デイビー・クロケット (戦術核兵器)


 M388 デイビー・クロケット(M388 "Davy Crockett")は、アメリカ合衆国が開発した戦術核兵器システムである。

名称は、アラモの戦いで玉砕した英雄、デイヴィッド・クロケットの名に因む。

なお、M388はW54核弾頭を含めた“核兵器”としての弾頭部の制式名で、砲システムとしての制式名はM28およびM29、発射装置(無反動砲)の制式名はM63およ
M64である。


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運用試験中のXM28(XM63)(1961年3月メリーランド州アバディーン性能試験場での撮影)


開発の経緯

第二次世界大戦後のアメリカは、ソ連戦争行為を仕掛けてきた場合、即座に戦略核兵器で報復攻撃を行うという「大量報復戦略」を取っていた。しかし、この戦略では大国間の直接戦争は抑止できても、朝鮮戦争のような、大国同士が直接戦争行為を行わない「小さな戦争」、大国の同盟国間において行われる「局地戦」は抑止することができなかった。このため、「小さな戦争(局地戦)」から「大きな戦争(全面戦争)」まで、様々な段階に対応した核兵器のバリエーションを増やすことが必要だと考えられた。

歩兵部隊が手軽に運用できる大きさの核兵器を装備することは、NATO軍に比べ圧倒的に数的優位をもっていたソ連軍に対する抑止力として大いに期待され、威力が小さくとも通常兵器と同じように使える「手軽な核兵器」の開発が急務とされた。

このような背景から1957年から1958年にかけて立案された計画は"BGADS"(Battle Group Atomic Delivery System. 戦闘群核(兵器)運送システム)と命名され、この計画は当時の陸軍参謀総長であるマクスウェル・D・テイラー大将[1]の推し進める「ペントミック師団」[2]の重要な構成要素として位置づけられた


開発

前述のような経緯からBGADS計画は高い優先順位を与えられ、1958年1月より開始された。当初は既存の無反動砲弾頭として通常の無反動砲弾薬と同じように装填・発射される「無反動砲用核弾頭」であったが、人力もしくは軽車両によって搬送できる大きさの無反動砲の弾頭のサイズの核弾頭を開発することは困難であり、また、既存の無反動砲では確保できる射程が必要とされる核弾頭の威力半径を下回ってしまうため、計画は専用の発射装置として開発する新型無反動砲を用いた外装式の弾頭に変更された。

発射装置である無反動砲は兵士が肩に担いで運用できる小型の“軽砲型(light)”と、三脚架台に載せる、もしくは軽車両に搭載して運用する大型の“重砲型(Heavy)”が構想され、ロックアイランド造兵廠英語版が開発を担当した。軽砲はXM28 、重砲型はXM29の砲システム名で開発が進められ、XM28用はXM63 4.7インチ無反動砲(XM63 4.7inch recoilless rifle)として、 XM29はXM64 6インチ無反動砲(XM64 6inch recoilless rifle)として試作品が完成したが、サイズ、重量的にXM63を個人が肩担して運用することは不可能で、XM28も地上設置もしくは車両搭載型の無反動砲として完成した。

1958年8月には"Davy Crocket"の呼称が公式のものとして決定し、同年11月には最初の発射装置(無反動砲)が完成して納入された。計画の要である小型核弾頭の開発は難航したが、1961年にはアメリカ核兵器開発の権威であるセオドア・ブリュースター・テイラーによって当時世界最小(装置総重量23kg)の核弾頭であるW54が完成し、これは即座にこの計画に応用され、1961年5月M388 デイビー・クロケットとして完成し、制式採用された。

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M29 核無反動砲システム
M388弾頭(模擬弾)を装着した状態のM64無反動砲、および砲身下に装備された37mm距測銃と三脚式砲架で構成されている
メリーランド州アメリカ陸軍兵器博物館(日本での通称は「アバディーン戦車博物館」)の展示品)



生産・配備

M388は開発が終了した1961年からただちに生産が開始され、総数2,100発が製造された。生産された弾頭および発射装置は1961年-1971年にかけて主に西ドイツに駐留する米軍に配備された。

1961年の配備開始後、射程の短いM28は段階的にM29に置き換えられ、以後は実戦装備としてはM29のみが用いられた。1962年7月7日および17日には、リトルフェラー作戦英語版の名称でネバダ核実験場で核弾頭の実射訓練が行われている[3][4]。この他、1962年から1968年にかけて、ハワイ島ポハクロア演習場英語版において測距銃を用いた射撃訓練が計714回行われており、この際に用いられたM101 20mm弾は弾頭に劣化ウランを使用していた[5]

M388は1967年8月には西ドイツ駐留軍より引き揚げられ、これ以外の配備先からも順次実戦装備より解除されて予備兵器となり、1971年には全数が退役した。冷戦終結にともない、アメリカは1991年9月ヨーロッパからの地上発射式戦術核の撤去を宣言した。こうしてM388は一度も実戦で使用されることなく全てが廃棄された。

M388の模擬弾およびM63/M64の両発射装置は2018年現在もいくつかの数が現存し、アメリカ各地にある軍事博物館や基地の資料館などで展示されている。

ドイツ連邦軍への配備計画[編集]

冷戦時代の西ドイツにおいて、アデナウアー政権1950年代後半から1960年代前半にかけて国防相を務めたフランツ・ヨーゼフ・シュトラウスは、デイビー・クロケットに大きな期待と支持を寄せ、アメリカに対して西ドイツ軍(ドイツ連邦軍)にニュークリア・シェアリング政策に基づくデイビー・クロケットの供与を希望した。

彼によれば、M388核弾頭はワルシャワ条約機構軍に対する効果的な戦力であり、その威力は1発で通常火砲の40門から50門の全力斉射に相当するため、デイビー・クロケット1基で2個ないし3個砲兵大隊を代換でき、これによりNATOの抑止力を大幅に向上させる事ができると共に軍事予算を大幅に削減でき、効率的かつ効果的な戦力の増強と軍事費の削減が実現できる、というものである。

しかし、これは事実上「東側との戦争状態に突入した場合、即座に戦術核兵器を使用する」ことと同義であり、戦術核兵器を重要な戦力と位置づけつつも「敵が通常戦力で攻撃を行った場合、まずは極力通常戦力のみで対応し、核兵器の使用は敵が核兵器を使用、もしくは使用を決断したと判断した後に決定する」という当時のアメリカの基本戦略(柔軟反応戦略)に反していた上、NATOの軍事力に占める核兵器の依存度を過度に偏重させるものであることから大きな反発を受け、最終的にはアメリカによって却下された[6]

日本への配備[編集]

デイビー・クロケットは世界各地のアメリカ軍基地に配備されたが、日本でもアメリカ合衆国統治下の沖縄(「アメリカ合衆国による沖縄統治」の項参照)に配備されていたことが、1999年にアメリカの環境保護団体NRDC英語版(Natural Resources Defense Council. 天然資源保護協会)が公表したアメリカ国防総省の核兵器配備先リスト[7]によって確認されている。

構造

デイビー・クロケットは無反動砲W54核弾頭を内蔵したM388弾頭を外装式に装填し運用する外装式砲弾システムである。発射に用いる無反動砲は口径4.7インチ(120mm)のM63と6.1インチ(155mm)のM64の2種類があった。

砲本体の重量は、M63が185ポンド(約84kg)、M64が440ポンド(約199.6kg)、M388弾頭は尾部に4枚の安定翼のついた全長31インチ(約78.75cm)、最大直径11インチ(約28cm)の紡錘形有翼砲弾で、重量は76ポンド(約34.5kg)である。兵士たちは、その外観からM388弾頭を“原爆スイカ(atomic watermelon)”と通称していた[8]

M63/64共に砲自体の構造はガス噴射式の無反動砲で、砲身は線条のない滑腔砲で、発射薬は側面に多数の孔が空いたケースに収められており、点火・燃焼すると一段太くなった薬室内に燃焼ガスが一旦充満した後に砲尾の噴射口からノズルを介して噴射されることで反動を相殺する方式である[9]

弾頭は外装式のものを"launching piston"もしくは"spigot cylinder"の名称の分離式尾筒の一種を用いて発射する特殊な形式で、曲射専用の発射方式と併せ、無反動砲というよりは軸発射式迫撃砲(spigot mortar)に近いものであった。装填は砲口から行われ、発射薬を装填した後に尾筒を挿入、尾筒に弾頭を装着して装弾完了となる。発砲すると発射薬の燃焼ガスによって尾筒とその先端に連結された弾頭が撃ち出され、発射後尾筒は分離して弾頭部のみが目標地点に飛翔、設定された所定の高度で炸裂する。

M63には20mm、M64には37mmの単発式測距銃(スポッティングライフル)[11]が備えられ、この銃は弾頭と同様の弾道を描く曳光弾を発射した。

なお、デイビー・クロケットの用いる弾頭にはM388核弾頭の模擬弾や訓練弾を除けばそれ以外の種類がなく、この砲システムは核弾頭専用である。開発初期には通常の無反動砲としても用いることができるよう、通常弾(榴弾対戦車榴弾など)の開発も準備されたが、滑腔砲身のため低速の有翼弾頭では命中精度が低く、また、装弾方式が外装式に変更されたことと、現実の運用は大仰角による間接射撃専用となることが決定したため、通常弾の開発は棄却されている。

運用

デイビー・クロケットは3人の砲員によって操作され、ウィリス M38またはM151 1/4トン 4輪駆動車に搭載され運用される。4輪駆動車の他、特に重量のあるM29システムはM113装甲兵員輸送車もしくはM116“ハスキー”装軌式貨物運搬車に搭載されても運用されたが、M113およびM116に搭載された場合には、射撃は車両から降ろして地上で三脚砲架に載せた状態でのみ行われた。

発射装置であるM63およびM64は車載もしくは地面に三脚で設置して運用する。両砲共に構造的には水平弾道で直接射撃を行う「直射砲」ではあるが、核砲弾運用時には破壊範囲を最大にするために最適高度で弾頭を空中炸裂させる必要上、射撃時には角度を調整して野戦榴弾砲迫撃砲のように大きな仰角をつけた状態となり、発射した砲弾が曲射弾道を描く「曲射砲」として照準・発砲される[10]。M63の最大射程は1.25マイル(約2,011 m)、M64は2.5マイル(約4,023 m)である。

W54核弾頭の核出力は可変式で、調整範囲は0.01ktまたは0.02kt(TNT火薬10/20トン相当)[12]であった。弾頭の威力は主に強烈な放射線の効果によるもので、低出力の設定でも、核弾頭は150メートル以内の目標に対し即座に死亡する強さの放射線(10,000レム(100シーベルト)を超える)を浴びせる。放射線強度は400メートル離れていてもほぼ死亡するレベル(およそ600レム(6シーベルト)に達する。

核弾頭の発射前にはまず測距銃を発射し、弾道と風向・風速を確認、目標に対する弾頭の炸裂最適高度を算定する手順となっていた。なお、発砲時の砲口爆風および無反動砲ゆえの後方噴射と、射程距離が短いために核弾頭が炸裂した際の影響が発射地点に及ぶことを避けるため、撃発は砲から離れてリモコンスイッチで行い、砲員は発射後直ちに塹壕もしくは遮蔽物に身を隠すことが指示されていたが、放射性物質を含む爆風の飛散等を考慮すると、防護装備を着用していたとしても砲員を放射線障害の危険から完全に保護できていたかは疑問である


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1962年7月17日、リトルフェラーI作戦において炸裂したM388弾頭の発生させたキノコ雲。雲は目標地点(爆心地)上空の高度11,000フィート(約3,353m)に達した。


各型および構成装置

M28
軽量級短射程型。M63 4.7インチ無反動砲、20mm測距銃、照準器、三脚架もしくは車載用砲架およびその他付属装備で構成される。
M29
重量級長射程型。M64 6.1インチ無反動砲、37mm測距銃、照準器、三脚架もしくは車載用砲架およびその他付属装備で構成される。
M388
W54-2 核爆発装置を内装した外装式弾頭。弾頭威力および爆発高度はそれぞれ2段階に調整できた。
W54-2
核弾頭。爆発威力は0.01ktまたは0.02kt(TNT火薬10/20トン相当)[12]の選択式。
XM1117
信管。
M2 launching piston/spigot cylinder
M64無反動砲用の分離式尾筒。
M101 Spotting Round
M63無反動砲に付属する20mm測距銃で用いる有翼砲弾。弾体に劣化ウランを使用している。
M76 ZONE I
M94 とも。短距離(540-1,900m)用の発射薬(装薬)。
M77 ZONE II
長距離(1,700-4,000m)用の発射薬。


M65 280mmカノン砲


M65 280mmカノン砲アメリカ陸軍戦後1953年から1963年まで運用していた野戦重砲核砲弾射撃を任務としアトミックキャノン原子砲 Atomic Cannon)と呼ばれた。1955年4月から1962年12月まで、西ドイツ、韓国、沖縄に配備されていた

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M65 280mmカノン砲


概要


陸軍のピカティニー・アーセナルにて1949年から開発が開始された。当初は口径240mm程度で検討されていたが、核兵器の小型化に限界があり、口径280mmとなった。1953年から配備が開始されている。

M65は自力移動はできず、砲の前後にはコンチネンタル製AO-895-4ガソリンエンジンで駆動する2両の特製トレーラー「M249」「M250」を連結し移動を行なった。移動状態から射撃状態への変更は約15分かかり、移動状態への変更も同程度の時間を要する。

1953年5月25日ネバダ核実験場にてW9核砲弾の実射を伴う核実験(アップショット・ノットホール作戦グレイブル実験)が国防長官統合参謀本部議長列席のもとで実施された。核砲弾の実射試験はこの1回のみである。

M65は20門が生産され、ヨーロッパ韓国沖縄に配備された。敵の目標とならないために、設置位置は頻繁に変更された。

1955年10月25日宜野座キャンプ・ハーディーで試射をおこなった際、100メートル先の松田小学校の児童4人が衝撃で飛び散ったガラスが突き刺さり怪我をする事件がおこった[2]。また普天間飛行場でもM65を射撃していた米軍の記録写真が公文書館に残されている[3]米国国防総省によると、沖縄には1955年12月から1960年6月まで配備されていたとある[4]

配備核砲弾は1952年からW9が用いられ、1955年から1957年にかけて改良型のW19に更新された。W9およびW19は両方とも80発が生産されている。

核兵器の小型化やミサイル搭載などによりM65は旧式化したが、1963年までは配備されていた。



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1953年に行われたアップショット・ノットホール作戦グレイブル実験。M65 280mmカノン砲で発射。核出力は広島に投下されたのと同じ15kt。



要目


  • 重量:83.3t
  • 長さ:25.6m
  • 幅:4.9m
  • 高さ:3.7m
  • 操作人員:5-7名
  • 口径:280mm
  • 射程:約30km
  • 使用核砲弾:W9W19


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普天間地区で発射準備作業中の280mm原子砲 (1956年7月17日)





MGR-3 (ロケット)リトル・ジョン

MGR-3 リトル・ジョンLittle John)は、アメリカ合衆国の地対地核ロケット(弾)である。リトル・ジョンは、ヘリコプターによる運搬を可能にするために同じ地対地核ロケットであるMGR-1 オネスト・ジョンよりも小型・軽量であり、空挺強襲作戦に用いられることを目的としていた。また、空挺部隊に戦術核攻撃能力を持たせることを意図していた。オネスト・ジョンと同様に、核弾頭と通常弾頭の両方を搭載できるようになっていた。1957年8月から少数が部隊に配備されたが、小型にしすぎてしまったために空挺以外の用途に応用できず、オネスト・ジョンよりも早い1969年8月には退役した。

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M34牽引式発射機上にあるMGR-3A リトル・ジョ


開発

アメリカ陸軍武器科1953年5月MGR-1 オネスト・ジョンを基にした、お互いに重なり合う射程を持つ核ロケット兵器ファミリーの研究計画を立案した。「ジョン・ファミリー」は、中距離射程のオネスト・ジョン、短距離射程のオネスト・ジョン・ジュニア及び長距離射程のオネスト・ジョン・シニアを含むことになっていた。ダグラス・エアクラフトはオネスト・ジョン・ジュニアの技術研究を開始し、それが後にリトル・ジョンとなった。

短距離システムのための技術研究は、ダグラスとの基本研究開発契約で進められ、1953年から1954年までの間に短距離システムのためのいくつかの異なる構成を検討したが、それらのほとんどは最終的なリトル・ジョンの設計や特徴に採用されることはなかった。

1954年8月アメリカ合衆国陸軍省はオネスト・ジョン・ジュニアの安定した要求仕様を承認し、陸軍陸戦軍長にシステムの正式な軍用性能を準備するよう指示した。リトル・ジョンの軍用性能は、陸軍省によって1955年6月に承認された。レッドストーン兵器廠は、1954年8月からシステム設計の研究を開始し、1955年2月には、完全なリトル・ジョン・システムのために予備設計研究を開始した。

1954年12月。アメリカ陸軍武器科長官房局 (OCO) は、オネスト・ジョン・ジュニアとしてよりもむしろリトル・ジョンとして知られている新しい兵器システムの開発に対する計画の骨子を設定し、1955年6月14日にリトル・ジョン計画は、正式に確立された。計画遂行の主な責任は、レッドストーン兵器廠に割り当てられた。ダグラスがオネスト・ジョンの開発に絡む契約の所有権条項を固定料金の相当な割増をせずに受け入れるという問題を抱えていたため、レッドストーン兵器廠は同社から許容できる提案を得ることができず、同兵器廠は計画の全体的な技術管理監督を行っただけでなく、システムの主契約者の役目をも引き受けることになった。

陸軍幕僚は1955年8月、陸軍武器科長に17.35 in(440 mm)弾の研究をやめ、より小さな直径約11.5 in(292 mm)の核弾頭を搭載するためにリトル・ジョン・ロケットを開発するように命じ、440 mm(17.35 in)のリトル・ジョンは1955年9月9日に公式に中止され、計画はより小型のロケットの開発へと方向修正した。更にリトル・ジョン計画は、1956年1月に臨時システム(イントリム・システム、フェイズ1)及び最適システム(オプティマム・システム、フェイズ2)の2つの段階に分割された。


臨時型リトル・ジョン

臨時型リトル・ジョンの開発は1956年1月に始まったが、1955会計年度の最終四半期にはいくらかの予備研究が終わっていた。この時期の差し迫った目的は、空挺作戦のために臨時の核搭載兵器を開発することであり、精度よりむしろ早急な配備に重きが置かれた。また、フェイズ2リトル・ジョンもフェイズ1と平行して開始された。

レッドストーン兵器廠は1956年2月、エマーソン・エレクトリック・マニュファクチャリング社に設計、開発及び20セットの弾体構成要素と1956年9月1日まで1ヵ月あたり24セットの率で構成要素を生産するのに十分な工作機械類の製造に関する213,688ドルの契約を与えた。飛行試験プログラムの実現可能性段階は予定より3ヵ月早い1956年7月に始まったが、アメリカ国内の全国的な鉄鋼業界のストライキによってロケット・モーターの納入が6週間遅れ、大きく予定が狂うことになった。プログラムが更にロケット発射機干渉問題のために難航したことで、この遅れは更に1957年1月にまでずれ込むことになる。臨時システム用の発射機の仕様は、1956年10月にヘリコプター可搬発射機として望ましいものに修正され、臨時型リトル・ジョンの新しい軍用性能が確立された。これは、発射機に関する部分以外は1955年7月に確立されたものと同様であった。

1957年5月から1957年6月5日まで最終的な弾頭搭載の開発試験が実施されたが、結果を統計的に分析したところ、臨時型リトル・ジョンの精度が当初予測されたものよりもかなり不足することが示された。1957年7月にフェイズ1リトル・ジョンはひとまず予定通りに完成し、1957年7月16日にレッドストーン兵器廠は、臨時型リトル・ジョンの正式な研究開発リリースをしたが、当初見積られた精度を実現するために、フィールド-タイプ改造の可否を決定するための調査を実行できるよう最初の部隊配備を遅らせた。精度に関して軍用性能に示された最小限の要件を満たすことができなかったため、1957年7月26日から1957年8月23日まで臨時型リトル・ジョンの複合エンジニア・テスト-ユーザー・テスト・プログラムが実施されたが、やはりシステムはT317E1弾頭を搭載するのに十分な精度がないことが判明した。これらの試験は、リトル・ジョン精度問題の主な原因を特定することに成功し、修正案が決定されたが、改造は承認されなかった。

1957年8月に第101空挺師団がフェイズ1リトル・ジョン・ユニットを初めて受領したが、臨時型リトル・ジョンは戦術使用のためには決して配備されず、部隊訓練目的のためだけに使われた。その3年後の1960年9月29日にフェイズ1リトル・ジョン・プログラムは終了した



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XM47


最適型リトル・ジョン

フェイズ2は、期間30ヵ月、見積り額210万ドルのプログラムとして計画されたが、最終的には54ヵ月と3,760万ドルにまで膨れ上がった。フェイズ2の目的は、精度の改善、システムの軽量化、モーターの改良、2種類の弾頭運搬能力と自走式発射機を持つ最適システムを開発することであった。フェイズ2リトル・ジョンは、核弾頭及び通常弾頭の両方を最小射程3,500 ydから最大射程20,000 ydに到達させることができる自由飛行ロケットであることになっていた。しかし、弾頭の詳細仕様が1956年12月に固まるまで、この時期にほとんど開発は進展しなかった。





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XM47

運用

フェイズ1リトル・ジョンは、1957年8月ケンタッキー州フォートキャンベルの第101空挺師団に初めて導入され、1958年前半まで送達は続いたが、大陸軍司令部 (CONARC) はその後、当該兵器システムが一般的な部隊使用に不適当であると判断した。臨時型リトル・ジョンは、最適型(フェイズ2)リトル・ジョンが使用できるようになるまで、訓練と戦技開発のために保持され、実戦部隊には配備されなかった。

1960年8月には使用可能なXM47 臨時型リトル・ジョン・ロケットの数が合計67基になった。その内訳は、Blue Grass Ordnance Depotの戦時備蓄用の42基、第101空挺師団が保有する10基、MGM-23 ホークの目標としてホワイトサンズ・ミサイル実験場に割り当てられた3基である。残りの12基は軽微な欠陥のため、戦時備蓄で保持されることも、部隊訓練で用いられることもなかった。

1961年1月及び3月に最初のフェイズ2リトル・ジョン大隊2個が活動を開始した。同年11月には、フェイズ2リトル・ジョンは日本に返還される前の沖縄にあった第57野戦砲兵連隊第1ミサイル大隊に最初に配備され、1961年のうちに7つの戦術リトル・ジョン部隊が配備されたが、1966年11月の時点でわずか4個部隊で運用されているにすぎなかった。1966年12月に2つのリトル・ジョン部隊は南太平洋に配備され、残り2つはアメリカ合衆国本土 (CONtinental United States, CONUS) で展開された。その3年後の1969年8月、リトル・ジョンは、陸軍の標準装備の目録から外され、その運用を終えた。


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XM51

仕様

MGR-3A

出典:Designation-Systems.Net[1]

  • 全長: 4.41 m (14 ft 5.7 in)
  • 翼幅: 0.60 m (1 ft 11.75 in)
  • 直径: 0.32 m (12.5 in)
  • 発射重量: 353 kg (779 lb)
  • 速度: M 1.5
  • 射程: 3.2 - 18.3 km (3,500 - 20,000 yd)
  • 機関: ハーキュリーズ XM26 固体燃料ロケット・モーター
  • 弾頭
    • W45核弾頭(核出力:1 - 10 kt)
    • 高性能炸薬弾頭


MGR-1 (ロケット)


MGR-1 オネスト・ジョンHonest John)は、アメリカ合衆国初の核弾頭搭載地対地ロケット(弾)である。想定された主な用途は戦術核攻撃であったが、核弾頭の代わりに通常の高性能炸薬弾頭を搭載することもできるように設計されていた。当初の制式名は基本型がM31、改善型がM50であった。

オネスト・ジョンは、1951年6月に初めて試験され、1954年から在欧米軍に配備された。当初は臨時的な配備を予定していたが、運用が簡単で即応性が高かったことから、地対地誘導ミサイルが次々に代変わりしていく中、30年弱にわたって運用され続け、アメリカ陸軍では1982年に退役した。


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トラックのM386発射機上にあるMGR-1A オネスト・ジョン。


開発

基本型オネスト・ジョン

オネスト・ジョンの開発は、1950年5月にアメリカ陸軍武器科長官房局 (Office, Chief of Ordnance, OCO) が、レッドストーン兵器廠に特殊用途の大型野戦ロケットの予備設計研究に関する責任を割り当てたところから始まった。1950年の秋から大型野戦ロケットの予備設計作業が始まったが、コスト削減と開発期間短縮の手段として、まだ使える在庫資材の最大限の使用が議会の決定によって規定されていた。1950年9月、陸軍武器科長は大型野戦ロケット計画を陸軍省プライオリティIAで確立し、その翌月には初期設計研究が完了して大型野戦ロケットの実現性実証モデル5基の組み立て作業が進行中であった。OCOは、1950年10月26日に予備研究のためにダグラス・エアクラフトと契約し、同年12月には、すべての関係部局と契約者の活動の調整を含む技術監督をレッドストーン兵器廠司令官へ移した。また、それと同じ時期に大型野戦ロケット計画は当時のレッドストーン兵器廠司令官オルガー・N・トフトイ准将によって「オネスト・ジョン」という名称を与えられた。

1954年の春、オネスト・ジョンは、臨時のシステムとしてヨーロッパに配備された。これは、アメリカ合衆国初の戦術核兵器であった。1954年6月1日、最初の8つのオネスト・ジョン中隊の配備が完了した。

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M289発射機上のMGR-1A (M31) 基本型オネスト・ジョン。

改善型オネスト・ジョン

1954年11月、アメリカ陸軍はオネスト・ジョン精度改善プログラムの開始を認可し、1955年前半からレッドストーン兵器廠とダグラスは、公式にオネスト・ジョン改善プログラムの研究を開始した

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M386発射機上のMGR-1B (M50) 改善型オネスト・ジョン。


MGM-52 (ミサイル)

MGM-52 ランスLance)は、熱核弾頭および通常弾頭による火力支援に用いられるアメリカ陸軍の移動式短距離弾道ミサイル・システムである。ランスは、1973年からMGR-1 オネスト・ジョン・システムおよびMGM-29 サージェントの後継を務めたが、冷戦終結後の1992年に速やかに退役した。退役後、余剰となったロケットは、対ミサイル・システムの目標として使用されるために一部廃棄されずに保有され続けた。

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MGM-140 ATACMS


MGM-140 ATACMS(Army Tactical Missile System)は、アメリカ陸軍地対地ミサイルの1つである。米ロッキード・マーティン社により製造されている地対地ミサイル(Surface-to-surface missile、SSM)。アメリカ陸軍を中心に使用されている。M270、M270 IPDS、M270A1といったMLRSHIMARSから発射される。地対地ミサイルではあるがシーカーを変更して対艦能力を付加することも検討されている


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『失敗・珍兵器 No.30』核無反動砲 デイビー・クロケット【東北ずん子・琴葉茜 ボイロ解説】






M388 Davy Crockett Operational Test




W-54 Davy Crocket Test Fire (Tiny Nuke)




The Davy Crockett, U S Portable Nuclear Bomb





M388 Davy Crockett Nuclear Projectile




M388 Nuclear bomb testing - Davy Crockett





M38A1 Jeep with M28 Davy Crockett nuclear recoilless rifle detail walk around video




Atomic Cannon Sequence in HD






The 280mm Atomic Cannon - Nuclear Artillery Test





M65 Atomic Cannon "Atomic Annie"






These Atomic Bomb Tests Used U.S. Troops as Guinea Pigs





U.S. Army Atomic Bomb Blast Effects - 1959 Atomic Bomb Explosion Test Footage




Atomic Alert (1951) Elementary Version





Survival Under Atomic Attack 1951 NUCLEAR BOMB SHELTER FILM 29180 HD




ATOMIC BOMB TEST IN NEVADA w/ JC PENNEY MANNEQUINS 34512





1950年代の市民防衛放射性降下物シェルター用品フィルム29072




BBC 核攻撃の時の予定原稿(日本語)






人類滅亡の日 - 核戦争の悪夢 ~世界が終わる10のシナリオ~ 1/4




人類滅亡の日 - 核戦争の悪夢 ~世界が終わる10のシナリオ~ 2/4




人類滅亡の日 - 核戦争の悪夢 ~世界が終わる10のシナリオ~ 3/4






人類滅亡の日 - 核戦争の悪夢~ 世界が終わる10のシナリオ~ 4/4