貯水池の新設などを実施した。それでも十分な効果が上がらなかったため、1932年(昭和7年)になり農民らは県知事に訴え、知事の指示で耕地課農林主事であった柏木八郎左衛門が対策に乗り出して鉄道当局と交渉し、1933年(昭和8年)8月に見舞金117万5,000円が交付されることになった[3]

現在でも、完成した丹那トンネルからは大量の地下水が抜け続けており、かつて存在した豊富な湧水は丹那盆地から失われた。例えば、湿田が乾田となり、底なし田の跡が宅地となり、7か所あったワサビ沢が消失している[2]。こうした関係で、被害対策に尽力した柏木の提唱もあり、トンネル工事以前には副業に過ぎなかった酪農が、丹那盆地における主要な産業となることになった[3]


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     丹那トンネル湧水状況
   『鉄道80年のあゆみ 1872-1952』(p25)


トンネル崩壊事故

1921年(大正10年)4月1日4時20分、270メートルの熱海口工事現場で崩落事故が発生し、33名が崩落に巻き込まれた。4月8日に坑道奥で作業していた17名が救出されている。また1924年(大正13年)2月10日には三島口で崩落事故が発生し16名が巻き込まれ全員が死亡している。

この他1930年(昭和5年)11月26日に発生した北伊豆地震でも崩壊事故があり5名が遭難、3名が犠牲になった。なお、1923年には関東大震災が発生して、熱海線や東海道本線(現御殿場線)に甚大な被害を与えているが、工事中の丹那トンネルそのものにはほとんど被害がなかった。

北伊豆地震

1930年(昭和5年)に、西から掘り進んでいたトンネルが、明瞭な断層に到達した。断層を突破するため、数本の水抜き坑が掘削されていたまさにその時、その断層を震源とする地震(北伊豆地震)が発生した。ある水抜き坑では、切羽全体が横にずれて、坑道一杯にきれいな断層鏡面が現れた。地震で断層が動いた影響で、熱海側(東側)の地面が函南側(西側)に対して北へ2メートルほど移動した。このずれのため、本来直線で設置する予定だったルートが、S字型にわずかに修正されている。

温泉余土

工事関係者が「温泉余土」と名付けた、安山岩質溶岩と集塊岩が熱水で変成し粘土化した緑色の地層にも悩まされた。この地質はトンネルを掘っていく時には堅く何の問題もないのだが、掘った後で空気中の水分を吸うと軟らかくなり、きわめて激しく膨張する。膨張力はいろいろと工夫した鉄製の支保工でさえ曲がるほどだった。また、温泉余土はもともと水を通さないが、湧水と出会うと溶けてしまう。トンネルが崩壊する危険があるほか、溶けた粘土で排水ポンプが詰まるのにも困らされた。


新工法の検討

難工事の対策として様々な工法が検討された。「水抜き坑」は多用されたうえ湧水対策として有効だったため、以後「丹那方式」と呼ばれて各地のトンネル工事で採用された。軟弱地盤や湧水帯を掘削する際に使用される「セメント注入法」と、高圧空気で湧水を押さえる「圧搾空気掘削工法」が、日本では丹那トンネルの工事で初めて実用化された。圧搾空気掘削工法は、水頭の低い湧水箇所、つまり河底トンネルなどに利用されるべきであるが、トンネルに用いられた。まず坑内に空気閘を作り、0.35 - 2.5 kgf/cm²の圧力の空気を坑奥の掘削面に送り、湧水を抑圧して掘進させた。地質不良で土圧の大きいときは支保工代用としてシールドを使用し、これが掘進にしたがって鉄製セグメントで畳築しながら進行した。この圧搾空気掘削工法に従事する者はすべて厳しい身体検査ののち入坑させ、彼らの空気病の治療のため坑門付近に治療用空気閘を用意し、医員が配置された。羽越本線折渡トンネル(現在の下り線トンネル)に続き日本で2例目の「シールド工法」も試みられたが地盤がこの工法に適しておらず成功しなかった。地質を調べたり湧水を抜くためにトンネル先端で行う「水平ボーリング」も日本で初めてと推測される。


開通

1933年(昭和8年)6月17日午前7時、三島口より探り鑿が入れられ水抜坑の両坑口切端間が5.2メートルと確認されると、6月19日午前11時半に貫通式が開催されることとなった。三土忠造鉄道大臣が大臣室で最後の発破合図のボタンを押すと、坑道内にその信号が伝えられ発破が実行され丹那トンネルが貫通した。その後本線導坑工事を推進、8月25日午前11時32分に貫通、内装工事を完成させ1934年(昭和9年)3月10日に鉄道省は工事完成を発表した。その後レール敷設工事及び電化工事が行われ、12月1日に開業することが決定された。

丹那トンネルを最初に通過する列車には11月30日午後10時東京発神戸行き二・三等急行、第19列車と決定した。乗車希望者が多いために臨時に車両を増結し当時としては異例の15両編成での運行が決定され、また機関手には東京機関庫運転手指導員の殿岡豊寿、助手に中山貞雄が指名された。また日本放送協会では、通過第1号列車の丹那トンネル通過を実況中継放送すべく熱海口、三島口出口付近に受信所を設置し、放送自動車を貨物車に積載することも決定した。

第19列車は提灯で開通を祝う沿線駅を通過し、12月1日午前0時3分30秒に来宮信号所を通過、午前0時40分に熱海口に入り、9分2秒で丹那トンネルを通過し沼津駅に到着した。


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   丹那トンネル 熱海口坑門
『鉄道80年のあゆみ 1872-1952』(p25)、
1950年登場の
国鉄80系電車が写り込んでいるため1950〜1952年の撮影と思われる


教訓[編集]

丹那トンネルの難工事は、地質が分かっていない所へ遮二無二トンネルを掘ろうとした結果だった。その後のトンネル工事は事前にできるだけの調査を実施し、難工事が予想される箇所を避け、地質に合った掘削方法を準備するようになった。次の長大トンネル関門トンネルは事前調査の結果、地盤の軟弱な九州側の主要工法としてシールド工法が採用され、工事推進の原動力となった。

北伊豆地震の震源となった丹那断層は、その後の調査で活動周期が約700年と判明し、当分の間地震は無いと判定され、東海道新幹線新丹那トンネルも丹那断層を横切って建設された。

慰霊碑

丹那トンネル工事の犠牲者全67名の殉職碑が、鉄道省によって熱海側の坑門の真上に建立されている。付近にある、工事の際に労務者の信仰の篤かった山神社なども含めて、地元有志の手で丹那神社として整備されている。

工事は熱海口を鉄道工業、函南口を鹿島組が請負った。函南口の犠牲者36名に関してはもう1つの慰霊碑が鹿島組によって函南側の坑口近くに建立されている。この碑は当初は東海道本線の線路の北側にあったが、現在は南側に移転している。現在JR東海が樹木伐採等の周辺整備を行い、地元有志により定期的に清掃奉仕をされている。

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    丹那トンネル工事殉職者慰霊碑(函南側)


扁額

熱海側の坑門上部には、開通時の鉄道大臣内田信也揮毫の銅製「丹那隧道」扁額が中央にあり、左に2578、右に2594という数字も掲げられている。2つの数字は着工と開通の年の皇紀を表す。


新丹那トンネル

新丹那トンネル(しんたんなトンネル)は、丹那トンネルの約50メートル北側に並行して延びる長さが7,959メートルの東海道新幹線(三島熱海間)のトンネルである。
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新丹那トンネルのトンネル工事が開始されたのは、1941年(昭和16年)8月にさかのぼる。新丹那トンネルは、もともとは戦前の高速鉄道計画である弾丸列車計画に基づくもので、他に、日本坂トンネル東山トンネルが同時期に着工されている。しかし、1943年(昭和18年)には第二次世界大戦の戦況悪化にともない中止されてしまった。中止の時点において、熱海口(東口)は647メートル、函南口(西口)は1,433メートルの先進導坑がすでに掘削され、両坑口ともに200 - 300メートル程度の覆工を完成させていた[4]。なお、戦時中の約1年半の期間でスムーズに工事が進行したのは、掘削に数々の新手法を投入したためでもあった。新オーストリア式逆巻方式と呼ばれる導坑の掘り方や、4 - 5台のドリフター型削岩機を装備した自走・自碇する削岩車が活用され、人力に依存して掘削を行なった丹那トンネルの工事よりも安全面において有利だった[4]

戦後、東海道新幹線のために弾丸列車計画のルートが採用されたため、新丹那トンネルは今度は新幹線用のトンネルとして利用されることになった。新丹那トンネルは、1959年(昭和34年)に工事が再開され1964年(昭和39年)に完成した。丹那トンネルの難工事とは異なり、新丹那トンネルの工事は順調に進んだ。地質構造がよく分かっていたことと、既設の丹那トンネルを水抜き坑代わりに利用できたことを差し引いても、工事再開から4年4か月という工期の短さはトンネル掘削技術の進歩を物語っている。新丹那トンネルの工事は、熱海口は間組、函南口は鹿島建設(鹿島組)が請負った。なお、工事での犠牲者は熱海口10名、函南口11名だった。ただし、丹那トンネルの工事とは異なり大きな崩壊事故は1件も発生していない。

ちなみに、東海道新幹線の全体の起工式が行われたのは、新丹那トンネルの熱海側坑口前である。新丹那トンネルこそが全体の工期を律する最重要工区とみなされていたためである。

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静岡県田方郡函南町には「新幹線」という地名が存在する。これは戦後の新幹線計画からの地名でなく、戦前の弾丸列車計画時代に新丹那トンネルの工事を行うための従業員宿舎が置かれた場所である。工事終了後、従業員宿舎は撤去されたが、のちに同地に住宅団地が作られ「新幹線」という地区が生まれた。その後の同地区の住居表示実施によって「函南町上沢字新幹線」となっている。現在も同地区には新幹線公民館や「幹線上」、「幹線下」という名称のバス停が存在している。

> 幹寿会の記録によると、当初は住所はなく、郵便物は「国有鉄道官有無番地」で届いていた。しかし役場から行政区名を決めるよう求められ、48年に函南工事区長が「将来ここを通るはずだから」と「新幹線」を提案したという。寺戸さんは「『新幹線』を名乗ったのは、列車よりうちの方が先だよ」と胸を張る。
> 寺戸さんによると、かつての集落は西側に管理職が住む一軒家、東側に作業員の長屋が段々畑のように並んでいた。「国鉄関係者しかいなかったから、まるで一つの大きな家族のようだった」という。しかし新幹線が開業すると職員は次第に新しい職場へ移り、70年代には官舎は全て払い下げられ姿を消した今や当時を知る住人は少ないが、寺戸さんは「生まれ育った地で、愛着のある名前。ずっと残ってほしい」と話している。






















































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