在日米軍が謎の救助中止…御巣鷹から37年 JAL123便墜落から37年前あのときなにが?

JAL123墜場所は米軍が把握して救助しょうとしてたが突然に撤収命そのとき生存者だつた人たちまだ多数の人が生きていたと証言している結局 日本側の救助たいが現場を見つけたのは夜開けだつたなにがあつたんだーー中曽根総理大臣に問う 米軍輸送機C130がJAL123便の異常を察知し、交信を傍受米軍横田基地から直ちに捜索開始命令が発せられ、20分後にそのC130が墜落現場を特定し座間から救難へりUH-1も到着し、直ちにロープを下ろし救助を始めようとしたところで、そこへ横田から帰還命令が発せられた。そして口外するな、と日本側とバトンタッチする際に、米軍から当然に正確な位置情報が伝えられたはずなのに自衛隊は誤報を繰り返したその誤報によって現場に向かっていた救助隊が混乱し、救助の開始が大きく妨げられたと考えられ、助かっていた筈の尊い人命が、無残にも多数失われたと推察されます米軍が現場から撤収したあと、救助開始までの10時間以上、いったいなにが行われていたのか?

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日航ジャンボ機 - JAL123便 墜落事故


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 日航ジャンボ機 - JAL123便 墜落事故 (飛行跡略図 Ver1.2 & ボイスレコーダー)
在日米軍機の救助中止問題
当時、横田基地に配属されていたマイケル・アントヌッチ中尉の証言



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あす8月12日 JAL123墜落事故から37年 (昭和60年)
在日米軍が謎の救助中止…御巣鷹から30年、新聞・テレビが報道しなかった日航機墜落事故のタブー!
日航ジャンボ機123便が群馬県・御巣鷹の尾根に墜落した8月12日、テレビ各局は報道特別番組を編成、放映しただが、今年もあの問題にはどこも触れなかった。そう。10年前に発刊された『御巣鷹の謎を追う 日航123便事故20年』(米田憲司/宝島社)で詳細に指摘され、本サイトでも1年前に取り上げた、在日米軍機の救助中止問題だこれは、当時、横田基地に配属されていたマイケル・アントヌッチ中尉が証言したものだ。事故当日、日航機がレーダーから消えたすぐ後の7時15分、アントヌッチ中尉が乗ったC-130がいち早く事故現場を特定し、到着。横田管制に正確な位置を報告し、救援を要請していた。実際に、米海兵隊が厚木基地からヘリコプターで救難に向かい、8時50分には現場についていたところが、突如、帰還命令が出され、救助活動は中止になったのだ。しかも、日本側はなぜか墜落地点を把握できず、防衛庁が4回にもわたって全く別の墜落地点を発表するなど、混乱状態に。結局、日本の救助隊が墜落地点に到着したのは16時間後だったアントヌッチ中尉はそのまま在日米軍が救助活動を続けていれば、もっと多くの人が助かっただろうと証言していたしかし、この証言はこれまでほとんど新聞やテレビでまともに検証・報道されることなく、タブーとして封印されてきたのだそれでも、事故から30年目となる今年は、いくつかの番組で事故現場特定の問題点を扱っており、なかには、もしや?と期待させられた番組もあったたとえば、『日航ジャンボ機事故 空白の16時間 ~“墜落の夜”30年目の真実~』(NHK・8月1日初回放送)は、墜落から事故現場の特定までにかかった約16時間を丹念に追ったドキュメント。警察や防衛庁の内部資料を掘り起こし、関係者100人以上に取材をしたという労作だ
当時の航空自衛隊の幹部や長野県警の現役警察官に加え、事故現場に急行した自衛隊救難ヘリ2人の機長の証言まで織り込んで、現場の混乱ぶりや防衛庁と警察の足並みがそろわなかった実態を明らかにしている。
 ところがこの番組中でも、在日米空軍のC-130輸送機がいち早く現場に到着していた事実を全く報じていない。
特に番組内で「自身の経験が役に立てば、と今回初めて証言をしました」といわば鳴り物入りで登場した当時の救難ヘリ機長・林璋三等空佐(当時)の話には拍子抜けした。
 実は、林氏が証言をしたのは厳密にいえば初めてのことではない。事故のあった1985年11月号の『航空ジャーナル』で航空評論家の青木謙知氏の取材に答えているのだ。
 そのなかで、「現場に到着すると、上空を米空軍のC-130が旋回し、またその下にはUH1が飛行していた」「まずC-130とコンタクトを取り、その後UH1と入れ替わって高度を下げていった」という重要な証言をしている。
 つまり、自衛隊は米軍が先に事故現場に着いて待機していたことを把握していたわけだが、番組中で林氏はこのことには全く触れず、当日の事故現場の火災の様子や救助を断念して撤退した思いを語るだけなのであった。
 これでは、たとえ「初めての証言」だったとしても、真実の解明に役立つとはとてもいえないだろう。
 アントヌッチ証言によれば、自らが指示を受けて捜索に向かったことや、一緒に現場に待機していたUH1ヘリが乗務員を降下させる準備までさせていたのにもかかわらず、急遽司令部の命令で中止、撤退させられていたことも明らかにされており、この米軍の動きと自衛隊=防衛庁との間でどんなやり取りがあったかということが捜索活動の初動における重要な問題点であることは、取材する記者であれば分からないわけがない。
 事故調の報告書にまで「現場を通過中のC-130」と、あくまで現場を通りかかったようにしか書かれていないことと合わせて考えても、どうも、この事実を掘り起こして欲しくないという極めて政治的な作為を感じずにはいられない事象なのである。現場に最も早くC-130が到着していた事実は報じていたが、それだけ。なぜ米軍が救助にあたらなかったのかについての言及はなく、「米軍への救助要請も検討されたが実現はしなかった」とサラリと流してしまっている。

そして、この番組にも先の林元機長が登場していた。やっぱり米軍機のことは語らなかったのだが、墜落現場については、「間違いなく御巣鷹の南東ですよ、と報告しているのですが、それがどこでどう変わってしまったのか今もってわかりません」と述べており、正しい墜落地点が伝わらなかった捜索体制へ不信感を抱いていることは伝わってきた。それだけに、米軍についての証言だけは避けているかのような対応に、余計に不自然さを感じてしまった。
 事故を風化させないという観点からも、日航ジャンボ機墜落事故の番組が、この時期に作りつづけられる意味は決して小さくないだろう。
 ただし、そこには二度と事故を起こしてはならないという決意と、タブーなき徹底検証という意図がなければ、単なる夏の風物詩のようになってしまうのではないだろうか。
 今年のどちらの番組も、番組の端々にはその心意気が感じられるものはあった。しかし、だからこそあえて言いたい。タブーにも切り込んでくれる強さが見たかった、と。
(田部祥太)

日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 (米軍パイロットの証言)




JAL123便墜落事故(続);事故直後、現場に到着した米軍救助ヘリに日本政府が「救助拒否」!
1995年08月20日の米国地方紙に元米軍人の証言が掲載された。それを多分、同年9月か10月ころのテレビ朝日の夜の報道番組(キャスターの一人は小宮悦子氏)が、自社の取材を加えて報じた。その画面が現在、ネットで見られる。この米軍人の証言は、私が読んだ青山透子氏の2冊の書籍中には少ししか触れられておらず良く理解できなかったので、私の前のブログでは触れなかった。しかしネットの映像からその内容が良く理解できたので、ここでまず報道内容の概要を記述する事故当時、横田基地に着陸をしようとしていた米軍のC-130型輸送機があった。それには3人の操縦士が乗務しており、それぞれ機長・副操縦士・航海士の任務についていたが、航海士の任に当たっていたアントヌーチ元空軍中尉が証言者である。彼は機内で通信も担当しており、JAL当該機が日本語で管制塔と通信しているのを傍受し、異常事態を察したという。直後に横田基地から遭難地点の捜索を命じられたので、着陸を止めて直ちに北北西に進路を取り、遭難地点を発見し、遭難地点と救助の要ありと連絡したという。そして救助部隊が到着するか、燃料切れ(2時間分ほどの燃料があった)となるまで上空で旋回した結果、座間基地からの救助ヘリが到着して合流。ヘリ部隊から「隊員を降下させて救助活動開始の許可を日本側から取ってほしい」と依頼があったので、横田基地にその旨を連絡したところ、意外な返事が返ってきたので思わず聞き返したという。返事は「日本側に遭難地点の通報と救助活動開始の許可を求めたが、断られたので直ちに撤収せよ」という命令だったのである。またその際、横田基地からは「既に日本側の救助ヘリが現地に向かっている」という事も伝えられたという。これはC-130機の残存燃料から推定して、事故後の2時間か2時間半程度の間の出来事である。これらの乗員は基地帰投後に上官から「このことはマスコミにもらすな」と口止めをされたという。テレビ朝日は、アントヌーチ氏の証言が掲載後に彼以外の2名の乗員にも意見を求めたようであるが、元機長は同氏とほぼ同じ内容であった。元副操縦士は「現在も空軍に在籍中なので何も言えないが、日本側から断られたのは事実」と電話インタビューに答えている。この時、3人はバラバラに仕事を行っており、その内容が矛盾をきたしていないという事は大きな意味がある。ただし米軍としては、当時の通信記録などは既になく、証明できないという。一方、日本政府及び防衛庁は「米軍側から遭難地点の通報もなければ、救助開始許可願いもなかった。従って、救助活動を断ったという事実もない」と全面否定。米軍人側に嘘をつかなければならない理由がなく、どう見ても日本政府側が嘘をついるようである。さらに当時(多分、事故当時)の防衛庁中部地域の司令官・松永貞昭は米軍救助ヘリが隊員を降下する直前であったという証言を踏まえて、「闇夜に救助ヘリを派遣して、隊員を降下させるのは自殺行為」と米軍ヘリの派遣自体が疑わしいと思わせるような意見を述べている。しかし米軍のアントヌーチ氏や現場の救助担当の米軍准尉などは「夜間のヘリによる急傾斜地における救助活動は何ら問題なく可能」と述べているし、日本側の専門家も可能と述べている。現に事故直後、習志野空てい団の指揮官は救助活動が夜間になることも想定したうえで、「出動準備して待機」を麾下の部隊に命じている。しかし実際に出動命令が下ったのは、翌日の早朝であった。こうなれば、嘘をついているのはどちら側か、明瞭である。
 生存者の落合由美子さんは、事故直後にヘリの音を聞いている。このヘリの音はその後遠ざかっていったというから、これが多分米軍のヘリの音だと思われる。もしこれが米軍のヘリでないとするとすると、どこの所属のヘリかという事になる。自衛隊による証拠隠滅部隊(証拠物品回収部隊兼生存者焼殺部隊)のヘリか、それとも強引に落合さんの証言を日本政府側は無視するつもりなのだろうか?生存者は落合さんのみでなく、川上慶子さんも墜落当初には数多くの生存者の声を聴いたと証言している。救助時期の遅れを批判する声が挙がるのは当然だし、焼殺部隊によってころ焦げ遺体と化した方々はおそらく生存していたからこそ黒焦げにされてしまったのであろう。

日本航空123便墜落事故
昭和60年(1985年)日航機が群馬県御巣鷹山山中に墜落。死者520人、生存者4人日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年(昭和60年)8月12日、東京・羽田空港発、大阪・伊丹空港行の同社定期便だった、JAL123便(ボーイング747SR-46、機体記号:JA8119、製造番号:20783[2])が、ボーイング社の不適切な修理が原因とされる後部圧力隔壁が飛行中に破損、垂直尾翼と補助動力装置が脱落し、油圧操縦システムも全喪失した。結果、完全に操縦不能に陥り、迷走飛行の末、最終的に群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称:御巣鷹の尾根)へ墜落した。
この事故では乗客乗員524名のうち、520名が死亡し、日本航空の歴史上最悪の事故、そして単独機で世界史上最悪の死者数を出す航空事故となった 1978年(昭和53年)6月2日、羽田発伊丹行き115便として本機が伊丹空港に着陸しようとした際、機体尾部が滑走路と接触し中破する事故が発生した(日本航空115便しりもち事故)。この事故によって生じた損傷の修理を製造元のボーイング社が行った際、後部圧力隔壁を修理する中で発生した作業ミスが本事故の主原因と結論づけられている1985年2月から本事故までの間、本機では客室後部の化粧室ドアの不具合が28件発生している。事故調査報告書は、しりもち事故によって生じた機体の歪みによって化粧室ドアの不具合が発生した可能性は否定できないとしている

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日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年(昭和60年)8月12日、日本航空(当時)123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行、ボーイング747 SR-100、登録番号JA8119のジャンボ機が群馬県多野郡上野村の高天原山(たかまがはらやま)[1]に墜落した事故である

死亡者数は乗員乗客524名のうち520名にのぼる。この数字は日本国内で発生した航空機事故では最大であり、世界の航空事故では全体の中で2番目、単独機の航空事故では最大である

JAL123墜落までの軌跡(無線交信等が記録されてる)

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墜落場所も早い段階で把握していたとされており、墜落から約1時間後に近くを飛行していたアメリカ軍機C-130輸送機が墜落現場付近上空に到着、詳細な現場の位置を測定する。

その後、アメリカ軍厚木基地から暗視カメラを搭載している海兵隊の救助ヘリコプターが現場に急行。墜落から僅か2時間で救助態勢が整っていた。救助のためにヘリから隊員を降ろそうとしたとき、基地の当直将校からすぐ基地に帰還するよう命令された。日本の事故に対するアメリカ軍の救出活動の参加には日本政府の許可が必要であったため、アメリカ軍は日本政府に支援を打診、政府は警察庁に連絡したが不要とされたと言われている。国内の事故に対するアメリカ軍の救出活動の参加と政府の迅速な判断に課題を残した。なお警察庁上層部がアメリカ軍の協力を拒んだ理由は明らかになっていないが、メンツが理由とも、国内の事故に指揮命令系統が違うアメリカ軍が介入することで現場に混乱をきたすことを避けたなど諸説ある。

この在日アメリカ軍による現場特定・ヘリによる救出の申し出は、事故当日にニュース速報として流されたが、翌日未明にはアメリカ軍の現場特定、救出活動の申し出はすべて誤報であったとして否定された。

佐藤守元空将は後日、在日米軍報道部長から確認したこととして、米軍から援助の申し出があったのは事実であるが、当時の在日米軍は特殊な機材を搭載したヘリコプターを装備しておらず、具体的な支援の内容は救出された怪我人の搬送等であり、さらにそれを日本側が拒否した事実もないとし、オーストラリアの新聞記事に無批判に追随した報道各社がデマを拡散させたと強く批判している[19]。これらの報道の流れは事故原因に関する憶測を呼ぶ一因ともなった。

なお、事故より10年後に、在日アメリカ軍の現場特定・救助の申し出は事実であったとして改めて発表されている。なお、上記の内容は後年に新潮社の週刊誌に詳細記事が掲載されたり、上智大学文学部が英語の入試問題として、このC-130輸送機の操縦士の手記を載せたことから再び議論が高まった

墜落場所がわからず捜索本部が長野県から群馬県にかわり
結局現場についたのは日の出とともに登った地元の消防団であつた

その後自衛隊のヘリコプターにより4名の生存者が救出されるが

その生存者の証言によれば墜落当初は多数の生存者がいたそうです

墜落1時間で米軍が墜落現場を特定し暗視装置をつけた
救出隊の出動を阻止した闇の集団はだれだろう
しかも墜落場所を捜査本部にも教えず
捜索本部が墜落場所を把握したのは翌日になる

米軍が救出の乗り出せば多数の生存者が救出されたはずです

当時の闇の集団に怒をおぼえます!!


日航ジャンボ機 - JAL123便 墜落事故 (飛行跡略図 Ver1.2 & ボイスレコーダー)

JAL123墜落までの軌跡(無線交信等が記録されてる)




日航機墜落事故 生存者証言 【墜落瞬間の恐怖】 遺書 ボイスレコーダー






【閲覧注意】日航機墜落事故 生存者が語った墜落までの生々しい証言が恐怖



【大竹まこと×森永卓郎×倉田真由美】 日航機123便墜落事故の謎 
真相を追った元日航客室乗務員!




【初公開・23年前に製作されてお蔵入りになった番組】日航123便墜落事故検証特番



123便の残骸か…相模湾海底で発見 日航機墜落30年(15/08/12)



























日航機墜落事故から36年 灯籠点灯し犠牲者に祈り(2021年8月12日)























佐久電話局での日航機事故対応と教訓(詳細報告)
―携帯電話はこうして生まれた―

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日航機墜落現場の御巣鷹山での救助活動の状況
講師:佐藤 修三氏(1971年電子工学科卒)

事故発生1985年(昭和60年)8月12日(月)PM6:50

日本航空123便墜落事故は、1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行 同社定期123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」) に墜落した航空事故である。

乗員、乗客524名で、520名が死亡した世界最大の航空機事故である。

事故当時、佐久電報電話局長の任にあった講師の佐藤修三氏は、目まぐるしく変わる墜落地情報に翻弄されながらも、 的確な判断とリーダシップを発揮して、大混乱のなか困難を乗り越えて通信手段を提供してい行くことになる。

1 事故対応模様

1.1 事故発生

当日は頭が重く、17:30には帰宅する。まだ日は高く、 夏休みで我が家に泊っていた甥姪二人と私の息子 寛太郎、幸之介、泰三を連れて近所のグランドで野球の練習をした。18:30ごろ帰宅し、夕食後NHKのニュースを見ていた。 19:20ごろ「日航機行方不明」の字幕スーパーが入り、 驚きとともに何となく事件に自分が関係している様な一種の緊張感を感じた。
19:45ごろ突然NHKは通常番組を中断し、日航機事故特別番組に切り替えた。
加福機械課長から「佐久市付近に墜落」との報道あり。至急屋上にて調査します」の電話があり、 急いで着替えて出局した。(20:00ごろ)

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佐久電話局の受け持ちエリアは赤色の破線で示されている範囲。 東は群馬県境、南は山梨県境。北は小諸、軽井沢、西は八ヶ岳連峰。 東京都の半分ほどの広さ。

1.2 対策本部の設置

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次長室に「日航機墜落事故対策本部」
を設置した。

派遣したので、佐久局も準備してほしい。 今晩中に100本程の臨時電話設置になるかも知れない」と連絡を受けた。
加福機械課長より「2F試験室奥に、対策本部の設置にとりかかった」 との連絡を受けたが、至急次長室に変更するように指示した。
次は社員の動員である。都築君(労厚係長)から、 分会執行部が市内で懇親会を開催しているとの連絡を受けた。 そこに連絡し各課必要人員を呼び出すように依頼。盆で帰省中の、 児玉線路課長、下条営業課長には連絡がついたが。 北沢次長、村山庶務課長には連絡が取れなかった。
このような中で20:30、次長室に“日航機墜落事故対策本部”を設置した

1.3 初仕事は、資材とガソリンの手配
20:30 計理課長に電話機在庫数の把握を依頼、 都築君に隣の相馬ガソリンスタンドを開けてもらい38台の全車両を満タンにするように指示。
TVでは、暗闇の中でいく本も筋状に燃えている山林を、ヘリコプターが実況中継。 場所は不明。北相木村の御座山、北斜面か?との報道あり。

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1.4 臨時電話の申し込み殺到
21:00ごろ、報道関係の臨時電話設置申し込みが殺到
地元の朝日新聞坪井記者より、北相木村、 御座山荘に臨時電話を10本、FAX1台設置の申し込みを受ける。
神頭副課長に、場所と電話線の空回線を調査させる。 このころから報道関係の臨時電話設置申し込みが殺到する。 御座山荘前には、空回線1本との連絡。北相木村役場では11本しか空がない。
22:00ごろ、北相木村役場に向けて、 TZ-403(400Mhz帯の非常災害対策用電話で24回線が確保できる。
北相木村は、佐久市の東南方向、佐久平を南から北に流れる 千曲川とはほぼ直角に東に伸びた谷間にある。 このため、佐久本局からは、直接電波が届かないため、 1班は中継基地になる八ヶ岳の中腹へ、もう1班は北相木村村役場へ)の出動を要請した。


上部災害対策本部に 衛星中継車は近所にいないか?問い合わせをしたところ 3台(TV用2台、電話用1台(電話108回線用)あるとの連絡を受ける。 電話用は、21:00ごろ伊豆を出発し、甲府へ向かうとのこと。(22:10)
1.5 臨時電話開通
第1グループ(杉山グループ)は臼田警察へ出発。第2グループは北相木村へ、 第3グループは御座山荘へ、第4グループは御座山荘に向けての線路(回線)増設工事に出かけようとしていたが、 第4グループは待機させた。 手薄の中、他の臨時電話の申し込みが殺到しそうであったからである。
2:00ごろ、TVは“墜落現場は北相木村ではなく、南相木村の御座山南斜面”へと放送内容を替えた。 朝日新聞社に「本当に御座山荘でよいか?」との確認をした。 OKとのこと。但し、回線がないので、しばらく1本で我慢してほしい旨も連絡。
日付が変わり13日00:00過ぎに北相木役場を中心に臨時電話が続々と開通し始めた。


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1.6日本航空事故対策本部の設営
13日 1:00ごろ、TV報道を見ていた職員から、 「日本航空が乗客の家族を乗せたバスを小海町に向けるという情報があるとの報告有り」、 小海町のどこなのかが不明のため、小海の局長に調査依頼。 (佐久電報電話局の下部組織として、営業窓口のみを備える臼田局、小海局の2組織がある)しばらくしてから、 “小海総合センター”との情報が入った。

2:00ごろ、日航本社の部長より、 「東京からバス5台、大阪から2台、乗客の家族を乗せ出発するので、 小海総合センターに臨時電話30本、できればプッシュホンを設置して欲しい」との要請を受けた。 小海町は国道141号から、北相木村、南相木村、両村へ行く分岐点に当たるため、 “やはり南相木に墜落か”と観念すると共に、今後の予想も付かない作業を思うに、 ついに来るべきものが来たと覚悟を決めた。
小海総合センター前の空回線は調査の結果15本しかなく、日航依頼分と、 今後予想される報道関係分と合わせるとかなりの不足になると思ったので、 佐久、小海間にTZ-403により24回線確保の為の出勤を要請した。(3:45)

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小海センターは、北相木村と南相木村の分岐点。“やはり南相木に墜落か”と観念

1.7苦情対策
AM1:00ごろ、報道関係から臨時電話不十分との苦情が相次いだ。
・ 回線が足りない。
・ 自社専用の電話がほしい。
・ 本社に申し込んだのにつかない。等々。
読売新聞本社の福田氏からは、「局長を出せ」と言われ、 小生から「当局社員は、徹夜で電話の設置に尽力している。 又、回線も山間地のため十分に無い。各社公平に扱わなくてはならない」と説明し、 最後は「ご苦労さんですね」と言葉を交わして受話器を置いた。

1.8南相木村と通信衛星北相木村、小海町の2箇所で無線設備TZ-403は使い切った。墜落場所がもし南相木村だった場合、十分な通信施設が確保できない。 衛星通信しかないと判断した。上部機関にその旨連絡するとともに、設置場所の問題があること考えた。 その時、篠原長野通信部長の言葉を思い出した。 「前年の王滝の地震の際、名小路局長が地元と日頃良くコミニケーションをとっていたので、 衛星の設置場所がスムーズに決まった。 各電話局長は常日頃から行政との連携を心がけよ」と言うものだ。佐久統制無線中継所の稲垣係長、佐久局上原分会長、 佐久局営業小平係長に南相木のどこに設置できるかを検討してもらった。 材木置き場と小学校の校庭が候補に上がる。 但し、4tトラック2台分の面積と、南方向に仰角35°が確保できるかが不明である。4:00ごろ、稲垣、小平両氏に調査に出かけてもらった。 結果は両方ともOKで、南相木村小学校に決める。


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墜落現場が南相木村に近い場合、衛星通信車設置するしかなく、 予め調査し南相木村小学校と決める。

1.9近隣局の応援
12日23:00ごろ、小諸局の応援部隊が到着。 線路棟で待機してもらう。夜中すぎに南相木村役場に臨時電話の申し込みが殺到したので、 小諸部隊に出動を要請した。
上田局部隊については、翌日の対応に備え、上田局待機をお願いした。 但し、6:00ごろ小海総合センターのTZ-403が開通したが、線路部隊がいないので、 電話をつけられないとの連絡を受け、急遽、上田部隊に出動を依頼した。
1.10 現場との情報連絡の乱れ
12日 22:00ごろから逐次電話設置の工事部隊を派遣したが、その後の連絡が取れない。 社員は電話を開通させた後、通常は本部に連絡することになっていたが、連絡がない。 後で聞いた話だが、電話設置が完了するや否や報道関係者に電話機を取られてしまい連絡ができない。 又、電話をかけてもトラフィックの異常な増加により電話局間の回線がふさがり、 電話がかかりにくくなっていたことも分かった。
後の反省会で、大量の電話を開通させた時には、連絡責任者を明確にしておくとともに、 1本の電話機はNTTの連絡用に確保することとした。

1.11衛星中継車の南相木村への誘導
衛星車(電源車、アンテナ、交換機等トラック2台で1組)を南相木村に誘導する為、 2班出動させた。桜井氏等第1班は南相木小の校庭に出向かせた。陣取りである。 災害発生時には、往々として広場が駐車場として使われてしまい、 後から衛星中継車を入れようにも入らないとの予想を立てたからである。

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衛星通信車。伊豆から来た衛星通信車を誘導、朝6時に南相木村に到着。一安心。

1.12墜落現場の確認と民族の大移動
13日朝8:00ごろ、墜落現場は群馬県上野村との報道があり、しばらくすると、 各機関の対策本部も群馬側に設置するとの報道が伝わった。
8:45ごろ佐久局では 南相木村の衛星車を使い、臨時電話を生かそうとしていたが、 上部災害対策本部から待ったがかかった。続いて、衛星車を群馬側に移動させる為、 10cm×10cm×5mの角材20本、2t以上のクレーン車を準備してほしいとの要請があり、 線路課から地元の材木屋とリース会社に手配した。 1時間後の10時には手配ができ、旭ヘリで4回に分けて衛星中継機材を上野村へ空輸した。 角材は、機材を地面から離して置くために使い、 クレーンは、トラックから機材を降ろすために使うものと想像した。
日航機の乗客の家族も小海総合センターからバスで藤岡市に向かうとの連絡があった。 後で日本航空の友人から聞いた話では、国道141号線、 佐久電報電話局前で弁当を積んで出かけたとのことである。

1.13 生存者確認

図17

4名の生存者が確認された。徹夜の疲れが一気に吹き飛んだ。(写真:business nikkeibp.co.jp)


13日8:00ごろ、4名の生存者が確認された。 川上慶子さん(12)、吉崎博子さん(34)、美紀子ちゃん(8)、 そして、アシスタントパーサーの落合由美さん(26)である。 10:00ごろニュースで生存者がいると第一報が伝えられた時には 正直言って「まさか?」と思ったが、 11:00ごろの報道では救出の模様を映しており、 当電話局内対策本部のメンバー全員「やったぞ!」と言いたげで、 昨夜来の徹夜の疲れが一気に吹き飛んだ気分であった。


1.14三国峠への自動車電話の設置

13日昼すぎ、信越無線支社から三国峠に自動車電話による特設公衆電話の設置指示が出た。
佐久統制無線中継所の稲垣君が眠そうな目をこすりながら、 電話局から1名貸してほしいとの要請を受け、元気そうな線路課の渡辺君を同行させた。
他の2台のうち、1台はJUMPSより、他の1台は諏訪から運ばれるとのこと。
16:00ごろ、稲垣君から連絡があり、三国峠は報道の車でごった返しており、 車の配置が難しいとの連絡を受けたが、かろうじて1台特設公衆電話を設置したとのこと。
  
自動車電話を利用した、峠の上の公衆電話は、日本で初めてではないかと思う。


図18
三国峠にこのような自動車電話を利用した特設公衆電話を設置。峠の公衆電話は日本で初めて。

1.15 事故現場への電話の設置
13日朝、本社で昨夜来の出来事を真藤社長に報告したところ、 社長より「事故現場に電話を設置せよ」との指示を受けたとのこと。
上部からの指示は 現場に最も近い川上村秋山交換局から、 三国峠の梓山無線中継所間にTZ-68を2対向(計6回線)を長野で準備し、 梓山無線中継所から事故現場までは群馬側でTZ-68,2対向を準備することとしたとのこと。
昼頃、小諸局、ならびに支社の応援を受け、 機械課塩川係長をチーフに TZ-68を秋山と梓山無線中継所の2箇所に運搬した。
昨夜から徹夜の職員も多く、皆の努力には頭が下がった。
14:35には 長野県側は6回線とも開通し、 後は群馬側との接続を待つばかりの状態となった。 尚、この無線は 通常は電話のない梓山無線中継所との連絡用ともなった。 20:00ごろ、TZ-68のSW(電源)を落とし、 中継所に2名、秋山地区の白木屋旅館に機械課の職員を泊めた。
1.16 ねぼけまなこの分会対応13日20:30ごろ、24時間ぶりに帰宅し、入浴後すぐに深い眠りに落ちた。 しかし、ほんの間もなく23:00ごろ「電話よ」と言う妻の声で起こされた。 又、何かあったかと目をこすりながら受話器をとる。支社の深沢保全課長からであった。群馬側で「明朝4:30から事故現場に無線機材を下ろすので対応を頼む。」との話であった。 早速、組合に対応すべく分会長宅に電話、先方も昨夜来の徹夜で眠そうだ。 了解をとりつけ、無線中継所の間(アイダ)所長に連絡。中継所の緊急無線で稲垣係長を起こし、 明朝4:30に梓山無線中継所のヘリポートでヘリコプターを迎えるように指示。一方、加福機械課長には「白木屋旅館に泊っていた塩川係長に 5:00に秋山のTZ-68無線の電源を入れるように依頼」。 色々な連絡を終え、24:00に再び休む。4:30に目覚ましが鳴り、妻の作ったおにぎり30個を持って出局。群馬支社の災害対策本部と連絡をとる。 ヘリポートにて出発に備えて待機しているが、いつ飛べるか不明とのこと。
1.17 迷子さがし
9:30ごろ、上部災害対策本部より 「中部電力のヘリポートに機材と要員をおろしたので、迎えを頼む 」と連絡あり。 すぐに中部電力に電話「海の口と松原湖にヘリポートあり」との連絡を受け、 川上村に近い海の口に秋山から2班を出迎えに行かせたが、ヘリコプターが降りた様子はない。 そうこうするうちに、10:30ごろ佐久災対本部に 東京電力小諸営業所より電話が入った。 東京電力十石峠のヘリポートから東電私設電話を使い、NTT職員が連絡して来たとのこと。 「ヘリコプターが東電十石峠に着陸してしまった。 佐久電話局との連絡をとるために、東電電話回線とNTT回線との接続を依頼されたが、如何にすべきか」 との問い合わせであった。是非つないでほしいと依頼し、しばらくすると十石峠から電話が入った。群馬支部の田中調査員からで、「誤って十石峠に降りた。 群馬の災対から車で迎えに来るので、その車で梓山に向かう」とのことだった。 そんなことなら、TZ-68を長野側で準備したのにと、 現場への電話設置が遅れてしまうことが残念であった。 それでも16:00ごろ、群馬側のTZ-68が梓山に到着し、 17:30ごろ事故現場との間に1回線が開通した。他の2回線のうち、1CHはハード良、他の1CHは夏山無線との混信等でNGとのこと群馬支社は20:00ごろまでに色々とやっていたが時間切れ。 夜も遅かったので群馬支社の職員には、梓山中継所に泊るように勧めたが、 帰らなくてはならないと三国峠から群馬がわに下山して行った。
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1.18 事故現場への回線増
8月15日朝、上部災対からTZ-403設置により、事故現場の電話を増やせとの指示あり。 「長野側は 秋山~梓山間にTZ-403を設置せよ」とのことであった。 もしそうすると、無人局の秋山局にも要員を貼り付ける必要があることから、 佐久本局―海の口-梓山のルートでTZ-403を設置すれば、秋山局での対応が不要である。 早速、その旨上申するとOKとの返事。北相木用のTZ-403が空いたので豊中中継班を海の口へ、北相木の403を梓山へ移動するように依頼。15:00ごろには、佐久本局、海の口、梓山へのルート設定が終了した。 後は、群馬側のTZ-403を待つばかりとなった。1.19 事

故現場への回線増完了
15日は群馬側の行動はなく、16日に持ち越された。 16日早朝、ヘリを使いTZ-68の片割れを事故現場へ運ぶとともに、 もう片方を陸路、梓山へと運んだようである。16日の午前中には接続も完了し、現場への電話は5回線となった。

1.20 TZ-68とTZ-403
佐久局としては、無人局秋山に人を配置しなければならないという問題があるので、 佐久本局から梓山に伸びているTZ-403と群馬側のTZ-68の接続が望ましい。試験的に片方の接続替(梓山のTZ-403と群馬側のTZ-68の接続)を行ったところ うまくいったので、 もう一方も切り替えた。事故現場の5本の電話は、いずれも秋山局収容から佐久本局収容となった。 これで長野側では、無人局の秋山局に人をおかなくてもすむ。15:00ごろ、今から秋山局のTZ-68と梓山のTZ-68を撤収すれば、 今日中には佐久に戻れると考え、TZ-68撤収の指示を出した。後で、独断でこの指示を出したことに、上部は不満げであったが、 当方としては一人でも職員を休ませたかったのである。

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日航機墜落事故2ヶ月半の対応を終えた講師佐藤修三氏

2. 後日記
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(1)ヘリコプター事故発生から2週間程して、お世話になった方々の所へお礼に伺った。その中で、南相木村の助役さんとの話の中で、事故の後、正体不明のヘリコプターが飛んで来て、 小学校の周りのレタス畑の黒いビニール(マルチという)を吹き飛ばしてしまった。方々手を尽くして調べたが、現在まで正体不明とのこと。 「あっ、それはNTTでチャ-ターした旭ヘリでしょう。保障させていただきます」 ということで一件落着した。

(2)ショルダーホン

図20

事故現場で大変役立ったショルダーフォン。後の携帯電話への発展のきっかけとなった。

事故から数日後、自衛隊から“NTTから借りている、ショダーホンは大変役に立っている。 是非、可能なだけ借用したい“との連絡があった。上部と相談し、横須賀の研究所に、 “あるだけ貸して欲しい。市ヶ谷の自衛隊に届けて欲しい”と依頼した。 後で自衛隊から聞いた話だが、市ヶ谷でNTTから受け取ったショルダーホンは、 ヘリで事故現場に運ぼうとしたが、天候不良のため、入間基地から車で運んだとの事であった。なお、この時のショルダーホンは、まだ郵政省の許可が下りておらず、 あくまで人命救助のための非常通信設備として提供されたものである。

日航機事故での活躍が認められ、この年の10月に、商用試験として、一般にも開放された。 これが将来の携帯電話のもととなった。

我々の知らないあいだに、ショルダーホーンを事故現場で使える様にして (臨時の基地局を設置し)、自衛隊に貸出した判断を誰がしたのか疑問を持っていた

最近わかったことであるが、小生の友人、 佐藤健二郎君がたまたま、千代田無線中継所の所長をしており、 この時の経緯を聞くことが出来た。

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臨時電話の設置

マスコミ、日航等からの依頼による電話やFaxの設置。
災害救助等では24時間対応。

・佐久電報電話局の日航機事故対応では、当日深夜から翌朝までに近隣電話局の応援をもらい150本設置。 (通常日の昼間では40本程度)。
・自衛隊8000名(長野4000、群馬4000)。警察(人数不明)。
・マスコミ8000名(長野4000、群馬4000)。
・携帯電話は未だ存在せず、通信手段の確保ニーズは非常に高かった。
・災害用には特設公衆電話(無料提供も)あるが、臨時電話は有料。

(例)自衛隊の要望で、南相木村の小学校体育館に赤い公衆電話を設置した。
(硬貨詰り対策並びに両替は、小学校の用務員さんに電話のカギをお渡しし 、 10円玉が一杯になったら袋に取り出してもらい、また両替もお手伝いいただいた。)

備考:川上村、南相木村等において、一般家庭の電話を借用した例も聞いている。

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当時のTZ-403(木村ほか、「日立評論」51-6(s444-6))


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企業遺産 ドコモのショルダーホン 日航機事故で緊急登板
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NTTドコモが発足してから25年が過ぎた。携帯電話の原型となった「ショルダーホン」をNTTが世に送り出したのが、1985年の暑い夏。当時の傍流だった開発者たちの思いが詰まったケータイはその後、誰も予想できなかった普及曲線を描く。

■超法規的措置で使用許可

85年8月15日、NTTの無線技術者だった加藤薫氏(66、現ドコモ取締役相談役)は、戦後最悪とも言われる航空機事故の現場に向かった。3日前に日航ジャンボ機が墜落した御巣鷹山だ。草をかき分けて登山し、山の尾根に立つと真っ黒な煙が見えた。「ここから先には立ち入れません」。現場捜索に追われる警官に加藤氏が差し出したのが、開発したばかりのショルダーホンだった。加藤氏は自衛隊の関係者を呼んでもらい、その場でショルダーホンが家庭の電話機のように通話できることを実演した。

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ショルダーホンの重さは3キロで一度の充電で話せるのは40分だけ。大きめの弁当箱のような箱に電話機がくっついている。ストラップで肩からぶら下げて持ち歩くが、当然ながらズシリと重い。社内では「着脱式自動車電話」と呼ばれ、あくまで持ち運べる自動車電話という位置づけだった。

それでも御巣鷹山の捜索で使われていた無線機より性能は高い。事前の性能評価では、山中に2つあった中継局を少なくとも1つにはできるという結果が出ていた。12台が捜索隊に提供され実際に使われた。

実はショルダーホンの商用化は9月に予定していた。この時点で電波利用の免許は得ていなかったが、NTTは郵政省(現総務省)に超法規的措置の適用を申請。水戸市と宇都宮市の拠点から電波を送ってつながるようにした。加藤氏をリーダーに8人を事故現場に送り込んだ。ショルダーホンは予期せぬ緊急登板でデビューした。

の6年前に日本電信電話公社(現NTT)に無線技術者として入社したのが、現ドコモ社長の吉沢和弘氏(62)だ。チューター役が加藤氏。2人ともショルダーホンの開発陣に名を連ねた。

■ケータイつくった「無線屋」

2人が次に目指したのが正真正銘の携帯だ。1年半後に完成したのが日本初の携帯「TZ-802型」だ。重さは約900グラム。当時としては画期的な小ささだった。

最も苦労したのは電波を捉えるアンテナだった。本体から引き出せる形に行き着くだけで1年ほどかかった。NECや松下電器産業(現パナソニック)など他社の技術者も訪ね歩いた吉沢氏は「自分一人では何もできないということを学んだ」と話す。

「無線屋」。固定電話の会社だったNTTで、加藤氏や吉沢氏は、半ば蔑みの意味を込めてこう呼ばれていた。完全な傍流だが、吉沢氏は「傍流だからこそ面白いことができる」と考えたと言う。92年にドコモの前身となるNTT移動通信網がNTT本体から分離される際に、吉沢氏は自ら手を挙げて参加した。

加藤氏は94年に加わったが部下から冗談交じりに「左遷ですか」と言われた。当時はまだ携帯ではなく女子高生の間で人気だったポケベルでなんとかやりくりしていた。

だが90年代後半になると携帯電話が一気に普及する。99年にはネットをケータイで使えるiモードが実用化され、ドコモが爆発的な成長を始めた。固定電話は97年を境に減少に転じ、かつての無線屋が主役に躍り出た。加藤氏は2012年にドコモ社長となり、16年には苦楽を共にした吉沢氏にバトンをつないだ。

だが、2人の無線屋がトップとなった頃、ドコモは新たな試練にさらされる。米アップルがiPhoneで幕を開いたスマートフォン(スマホ)時代への挑戦だ。

■iモードの成功が足かせに

ドコモはショルダーホンを源流に日本初の携帯電話を発売し、1990年代に携帯の王者となった。99年2月、その地位を盤石にするかに思えた新サービスを始めた。ネット接続サービス「iモード」だ。

iモードはドコモの3人の社員が中心となって生まれた。その一人、元雑誌編集者の松永真理氏(62)は著書「iモード事件」で「IT革命なんてそんな大それたことは、はなから思ってもいなかった」と振り返るが、紛れもなく電話とネットが融合するモバイルインターネット時代の到来という「事件」だった

その実力は当初から認識されていたわけではない。かつての無線屋、加藤氏が初めてiモードで読んだ電子メールは、3人衆の一人の榎啓一氏(68)から届いた。液晶の画面に小さく映る字に加藤氏は思わず言った。「榎さん、こんな字読めませんよ」

加藤氏の予想を反してiモードは爆発的にヒットする。ライバルのKDDIも「EZweb」で追随する。両社の意向を受けて日本の電機メーカーが次々と開発する端末は当時、間違いなく世界をリードしていた。だが、そこに落とし穴があった。iモードは日本国内で独自の進化を遂げ、海外展開で後手に回った。

2007年、本当の事件が起きる。米アップルが「iPhone」を発売し、スマホ時代の幕が開いたのだ。iモード機にこだわったドコモは完全にスマホの威力を見誤り、最先端だった日本製の携帯はいつしか、絶海で閉ざされた生態系を持つガラパゴス諸島になぞらえ「ガラケー」と呼ばれるようになる。

12年にドコモの社長に就任した加藤氏は翌年にiPhone導入を決めた。ソフトバンクに遅れること5年。不利な契約から不平等条約とも皮肉られ、NTTグループ内からも「ドコモはアップルの代理店に成り下がった」との批判も漏れた。加藤氏も「iモードの大成功が足かせになったのは否めない」と認める。

そこで方向転換を打ち出す。スマホそのものではなくスマホの周辺で生まれる「生態系」を収益源に取り込み始めた。雑誌が読み放題の「dマガジン」や映像配信の「dTV」だ。16年に加藤氏はかつてショルダーホンの開発で苦楽をともにした吉沢氏に社長のバトンを託した。異業種と連携して生態系を育てる路線は同じ。吉沢氏は「パートナー企業のビジネス拡大がドコモの成長につながる」と話す。

「スマートライフ領域」と呼ぶ生態系ビジネスの営業利益は17年3月期に初めて1000億円を超えた。それでもまだ利益全体の12%だ。自動運転、仮想現実(VR)、人工知能(AI)搭載ロボ――。吉沢氏は20年に実用化する次世代の携帯通信規格「5G」に向け、新事業のタネをまく。かつて自らの手で生み出した携帯ビジネスでの再挑戦が始まる。

(企業報道部 杉本貴司)

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ドコモダケだよ。「奥村カーブ」って知ってる?冬休みに調べてみたんだ!
携帯電話がつながるしくみの基礎をつくった、ドコモの大せんぱいである奥村善久さんという先生が1968年に考えた理論なんだって。
1979年には、先生の理論をもとに日本が世界ではじめて実用的な携帯電話サービスをはじめたらしいよ。写真はサービスがスタートしたときの携帯電話の初号機だよ♪自動車電話として使われていたみたいだね。
いまでも、世界中のケータイ電話のシステムをつくるのに、先生の考え方が使われているんだって。
そんな理論を考えた奥村善久さん


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奥村善久


奥村 善久1926年7月2日 )は、日本の工学者電波の伝播の研究に取り組み、電波が伝わる環境を独自に分類した経験則である「奥村モデル(奥村カーブ)」(或いは、奥村カーブを式に表した「秦モデル」と併せて「奥村-秦モデル」)の構築で知られる。石川県金沢市生まれ。