「今日」なんの日  

飛行船の日


1916年1月22日
大正5年
陸軍飛行船「雄飛号」が所沢〜豊橋〜大阪間の飛行に成功

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国産初の飛行船の実験飛行が行われ、所沢〜豊橋〜大阪間の飛行に成功したのが1916年1月22日でした。陸軍の「雄飛号」は、所沢から大阪までの試験飛行をまず行なったそうです。益田済少佐、岩本周平技師という方が搭乗しており、途中、豊橋に着陸し、所沢〜豊橋間は約4時間、豊橋〜大阪城東練兵所までは、5時間10分、その他も含めて、合計11時間34分の旅だったようです。
しかし機関不調により、帰りの飛行は中止になったそうで、機体を分解し陸送されました。飛行船による初の東京~大阪間の飛行でしたので雄飛号の名は全国的に有名になり、この飛行を記念して、1月22日は「飛行船の日」となったそうです。

「雄飛」の主要諸元は以下の通り。様式:軟式パルセバール、容積:1万m3、重量:8.1t、全長:85.0m、全幅:15.5m、全高:22.5 m、乗組人員:6~12名、巡航速度:57.6 km/h、最大速度:68.4 km/h、昇騰高:2.5km、最大航続時間:20時間。

同機が製作された埼玉県所沢市ではこの雄飛を記念して作られた焼き菓子「雄飛焼き」が販売されている。「雄飛焼き」は、1930年(昭和5年)に「帝国優良品大審査会壱等賞金牌」を受賞しており、昔と変わらぬ素朴な味で所沢名物となっている。

艦歴
発注
起工1914年8月26日
進水
就役1915年4月21日
退役1917年7月廃止決定
その後
性能諸元
重量8.1 t
体積10,000 m3
全長85.0 m
全幅15.5 m
全高22.5 m
機関マイバッハ発動機 150 hp 2基
速度巡航速度:57.6 km/h
最大速度:68.4 km/h
航続距離
兵員6~12名

飛行の経緯

世界の航空軍事の進展に伴い、日本においても飛行船研究の必要性が認識され、陸軍、海軍が主導となって1909年(明治42年)に臨時軍用気球研究会が発足しました。委員には、東京帝大の物理学教授であった田中舘愛橘(たなかだて・あいきつ、1856-1952)などの学者も参加、日本ではじめてのグライダーを飛ばすなどの実績をあげました。

関連の日:12月 9日 日本初のグライダーが飛ぶ(1909年)

日露戦争の旅順攻略作戦で気球隊を運用して一定の成績を上げていた陸軍は研究に熱心で、雄飛号の航行も益田済(陸軍工兵少佐)、岩本周平(陸軍技師・気球隊付)が臨時軍用気球研究会委員として、雄飛号の組み立て、操船にあたりました。

飛行船の構造

全長85メートル、高さ22.5メートル、幅15.5メートルの巨体で、6~12名の乗員を乗せて、時速約60キロメートル程度での巡航が可能でした。竜骨のない軟式飛行船で、2個の空気袋を収めたガス嚢に、推進用の機関はマイバッハ製の水冷式直列6気筒エンジンを2台を搭載していました。実用上の上昇最高高度は2500メートルでした。

もともとドイツから輸入されたパルセバールPL13飛行船が不時着・大破してしまったものを改修・改造した船体で、所沢で組み立てられました。再設計された箇所も多いため、初の国産飛行船とされています。
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飛行船のガス嚢に充填する浮揚ガスには水素が使用されました。

ですが、1937年の「ヒンデンブルク号」爆発事故以降、不活性気体のヘリウムが使用されるようになります。ドイツは飛行船先進国でしたが、やがてアメリカのヘリウム供給停止のために、浮揚ガスの調達に苦労するようになります。

関連の日:5月 6日 ヒンデンブルク号爆発事故(1937年)

航行の様子と日本の航空運用のその後

所沢にある臨時軍用気球研究会の所沢試験所から大阪までの所要時間は、のべ11時間34分、平均巡航速度は時速40キロメートルでした。途中、豊橋練兵場で燃料補給などのために着地しています。

当初は往復の航行を目的としていましたが、機関不調で修理に時間をとられている間に暴風に見舞われたため、残念ながら復路は水素ガスを抜いて解体のうえ陸路を貨物列車で輸送されました。

雄飛号の航行にも携わった臨時軍用気球研究会でしたが、やがて海軍が独自の航空開発をするようになり、また科学研究目的としても文部省が独自に東京帝国大学・航空研究所(現・東京大学先端科学技術研究センター)を設けたこともあり、1920年に解散してしまいます。陸軍は航空本部を設置して飛行船の研究を続けますが、やがて航空の主役は飛行機へと集約されていきます。

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現在、雄飛号の離陸した飛行場は、所沢航空公園となっており、航空発祥の地として記念館も設置されています。また、所沢には、この雄飛号の航行を記念して、「雄飛焼」というお菓子もあるそうです。

雄飛焼

大正5年に所沢で初めて日本で作られた飛行船「雄飛号」が初飛行した記念に創製し、
昭和5年には「帝國優良品大審査会壱等賞金牌」を受賞した逸品。
古くからの所沢名物です。

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有限会社 梅月(所沢市

  • 有限会社 梅月

  • 昔、所沢は野呂沢村といわれ武蔵野の山村で鎌倉街道として知られている。その街道を行く旅人が保存食として携行されたと言われている「葛」。それを独特の製法で作り上げた「久ずの里」、保存がきき、しかも滋養に富む葛湯である。
  • また、当時の所沢では焼き団子が名物(現在も)で、大正5年所沢飛行場で作られた日本初の飛行船「雄飛号」が所沢~大阪間の飛行に成功。同じ大正5年創業の「御菓子司 梅月」の初代、三之助さんがそれを記念し、炭火で焼いた団子をまねて、雄飛号をかたどった紡鐘形の和菓子を串に刺して炭火で焼き上げ出来たのが焼菓子「雄飛焼」。一個一個、串にさして炭火で焼く方法は当時からのままで、香ばしく風味がありシナモンがまぶしてあるこのお菓子は大正当時モダンなものとされていて軍人や町を訪れる人々に珍重されていたそうである。昭和5年には「帝國優良品大審査会壱等賞金牌」を受賞した逸品。
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代表者氏名星野 善基(ほしの よしもと)
住所所沢市御幸町3-18                
電話番号04-2922-2443
取扱商品焼菓子・葛
定休日木曜日
営業時間10:00~19:30


山田猪三郎


山田 猪三郎(やまだ いさぶろう、文久3年12月1日1864年1月9日) - 大正2年(1913年4月8日)は、日本の飛行船のパイオニアである。1910年9月8日に国産飛行船、山田式1号飛行船で自由飛行に成功した。

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経歴[編集]

紀伊国(現・和歌山県和歌山城下(現和歌山市)で和歌山藩士の家に生まれた。

1886年に和歌山県沖で多くの遭難者を出したノルマントン号事件を受けて救命具の開発を志し、1888年に大阪へ出て、外国人についてゴムの性質や製造法を学んだ。1892年上京して救命具の製作を始め[2]1894年には東京大崎気球製作所(後に大田区北糀谷の現在地に移転)を創業。

救命具から軍用気球の製作に転じて、陸軍の工兵会議の援助を得て、1900年2月に山田式気球の特許(第4164号)を取得。山田式気球は日露戦争で用いられた。

1909年、アメリカ人チャールズ・ケニー・ハミルトンが飛行船の公開飛行を行ったのをうけて飛行船の研究を始め、1910年9月8日に50馬力のエンジンをつけた、山田式1号飛行船で自由飛行に成功した[2]。さらに改良した山田式2号飛行船は1911年2月7日に初飛行し、翌2月8日に大崎から青山練兵場(現明治神宮外苑)まで自由飛行に成功した。2月23日に2号飛行船が係留中に強風で破壊されたが、3号飛行船を製作し7月1日初飛行させた。1911年9月17日、大崎から帝都訪問飛行を行ない20kmの周回飛行を行なった。3号機は中国に売却する商談が破談となり、問題が片付かないうちに病を得て急逝した。


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航空先覚者 山田 猪三郎(やまだ いさぶろう)

文久3年(1863)~ 大正2年(1913)
和歌山市生まれ
国産飛行船の初飛行に成功した航空界の先覚者

文久3年(1863)、現在の和歌山市に生まれる。少年時代から物作りの技能に優れ、研究熱心であったという。明治19年(1886)、串本大島沖でイギリスの貨客船ノルマントン号が遭難、多くの乗客が犠牲になった。猪三郎は救命具の必要性を強く感じ、ゴムの浮輪の研究を開始、明治21年(1888)、大阪で外国人からゴム製品加工技術を学び、明治25年(1892)に上京し、港区芝浦でゴムを使った救難浮輪の製造所を開設。翌年には防波救命器の特許を得ることに成功した。

明治30年(1897)からは気球の研究に着手、以後亡くなるまでの16年間、私財の全てを費やすほど気球・飛行船の研究に没頭することとなる。明治33年(1900)、日本で初めて円筒型係留気球を発明。陸軍に採用され「日本式係留気球」と名付けられた。風圧に対する抵抗力が強く、展望時の動揺が少ないなどの特徴があり、当時の欧米の気球よりも優れていたといわれ、日露戦争時にも用いられた。

明治40年(1907)には品川区大崎に飛行船製作工場を建設。明治43年(1910)に山田式1号飛行船を完成させ、品川区大崎から目黒区駒場間を足かけ2日をかけて、国産飛行船による初の往復飛行を行った。猪三郎は改良を加えた飛行船を次々に製作、第3号飛行船は大崎から品川、お台場を巡る総飛行距離20kmの循環飛行に成功し、東京の人たちを大いに驚かせた。明治45年(1912)には中国革命軍から飛行船の発注があり、販売のため中国大陸に渡ったが、悪天候により飛行船が破損するなどの不運に見舞われ、失意の内に帰国。帰国する船上で病を患い、大正2年(1913)、51歳で亡くなった。

昭和4年(1929)、和歌山市和歌浦の高津子山のふもとに、有志によって顕彰碑が建立された。

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飛行船


飛行船(ひこうせん、英:airship)は、空気より比重の小さい気体をつめた気嚢によって機体を浮揚させ、これに推進用の動力や舵をとるための尾翼などを取り付けて操縦可能にした航空機(軽航空機)の一種である。

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     ツェッペリンNT飛行船

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USSロサンゼルス号
1924-1932年頃のニューヨーク市南マンハッタン上空

概要

機体の大部分を占めるガス袋(気嚢)に水素もしくはヘリウムが充填されている。通常、ガス袋は空気抵抗を低減させるため細長い形状をしており、乗務員や旅客を乗せるゴンドラや、エンジンおよびプロペラなどの推進装置が外部に取り付けられている。機体後部には尾翼があり、方向安定を得るとともに取り付けられた舵面を動かして船体の方向を変える。

20世紀前半には大西洋横断航路などで旅客運行に従事していたが、1937年に発生した「ヒンデンブルク号」の爆発事故を契機に水素利用の飛行船の信頼性は失墜し(ただし、現在では事故原因は水素ガスの使用ではないとされている。ヒンデンブルク号爆発事故の項目を参照)、航空輸送の担い手としての役割を終えた。その後、広告宣伝用や大気圏の観測用等として、不燃性のヘリウムガスを利用した飛行船が小規模に使われている。

呼称

飛行船は英語では "Airship" (エアシップ)、ドイツ語では "Luftschiff" (ルフトシッフ)と言い、フランス語では  "Dirigible" (デリジャブル、ディリジャブル)という。フランス語の "Dirigible" という単語は、もともとは「操縦できるもの」という意味である。日本語ではもともと「飛行船」という言葉はなく、1909年(明治42年)頃には飛行船に相当するものは「飛行気球」あるいは「遊動気球」と呼ばれた[1]。1914年(大正3年)になると「航空船」という名称が用いられるようになり、大日本帝国海軍で航空船を運用する部隊は航空船隊と呼ばれた。その後、1928(昭和3年)に、航空母艦による「航空隊」の創設が決まり、同じ読み仮名となるのを避けるために航空船隊が飛行船隊に改称された。これに伴い航空船は「飛行船」と呼ばれることとなった。

飛行原理

飛行船は、周囲の大気より軽い浮揚ガスを用いて空中に浮揚する。船体内の浮揚ガスの重さと、船体が押しのけた大気の重さの差から、重力を上回る浮揚力を得る。この浮揚力は、いわゆるアルキメデスの原理による浮力であり、静的浮力(静的揚力ともいう)と呼ばれる。静的浮力はエネルギーを消費することなく得られ、その大きさは、飛行船が飛行していても、空中に静止していても同じである[5]

飛行船に働く浮力は、静的浮力の他に、動的浮力(揚力)もある。揚力は、物体の周りを流体が流れる時に発生する力であり、飛行機は翼に働く揚力によって飛行する。飛行船においても、船体に迎え角をつけて飛行することで揚力を得る場合がある。

構造様式による分類

飛行船の分類は、浮揚ガスを収めるガス袋を直接船体とする加圧式と、船体の中に別にガス袋を設ける非加圧式に分けられる。飛行船は、構造様式によって軟式、半硬式、硬式に大別され、その他に全金属式や準硬式と呼ばれるものもある。

軟式飛行船

軟式飛行船(以下、軟式船)は、船体がエンベロープと呼ばれるガス袋でできている。エンベロープはガスが漏れないよう加工された膜材で構成され、その内部に浮揚ガスが充填される。エンベロープの形状は内部のガス圧により保たれる。初期の飛行船は気球から直接発展し、基本的に軟式であった。21世紀初頭における飛行船は、ほとんどが軟式である。

重量やコストの面で有利であり、現代の飛行船はほとんどがこのタイプである。しかし、ガスの放出によって圧力が弱まると船体を維持できなくなる。突風などによって船体が変形するとコントロールを失ってしまう。また、一旦気嚢に穴が開くとガスの漏出が全体に影響するなどの欠点もある。また、船体の剛性が確保できなくなるため大型化に適しない。


半硬式飛行船


半硬式飛行船(以下、半硬式船)は、エンベロープの下側に沿ってキール(竜骨)を取り付けたものである。軟式船のエンベロープは、上側に張力、下側に圧縮力が作用し、船体が「へ」の字型に折れる傾向がある。これを防ぐため、船舶と同様にエンベロープの下部にキールを設けることで船体形状を維持し、大型化を可能とした。

イタリアで開発された『ノルゲ号』や『イタリア号』などが半硬式船である。

半硬式の利点として、硬式よりも骨格が少なく軽量化できるにもかかわらず、硬式飛行船と同様に大型化が可能であること、硬式同様に枠組みにエンジン船室を取り付けられるので設計に柔軟性があり制約が少ないことがある。たとえばエンジンと船室を離れた場所に設置できるので、船室内の環境が快適である利点がある。

硬式飛行船

硬式飛行船は、アルミ合金や複合材料といった軽量な部材により籠のように船体骨格を組み立てて、これにピアノ線などを張って補強を加え、船体に強度を持たせる[13]。骨格は肋材(フレーム)と縦通材で構成され、それを外皮で覆うことで船体形状を維持する。船体内部のガス袋は、十数個に分割されている。

金属製の枠組みにより船体の重量が増加する欠点があるが、船体の強度が高くなるため大型化、高速飛行が可能。ツェッペリン号の最高速度は135km/h。

特にツェッペリン伯爵製作による一連の飛行船が有名であり、「ツェッペリン」は硬式飛行船の代名詞となった。しかし、船体が頑丈といっても強風や荒天に耐え切れるほどではなく、悪天候による「難破」事故も多発している。また航空機の進歩により大型飛行船の存在意義自体が消滅したため、21世紀現在では生産・運用はされていない。


全金属飛行船

エンベロープを膜材でなく薄いジュラルミンの板で構成した飛行船は、全金属飛行船(以下、全金属船)またはメタルクラッド飛行船と呼ばれる。アメリカ海軍が運用したZMC-2が全金属船である。

ZMC-2は1929年に初飛行し、1941年に運用を終了し解体された。主力飛行船型には採用されることはなかったが、現在の素材や接合技術を用いれば、こうした構造もまた十分再検討に値すると考えられる。

準硬式飛行船

20世紀末に開発・初飛行したツェッペリンNTは、膜製のエンベロープを持ち、その内部に骨格を備える。骨格はキールではなく、三角形のフレームと縦通材で構成される[19]。当初は準硬式の用語が無くツェッペリンNTを半硬式船と分類していたが、ツェッペリンNTの構造は従来の半硬式船とは異なることから、準硬式飛行船と呼ばれている。


歴史

  • の飛行船を運用していた。
  • アメリカ海軍は第二次世界大戦後も飛行船部隊を維持した。冷戦時代、飛行船の滞空能力を活かし、レーダーを搭載することで北極海方面からの戦略爆撃機に対する警戒網の一助とした。だがこうした早期警戒飛行船は1960年代中頃には早期警戒機の登場や地上レーダー網の構築により退役した。民生用に払い下げられた飛行船の多くは広告用途などに広く用いられた。

ヒンデンブルク号爆発事故


ヒンデンブルク号爆発事故

当時、ヘリウムアメリカでしか生産されておらず、アメリカがナチス・ドイツへのヘリウムの供給を拒否したため、爆発の危険を冒しながらも水素ガスを利用していた。そのため、この事故は水素ガスによるものと推測され、水素ガスを使用する飛行船の安全性に対する信用は失墜し、以後水素による飛行船が使われなくなる原因となった。
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     ヒンデンブルク号爆発の瞬間




ヒンデンブルク号爆発事故
(ヒンデンブルクごうばくはつじこ、Hindenburg Disaster)は、1937年5月6日アメリカ合衆国ニュージャージー州マンチェスター・タウンシップにあるレイクハースト海軍飛行場で発生したドイツの硬式飛行船LZ129 ヒンデンブルク号の爆発・炎上事故を指す。

この事故で、乗員・乗客35人と地上の作業員1名、合わせて36名が死亡し多くの乗客が重傷を負った。映画、写真、ラジオなどの各メディアで広く報道されたことで、大型硬式飛行船の安全性に疑問が持たれ、飛行船時代に幕が降ろされるきっかけとなった。

1912年4月14日に起きたイギリスの豪華客船タイタニック号沈没事故、1986年1月28日に起きたアメリカのスペースシャトルチャレンジャー号爆発事故などとともに20世紀の世界を揺るがせた大事故のひとつとして知られている。


硬式飛行船の黄金期

硬式飛行船の第1号は1900年のLZ1で、1909年には、飛行船による航空輸送を行うツェッペリン飛行船会社が設立された。

硬式飛行船の設計が優れている点は、浮揚用水素ガス袋と、船体構造とを分離した点にある。従来の軟式飛行船は、ガス袋そのものを船体としていたため、変形しやすくなり、高速飛行は不可能であった。硬式飛行船はアルミニウム合金の多角形横材縦通材で骨格をつくり、張線で補強し、その上へ羽布(麻または綿布)を張って流線形の船体を構成し、ガス袋を横材間に収めた。

このような構造をもつ硬式飛行船は、船体の外形を保持することができ、飛行機よりは遅いものの、駆逐艦には追尾できない高速(特急列車と同程度)を発揮した。飛行船は実用的な空の輸送手段となった。

硬式飛行船の優れたもう一点は、大型化を可能にしたことである。飛行機と違って、ツェッペリン飛行船の浮力は寸法の3乗である体積に比例し、一方、構造重量は「大雑把に球体とみなすと、構造材の量は表面積によると考えれば寸法の2乗に比例する」ので、単純に寸法に比例して搭載貨物を増大できる。

第一次世界大戦中には119隻建造されて、偵察や爆撃などに用いられたが、空爆による軍需工場破壊や国家そのものに与えるダメージだけでなく、空を舞う威圧的な飛行船を見せて敵国の市民の戦意をそぐことも視野に入れられていた。

ただし軍事行動中に撃墜されたものもあり、またそれ以上の数の飛行船が悪天候で遭難した。また複葉機の台頭に伴い、次第に戦果が挙げられなくなる。

第一次世界大戦後の1928年、ツェッペリン飛行船会社は、LZ127グラーフ・ツェッペリンツェッペリン伯)号を建造して、世界一周に成功。このときは日本(茨城県霞ヶ浦)を含めた世界各地に寄港し、各地を熱狂させた。

爆発事故

その後、1930年代後半のナチス党時代に、ドイツの威信をかけたLZ129ヒンデンブルク号は花形である大西洋路線に就航。しかし、そうした硬式飛行船の黄金期は、突如として幕を閉じる。

ヒンデンブルク号は、マックス・ブルス船長の指揮のもと、ドイツ・フランクフルトを発ち(現地時間5月3日20時20分、アメリカ東部時間5月3日14時20分、日本時間5月4日4時20分)、2日半かけて大西洋を横断したが、向かい風の中を飛行したため予定より8時間遅れていた。しかも雷雨の影響により、着陸はさらに遅れることとなった。

予定より12時間遅れとなった現地時間(アメリカ東部時間)1937年5月6日19時25分(日本時間5月7日8時25分、ベルリン・フランクフルト時間5月7日1時25分)頃、アメリカニューヨーク近郊のニュージャージー州マンチェスター・タウンシップのレイクハースト海軍航空基地着陸の際に、尾翼付近から突如爆発。炎は瞬く間に船体を焼き尽くし、ヒンデンブルク号は爆発から僅か32秒(34秒、37秒とも)で墜落、乗員・乗客97人中35人と地上の作業員1名が死亡した。

このときの様子は写真・映像及びラジオ中継により記録され、現在も事故直後の様子を知ることができる。また、映像技術の発展に伴い、モノクロ映像だったヒンデンブルク号の映像を処理してカラー化されたものも出ている


事故原因

事故発生当時は水素ガス引火による爆発事故ということで、浮揚ガスに水素ガスを用いるのは危険だとする説が流布された。

着陸直前に船尾が重い状態であったことから、爆発が起きた船尾で水素漏れが起きていたという説もある[誰?]

ツェッペリン社は原因については一切公表しなかったが、濡らした外皮に電流を流して発火させる実験を行い、外皮が事故の原因であるとの結論に達していた。この事実をツェッペリン社が公表しなかったのは、保険金の問題もしくは国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の圧力が原因であると考えられている。その後、ツェッペリン社は外皮塗料を改良した新型機を製造したが、アドルフ・ヒトラーの指示により解体された。

その後、1997年NASAケネディ宇宙センターの元水素計画マネジャー、アディソン・ベインが当時の証言、映像分析、そして実物の外皮 の分析により、事故の原因はヒンデンブルク号の船体外皮の酸化鉄アルミニウム混合塗料(テルミットと同じ成分である)であると発表した。

彼の説は、ヒンデンブルク号の飛行中に蓄積された静電気が、着陸の際に着陸用ロープが下ろされた瞬間に、外皮と鉄骨の間の繋ぎ方に問題があったために十分に電気が逃げず、電位差が生じて右舷尾翼の前方付け根付近で放電が起こったことから外皮が発火・炎上した、というもので、現在ではこの説が有力になりつつある(この場合、浮揚ガスが水素でなくヘリウムの場合でも飛行船の外皮は炎上する。ただし、水素と違ってヘリウムは爆発しないので被害は少なくなる)。以上の説は、1999年にイギリスのトゥエンティ・トゥエンティ制作のテレビ番組 "Secrets of the Dead, What Happened to the Hindenburg?" でベイン自身の解説とともに取り上げられ、日本でも翌2000年6月16日にNHK総合で「ドキュメント 地球時間 ヒンデンブルク号 豪華飛行船の悲劇」として放送された。

また、「ドイツ政府の工作員による自爆テロだったのではないか」という陰謀説もある。当時、「飛行機の実用化を進めていたドイツにとって、『飛行船はもはや時代遅れ』という見方が強まっており、大衆の目前で飛行船の危険性を印象づけることで航空機への転用を図ろうとした」という理由であるが、この説には証拠となる証言や物的証拠は一切存在せず、ツェッペリン飛行船製造会社と、当時ドイツの政権政党であったNSDAPは仲が悪かったという状況証拠のみを根拠としている。

また、ヒンデンブルク号はドイツの威信を象徴する乗り物であり、さらに外遊先の敵国アメリカで、大事故を起こし全世界に醜態をさらすことなど、国家の体面を非常に気にしていたヒトラーやドイツのNSDAP政権が許すはずもないため、NSDAPを嫌うツェッペリン社社長エッケナー博士の破壊工作という説もあるが、これも製造会社とNSDAPの不仲という状況以外に根拠はない


事故後の影響

この事故の後、飛行船の安全性に対する信頼は打ち砕かれ、水素で満ちた飛行船による旅客輸送は許容されなくなってしまった。例えば、世界一周の偉業を遂げたLZ 127は事故の1ヶ月後にその役目を終え、博物館に収蔵されることになった。また、ドイツ国内のほかの飛行船も、第二次世界大戦の勃発と共に相次いで引退、その生涯を終え、飛行船時代に幕を下ろした。

1940年3月、ドイツ空軍元帥であったヘルマン・ゲーリングは、残るすべての飛行船の破壊を命じ、アルミニウム製の部品をドイツ戦争産業省へと供給した。一方、アメリカ海軍ドイツ海軍の方針を引き継いでツェッペリン型飛行船を採用したが、採用について、浮揚ガスにはヘリウムガスを使用した。しかし、アクロン号を始めとして、ほとんどが荒天で難破した。

1975年ユニバーサル映画がこの史実を、人為爆破説に基づき映画化した。ロバート・ワイズ監督、ジョージ・C・スコット主演でタイトルはそのまま「ヒンデンブルグ」(The Hindenburg)。飛行船内部の詳細な再現に加え、爆発後のシーンに、実際のニュースフィルムが用いられたことも話題となった


天然ガス運搬用飛行船

1970年代に天然ガスを運搬するためにAerospace Developments (AD)によってハニカムサンドイッチによるセミモノコック構造の半硬式飛行船の計画が立案された。この飛行船の計画は浮揚ガスとして空気よりも軽量の天然ガスと共に、少量のヘリウムを使用し、天然ガスを燃料とするエンジンからの廃熱で浮揚ガスを暖めて浮力を増やすという構想だった。第二次世界大戦前に建造された現時点において史上最大のLZ 129ヒンデンブルク号の全長は245mで浮揚ガスの体積は200000m3だったが、この構想された天然ガス運搬用飛行船は全長549mで浮揚ガスの体積は2750000m3という途轍もなく巨大な飛行船だった。天然ガスを運搬後はヘリウムガスで浮揚してガス田へ戻るという仕様だった。

この方法は政情不安定な国に天然ガスの液化施設を建設する地政学的なリスクを抑える点で有効であると考えられた。半硬式飛行船ではなく軟式飛行船を使用して天然ガスを運搬するという類似の概念は既に1920年代にR100飛行船の設計に携わったバーンズ・ウォリスによって考案されていたが大型の軟式飛行船という設計が災いして頓挫した。

計画は当時の技術水準では非実用的であるとして採用されなかったが、近年では類似の概念の飛行船の構想が複数提案される。

高高度プラットフォーム

無人制御の飛行船の用途として、地上局・人工衛星と並ぶ第三の情報通信網としての「成層圏プラットフォーム」飛行船が注目されている。地上20キロメートルの成層圏に全長300メートル以上の大型無人飛行船を停留させ、無線通信の基地局として用いるというものである。基地局として必要な電力は飛行船上面に取り付けられた太陽電池でまかなうアイデアもある。地上局に比べ広範囲をカバーでき、人工衛星に比べ遅延時間が短く運用コストが低いという利点がある。

「成層圏プラットフォーム」実用化に向けた取り組みは世界各国でなされており、日本では政府による「ミレニアムプロジェクト」の一つとして、成層圏滞空飛行船を利用した通信・放送サービスが計画された。2004年には大規模に税金が投入され、北海道大樹町多目的航空公園で全長60メートルの実験機(ラジコンの軟式飛行船)の飛行試験が行われたが、資金難から中止された


日本国内での飛行船を用いた広告


  • BMW
    • Yokoso JAPAN 号同様、日本飛行船所属の Zeppelin LZ N07-100型。
  • スヌーピーJ号
    • 当時の「アメリカン・ライフ・インシュアランス・カンパニー 日本支社」が通称をアリコジャパンから「メットライフ アリコ」へと改名することをPRするため、ブランド名とスヌーピーを掲げて2010年11月〜2016年12月末まで日本国内を飛行させていた。2014年当時、日本で運用されている唯一の飛行船だった。機体はLIGHT SHIP A-60R型。(機体番号N614LG)

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    飛行船を用いた富士フイルム広告


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    ニッセン「スマイル号」

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   メットライフアリコ「スヌーピーJ号」

硬式飛行船 ツェッペリン飛行船




飛行船ヒンデンブルグ号爆発事故 (カラー処理映像)




ヒンデンブルク号爆発事故に迫る!「タイムレス」その時何が起きたのか?




【歴史ミステリー】ヒンデンブルク号爆発事件!一瞬にして炎上した豪華飛行船!





2007飛行船スマイル号



飛行船 airship スヌーピー号 離陸・着陸 千葉県




箱庭東京を独り占め=東京上空を飛行船でゆったりクルージング




飛行船 ツェッペリンNT -Part1- (Zeppelin NT)


撮影地:静岡県浜松市浜北区貴布祢 これは2005年7月21日にビデオ撮影した、飛行船ツェッペリンNT「シュガーレディ号」 の初回飛来時の記録です。「㈱日本飛行船」所有のこの飛行船は、世界にたった3隻しか 存在しないとても貴重な乗り物です。 ・全長:75.1m/全幅:19.7m/全高:17.5m。ちなみにジャンボジェット 機は全長は約70mです。 ・通常時速65~80キロ(最高速度は125キロ程度)で、高度約300~600メー トルを飛行。 ・飛行船に充填されるヘリウムガスは、マッチで点火しても燃えない不燃性のガスです。 ・化石燃料をあまり使用しないこともツェッペリンNTの大きな特長で、環境に優しい新 時代の乗り物です。 飛来の目的は、その年に開催された「愛知博覧会」へのフライトにありました。「PLE 葉 WALK浜北」となった今は無き「浜北係留地」には、20回近く飛来しました。


東京マラソン、飛行船で警備 セコムが日本初開発




Amazonの近未来的なドローン配達を始める




飛行船「スヌーピーJ号」の離陸~Airship SnoopyJ Takeoff


北海道石狩市 石狩湾新港樽川ふ頭 付近に係留されていた メットライフアリコの「スヌーピーJ号」。 この日は、一般公開イベントが開かれていました。 12時30分頃に離陸、札幌に向け飛行する様子を観ることが出来ました。 (2012年7月22日(日)撮影)


世界初!首都から飛び立つ飛行船クルーズ


世界で初となる東京・晴海からの首都離着陸の飛行船遊覧クルーズを2010年4月10日より開始される。先がけて31日に報道陣にむけた体験搭乗が行われた。


[NEWS] 世界最大のハイブリッド航空機 初飛行に成功



災害支援活動にも利用、世界最大の飛行船