JAL123墜場所は米軍が把握して救助しょうとしてたが突然に撤収命そのとき生存者だつた人たちまだ多数の人が生きていたと証言している結局 日本側の救助たいが現場を見つけたのは夜開けだつたなにがあつたんだーー中曽根総理大臣に問う 米軍輸送機C130がJAL123便の異常を察知し、交信を傍受米軍横田基地から直ちに捜索開始命令が発せられ、20分後にそのC130が墜落現場を特定し座間から救難へりUH-1も到着し、直ちにロープを下ろし救助を始めようとしたところで、そこへ横田から帰還命令が発せられた。そして口外するな、と日本側とバトンタッチする際に、米軍から当然に正確な位置情報が伝えられたはずなのに自衛隊は誤報を繰り返したその誤報によって現場に向かっていた救助隊が混乱し、救助の開始が大きく妨げられたと考えられ、助かっていた筈の尊い人命が、無残にも多数失われたと推察されます米軍が現場から撤収したあと、救助開始までの10時間以上、いったいなにが行われていたのか?
日航ジャンボ機 - JAL123便 墜落事故
日航ジャンボ機 - JAL123便 墜落事故 (飛行跡略図 Ver1.2 & ボイスレコーダー)
在日米軍機の救助中止問題
当時、横田基地に配属されていたマイケル・アントヌッチ中尉の証言
当時、横田基地に配属されていたマイケル・アントヌッチ中尉の証言
あす8月12日 JAL123墜落事故から37年 (昭和60年)
在日米軍が謎の救助中止…御巣鷹から30年、新聞・テレビが報道しなかった日航機墜落事故のタブー!
日航ジャンボ機123便が群馬県・御巣鷹の尾根に墜落した8月12日、テレビ各局は報道特別番組を編成、放映しただが、今年もあの問題にはどこも触れなかった。そう。10年前に発刊された『御巣鷹の謎を追う 日航123便事故20年』(米田憲司/宝島社)で詳細に指摘され、本サイトでも1年前に取り上げた、在日米軍機の救助中止問題だこれは、当時、横田基地に配属されていたマイケル・アントヌッチ中尉が証言したものだ。事故当日、日航機がレーダーから消えたすぐ後の7時15分、アントヌッチ中尉が乗ったC-130がいち早く事故現場を特定し、到着。横田管制に正確な位置を報告し、救援を要請していた。実際に、米海兵隊が厚木基地からヘリコプターで救難に向かい、8時50分には現場についていたところが、突如、帰還命令が出され、救助活動は中止になったのだ。しかも、日本側はなぜか墜落地点を把握できず、防衛庁が4回にもわたって全く別の墜落地点を発表するなど、混乱状態に。結局、日本の救助隊が墜落地点に到着したのは16時間後だったアントヌッチ中尉はそのまま在日米軍が救助活動を続けていれば、もっと多くの人が助かっただろうと証言していたしかし、この証言はこれまでほとんど新聞やテレビでまともに検証・報道されることなく、タブーとして封印されてきたのだそれでも、事故から30年目となる今年は、いくつかの番組で事故現場特定の問題点を扱っており、なかには、もしや?と期待させられた番組もあったたとえば、『日航ジャンボ機事故 空白の16時間 ~“墜落の夜”30年目の真実~』(NHK・8月1日初回放送)は、墜落から事故現場の特定までにかかった約16時間を丹念に追ったドキュメント。警察や防衛庁の内部資料を掘り起こし、関係者100人以上に取材をしたという労作だ
当時の航空自衛隊の幹部や長野県警の現役警察官に加え、事故現場に急行した自衛隊救難ヘリ2人の機長の証言まで織り込んで、現場の混乱ぶりや防衛庁と警察の足並みがそろわなかった実態を明らかにしている。
ところがこの番組中でも、在日米空軍のC-130輸送機がいち早く現場に到着していた事実を全く報じていない。
特に番組内で「自身の経験が役に立てば、と今回初めて証言をしました」といわば鳴り物入りで登場した当時の救難ヘリ機長・林璋三等空佐(当時)の話には拍子抜けした。
実は、林氏が証言をしたのは厳密にいえば初めてのことではない。事故のあった1985年11月号の『航空ジャーナル』で航空評論家の青木謙知氏の取材に答えているのだ。
そのなかで、「現場に到着すると、上空を米空軍のC-130が旋回し、またその下にはUH1が飛行していた」「まずC-130とコンタクトを取り、その後UH1と入れ替わって高度を下げていった」という重要な証言をしている。
つまり、自衛隊は米軍が先に事故現場に着いて待機していたことを把握していたわけだが、番組中で林氏はこのことには全く触れず、当日の事故現場の火災の様子や救助を断念して撤退した思いを語るだけなのであった。
これでは、たとえ「初めての証言」だったとしても、真実の解明に役立つとはとてもいえないだろう。
アントヌッチ証言によれば、自らが指示を受けて捜索に向かったことや、一緒に現場に待機していたUH1ヘリが乗務員を降下させる準備までさせていたのにもかかわらず、急遽司令部の命令で中止、撤退させられていたことも明らかにされており、この米軍の動きと自衛隊=防衛庁との間でどんなやり取りがあったかということが捜索活動の初動における重要な問題点であることは、取材する記者であれば分からないわけがない。
事故調の報告書にまで「現場を通過中のC-130」と、あくまで現場を通りかかったようにしか書かれていないことと合わせて考えても、どうも、この事実を掘り起こして欲しくないという極めて政治的な作為を感じずにはいられない事象なのである。現場に最も早くC-130が到着していた事実は報じていたが、それだけ。なぜ米軍が救助にあたらなかったのかについての言及はなく、「米軍への救助要請も検討されたが実現はしなかった」とサラリと流してしまっている。
そして、この番組にも先の林元機長が登場していた。やっぱり米軍機のことは語らなかったのだが、墜落現場については、「間違いなく御巣鷹の南東ですよ、と報告しているのですが、それがどこでどう変わってしまったのか今もってわかりません」と述べており、正しい墜落地点が伝わらなかった捜索体制へ不信感を抱いていることは伝わってきた。それだけに、米軍についての証言だけは避けているかのような対応に、余計に不自然さを感じてしまった。
事故を風化させないという観点からも、日航ジャンボ機墜落事故の番組が、この時期に作りつづけられる意味は決して小さくないだろう。
ただし、そこには二度と事故を起こしてはならないという決意と、タブーなき徹底検証という意図がなければ、単なる夏の風物詩のようになってしまうのではないだろうか。
今年のどちらの番組も、番組の端々にはその心意気が感じられるものはあった。しかし、だからこそあえて言いたい。タブーにも切り込んでくれる強さが見たかった、と。
(田部祥太)
日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 (米軍パイロットの証言)
JAL123便墜落事故(続);事故直後、現場に到着した米軍救助ヘリに日本政府が「救助拒否」!
1995年08月20日の米国地方紙に元米軍人の証言が掲載された。それを多分、同年9月か10月ころのテレビ朝日の夜の報道番組(キャスターの一人は小宮悦子氏)が、自社の取材を加えて報じた。その画面が現在、ネットで見られる。この米軍人の証言は、私が読んだ青山透子氏の2冊の書籍中には少ししか触れられておらず良く理解できなかったので、私の前のブログでは触れなかった。しかしネットの映像からその内容が良く理解できたので、ここでまず報道内容の概要を記述する事故当時、横田基地に着陸をしようとしていた米軍のC-130型輸送機があった。それには3人の操縦士が乗務しており、それぞれ機長・副操縦士・航海士の任務についていたが、航海士の任に当たっていたアントヌーチ元空軍中尉が証言者である。彼は機内で通信も担当しており、JAL当該機が日本語で管制塔と通信しているのを傍受し、異常事態を察したという。直後に横田基地から遭難地点の捜索を命じられたので、着陸を止めて直ちに北北西に進路を取り、遭難地点を発見し、遭難地点と救助の要ありと連絡したという。そして救助部隊が到着するか、燃料切れ(2時間分ほどの燃料があった)となるまで上空で旋回した結果、座間基地からの救助ヘリが到着して合流。ヘリ部隊から「隊員を降下させて救助活動開始の許可を日本側から取ってほしい」と依頼があったので、横田基地にその旨を連絡したところ、意外な返事が返ってきたので思わず聞き返したという。返事は「日本側に遭難地点の通報と救助活動開始の許可を求めたが、断られたので直ちに撤収せよ」という命令だったのである。またその際、横田基地からは「既に日本側の救助ヘリが現地に向かっている」という事も伝えられたという。これはC-130機の残存燃料から推定して、事故後の2時間か2時間半程度の間の出来事である。これらの乗員は基地帰投後に上官から「このことはマスコミにもらすな」と口止めをされたという。テレビ朝日は、アントヌーチ氏の証言が掲載後に彼以外の2名の乗員にも意見を求めたようであるが、元機長は同氏とほぼ同じ内容であった。元副操縦士は「現在も空軍に在籍中なので何も言えないが、日本側から断られたのは事実」と電話インタビューに答えている。この時、3人はバラバラに仕事を行っており、その内容が矛盾をきたしていないという事は大きな意味がある。ただし米軍としては、当時の通信記録などは既になく、証明できないという。一方、日本政府及び防衛庁は「米軍側から遭難地点の通報もなければ、救助開始許可願いもなかった。従って、救助活動を断ったという事実もない」と全面否定。米軍人側に嘘をつかなければならない理由がなく、どう見ても日本政府側が嘘をついるようである。さらに当時(多分、事故当時)の防衛庁中部地域の司令官・松永貞昭は米軍救助ヘリが隊員を降下する直前であったという証言を踏まえて、「闇夜に救助ヘリを派遣して、隊員を降下させるのは自殺行為」と米軍ヘリの派遣自体が疑わしいと思わせるような意見を述べている。しかし米軍のアントヌーチ氏や現場の救助担当の米軍准尉などは「夜間のヘリによる急傾斜地における救助活動は何ら問題なく可能」と述べているし、日本側の専門家も可能と述べている。現に事故直後、習志野空てい団の指揮官は救助活動が夜間になることも想定したうえで、「出動準備して待機」を麾下の部隊に命じている。しかし実際に出動命令が下ったのは、翌日の早朝であった。こうなれば、嘘をついているのはどちら側か、明瞭である。
生存者の落合由美子さんは、事故直後にヘリの音を聞いている。このヘリの音はその後遠ざかっていったというから、これが多分米軍のヘリの音だと思われる。もしこれが米軍のヘリでないとするとすると、どこの所属のヘリかという事になる。自衛隊による証拠隠滅部隊(証拠物品回収部隊兼生存者焼殺部隊)のヘリか、それとも強引に落合さんの証言を日本政府側は無視するつもりなのだろうか?生存者は落合さんのみでなく、川上慶子さんも墜落当初には数多くの生存者の声を聴いたと証言している。救助時期の遅れを批判する声が挙がるのは当然だし、焼殺部隊によってころ焦げ遺体と化した方々はおそらく生存していたからこそ黒焦げにされてしまったのであろう。
日本航空123便墜落事故
昭和60年(1985年)日航機が群馬県御巣鷹山山中に墜落。死者520人、生存者4人日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年(昭和60年)8月12日、東京・羽田空港発、大阪・伊丹空港行の同社定期便だった、JAL123便(ボーイング747SR-46、機体記号:JA8119、製造番号:20783[2])が、ボーイング社の不適切な修理が原因とされる後部圧力隔壁が飛行中に破損、垂直尾翼と補助動力装置が脱落し、油圧操縦システムも全喪失した。結果、完全に操縦不能に陥り、迷走飛行の末、最終的に群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称:御巣鷹の尾根)へ墜落した。
この事故では乗客乗員524名のうち、520名が死亡し、日本航空の歴史上最悪の事故、そして単独機で世界史上最悪の死者数を出す航空事故となった 1978年(昭和53年)6月2日、羽田発伊丹行き115便として本機が伊丹空港に着陸しようとした際、機体尾部が滑走路と接触し中破する事故が発生した(日本航空115便しりもち事故)。この事故によって生じた損傷の修理を製造元のボーイング社が行った際、後部圧力隔壁を修理する中で発生した作業ミスが本事故の主原因と結論づけられている1985年2月から本事故までの間、本機では客室後部の化粧室ドアの不具合が28件発生している。事故調査報告書は、しりもち事故によって生じた機体の歪みによって化粧室ドアの不具合が発生した可能性は否定できないとしている
日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年(昭和60年)8月12日、日本航空(当時)123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行、ボーイング747 SR-100、登録番号JA8119のジャンボ機が群馬県多野郡上野村の高天原山(たかまがはらやま)[1]に墜落した事故である
日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年(昭和60年)8月12日、日本航空(当時)123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行、ボーイング747 SR-100、登録番号JA8119のジャンボ機が群馬県多野郡上野村の高天原山(たかまがはらやま)[1]に墜落した事故である
死亡者数は乗員乗客524名のうち520名にのぼる。この数字は日本国内で発生した航空機事故では最大であり、世界の航空事故では全体の中で2番目、単独機の航空事故では最大である
JAL123墜落までの軌跡(無線交信等が記録されてる)
墜落場所も早い段階で把握していたとされており、墜落から約1時間後に近くを飛行していたアメリカ軍機C-130輸送機が墜落現場付近上空に到着、詳細な現場の位置を測定する。
その後、アメリカ軍厚木基地から暗視カメラを搭載している海兵隊の救助ヘリコプターが現場に急行。墜落から僅か2時間で救助態勢が整っていた。救助のためにヘリから隊員を降ろそうとしたとき、基地の当直将校からすぐ基地に帰還するよう命令された。日本の事故に対するアメリカ軍の救出活動の参加には日本政府の許可が必要であったため、アメリカ軍は日本政府に支援を打診、政府は警察庁に連絡したが不要とされたと言われている。国内の事故に対するアメリカ軍の救出活動の参加と政府の迅速な判断に課題を残した。なお警察庁上層部がアメリカ軍の協力を拒んだ理由は明らかになっていないが、メンツが理由とも、国内の事故に指揮命令系統が違うアメリカ軍が介入することで現場に混乱をきたすことを避けたなど諸説ある。
この在日アメリカ軍による現場特定・ヘリによる救出の申し出は、事故当日にニュース速報として流されたが、翌日未明にはアメリカ軍の現場特定、救出活動の申し出はすべて誤報であったとして否定された。
佐藤守元空将は後日、在日米軍報道部長から確認したこととして、米軍から援助の申し出があったのは事実であるが、当時の在日米軍は特殊な機材を搭載したヘリコプターを装備しておらず、具体的な支援の内容は救出された怪我人の搬送等であり、さらにそれを日本側が拒否した事実もないとし、オーストラリアの新聞記事に無批判に追随した報道各社がデマを拡散させたと強く批判している[19]。これらの報道の流れは事故原因に関する憶測を呼ぶ一因ともなった。
なお、事故より10年後に、在日アメリカ軍の現場特定・救助の申し出は事実であったとして改めて発表されている。なお、上記の内容は後年に新潮社の週刊誌に詳細記事が掲載されたり、上智大学文学部が英語の入試問題として、このC-130輸送機の操縦士の手記を載せたことから再び議論が高まった
墜落場所がわからず捜索本部が長野県から群馬県にかわり
結局現場についたのは日の出とともに登った地元の消防団であつた
その後自衛隊のヘリコプターにより4名の生存者が救出されるが
その生存者の証言によれば墜落当初は多数の生存者がいたそうです
墜落1時間で米軍が墜落現場を特定し暗視装置をつけた
救出隊の出動を阻止した闇の集団はだれだろう
しかも墜落場所を捜査本部にも教えず
捜索本部が墜落場所を把握したのは翌日になる
米軍が救出の乗り出せば多数の生存者が救出されたはずです
当時の闇の集団に怒をおぼえます!!
日航ジャンボ機 - JAL123便 墜落事故 (飛行跡略図 Ver1.2 & ボイスレコーダー)
JAL123墜落までの軌跡(無線交信等が記録されてる)日航機墜落事故 生存者証言 【墜落瞬間の恐怖】 遺書 ボイスレコーダー
【閲覧注意】日航機墜落事故 生存者が語った墜落までの生々しい証言が恐怖
【大竹まこと×森永卓郎×倉田真由美】 日航機123便墜落事故の謎
真相を追った元日航客室乗務員!
真相を追った元日航客室乗務員!
【初公開・23年前に製作されてお蔵入りになった番組】日航123便墜落事故検証特番
123便の残骸か…相模湾海底で発見 日航機墜落30年(15/08/12)
日航機墜落事故から36年 灯籠点灯し犠牲者に祈り(2021年8月12日)
佐久電話局での日航機事故対応と教訓(詳細報告)
―携帯電話はこうして生まれた―
佐久電話局の受け持ちエリアは赤色の破線で示されている範囲。 東は群馬県境、南は山梨県境。北は小諸、軽井沢、西は八ヶ岳連峰。 東京都の半分ほどの広さ。
1.2 対策本部の設置
次長室に「日航機墜落事故対策本部」
を設置した。
小海センターは、北相木村と南相木村の分岐点。“やはり南相木に墜落か”と観念
墜落現場が南相木村に近い場合、衛星通信車設置するしかなく、 予め調査し南相木村小学校と決める。
衛星通信車。伊豆から来た衛星通信車を誘導、朝6時に南相木村に到着。一安心。
4名の生存者が確認された。徹夜の疲れが一気に吹き飛んだ。(写真:business nikkeibp.co.jp)
13日8:00ごろ、4名の生存者が確認された。 川上慶子さん(12)、吉崎博子さん(34)、美紀子ちゃん(8)、 そして、アシスタントパーサーの落合由美さん(26)である。 10:00ごろニュースで生存者がいると第一報が伝えられた時には 正直言って「まさか?」と思ったが、 11:00ごろの報道では救出の模様を映しており、 当電話局内対策本部のメンバー全員「やったぞ!」と言いたげで、 昨夜来の徹夜の疲れが一気に吹き飛んだ気分であった。
1.14三国峠への自動車電話の設置
三国峠にこのような自動車電話を利用した特設公衆電話を設置。峠の公衆電話は日本で初めて。
コメント
コメント一覧 (1)
この未解決事件につき、
今年6月9日から「再調査署名」運動を展開しております。
いまだに再発防止策もこうじられていない事実があります。
是非とも、お力添えをお願いできればと思います。
http://chng.it/fYMnPwJBQz
prc77
がしました